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sam 28 mai 2016

シラク元大統領のメッセージ

シラク元大統領のメッセージ - ジャック・シラク元仏大統領から「フランスニュースダイジェスト」読者の皆様へメッセージが届きました。

Propos de JACQUES CHIRAC
au journal France News Digest

13/12/2010

Je n'ai jamais fait mystère de l'affection, de l'estime, de l'admiration que j'ai pour le Japon et les Japonais.

Une estime, une admiration nourries par la vieille culture de ce pays, par sa capacité à se renouveler, à créer de nouvelles tendances.

Confrontée à des crises sérieuses, la communauté internationale a beaucoup à apprendre du Japon qui a su devenir une puissance économique et financière de premier plan, sans jamais abandonner son modèle de solidarité sociale, la fidélité à sa culture ou sa relation ancestrale à la nature.

Le sens de l'équilibre entre l'homme et la nature, ancré au plus profond de votre civilisation et de votre histoire, l'éthique de la solidarité, ciment de votre société, voilà en effet quelques unes des valeurs qui peuvent inspirer la quête d'une nouvelle philosophie du progrès dont notre époque a tant besoin.

C'est au Japon, en 2000, qu'est né le Fonds mondial de lutte contre le Sida, la tuberculose et le paludisme. C'est au Japon encore que la communauté internationale s'est enfin rassemblée pour tenter de lutter contre le réchauffement climatique.

En 2030, notre planète comptera 7 milliards d'habitants, dont 5 milliards vivront en ville. Trouver les conditions d'un développement qui soit durable est le défi le plus important que notre monde doive relever. Nous devons garantir les droits, aujourd'hui menacés, des générations futures.

Ces sujets sont au cœur de l'action de la fondation que j'ai créée pour continuer mon combat en faveur de la paix et du développement. Son action se concentre sur l'accès à des médicaments de qualité, l'accès à l'eau, la lutte contre la déforestation et la désertification, enfin la sauvegarde des langues et cultures menacées. Ce sont quatre sujets qui touchent directement la sécurité des hommes et des sociétés, quatre sujets qui conditionnent la paix.

Je serais heureux que ma fondation noue au Japon des partenariats. Le Japon a en effet une conscience aiguë des enjeux et montre souvent la voie en matière d'environnement ou de solidarité comme l'ont encore montré récemment l'organisation de la TICAD IV ou celle de la réunion des amis du Fonds mondial.

Jacques CHIRAC

ジャック・シラクから
フランスニュースダイジェストの皆様へ

2010年12月13日

日本、そして日本人に対する愛情や尊敬の念、感嘆の思いを表さずにはいられません。

尊敬の念、そして感嘆とは、この国における古い文化、また新たな傾向を生み出し、新境地を切り開くことのできる力へ対する思いです。

自国の文化や先祖代々続く自然との関係を守りながら、社会の連帯における既存のモデルを決して放棄することなく、一流の金融・経済大国になる術を心得る日本から、厳しい危機に直面している国際的共同体が学ぶことは数多くあります。

日本人の文明や歴史の最も深いところに根差す人間と自然間とのバランス感覚、連帯の倫理、社会の絆。これらは現代、強く必要とされている進歩のための新しい哲学の模索へと向かわせることのできる価値あるものです。

2000年、世界基金(世界エイズ・結核・マラリア対策基金)が提唱されたのは日本でした。地球温暖化に立ち向かうための枠組みが締結されたのも日本です。

2030年には、地球上の人口は70 億人に達し、そのうち50億人が都市で生活すると予想されています。永続的な発展のための条件を見出すことは、我々のこの世界が成すべき最も重要な挑戦です。今日脅かされている、次世代へと続く権利を、我々は保護しなければなりません。

前述したこれらの主題は、平和と発展のための戦いを続けるため設立したシラク財団の中心的活動です。財団は、良質な医薬品へのアクセス、水へのアクセス、森林破壊や砂漠化への対策、絶滅の危機にさらされている言語や文化の保護に専心しています。これら4つは、人間や社会の安全に直接かかわり、平和の条件となるものです。

シラク財団が日本とパートナーシップを結ぶことができたらうれしく思います。事実、日本は問題の核心に対する鋭い意識を持ち、近年、第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)や世界基金の会合で見られたように、環境や連帯への道を頻繁に示す国であるのです。

ジャック・シラク

シラク氏と日本

シラク氏の親日、知日ぶりは知られており、特に美術、歴史などの分野に造詣が深い。青年時代にギメ美術館で出会った日本美術に開眼。美術だけでなく、文学などさまざまな日本文化に熱中した。日本美術協会により設立された文化芸術分野 におけるノーベル賞的存在である高松宮殿下記念世界文化賞においては長年審査員を務め、現在は名誉顧問でもある。歴史分野では、特に江戸時代に詳しく、「根付」(印籠などのさげ物のひもを帯に留める留め具)の収集家でもある。

パリ市長時代には、当時の東京都知事、鈴木俊一氏の招きで定期的に日本を訪れ、交流した。1995年に大相撲パリ公演を実現したほどの相撲ファンでもあり、愛犬にはスモウと名付けている。

日本への渡航はこれまで50回以上におよび、2009年に出版された回想録「Mémoires, Chaque pas doit être un but」(NIL)の中では「日本ではまるで自宅にいるようにくつろぐ」と記している。

ジャック・シラク(Jacques Chirac)
1932年11月29日、パリ生まれ。54年にパリ政治学院、59年にはフランス国立行政学院(ENA)を卒業。56年にベルナデット=ショドロン・ド・クルセルさんと結婚、後に2女をもうける。59~62年、会計検査官(国家公務員)を務め、67年には国会 議員選挙にコレーズ県より出馬して初当選、ポンピドー内閣の下、社会問題相として初入閣も果たす。72年に農業相、74年に内務大臣をそれぞれ務めた後、74年首相に就任。77~95年パリ市長を務め、その間、86年に再び首相の座に返り咲く。95年フランス 共和国大統領に就任、2007年5月16日まで2期にわたり大統領を務める。07年、持続的開発と文化間対話を目的にシラク財団を設立。現在は同財団の理事長として精力的に活動を行っている。

La Fondation Chirac
1980年代後半から懸念され始めた、地球の平和と生き残りにとっての重大な3つの危機、「文化の画一化」、「環境の破壊」、「貧困問題」に立ち向かうべく設立された。衛生的な飲料水や良質な薬品を供給し、森林や文化と言語の多様性を保護するための活動を行う。また、持続的開発と文化間対話に多大な貢献をした人物にシラク財団賞を毎年授与している。

www.fondationchirac.eu

フランス人が見た日本

ある晩のカルチエラタン。予約を取らないブラッスリーで、フランス人4名のテーブルに合い席した。彼らがデザートを食べ終わる頃、そのうちの1人の女性が話し掛けてきた。「どちらのご出身ですか?」。古希をとっくに過ぎていると思われるその女性は、1960年代に東京でフランス語のテレビ番組を半年間担当したという。スターの華やかさとチャーミングさをしつらえる彼女は、日本で体験した数々の思い出を紡ぎ、「日本は素晴らしい国だわ」と微笑んだ。

20~30年前であれば、到底ありえなかった光景だろう。筆者は、人差し指で両目をつり上げて「シノワーズ!(中国人)」と言う子供たちに囲まれて育った。日本人女性の伏し目を「美しい」ととらえる時代が到来するとは、想像しなかった。後にも、中国の中に日本が存在していると思っていた友達がいた。「フランス人とイタリア人は同じ国民なの?」と尋ねると、真っ赤になって怒っていたことを今でも思い出す。

文化の奥深さ

時代がたどる道程は大きい。生活という実体験の中で育まれる文化とそれに対する人々の関心は著しい変化を成す。インターネットの普及により、リアルタイムで異文化を垣間見ることが可能な情報社会では、時差を問わずコアな情報を一早く入手できてしまう。商品の購入も容易になった。「どこでもドア」がモニター越しに存在する。

日本の文学、映画、料理、芸術などを日本人以上に探求するフランス人も珍しくはない。日本人として恥をかく場面に、海外在住の日本人は遭遇したことがあるだろう。フランスのことをフランス人以上に知る日本人が存在するのと同様に。

以前は、日本を象徴する言葉として、「ゲイシャ」「サムライ」「ハラキリ」などの具像的な言葉の引用が多かった。昨今では、「カワイイ」という形容詞が、フランスでもアートやファッション業界の用語として使用される。さらに、落語や狂言など、“笑いのツボ”に触れる表現にまで、日本語は介入している。

昨年、べルサイユ宮殿で開催された「Murakami Versailles」展は、記憶に鮮明だ。アートを1つのブランドにした日本人作家、村上隆をフランスの相伝文化遺産に迎え入れた。追記すべきは、彼の才能を早期に見出した1人に、フランス人の画廊エマニュエル・ペロタンがいたことだ。年月を掛けて才能を信じ、理解する努力を惜しまない姿勢は、フランス人から学ぶべき業である。

建具職人
建具職人 斉藤氏の工房にて

独特の品や風情

今回はあえて、明日の社会人を輩出する教育の現場で日本に携わるフランス人に尋ねてみた。

「日本人のモノの見せ方には、独特な品や風情があります。我々も見習いたいものです」と言うステファン・L氏は、フランスで日本語を習得した後に、日本で生活した経験を持つ。現在はマルセイユのオノレ・ドミエ高校で日本語専任講師を務める。

「会議になるとフランス人はとにかく話したがり、意図が外れてしまうこともしばしばですが、日本人には管理能力が備わっています」と、ビジネスの現場においては差異の方が多いことを暗示させながらも、両国における共通の関心事として、「“食べる”こと」を指摘する。

昨今、日本の食文化について、フランス人の目を介した取材や細部にわたる関心内容がさまざまなフランスメディアに現れる。寿司や刺身だけではない、郷土料理や家庭料理、昆布やカツオだし汁、「うまみ」についても紹介されるようになった。食材や調理方法にこだわる点が共感を呼ぶのであろう。

現実逃避を可能に

高校生たちに日本を理解してもらおうと、ステファン氏はどのような努力をしているのだろうか。

「日本文化には洗練された美が宿り、それは日常生活にも深く根付いています」と言うステファン氏は、具体的な手法として、写真や映像を頻繁に使う。10代の学生たちは、未知の世界である日本に引きつけられるという。「エキゾチックを求める彼らは、そこから見えてくる日本がいかにモダンでありながら伝統を重んじる国であるのかを認識していくのです」。フランスの高校生にとって「今日のように問題の多い社会に生きながら、現実逃避を可能にしてくれる」夢の国、日本。その好奇心から理解が始まり、未来の相互交流が生まれる。

最後に、「フランスと日本はどちらも、文化の深さを追及し敬う国です。共感し合える仲であることは間違いないです。2つの考え方を融合させていくことでまだ、多くの可能性を導いていかれるでしょう」と語った。

集団の絆

パリ国立造形美術大学ブール校デザイン科の教授アントワンヌ・F氏は、2年前より大学3年生のクラスを引率して、日本でデザイン・ワークショップを実践している。

「フランスが権利を主張する国だとすれば、日本は義務を重視する国でしょう。個人の主張よりも、社会、団体、家族と帰属する環境を重んじます」と、両国の違いを指摘する彼は、日本を訪れたフランス人の視点の変化についても語ってくれた。

「フランス人は、偏ったイメージから日本を理解する傾向にあります。けれど、実際に日本を訪れてみると、集団の中の個人の在り方というものを認識するのです。日本がサービス社会であり続けるのも、まずは相手を尊重するから。いかに、フランス人が感情をあらわにし、エゴを主張できる環境にいるのか、フランスに戻ると実感します」と、自国を批判する言葉も添えた。

持続性

日本でのワークショップでは、生徒だけでなくアントワンヌ氏自身も学ぶところが多いという。

「生徒たちとモノづくりの現場を介して実感することは、日本の道具やモノは、造形を優先して考えられているのではなく、機能と使い勝手を重んじていること。だから、一切の無駄がないのです。日本では、すべてのモノは空間や適材の環境にきちんと納まるように考慮されています。まるで、日常生活も儀式であるかのように。使い捨て商品が増加している昨今ですが、日本のモノづくりには持続性が宿っており、特に欧州のデザイナーには大きなキーワードでしょう」

そして、「両国共自国の価値を尊重する点が、唯一の共通項のように思えます」と結んだ。

江戸扇子工芸
江戸扇子工芸 松井氏の工房にて

アイデンティティーを持ち合わせるからこそ、相手への関心も高まる。コミュニケーションを介して、相手の国民性や文化、風習を学ぶ。時間だけが、偏見や戯画的な見解を払拭することはできないかもしれない。明日の若者たちは、どんな視点から相手国をとらえていくのか、気になるところだ。

(Texte et photo : Kaoru Urata)

 

フランス柔道育ての父、粟津正蔵さんにインタビュー

柔道家 粟津正蔵さん「皆お互いに助けられている」 - 先輩は知っている欧州で生きるヒント。

フランスに正統な柔道を広め、柔道家を育てた日本人、粟津正蔵さん。世界有数の強豪国であり、柔道人口世界一と言われるフランス柔道の育ての父。その功労は計り知れない。しかし当人は言う、「皆に助けていただいたもの。ひたすら1日を積み重ねただけ」と。87歳。フランス生活は60年を超えた。現在、フランス人柔道家は最大の敬意を払い「Maître Awazu(粟津師範)」と呼ぶ。長きにわたりフランス柔道を導いた粟津さんに柔道とフランスの人生を伺う。
(Texte : Ryoko Umemuro)

粟津正蔵さん

あわず・しょうぞう 1923年4月18日、京都府生まれ。10歳で柔道を始め、15、16歳で明治神宮国民体育大会を2大会連続優勝。1950年、川石酒造之助(みきのすけ)氏(1899-1969)の助手として渡仏。仏柔道連盟に籍を置き、フランスにおける柔道普及と柔道家育成につとめる。また、フランス代表チームのコーチとして活躍、多くのフランス人柔道家を育てた。現仏柔道連盟顧問。講道館8段、国際柔道連盟9段。1993年に勲五等双光旭日章を、1999年にレジオン・ドヌール勲章(シュバリエ)をそれぞれ授章。著書に「Méthode de Judo au sol」(1959年、仏国内にて出版)。

柔道を始めたきっかけを教えて下さい。

10歳の時にけがを治していただいた先生に、何をやらせたらいいかと父が相談したのがきっかけです。以降、小学校の授業が終わると、その先生が柔道の指導をされていた京都市立第一商業学校(現西京高校)に通うように。その学校は全国優勝をしており、ひたすら練習練習で鍛えられました。そういう環境ですから、勝つのは当然、それには練習せねば、努力せねばならないと自然に思うのです。ですから苦しいとは思いませんでしたし、それが後年役に立っています。そのまま中学校に入り、4、5年生の時には明治神宮国民体育大会で2回優勝しました。それで、私の柔道は終わった、十分、これからはもっと勉強をしなければと、高等専門学校 *1旧制専門学校。当時の高等教育機関で現在の大学的存在を受けましたが、全部落ちました。でも結局、そのために大東亜戦争の学徒出陣として徴兵されなかったのです。私は、落ちたために今生きている、フランスに渡り生活しているのです。

フランスに渡られた理由は?

1936年からフランスで教えてこられた川石酒造之助(みきのすけ)先生が第二次世界大戦で国外退去となり、日本に戻られていました。それで、戦争が終わり再渡仏するに当たり助手が欲しいと相談を受けた栗原民雄先生が私を推薦され、1年間の予定で渡ることに。

当時日本はGHQの管轄で、パスポートを得るのに大変時間が掛かりました。結局、予定は1年半遅れ、1950年、初めて船に乗り4週間の航海に出たのです。

フランスに着いてすぐに柔道の講習会に出ました。以来、与えられたことを真面目に、欲を出さずについていきました。1年の契約で来たものの、1年たってもやることはたくさんあり、皆も求めて下さる。それで2年たち、2年半後に家内を日本から呼びました。でもまさか60年いることになるとは思いませんでしたね。

当時からフランスは柔道が盛んでしたか?

東洋には日本という国があり、こういうスポーツがあるということを、戦前、禅の本を通じてインテリ層が知り、柔道に関心を持たれました。ですから、当時フランスで柔道はインテリのスポーツでした。

なぜ柔道がフランス人に受け入れられたのだと思いますか?

フランス人の体格は欧州の中では大きくありません。「柔よく剛を制す」柔道はフランス人に向いていたのですね。私が着いた頃は、家のガレージにベッドのマットを敷いて柔道をされていました。また1級者でも柔道を教えられていたのです。その後、柔道の指導者には知識がないといけないと、1955年に国家資格を持つ有段者のみとなりました。私も多くの講習会に出ましたが、それ以降は段の試験を受けるために1級者が多く参加していました。

また、「川石メソッド」という独自の方法を生んだ川石先生の功績でもあります。やる者は初めてですから、技の掛け方も名前も知りません。でも「川石メソッド」のおかげで、簡単によく理解できるのです。

現在は学校で柔道の授業があり、子供に柔道を習わせたいと考える親も多いです。

柔道をやりますと自然と心が育つのです。例えば、稽古の最初に「先生に礼」そして「互いに礼」をします。そうすることで相手を敬う気持ちや皆と仲良くする心が育つ。そういう部分が親御さんに受け入れられるのでしょう。そんなスポーツは他にはありませんから。また、効果を実感させることも大切です。技を掛けるとこんな効果が出るのだと分かれば、意欲も増します。

柔道フランス代表チーム
1972年ミュンヘン五輪、柔道フランス代表チーム。
この大会でフランスは初めて軽・中・重量の全階級で
3位入賞を果たした

感謝状
1964年の東京五輪で初めて柔道は正式種目となる。
東京五輪委員会より贈られた感謝状

精神は言葉では伝わらない

柔道は武道です。その精神性をフランスの方たちへ伝えるのに苦心されましたか?

柔道では何が大事かと申しますと、人格の完成と世を補益することです。これは(柔道の創始者である)嘉納治五郎先生が言われております。「精力善用」「自他共栄」と。いろいろな柔道家がいますけれど、それが精神的なモットーですから、柔道をやる以上は皆それを大事にしなければなりません。

しかし、精神は言葉で言っても伝わりません。「忍耐せよ」と言っても「忍耐って何だ」と言われればそれまでです。でも、柔道には行為があります。例えば、寝技で押さえ込まれたとき、頑張って抵抗し、逃げねばなりません。それが忍耐です。忍耐強くなるほど、柔道は強くなり、自然と彼らは納得します。日本人とフランス人とに違いはありません。楽しいという気持ちも悲しいという気持ちも人間は持ちますよね。人間の根本はどの国でも同じですから。

その代わり、指導者はそれを常に頭に置き、よっぽど注意しなければなりません。指導者自身が自分を鍛えるのです。言葉は勝手なもので、いろいろと出てきますけれど、動作とは長年の生活によって築かれるもの。指導者の行動を生徒たちはよく見ています。柔道の指導は2時間でも、その他の22時間をどのように過ごしているのか、ムッシュー粟津はどういう道を歩むのかと。指導者が真っ直ぐにおりましたら、皆分かります。でも1年や2年では無理ですね。何十年とおりますから、そう見てくれるのです。自分の身、行いによって彼らを納得させねばいけないと思います。

長年フランス代表選手を指導されてきました。うれしかったことを教えて下さい。

努力し練習した結果が出たら、うれしいですね。1975年の世界選手権で初めてフランス人選手が優勝しました。それが第一歩となり、その後次々と結果が出たのです。

コーチは、日頃から選手と接し練習を見ることでアドバイスができます。選手が30人いたら30人と乱取りする、皆平等に自分をぶつけていくのです。そうすると、それぞれの技が分かり、それが大会で準決勝や決勝に勝ち進んだ時に役立ちます。選手の技や癖を理解した上で相手の試合を1回戦から見てきたコーチは「こうせいよ」と言う。敵を知り己を知るということですね。そのためには、精神的な接触も大切です。それがあるからこそ選手も納得します。アドバイスしたことが試合で当たった時ほど、コーチとしてうれしいことはありません。

現在の柔道をどのように見ますか?

勝負という意味で、柔道の試合は広まりました。しかし柔道家という意味では問題があります。もっと技を鍛えなければなりません。フランスや柔道の先進国では柔道家としての努力がなされています。けれども、ただ勝てばいいという国もあるのです。柔道は二百数十カ国に広まりましたが、そのうち100カ国程は精神性や技は関係ない、ただ勝てばいいと思っているように感じます。外国人だけでは、その土地の「柔道」になります。日本が柔道を作った国なら、日本人指導者がその土地に赴き、柔道の本来の姿、いかにしてそれに近づくのかという方法を考え伝えていかなければなりません。そのためには、1年や2年ではなく長年いること。そうしてこそ、地元の人たちとコンタクトができるのです。そういう意味で、日本の役目はまだ果たされておりませんし、もっと努力が必要です。

粟津道場
パリの名門スポーツ・クラブ、レーシング・クラブ内にある
「粟津道場」と名付けられた柔道場入り口。
一線を退いた現在も粟津さんは週に一度柔道の指導を行う

粟津道場2
仏柔道連盟会館内にある柔道場の1つも
「粟津道場」と名付けられている

皆お互いに助けられている

長く健康でいられる秘訣を教えて下さい。

悩み事や心配事などで心が穏やかでなくなると体の具合も悪くなるものです。心が静かであれば病気にはかかりません。和やかな気持ちでいることが大事です。私の場合で言いますと、以前目の病気をした時、医師をしている生徒が「先生、目がおかしくないですか? 一度検査しましょう」と本人である私よりも先に気付いてくれました。以来40年間、彼が私の主治医です。

趣味は何ですか?

詩をやります。昔の詩には精神的なことがうたわれています。例えば「雪に耐えて梅花麗しく 霜を経て楓葉丹し」*2。西郷隆盛が米国に留学する甥に贈った詩「外甥政直に示す」の一節柔道の講習会に行くと、例としてこれを日本語で言います。そして、講習会が終わる時にフランス語で意味を伝えるのです。「冬場は皆苦労しとる。寒さに霜に耐えておる。それによって春を迎えることができる」とね。精神は言葉で伝えられませんが、行動した後、詩を用いるのです。すると、意味も分かり詩を覚えて帰ってくれる。それが指導法の1つとなっています。私は日本人ですから、日本的な言葉で精神的なことを伝える時はそのようなものを利用したいのです。

また、ひざのけがで3カ月間入院した病院で孤独になった時に何が良かったかといいますと、歌なのです。子供時代の歌は分かりやく簡単で心を突く、いい言葉を使っています。時を過ごすのには、そういう言葉が非常に大事ですね。病院にいた時、ひとりでに歌っておりました。また今もたまに島崎藤村の「椰子の実」を歌います。島崎藤村もパリに来ておられましたが、その時に作られたのではないかと思ってしまうような言葉が出てくるのです。

生活の面で苦労はありましたか?

皆にお世話になり、何かの形で助けられてきました。そうすると、親切にしなければならないという気持ちになりますよね。仲良く助け合うことが大切です。自分というものは非常に小さなものであり、人間は1人では生きられません。特に外国生活では、閉じこもってはいけません。お互いが楽しい1日を送れるようにという気持ちで、相手に緊張をさせることなく、和やかな雰囲気を作り仲良く助け合うのです。戦時中も、助けたり助けられたりしていました。人生は皆お互いに助けられている、頭を下げなければなりませんという気持ちです。

こちらに来てから子供が生まれ、孫、ひ孫まで生まれました。これはもう人生です。日本にいてもこんなこと簡単にはできません。何も特別な努力をしてきたわけでも無理をしてきたわけでもありません。ただ1日を歩んできたのです。それで好きなことをしてこられて、これが自分の人生だと喜んでいます。人生として何も恥じることはない、幸福であったと思います。

在外日本人へメッセージをお願いします。

嫌だと思ったらきりがありません。こういう人生を送っているというのは1つの運命、それを受け入れなければなりません。心の持ちようです。苦しむために生きているわけではないのですから。「住めば都」と思ったら、どこでも同じです。何も変わったことをする必要はありません。皆と仲良く1日を過ごす。そうすれば365日が楽しく過ごせます。最初から5年・10年計画と考えたらしんどいです。1日1日を積み重ねることで自然と長続きとなる、自然と道は開けていく、私はそう思います。


英国

ドイツ

 

ジャーナリストの人質たち

ジャーナリストの人質たち Journalistes Otages

同時期に発生した日仏2つのジャーナリスト誘拐事件。
そこから見えてきたものは何か。(Text : Yukiko Kikuchi)

2つの誘拐事件

2010年4月1日、日本人ジャーナリストの常岡浩介さんがアフガニスタンで誘拐された。その後、反政府武装勢力の「タリバン」を名乗る犯行グループはカルザイ・アフガニスタン政権に捕まっている仲間の解放を要求し、在アフガニスタン日本大使館を脅迫する。

常岡浩介氏
誘拐される6日前の3月26日、
アフガニスタンを取材中の
常岡浩介氏

同月11日、タリバンが2009年12月29日から人質として捕えている仏国営テレビのFrance3に所属するジャーナリスト2名の殺害を脅迫するビデオをインターネット上に公開した。翌日、France3はタリバンの要求に応じて、顔部分にぼかしを入れた状態でビデオを放映し、外務省とFrance3は2人の身元を明らかにする。続く13日、サルコジ大統領は「解放のために努力を惜しまない」と明言した。

フランスのマスコミや市民は支援委員会を作り、署名活動や集会などを通じて、仏政府に2人の解放交渉を進めるよう求めるキャンペーンを連日精力的に展開。一方日本では、常岡さんの誘拐に関しては当初の数日間だけ報道された後、全く報道されなくなり、常岡さんの事件に関する主だった動きは起こらなかった。国民からも忘れられつつある6月、カルザイ大統領が来日した直後の17日に「毎日新聞」が拘束されている常岡さん本人と犯行グループへの電話インタビューを行う。しかしながら、常岡さん解放への関心は再び薄れていき、9月4日に常岡さんが解放されて初めて誘拐されていたことを知った日本人も多かった。

一個人ができること

常岡さんが誘拐されていた当時パリに住んでいた私は、常岡さんのことを報道した日本の報道機関のパリ支局やパリに本部を置くNGO、国境なき記者団に何か手掛かりはないかを問い合わせた。そして、常岡さんの電話取材に成功した毎日新聞社ニューデリー支局長の栗田愼一記者を始め、常岡さんと一緒にアフガニスタンに渡航したジャーナリストやイスラム学者、常岡さんの実家に連絡を取り、情報収集と自分なりにできることを試みた。以前、チェチェンでの人道支援活動が原因となって、私がロシアで拘束、強制送還された際に、常岡さんはいち早く私に連絡を取り、マスコミへ情報を流し、可能な限り電話で話し、精神的に支えてくれた。その経験から、私は常岡さんが取ったであろうと思われることを行うことに躊躇しなかった。

「政府にはジャーナリストの解放交渉をする義務があるということを、常に国民やマスコミが政府に呼び掛けることは重要だ。しかし、常岡氏は所属する報道機関のないフリーのジャーナリストで、解放のために尽力する機関もなく、交渉に何らかの不利が生じては困るので沈黙するように日本政府が常岡さんの家族に説得している。そのため、とても複雑かつ常岡氏にとって悪条件だ」

こう指摘した国境なき記者団アジア・太平洋地域局長のヴァンサン・ブロッセルさんは、常岡さんの家族に余計な心配を掛けることなく、かつ後で交渉の邪魔をしたと日本政府に非難されないよう、私たち民間人にできることを考えた。そして、常岡さんがイスラム教徒であり、イスラム圏における戦争の悲劇を日本に伝えてきたジャーナリストであるということを犯行グループに理解させるために、イスラム教徒である犯行グループに対し常岡さんをラマダン開始前までに解放するよう手紙を書くことを私に提案した。8月、日本や外国に住むイスラム教徒94名の署名を集めた私は、国境なき記者団が翻訳した手紙と共に、現地で犯行グループと交渉を行う人たちに送った。

9月4日、常岡さんは解放された。犯行グループがタリバンではなく、カルザイ政権幹部の側近である地方軍閥であったことや、日本大使館との交渉に失敗した犯行グループがその次にはカルザイ政権にタリバンを装って脅迫していたことなどが、常岡さんによって語られた。

ジャーナリストと政府、国民の役割

解放後の常岡さんの発言によって、私たちは欧米諸国や日本などの国際社会が承認し支援しているカルザイ政権が腐敗している状況を知ることができた。常岡さんが人質に取られていた6月にはカルザイ大統領が日本に招かれ、日本政府はアフガニスタンに50億ドルの経済支援を約束している。これに対し、アフガニスタンを幾度も訪れ取材活動を続ける常岡さんは、「今やカルザイ政権の支配地域はアフガニスタンの1割強から2割弱と言われているが、日本政府はアフガニスタン政府としか対話していない。支援を受けられるのはその支配地域のみでしかない」と指摘する。フランスのように軍隊を送ってはいなくとも、カルザイ政権を承認する日本政府の経済援助が果たしてアフガニスタンの人々のために有効に使われているのか、私たちはきちんと監視し政府に働きかけていかなければならない。

9月6日、日本外務省は報道機関に退避勧告地域における取材活動を自粛するよう求める勧告を出した。常岡さんは、「外務省には邦人の保護という義務があるが、退避勧告地域で保護できないことは当然である。また自己責任ということも誘拐事件ではよく問われるが、これにも限界がある。どちらも努力目標であって、お互いが努力して補っていくべきだ」と言う。


解放を呼びかけるポスター
支援委員会が作成による誘拐されたジャーナリスト、ステファン・タポニエ(左)、エルヴェ・ゲスキエール(右)両氏の解放を呼びかけるポスター。支持者は支援委員会WEBサイトよりダウンロードし、意思表示することができる。


フランス人ジャーナリストが誘拐されたのは、2005年1月にイラクでのフローランス・オブナ氏(当時「リベラシオン」紙所属)以来5年ぶりのことだ。当時、オブナ氏が誘拐される2週間前に2 人のフランス人記者が解放されたばかりだったこともあって、仏政府はジャーナリストたちにイ ラクへ行かないように忠告した。しかし、団結したジャーナリストの声明や支援委員会の設立、活発なPR 活動など、国民による熱心なオブナ氏支援に促されて、解放時にはオブナ氏をシラク大統領(当時)が軍事空港で出迎えた。仏政府は確実に国民に動かされ、姿勢を変えたのだった。

「一人は皆のために、皆は一人のために」というアレクサンドル・デュマの小説「三銃士」のダルタニアンの誓いを用いながら、ジャーナリストや政府、国民がアフガニスタンの平和のためにできることは相互努力なのだと常岡さんは説明した。アフガニスタンで最も大きな問題は「戦争が続いていることである」と言う常岡さんは、戦争を止めるために自分にできることは取材して戦争の事実を伝えることだと語る。

ジャーナリストの使命が伝えることであれば、国民にもまた知る権利や政治に参加する権利がある。イラクやアフガニスタンで仏政府や国際社会が何をしているのか、何をすべきなのかということを、国民は常に報道を通じて知ろうとしている。そして、その国民の目となり耳となって危険を冒して戦地へ赴いている伝え手であるジャーナリストの解放のために支援委員会を中心として支えているのだ。

2人のフランス人ジャーナリストが誘拐されて間もなく1年になる。11月19日にカルザイ大統領と会談したサルコジ大統領は、同月22日に人質の家族や支援委員会のメンバーと会い、今後アフガニスタンと共に開放に向けての交渉を続けていくことを伝えた。

「私たちは彼らを忘れない」というメッセージと2人の写真、入手でき得る限りの現状、そして彼らが誘拐されて何日経過したかについては支援委員会やマスコミによって毎日のようにフランス人に伝えられ、デモや支援コンサートなどのイベントは現在もフランス各地で行われている。

フランス人ジャーナリスト2名の開放を求める集会
9月29日、フランス人ジャーナリスト2名の開放を求める集会がパリで行われ、仏国営テレビの社屋にメッセージが書かれた垂れ幕が掛けられた。

● 日本人ジャーナリスト誘拐事件
常岡浩介氏
開放後の常岡浩介氏
2010年4月1日、フリー・ジャーナリストの常岡浩介氏がアフガニスタン北部クンドゥズ地方でタリバンを取材した帰り、武装グループに誘拐された。犯行グループは「タリバン」と名乗り、在アフガニスタン日本大使館に対してカルザイ政権に拘束されている仲間の解放を要求する。誘拐されてから157日後、常岡氏は無条件解放され、現地日本大使館に保護された。解放後、常岡氏は、犯行グループがタリバンではなく地方軍閥であると語っている。

● 常岡浩介
1969年、長崎県島原市生まれ。早稲田大学卒業後、1994年NBC長崎放送報道部記者に。1998年よりフリーランスとなる。アフガニスタン、チェチェン、イラクなどイスラム世界を中心とした戦争を取材している。著書に「ロシア 語られない戦争 チェチェン ゲリラ従軍記」(アスキー新書)がある。
● フランス人ジャーナリスト誘拐事件
2009年12月29日、France3のドキュメンタリー番組「Pièces à Conviction」の取材をしていた2人のフランス人ジャーナリストと現地アシスタントをしていた3人のアフガニスタン人およびドライバーが、アフガニスタン北東部カピサ地方で誘拐される。ドライバーは解放されたものの5人は現在も拘束中。犯行グループ、タリバンは仏政府に対して仲間である囚人の釈放を求めているが、11月23日現在、仏政府はこれに応じるという声明は出していない。5人が誘拐されてから330日を超えており、オブナ氏女史ら他のフランス人ジャーナリストが誘拐された事件に比べても長い。

有志による支援委員会WEBサイト
www.liberezles.net

● エルヴェ・ゲスキエール
(Hervé Ghesquière)1962年、リール生まれ。
● ステファン・タポニエ
(Stéphane Taponier)1962年、マルセイユ生まれ。

両氏共に仏国営テレビFrance3に所属するジャーナリスト。同局のドキュメンタリー番組「Pièces à Conviction」の取材班で、これまでアフガニスタンや中東地域、ユーゴスラビア、旧ソ連などの紛争地で20 年以上にわたり取材活動を続けていた。
 

ルネサンスの小路、リヨンへ

ルネサンスの小路、リヨンへ

リヨンに来るとイタリアのフィレンツェを思い出す、
と多くの人が言う。
リヨンとフィレンツェ?
そう、その昔リヨンはフィレンツェと、
それもルネサンスの栄華に輝く時代のフィレンツェと、
フランスのどの街よりも近い関係にあった。
(Texte et photo : Miwa Arai)

リヨン

ユネスコ世界遺産

「リヨンは、2000 年以上の長きにわたり昔の街並みを残しながら常に発展を続けてきた、人類の建築・都市史を証明する傑出した都市である」*

1998年、リヨンの歴史地区はユネスコの世界遺産に選ばれた。特に評価されたのは、各時代の建造物が当時の場所に残っていることだ。

歴史あるヨーロッパの都市の多くは同じ場所で盛衰を繰り返し、建築物の多くは時の権力者の意向や宗教の違いで取り壊され、建て替えられていった。しかし、リヨンという街は、数百年ごとに行政の中心地を、街の西から東へ東へと移していった。その結果、紀元前にローマ人が築いた西部 のフェルヴィエールの丘から、今日も開発の続く東部地区まで、各時代の建物の多くが破壊をまぬがれてそのままに残されている。

* ユネスコ世界遺産公式サイトより登録理由を抜粋
whc.unesco.org/en/list/872

リヨンとフィレンツェ

ルネサンスはヨーロッパ中に影響を及ぼ した。ロワールの古城など、ルネサンス建築はフランス各地に残っている。ただリヨンほど広い範囲で、富裕層とはいえ王族ではない市民のルネサンス期の住宅一帯が保存され、かつ現在も人々がその建物に暮らしている街はまれだ。

西ヨーロッパのほぼ中心に位置し、しかも水陸の交通の要所という恵まれた条件。15~16世紀には、年に4回もの国際市がリヨンで開かれ、ヨーロッパで最も重要な商業都市の1つとなっていた。当時の大財閥で銀行家のメディチ家は、欧州中の商人が集まり活気あふれるリヨンに銀行の支店を出店し、フランス初の証券取引所もやはりイタリア人によってこの地に開設されている。彼らにとってリヨンは、イタリアまでは南下しないドイツや北ヨーロッパ 各国の商人と直接取引のできる、最も身近な外国の街だった。それはちょうどフィレンツェに発祥したルネサンス運動が、ヨーロッパ全体を席巻していった時代。金融機関の開業と共に、本家フィレンツェの銀行家や商人など多くの裕福なイタリア人、各国のスノッブな商人、彼らをパトロンとする文化人らが続々と、“出張”ではなく、“駐在”生活をリヨンで始めるようになる。財力ある彼らは、流行のルネサンス様式の邸宅を競い合って建てた。それが今日旧市街に残る“ルネサンス地区”だ。

リヨン
1600年、メディチ家のマリー・ドゥ・メディシスがフランス国王アンリ4世と結婚のために対面したのも、パリではなくリヨンだった。ちなみにリヨンが食通の街となったゆえんも、当時のフランス料理界にメディチ家の料理人たちがもたらした食文化の影響だという。
リヨン

トラブール巡り

これらリヨンのルネサンス時代の建築 を鑑賞する格好の手段が、トラブール(Traboule)巡りだ。トラブールとは建物内の廊下のような通路。地図には出ていないが、そこを歩けば手前の通りから建物の向こう側の通りへ抜け出ることができる、いわゆる抜け道。

ヨーロッパの建物は、通りに立ちはだかる外壁からは想像もつかないような世界を中庭やその奥に隠していたりする。でも残念ながら、博物館などでない限り観光客はそこまで入れない。それがリヨンでは、トラブール見学の名の下に可能なのだ。

建物は今も昔も住民の私有地なのだが、建物内にあるトラブールが観光の切り札の1つにもなっているおかげで、歴史的なトラブールを有する建物は、市と住民の調整で、曜日や時間を交替しつつ常に何カ所かは誰もが見学できるようにアレンジされている。トラブールを通れば、普通は入れない建物の中庭や内側の装飾も見学できてしまう。

表通りに面する重い扉を押し、トラブールに入ってみよう。薄暗い通路を抜けると薄日の差し込む中庭に出る。そこには絵本で見たような古めかしい塔や見事ならせん階段がふいに現れるだろう。表通りの喧騒(けんそう)から遮断された静かな小さな空間。一瞬、何百年も前の日常生活がよみがえったように、時が止まる。後から入ってきた見学者のさざめきに現実に引き戻され、その先の狭い通路を曲がれば、先ほどとは別の風景に出会う。

1つ1つのトラブールに違った雰囲気があって、門を出るとまた別のトラブールの入り口を探したくなる。1つ開けると次から次へと開けたくなってしまう玉手箱のように、扉の向こうの世界、というのは魅力的だ。トラブール散策は、普段は“入ってはいけない”扉をくぐり、入った先は数百年前の過去だった、とでもいうような、とても不思議なトリップだ。

リヨン
トラブール
トラブール
トラブール
トラブールは、職人たちが天候に左右されずに絹の巻物を運ぶ通路としても使用され、第二次大戦中には、レジスタンスの秘密の会合や逃げ道としても活用された。

それからのリヨン

ルネサンス時代以外にも、フェルヴィエールの丘の上のローマ遺跡、ロマネスクやゴシック様式の教会、プレスキルの17~19世紀の建築、クロワ・リュッス地域の19~20世紀産業革命時代の絹のアトリエなど、リヨンには各時代の見どころがまだまだある。

近年ジャン・ヌーヴェルが改築したリヨン・オペラ座の上演目、現代アートの国際展「リヨン・ヴィエンナーレ」、質が高く値段も手頃なブションと言われる街のビストロや極上の食材が並ぶポール・ボキューズ市場など、この街の文化度の高さの背景には、長く豊かな歴史と、その間常に都会として諸外国と接してきたリヨン市民の、進歩的な気風がある。

1907年に渡仏し「ふらんす物語」を書いた永井荷風。パリのことが多く描かれているが、彼のフランス滞在の本拠地はリヨンだった。「現実に見たフランスは、見ざる以前のフランスより更に美しく、更に優しかった」という思いには、この街で過ごした日々、触れ合った人々、眺めた風景がきっと影響しているだろう。

オペラ座
オペラ座のオーケストラ(国立リヨン歌劇場管弦楽団)の首席指揮者は大野和士さん。日本人初の仏国立歌劇場の指揮者として、リヨンと世界中からの喝采をあびる。
オペラ座
Information

アクセス
パリのリヨン駅からTGVで1時間50分、車で約4時間(オートルートA6)、飛行機で1時間10分

トラブール見学
リヨン市内には200から300のトラブールがあると言われているが、代表的なものは旧市街のル・ブフ通り/サン・ジャン通り/トロワ・マリー通りの間など。個人での自由見学(無料)と観光局のガイ付きビジット(2時間/有料/日本語も有)がある。
www.lyon-france.com/Visites-guidees

リヨン市公式サイト
www.lyon.fr

リヨン観光局
Office du Tourisme & des Congrès du Grand Lyon
Pl Bellecour 69214 Lyon
M: Bellecour A・D線
TEL: 04 72 77 69 69
www.jp.lyon-france.com

リヨン・オペラ座
1, pl de la Comédie 69001 Lyon
M: Hôtel de Ville A線
TEL: 08 26 30 53 25 (0.15€/min)
www.opera-lyon.com

La Fête des Lumières

毎年12月8日の夜、リヨンの街の窓辺には、数えきれない程の小さな灯(ひ)がともる。

1852年12月8日、キリスト教でマリアが聖アンナの胎内に宿ったとされるこの「無原罪マリアのお宿りの日」に、フェルヴィエー ルの丘の礼拝堂に黄金のマリア像が設置される予定だった。あいにくの悪天候で像の設置が危ぶまれたその夜、市民たちは各家庭の窓辺にいっぱいのろうそくをともし、マリアへの無言の祈りと感謝の心を捧げた。祭りの起源はこの日にさかのぼる。

1999年からは12月8日を含む4日の間、リヨン市は最新の技術、先鋭のアート感覚を競い合う光と音のショーの壮大な舞台として、世界中の観光客を迎えるようになった。2010年の光の祭典「La Fête des Lumières」は、市庁舎や教会、階段や川面など約60カ所 に、各国から選抜されたアーティストたちの照明作品が投影される予定。中心部は日没の頃から車両の乗り入れが一切禁止され、人々が白い息を吐きながら冬の闇の中を光から光へと歩いていく。

リヨンの人々の昔からのマリア信仰が、“光の祭典”という形になって、また新たな年輪をこの街に刻んでいる。

リヨン光の祭典 リヨン光の祭典
リヨン光の祭典 リヨン光の祭典
リヨン光の祭典 リヨン光の祭典
Information

La Fête des Lumières
12月8日(水)~ 11日(土) 17:00開始
8日 26:00まで、9・10日 25:00まで、11日 明け方まで
TEL : 04 72 10 30 30 
www.fetedeslumieres.lyon.fr

*祭典の期間は市内のホテルなどは満室になるので予約はお早めに

21世紀リヨンのビジネス環境

人口約45万人、面積47.87km²を持つリヨンはフランス第2の商業都市として、ヨーロッパ内第5位のエリアGDPを誇る経済規模を持っています。そんなリヨンでコンサルティング会社を起業した佐藤大輔氏にリヨンのビジネス環境についてうかがいました。

今リヨンで熱い業界は?

商業都市リヨン
商業都市としても
再注目をあびるリヨン

約150ヘクタールというヨーロッパ最大の再開発地区で行われている環境・再生可能エネルギー事業では、日本の技術を使ったプロジェクトが進んでいます。また、リヨンでは雨後のタケノコのごとく日本食のレストランがオープンし始めているのも注目ですね。その他にも、閉店したブティックが次々と美容・エステサロンに改装されている今のリヨンでは美容やエステ業界も狙い目だと思います。

リヨンとパリでのマーケットの違いは?

パリと比べてリヨンのコストは3分の2です。そのためリヨンでの起業は、損益分岐点が低く、リスクを抑えることができます。リヨンからパリはTGVで片道2時間で半日日帰りも可能なので、地方にいる不便さを感じることもありません。

マーケット上の大きな違いはありませんが、ビジネスをする上での違いは、リヨンでは人脈や信用がとても大切にされていることです。最初は、少々閉鎖的に感じるかもしれませんが、いったん中に入るとみんなバックでつながっていることに驚くでしょう。

リヨンには日本人にとってビジネスチャンスが多いと?

滞在許可証や許認可など法務・行政手続上の参入障壁があるほかは、実質上、リヨンはライバルのほとんどいない競争のない市場ですので検討する価値は十分にあると考えます。

佐藤大輔氏
佐藤大輔氏1973年生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了後、2001年渡仏。リヨン大学大学院博士予備課程(DEA)修了。在学中より商工会議所などでインターンシップを経て、2005年アルフェリスを設立。リヨン政治学院、CSI リヨン国際学園講師。

ALFELIS アルフェリス
2005年よりリヨンで衣食住を中心とした市場開拓、マーケティングを専門とするコンサルタント業務を行う。東証一部企業のフランスマーケティングや欧州統括会社、フランス子会社や店舗の設立サポートの他、リヨン外食産業見本市の日本パビリオン運営やショッピング・モールのプロジェクト・マネジメント、在仏日本大使公邸でのパーティー運営、群馬県富岡市の世界遺産調査、百貨店のフランスフェア、マスコミのリヨン取材コーディネートなど、業務内容は多岐にわたる。

アルフェリスでは現在インターンシップを募集しています。
詳細はお問い合せ下さい。

9, rue Fournet 69006 Lyon
TEL : 09 54 40 93 65
このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください  
www.alfelis.com

YOMOGI

Le Marquise

 

先人に学ぶ。フランスに生きた日本人。第2弾

先人に学ぶ。フランスに生きた日本人。第2弾

19世紀末から20世紀前半にかけて、フランスに生きた日本人の目には、何が映ったのだろうか。厳しい時代を生き抜いた彼らの行動は、世紀を越えた今でも、フランスの 地を知る者に勇気を与える。西洋と東洋の架け橋となった男、正反対な感情を持ちフランスに滞在した作家、そして日本を動かす原動力を学んだ軍人と政治家、合計6人のフランス滞在を追う。

(Texte : Kei Okishima)

西洋と東洋をつないだ男たち

「西洋人の『用』を考えた機能と形態の重視が
必要である」
(「高岡銅工ニ答フル書」より)

林忠正(1853-1906)
フランス滞在:1878-1905

1878年のパリ万国博覧会を機に、フランスで日本ブームが沸き起こった。これに伴い、明治政府は欧米好みの美術品を製造し、輸出に力を入れる。しかし同時に、粗悪品も急増し問題化され、輸出に困難が生じる。そんな中で、日本美術を熟知し、さらに西洋人の嗜好から輸出入の状況までを知る林忠正は、両国を結ぶための重要な働きをした。例えば、経営維持のために高岡銅器の名工へあてた書簡の中で林は、西洋人の「用」を考える必要性を説きながらも、「形を誤るを防がんと欲せば、日本純粋の形を撰び決して外国の形を真似るべからず」と助言している。一方フランスでは、 1886年「パリ・イリュストレ」誌の日本特集号に、それまで伝えられていた日本についての 誤解を解くべきエッセイを寄稿。その中で、美術を理解するためには総合的な文化を知ることが重要だと説き、日本の歴史や気質、美学などを事細かに説明した。

情報網が発達した今日でさえ、日仏両国間でいくつもの誤解を見る。19世紀後半の当時、林の功労がいかなるものであったのか、想像に難くない。

「若井・林商会」をこの地で開く先人の足跡

Cité d'Hauteville 75010 Paris
1883年、起立工商の元副社長、若井兼三郎と共に日本美術品を扱う店「若井・林商会」をこの地で開く。フランス語も堪能で日本美術の知識も豊富だった林は89年に若井との共同経営を解除し、「林商会」として再スタートを切った。

「西眼に映じたる日本、日本眼に映じたる
西洋という題目で物をあつめる」
(「敬七ところところ」より)

パリの自宅
パリの自宅。
大量のコレクションの前で。
© 石黒敬章

石黒敬七(1897-1974)
フランス滞在:1925-1933

戦後のお茶の間を明るくしたNHK ラジオ番組「とんち教室」で、とぼけた口調でユーモアを連発した石黒敬七。そんな彼が若き日フランスに滞在した目的は、柔道をヨーロッパへ普及させるためであった。

憧れの地パリに着いたはいいが、先の計画はなく言葉も分からない。そして資金は底をつく。しかし当時を知る松尾邦之助の著書によると、そんな状況の中ものんきで、トボケたような話ばかりしていたというから、後のラジオでの活躍もうなずける。結局、邦字新聞「巴里(ぱり)週報」を発行し収入を得ながら、同時に道場を開き、指導に当たった。

後に石黒はコレクターとしても活躍するが、そのきっかけとなったのがパリののみの市だ。当時のみの市では、明治時代に日本へやってきた外国人がお土産にと買っていった写真などが売られており、そこに西洋人の目に映った日本を発見する。以後、のみの市や骨董(こっとう)屋を巡り、各分野で貴重な資料となる古写真を大量に収集した石黒は、文章からは読み取れないような貴重な情報を読み取ることに成功した。

道場のあった場所先人の足跡

26, rue du Faubourg St-Jacques 75014 Paris

まだフランス語も分からぬ頃、友人たちの協力によって見つけたこの場所で開いた道場と「巴里週報」の2つの事業により、石黒はパリの日本人社会において重要な人物とのネットワークを広げていった。

正反対の感情を巴里に抱いた作家たち

「自分は何故一生涯巴里に居られないのであろう。
何故仏蘭西に生まれなかったのであろう」

永井荷風(1879-1959)
フランス滞在:1907-1908

永井荷風の父親は日本郵船に務めるまじめなエリート。そんな父とは正反対な性格の荷風にとって、現実逃避のできる夢の地、それがパリであった。この街では、芸術を愛する若者が将来の成功を夢見て貧乏暮らしを楽しみ、親兄弟もないロマが孤独ながらも何の束縛もなく生きる。厳格な父が待つ日本が自分の帰る場所だと分かっていても、そんな自由な暮らしがうらやましい。またいつまでも変わらぬパリと、次々と新しく変化する日本を比較し、「日本ほど思潮の変遷の急激な処はないので、今日新しいと信ずる吾々も、かく外国に遊んで居る間には、忽ち機能の古いものになつて了ふのかも知れぬ」というくだりは、21世紀の今でも感じることがないだろうか。

日本に帰国した荷風は、日本の自然と風土の美しさを実感する。フランス文学における「其の国の風土から特別の感化を受けた固有な感想を歌つたもの」を絶賛し、それゆえに「世界に類のない程美しい詩を日本語で綴る事は吾々が日本の美しい風土に対す唯一の任務」として、自らの文学に反映させていった。

(文中カッコ内「ふらんす物語」より引用)

ホテル・スフロがあった場所先人の足跡

9, rue Toullier 75005 Paris

荷風が滞在したホテル・スフロがあった場所。荷風以外にも、与謝野寛や巌谷小波など、明治時代の日本人の多くが利用した。

「新しい野菜と水ばかりのような日本から来た矢代は、
当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に、
馴染むことが出来なかった」
(「旅愁」より)

横光利一
世界が動いた1936年にヨーロッパを見た横光
© 鶴岡市教育委員会

横光利一(1898-1947)
フランス滞在:1936

人気作家であった横光利一は、オリンピック・ベルリン大会の観戦記を新聞に発表するために半年間ヨーロッパに滞在した。しかし、他の多くの作家のように自らパリ行きを希望したわけではなく、友人に行け行けと押し出されて来た横光。滞在中につづっていた日記には、華やかなパリそしてフランスのイメージとは反する暗い言葉が並ぶ。初めてマルセイユに降り立った日、町を歩くと笑っている人が1人もおらず、皆沈み込んでいると嘆き、「これがヨーロッパか。想像していたより、はるかに地獄だ」と感じる。言葉も分からず、食事も合わない生活に疲れ、到着後2カ月が過ぎた頃には「少し精神衰弱の気味がある」と記した。(「欧州紀行」より)

そんな横光がヨーロッパ滞在経験を基に執筆した小説「旅愁」には、フランスに住んでいたら1度は感じる歯がゆい思いが、巧みな文章で描かれている。「黒い石の街に馴染めない」矢代と、ヨーロッパを崇拝する久慈による、東洋の「精神文化」対西洋の「物質文化」論争の中に、我々が共感するフレーズを見つけることができるのではないだろうか。

ラスパイユのホテル先人の足跡

259, bd Raspail 75014 Paris

「欧州紀行」では「ラスパイユのホテルの6階が私の部屋だ。広い墓場が眼下に見える」と記している。墓場とは、モンパルナス墓地のことだ。

フランスに学び日本を動かした軍人と政治家

「恐れずに勇気を持て」
(野村敏雄著「秋山好古」より)

秋山好古
外国人にも「フランス人か」と言われるほど、西洋顔だった秋山好古。
©国会図書館

秋山好古(1859-1930)
フランス滞在:1887-1891

日本騎兵の父、秋山好古。騎兵の伝統があるフランスで彼が軍事研究を始めたのは1887年のこと。当時、日本陸軍は普仏戦争の勝利国であるドイツ様式の軍制を採用しており、参謀職に就く秋山も留学するならばドイツ、と考えるのが妥当だ。しかし旧藩主である久松定謨の補導役を頼まれ、不本意ながらもフランスへ渡る。結果的に、名門サン・シール陸軍士官学校の聴講生となり、後の戦術に役立つ基礎を学ぶこととなった。

騎兵、馬の数共に少ない日本が戦いに挑むとき、戦術はもちろんのこと、勇気を持ち戦いに挑むことの大切さを説く秋山は、騎兵学校長時代には生徒たちの前で窓ガラスを素手でぶち割り、「恐れずに勇気を持て」との意味を教えることもあった。またフランスでチフスを患った時も、外国に知れたら日本の恥になると医者にかかることを拒み、自力で治したという。そんな強靭な精神力を持つ秋山だが、フランスに着いたばかりの頃は、進んだ文化を前に人知れずぼうぜんと立ち尽くす。父への手紙にだけ「あたかも田舎の処女が吉原にかつぎ込まれたと同様の有り様」と内実を吐露していた。

将校たち先人の足跡

Ecole Spéciale Militaire de Saint-Cyr
フランスの生活に慣れてくると、将校たちとの付き合いも怠らず、金欠になるほどだった。そんな時はパンとバターだけで生活していたという。
©Eric Feibelman

「初めて巴里に遊学したるころ、
万里の故郷を恋想せるは、
日本料理の得がたきに始まる」
(「陶庵随筆」より)

西園寺公望
大礼服を身にまとう西園寺
© 国会図書

西園寺公望(1849-1940)
フランス滞在:1871-1880

第12・14代内閣総理大臣、そして最後の元老として日本の歴史にその名を刻む西園寺公望が、我々と同じような“庶民的な”経験をパリでしていたかと思うと、なんだか急に親しみを感じてしまう。著書「陶庵随筆」に収められた「日本料理」には、故郷の料理が恋しくて手作りしたものの、しょうゆが見つからずに町を駆け回ったことが記されている。「リウドラペー」の商店にてようやくしょうゆが見つかったというが、これはおそらくRue de la Paixのことであろう。今日でも日本の商品を扱う店の多いオペラ地区でしょうゆを発見したという偶然に驚く。

フランス留学時代における西園寺の勉強ぶりは、「鼻血のぼたぼた落ちるのを手で押さえ ながら夜通し勉強する」ほどであった。それは、 普仏戦争に負けたフランスが復興に向けて、全員が全能力を発揮する雰囲気に包まれていたため、自分も勉強せざるを得なかったからだといい、戦勝におごるドイツにいて学問した人よりも「結局、徳をした」と振り返る。ここで学んだリベラルな思想が、後に日本の政治をリードする西園寺の力となっていった。

下宿先先人の足跡

23, rue Racine 75006 Paris
大学に正式に入学するため、バカロレアに相当する資格を取るための時間を費やす。そのため、第1回の授業登録は、渡仏してから4年半たった1875年となる。その頃の下宿先が、ここだ。

 

フジコ・ヘミング、インタビュー 愛するものに囲まれた人生

Fuzjko Hemming
愛するものに囲まれた人生 ピアニスト フジコ・ヘミング

ピアノ、絵画、パリ、猫、ファッション、そして恋 ──
ピアニスト、フジコ・へミングさんの生活は、
愛すべきさまざまなものに囲まれている。
プロの音楽家としては遅咲きのその才能は、
人生における幾多の経験と、
何よりこうした愛するものたちに独自の「色」を与えられ、
誰にもない光を放つようになった。
「人生にはピアノ以外にもやりたいことがいっぱいある」。
そう語るフジコさんに、人生を彩るものたちについて、聞いた。

(Interview et texte: Shoko Murakami)

フジコ・へミング
Ingrid Fuzjko Hemming

日本人の母とロシア系スウェーデン人の父の間に、ベルリンで生まれる。5歳で日本へ帰国。父が母国へ戻ったことにより、ピアニストの母がピアノの手ほどきをしつつ、1人で育て上げる。16歳の時、中耳炎により右耳の聴覚を失うが、東京音楽学校に進み、在学中より多数のコンクールで入賞。ピアノ留学を志すも、無国籍であった事実が発覚し、一時は断念する。30歳の時、難民としてベルリン音楽学校への留学、卒業後はヨーロッパ各地で演奏活動を行う。世界的指揮者、レナード・バーンスタインに実力を認められリサイタルが決まるが、その直前に風邪をこじらせ左耳の聴覚も失う。その後は演奏家としての活動を一時休止してスウェーデンのストックホルムでピアノ教師として働きながら療養生活を送る(現在、左耳は40%程回復)。1995年、日本へ帰国。99年、テレビのドキュメンタリー番組をきっかけに大きな注目を集めるように。以降、世界各地でリサイタルや一流オーケストラとの共演を行い、人気ピアニストとして多忙な日々を送る。

原点はパリにある

フジコさんは、日本人の母とスウェーデン人の父を持ち、ドイツで生を受けた。30歳まで日本で過ごした後、ドイツへピアノ留学、以降、ヨーロッパ各地で音楽活動を行うようになる。母の死後、日本に帰国。その後は日本のみならず、世界を舞台に活躍している彼女にとって、「国」とは何を意味するのだろうか。

ヨーロッパ各地で生活されてきたフジコさんが、現在、パリに居を構えていらっしゃる理由は何でしょうか。

20代の頃からパリに住むことを夢見ていました。たくさんの天才画家、そしてショパンやドビュッシー、ラベル、フォーレなど、私の最も好きな芸術家たちの集っていた所ですから。でもパリは物価が高く、ベルリンの音楽大学からスカラシップが出たので、仕方なくベルリンに行きました。1999年2月にテレビを通して一夜で有名になり、天からお金も降ってくるようになったので、パリに住むことができたわけです。

パリの好きな場所とその理由をお聞かせいただけますか。

私の住んでいるパリのアパートの辺りは、夜更けまで遊びの天才と言われるフランス人のざわめきでにぎやかです。私も夜遅くまでピアノを弾きますが、窓を開けっ放しでも音が聞こえないほどアパートの壁も厚く、動物も犬2匹、猫5匹を飼っていますが、うるさいと迷惑がる人間は1人もいません。日ごとの犬との散歩道は、どの角もユトリロやゴッホの画のようで、住んで良かったとため息のつきっぱなしです。

ご自身の原点はどの国にあるとお考えですか。またそのことが音楽活動にどのような影響を及ぼしていると思われますか。

私にとっては、ショパンやドビュッシー、ラベル、そしてユトリロやロートレックの国、パリ・フランスです。ショパンが毎週訪れて作曲をしたり、時々サロン・コンサートをしたと言われる、一般には非公開のランベール(LAMBERT)館が私の家の近くにあります。今年9月にフランス人からそこでサロン・コンサートをするよう頼まれました。客は招待されたVIP(ほとんどがフランス人とポーランド人)のみ。ショパンのみのプログラムを1人で組み、大成功しました。フランスに来て良かったとつくづく思いました。フランスのVIPが私のことを「3本の指に入るピアニスト」と評してくれたのもうれしい限りです。フランスならでは、とつくづく思います。

コンサートなどでは着物を着られることも多いです。フジコさんにとって、日本という国はどのような存在でしょうか。

日本人は自分たちの古い文化をもっとアピールするべきだと思います。戦争中、アメリカ軍が爆弾を1個も落とさず、わざわざ残そうとした素晴らしい京都の町も、日本人の手で次々に壊されていっています。とんでもないところのある国民ではないでしょうか。私のコンサートに何度も来てくださる人々は素晴らしい方たちだと思います。つまり、私の芸術、私の思い、動物や弱い者に対しての哀れみなどを心で感じてくださる日本人たちで、心からありがたいと感謝しています。

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人生の達人

何十匹もの猫を飼っていたこともある動物愛護家で、絵画の腕前は個展を開くなど玄人はだし。西洋と日本のファッションを融合させた独特のファッション・センスも注目されているフジコさん。幼い頃からピアノ以外の生活を知らず、「人生=ピアノ」となってしまいがちな多くのプロのピアニストに比べ、ピアノを含めた人生そのものを謳歌しているように感じられる。

いつも個性的なファッションに身を包まれています。フジコさんにとってファッションとはどのような意味を持つものですか。

ファッションなしに私は生きていけないでしょう。高いお金を出すのとは関係なしに、裸足で歩いても粋な人々が私は好きです。ダンディーにすぐ恋をしたりしますが、中身が悪い人も多く、がっかりして冷めることもあります。でも、うわべだけの格好良さも悪くはないでしょう。みんな美しくあるべきと思います。鳥や犬、猫などは服など着なくとも美しいですが、裸の人間をビルの上から見たら、ウジ虫と同じくらいにしか見えないのではないでしょうか。

過去のインタビューで、「恋は大切」と語られています。恋することはなぜ大切なのでしょうか。またそれは、ピアノにとって大切、ということでしょうか。

恋をしているとピアノはあまり良く弾けません。でも、恋はお酒に酔っ払っているようにすてきではありませんか。若さを保つのにも良いでしょう。

恋愛対象となる男性は、音楽に対し理解のある方が良いですか。

恋の相手はやはり音楽をやっている人の方が良いです。

これまでの人生で「これは失敗だった」という恋愛はありましたか。逆に、「この恋は人生においてかけがえのないものだった」と思えた恋愛はありましたか。

ほとんどが「この人とではダメ」というシロモノばかり。結婚してくれとでも言われれば、「待てよ? もう少しマシなのが出てくるはず」と考えていっぺんに冷めてしまうものがほとんど。「1年でも結婚したら最高だろうに」と思えた相手は2人ぐらいです。

Fuzjko Hemming

動物愛護家としても知られています。中でも猫に関しては、深い愛情を捧げられています。なぜ、猫が特にお好きなのでしょうか。

忙しい者にとって犬はちょっとやっかい。1日に2度も外へ連れていかなければなりません。猫はその点、楽です。世界的オルガニストで医者でもあるアルベルト・シュバイツァーは、「人生の艱難辛苦(かんなんしんく)から逃れる道は2つある。音楽と猫である」と言っています。

日常的な1日の過ごし方を教えていただけますか。ピアノには毎日、どのくらいの時間を費やしているのでしょうか。

毎日4時間、練習できれば良い方ですが、客が来たりするとできなくなることもたびたびです。画を描くと、次の日は手も痛く、疲れはひどいです。

ピアノ以外にもさまざまな分野で活躍されています。これらは皆、「ピアノにとってプラスになる」との思いから始められたのでしょうか。

ピアノにとってプラスになるからやっているわけではありません。人生にはやりたいこと、読みたい本、見に行ってみたいバレエ公演、他にもいっぱいありますよね。結婚していなくて良かったと思います。人は前世でやったことを天国(悪者のいない完全な場所)へすべて持って行けるそうです(物質ではなく才能など)。

波乱万丈の人生を「祈りがあったからやってこられた」とおっしゃっています。いつから信仰を持たれるようになったのですか。また信仰を持たれる前と後で、フジコさんのピアノや人生全体に大きな変化はありましたか。

信仰は子供の頃から自然についていました。青山学院でクリスチャンの教育を受け、教会の日曜学校でも子供ながらに牧師の話と姿に心打たれたものです。もちろん、芸術家は信仰と宗教なしにはうつろなものです。

フジコさんにとって、人生で最も大切なものは何ですか。

人生で最も大切なのは信仰と祈り、それに愛です。私は波乱万丈の人生の終わりに幸運を勝ち得ました。「遅くなっても待っておれ。それは必ず来る」という聖書の言葉は、私に訪れたのです。神のおきてはどんな宗教でも同じようなものです。どんな荒波の時でも神の言葉を守り通した人に、神は必ず救いを与えて下さいます。

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一番大切なのは「音色」

「ミスタッチを直そうとは思わない」と発言し、同じ曲でも時に全く異なる演奏をする彼女に対し、否定的な見方をする向きもある。その一方で、どんなピアニストの演奏よりも、彼女の音色こそが心に響くと深く共鳴する人も数多い。テクニック偏重の傾向にある現代の音楽界において、フジコさんは何を考えて、ピアノと向かい合っているのだろうか。

好きな作曲家、好きな曲とその理由を教えていただけますか。

特に人間として好きなのはラベルです。パリ近郊にある彼の家を訪れた時は感激しました。猫を好きな、結婚しなかった男性ですね。

ピアノの演奏には、テクニックよりも大切なものがあるとおっしゃっています。そうした中であえて超絶技巧曲を好んで演奏されるのはなぜでしょう。

超絶技巧に中身(人間的、愛、頭)がなければ、うつろな響きしか出ません。そんなものは機械でやった方が良いでしょう。演奏家の人格と頭脳は、必ず演奏に表れます。たくさんの国際コンクール優勝者たちの人気が薄れ、演奏者から指揮者に変わっていくのは、彼らの人格が薄っぺらいからです。

ピアノを弾いている最中は、どんなことを考えていますか。

1人で弾いている時はとんでもないことを考えていることが多いですが(例えば今夜何を食べようとか)、コンサートの時は次の音を間違えなく弾くことのみ考えています。情感は作ったものでなく、人格と才能から自然に湧き出てくるものですから。

フジコさんにとって、ピアノを演奏する上で一番大切なものは何ですか。

作曲家の意思は霊感で自然に伝わるものです。一番大切と思うのは、私にとって音色です。

かつての名作曲家たちは、人生において貧困や革命など数々の辛酸を舐め、その時の思いを曲に投影することで自らの存在理由を示していたように思います。現代を生きる音楽家の多くは、経済的には恵まれ、英才教育を施されています。フジコさんは、人生においてさまざまな経験をすることはピアニストにとって重要だと思われますか。

運命を変えることはできないと思います。すべて神に任せ、祈り続けるより仕方ありません。経済的に恵まれて育っても、人格の気高い人は悪者がはびこるこの世の中で、辛酸を舐めなければならないでしょう。お金のみで通らないこともたくさんありますから。

ご自身のピアノの魅力、個性はどこにあると思われますか。

音です。

フジコさんにとって、ただピアノを演奏することと、「プロ」として聴衆の前でピアノを演奏することは違うのでしょうか。

R. シューマンが本に書いてあることがあります。「よく有名アーティストの受ける大々的拍手喝采(かっさい)に惑わされるな。真の芸術家、大家から受ける賛辞こそ信じるべき」。私は、ウィルヘルム・バックハウス*1、サンソン・フランソワ*2、ブルーノ・マデルナ*3、シューラ・チェルカスキー*4、ミーシャ・マイスキー*5、マキシム・ヴェンゲーロフ*6から最高の賛辞を受けています。心ない評論家の言葉など、もうへっちゃらです。

*1:スイス(元はドイツ人)のピアニスト
*2:20世紀のフランスにおける代表的なピアニスト
*3:イタリアの現代音楽の作曲家・指揮者
*4:ウクライナ出身ユダヤ系米国人ピアニスト
*5:ラトビア(旧ソビエト連邦)出身のチェロ奏者
*6:ロシアのバイオリニスト・指揮者

 

のみの市パラダイス

のみの市パラダイス

骨董品は生きる上で不必要かもしれない。ガラクタはイラナイ物かもしれない。でもそんな物たちやそれらに情熱を注ぐ人たちとの出会いは、心を彩るかもしれない。のみの市楽園とも言えるパリで、人生を豊かにするムダ時間に迷い込んでみませんか? (Texte et Photo : Ren Izuta)

のみの市の楽しみ方

世界一の規模を誇るサントゥーアン(Marché aux Puces de St-Ouen) と典型的な古物商のいるヴァンヴ(Marché aux Puces de la Porte de Vanves)を歩いてみよう。サントゥーアンには1500人、ヴァンヴには400人のディーラーがいる。自分のペースで好奇心に身を任せて歩くのが一番だが、いくつかのポイントとなる店を紹介しよう。

antiques

見るサントゥーアン(別名クリニャンクールのみの市)には美術骨董品からガラクタまでさまざまなものが並ぶ。中でも専門家が多いのが特徴。どんな代物と出会えるか。物と同時に出会うのは、骨董品の陰からぬっと現れる店主。楽しみは尽きない。

30年前からジュークボックス専門店を営むのはアデルさん1とセルジュさん(ポール・ベール通り23番地)。自慢の品は1956年アメリカSeeburg 社製V200モデル2。スイッチを押す と一枚ずつレコードを選択する様子が見える。70年代製以降は中の機械仕掛けが見えなくなるため、それ以前の物の価値は非常に高い。60年前からジャン=ピエールさんが構える Docks de la radio(ジュール・ヴァレス通り34番地)は、アナログの音響機器と映像に関わるすべての部品、機械を扱う店だ3 。蓄音機やモーリス信号の機械、ミニテルなどが所狭しと並ぶ。マルシェ・ポール・ベールには有名な台所用品専門店Bachelier Antiquites がある。店主のフランソワさんお薦めは1900年前後に作られたブナ材の肉屋の肉切り台4。当時は仕事に誇りを持つ肉屋の大将が、他店と差をつけようと、とびきりの備品や家具をあつらえた。マルシェ・セルペットではライター専門店Stand très à l'Etroit。猫の毛を入れて静電気で火を付ける18世紀のライター、クルミ材の胴体にブロンズのカタツムリの装飾がついた見事なライター。火打石で火を付ける銀糸で編んだ19世紀の火打ち袋。子供の頃から収集していたというアランさん5は、奇妙奇天烈、もしくは美しい調度品のライターを扱う。

続いてフランス最大級の古書店Librarie d'avenue(ルキュイエ通り31番地)。600㎡の広さに15万冊の本が並ぶ店内では、トポールのイラスト本から17世紀の料理本、19世紀のスイス 人外交官の日本旅行記など珍しい本にたくさん出会える。「出版されたすべての本を救う」をモットーにベリエさん6 が営むこの巨大古本屋は、来年50周年を迎える。老舗中の老舗、サントゥーアンのパッサージュで祖母、母に続きヴィンテージの洋服を扱う3代目サラの店(Chez Sarah) では、1930年のBroderie de Lunéville と呼ばれるドレスを着た美人のマネキンが出迎える。

1 アデルさん 2 Seeburg 社製V200モデル 3 ジャン=ピエールさん
1 フランソワさん 5 アランさん 6 ベリエさん

ヴァンヴのマーク・サニエ通りにも専門家は多い。その昔、市場で果物やコーヒーなどを販売する時に使っていた袋を売るMissy。20世紀前半の大衆芸術と奇妙な骨董品を扱うモーリスさんの店では、1920、30年代に使われていた手錠を発見7!モーリスさんいわく「鎖部分の職 人技が最高」。他にも1920年代のビー玉の目が光る猫の形をした鳥よけや、同じく20年代の洗 濯道具などが並ぶ。インテリアデザイナーでもあるジェラールさんのデッサン原本専門店はエリザベス・アーデンのショーウインドー用デザイン原画などレアものがいっぱい。ヴァンヴのディーラーのまとめ役はこの道40年のジョスリンヌさん。テキスタイル専門店Amélie Textilesを営む彼女のお薦めは1940年代の毛糸の手編みのビキニ8

午前中が主体のヴァンヴでは、足しげく通うとコレクターとも顔なじみに。趣味が高じて展覧会まで開いたという、フランス随一のボタン収集家アリオさんもその1人。彼いわく「ボタンの中に宇宙がある」。

のみの市探訪は実に深い。人間の歴史をひも解く考古学や文化人類学のようだ。

7 モーリスさん 8 ジョスリンヌさん

食べる美しい物や人、奇妙な物や人を見た後にはうまいものが食べたくなる。カフェやレストランが多いサントゥーアンで、質、量と価格のバランスがいいのがレバノン料理屋Elissar。Formule Elissar 9は鳥、子羊、ひき肉の串焼き盛り合わせが気前のいい量で登場だ。タブレなどの前菜もおいしい。手早く済ませたい 人にはハンバーガーやクラブサンドイッチを出すAu roi du caféがお薦め(昼時は混み合うので注意)。骨董品同様、本物志向の人は、レストランLe Bironでポトフの骨髄添えをどうぞ。

一方、午前中にほとんどの店が閉まるヴァンヴでは行商人が活躍する。舞台女優でもあるダンさん10は、手作りのカヌレやサンドイッチなどを売って歩く。ピスタチオとフランボワーズのフィナンシエがお薦め。

9 Formule Elissar 10 ダンさん

photos ①〜⑩ : ©Ren Izuta

聴くサントゥーアンには音楽の伝統が生きている。ジャズ・マヌーシュとガンゲット(キャバレー音楽)だ。創業50年以上のカフェ・レストランLa chope des puces(ロジエ通り122番地)はジャズ・マヌーシュの殿堂。ジャズにロマ音楽を取り入れたマヌーシュ・スウィングの生みの親ジャンゴ・ラインハルトゆかりの場所でもある。親子3代、この店でジャズ・マヌーシュを演奏するガルシアさん11の演奏を聴こうと、土日は14時になると人でごった返す。スイングの次は、ディープなシャンソンを。レストランChez Louisette(マルシェ・ヴェルネゾン内)は1930年代から続く老舗。ここでピカソは店の紙ナプキンに鳩を描き、ジャン・マレーやゲンズブールなど多くの有名人も訪れた。50年代のシャンソンのレパートリーの数々を「生きるモニュメント」の異名を持つ看板歌手マヌエラさん(芸術文化勲章受章)がまったりと聴かせる12

11 Formule Elissar 12 Formule Elissar

ババさん
13

達人編かなり上級者の歩き方を挙げよう。まず、週末の早起きは必須。3時、4時に活動を開始する。 サントゥーアンならばジャン=アンリ・ファーブル通りからスタート。数件あるDebarras には相続の品や引っ越し、物置一掃などで回収さ れた中古の品が無造作に置かれてあり、とんでもない宝が出ることもあるという。ファーブル通りで28年間スタンドを開くババさん13はこのエリアで知らぬ者はいない人物。銀のフォークやナイフ、陶器などあらゆるものをテーブルに広げており、目利きが必ずチェックする場所だ。目利きの勝負は薄暗い週末の丑三つ時。週末の早起きは得することもあるらしい。

古物商とは過酷な仕事。平日は休みなしで必死に商品を探し回る。オークションや個人宅、古い家の売却などどこにでも飛んでいく。商品のメンテナンスや搬出・搬入など、体力勝負の仕事でもある。毎週のように収集家でにぎわうのも、彼らあってこそ。

ジャポニスムのドレス
14ポール・ベールのヴィンテージ洋服店Les ellesweilles de babellou はジャポニスムのドレスを展示。

達人編サントゥーアンでは「日本文化の影響と暮らしの 美学」と題し、さまざまなイベントが11月29日まで行われる。各店舗では日本にまつわる自慢の一品を展示。その他衣食住をテーマに、書や生け花や茶の湯などの実演、日本酒の試飲会な ども行われる。また、ピエール・カルダン氏のセレクションによるブティックも併設される。

www.paulbert-serpette.jp

Accès

Marché aux Puces de St-Ouen
M:Porte de Clignancourt④、Garibaldi⑬、Paul Bert BUS85, 95
開催日:土 9:00-18:00、日 10:00-18:00、月 11:00-17:00
www.parispuces.com

Marché aux Puces de la Porte de Vanves
Av Marc Sangnier / Av Georges Lafenestre 75014 Paris
M:Porte de Vanves⑬
開催日:土日 7:00-13:00
(Av Georges Lafenestreの一部店舗は15:00頃まで)
pucesdevanves.typepad.com

photos ⑪〜⑭ : ©Ren Izuta

のみの市の歴史

20世紀初頭のサントゥーアン
1520世紀初頭のサントゥーアン 提供 : Restaurent Le Paul Bert

フランスでは、14世紀からくず物屋(Chiffonnier, biffin)など 中古品を扱う商売が法統制化されていた。パリの随所にあったくず物屋や古物商(Brocanteur)によるボロ市も、17、18世紀と度重なる警察の検閲でパリを締め出され、郊外に避難する。今では世界一ののみの市サントゥーアンも20世紀初頭までは雑草に覆われた荒れ地だった。19世紀末より、個人宅から中古の家具や 古布やシーツなどのテキスタイルなどを買い付ける古物商や、古着など捨てられた廃品を回収するくず物屋がぞくぞくと集まる。19世紀末、誰が呼び始めたかは不明だが「のみの市」と呼ばれた市は「Marché à la ferraille(くず鉄の市)」とも呼ばれていた。

現在のサントゥーアン
16現在のサントゥーアン Photo: ©www.parispuces.com

20世紀最初に整備されたのはサントゥーアンのマルシェ・ヴェルネゾン。9000㎡の土地の地主、ロマン・ヴェルネゾンが古物商やくず物屋にバラック小屋を貸し出した。まもなくアルバニア人のカフェのオーナー、マリック・ハジュルラックが3000㎡の土地を購入し、100軒程のバラックを立て古物商に賃貸する。定着した場所を求める古物商たちは協同組織を作り、隣接する野菜 畑の地主と交渉し200軒の骨董商が誕生、マルシェ・ビロンとなる。一方、パリの南西の入り口、ポルト・ドゥ・ヴァンヴには 1920年頃からのみの市が始まった。

第二次世界大戦中のサントゥーアンは陶器のティーセットと引 き換えにジャガイモ1袋というように闇市と化し、物々交換が行 われていた。ユダヤ人商人はドイツ軍占領下で財産を没収され、迫害された。

ポール・ベールに仲間入り
172010年9月、ポール・ベールに仲間入りした24歳のエリーズさんと32歳のジャン=ノエルさん Photo: ©Ren Izuta

パリと同時期に開放されたサントゥーアンは戦後復興する。1946年にポール・ベール、70年代にセルペット、近年では89年にマラシ、91年にドーフィンヌが相次いで出来、世界最大の広さを誇るのみの市となった。

大規模になったのみの市は現在では管理会社が統括する場合が 多い。80年代の栄華を経た後、21世紀になるとアメリカ人顧客が減り、金融危機のあおりを受け不況で店を閉める人もちらほら。そんな中、救世主となるのは最近増え始めた20代、30代の若いディーラーだ。インターネットなど時代の手段を駆使し営業力を発揮しつつも、やはり大先輩たちのような膨大な知識の生き字引になりたいと修行の日々を送っている。

 

フランスの年金制度、高齢者生活を知る

フランスの年金制度、高齢者生活を知る

老いはいやなものだ。読書には老眼鏡が必要、肉体は弾力性を失い、人間としての機能が衰弱する。孤独になる。好奇心が低下する。冒険ができない。病気の確率も上がる。しかし、フランスには「C'est dans les vieux pots qu'on fait la meilleure soupe.(最高のスープは古い鍋で作老夫婦られる)」ということわざがある。年代がたつにつれ、ワインの価値は上がる。そして、老年時代は多くの束縛から解放される時でもある。老いをいかに生きるか。生きるならば必ず訪れる老後の人生に役立つよう、フランスの年金の仕組みや高齢者生活の現状を探る。
(Texte: Kiyomasa Kawakita)

フランスの年金制度

フランスでは、現行60歳の法定退職年齢を2018年までに段階的に62歳へ引き上げることを柱とした年金制度改革関連法案が今秋に可決される見込みだ。背景には、平均寿命が延びているだけでなく、60歳を過ぎても元気な人が増えていること、そして社会保障制度を改革することで国家財政の赤字を削減することがある。

フランスの年金制度は、民間企業、農業、公的機関、自営業と業種により4つに分けられている。さらに、例えば民間対象の年金制度は、「一般制度」と呼ばれる公 的年金(RGSSなど)と、強制加入の企業年金「補足制度」(ARRCO、AGIRCなど)、企業独自の企業年金制度(任意加入)である「追加補足制度」と3階建ての構造。このようにフランスの年金制度は複雑で、職業ごとさまざまに組み合わせると、そのパターンは200以上に上る。

現段階では、フランスの年金は60歳の誕生日の翌月分から受給可能だ。65歳以前だと一部減額はあるが、1カ月でも早く受給をした方が有利。請求手続きは60歳の誕生日の6カ月前から可能である。

日仏社会保障協定

日本とフランスは2007年6月1日に日仏社会保障協定を結んだ。これは両国の社会保障制度の違いから生じる年金保険料の掛け捨て、二重払いを是正したものだ。日本では年金受給資格を得るには最低25年間の社会保 障への加入が条件。一方、フランスの場合は社会保障制度加入期間(通算)に応じて年金を算出、加入期間1四 半期(3カ月)から年金の受給資格が発生する。日本人でも正規に3カ月以上働くと資格を得る。協定以前は日本から派遣された人の場合、滞在条件の1つとして、日本の社会保障に加えフランスの社会保障制度への加入が 義務付けられていた。この二重加入の弊害をなくすために日本とフランスの年金加入期間の加算をできるようにして、日本での加入期間が25年未満でも、フランスでの加入期間を足して25年以上となれば、日本でも年金を受けられるようにしたのだ。

仏社会保障の免除申請には以下の証明書が必要
  1. 日本の年金・医療保険制度の加入書
  2. 日本での雇用契約が継続している証明書
  3. 派遣期間5年以内の証明書
  4. 海外派遣労働者災害補償保険の特別加入書
    または、プライベートの労災保険

日本の年金は日本年金機構へ、フランスの年金は Assurence Retraite に問い合わせるのが一番。日仏の年金はこの協定に準拠し、特に外国人移住者向けの年金サービスなどもない。

日本年金機構 www.nenkin.go.jp
Assurence Retraite www.lassuranceretraite.fr

年金受給者の暮らし

「人類は子孫を育てるために生命設計されてきた。かつては老いるという観念はゼロ。ところが現在、寿命は毎年3カ月延び続けている。4年で1年は寿命が延びている計算だ」(「ルポワン」誌より)。WHOの発表によると、世界の平均寿命は68歳(男性66歳、女性70歳)。日本は平均83歳(男性79歳、女性86歳)、フランス は平均81歳(男性78歳、女性85歳)。退職し年金生活に入る年齢を62歳としても、残り20年近くの“余生”があることになる。2020年のフランスの人口は75歳以上が10%以上、85歳以上は3%以上と予測されている。

フランスでの年金生活者の暮らし方は退職前の職種、出身社会層、年金の額によって大きく異なる。年金の平均受給額は月当たり約2000ユーロだが、大手企業の役員や有力政治家などは、裕福な年金生活(年間100万ユーロ単位)を送る人もいる。中産階級以上の人は庭付きの一戸建てを購入し、豊かに暮らす人が多い。旧植民地との経済貧富の格差を利用し、退職後に豪華な生活をする人もいて、中でも環境が良くフランスの3分の1の生活費で暮らせるというモロッコは人気だ。一方で、年金を支払わずに仕事をしてきた人や失業者など、生活ができるだけの年金を受給できない人たちもいる。

しかし、フランスには65歳以上の高齢者保護を目的にした最低年金保障制度(Minimum Vieillesse) があり、独身者は8,507.49ユーロ、夫婦の場合は13,765.73ユーロを年間で受け取ることができる。日本人でも10年の滞在許可証所持者やフランス国籍を持つ子供の親であれば受給資格がある。

高齢者用施設

環境に恵まれなかったり介護が必要だったりする高齢者は高齢者用の施設に入る。フランスはこれらの施設も多様だ。まず保健施設(Les établissements hospitaliers)と福祉施設(Les établissements sociaux)の2つに分けられる。保健施設は国の管理下にある長期 滞在施設を指し、看護や療養が必要な高齢者が対象。福祉施設は県の管轄だが、最近は医療部門の設備が整った所も増えており、医療福祉施設(Les établissements medico-sociaux)とも呼ばれる。福祉施設は高齢者ホーム(Maison de retraite)、高齢者用アパート(Foyerslogements)、要介護高齢者受け入れホーム(MAPAD)に分けられるが、主要形態は高齢者ホームと高齢者用アパートの2つだ。

高齢者ホームは公営集合型住居(HLM) に当たり、利用料はひと月平均200ユーロ前後。利用料は宿泊・食事・諸サービス込みで共通の空間と居室で構成され集団生活が重視されている。生活保護を受ける高齢者用の施設は10㎡前後で50~150ユーロ/月。高齢者用アパートは各部屋にキッチン、バストイレがある賃貸アパートで、夫婦で住む高齢者が多い。長期医療設備のあるケア施設は日本円にすると月額平均13万~33万円程度で、本人に支払い能力がない場合、不足分は家族負担が義務付けられている。この他、痴ほう症の高齢者のための小規 模ホームなどの施設がある。施設に長期入居する高齢 者のうち、フランスでは16%が医療設備のある施設に、84%が福祉部門の施設に入居している。病院よりも福祉施設の方が生活環境面で優れているというのが理由だ(「FMP Mutualite」2002年1-2月号)。

富裕層の高齢者向けマンションもある。一例を挙げると、「その豪華さはまるで高級ホテル並み。24時間体制での看護婦常駐、昼・夕食や洗濯・清掃サービス、講演会やコンサートの会場、図書室、銀行、訪問美容院などの施設が整っている」(日本ケアワーク研究所)。こうした高級高齢者用マンションの利用料は月当たり平均30万円前後という。

日本人高齢者の会

マロニエの会パリにはマロニエの会というものがある。同会の発起人で代表の上野氏(73歳)は髪も黒くはつらつとして年齢を感じさせない。

「1993年頃から、不況で日本企業が大幅に減り、パリでは400人位の日本人が職を失いました。30代で現地採用され10年程働いていた日本人が多く、この人たちの老後の生活は大丈夫なのだろうかと思ったのが設立の動機です」。設立は2000年。現在の会費会員は約100人。会員になるための条件はない。平均年齢は60歳代後半で、例会や懇談会など、年に40回の集まりを通じて住まいや年金、病気の問題などの情報交換や心の交流を行っている。おしゃべりをするだけで元気が出るという。直接の経済援助はできないが、介護の必要な人には人を紹介したり、帰国の手助けをしたり、葬式を出したこともあるそうだ。日本人向けの高齢者施設を作るために基金を積み立てている。ちなみに、パリ在住の60歳以上の日本人は約1500人、70歳以上は約800人(在仏日本大使館統計)である。

マロニエの会
19, rue de Chaillot 75016 Paris
TEL: 01 47 23 33 58(在仏日本人会内)

フランスにおける老後の暮らし方(2001年)
  • 75歳以上の87%、85 歳以上の73%が在宅生活者
  • 有料ホームステイの高齢者数は6000人
  • 75歳以上の高齢者9%、85 歳以上の高齢者19%が各種老人ホームに入居
  • 85歳以上の高齢者の3%は長期滞在型入院施設に入居(DRESS-Direction de Recherche et d'Etude en Sanitaire et Sociale)

大筋ではこの割合は現在も変わらないという


一般的な老後の活動
  • 自然と共に田舎暮らし
  • 庭や家庭野菜園の世話
  • 社会奉仕事業( ボランティア)活動
  • 合唱など高齢者向けクラブ活動

カプセル年金受給者に話を聞く

ルグリュ夫妻ルグリュ夫妻は南仏の田舎ぺリゴールで年金生活を送る。快適な気候の下、広い庭には草木が豊かに茂る。老後をどうとらえているのか聞いた。

「57歳の時、妻の両親が重い病にかかり、高校教師の仕事を辞め、パリから引っ越ししました。先のことなど考えられませんでしたね。その後、当時300ユーロの月給で市長を引き受け、忙しく過ごしました。老後で大事なのは役に立てる役割があること、人生の意味があること、存在しているという実感があることです。趣味は読書。プルーストの『失われた時を求めて』全巻の2カ月読破に挑戦中です」。朝市で新鮮な食材を買い、家庭料理が抜群にうまく、食器や家具もよく選ばれ手抜きがない。まさにフランス語で言う「Art de vivre(生きる芸術)」 そのものの生活だ。

一方、奥さんはこう言う。「少女の頃から芸術に情熱を抱いていました。教員になったのも、そのための時間を取れると親に勧められたから。だから退職前も今も生き方 が変わったという気持ちはありません」。南仏ではピアノや絵描き、フラワーアートで 時を過ごし、パリのアパートに来ては芸術家との交流や芸術鑑賞を楽しむ。夫婦共に80歳に手が届く年齢である。

 

知って安心フランス薬局事情 - フランスの薬局に行こう!

知って安心フランス薬局事情 フランスの薬局に行こう!

Pharmacien一般用医薬品(市販薬)でさえ自由に手に取って選ぶことのできないフランスの薬局。慣れないと不便に感じるかもしれないが、健康保険の還付を受けられたり健康相談ができたりするなど、便利な一面もある。フランスの薬局事情を知り、上手に利用する方法を紹介する。

(Texte et photo: Ayumi Le Hoang)

協力:原美和子(日本で薬科大学卒業後、製薬会社、薬局勤務を経て渡仏。パリ大学薬学部修士課程)、アメリカンホスピタル日本人セクション

医薬分業が徹底しているフランス

ヨーロッパにおける医薬分業の歴史は中世にまでさかのぼる。陰謀に加担する医師によって王などの権力者が毒殺されることを防ぐため、診察するあるいは死亡診断書を書く「医師」と、薬を厳重に管理する「薬剤師」を分けたことが原点だ。フランスでも医薬分業の制度は中世の時代に取り入れられ、現在まで徹底して行われている。

フランスでは2002年から医師が商品名ではなく成分名で処方せんを書いてもよいことになり、同じ成分の商品の中から薬剤師が選んだ薬を患者に渡すことができるようになった。医師が指示した場合を除き、フランスの薬剤師は医師に許可を取ることなく医師の処方した薬を後発(ジェネリック)医薬品に替える権利も有している。

ギリシャ神話に登場する健康の維持や衛生を司る女神ヒュギエイアが携えている蛇と杯をモチーフにした「ヒュギエイアの杯」マークのバッジ。薬剤師の資格を持っていることを示す

ヒュギエイアの杯のバッジ

市販薬でも対面販売が一般的

市販薬
カウンター越しに陳列される市販薬

フランスの薬局に行きまず驚くのが、薬を自分で手に取って見ることができない対面式販売が一般的であること。鎮痛剤や胃腸薬でさえ、薬剤師に頼まないと箱を手に取ることができない薬局が多い。2008年7月の法改正により、処方せん不要の市販薬のうち政府が定めた一部の薬品は消費者が自由に手に取ってパッケージを見ることができるようになったものの、この販売方法はまだ浸透しているとはいえず、従来通りカウンター越しの薬剤師に出してもらう薬局が多いのが現状だ。

箱単位での販売

添付文書
箱入りの薬に入っている添付文書。分かりやすいフランス語で詳しく書かれている

例えば1日3包3日分の薬が処方された場合、日本であれば9包を渡されるのに対し、フランスでは15包入りの1箱が渡される。フランスの薬局では、処方薬でも箱単位での販売となるからだ。結果的に医師が書いた処方せんよりも多めの薬を渡されることもしばしば。

このように、箱単位での販売が常であるフランスでは購入した医薬品を余らせてしまうことが多い。そこで1990年代には、使用期限切れの薬や個別包装になっている不要な薬を薬局で回収し、貧しい国に寄付していたこともあった。しかし、未開封の薬をそのまま販売する薬局が出現し、さらにこの行為自体が違法と見なされ2008年に活動は終止した。医薬品を通常のゴミと一緒に処分すると有害物質が発生する可能性があるため、現在では使用期限の過ぎた薬や余った薬は薬局で回収し、環境に影響を与えない方法で処分されることが義務付けられている。

夜間・休日の割り増し料金

多くの店がシャッターを閉めるフランスの日曜日だが、フランスにはPharmacie de garde と呼ばれる当番制の夜間・休日薬局開店義務があり、各町や地区で最低1軒の薬局が夜間や休日も営業する。緊急当番薬局は、夜間・休日時間帯に薬を販売する場合、処方せん1枚につき4ユーロから6ユーロの割増料金を請求する権利を持ち、店によっては処方せんなしの薬にも割増料金を課すことがある。普段から休日も営業している薬局にはこの権利はなく、特に都市部では徴収しない薬局も多い一方、地方や個人経営の比較的小さな薬局では徴収することが多いようだ。※ 夜間・休日営業薬局コールセンター:3915(0.15€ TTC / min)

カプセル数字でみるフランスの薬局

35軒フランス国内在住10万人に対する薬局数。2008年の調査によればフランス全土にある薬局の数は 22,514軒で、2,856人につき薬局1軒の割合。ちなみに日本では、10万人対の薬局数は41.7軒で、2,395人につき薬局1軒。

  日本 フランス
人口 1億2769万人 6430万人
薬局 53,304軒 22,514軒

出典:厚生労働省、Ministère de la Santé et des Solidarités

5分フランス薬剤師会(Ordre des pharmaciens) が2009年に行ったアンケートによれば、自宅から最寄りの薬局へのアクセスに掛かる時間は5分。日本の約1.8倍の国土を考えると驚異的な数字ではあるが、薬局のカウンター越しでないと薬品を購入できないことが多いフランスの医薬品販売システムは、過疎地に暮らす人にも便利な医薬品のインターネット販売開始に大きな壁となっている。

30億箱薬フランスで2009年に販売された薬の箱数。1人 当たり1年間で47箱の薬を購入している計算。このうち処方せんなしで購入可能な市販薬の販売数は2億箱で、1人当たりの年間消費量は3.1箱。
出典:Ordre des pharmaciens

フランスの薬局を便利に使おう!

薬局コスメを使ってみよう

日本ではスキンケア=化粧品と捉えられることが 多いのに対し、フランスではスキンケア=医薬品と捉えられることが多い。フランスにはデルモ化粧品(Dermo-Cosmetique)と呼ばれる皮膚科医や薬剤師が 研究・開発したスキンケア製品があり、肌のトラブルを持つ人は、まず皮膚科医の診断を受け、処方せんをもらって化粧品を購入するか、薬剤師のアドバイスを受けながら購入するスタイルが定着している。スキンケアは楽しむための化粧品というより、肌トラブルの解消や乾燥や敏感肌対策のために使う医薬品、という認識が強いようだ。フランスの薬局にたくさんのスキンケア製品が並ぶのはこのような理由がある。

スキンケア商品
医師に処方されたスキンケア製品を求めに薬局に来る人も少なくない

乾燥した気候のフランスで日本にいる時と同じスキンケアをしていると、肌が乾燥し、乾燥性湿しんを患ってしまうこともあるという。フランスの気候に合わせ て開発され、安全で有効な効果が期待できるものが多 いデルモ化粧品を上手に利用することが望まれる。フランスに来てから肌のトラブルに悩むようになった人は、例えばシャンプーやせっけん、ボディークリーム は保湿性の高い製品を使い、こまめな保湿を心掛けるなど皮膚の乾燥を防ぐよう心掛けが必要だ。

処方せんを書いてもらおう

日本で使っていた薬がある場合、まず英語やフラン ス語での医薬品名を用意しよう。その際、商品名ではなく薬品名を調べておくとスムーズだ。どのような症状のためにその薬を服用しているのか、薬品の含有量、妊娠している場合はその旨もメモすることを忘れずに。処方せんが必要な薬の場合は、このメモを見せ、医師にフランス語の処方せんを作ってもらおう。これまで の服用期間や、どんな症状で服用しているかなど基本的な質問と診察で通常は処方せんを書いてもらうことができる。

処方せん
処方せんは2枚つづりが通常

アレルギーなどの慢性疾患で薬を服用している場合、最長で1年間有効の処方せんを書いてもらうこともできる。薬局では一度に数カ月分の医薬品をまとめて渡すことができないが、処方せんの有効期間内なら同じ 薬を保険適応価格で購入することができる。ただし、医師が処方せんを発行した日から3カ月以内に一度も薬を購入しない場合、処方せんは効力を失うので注意。

健康保険を利用しよう

薬の種類にもよるが、医師の処方せんによって処方される薬は、健康保険(Assurance Maladie)が適応されるものが多く、任意の医療保険、ミュチュエル(Mutuelle)に加入している場合は患者の負担なしで購入できる薬も少なくない。政府の定めるいくつかの例外品を除き、医師の処方せんがあれば健康保険が適応 される。処方せんを書いてもらう際、医師に保険の適 応可否を教えてもらうことも可能だ。医師の診察を受けるのは手間が掛かるが、処方せんを書いてもらうことで自己負担額が少なくなるのはありがたい。

フランス健康保険サイト: www.ameli.fr

バーコード
バーコードの色は、健康保険で賄われる率を示す。白は65%、青は35%、オレンジは15%、また×印が付いているものは100%の代金が健康保険でカバーされる

健康保険料の払い戻し方法

健康保険証(Carte Vitale)のICチップ付きカードを持っている場合、薬局で支払いの際にCarte Vitale を出せば、健康保険の還付額が差し引かれた料金で購入できる。Carte Vitale を持っていない場合は、一度自己負担で全額支払い、薬局で払い戻し請求用紙(Feuille de Soin)をもらおう。

薬局の名前と住所の入ったスタンプが請求用紙と処方せんに押してあることを確認し、薬の箱、バーコードシールの「vignette」と書かれてある部分をはがし請求用紙に貼る。氏名や住所などの必要事項を記入し、管轄の疾病保健初等金庫(CPAM:Caisse primaire d'assurance maladie)に送付、または直接持って行く。

フランスの薬剤師が選んだジェネリック薬品を患者が拒否し、先発医薬品を要求する場合、薬局によっては患者が一度全額を支払わなければならないことがある他、健康保険の還付額も低くなる。

Carte Vitale を持っていない場合は払い戻し請求用紙を記入の後CPAM に送付すると後日銀行口座に払戻金額が振り込まれる

Carte Vitale

かかりつけ薬局をつくろう

英語で対応してもらえる薬局や、自宅や職場に一番近い薬局、説明が丁寧など、利用しやすいかかりつけの薬局をつくっておくといざというときに安心だ。健康相談や薬の質問なども気軽にでき、家族構成やライフスタイルを薬剤師が把握することで処方せん不要の薬を購入する際はより体質に合った薬を提示してもら える可能性も高くなる。また、各地域や地区で営業している薬局は、その地域の医師や医療機関も熟知しているため、緊急時に対応してくれる医師、評判の良い医師や小児科、ホメオパシー治療をしてくれるなどの情報も教えてもらうこともできる。薬局で教えてくれる地域密着型“口コミ”情報は、情報化の進む現代でも容易に得られるものではなく、大きな価値がある。

常備薬を買おう

医師の処方せんがなくても購入可能な市販薬は簡単に使用することができるが、アレルギーや服用中の薬がある人、妊娠・授乳中の人、また2~3日使用しても症状に改善がみられない場合は薬剤師や医師に相談 しよう。市販薬とはいえ、慢性的に服用すると肝臓や 腎臓に支障をきたす恐れがあるので、長期間の服用は 控えること。またフランスの錠剤などは日本のものと 比べて大きいことが多いが、自己判断で規定の量を増減して服用せず、規定の服用量を厳守するか、不安な場合は薬剤師に相談しよう。

フランスでは大きい錠剤が多い。
1ユーロ硬貨と比較しても明らか

常備薬

あると便利!フランスの常備薬

鎮痛・解熱剤(Analgésique)
Doliprane……アセトアミノフェン配合の鎮痛解熱剤
Nurofen……イブプロフェン配合の鎮痛解熱薬

風邪薬・総合感冒薬
(Traitement au cours des rhumes)

Fervex……ぬるま湯で溶かして飲む風邪薬。子供用、大人用がある

下痢止め・整腸剤
(Traitement symptomatique d'appoint de la diarrhée)

Ultra Levure……自然由来の成分を配合した整腸剤

せき止め(Traitement symptomatique des toux)
Toplexil……大人、子供兼用のシロップ

胃腸薬(Traitement contre maux aux ventres)
Maalox……消化不良、胃痛、腹部の張りなど症状に合わせて3タイプある

消毒液(Solution antiseptique)
Diaseptyl……傷口などの消毒に使用

パリ市内年中無休営業の薬局

Pharmacie Les Champs
84, av des Champs Elysées 75008 Paris 【地図】
TEL: 01 45 62 02 41
M: George V①

Pharmacie européenne
6, pl de Clichy 75009 Paris‎ 【地図】
TEL: 01 48 74 65 18‎
M: Place de Clichy②⑬


 

戦後、オペラ日本人街形成の軌跡

戦後、オペラ日本人街形成の軌跡

オペラ座の近くに位置する通称「日本人街」は、在仏邦人にとってなくてはならない憩いの地。しかしなぜパリの中心であるこの場所に日本人街ができたのか。第二次世界大戦後、海を渡りパリの日本人社会を形成してきた先輩方の意見をもとに、パリの日本人社会の歴史をたどる。

(取材・執筆:沖島景、協力:芦部巧、芦部勲、岡本宏嗣、上野真紀子、高萩悦子、秋山勇志、管佳夫、在仏日本人会、パリ三越)

1950年代

戦後のパリの日本人

1958年にパリのパンテオンの近くに日本料理店たからを開いた芦部巧は、当時の様子をこう語る。「パリ市民にとって日本は遠い世界。日本がどこにあるのかさえ知らない人が多い時代です。もちろん日本人街なんて存在しませんでした」。

中国人経営の商店でしょうゆなどは購入できたが、それ以外のものは手に入らない。「豆腐は買えても硬くてとても日本料理には使えない。自分で大豆を購入して、薬局でにがりの代用品を探し、自家製豆腐やみそを作りました」。日本酒が売っていると聞き、チューリッヒまでスクーターで買いにいったこともあったという。 「税関が厳しく、大量に酒を運べないので、毎日違う税関を通って少しずつ運んだものです」。

ちょうどこの頃、日本人会が設立された。現在のようにインターネットもなく、情報も乏しい時代。日本人会によって結ばれるネットワー クの重要性は言うまでもない。日本人会前事務局長の岡本宏嗣によると、当時パリにいた日本人は500名程。内訳は大使館関係者、大手商社の駐在員、ジャーナリスト、アーティスト、そして研究者であったという。

*芦部氏は2005年にたからを手放し、現在は別の経営者が経営している。

日本料理店たから
戦後欧州初の日本料理店たから

店のカウンターで
店のカウンターでそろばんをはじく芦辺巧氏

1960年代

海外渡航者の増加

60年代に入ると、たからはオペラ大通り近くのモリエール通りに引っ越す。当時のオペラ地区にあったのは東京銀行(現、三菱東京 UFJ銀行)のみ。そもそも、日本では観光を目的とする海外渡航が戦時中から戦後にかけて禁止されていた。しかし64年4月から「1人年1回、金額は500ドル以内」という制限付きで観光目的でも海外渡航が可能になる。その後も依然として業務で渡航する者が多かったが、69年に観光目的での渡航数が全体の52%になり、初めて業務目的の者を上回った。世界的に見ても64年には海外旅行をする者が1億人を超え、パリにも観光客が増え始める。こうして、パリを代表する建物の1つであるオペラ座、そしてここからルーブル美術館へ行く道であるオペラ大通りに、観光客目当ての免税店が多数並び始めた。

1960年頃のオペラ座
1960年頃のオペラ座

日本航空、北回り欧州線
1961年、日本航空は北回り欧州線の自社便運航を開始した

1970年代

海外旅行ブームとパリ三越開店

1971年、免税店が立ち並ぶオペラ大通りに、三越が日本の百貨店としては初めて海外に進出する。以後、日本人が勤務し日本語でフランスの商品を購入できるパリ三越は、日本人観光客が必ず立ち寄る店として重要な役割を果たす存在になった。70年代から同店に勤める上野真紀子はこう振り返る。

「当時は日本円の価値がまだ低く、両替レートの一番良いのが東京銀行でした。日本からの送金も東京銀行で受け取れたので、パリに来てまず訪れるのが東京銀行、その帰りに三越に寄り、その後ちょっと日本食でも食べて帰る、というコースがお決まりでした。こうして日本料理屋が増えていったような気がします」

しかしサンタンヌ通りは、「『オカマ通り』と呼ばれていて、とても私たちが近づけるような雰囲気ではなかった」という。「当時、日本での百貨店の存在は、高級な商品を置き裕福な層が買い物に来る場所でしたが、フランスではむしろ一般的な市民が買い物をするお店というイメージ。裕福な人たちはお気に入りのブティックで買い物をするのが常でした」。パリ三越の周辺、免税店の立ち並ぶオペラ大通りから少し路地に入ると、フランス人向けの高級ブティックが立ち並んでいたという。

70年代に入ると、日本人の海外旅行者数は 年々飛躍的に増加し、一般市民にも海外旅行が 夢ではなくなる時代がやってきた。長年パリで航空関係の仕事に従事していた管佳夫はこの理由を説明する。「70年代、ジャンボジェット機が登場し、ツアー料金が格段に安くなったの です。また円の切り上げにより海外旅行費が低下したことも理由の1つです」。

実は、60年代の旅行は一部の裕福層に限られたものであった。大卒の初任給が2万5000円程度であった68年当時の旅行料金を参照してみると、「お正月ヨーロッパ17日間の旅」がなんと55万8000円。観光旅行が増えたとはいえ、一般市民にはとても支払えないような金額だったのだ。

こうして、72年には海外旅行者数が前年比45%増の139万2000人にも及んだ。74年には石油危機の影響、それによる物価上昇で消費節約の傾向が見られたが、76年以降は再び2ケタ台の伸び率を見せ、79年には日本人海外旅行者数が400万人台を達成する。前出の上野は、この頃の繁栄ぶりをこう語る。

「買い方が今では考えられないような派手なものでした。当時は海外旅行に行くとなると、お餞別をもらう時代。そのため、お土産にと、 口紅やネクタイを30本から50本、高価な貴金属でさえも、ガラスケースの内部を指差して 『ここからここまで頂戴』というような買い方をする方がほとんどでした」

パリ三越
1971年、オペラ大通りに開店したパリ三越

1980年代

日本経済の成長とオペラ日本人街の形成

80年代になると、フランスの電気店に日本製の電気製品が並ぶようになる。当時の日本製電気製品の人気ぶりを、前出の岡本はこう振り返る。「年末に日本人会のバザーが行われ、日本製の製品が多数出品されます。高級な日本の製品が安く買えるということで、午前10時開始のバザーに、早朝5時頃からフランス人が列をなしていました。警察がなんの騒ぎだ、と見に来たこともあります。結局その警察も商品を買っていきましたけどね」。

80年代後半のバブル経済期には、欧州連合(EU)になる前にフランスへ進出しようという意図も手伝い、日系企業の進出ラッシュが始まる。本格的に海外旅行が大衆化したのもこの頃だ。またアメリカから始まった健康食ブームがフランスに来たこともあり、オペラ地区に日本料理の店が増え始め、駐在員や日本人観光客、そしてフランス人が日本食を食べに来るようになる。日本人街が今のような姿を見せ始めたのは、この頃だ。

1990年代〜

駐在員の減少と フランスにおける日本ブーム

日本経済が傾き始める90年代。しかし、日本人会の法人登録数は93年にピークを記録し、パリ三越の売上も95年に最高に達していることからも分かるように、90年代前半はまだ80年代の華やかさを引きずっていた。90年代後半になると少しずつ日系企業が事務所をたたみ始め、日本からの出張者も減少する。たから創業者芦部の息子で、現在日本料理店ほたるを営む芦部勲は、当時の移り変わりをこう語る。「バブルの頃は、会社のお金で豪勢に食事をされていました。90年代後半からは、それまで6、7人で食べに来ていた出張者の数が、2、3人に減少する変化が見られ始めました」。

95年には親日派で知られるジャック・シラクが大統領に就任し、文化面での日仏交流が盛んになり、サブカルチャーの面でも新しいブームが始まる。2000年に始まったJAPAN EXPOが象徴するように、若い世代を中心に 漫画に人気が集まる。実はこの世代は日本のアニメを見ながら育った世代。「Goldorak」の名前で親しまれたアニメ「UFOロボグレンダイザー」は常に高視聴率を保ち、79年には雑誌「Paris Match」の表紙を飾っているほどだ。この世代が成長し、フランス人が自ら漫 画を自由に楽しむようになったのが、ちょうど90年代中頃。幼い頃に漫画を通して自然と 日本文化を吸収していたこの世代が、はしを自在に扱い、日本食やお茶などに親しみを持ち、日本人街を訪れるようになるのも、自然な流れだ。この傾向は2000年に入るとより強くなり、ここ5年程で日本人街には急激に日本料理関連の店が増えた。JAPAN EXPOの入場者は10年間で50倍以上にもなった。彼らは漫画の中の主人公と同じ格好をし、同じような生活スタイルに憧れ、パリの中の日本であるオペラ地区日本人街で夢の世界に浸る。

また、日本食の持つヘルシーでバランスの良いイメージがフランス人にも受け入れられ始めたのも、日本食がここまでメジャーになった理由に挙げられる。JAPAN EXPOを訪れる“日本オタク”の増加や健康食ブームと共に、日本食材店はもはや在仏邦人のためだけではなくなった。JETROの食品産業国際化可能性 調査によると、2000年から2008年までの日本からフランスへの食料品の輸出額は、在仏邦人の増加率以上に伸びており、フランス国民による日本食品の市場拡大を示している。

戦後間もない50年代には日本の位置さえも 知らなかったパリで、寿司や漫画という新しいツールでコミュニケーションが取れるようになった。在仏邦人も今や約3万人にも上る。時代の移り変わりと共に「日本人のための日本人街」からフランス人も異国情緒を楽しむことのできる「パリの日本人街」へとその役割も変化を遂げた。(文中敬称略)

Japan Expo 2010
2010年7月に開催されたJAPAN EXPOの入場者数は18万人を記録した

現在のサンタンヌ通り
日本人街の中心、現在のサンタンヌ通り

グラフ

 
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