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生誕300周年記念 現代に生き続けるカント哲学

プロイセンの哲学者イマヌエル・カントが誕生して今年で300年。カントは18世紀に啓蒙主義を形成し、世界的な平和秩序を唱え、人間を思考の中心に据えた近代哲学の先駆者だ。哲学史に残る名著を著したカントだが、一般人にとっては難解の文献は近寄りがたい存在であるのも事実……。そこで生誕300周年を機に、カントの生涯を振り返り、カントの哲学から現在に活かせる考え方を探ってみよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

イマヌエル・カント

参考文献:カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(光文社)、萱野稔人『NHK「100分de名著」ブックス カント 永遠平和のために: 悪を克服する哲学』(NHK出版)、西研『NHK「100分de名著」ブックス カント 純粋理性批判: 答えの出ない問いはどのように問われるべきか?』(NHK出版)、秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』(集英社新書)、御子柴之『自分で考える勇気 カント哲学入門 』(岩波ジュニア新書)、田中正人『哲学用語図鑑』(プレジデント社)、ウィル・バッキンガム『哲学大図鑑』(三修社)、philosophie Magazin「300 Jahre Immanuel Kant」、Schwäbische「2024 wird der 300. Geburtstag von Immanuel Kant gefeiert」、Frankfurter Rundschau「Philosoph Immanuel Kant: Der Mann, der das Denken revolutionierte」

カントが重要な3つの理由

1啓蒙思想の哲学者

カントが生まれる前の欧州はキリスト教中心の世界であり、真理も善悪も全て神の教えのもとに判定されていた。しかし、カントは伝統的な権威に従って決めるのではなく、自らの知性を働かせて考えることを提唱。そして自由、批判的な大衆、民主主義、法の支配を支持した。

2近代の道徳を提唱

倫理学者として、近代における道徳の基礎を築いた。『人倫の形而上学の基礎づけ』 や『実践理性批判』で提示された「定言命法」は、今日でも多くの人々の道徳的指針となっている。

3認識論者として才覚を発揮

認識論とは、世界をどのように認識しているのかを考察すること。カントは、実像であるその物自体は認識できないけれど、人間の感性や理解の仕組みが対象を秩序づけ、認識を構成すると説いた。当時この考え方は全く革命的だったため、センセーションを巻き起こした。


カントの思想はどこから生まれたのか? キーワードでたどるカントの人生

1724年4月22日ケーニヒスベルクで誕生し、1804年まで生きたカント。18世紀にしては長寿であったカントの長い人生のなかで、何に影響を受けて独自の哲学を唱えるようになったのか、キーワードとなる歴史的背景や人物からひも解いてみよう。

ケーニヒスベルクに誕生

カントの像カリーニングラードにあるカントの像

1724年4月22日、ケーニヒスベルク(現在のロシア・カリーニングラード)で職人ヨハン・ゲオルク・カントとその妻アンナ・レジーナの第4子としてカントが誕生した。洗礼名はエマヌエル・カント(Emanuel Kant)だった。カントが「インマヌエル」(Immanuel)と改名したのは学生時代になってからのことで、ヘブライ語の原語をより正確に表現するためであった。父親は馬車の革の馬具を作る革細工の名人で、ギルドの一員として名誉ある階級に属していた。

KEYWORD 1
港町育ちがカントの世界を開いた

ケーニヒスベルクは海に面した街で、この「港町で育った」ことはカントの人生や哲学の基礎となっている。カントの生まれた時代のドイツ(プロイセン)はキリスト教世界で、神や教会に頼っていた。しかし、ケーニヒスベルクは異国の商人たちが次々とやってきて、彼らが自由に生きる姿を目の当たりにする。この商人たちとの交流を通して、カントは世界にはいろいろな見方や考え方があることを実感した。こうした経験から、カントは思い込みにとらわれない人間に成長したのだった。

ケーニヒスベルク

8歳から名門校に通い始める

カントが誕生後、次第に父の商売が衰退して一家は困窮していく。一方、並外れた才能と高い知性を持つカントは、8歳のときに叔父の援助により名門フリードリヒ学院(Collegium Fridericianum)に通い始めた。

厳しい学校生活だったが、愛情深い両親のもとで育ったカント。しかし、13歳のときに最愛の母が死去する。カントは後に「母は私の中に善の最初の種をまき、育ててくれた。母の教えは私の人生に永遠の癒しの影響を与えた」と述べている。

そして、16歳のときにケーニヒスベルク大学へ進学。数学、物理学、神学、哲学、古典ラテン文学を学び始めた。しかし22歳のときに父が死去し、カントは弟妹を養わなくてはならなくなった。大学を離れてケーニヒスベルク近郊の田舎(Judtschen)で、家庭教師として6年間働いた。ケーニヒスベルクで過ごさなかったのは、唯一この6年間だけである。

KEYWORD 2
厳し過ぎた!? フリードリヒ学院

カントの通っていたフリードリヒ学院は、朝7時から授業が始まり、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語などを学ぶ。下校時刻は午後4時だった。そんな学院の生活について、友人であるテオドール・ヒッペルはこのように振り返っている。「カントはあの若かりし頃の『奴隷の生活』を思い出すと、恐怖と不安に打ちひしがれたようだった」。学校制度そのものやカント家の日常生活も、ルターの信仰の再起を促した敬虔主義の影響を受けており、子どもだったカントには規律と服従が求められ、自主的な思考は奨励されなかったという。その生活が後のカントの思想、すなわち伝統的な権威から自分を解放する啓蒙思想へとつながっていく。

19世紀ごろのフリードリヒ学院19世紀ごろのフリードリヒ学院

ケーニヒスベルク大学で人気講師に

1754年、29歳になったカントはケーニヒスベルクに戻り、翌年に博士号を取得した。カントは最初の重要な著作である『天界の一般自然史と理論』を執筆しており、これによりケーニヒスベルク大学で教職に就けることになった。そして、論理学、形而上学、数学、物理学、地理学、鉱物学、機械学、実践哲学、倫理学、人間学、教育学とあらゆる学問について講義する。カントは商人との交流で得た情報を学生たちに伝えるなど、やがて人気講師に。講義室はいつも満席だったという。当時の学生は「私が講義に出席した9年間で、彼が授業に遅れたことや休講になったことは一度もありませんでした」と、カントの正確さと信頼性について語っている。

KEYWORD 3
ロシア国民として豪華な暮らしを経験

オーストリアとプロイセンが戦った七年戦争の過程で、ケーニヒスベルクはロシアに1758年からの4年半占領されていた。その間、カントはロシア国民であった。しかし「ロシア国民」としての生活は悪くはなかったようだ。カントは、ロシア人将校にさまざまな科目を個人授業することができた。そして何よりも、ロシアの貴族との社交生活も楽しんでいたという。30代だったカントは、フランス料理を楽しみ、仮面舞踏会に招かれるなど、プロイセンとは違うロシアの貴族の豪華な生活を送っていた。

40歳、ライフスタイルをがらりと変える

ケーニヒスベルクが再びドイツ領となり、40歳の誕生日を迎えるころ、それまで華やかだったカントのライフスタイルに変化が訪れる。より精神的健康を重視するようになり、より厳格な規則に従って日常生活をするようになったのだ。規則正しく生活するようになった理由は、生来身体が丈夫ではなかったこと、また親しい友人だった法学教授のヨハン・ダニエル・フンクが若くして亡くなったことが影響しているといわれている。

KEYWORD 4
議論相手だった商人ジョセフ・グリーン

カントは生涯旅行をせず、ケーニヒスベルク周辺を離れることはなかった。しかし、商人との交流によって、驚くほど世界の出来事に詳しかった。特に影響を与えたのは英国人商人ジョセフ・グリーンである。グリーンは厳格な規則に従って生活しており、カントも影響を受けたに違いない。二人は親しい間柄になり、毎日午後はグリーンと過ごすようになっていった。カントは『純粋理性批判』の全ての文章について彼と議論したといわれている。

「三批判書」の誕生

19世紀ごろのフリードリヒ学院カントと議論する仲間たち(1900年頃、エミール・デルストリング作)

ケーニヒスベルクが再びドイツ領となり、40歳の誕生日を迎えるころ、それまで華やかだったカントのライフスタイルに変化が訪れる。より精神的健康を重視するようになり、より厳格な規則に従って日常生活をするようになったのだ。規則正しく生活するようになった理由は、生来身体が丈夫ではなかったこと、また親しい友人だった法学教授のヨハン・ダニエル・フンクが若くして亡くなったことが影響しているといわれている。

「三批判書」ささっと解説!

カントよりも前の時代の認識論には、「イギリス経験論」と「大陸合理論」の二つがあった。イギリス経験論とは、何事も自分が経験しなければ物事を認識できないという考え方で、英国のロックやバークリー、ヒュームなどが唱えていた。一方、大陸合理論は人間には合理的に物事の真理を捉える知的能力が先天性に備わっているという考え方で、フランスのデカルトやオランダのスピノザ、ドイツのライプニッツなどが主張していた。カントは後者の考え方を支持していたが、後に両者の問題点を解き明かし、二つの論を統合。そうして生まれたのが、次の「三批判書」だ。

  • 1『純粋理性批判』(1781年)

    テーマ:人間は何を知ることができるのか、そして、私たちは何を知り得ないのか?

    従来の認識論では、外界の事物(対象)を、スケッチのようにそのまま写し取ることで認識すると考えられていた。しかしカントは対象自体は認識できないが、人間には共通の経験の仕方と理解の仕方が先天性に備わっていると考えた。例えば、机の上にコップがあるとしたら、以前はコップという対象をそのまま写し取って認識していた。しかし、カントは物自体は分からなくても、五感が対象を知覚し、人間が先天性的に持っている認識システムによって対象を読み取り、コップだと認識に至ると考えたのだ。

  • 2『実践理性批判』(1788年)

    テーマ:私たちは何をすべきか、逆に何をすべきでないのか?

    『実践理性批判』では道徳論を論じている。理性は動物にはなく、人間だからこそ備わっているものであり、道徳法則にのっとって皆が納得できるような善い行いをするべきだと主張した。本著に登場する言葉「汝なんじの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ」(自分の意思を決める規則は、常に道徳法則にのっとって決めて行動せよ)は有名。さらにカントは、道徳は目的を達成するための手段になってはいけないとし、「〇〇せよ(べき)」と定言命法で表せることが真の道徳だといった。

  • 3『判断力批判』(1790年)

    テーマ:私たちは何を望むのか、何を望まないのか?

    純粋理性と実践理性を媒介するものとして判断力に注目し、両者を結びつけるために最後の批判書を発表した。主に美や芸術、美的判断などについて考察し、最初の部分にはカントの美学、第二部には目的論が書かれている。美しいということは、認識対象としての事物の中にあるのではなく、事物を美しいと判断する人間の「認識能力の働き」の中にあると唱えた。ただし、純粋に「美」を感じるためには、対象に利害関係が無いことが必要だという。『判断力批判』は、西洋美学史においていまだに参考にされている。

危険視されたカントの思想

1790年代、カントはフランスで激化した「フランス革命期における非キリスト教化運動」をプロイセンに導入する計画に夢中になっていた。カントの思想を警戒していたプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、1792年にカントが教職に就くことを禁じた。しかしカントは折れることなく、自分の意見を放棄しなかった。

1793年には『たんなる理性の限界内の宗教』を出版し、道徳は宗教的要件から完全に独立していなければならないと主張。厳格な信者たちはカントの発言を聖書とキリスト教を軽視するものとみなし、批判した。1794年にカントに宛てられた国王の書簡では、「カントが哲学を悪用して、聖典とキリスト教の教えを歪め、品位を落としている」とされ、カントに対して宗教や神学に関する出版を禁止する勅令が出された。

KEYWORD 5
フランス革命から平和思想へ

ケーニヒスベルクではのんびりと歴史が進んでいたが、フランスでは君主制のような神が与えた政府形態が初めて疑問視され、1789年にはフランス革命が起きていた。カントは絶対王政が崩れ、国民国家が誕生したニュースに新しい時代の幕開けを感じ、強い関心を抱いていた。それは国家の新しい形が生まれたことによって、国家間の関係においても戦争の起こらない国際社会がつくれるのではないかと考えたのだ。

フランス革命フランス革命がカントを平和論へと導いた

平和を祈って亡くなったカント

国王など権力者から監視されていたカントだが、1795年には『永遠平和のために』を出版する。この本は後世に大きな影響を与えている(上記)。1800年になると、カントの精神力は徐々に衰え、友人たちに「諸君、私は年老いて弱っている」と話したという。カントの最後の楽しみは、毎年庭にやってくる鳥たちを観察することだった。

1804年2月11日、世話人から水を混ぜたワインをもらったカントは、「これでよい」と言い、これが彼の最後の言葉になった。そして翌日の2月12日、79歳で息を引き取った。葬儀の日は、ケーニヒスベルクにある全ての教会の鐘が街中に鳴り響いたという。

カリーニングラードにあるカントの墓カリーニングラードにあるカントの墓

意外な一面も? カントの素顔

ギャンブルに強かった

カントは素晴らしいビリヤードプレイヤーだったといわれている。彼の打撃は非常に正確だったので、カントに挑む人は誰もいなかった。また教え子のヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによると、カントがポーカーをするときは常に「ポーカーフェイス」だったとか。しかし教え子たちは、ギャンブルのせいでカントが人生の軌道から外れつつあると心配していたという。

何十年も続いた規則正しい生活

カントが規則正しい生活を送っていたことは前述の通りだが、具体的な生活習慣は驚きだ。毎朝4時55分に起床し、紅茶を2杯飲む。7時に大学の講義を行い、15時30分になるとどんな天候でも1時間かけて同じ道を散歩する。正確さは近所の人にも有名で、カントが散歩するのを見て自分の時計の針を合わせる人もいたとか。夜は22時きっかりにベッドに入った。 何十年もの間、カントの一日は全く同じサイクルだった。

おしゃれでチャーミングな人柄

カントの身長はわずか157センチ(当時の平均身長は167センチ)だったが、常にファッショナブルな服装をしていたという。また髪は明るいブロンドだったと推測されている。彼は会話で相手を魅了し、大勢の人々を楽しませることができる人物だったとか。ちなみに生涯一度も結婚していないが、ケーニヒスベルクを訪れた女性と二度親しくなったことがある。ただし恥ずかしがり屋だったため、プロポーズには時間がかかり過ぎたようだ。

今こそ注目すべきカントの平和論

カントが『永遠平和のために』(1795年)を執筆してから200年以上経った現在でも世界では戦争が起こっており、皮肉なことにカントにとって身近な国だったロシアはウクライナ侵攻で国際的に非難されている。国際平和は本当に実現できるのか、最後にカントが考えた平和な世界について考える。

カントはロシアで好まれている?

カントが生まれたケーニヒスベルクは、第二次世界大戦後にロシアのカリーニングラードになったが、カントはいまだに街の誇りだ。市内には、カントの記念碑やゆかりの場所などが今も存在している。ロシアの国営通信社タス通信によると、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はお気に入りの哲学者の一人にカントの名を挙げたこともある。

しかし今年2月、カリーニングラード州のアントン・アリカーノフ知事は地元の政治学フォーラムで、「カントは、われわれが現在直面している世界的な混乱と世界的な再編成に責任がある」とし、「現在のウクライナ戦争も直接カントの影響がある」と持論を展開した。同知事は、カントは道徳法則の道を切り開いたが、「あらゆる行為やあらゆる不正を正当化するために使われる無責任の倫理」を西側諸国に広めたと主張したのだ。この発言はドイツのメディアでも取り上げられ、同知事に対し批判的な意見が多くみられた。

積極的に平和をつくるために

カントが『永遠平和のために』を執筆したきっかけの一つに、1795年にフランスとプロイセン間において締結されたバーゼル平和条約がある。これは戦果を調整しただけの条約で、秘密条項が多く含まれ、戦争の再発を防止するものではなかった。そうした背景から、カントはこの条約を疑問視していたのだ。

『永遠平和のために』では、カントはそもそも人間は邪悪な存在だとし、戦争が起こるのが当たり前でむしろ平和な状態が奇跡的だと考えた。人間の悪は根絶できないものの、それと闘って制圧することはできるとし、平和状態は積極的につくるべきだと主張。さらに国家間の永続的な平和が可能かどうか、またどのようにして実現できるのかを考えた。

同著では、国家間の平和が長期的かつ持続的に可能となるために満たすべき条件として、❶戦争原因の排除、❷国家を物件にすることの禁止、❸常備軍の廃止、❹軍事国債の禁止、❺内政干渉の禁止、❻卑劣な敵対行為の禁止を唱えた。この本が出版された当初から、カントが理想とする平和のための国際組織の構想は熱い論争を呼んだ。 この構想をもとに、第一次世界大戦後に「国際連盟」が結成され、1945年に国連憲章が発効されたことで現在の「国際連合」が誕生した。

カントの平和論は2世紀を経た現在でも、その妥当性は全く失われていない。 二つの世界大戦、冷戦終結後の国際秩序に関する議論が再燃している今、あらためてカントの平和論に注目するべきだろう。

━ 永遠平和は、(中略)たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。
『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(光文社)より

1945年6月26日、国連憲章に署名をする各国の代表1945年6月26日、国連憲章に署名をする各国の代表

参考文献:RedaktionsNetzwerkes Deutschland「Die Russen streiten über „ihren“ Philosophen Kant」、Frankfurter Rundschau「Kaliningrads Gouverneur mit wilder These: Kant ist schuld am Ukraine-Krieg」、「Die russische Philosophie in Bezug auf Kant und die Moderne」

 
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