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英国ニュース解説

最終更新日:2012年9月26日

著名作家の記事で議論が再燃 名誉毀損と科学報道

著名作家の記事で議論が再燃
名誉毀損と科学報道

4月1日、英国における科学報道のあり方に光明をもたらす、画期的な事件があった。ノンフィクション作家のサイモン・シン氏を名誉毀損で訴えていた英国カイロプラティック協会が訴えを取り下げた結果、言論の自由に関する議論が再燃している。この事件を振り返りながら、「科学的な事実報道を妨げる法律」であるとして国連からの批判を受けているという、英国の名誉毀損法についての議論を追う。


Simon Singnサイモン・シン (Simon Singn)
ケンブリッジ大学で物理学の博士号を取得したのち、BBCに勤務。そこで製作に携わったドキュメンタリー番組「フェルマーの最終定理」の取材内容をまとめた本がノンフィクションのベストセラーとなり、科学ジャーナリスト・作家として一躍注目を浴びるようになる。専門的な知識が必要とされる各分野を分かりやすく、そして知的におもしろく解説する文章力には定評がある。2003年に大英帝国勲章を受勲している。

サイモン・シン氏の名誉毀損裁判の歩み

2008年4月 サイモン・シン氏が、「ガーディアン」紙のウェブサイトに掲載しているブログ上において、英国カイロプラクティック協会についての批判的な見解を述べる。同協会は名誉毀損でサイモン・シン氏を告訴
2009年5月 高等裁判所が、サイモン・シン氏がブログ上で述べた見解には、英国カイロプラクティック協会が詐欺を働いていると示唆する文章が含まれており、名誉毀損に当たるとの訴えを認める
2010年2月 サイモン・シン氏が、ブログ上の記述は「正当な論評」に相当するものであり、名誉毀損には当たらないとの訴えを控訴院に提出
2010年4月 控訴院がサイモン・シン氏の主張を認める
2010年4月 英国カイロプラティック協会が名誉毀損の訴えを取り下げる

カイロプラクティックとは?
ダニエル・デービッド・パーマー脊椎や椎骨の歪みを治療者が手を使って治すことで、様々な疾病を治療しようとする代替治療の一つ。カナダ生まれの米国人民間療法士ダニエル・デービッド・パーマー(写真)によって確立された。英国ではカイロプラクターになるための資格取得手続きが法制化されているが、日本では、無認可療法として位置付けられている。

サイモン・シン氏の主な著作

フェルマーの最終定理「フェルマーの最終定理」
Fermat's Last Theorem./Fermat's Enigma: The Epic Quest to Solve the World's Greatest Mathematical Problem
17世紀を生きたフランス人数学者ピエール・ド・フェルマーが残した「フェルマーの最終定理」を、1995年に英国人数学者アンドリュー・ワイルズが証明するまでの数学者たちの苦闘を描く。

暗号解読「暗号解読」
The Code Book: The Science of Secrecy from Ancient Egypt to Quantum Cryptography
エジプト語の神聖文字ヒエログリフで書かれたロゼッタ・ストーンの碑文の解読から、エリザベス1世暗殺に関する暗号文書、さらには量子暗号まで、暗号の歴史をまとめた力作。

ビッグバン宇宙論「ビッグバン宇宙論」
Big Bang: The Origin Of The Universe
創世神話やガリレオの地動説などに代表される宇宙論の歴史を追いながら、宇宙の始まりを説明する、「ビッグバン」という概念が生み出されるまでの過程に起きたドラマを描く。
*文庫版では「宇宙創成」に改題

代替医療のトリック「代替医療のトリック」
Trick or Treatment?
とりわけ英国で流行している、ホメオパシー、鍼治療、アロマセラピー、指圧、リフレクソロジーといった代替療法の数々。その医学的な効果を科学的に分析したノンフィクション。


人気ノンフィクション作家の苦闘

「暗号解読」や「フェルマーの最終定理」などの科学ノンフィクション作家として広く知られるサイモン・シン氏が、英国の言論人たちに小さな希望を与えた。名誉毀損で訴えられた裁判において、2年の歳月と20万ポンド(約3000万円)という資金を費やし、事実上の勝利を勝ち取ったのである。

ガーディアン
「ガーディアン」紙のウェブサイト上で連載されている、サイモン・シン氏のブログ記事

事の発端は、2008年4月に彼が「ガーディアン」紙のウェブサイトへ寄せた文章。そこで同氏は、英国カイロプラクティック協会が、科学的根拠がないまま、乳幼児期の喘息や疝痛(せんつう)、泣き癖の治療にカイロプラクティック治療が有効であるとの見解を示していることに疑問を呈した。この内容に猛反発した同協会に対して、「ガーディアン」紙側は反論を載せるための紙面を提供することを申し出たが、同協会はこれを拒否。筆者本人との協議にも応じないまま、シン氏を名誉毀損で訴えた。

「公正な論評」であると主張するシン氏の期待に反して、裁判所は2009年5月、協会側の訴えを認めた。しかしこの判断を不服としたシン氏が翌月に上級裁判所に控訴した結果、控訴審は最初の審理に間違いがあったとの判断を下す。当初、再控訴の可能性をちらつかせていた同協会が今月中旬に訴訟を取り下げたことで、シン氏の勝利が確定した。

名誉毀損法の実態

勝利の翌日、シン氏は、「ガーディアン」紙への寄稿記事を通じて、裁判の結果を報告した。そして、「英国の名誉毀損法は、社会の利益となるはずの事柄を科学者やジャーナリストが報道することを妨げている」との国連人権委員会の見解に言及しながら、同法のあり方について再考を促したのである。

実際、名誉毀損法で訴えられた場合、ジャーナリストに強いられる負担の大きさは、計り知れない。まず、そのジャーナリストは、判決が下されるまでにかかる費用の大半を払わなければならない。これは、シン氏のようにフリーランスで働く作家やジャーナリストにとっては、死活問題となる。

さらには最終的にどんな判決が下されようと、無実が確定されるまでは、訴えられた側に罪があると見なされる現行法下においては、裁判が実施されている期間中、法的に灰色となったジャーナリストや作家に進んで仕事を依頼する会社は少ないだろう。大企業は、以上のような状況を利用して、名誉毀損法をちらつかせることで不利な報道を封じ込めようとしているとされている。

名誉毀損法の改正は行われるのか

3月31日、下院は同法改正案を否決した。今後再び改正案が検討されるのか、あるとすればどの段階で協議されるのか、といった見通しは全く立っていない。しかしながら、シン氏の訴えが認められたことにより、名誉毀損法の問題点が広く認識されたことは、英国社会にとって大きな一歩となるかもしれない。

労働党と自由民主党は、それぞれのマニフェストで同法改正を実施することを確約している。現行の名誉毀損法がどのように改正されるかは、今後、英国社会がどこまでリベラルになるかの試金石となるのではないだろうか。

Reynolds Defence

英国の名誉毀損に関する裁判報道で頻繁に使われる用語。「タイムズ」紙は1994年、当時のアイルランド首相アルバート・レイノルズが、カトリック教会の性的虐待事件について、議会に意図的に誤った情報を与えていたとの疑惑を報道。レイノルズは、この報道を名誉毀損として訴えた。同裁判を通じて、「重大な疑惑が特定議員に生じ、公的価値があると判断した場合、正当な取材手続きを踏んでいれば、たとえ結果的にその疑惑が立証されなくても、報道する自由があるとする」との弁護が、とりわけ政治家が絡んだ裁判で使われるようになった。

(守屋光嗣)

 
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