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コゴラン Cogolin
ガラス工芸の町ビオット Biot

| ガラス工芸の町ビオット Biot |
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コート・ダジュールの海岸線からわずか4kmの小高い丘にビオットの町はあります。夏のリゾート地として名高いカンヌやアンティーブからほど近いにもかかわらず、町の風景は少しも気取らず、気さくな人々が暮らしていることがうかがえます。 車の通れない細い坂道には、カラード(calade)と呼ばれる昔ながらの石畳が今でも残され、町の紋章にはマルタ十字と復活祭の子羊が象られています。これは1308年から仏大革命まで、聖ヨハネ騎士団とグラース司教により共同統治されたからです。
人口約9,000人、旧市街が広がる丘は標高約200m。丘の一部は、今からおよそ2500万年前に火山灰と溶岩が冷えて固まった安山岩からなっています。この硬い岩石は耐熱性に優れ、石窯の材料として重宝されました。ビオットで切出された石を運び、石窯が他の村や町で組み立てられたそうです。 特に、18世紀には石窯が大量に切出され、ジャール(jarre)と呼ばれる大瓶(おおがめ)を生産した陶芸と共に町の経済を支えていました。時代の流れとともに、アンティーブやマルセイユの港からアメリカやインドにまで輸出されたジャールは食物貯蔵の役目を終え、ビオットの陶芸は衰退し、一軒の工房が残っていたに過ぎません。石窯の製造技術は近代まで受継がれ、1980年代まで生産が続けられます。
第二次大戦後、ビオットの町の盛衰を左右した人物が2人挙げられます。 1人は戦後アメリカから帰国したフェルナン・レジェ(Fernand Léger)。1946年、彼は弟子のロラン・ブリス(Roland Brice)にビオットの工房で陶芸の腕を磨く機会を与えました。後に、師であるレジェもビオットに移り住み、弟子の協力を得て、ファイヤンス陶器のレリーフを焼き上げることとなります。レジェは1955年に亡くなりますが、その直前に購入した土地には、未亡人ナディアの尽力で1960年にフェルナン・レジェ美術館が開館されました。 もう1人は、セーブル国立陶磁器製造所で陶芸を学んだエロワ・モノ(Eloi Monod)。彼は、イタリアやスペインまで足を運び伝統ガラス工房を見て回った後、町の復興を懸け1956年に吹きガラスの工房を構えます。その後ガラス職人が育成されるようになり、それまでオリーブやブドウの栽培が盛んだったビオットはガラス工芸の町として生まれ変わるのです。
旧市街の散策はゆっくり回っても1時間位。観光案内所やしゃれたカフェ、レストランが並ぶサン・セバスティアン通り(Rue Saint Sébastien)よりも教会に近いアルカド広場(Place aux Arcades)の方が風情があります。この広場に面したレストランは庶民的な雰囲気を漂わせながらも、味は一流レストランに引けを取らないほどの美味しさ。ナスやズッキーニ、 トマトなどの新鮮な南欧野菜が上手に調理され、ハーブの香りがほどよく食欲をそそります。南仏の家庭料理を再発見したビオット散策でもありました。
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