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Thu, 30 June 2022

英国人の弟子をもつ激動期の画家
河鍋暁斎を知っていますか

「地獄太夫と一休」1871~89年 遊郭を訪れた一休が芸妓と舞い踊る 「地獄太夫と一休」1871~89年 遊郭を訪れた一休が芸妓と舞い踊る

「書画会図」1876~78年にぎやかな書画会の様子 「書画会図」1876~78年にぎやかな書画会の様子

ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(以下RA)では2022年3月19日から、幕末、明治の激動期に活躍した絵師、河鍋暁斎の作品を紹介する「Kyōsai: The Israel Goldman Collection」が開催される。美術商イスラエル・ゴールドマン氏が40年近くにわたり集めた1000点近くの暁斎のコレクションから、英国で初公開の23作品を含む、約80点が一堂に会する。今回は、河鍋暁斎と英国の関係を紹介するほか、本展覧会のキュレーターである定村来人さんに、暁斎の人気の秘密についてお話を伺った。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: Bunkamura サイト「ゴールドマン・コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展、http://artistian.net ほか

河鍋暁斎とは

河鍋暁斎(かわなべきょうさい、1831~89年)は幕末から明治にかけて活躍した絵師。伝統的な狩野派の絵画から浮世絵や風刺画までを駆使し、あらゆる画題に挑んだ。特に近年では、明治政府や当時の世相を皮肉った作品や、そのエキセントリックな性格とユーモアあふれる作風が人気を呼び、マルチな本格派絵師として知名度が高まっている。代表作は「達磨図」「地獄太夫図」「百鬼夜行図屏風」ほか多数。

河鍋暁斎

暁斎をめぐる時代背景(1831〜89年)

1831年(天保2年) 5月18日、周三郎の名で現在の茨城県古河市に誕生。翌年、一家で現在の文京区本郷に移る
1833年(天保4年)  天保の大飢饉が発生
 英作家で数学者のルイス・キャロルが誕生
1837年(天保8年) 浮世絵師の歌川国芳に入門
 ヴィクトリア女王が即位
1840年(天保11年) 狩野派の絵師、前村洞和に入門
1848年(嘉永元年)  マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表
1841年(天保12年)駿河台狩野家当主・狩野洞白陳信の画塾に入る
1849年 (嘉永2年)  葛飾北斎が90歳で死去
1853年(嘉永6年)  ペリーが率いる黒船が浦賀沖に来航
1855年(安政2年) 安政江戸地震。仮名垣魯文の文章に絵を付けた鯰絵「お老なまず」を作成
1857年(安政4年)ごろ 戯画や風刺画で人気を博し、「狂斎」と名乗る
1860年(万延元年)  桜田門外の変
このころから欧米で浮世絵が流行り始め、ジャポニズムへと発展
1862年(文久2年)  生麦事件
 ロンドンで万国博覧会が開催
1863年(文久3年)  薩英戦争
1867年(慶応3年)  大政奉還
夏目漱石が誕生
1870年(明治3年) 「貴顕を嘲弄する」絵を描いたとして逮捕、投獄される。翌年、釈放後に号を「暁斎」と改める
1872年(明治5年)  新橋と横浜を鉄道が開通
1873年(明治6年) ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送る
1877年(明治10年)  ジョサイア・コンドルが建築学教授として来日
1881年(明治14年) コンドルが弟子として入門
1883年(明治16年) コンドルに「暁英」の名を与える
1889年(明治22年) 4月26日、胃がんのため58歳で死去。谷中の瑞輪寺正行院に埋葬される

暁斎の作品について

異なるジャンルを自在に描き分けた

「蛙の学校」1871〜79年 蓮根の椅子に腰を掛け、欧米風の教育を受ける蛙たち 「蛙の学校」1871〜79年 蓮根の椅子に腰を掛け、欧米風の教育を受ける蛙たち

河鍋暁斎は、技術力の確かさから当時の絵画の垣根を超越し、自由な描き分けもしくは一つの絵にさまざまな要素を混在させることが可能だったといわれる。もともと才能があったのはもちろんだが、幼いころに二つの相反する画塾で学んだことも大きな理由の一つといえる。商人から下級武士に転じた家に生まれ、幼いころから絵を描くことが大好きだった暁斎は、父によって6歳のときに武者絵で有名な浮世絵師、歌川国芳の画塾へ送り出された。国芳は常々、人体の動きをよく観察するようにと教えていたため、幼いが熱心な暁斎は長屋などで口論や喧嘩があるたびに、画帳を持って乗り込んでいったという。しかし、国芳が暁斎を吉原遊郭に連れて行くなどしたため、これを心配した父に画塾行きを禁じられた。暁斎が国芳のもとで学んだのは2年ほどだったものの、写生の大切さは幼い心に刻まれたようだ。神田川の岸辺に流れ着いた人間の首を観察したり、釣り上げた鯉を食べずに描いたという逸話が残っている。

「烏瓜に二羽の鴉」1871~89年 暁斎は鴉を得意とし、注文も多かった 「烏瓜に二羽の鴉」1871~89年 暁斎は鴉を得意とし、注文も多かった

この翌年、暁斎は次に狩野派の絵師、前村洞和に入門する。町民文化を担う浮世絵師から一転、江戸土佐藩邸の御用絵師の門下になった暁斎は、狩野派の特徴である漢画の影響を受けた格式高い絵画を学ぶ。筆の使い方に多くの決まりがあり、「粉本(ふんぽん)」という手本を使い模写をするシステムは、動きのあるものを素早く描くのとは異なる訓練だった。暁斎はここでも熱心に学び、洞和から「画鬼」と呼ばれ可愛がられたという。しかし翌年、洞和の病により駿河台狩野家当主、狩野洞白陳信の画塾に移る。1857年に絵師として独立した時点で暁斎は、伝統的な狩野派だけでなく琳派、四条派、浮世絵までを描けるハイブリッドな絵師になっていた。あたかも時代は幕末。黒船でペリーが来航し江戸幕府の滅亡が秒読みとなっており、鎌倉時代から約700年続いた武士政治が終焉を迎えていた。

「鍾馗と鬼」1882年鍾馗は、疫病や魔よけのため掛け軸などに描かれることの多い神様 「鍾馗と鬼」1882年鍾馗は、疫病や魔よけのため掛け軸などに描かれることの多い神様

英国人コンドルとの出会い

江戸幕府の終わりと、欧米におけるジャポニズムの流行の始まりはほぼ同時期だといえる。ロンドンでは1862年に万国博覧会が開催され、刀や漆器、版画など日本の美術工芸品も展示。大きな話題を集めたという。だがそれとは反比例するように明治政府は日本の欧米化を急ぎ、近代化に必要な先進技術や知識を得ようとしていた。政府に招かれ多くの「お雇い外国人」が日本の地を踏む一方、庶民はまげを落とし洋服を着て、牛肉を食べることに忙しく、過渡期には官民ともにまるで熱病にかかったように文明開化にのめりこんでいった。暁斎はそうした世間の様子を面白おかしく皮肉った戯画をいくつも描き、体制側を茶化すような作品を制作。1870年には上野の書画会(後述)で酔って描いた絵が官吏の目にとまり、およそ文明国らしくない「むち打ち50回」と入牢3カ月の刑を受けたといわれる。

「閻魔大王浄玻璃鏡図」1871~89年(1887年?) 閻魔大王が地獄行きの死者を裁くため、鏡にその身を映して真偽を問う 「閻魔大王浄玻璃鏡図」1871~89年(1887年?)閻魔大王が地獄行きの死者を裁くため、鏡にその身を映して真偽を問う

ジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852~1920年)というロンドン生まれの建築家が、工部大学校(現在の東京大学工学部)の建築学教授として日本を訪れたのは1877年。コンドルは、ウィーン万国博覧会やフィラデルフィア万国博覧会など、欧米に向けて次々と作品を出品し海外にも名の知られ始めていた暁斎の元を訪ね、日本の伝統的画法を習うため弟子入りした。毎週土曜日が稽古の日だったそうで、20歳あまりの年の差や国籍の違いにも関わらず2人はいたく意気投合し、鎌倉や日光などに一緒に写生旅行へ出掛けたといわれている。1883年に暁斎はコンドルに「暁英」という雅号を与えた。コンドルはお雇い外国人としての契約が切れた後も日本に残り、建築事務所を開設して鹿鳴館や神田のニコライ堂をはじめとした数々の建築を設計している。二人の関係は暁斎が1889年に死ぬまで続き、臨終の際に暁斎の手を握っていたのはコンドルだったという。コンドルは終生英国に戻ることはなく、1920年(大正9年)に麻布の自宅で死去し、文京区の護国寺に葬られた。

「天竺渡来大評判 象の戯遊」1863年 インドから来た象の見世物の様子 「天竺渡来大評判 象の戯遊」1863年インドから来た象の見世物の様子

書画会のスターだった暁斎

「書画会」は観客の前で即興的に作品制作をするもので、絵画だけではなく書や詩などさまざまなジャンルの芸術家がパフォーマンスを行う、今でいうアート・イベントのこと。江戸時代後期から流行し始め、特に幕末から明治初年には規模も大きくなり頻繁に開かれた。書画会を企画する会主は何百人と人が入ることができる大広間のある料亭のような場所を借りた。参加してもらう絵師や書家、文人に依頼をし、事前に引札(広告チラシ)で宣伝するのが一般的で、煩雑な開催手続きを一手に引き受ける専門の業者も存在したほど大変な繁盛だったという。

「幽霊図」1868~70年 「四谷怪談」を演じる歌舞伎役者、5代目尾上菊五郎からの依頼作 「幽霊図」1868~70年「四谷怪談」を演じる歌舞伎役者、5代目尾上菊五郎からの依頼作

「月下猛虎図」1871~89年 水面に映った月を見る虎 「月下猛虎図」1871~89年 水面に映った月を見る虎

人々は入場料を払い、目当ての絵師や書家に持ってきた扇面や画帖などに作品を揮毫(きごう)してもらった。また、料亭が会場なので食事や酒も注文することができ、新しいひいき客を求めて芸者たちもやって来るため、大変にぎやかで華やかなイベントだった。このような場で即興的に描かれた作品を「席画」というが、暁斎は席画を非常に得意としていたといわれる。酒が好きなうえウィットやユーモアに富んだ作品を当意即妙に作り出せるのだから、書画会のスター的存在だったといってもよいだろう。暁斎は時にお上から眉をひそめられるきわどい絵を描き、参加者はそれを見て日頃のうっ憤を晴らし留飲を下げていたのかもしれない。今回のエキシビションでは、そのような会場の様子を描いた「書画会図」の他、席画や酔筆による作品が第3室を賑わせる。

「三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪」1871~78年 急激な欧米化でちぐはぐな姿の日本を皮肉った 「三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪」1871~78年急激な欧米化でちぐはぐな姿の日本を皮肉った

イベント情報

Kyōsai: The Israel Goldman Collection
2022年3月19日(土)~6月19日(日)
火~日 10:00-18:00
£17 (予約が必要)
Royal Academy of Arts
Burlington House, Piccadilly, London W1J 0BD
Tel: 020 7300 8090
Green Park/Piccadilly Circus駅
www.royalacademy.org.uk

Interview
ユーモアと遊び心で人々に寄り添った暁斎

今回、RAで行われる暁斎展のキュレーターを務めるのは、2017年に日本で開催された暁斎展にも関わった定村来人さん。暁斎のゴールドマン・コレクションや、英国と暁斎の関係などについてお話を伺った。

定村来人(さだむら こと)

定村来人

東京大学大学院総合文化研究科にて博士号を取得。2016年より大英博物館アジア部客員研究員。現在は、セインズベリー日本藝術研究所ロバート&リサ・セインズベリー特別研究員。イスラエル・ゴールドマン・コレクションのキュレーターとして、2017年の渋谷Bunkamura「ゴールドマン・コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展に関わった。著書に「Kyōsai: IsraelGoldman Collection」 (RoyalAcademy of Arts、2022年)、「Kyōsai’ s Animal Circus」 (同上)、「暁斎春画 ゴールドマン・コレクション」(共著、青幻舎、2017年)がある。

長年、河鍋暁斎の研究を続けておられますが、なぜ日本ではなく英国を拠点に選ばれたのでしょうか。

暁斎研究を始めたのは大学院で、修士・博士課程の6年半ほどは同大学院のロバート キャンベル教授のご指導の下、東京で勉強、研究をしました。その後英国に拠点を移したのは、大英博物館に寄託されているイスラエル・ゴールドマン・コレクションの存在と、2016年に大英博物館で客員研究員として受け入れてもらえたためです。大英博物館もまとまった数の暁斎作品を所蔵しており、1993年には日本国外初の暁斎展を開催しています。そのキュレーションをしたのが日本部門長だったティム・クラークさんで、クラークさんのご指導を受けながら経験を積むことができるのも魅力でした。

「暁斎絵日記」1883年10月20日か?「暁斎絵日記」1883年10月20日か?

暁斎コレクターであるイスラエル・ゴールドマン氏についてお聞かせください。

ゴールドマンさんは1980年代初めから暁斎作品の収集を始め、現在でも精力的に集めておられます。規模、質ともに世界で1、2を争う暁斎コレクターで、所蔵点数は1000点近くに及びます。ゴールドマンさんは江戸から明治時代の浮世絵版画・版本と肉筆作品を専門に扱う美術商で、世界のコレクターたちと仕事をしてきたほか、大英博物館などの美術館や博物館に重要な作品をもたらしてきました。ゴールドマン・コレクションの版画作品は、専門家ならではのこだわりにより、非常に状態の良い早い摺りのもの、稀少な作品が多く含まれています。私は2011年からこのコレクションの目録作りをはじめ、その整理、管理、研究に関わってきました。

今回RAを会場するにあたり、特にポイントとなったことはありますか。

RAは美術館であると同時に、美術学校を伴ったアーティストのための機関です。そこで、展示では「作品が生まれる場」に焦点を当てようと考えました。暁斎の時代には、観客の前で即興的に揮毫する書画会という催しが多く行われており、暁斎は席画の名人として知られていました。また、このような集まりでは複数の作家による合作も多数作られました。今回はこのような席画や合作、そして作画や観客、批評家たちの様子をテーマにした作品が多く出展されます。英国ではほぼ30年ぶりの暁斎展なので、第1室ではコレクションの名品によって暁斎の幅広い画業を紹介し、第2室では時事的な作品から暁斎が生きた時代を見る内容になっています。そして第3室で、席画や合作を通して当時の活気あふれる創作の場の雰囲気を感じてもらいたいと思っています。

暁斎と英国の共通点をお聞かせください。一番弟子が英国人だったこともそうですが、暁斎の作品には、英国の新聞のカリカチュア、風刺画などにも似た皮肉なユーモアが含まれているのではないでしょうか。

暁斎は1874年(明治7年)に、英国の週刊新聞「Illustrated London News」の派遣員として幕末に日本に来たチャールズ・ワーグマンが刊行した風刺漫画雑誌「JapanPunch」を模して、ワーグマンの画風と鳥羽絵*のスタイルを合体させたような挿絵を「絵新聞日本地」に描いています。英国との関係は、弟子となった建築家のジョサイア・コンドル、「Japan Weekly Mail」の主筆フランシス・ブリンクリー、画家モーティマー・メンぺス、医師ウィリアム・アンダーソンらとの個人的なつながりを通じて強くなりました。後にRAの解剖学教授となったアンダーソン旧蔵の暁斎作品の多くは大英博物館に収蔵され、英国における暁斎研究の土台となりました。
*誇張した、簡略なタッチで描かれた江戸時代の戯画

ロンドンで初めて暁斎を見る方に向けて一言いただけますか。

暁斎を楽しむ視点はさまざまあります。とびぬけた線描力、墨画と着彩画における高度な技術、即興的な作品の自由闊達な筆、生き生きした動物や人間や化け物たちの描写、暁斎が描いた幕末、明治という時代、そして暁斎その人も魅力にあふれています。

暁斎は流派の垣根を取り払い、あらゆる伝統から学んで自分のスタイルを確立しました。そして、身の回りで起こっていることに常に関心を寄せ、ユーモアと遊び心あふれる作品を多数制作しました。人々の日常と感情に寄り添った暁斎の絵は、現在の私たちの心にも響くものが多くあると思います。

 

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