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Sat, 27 April 2024

時代区分から知る シェイクスピアが生きた エリザベス朝時代の英国

エリザベス朝と聞いてどんなイメージを持たれるだろうか。欧州でいえばルネサンス後期に当たり、各国は中世から近代へ移行していた時期である。英国は、バラ戦争やカトリックとプロテスタントの争いという内戦が続き、欧州の中では文化的にも対外的にも遅れを取っており、1等国とは言い難い地位にあった。エリザベス1世が君主となったのは、そんな英国が国家統一を目指してまい進した時期に当たる。また、英国が誇る劇作家ウィリアム・シェイクスピアが活躍したのはまさにこの時代に他ならない。今回の特集では、シェイクスピアが生きたエリザベス朝時代の英国が、どんな社会だったのかを眺めてみよう。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.elizabethan-era.org.ukwww.rsc.org.uk/shakespeares-life-and-timeshttps://kent-uk.com、「イギリス社会史 1」トレヴェリアン著みすず書房、「イギリス社会史 1580-1680」キース・ライトソン著 ちくま学芸文庫ほか

シェイクスピアとチェンバレン卿一座の舞台を観劇するエリザベス1世シェイクスピアとチェンバレン卿一座の舞台を観劇するエリザベス1世(左)

エリザベス朝時代とは

エリザベス1世

エリザベス朝時代(1558~1603年)はチューダー朝*の中で特にエリザベス1世に統治された時代をさし、波乱万丈なチューダー朝最後の44年にあたる。エリザベス1世の治世は短いものの、対外的には無敵といわれたスペイン艦隊を駆逐したほか、激化していたプロテスタントとカトリックの対立を鎮めるため国教会を確立し、不安定だった国の情勢を緩和。文化的、経済的繁栄をもたらし、後年に「イングランドの黄金時代」と称えられた時期である。数多くの劇場が作られ、貴族から労働階級まで貴賤の区別なく市民たちが演劇を楽しむ文化も花開いた。

* チューダー朝は1485年から1603年まで続いた王朝の名で、ヘンリー7世、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世が君主となった

英国の時代区分

年表で見るエリザベス朝時代

1558 1月13日にエリザベス1世が即位。国王至上法を発布
1560 スコットランド、フランスとの和議を締結
1564 4月23日にウィリアム・シェイクスピアが誕生
1577 元海賊のフランシス・ドレイクがマゼランに続き史上2人目の世界1周を達成(80年帰国)
1583 カナダのニュー・ファンド・ランドを英最初の北米植民地に指定
1585–1604 スペイン戦争
1587 スコットランド女王メアリーが処刑
1588 アルマダの海戦で英国が勝利
1593 黒死病の流行でロンドンの劇場が閉鎖
1595 シェイクスピアが「ロミオとジュリエット」「真夏の世の夢」を執筆
1596 シェイクスピアが「ヴェニスの商人」を執筆
1598 シェイクスピア「空騒ぎ」を執筆
1599 ロンドンのバンクサイドにグローブ座が設立、シェイクスピアが「ジュリアス・シーザー」「お気に召すまま」を執筆
1600 東インド会社が設立。シェイクスピアが「ハムレット」を執筆
1601 改定を重ねた救貧法が成立
1603 12月17日、エリザベス1世が死去。生涯独身で世継ぎがいないため、チューダー朝が終焉を迎え、ヘンリー7世の孫にあたるジェームズ1世が即位

エリザベス朝時代という44年

約45年続いたエリザベス朝時代を、政治、文化、建築、ファッション、食という五つの側面から光を当てる。

政治

エリザベス1世はヘンリー8世と2番目の妻アン・ブーリンの娘で、弟のエドワード6世と姉メアリー1世の死後、1558年にわずか25歳で女王に即位した。ヘンリー8世がイングランド国教会をカトリック教会から分離させたのをきっかけに、その後20年の間に国教は3度も変わり、国内に緊張と分裂を引き起こしていた。エリザベス1世は王位に就いたとき、公式の宗教を改めてイングランド国教会に定め、その首長としての役割を担った。だがこれまでのようにカトリックを排斥するのではなく、一部カトリックの伝統的儀式を行うことを許すなど、中庸を取ることで解決の道を探った。

エリザベス1世王族しか装着できないイタチ科のオコジョの毛皮をまとったエリザベス1世。
オコジョの白い冬毛は「純潔」を表した。
エリザベス1世は国の安定のため誰とも結婚せず、「処女王」と呼び名が付いた。
女王のような赤毛と白塗りの化粧は当時流行した

またエリザベス1世は絶対君主制の確立のため、父の政策を踏襲し国王至上法*を発令。ウィリアム・セシル(William Cecil)をはじめとする有能な顧問団の力を借り、強力な中央集権政権を築き上げることに成功した。対外的には、アルマダの海戦(Battle ofArmada、1588年)でスペインの無敵艦隊を破り、海洋国スペインの衰退のきっかけを作ったとされる。なお、エリザベス1世に戦いを挑んだスペイン王フェリペ2世は女王の義理の兄にあたり、敬虔なカトリックの同王はプロテスタントの義妹エリザベス1世を異端者とみなしていた。また、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中でイングランドの海賊船に何度も襲われていたことも、両国の関係を悪化させる原因になっていた。

一方国内では、補助金支給や外国人技術者の移住奨励を含むさまざまな産業支援が行われたほか、1562年に職人法**(Statute of Artificers 1562)と救貧法(Statute of Artificers 1562)も成立した。この救貧法は教会ではなく国による初の救貧制度であり、近代社会福祉制度の出発点といわれている。

* 1534年にヘンリー8世により発布された法令。国王をローマ教会から独立したイングランド国教会の「唯一最高の首長」と規定した法首長令。59年にエリザベス1世が2度目の国王至上法を発布し、「唯一最高の首長」を「唯一最高の統治者」に変更した

** 12~60歳の男子の雇用と7年間の年季奉公を義務付け、理由の無い解雇・辞職を認めないほか、失業者を強制的に農業へ従事させる

文化

エリザベス朝時代は、古代ローマ時代以来というほどに演劇が盛んになったが、これは1572年に発令された放浪者法(1572 Vagabonds Act)がきっかけだった。それまでは旅回りの役者たちが中世から続く宗教劇や道徳劇などを演じていたが、ライセンスを持たずパトロンのいない役者たちはこの法律で放浪者のレッテルを貼られて排除された。その結果、貴族のお抱え役者の一座たちが、エリザベス朝時代の演劇界を担う専門の劇団となっていった。宮廷で開催される仮面劇なども当初は廷臣やアマチュアの役者によって上演されていたがプロの劇団に取って代わり、数々の劇団が数や質においても大きく成長していくことになった。

スワン座のスケッチスワン座で行われている公演の様子が描かれた1596年のスケッチ。
当時の劇場はほぼ円形で、これは古代ローマ時代の円形競技場の名残だという

また、仮の芝居小屋ではなく公設の劇場が相次いで設立されたことも大きい。1576年にロンドン東部ショーディッチに作られたシアター座を皮切りに、77年のカーテン座(後述)、ローズ座(87年)、スワン座(95年)、屋外部分がなく世界初の人工照明のみの劇場ブラックフライアーズ座(96年)、フォーチュン座(1600年)、レッド・ブル座(03年)などがロンドンに次々と誕生。都市に演劇文化が根付いていった。階級を問わず市民たちも観劇を楽しみ、喜劇や悲劇、宗教をモチーフにしたものから社会風刺を効かせたものまで新しい作品も次々生まれた。1592年ごろにロンドンの演劇の世界へと進出したウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)は俳優として活躍する一方で、劇作家としても頭角を現し、グローブ座(後述)を中心に活躍。シェイクスピア以外にもクリストファー・マーロウ、ジョン・ウェブスターといった劇作家たちが次々に作品を発表した。それはソネットや詩のジャンルにも影響を与え、後の英文学の大きな柱となった。

建築・インテリア

ルネサンスが本格的に英国で展開した時期でもあり、エリザベス様式の建築物は、チューダー様式の流れをくみながらもルネサンス様式の影響を受けているといわれている。王族や貴族は住居を富の象徴として、館に多くの財を投じるようになっていった時代であり、凝った華やかな装飾も見られ始めた。そのなかでもエリザベス様式の代表的建築物として、英中部ダービーシャーにあるマナー・ハウス、ハードウィック・ホール(Hardwick Hall)が挙げられる。当時非常に貴重だったガラスを大きくふんだんに使った見事な建築で、現在はナショナル・トラストよって管理されている。建築を担当したのはロバート・スマイソン(Robert Smython)。スマイソンの作品はこのほかにも英北部ノッティンガムのウォラトン・ホール(Wollaton Hall)がある。これも大量のガラスを使用したマナー・ハウスで、現在はノッティンガム自然史博物館としてその姿を今に留めているが、長い回廊、暖炉周りの華やかな装飾などが当時の特徴として挙げられる。

シュールズベリー伯爵夫人所有のハードウィック・ホールエリザベス1世に次ぐ権力と資産を持つ女性として知られた
シュールズベリー伯爵夫人所有のハードウィック・ホール。
映画「ハリーポッターと死の秘宝」ではマルフォイの館として使われた

また、ロンドンのシティにある法曹院ミドル・テンプルの食堂、ミドル・テンプル・ホール(Middle Temple Hall)は1570年代初頭に完成し、ほとんどが当時のままの状態で残っている。ミドル・テンプルは法曹教育のほかに社交場としての機能を併せ持っていたことから、ミドル・テンプル・ホールは劇場として使用されることも多くなり、1602年には同ホールでシェイクスピアの喜劇「十二夜」が初演された。エリザベス1世は寵臣を連れ、たびたびこのホールで食事をしたといい、女王が与えた長さ約9メートルのテーブルも残っている。それはウィンザーの森から切り出された1本のオークの木から作られているという。当時はオーク材の家具が多く、天板の下に備えられた天板を引き出して拡張させることのできるドロー・リーフ・テーブル(Draw Leaf Table)が流行した。また、その足には草花や果実などの見事な彫刻が掘られた。

ファッション

エリザベス朝時代の服装は当時の法律(Sumptuary Clothing Laws)によって厳密に決められていた。富に関係なく、その階級によってスタイルや素材、そして色までが細かく分かれており、その枠から逸脱することは罪とされた。罰則は罰金、財産の喪失、称号の剥奪、最悪の場合は死罪になることすらあった。ランクや階級が高いほど、着ることができる服、素材、スタイル、色の選択肢が増え、服装から地位や階級が一目瞭然だった。

エリザベス朝時代のダブレットシェイクスピア劇でおなじみのコスチュームの数々は、エリザベス朝時代の人々の服装

例えば、衣服の生地や素材に関しては、王族のみがオコジョの毛皮の着用を許可されており、ほかの貴族はキツネとカワウソしか許されていなかった。色に関した制限は、紫は女王とその直系の家族のみが着用。一方、下層階級が許されたのは茶色、ベージュ、黄色、オレンジ、緑、灰色、青で、生地は綿、麻、シープ・スキンのみだった。シェイクスピア劇もこの法則に基づいて衣装が決められているので、劇場でシェイクスピア作品を観る際に、念頭に入れておくとより楽しめるはずだ。

また、中世に高さのあるフリルの襟として始まったラッフ(Ruff)と呼ばれる装飾は、エリザベス朝時代にますます大きく誇張され、女性の頭の後ろで持ち上げられる後光のような形になった。男性も着用したが高貴な女性ほどラッフは大きく、今ではペットが傷口をなめないように付ける円錐形の保護具にそっくりなところから、エリザベス・カラーと呼ばれるほどである。一方、高貴な男性はダブレット(Doublet)と呼ばれる上半身にぴったり密着した上着を着用していたが、エリザベス1世の仕立て屋ウォルター・フィッシュ(Walter Fish)が、1575年に女王のために黄色のサテン地に銀のレースで飾られたダブレットを作成した。ダブレットは「男性に適した服装の一種」との批判も出たが、1580年代以降、女性向けの上着としても流行した。

エリザベス朝時代のダブレットダブレットの腹部には当初パッドが詰められていたが、次第に細くスマートな形に

エリザベス朝時代の食事は多くの国民にとって単純なものだった。しかし貴族たちは、フランス人をはじめとした欧州の優秀な料理人を雇っていたので変化に富んだ食事を採っていたという。牛肉、羊肉、子牛肉、子羊肉、子ヤギ肉、豚肉、ウサギ肉、子熊肉、イノシシ肉など、季節に応じた肉を何種類かと、それに加えてさまざまな魚や野鳥がテーブルに並んだ。現代のように1日に3回食事をしており、朝食は午前6~7時、昼食は午前12~2時、そして夕食は午後6~7時にコンサートから余興まで、さまざまな形式のエンターテイメントと共に提供される祝宴になった。また、植民地などを通して入手できるようになっていた高価な香辛料や砂糖を使うことが富の象徴だったことから、貴族たちは辛いものや甘いものを好んだ。一方で野菜は軽んじられ、地面に生えるものは下層階級の食べ物という認識があったという。また、パイやタルトが登場したのもこの時代だった。

エリザベス朝時代の食事風景貴族たちは地面で生育する野菜を下等なものと見なし、ブドウやザクロなど樹木に育つ果物を愛した

これに対し下層階級の人々はまだまだ中世と同様の暮らしをしており、家には煙突もなかった。煮炊きは村の共同オーブンで行われていたという。それでも一般的な人々が日々食べていた食事は、1日に少なくとも270グラムのパン、1パイントのビール、1パイントのオートミール、そして130グラムの肉。これにいくつかの乳製品が補足され、野菜はスープの重要な材料だった。また、飲料に適する水がなかったことから、エールやサイダーなどのアルコールが多く摂取された。蜂蜜を使ったミード(Mead)という飲料はどの階級の国民からも愛されていた。

グラスに入ったミード(Mead)ミードは今でも欧州で飲まれている

今も名を知られている
エリザベス朝時代に創業した主な会社

  • Griffin Hotel [ホテル、1560年]
  • Martins Bank [銀行、1563年]
  • Peal and Company Limited [靴、1565年]
  • Company of Mineral and Battery
  • Works [炭鉱、1565年]
  • Whitechapel Bell Foundry [鐘、1570年]
  • East India Company [貿易、1600年]
  • Tissimans [服飾、1601年]

2025年にオープン予定エリザベス朝時代の劇場が疑似体験できる
Museum of Shakespeare

エリザベス朝時代にロンドン東部ショーディッチで多くの作品を上演したカーテン座。現在その跡地周辺がシェイクスピア博物館として生まれ変わる。当初は2024年春のオープンが予定されていたが、工事が長びいているため2025年まで待つ必要がありそうだ。

カーテン座の正確な場所は長年分からなかったが、2012年にMOLA(ロンドン考古学博物館)の考古学者たちが劇場の跡を発見し、翌13年には開発計画が提出された。計画によると、没入型体験もできる最新テクノロジーを駆使したシェイクスピア博物館になる予定で、エリザベス朝時代の劇場に足を踏み入れたような体験ができるとのこと。また、250席の屋外観客席や公園もあるほか、今回発見された遺跡もガラスで覆われ見学できるようになる。

カーテン座跡地とシェイクスピア像ロミオとジュリエットのグラフィティが描かれたカーテン座跡地(写真左)。
斜め前にはシェイクスピアも鎮座し、周囲の開発を見守る(同右)

なお、発掘調査によるとカーテン座は22×25メートルの長方形であり、当時劇場の形としてよくあった円形や多角形ではなかった。そのため既存の構造物を改造したものである可能性が高いという。また、入場料を集めるための陶器製の貯金箱や舞台の小道具の可能性がある鳥笛、ガラス製ビーズやピン、飲み物の容器、粘土製のパイプなども次々と出土。19年8月にカーテン座の遺跡と地下の堆積物が指定史跡に指定された。博物館オープンの際にはこうした出土品も併せて見ることができるので、お楽しみに。

Museum of Shakespeare


 

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