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英仏バイリンガル幼稚園・小学校
jeu 27 juillet 2017

1年後の東日本大震災被災地にて かけがえのない日常を取り戻すために

あれから1年。
海外に暮らす多くの日本人にとって、
「何の役にも立てない」無力感と向き合う1年でもあった。
原発から20kmの警戒区域内にとどまり、命懸けで牛を守る畜産農家、
被災地に笑顔を届け続ける覚悟をした応援隊長、
パリから福島の子供の心を抱き締めに行ったアーティスト。
彼ら3人がその目で見た今の被災地と、これからについて語ってくれた。
何も終わっていない。「自分にできること」は誰にもきっとある。

(Texte:Miwa ARAI)

希望の牧場 ~ふくしま~プロジェクト
動物も人と同じ命。殺すのではなく
生かしておくことは本当にできないのか。

ベコ(牛)屋として、300頭の牛と運命をともにするエム牧場
浪江農場長 吉沢正巳さん

「(原発爆発後)避難が始まっていることを知ったのは、カーナビのTVだった。ドーンと重く響く爆発音を2度聞いた。自宅から双眼鏡を通して白い噴煙もこの目で見た」。 それでも畜産農家の吉沢さんは牧場に通い続ける。「私は牛を置いて逃げることはできなかった。3月は牧草がまだ生えない寒い冬。放置すると牛が餓死する。警戒区域に立ち入り餌運びをする合間に、近所の農家の惨状を目撃していた私たちは、牛たちの命を助け餓死させない決意を固めた」

けがをした子牛の面倒をみる吉沢さん
けがをした子牛の面倒をみる吉沢さん。
2012年2月時点でも牧場の空間線量は約6μSv/hある。
「私が線量のことを気にしていてはこの活動は続けられません」

福島第一原発事故後、原発から20km以内の住民は、ほんの少しの荷物を手に、慌てて家を後にした。数日後には帰宅するつもりで、ペット(登録犬約5800匹、猫は不明)には数日分の餌を置いてくるのが精いっぱいだった。地域の酪農・畜産・養豚、養鶏農家(牛約3500頭、豚約3万頭、鶏約44万羽)の家畜の避難手配もされなかった。数日のはずが、住民に初めての一時帰宅が許可されたのは約2カ月後。動物たちは、無人の街に置き去りにされた。そうして、警戒区域では多くの犬や猫が、家畜が、鎖につながれたまま、家に閉じ込められたまま、戻ることのない飼い主を待ちながら餓死していった。飼育舎につながれていた鶏も豚も牛も飢え、渇き、仲間のうじ虫のわく死体に囲まれながら生き、そして徐々に息絶えていった。

一時帰宅時に、変わり果てた愛犬・愛猫の姿を目にした避難住民の悲しみはどんなだったろう。畜産農家にとっても、食肉処理場へ家畜を送り出すことと、苦しみながら飢え死にさせるのでは、全く意味が違う。動物の命を生活の糧にしていることを常に感謝しながら育て、敬意を込めて出荷している彼らには、スーパーでパックされた食用肉しか見たことのない私たちにはうかがい知れない、家畜と呼ばれる生き物の“命”への尊敬の念がある。元酪農家だった南相馬市の桜井市長は訴えた。「家畜は、一頭一頭が自分の家族だ。私たちは、彼らから命をもらっている。牛の苦しみは自分の苦しみだ」。餓死を避けるために安楽死処分を選択したある酪農家は、「注射を打たれた牛は、今まで聞いたこともないような悲鳴を上げて、苦しみながら死んでいくんだ。安楽なんかじゃない、私には、殺せない」と慟哭(どうこく)した。一時帰宅時に飼っていた牛たちを処分した後、自殺した酪農家もいた。

「人命があれだけ失われた時に動物のことを声高には主張できなかった。仕方がなかった」。そう言い聞かせながらも、時間がたつとともに、多くの農家やペットの飼い主たちが、家族同様に暮らしてきた動物を見殺しにしたという思いに苦しみ、自らを責め、押しつぶされそうになっている。

そうした人々の苦しみと悲しみに覆われた無人の警戒区域に、希望のともしびを、と立ち上がった人がいる。吉沢正巳さん、第一原発から14km地点にあるエム牧場経営の浪江農場の場長だ。水素爆発をその目で見たという吉沢さんは、牧場の牛の商品価値が瞬時にして無くなったことをすぐに理解した。もう畜産家としての人生は終わりとさえ覚悟した。しかし、それと牛の命とは別のこと、と避難指示の数日後には牧場に戻り、放射能を浴びながらも、牛を生かし続けるために餌を運び入れた。「農家も牛も何も悪いことはしていない。なぜ、殺さなくてはいけないのか」。餌をやりに牧場へ通い続け、牛の生き残る道を必死で探し、そして『希望の牧場』プロジェクトを立ち上げた。牛たちは放射能被害の貴重な生き証人なのだ。今後の健康状態の変化をデータ化し、除染の研究をし、大学や研究所にその成果を提供する。事故の教訓を同地域の復興に活かすためにも、牛を生かしておく意味がある、と国に訴えている。また、無人化し、それまでの人々の営みがすべて消えたかに見える警戒区域に、命の灯をともし続けることは、いつかは故郷へ戻りたいと願う、警戒区域すべての住民の希望にもつながるはずだ、と。その意味を込めて、『希望の牧場』プロジェクトと命名した。

2012年2月現在、牧場には約300頭の牛がいる。震災後に生まれた子牛も多く、むしろ震災前より数は増えている。出荷、収入がゼロとなった現在、牛の飼育費はプロジェクトメンバー(全6人)個人の貯金、及びこの活動に賛同する一般の人々からの寄付金で賄われている。しかしながら、国や県、自治体への補助金などの協力要請への反応はなく、このままでは牧場の存続は不可能だ。

「多少の放射能被曝(ひばく)はしても、家畜に餌運びをするのは畜産者としての当然の道であり、意地でもあります」と、“決死救命”を覚悟した吉沢さんの訴えを無視したままに、役人たちは、昨年5月に出された「警戒区域内に生き残った家畜のすべてを殺処分する」という指示を、粛々と実行し続けている。国以外の反応はどうなのか? 「正直、真っ暗です。国も県も自治体も全く協力的ではありません。大学などの研究機関は、国などが予算をつけない限り、動かないと思われます……」

家畜としてその命を私たち人間に捧げてきた牛も、その命を頂いてきた人間も、今回の壮絶な災害の前には、共に被害者であり、生き残ったかけがえのない命だ。(ましてや原発事故に関しては人間は加害者でさえある)取り返しのつかない多くの尊い命が失われ、"生きてる"それだけがどんなにありがたいことかを、多くの人々が実感した。そんな今だからこそ、私たちは感じることができないだろうか、人間以外のすべての生き物の命の重みについても。「肉も乳も汚染されているから死ねばよい」とはどうしても言えないと、命懸けで家畜の命を守ろうと闘っている警戒区域の畜産家の苦しみから、「私には関係ない」と目をそらしてよいのだろうか。“2011年3月11日”は、過去ではない。あれから時が止まったままの警戒区域内では、『希望の牧場』とその外にも、放れ牛、豚、鶏、犬や猫たちが必死で生き残り、待っている。

『希望の牧場』プロジェクト
fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/
〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂1-22-7 道玄坂ピア4F
Tel: 03 3496 2177 Fax: 03 3496 2188
email: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください

吉沢氏の2012年
年頭手記からの抜粋

2012年3月末、4月を目標にした、警戒区域内に生き残る1000頭以上の野良牛たちの整理(国による抹殺)は、被ばく地・被災地における災害廃棄物(ガレキなどの)処理と同じ目線・発想に他なりません。原発事故によるセシウム汚染地帯の浪江・双葉・大熊・富岡の各町の水田は、コメ作りは不可能なまま今後、荒廃化を続けるでしょう。そこに1000頭の牛たちを研究目的で収容・保護すれば立派な低コスト省力型の除染と環境保全管理の役目を担ってくれるはずです。いずれ双葉郡被ばく地帯は、食用のコメ作りはできなくてもバイオ燃料用の作物なら望みはあります。国の復興支援策は、もっと農家の目線・発想に着目してほしいと思う。私たちがかねてより希望し要望を繰り返し国に伝えてきた、餓死でもない、殺処分でもない、第3の牛たちの生きる道を是非、みんなの力で絶望的な状況の中でも負けずに作り出しましょう。

牛
近所迷惑となった野良牛を殺処分しない農家は
損害賠償で訴えられるぞ、という圧力も。
震災後に生まれた子牛には耳標がなく、
“所有者不明家畜”とされ真っ先に処分対象になる。

避難所の教室の冷たい床の上で暮らすお母さんたちが
『ちょんまげに期待していますよ!』って、
笑顔で言ってくれたんです。

Smile for Nippon ~日本に笑顔を~
被災地支援 ちょんまげ隊 隊長 ツンさん

「無事です」「避難所にいます」、震災直後のツイッターに飛び交う被災者の声。その中にツンさんは「靴が濡れている」「靴が欲しい」という書き込みを目にする。津波の濁流から生還した被災者の生の声だった。「僕は全くボランティアの経験なんて無かったんですよ。でもその時、理屈でなく"啓示"のようにつかまれた。靴屋の僕に、誰かが訴えている、と」。震災後で流通が混乱する中、高齢者でも履きやすいマジックテープ式の運動靴を200足手配。それを荷台いっぱいに積んで、3月22日に宮城県へ向かったのが始まりだった。

牡鹿半島の子供たちをバスでサッカー観戦に
牡鹿半島の子供たちをバスでサッカー観戦に。
被災地にも、あえてちょんまげ姿で行く。
笑いはどんな時でも人の気持ちを和らげ、会話のきっかけにもなる。

「その靴を届けた時には、まさかそれからも被災地に通うとは考えていなかったですよ」。しかし、靴を届けた避難所の中学校の寒い校庭の水飲み場の前に、年配のお母さんたちが行列し、手を真っ赤にして凍るような水で洗濯しているのを見る。校庭にいた子供とも話した。聞くと、「津波で家が流された」と言う。“家”と一言で言うけれど、それは、勉強道具も漫画もゲームも、そういうすべてをこの子は失った、ということなのだ。何が欲しいかなんて、聞けなかった。報道だけでは伝わってこなかった、人々の無念の思いや我慢を目の当たりにした。「洗濯機は僕が持って来る、子供に漫画を持って行く」こうして再び被災地へ向かうこととなり、以来17回現地での支援を行っている。

当時、被災地では多くの物が不足していた。しかし避難所によって、不足物資と過剰物資の品目のずれも大きかった。支援物資は多かったが、仕分けをする人材の不足、各避難所からの情報の収集・分析の難しさ、平等性、さまざまな理由で、多くの物は集積所にたまり、支援を申し出ようと集積所の管轄役所に問い合わせると、「十分にある」と言われるが避難所に行くと「無い」、そんなことが多々あった。結局、被災者が「無理なんだ」と我慢しているうちに時間はどんどん過ぎていく。誰もが疲労困憊(こんぱい)していて、いろいろなことを諦めていた。こうした現地の実情を理解したツンさんは決めた。避難所を回り、何が必要なのかを人々に直接聞いて、自分でそこへ持っていくのが一番確実だ、と。千葉に戻ってすぐに知人・友人の寄付を募り洗濯機を買い、設置技術のある電気屋さんを見つけ、洗濯機と、応援メッセージ入りの300冊の子供の漫画と、電気屋さんとを車に乗せて、10日後にその校庭に戻ってきた。

「木を見て森を見ず、ということわざがありますが、僕はあえて、森を見ずして目前の木を見ることにしたんです。目隠しをした競走馬みたいにね、見える範囲だけ見て走る!」。森を見て絶望するより、目の前の木を見てできる限りを尽くす。それが、彼の結論だった。

だんだんと支援の多い地域、ほぼ全く無い地域などの差があることも分かってきた。メディアや支援が全く入らない多くの“無名の”被災地がある。例えば鉄道が無く道路も復旧していない牡鹿半島。簡単にはよそ者に心を開いてはくれなかったが、ツンさんはその地区へ何度も通い、年末には、子供たちをバスでサッカー観戦ツアーに連れ出したり、住民と一緒にクリスマス会をしたりするようになった。「東北の方々はとても遠慮心が強く、なかなか『こうして欲しい』とは言ってくれないんです。例えばあの地方では、正月の餅は大切なのに、『この非常時に餅なんて』と誰も口に出さない。なので餅つき機(電化製品)を持って行って、自分たちでお餅を作ってもらいました。そしたらやっぱり楽しいんです。『どうやって使うのか?』なんて皆でやりながら、おじいちゃん、おばあちゃんたちがすごく喜んでくれた。震災から時間がたって衣食住の最低限のものはそろい始めているんです。でも、逆に言えば、それしかない、最低限しかないんです。サッカーもクリスマス会もお餅(餅つき会)も、無くてもいいものだけれど、あるとすっごい笑顔が出てくるじゃないですか?」

講演会
聴講者の応援メッセージを手書き
講演会の後には、聴講者に応援メッセージを手書きしてもらい、
それを持った笑顔の写真を撮らせてもらって被災地に持っていく。
“日本に笑顔を!”というちょんまげ隊の支援活動の1つ。

現地での支援と同時にツンさんは、日本全国、世界各地で、被災地で撮ったビデオと写真を上映しながら自らの体験談を語る講演会を行い、被災地の様子を必死で人々に伝えようとしている。震災から時間がたつにつれ、メディアの報道もボランティアの数もはっきりと減ってきている。被災地の人々の「忘れ去られていくのでは」という不安をなんとかしたいという気持ちから、この活動も始めたのだという。彼の映像や話は聞く人の心に響き、涙する人も多いが、同時に、自分も何かしようか、というやる気もわき出てくる。ちょんまげ姿や、彼独特の明るい口調のせいかもしれない。

被災地という過酷なピッチの中で、選手たちがあんなに頑張っているのに、スタンドが沈んでいてどうする!応援隊長たるもの、試合が苦しければ苦しいほど元気を出して、盛り上げていくのが仕事なのだ、とでも言うように、ツンさんはいつも元気でノリが良い。

支援を続けるモチベーションを聞いたら、「いやー、やりたいからっていうだけですよ。つらいの我慢してやっているんじゃ、続けられないですから!」と言いながら、1つだけエピソードを教えてくれた。

「3月22日、初めて仙台に夜到着して、食事をしよう、と安い定食チェーン店に入りました。メニューが半分しかない、大変な状況をうかがわせる店内で先払い形式の注文をする時。パートのおばちゃんが『何にしますか?』じゃなくて『どこの城から来たの?』と。僕『えっ』(方言が聞き取れないって最初思いました)。おばちゃん『どこの城から来たの?』。(僕は6時間の運転に疲れて、ちょんまげ付けたまま店内に入ったのに気付きました)で、『千葉の城から来ました~』『支援物資持って来ました~』って言ったら、おばちゃんが厨房内のおばちゃんたちの方を振り向いて『殿様が来たよ~~』って叫んだんです。すごい状況の中でのユーモアに、泣きそうになりました。あの出会いも、僕が支援も続ける1つの理由です」

きっと、そのお店のおばちゃんは感じたのだ。初めて見る被災地の様子に、彼が打ちのめされていることを。そしてそれでも明るく振る舞おうと精いっぱいだったことを。ツンさんの繊細さと謙虚さが人々を笑顔にし、その笑顔が彼の力になっている。

プロフィール
千葉県で靴屋を経営する多忙な一児の父、角田寛和さんは、ちょんまげにサムライ甲冑(かっちゅう)姿でサッカー日本代表の試合を世界各地のスタンドから明るく元気に応援をするサポーター、ちょんまげ隊長ツンさんとしても有名な人だ。震災以来、ちょんまげ支援隊として被災地支援を続行中。

ちょんまげ隊の活動が分かるサイト

ブログ
ameblo.jp/piroponpin
facebook
「Smile for Nippon」www.facebook.com/smile4nippon

ツンさんコンタクト先
twitter.com/smile4nippon
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7月20日頃、ロンドンオリンピックへ応援渡英しますが、その前後にパリでの被災地上映・講演会を熱望しております。どなたかご協力いただけますか。

悲しみを分かち合うことはできなくても、
未来は一緒につくれる。

在仏オブジェ作家
akoさん

「被災地の子供たちのそばへ行きたい、いつか絶対に行く」二児の母でもあるakoさんが、震災以来出会う人皆に「被災地の子供のそばで何かできないか」と発信し続けた思いは通じ、2011年12月、akoさんは、福島の小学校での一日工作教室の先生をすることとなった。

小学校での一日工作教室
「akoさんの暮らすフランスはどこにあるの?
どうやって行くの? 何を食べているの?」と
子供たちからは質問が飛び交い、笑い声がいっぱいにはじけた。

被災地の子供たちに伝えたかったのは、「君たちは1人じゃない、皆つながっているよ」ということだった。出発前のパリでは、できる限り多くの子供たちに声を掛け、一緒に福島の子供たちを思いながらガラス瓶に柄を描いた手作りキャンドルホルダーを100個近く作った。「私だけでなく、私の子供たちを含むフランスの子供も大人も、皆胸を痛めていました。すぐにでも抱き締めに行きたい、っていう皆のその気持ちを、ろうそくの灯に浮かび上がるようにして、一人一人に届けたかったのです」

12月20日、福島の小学校で生徒たち全員が元気に出迎えてくれた。授業では、「パリも福島も子供は皆つながっている」メッセージを込め、人をつなげたデザインのカンムリを作った。工作をする子供たちはとても楽しそうで真剣だ。「子供たちは、フランスという知らない国への好奇心に溢れ、無邪気な質問をたくさんしてきました。かと思うと、『今日はxxちゃんのおうちへ初めて行くんだー』と、日常生活の小さなイベントにもワクワクしている様子。ああ、この子たちはごく普通の子供たちなんだ、だからこそ、そのちっちゃな心で受け止めている大きな悲しみや大変な日常、そのギャップを思うと胸が震えました」

子供たちは遠い国からやって来たakoさんの話に、さぞ目を丸くしたことだろう。"ここではないどこか"に想像を膨らませながら、会ったこともないフランス人の友達が作ってくれたキャンドルホルダーを、きっと不思議な思いで受け取ったことだろう。

ヨーグルトの空き瓶の再利用のキャンドルホルダー
キャンドルホルダーは、ヨーグルトの空き瓶の再利用。
パリへ戻ったakoさんの元へは、
福島の子供たちから感謝の手紙とともに、
フランスの友達への箱いっぱいの折り紙作品が届いた。

「それまでは被災した子供たちの様子を知るほどに悲しくてたまらなかったのですが、彼らに会い、変わりました。この子たちのつらい過去を分かち合うことは私にはできない、と感覚的に悟ったのです。一緒に泣くには、彼らの負った傷はあまりに深い。でも、逆に思ったんです、それでも輝くような笑顔を失っていないこの子たちと、未来を一緒につくっていくことはできる、と。この子たちに、もっともっと世界の果てしない広さや、つながりを見せてあげたい。風穴をいっぱい開ける。私にもできることがある、と」

akoさんは、震災直後の非常時ではない静かな時間を子供たちと一緒に過ごした。手を動かし、ごく普通の会話を交わしながら、感じ取ったのだろう。山が立ちはだかっている、その山がどんなに険しくても、この子たちはそれを登るしかないのだ、と。私たちは、彼らのこれまでの苦しさは和らげられなくても、彼らがこれから向かっていく山に、途中でくじけてしまわないように、山を登り続ける勇気となるように、無数の明かりをともすことはできるはずだ。子供たちは、その小さな足で、登山口からの一歩をもう踏み出そうとしている。

プロフィール
ako(永末アコ)さん:96年よりパリに暮らすアーティスト(主作品はランプとオブジェ)。著書「akoからはじまるパリのABC」(飯塚書店、2009)

警戒区域の動物たちを見捨てない!

警戒区域の動物たちを見捨てない!

警戒区域に残されたペットと動物たちを救う活動を個人で続けている、佐々木ちはるさんのブログサイト「警戒区域の動物たちを見捨てない!」には、これまでと今の現地の様子が克明につづられている。animaldemo.blog.fc2.com

3.11 福島から 「歩き続ける」

編集部に持ち込まれた弦短歌会福島支部の短歌集。会員14人は地震発生2週間後から互いの安否を気遣い、情報交換をしながら歌会を続け、リアルタイムな作品を大震災の記録として短歌集「歩き続ける」にまとめた。

二カ月の男の子殉職の父を知らず新盆の客われは抱き締む

将来に子を産めぬかと訴うる十五歳の頬のやわらかき紅

かき分けし汚泥の臭いマスクつく画面に映らぬ被災地をゆく

放たれし理由も知らで脚細き黒牛四頭海辺ひた走る

新しい水筒提げて園児たちは通園の肩に重たきも喜び

誰一人泣いてはいられず復興への厳しき道を歩み始める

 

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*本文および情報欄の情報は、掲載当時の情報です。

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