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20 Mai 2010 No 904

先人に学ぶ。フランスに生きた日本人。

1913年からフランスに滞在した島崎藤村は、海外に滞在する苦労を自書の中でこう語る。「否が応でも私達は自分等の生活方法をその土地に適応させるために、努めなければならない。これは旅を楽しくするというためばかりでなく、自分等を保護する上からも必要なことであっ て、その骨折なしには長期の旅も続けがたい。(中略)世界を旅するのは、自分等を見つけに行くようなものだ」(『エトランゼエ』より)。約100年前の滞在にも関わらず、今日の海外生活における苦労と変わらない藤村の視点。先輩方のフランス滞在を通じ、共感する点、勇気付けられる点はないだろうか。どうしてもフランスに馴染めずもがいた文学者、反対にこの国に溶け込み成功した画家、そしてどんな荒波にも立ち向かうたくましい女性、合計6人のフランス滞在を追う。 (Texte : Kei Okishima)

外へ出て思う祖国の美
西洋に馴染めぬ2人の男

「一体東洋の方で自分等の無常観を
そそるやうな外界の現象が
矢張ここにもあるだろうか」

島崎藤村
島崎藤村 
© 国立国会図書館

島崎藤村(1872 ~ 1943)
フランス滞在:1913 ~ 1916

姪こま子との関係を切るための“逃亡”だったからなのか、滞在中の藤村の目に映るフランスは明るいものではなかった。西洋人と異なる自分を深刻に意識し、ジロジロと見られているような気がして疲れると述べ、「こんな骨折りが、実際何の役に立つのでせう」と考える。7月14日の革命記念日も一人家にこもり、便りを綴った。そこでは、東洋にある「人の心を傷みやすくさせるもの、センチメンタルにさせるもの、あるひは深く浅く無常感をそそるやうなもの」が西洋に少ないことに触れている。石づくめの西洋には強い線・硬い質があり、「一切が実に頑固で永久的」なのだ。さらに、自分は一刻も早く家に帰り、「樹蔭のテントのやうに明るく楽しい屋根の下で足でも投げ出し、一坪の空地、一株の植木なりともそれを自分のものとして楽しみたい」と語る。

しかしこの経験の後、日本に戻った藤村は『夜明け前』を始め多数の作品を生み出した。フランス滞在が彼の人生にとってどれほど大きかったのか、名作は冗舌だ。

(文中カッコ内、島崎藤村著『仏蘭西だより』より引用)

先人の足跡

藤村の住んでいた宿

86, bd Port-Royal 75005 Paris
藤村がパリ滞在中に住んだ宿(写真右)。後に通りを挟んで斜め向かいには河上肇が住むようになり(写真左)、両者の交流はそれぞれの書物に度々登場する。

「『ああ、僕はやっぱり日本人だ。
JAPONAIS だ。MONGOLだ。LE JAUNE だ。』
と頭の中でバネの外れた様な声がした」

光太郎と智恵子。
光太郎と智恵子。
© 国立国会図書館

高村光太郎(1883 ~ 1956) 
フランス滞在:1908 ~ 1909

海外生活の中で、突然現実を突き付けられたようなショックを受けた経験はないだろうか。先の一文は、高村光太郎がパリで「あをい眼」の女性と美しい一晩を過ごした翌朝、鏡を覗きこんだ時に突然襲われた、非常な不愉快と不安と驚愕の声だ。どうしても先に踏み込めない西洋人との隔たりを光太郎は幾度も感じた。西洋人のモデルを写生している時、虎 を見ているように思え、日本人モデルだったらもっと内部がつかめるだろうと感じる。“外”の世界を理解できない不安から「独りだ。僕は何の為に巴里に居るのだろう」という思いが巡る。

偉大な彫刻家の父、光雲の職人肌を嫌い、ロダンに憧れた光太郎。しかしパリでの生活を通し、自分が日本人の感覚を持ち、西洋的な精神を持てないことに気付かされる。パリで己が日本人であることに直面した光太郎だったが、帰国後は母国日本の古い体制になじめず、退廃した生活を送ることになった。そんな苦悩の日々から救い出したのが智恵子である。それだけに、妻となった智恵子と育んだ愛は深く、その想いが名作『智恵子抄』を生んだ。

(文中カッコ内、高村光太郎著『珈琲店より』より引用)

先人の足跡

高村光太郎のアトリエがあった場所 17, rue Campagne Première
75014 Paris

光太郎はモンパルナスにあるこの場所にアトリエを借りた。『出さずにしまつた手紙の一束』の中で、当時のこの場所の雰囲気を「だぶだぶの襟衣にづぼんを穿いただけの亭主や酒樽の様に太い女房が大口をあけていつも客と馬鹿話をしている」と描写している。

日本の型にはまらない
2人の画家が見つけた日本の宝

「徹底的に西洋を理解してしまえば、
却って東洋のいいところが
分かるようになるのである」

藤田の作品
パリ国際大学都市日本館内にある藤田の作品「Les Chevaux」

藤田嗣治(1886 ~ 1968)
フランス滞在:1913 ~ 1928、1930 ~ 1931、1939 ~ 1940、1950 ~ 1968

フランスで神秘的な「乳白色の肌」の裸婦像が絶賛を浴び、エコール・ド・パリの代表的画家となった藤田。彼はフランスで、「総皆の友人の成す事と正反対の行動をとった」。例えば、絵具をこてこて盛り上げる当時流行の方法に対し「つるつるの絵を画いてみよう」、マチスのように奇麗な色を使う方法に対し「白黒だけで油画でも作り上げてみせよう」という具合だ。

そんな藤田がフランスで成功したカギは「日本画の素養があったからだ」という。東洋の絵画を「線の画」と概評し、「細いながらも鋼鉄のような強靭の線」を引くことのできる墨や毛筆を謳歌し、油絵に取り入れた。実は黒田清輝が実権を握っていた当時の日本における西洋美術教育では、黒の絵具をパレットから取り除くように教えられていた。「吾々東洋人日本人、支那人が黒色の味わいを熟知している生命ともいうべき黒色を何故油画に取り入れ得ないのか」。藤田の考えは当たり、見事に独自の世界を切り開いた。

(文中カッコ内、藤田嗣治著『腕一本・巴里の横顔』より引用)

先人の足跡

藤田の住んでいたアパートのプレート

5, rue Delambre 75014 Paris
藤田がパリで成功し始めた1917~24年まで暮らし、仕事をしたアパート。芸術家が熱い討論を交わしたモンパルナスの有名なカフェ・ドーム(1897年開店)のすぐ傍にある。藤田もこのカフェの常客だった。藤田がここに暮したことは入口のプレートに記されている。

「ぼくはまったく逆のことをやって生きてきた。
ほんとうに自分を貫くために、
人に好かれない絵を描き、発言し続けてきた」

岡本太郎
パリ時代の岡本太郎
© 岡本太郎記念館

岡本太郎(1911 ~ 1996) 
フランス滞在:1930 ~ 1940

太郎は18歳でパリに来た。『画文集 挑む』の中で太郎は、当時の日本人画家が全くフランス文化に溶け込もうとせずに日本人だけで固まり、フランス語も話せないくせにパリの街頭や風景、金髪の女性を描いていることに疑問を投げかけている。太郎は“パリ帰り”という肩書を持って日本で儲けようとたくらむ計算高い画家に意味を見いだせなかった。「ぼくが危険な道を運命として選び、賭ける決意をはっきり自覚したのは25歳のときだった」。以降、太郎は逆のことを試み、追い詰られて湧き上がるパッションを好むようになる。また、人間として生きるためには絵の技術だけを磨くのでは駄目だと悟り、世界で起こったことのすべてを知るためにマルセル・モースに師事し、民俗学を学ぶ。

こうして養われた目を持ち帰国した“パリ帰り”の太郎の目には、これまで誰も注目しなかった縄文土器にこそ日本の底力があると映り、1952年『縄文土器論』を発表。明らかに他の“パリ帰り”とは違う日本での生活が始まった。

(文中カッコ内、岡本太郎著『自分の中に毒を持て』より引用)

太郎の住んでいたアパート先人の足跡

31, rue Saint-Amand 75015 Paris
太郎はパリで幾度が住居を変えているが、パリ大学に通っていた1932年頃に住んでいたとされるアパート。18歳という若さで一人フランスに住み、パリで通用する画家になるための努力を惜しまなかった。

何度でも立ち上がる
2人の「ふみこ」

「来る日も来る日も
夜ばかりだといいたいような、巴里の暗い一日に
本当は呆としてしまった」

ダンフェール・ロシュロー広場のライオン像
芙美子はダンフェール・ロシュロー広場のライオン像を見て「三越のライオ ン」を思い出していた。

林芙美子(1903 ~ 1951) 
フランス滞在:1931 ~ 1932

秋と冬のパリを知る日本人なら、この暗い空の色に見覚えがあるだろう。林芙美子が憧れのパリに着いたのは11月。あまりの空の暗さに最初の週数間は眠り続けたという。ベストセラーになった『放浪記』の印税で、夫を日本に残し、一人ヨーロッパ旅行に出た芙美子。慣れないパリ生活の日記には「やりきれない」「早く日本へかへりたい」「ああ、金がほしい」と泣き言が綴られるが、幼少時代から放浪を続けてきた女は強い。町を下駄でポクポクと歩き回り、たちまち近所の人で知らない人はいないほどなじんでしまう。

『放浪記』の冒頭に記されているように「宿命的に放浪者」だった芙美子は、金が出来れば、すぐに旅に出る。そもそも、パリへ行くのに帰る費用のあてがあったわけではないのだから、本物の放浪者だ。旅の途中で夫の生活費を心配しながらに出した手紙の中には、帰国後の「私の仕事にはキタイしてほしい」と書かれている。日本へ帰った芙美子はその言葉通り仕事を精力的にこなし、48歳という若さで急死するまで仕事を断ることがなかった。

(文中カッコ内、今川英子編『林芙美子 巴里の恋』 および立松和平編『下駄で歩いた巴里』より引用)

林芙美子が滞在していたホテル・フロリダ先人の足跡

28, pl Denfert Rochereau 75014 Paris
1932年2月22日から4月5日まで滞在したホテル・フロリダ。現在も同じ名前で営業している。芙美子はこのホテルがある地区を好んだ。パリ滞在中、他の宿にも泊まっているが、いずれも同地区にある。

「人妻が他に男をつくって、
その男が事業に失敗しかかると男を捨てようとし、
相手を嫉妬に狂わせ、短銃を打っ放なさせて、
運よく死ななかったが
自分の頬に一生消えない弾痕の片えくぼを残した ……
たしかに妖婦と肩書をつけられても文句はない」

宮田文子(1888 ~ 1966)  
フランス滞在:1920 ~ 1921、1922 ~ 1932

これ!と思ったら手段を選ばず、使える男は色仕掛けで落とし、どんな分野のものでも手を出した文子。憧れのパリへ行くために、文士の武林無想庵と偽装結婚。不本意にも出来てしまった子供をパリで出産し、かわいい洋服を着せるために洋裁を始める。お金が尽きて日本へ帰るが、裁縫の技術を生かし、資生堂の子供服部の主任になり、その後独立。とにかく「辛抱が嫌い」なだけに、新たな活路を見つける行動力があるのだ。

関東大震災で自分の開いた学校を失い、再びパリへ戻る。お金に困った文子は、以前ロンドンで知り合った日本料理店経営者を魅了し、パリに支店を出す。しかし経営が行き詰まり閉店。経営者の男性と口論になり、ピストルでほおを撃たれた。一命を取り留めた後は日本舞踊を習い、舞踏家として再スタート、成功を収める。最終的には貿易会社社長と結婚し、生涯連れ添うのであった。妖婦・文子に振り回された無数の悲しい男の姿とは対照的に、本人は常に輝いていた。

(文中カッコ内、宮田文子著『わたしの白書』より引用)

日本料理店を開いた場所先人の足跡

8, rue Kepler 75116 Paris
文子が1924年11月に日本料理屋を開いた場所。山本夏彦著『無想庵物語』によれば、文子は「丹念な化粧をすますと寝室の大姿見の前で、さながら芸者の座敷着のようにありったけの着物をひろげ、それをとっかえひっかえ着かざって3階2階1階の客席に顔をだした」という。


本文および情報欄の情報は、掲載当時の情報です。

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