
オペラ座の近くに位置する通称「日本人街」は、在仏邦人にとってなくてはならない憩いの地。しかしなぜパリの中心であるこの場所に日本人街ができたのか。第二次世界大戦後、海を渡りパリの日本人社会を形成してきた先輩方の意見をもとに、パリの日本人社会の歴史をたどる。
(取材・執筆:沖島景、協力:芦部巧、芦部勲、岡本宏嗣、上野真紀子、高萩悦子、秋山勇志、管佳夫、在仏日本人会、パリ三越)
1950年代
戦後のパリの日本人
1958年にパリのパンテオンの近くに日本料理店たからを開いた芦部巧は、当時の様子をこう語る。「パリ市民にとって日本は遠い世界。日本がどこにあるのかさえ知らない人が多い時代です。もちろん日本人街なんて存在しませんでした」。
中国人経営の商店でしょうゆなどは購入できたが、それ以外のものは手に入らない。「豆腐は買えても硬くてとても日本料理には使えない。自分で大豆を購入して、薬局でにがりの代用品を探し、自家製豆腐やみそを作りました」。日本酒が売っていると聞き、チューリッヒまでスクーターで買いにいったこともあったという。 「税関が厳しく、大量に酒を運べないので、毎日違う税関を通って少しずつ運んだものです」。
ちょうどこの頃、日本人会が設立された。現在のようにインターネットもなく、情報も乏しい時代。日本人会によって結ばれるネットワー クの重要性は言うまでもない。日本人会前事務局長の岡本宏嗣によると、当時パリにいた日本人は500名程。内訳は大使館関係者、大手商社の駐在員、ジャーナリスト、アーティスト、そして研究者であったという。
*芦部氏は2005年にたからを手放し、現在は別の経営者が経営している。

戦後欧州初の日本料理店たから

店のカウンターでそろばんをはじく芦辺巧氏
1960年代
海外渡航者の増加
60年代に入ると、たからはオペラ大通り近くのモリエール通りに引っ越す。当時のオペラ地区にあったのは東京銀行(現、三菱東京 UFJ銀行)のみ。そもそも、日本では観光を目的とする海外渡航が戦時中から戦後にかけて禁止されていた。しかし64年4月から「1人年1回、金額は500ドル以内」という制限付きで観光目的でも海外渡航が可能になる。その後も依然として業務で渡航する者が多かったが、69年に観光目的での渡航数が全体の52%になり、初めて業務目的の者を上回った。世界的に見ても64年には海外旅行をする者が1億人を超え、パリにも観光客が増え始める。こうして、パリを代表する建物の1つであるオペラ座、そしてここからルーブル美術館へ行く道であるオペラ大通りに、観光客目当ての免税店が多数並び始めた。

1960年頃のオペラ座

1961年、日本航空は北回り欧州線の自社便運航を開始した
1970年代
海外旅行ブームとパリ三越開店
1971年、免税店が立ち並ぶオペラ大通りに、三越が日本の百貨店としては初めて海外に進出する。以後、日本人が勤務し日本語でフランスの商品を購入できるパリ三越は、日本人観光客が必ず立ち寄る店として重要な役割を果たす存在になった。70年代から同店に勤める上野真紀子はこう振り返る。
「当時は日本円の価値がまだ低く、両替レートの一番良いのが東京銀行でした。日本からの送金も東京銀行で受け取れたので、パリに来てまず訪れるのが東京銀行、その帰りに三越に寄り、その後ちょっと日本食でも食べて帰る、というコースがお決まりでした。こうして日本料理屋が増えていったような気がします」
しかしサンタンヌ通りは、「『オカマ通り』と呼ばれていて、とても私たちが近づけるような雰囲気ではなかった」という。「当時、日本での百貨店の存在は、高級な商品を置き裕福な層が買い物に来る場所でしたが、フランスではむしろ一般的な市民が買い物をするお店というイメージ。裕福な人たちはお気に入りのブティックで買い物をするのが常でした」。パリ三越の周辺、免税店の立ち並ぶオペラ大通りから少し路地に入ると、フランス人向けの高級ブティックが立ち並んでいたという。
70年代に入ると、日本人の海外旅行者数は 年々飛躍的に増加し、一般市民にも海外旅行が 夢ではなくなる時代がやってきた。長年パリで航空関係の仕事に従事していた管佳夫はこの理由を説明する。「70年代、ジャンボジェット機が登場し、ツアー料金が格段に安くなったの です。また円の切り上げにより海外旅行費が低下したことも理由の1つです」。
実は、60年代の旅行は一部の裕福層に限られたものであった。大卒の初任給が2万5000円程度であった68年当時の旅行料金を参照してみると、「お正月ヨーロッパ17日間の旅」がなんと55万8000円。観光旅行が増えたとはいえ、一般市民にはとても支払えないような金額だったのだ。
こうして、72年には海外旅行者数が前年比45%増の139万2000人にも及んだ。74年には石油危機の影響、それによる物価上昇で消費節約の傾向が見られたが、76年以降は再び2ケタ台の伸び率を見せ、79年には日本人海外旅行者数が400万人台を達成する。前出の上野は、この頃の繁栄ぶりをこう語る。
「買い方が今では考えられないような派手なものでした。当時は海外旅行に行くとなると、お餞別をもらう時代。そのため、お土産にと、 口紅やネクタイを30本から50本、高価な貴金属でさえも、ガラスケースの内部を指差して 『ここからここまで頂戴』というような買い方をする方がほとんどでした」

1971年、オペラ大通りに開店したパリ三越
1980年代
日本経済の成長とオペラ日本人街の形成
80年代になると、フランスの電気店に日本製の電気製品が並ぶようになる。当時の日本製電気製品の人気ぶりを、前出の岡本はこう振り返る。「年末に日本人会のバザーが行われ、日本製の製品が多数出品されます。高級な日本の製品が安く買えるということで、午前10時開始のバザーに、早朝5時頃からフランス人が列をなしていました。警察がなんの騒ぎだ、と見に来たこともあります。結局その警察も商品を買っていきましたけどね」。
80年代後半のバブル経済期には、欧州連合(EU)になる前にフランスへ進出しようという意図も手伝い、日系企業の進出ラッシュが始まる。本格的に海外旅行が大衆化したのもこの頃だ。またアメリカから始まった健康食ブームがフランスに来たこともあり、オペラ地区に日本料理の店が増え始め、駐在員や日本人観光客、そしてフランス人が日本食を食べに来るようになる。日本人街が今のような姿を見せ始めたのは、この頃だ。
1990年代〜
駐在員の減少と フランスにおける日本ブーム
日本経済が傾き始める90年代。しかし、日本人会の法人登録数は93年にピークを記録し、パリ三越の売上も95年に最高に達していることからも分かるように、90年代前半はまだ80年代の華やかさを引きずっていた。90年代後半になると少しずつ日系企業が事務所をたたみ始め、日本からの出張者も減少する。たから創業者芦部の息子で、現在日本料理店ほたるを営む芦部勲は、当時の移り変わりをこう語る。「バブルの頃は、会社のお金で豪勢に食事をされていました。90年代後半からは、それまで6、7人で食べに来ていた出張者の数が、2、3人に減少する変化が見られ始めました」。
95年には親日派で知られるジャック・シラクが大統領に就任し、文化面での日仏交流が盛んになり、サブカルチャーの面でも新しいブームが始まる。2000年に始まったJAPAN EXPOが象徴するように、若い世代を中心に 漫画に人気が集まる。実はこの世代は日本のアニメを見ながら育った世代。「Goldorak」の名前で親しまれたアニメ「UFOロボグレンダイザー」は常に高視聴率を保ち、79年には雑誌「Paris Match」の表紙を飾っているほどだ。この世代が成長し、フランス人が自ら漫 画を自由に楽しむようになったのが、ちょうど90年代中頃。幼い頃に漫画を通して自然と 日本文化を吸収していたこの世代が、はしを自在に扱い、日本食やお茶などに親しみを持ち、日本人街を訪れるようになるのも、自然な流れだ。この傾向は2000年に入るとより強くなり、ここ5年程で日本人街には急激に日本料理関連の店が増えた。JAPAN EXPOの入場者は10年間で50倍以上にもなった。彼らは漫画の中の主人公と同じ格好をし、同じような生活スタイルに憧れ、パリの中の日本であるオペラ地区日本人街で夢の世界に浸る。
また、日本食の持つヘルシーでバランスの良いイメージがフランス人にも受け入れられ始めたのも、日本食がここまでメジャーになった理由に挙げられる。JAPAN EXPOを訪れる“日本オタク”の増加や健康食ブームと共に、日本食材店はもはや在仏邦人のためだけではなくなった。JETROの食品産業国際化可能性 調査によると、2000年から2008年までの日本からフランスへの食料品の輸出額は、在仏邦人の増加率以上に伸びており、フランス国民による日本食品の市場拡大を示している。
戦後間もない50年代には日本の位置さえも 知らなかったパリで、寿司や漫画という新しいツールでコミュニケーションが取れるようになった。在仏邦人も今や約3万人にも上る。時代の移り変わりと共に「日本人のための日本人街」からフランス人も異国情緒を楽しむことのできる「パリの日本人街」へとその役割も変化を遂げた。(文中敬称略)

2010年7月に開催されたJAPAN EXPOの入場者数は18万人を記録した

日本人街の中心、現在のサンタンヌ通り

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