 読書の秋到来。11月はゴンクール賞など大きな文学賞の発表を控え、読書熱が高まる季節。今年の秋は、じっくりフランスの文学作品を味わうという過ごし方はどうだろう?作家の作り出す文体を味わい、物語を楽しみ、読者は自らの想像力を介して作品を取り込む。文字で作られるこの芸術作品は、我々に最もスリリングで豊かな体験を与えてくれる。いままで小説を手に取ることを敬遠していた人も、興味はあるけど何を読んでいいのか分からなかった人も、フランス語では読めないという人も、何か一冊フランス語で読んでみようと思っている人も、今秋は言葉の魔力に身をゆだねよう!
(Texte par Masato Enya)

「せっかくフランスにいるんだから、フランス語で文学を読んでみたい」と思う人も少なくないだろう。けれど、辞書で単語を調べながら読み、しだいに筋が分からなくなって途中で投げ出してしまった経験のある人も多いはず。そこで比較的読みやすく、しかもぜひ読んでおきたい作家を2人紹介しよう。
美と幻想の芸術家
ジャン・コクトー
(Jean Cocteau 1889-1963)

表紙にコクトーの絵を使った文庫版の「Les Enfants terribles」(左)。日本では漫画にもなっている(右)©萩尾望都・小学館文庫。
詩人にして作家、画家にして映画監督でもあるコクトー。前衛と古典を織り交ぜたその文学作品は、一読の価値がある。ここでは彼の代表作、「恐るべき子供たち(Les Enfants terribles)」を紹介しよう。
主人公はポールと姉のエリザベート。ポールが憧れの級友ダルジェロの投げた白い雪玉を胸に受け倒れるところから物語は始まる。姉弟の閉じられた世界に介入するダルジェロの姿、そしてジェラールやアガットといった子供たちの微細な心理や愛憎が描かれる。コクトーがそこでつづっていくのは、子供たちの世界を舞台にしながらも、妖しげな美しさと夢幻的な空気に彩られたギリシア悲劇を髣髴(ほうふつ)とさせる物語だ。文庫本で120ページ程度と適度な長さ。幻想的なイメージを想起させるものの、分かりやすいフランス語で書かれているので読みやすい。
あらかじめ物語を知っていればフランス語で読んでいくのが楽になるだろう。コクトー自身も監督として映画を撮り、「詩人の血」や「オルフェ」、「美女と野獣」といった作品を残しているが、「恐るべき子供たち」はジャン=ピエール・メルヴィルによって1950年に映画化されている。 ちなみに、この作品は日本で漫画にもなっている。作者は 萩尾望都。繊細さと大胆さを兼ね備え、心の機微を描くのに長けた作家が手掛けているだけに、原作を生かした「恐るべき子供たち」を楽しむことが出来るだろう。

萩尾望都 恐るべき子どもたち (小学館文庫)
Jean Cocteau / Les Enfants terribles
文盲の挑戦
アゴタ・クリストフ
(Agota Kristof 1935- )

文庫版の「Le Grand cahier」(左)と邦訳「悪童日記」(右)。2006年には限定版として三部作を一冊に集めた版も出版された。
1956年、ソ連の支配に対してハンガリーで民衆が蜂起した。ハンガリー動乱である。直ちにソ連軍は鎮圧に乗り出したが、その時、ハンガリーからは約20万人の人間が国境を越えて西側へ渡ったという。その中にアゴタ・クリストフの姿があった。彼女はオーストリアからフランス語圏のスイスに移り、その地でフランス語によって小説を書くことになる。
母語のハンガリー語ではなくフランス語で作品を作り出していることについて彼女は、「文盲の挑戦」と言っている。この挑戦によって紡がれた文章は、余分な言葉を削ぎ落とし、単純な構文で書かれていながらも、読者の頭の中に生き生きとしたイメージを投げかける。彼女の代表作「悪童日記 (Le Grand cahier)」の書き出しは、こうだ。
« Nous arrivons de la Grande Ville. Nous avons voyagé toute la nuit. Notre Mère a les yeux rouges. Elle porte un grand carton et nous deux chacun une petite valise avec ses vêtements, plus le grand dictionnaire de notre Père que nous nous passons quand nous avons les bras fatigués. »
基礎的な単語と文法による語りは、読みやすさとクリストフの世界への入りやすさを読者に与える。
「悪童日記」は、“おばあちゃん”の家に預けられた双子を主人公に、彼らが繰り広げる、社会や大人たちに飲み込まれない異常なまでに冷静で奇妙な生活が描かれる。そこで書かれる冷たいユーモアや皮肉、驚くべきストーリー展開は、読者を没頭させるに違いない。続く「ふたりの証拠(La Preuve)」と「第三の嘘(Le Troisième Mensonge)」とで三部作を成すが、一冊ずつ別作品としても楽しめる。

アゴタ・クリストフ / 悪童日記 (ハヤカワepi文庫)
Agota Kristof / Le grand cahier
アンドレ・ジッド、ポール・クローデル、アポリネール、アンドレ・マルロー、サン=テグジュペリ、ルイ・アラゴン、カミュ…… 20世紀の偉大な作家の名前を挙げたらきりがない。どれを読もうか決めかねるという人のために、これは欠かせないないという名作を少しだけ紹介。
世界遺産級の小説家
マルセル・プルースト
(Marcel Proust 1871-1922)

鈴木道彦訳「失われた時を求めて 抄訳版」集英社文庫・全3巻(左)
。「失われた時を求めて」はフランスでBDにもなっている(右)。
「スワン家の方へ」、「花咲く乙女たちのかげに」、「ゲルマントの方」、「ソドムとゴモラ」、「囚われの女」、「逃げ去る女」、「見出された時」の全7編からなる長大な作品「失わ れた時を求めて(À la Recherche du Temps perdu)」。巨大な建築物に例えられることもある緻密な構成と壮大な広がりを持った、20世紀の代表として欠くことができない小説だ。紅茶に浸したプチット・マドレーヌによって無意識のうちに記憶がよみがえる場面(Madeleine de Proust)など、名シーンを耳にしたことがある人も多いのではないだろうか。
ベル・エポックの社交界や同性愛を描いた(プルースト本人も同性愛者であった)風俗・歴史小説として、語り手と主人公アルベルチーヌを中心とした心理・恋愛小説として、時間や記憶といった哲学的な問題に切り込んだ作品として、さまざまな読みの可能性を内包したこの作品。未読であればぜひ手に取ってみて欲しい。
原書も邦訳も入手しやすいが、何しろ長大な作品。その長さに尻込み、二の足を踏んでいる読者もいることだろう。もちろんできれば原書で読み通すことが一番良い。けれど、取っ掛かりが欲しい人のために抄訳版も紹介しておこう。抜粋した断章をあらすじと解説でつなぎ3冊にまとめた、鈴木道彦氏による翻訳。試しに読んでみようという人には最適だ。

鈴木道彦訳 / 抄訳版 失われた時を求めて〈1〉 (集英社文庫)
失われた時を求めて フランスコミック版 第1巻 コンブレー
La Prisonnière, à la recherche du temps perdu
À la recherche du temps perdu, tome 1(BD版)
実存主義の代表者
ジャン=ポール・サルトル
(Jean-Paul Sartre 1905-1980)

サルトルの著作は文庫本でも手に入りやすい。Folio版の「La Nausée」(左)と「L’existentialisme est un humanisme」(右)。
キルケゴールやフッサール、ハイデッガーといった哲学者が発展させてきた考え方を、実存主義という形で文学や 思想に表し、戦後、そして今日に至るまで多大な影響を与えている人物、それがサルトルだ。簡単に言ってしまうと、人間という「本質」があるという考え方に対して、彼はまず人間という「実存」があって、そして世界や社会との関係の中で自己を捉えていくという考え方を示した。
その実存主義者の立場から書かれた小説が「嘔吐(おうと)(La Nausée)」だ。主人公のロカンタンは、小石やカフェのギャルソンを見た時に吐き気を感じる。そして彼はマロニエの根っこを見た時に、それが『ものがそこにある(exister)』ということに対する激しい吐き気であると気付く。これは文学史上、最も有名な場面のひとつに数えられるシーンだ ろう。
サルトルというと、哲学的で難しいと思われるかもしれない。確かに実存主義自体を捉えるのは難しい。だが、意外にもサルトルのフランス語は、分かりやすく読みやすい。日記形式で書かれている「嘔吐」は、ある程度フランス語を勉強した人なら、どんどん読み進められ、フランス語で読む充実感ありの一冊になるだろう。ちなみにサルトルの講演を書籍化した「実存主義とは何か(L’Existentialisme est un humanisme)」は100ページ程度で読みやすく、彼の実存主義的立場を知りたい人は、合せて読むと面白い。

Jean-Paul Sartre / La Nausée(Folio版)
Jean-Paul Sartre / L'Existentialisme est un humanisme
ジャン=ポール・サルトル / 嘔吐
ジャン=ポール・サルトル / 実存主義とは何か
世にも「危険な」作家
ルイ=フェルディナン・セリーヌ
(Louis-Ferdinand Céline 1894-1961)

生田耕作訳「夜の果てへの旅」中公文庫・全二巻(左)とFolio版の「Voyage au bout de la nuit」
あまりに危険な作家である。「人生なんてインゲン豆とかわりない」と言ってしまうほど、人生に虚無と絶望の言葉を放ち、病んだ社会を呪い、反逆する。「虫けらどもをひねりつぶせ」や「死体派」など、ユダヤ人を糾弾した発言、戦犯として亡命を余儀なくされ、投獄されたことも、彼の名を爆弾的なものにしている要因だろう。
代表作「夜の果てへの旅(Voyage au bout de la nuit)」 は、大戦中を生きたセリーヌの自伝的作品だ。反戦的でアナーキーな内容、そして俗語と破格な文体で書き連ねられ ているこの作品は、「拝金主義」や「戦争の愚劣さ」に容赦なくかみつく。だがそれは、差別を助長することを目的にした発言でもなければ、左翼的あるいは右翼的な立場の過激な表明でもない。邦訳を手掛けた生田耕作の言葉を借りれば、セリーヌの記述は「どの事物も、事件も、それらが惹き起こす情感と分かちがたくとけ合っている。いうなれば過敏症的リアリズム」(中公文庫版あとがき)であり、それはセリーヌが現実の真相を描き出すために選んだ言葉に他ならない。文学にはどれだけの発言が許されているのか?同意するにせよ、反発するにせよ、読者はこの作品をどのように捉えていくべきか?そうした読書体験にも問いかける刺々しい作品だ。文庫本で500ページ。「人間とは何か」に新たなアプローチを開いてくれる作品として、秋の夜長を深めてくれるだろう。

セリーヌ / 夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)
Louis-Ferdinand Céline / Voyage au bout de la nuit (Folio版)
文学史の中には、ときとして奇妙に見える作品も登場する。それらの作品は、「変わってる」とか「わけが分からない」、「奇をてらった」という言葉では片付けられない深みや言葉の力、人間の思考を読者に示してくれる。
「新しい小説」の旗手
アラン・ロブ=グリエ
Alain Robbe-Grillet(1922-2008)

ロブ=グリエの作品はMinuit出版から出ている。サスペンス調の作品「Les Gommes」(左)とアラン・レネ監督が映画化した「L’Année dernière à Marienbad」(右上)。ロブ=グリエ自身も監督としていくつも映画を手掛け ている。写真は2007年公開の「C’est Gradiva quivous appelle」より(右下)
右上写真:©L’Année dernière à Marienbad / Les Acacias / Alain Resnais 右下写真:©C’est Gradiva qui vous appelle / Alain Robbe-Grillet / Zootrope Films
今年2月、アラン・ロブ=グリエの死去という悲しいニ ュースが伝えられた。2007年、自ら脚本・監督を手掛けた映画作品「C’est Gradiva qui vous appelle」を公開したばかりだっただけに、あまりに意外な訃報だった。
1950年頃を中心に、「ヌーヴォー・ロマン」と呼ばれる文学がフランス文壇を騒がせていた。とはいえ、そういうグ ループがあったわけではない。物語や登場人物の性格描写の希薄さといった類似点が個々の作家に共通してあったために、こう総称された文学の潮流である。その中心的な人物のひとりがロブ=グリエであった。主観を廃し、レンズを通して細部までを映し出すように延々と続く「物」の描写や、何度も繰り返される場面や言葉が読者を不思議な世界へと誘(いざな)う。誰に、そしてどこで渡すかわからない届け物をするために町をさまよう兵士の物語「迷路の中で(Dans le labyrinthe)」は、読者をまさに迷路の中に誘い込み、推理小説風の「消しゴム(Les Gommes)」は、読者に考える余白を残し何度も読み直すことを促す。こうしてロブ=グリエが言葉で作り出す迷宮は、読者を捉えて離さない。
また彼はアラン・レネが監督した映画「去年マリエンバ ードで(L’Année dernière à Marienbad)」の脚本を手掛けたことでも知られている。「去年、マリエンバードで会いましたよね?」と女に話しかける男。だが本当に2人は会ったのか、そもそもマリエンバードにいたのか。それは女にも観客にも分からない謎めいた映画だ。一言で言えば「わけが分からない」。だが読めば読むほどそこに詰まった作品の魅力に引き寄せられる。

Alain Robbe-Grillet / Les gommes
L'année dernière à Marienbad (DVD)
去年マリエンバートで(DVD、日本語字幕)
言葉の可能性に迫る
レイモン・クノー
(Raymond Queneau 1903-1976)

クノーの「Exercices de style」 (左)と日本語訳というより日本語版とも言える朝比奈弘治による翻訳(中)。ルイ・マル監督によって映画化された「Zazie dans le métro」はクノーの名前を有名にした(右)。©Zazie dans le métro / NEF
フランスの文学賞にドゥ・マゴ賞というのがある。この第1回の受賞者がクノー。というより、この賞は彼のために作られたとも言える。1933年、彼の友人たちがカフェ・ドゥ・マゴに集まり、彼の「はまむぎ(Le Chiendent)」に賞を与えたことが、この賞の始まりだからだ。
口語や俗語を使って書かれた彼の作品は、テンポ良く、身近な感じとユーモアに包まれていながら、深く、哲学的だ。また彼はウリポと呼ばれる文学グループの代表格の一人としても有名だ。ウリポとは「ouvroir de littérature potentielle(潜在的文学工房)」の頭文字を取ったもので、数学的な計算や言葉の遊戯によって作品を生み出すことを試みたグループである。
彼の傑作、「文体練習(Exercices de style)」をここで紹介したい。「バスの中で見かけた男を再びサン・ラザール駅で見かけた」という出来事を、散文で、あるいは詩のように、あるいはくどくどと回りくどく、あるいは間接的になど99通りの書き方で描く。文字通り文体の練習にもなりそうな本だが、それ以上に言葉の広がりと表現の豊かさを感じさせてくれる傑作だ。ちなみに朝比奈弘治の翻訳では、それが見事に日本語で表現されている。見比べながら読んでみると、フランス語と日本語の可能性をそれぞれ縦断的に読むだけにとどまらず、フランス語・日本語間を横断して、一層楽しめることだろう。
クノーは「地下鉄のザジ(Zazie dans le métro)」でも有名だ。パリに来た少女、ザジがこの街でしたいことは、メトロに乗ること。ただ、メトロはストライキで動いていない。そんな中でのドタバタを、奇抜な口語や奇妙な登場人物を通して描いた作品で、ルイ・マル監督が映画化している。

Raymond Queneau / Exercices de style
レイモン・クノー著 朝比奈弘治訳 / 文体練習
ルイ・マル監督 / 地下鉄のザジ(DVD、日本語字幕)
今年のノーベル文学賞
ジャン=マリ・ギュスターブ・ル・クレジオ
Jean-Marie-Gustave Le Clézio
解説付きのFolioplus classiquesシリーズからもル・クレジオの作品は出ている。写真は「海を見たことがなかった少年(Mondo et autres histoires)」
すでにご存知の方も多いと思われるが、フランスの作家ル・クレジオが2008年のノーベル文学賞を受賞した。フランス国籍の作家としては2000年の高行健(ガオ・シンジェン)、フランス語作家としては1985年のクロード・シモン以来のことだ。20世紀半ば、社会や人間を語る小説に反発する形で、「書くこと」自体を主題としたヌーヴォー・ロマンが生まれ、その後再び現実を描く物語としての小説がヌーヴォー・ロマンを押し返すという大きな流れがあった。ル・クレジオが作家として活躍し始めたのは、そんな流れのさなか。1963年、「調書(Le Procès-verbal)」でルノドー賞を受賞しデビューを飾ったのである。
70年代以降は、パナマの先住民と共にした生活やハイチやモロッコなどへの旅行体験から作品を生み出し続ける。サハラを出てマルセイユへと向かうヒロインを描いた「砂漠(Désert)」、映画化もされた「海を見たことがなかった少年(Mondo et autres histoires)」などがその代表作に挙げられるだろう。
ル・クレジオの作品の根底には、都会や科学文明と自然の生活との対立がある。鳥や動物、植物や自然が人間と同列あるいは同族のものとして一体化したような世界がル・クレジオの描く世界で、それは現在の彼の作品にも表れている。急速な技術文明化が進む現代で、旬な作家の視点を読んでみるのも面白いだろう。

Jean-Marie-Gustave Le Clézio / Mondo : Et autres histoires
J.M.G. ル・クレジオ著 / 海を見たことがなかった少年―モンドほか子供たちの物語 (現代の世界文学)
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