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ロンドンのゲストハウス
dim 24 juin 2018

生誕100周年記念 エディット・ピアフ Edith Piaf

フランスを代表する
シャンソン歌手として、
世界中で今でもその人柄、
歌声が愛されている
エディット・ピアフ。
47年で幕を閉じたピアフの人生は
まさに波乱万丈で、
多くの衝撃的な事件が起こっていた。
今回はピアフの晩年を写した
写真家のユーグ・ヴァサル氏や
エディット・ピアフ博物館の館長である
ベルナール・マルショワ氏に協力を仰ぎ、
改めて偉大な歌手、エディット・ピアフの人生を振り返る。
(Texte: Kei Okishima)


参考文献: Jacqueline Cartier、Hugues Vassal
「Edith et Thérèse, la sainte et la pécheresse」(Editions du Signe)、
Bernard Marchois「La vraie Piaf : Témoignages et portraits inédits」(Editions Carpentier)

エディット・ガションからピアフへ 1915〜37

悪魔の家で愛に満ちた幸せな生活

1915年12月19日、エディット・ピアフ(本名はエディット・ジョヴァンナ・ガション)はパリのベルヴィルで誕生した。父は曲芸師、母は歌手で、母はモンマルトルの丘の上の路上で歌っていた。ピアフはまず母方の祖母に預けられたが、あまりにも生活環境が不衛生だったために、父方の祖母の家に預けられる。父方の祖父母は売春宿を経営していた。祖母、ルイーズは、熱心なカトリック教徒であった。「売春」と「カトリック」は相反するもののように感じるが、仕事のない女性を助けている、という認識だったようだ。

売春宿というと、ひどい環境を思い浮かべるが、実はピアフにとって、この家で過ごした時間はとても幸福に満ちていた。

「ピアフがときどき見せる俗悪さは、親元を離れピガールやベルヴィルの路上で覚えた習慣であり、売春宿で育ったからではありません。むしろ娼婦たちはみな、小さなピアフをとても大切にし、かわいがっていました」(ユーグ・ヴァサル談)

母親的な愛情を祖母や娼婦たちから注がれ、幸せに生きていたピアフだが、角膜炎にかかり、失明しかけてしまう。目の周りに包帯が巻かれ、暗闇の中での生活が始まった。カトリック教徒であった祖母ルイーズは、ピアフをリジューへ連れていくことにする。リジューの聖テレーズに祈りを捧げ奇跡が起こることを信じていたのだ。リジューを訪れた後、ピアフは奇跡的に目が見えるようになる。この経験から、ピアフは生涯テレーズを信仰し、慕うようになる。

「5歳の子どもが、目が見えずに暗闇の中で生活をし、その間ずっとテレーズの起こした奇跡の話を聞かされていた。そして本当にリジューを訪れた後に目が見えるようになったわけですから、テレーズに対する信仰心が芽生えるのも当然なことだといえるでしょう」(ユーグ・ヴァサル談)

悪魔の家を出て、父と過ごした放浪の日々

しかし目が見えるようになった幼きピアフは、売春宿という現実までも見えるようになってしまう。学校へ行くと、ピアフは「悪魔の家の子だ!」といじめられた。もちろん学校の先生はいじめた男児たちを叱責するものの、学校からいったん離れると、再び男児たちにいじめられる日々が続いた。近所の神父も、この環境に幼い子どもを置いておくことに反対し始めていた。

こうしてピアフの父は、7歳になったピアフをこの家から連れ出すことを決める。別れ際に祖母は、テレーズを忘れないようにと、首飾りをピアフに渡した。

「ピアフは歌手として成功を収め、世界の舞台に立つときも黒いシンプルな洋服を着て、派手なアクセサリーは好まず、シンプルな十字架のネックレスを身に着けていました。それは修道女のようでした。ピアフにとって、舞台は神聖な聖堂と同じだったのです」(ユーグ・ヴァサル談)

こうして祖母の家を出たピアフは、曲芸師の父と一緒に放浪生活を始めることになる。曲芸をするには体が十分柔らかくなかったピアフは、母親と同じように歌を歌うようになる。熱があった日も、ピアフは必死で歌った。そんな姿を見て、父は初めてピアフを抱き寄せた。ピアフの声に聴衆は耳を傾け、その歌声は人々の心を揺さぶった。ピアフ自身もこの路上で歌う経験から、自分の歌声が特別であることを理解しつつあった。

独立と悲劇の始まり

ピアフは15歳で父親の元を離れた。そしてその頃、親友となるシモーヌ・ベルトー(通称モモーヌ)と出会う。モモーヌとは「demi-soeurs(異母姉妹)」と偽り、ピガールの町を放浪しながらともに路上で歌った。ピアフについて語るとき、モモーヌは親友という扱いをされることもあるが、悪友という表現も多く使われている。ピガールでモモーヌとピアフは、働かずに犯罪を繰り返すような男性たちと付き合い、すさんだ生活を送りながらも、歌い続けていた。

1935年、ピアフにとって初めての悲劇が襲い掛かる。ルイ・デュポンという男性との間にできた女児、マルセルがたった2歳で髄膜炎にかかり、命を落としてしまったのだ。このマルセルの死はピアフの生涯に暗い影を落とした。このとき、ピアフは葬儀のお金すらなかったといい、生涯で一度だけ、体を売ることを考えたという。ピアフは道で声を掛けられた男性とホテルに行くものの、直前で思い直し、「客」に自分のみじめな境遇を正直に打ち明ける。すると「客」は葬儀に足りない10フランを何の代償もなしに渡してくれたという。このときのことを、ピアフは自伝「Ma Vie」で振り返り、「もし、この男性が私をひとりの娼婦として扱っていたら、たぶん私は無償の行為を尊いと思うような人間にはなっていなかったかもしれません」(「わが愛の讃歌」晶文社、中井多津夫訳)と語っている。

エディット・ピアフ誕生

マルセルの死から1カ月後、悲しみのどん底にいながらもパリ17区のトロワイヨン通りで歌っていたピアフは、高級キャバレー「ジェルニーズ」のオーナー、ルイ・ルプレに見出される。彼こそ、ピアフに「Môme Piaf(小さなスズメ)」という名前をつけた人物であった。この出会いから、ピアフの客層が上流階級へと一気に変わった。しかしそんな喜びもつかの間、ルプレは何者かに殺されてしまう。ピアフの過去の悪事が災いし、ピアフにも殺人容疑がかかり、警察の事情聴取を受けることになる。ようやく新しい道を歩み始めていたピアフだったが、一気に友人も信用も失い、再びどん底に落とされてしまった。ピアフはジョルジュ・サンクにあるアメリカン・カテドラルに入り、「テレーズ、どうして私を見放したの?」と聞き、嘆いた。ピアフは現実から逃れるために、再びモモーヌとお酒を飲み始めた。

この危機から救い上げてくれたのが、作詞家のレーモン・アッソーだった。アッソーはピアフを見つけたときのことを「ダイアモンドの原石だった。私が磨かなければならないと思った」(La vraie PIAF, Bernard Marchois編集、Didier Carpentier出版)と語っている。

ピアフはどん底の中、アッソーに救いを求める手紙をニースから送った。アッソーはピアフに、生き方や働き方を変えようとしない限り、歌を提供しないと伝える。パリに戻ったピアフは最後の持ち金でアッソーに電話を掛ける。何もかもアッソーの言う通りにする決心をし、アッソーの指示通りタクシーに乗り、彼の自宅を訪れる。それから3年間、2人は一緒に暮らした。アッソーはピアフを生まれ変わらせるために、教養の全てを教えた。過去の汚点を洗い流すのに3年を要した。

そしてアッソーは、パリのミュージックホールABCでピアフのコンサートを開く契約を取り付ける。歌う前、ピアフはノートルダム・ド・ヴィクトワールに行き、祈った。ここはテレーズが好きだった場所だったからだ。このABCでの成功をもって、エディット・ピアフとして、スターへの道を駆け上っていくことになる。

最後までピアフを写した写真家ユーグ・ヴァサル
ピアフとの思い出を語る

最初にエディットと知り合ったのは、1957年でした。私は当時、フランスの週刊誌フランス・ディモンシュで研修をしていたただの若者でした。ある日、上司から急に「ディジョンに行き、ピアフの写真を撮ってきてくれ」と言われました。他に行ける記者がいなかったのです。エディットはちょうど恋人を変えたところで、別れた恋人と新しい恋人の写真を撮るようにとピアフから依頼があったのです。

このように、エディットは自分を演出することに長けていました。いつも自分については大げさに表現していました。1杯のアルコールは10杯に、数粒の錠剤は100粒に……。もちろんマスコミによる噂話などもありましたが、彼女自身も自分を演出し、エディット・ピアフという人物像は世に出ていきました。

エディット・ピアフ

ディジョンで初めてエディットに出会ったとき、彼女はやせっぽちの私を見て「太らせてあげる」とご馳走してくれました。それから最期を迎えるまで、正確には死の床についたときまで、付き合いが続きました。そう、私は彼女が息を引き取ったあと、自宅の部屋のベッドで横たわるエディットの写真を最後に収めました。それはとても苦しい作業でしたが、実行しました。エディットとの生前の約束だったからです。そこには、エディットの最後の夫、テオ・サラポがうな垂れて写っています。もちろん彼も、私が彼女の最期を収めることに同意しました。彼はエディットの死の7年後に車の事故で他界してしまいますが、本当に素晴らしい人物で、エディットは最期、彼の愛情に包まれて本当に幸せそうでした。

エディットは自分にも他人にも非常に厳しい人でした。特に仕事に関しては、とてもストイック。エディットと仕事をしたシンガー・ソングライターのクロード・レヴェイエは、エディットに部屋の中に閉じ込められ、作品ができるまで外に出させてもらえなかったと言っていました。ただ、あのような状況に置かれなかったら、あんなに素敵な曲を作れなかっただろうとも回顧しています。他にもイヴ・モンタンやジョルジュ・ムスタキなど、フランスを代表する音楽家の才能を見出しました。

エディットはその歌声、才能はもちろんのこと、伝説となるほど数々のアクシデントに見舞われました。それでも彼女は、悲しくて辛いことがあるほど、その後幸せになると信じていました。辛い出来事は、より感情を込めて歌うための糧としたのです。彼女は神の愛を人間がみなで共有するように、彼女の愛を歌にのせ、聴衆と分かち合いたいと思っていました。だからどんな状況に置かれても歌おうとしていました。

エディット・ピアフ

エディットは本当に信仰深い女性で、うれしいことがあれば神に感謝し、辛いことがあれば神にすがりました。エディットの死後、私はエマウスの創立者であるアベ・ピエール神父とエディットの話をしたことがあります。ピエール神父は、エディットが神父を必要としていたときに、助けてあげることができなかったことを悔やんでいらっしゃいました。実はピエール神父はエマウスの活動でカナダを訪れたときに、ある会合で一度だけエディットと会ったことがあったのです。当時、エディットは神の救いを必要としている子どものようで、ピエール神父に出会えたことを喜び、半狂乱な目で神父を見つめていました。しかしなんとピエール神父はこの小さい女性がエディット・ピアフだと、気がつかなかったのです。エディットはようやく会うことができたピエール神父と期待していたようなコンタクトを持つことができず、随分と落ち込んだようです。ピエール神父は後にこの事実を知り、自分が神父としての役目を果たしていたら、エディットの人生において何かが変わったのではないかと悔やんでいました。

彼女がいなかったら、今の私はいなかった。私は1966年にレイモン・ドゥパルドンらと共同でGammaという写真のエージェントを作りましたが、エディットとの交流がなければ、このような成長もなかったはずです。問題にぶつかったとき、いつもエディットのことを考えます。テレーズが神の存在であったとするならば、私にとって、同様の存在はエディットです。

ユーグ・ヴァサル Hugues Vassalユーグ・ヴァサル
Hugues Vassal

1955年、フランス・ディマンシュのレポーターになり、エディット・ピアフと知り合う。ピアフのカメラマンとして活躍し、ピアフの死後は、シャルル・アズナヴール、モーリス・シュヴァリエ、ジョニー・アリディ、フランソワーズ・アルディなど、スターの写真を撮るようになる。67年、レイモン・ドゥパルドンらと共同で写真のエージェントGammaを設立。その後はアフリカや中国など、世界各国で活躍する。また、エディット・ピアフに関する著書も多く、彼女との思い出について語る舞台「Raconte-moi Edith Piaf」を不定期で開催している。
www.hugues-vassal.com

エディット・ピアフ

華やかな舞台裏でのエピソードをのぞく

ピアフの異母姉妹の存在
デニス・ガション Denise Gassion

今でもシモーヌ・ベルトー(通称モモーヌ)はピアフの異母姉妹と表現されることがあるが、ピアフには本当の異母姉妹がいた。デニス・ガション、ピアフの父親の再婚相手の娘だ。デニスが生まれた当時はあまりピアフとの関わりはなかったものの、ピアフは自分の娘を病気で失った後、デニスのことを妹として認め始めた。そしてデニスが本当にピアフとの距離が縮まったのは、彼女たちの父親が死んだときだった。パリにいるとき、2人はよく会うようになり、デニスはいつもピアフにスミレの花束を持っていった。ピアフはそれを父親の写真の横に飾った。

スターになっても、ピアフはいつもシンプルだった。ピアフの家にはいつも大勢のスターが集まっていた。デニスはピアフの家でイヴ・モンタンが鏡の前で振りの確認をしていたのをよく覚えていると回想している。マルセル・セルダンと踊ったこともあったそうだ。

デニスはその後結婚して、カナダに住むようになった。カナダに移っても、ピアフはデニスの家の工事費用を出したり、いらなくなった洋服をあげたりしていた。晩年はあまり会うことができなくなり、ピアフの死をデニスはラジオで知ったという。

「水に流して」誕生物語
シャルル・デュモン Charles Dumont

作曲家のシャルル・デュモンが作詞家のミシェル・ヴォケールとピアフの代表曲「水に流して(Non, je ne regrette rien.)」を作ったとき、デュモンはヴォケールに、歌手のロザリー・デュボワにこの曲を提案するように薦めた。このようなシャンソンが似合いそうだと思ったからだ。しかしヴォケールは「まずエディットに」と譲らなかった。

デュモンがピアフにこの曲を提案したくなかった理由は、それまでに何回も作曲したものの、全てピアフに拒否されていたからだ。そのためデュモンは、エディットに曲を提案するのはこれが最後にしたいと思っていた。「Non, je ne regrette rien.(いいえ、私は何も後悔しない)」というフレーズは、デュモンの作った曲に合う言葉が見つからなかったヴォケールが「Non, je ne trouverai rien, non, je ne trouverai rien(だめだ、何も浮かばない)」と2回つぶやいたことから生まれた。この言葉がエディットのことを思い起こさせ、「いいえ、私は何も後悔しない」というフレーズになった。

1960年10月、この曲をピアフに提案した。病気で弱っていたピアフは、これぞ探していた曲だと立ち上がった。彼女の当時の健康状態を考えると、舞台に戻ることが可能なのか、皆が半信半疑だったという。しかしピアフはこの曲で舞台に戻り、大喝采で迎えられたのだった。

ピアフを最も近くで感じる
エディット・ピアフ博物館

エディット・ピアフ博物館

エディット・ピアフ博物館は、ピアフが若いころに1年間住んだことがあるというアパートの一室にある。博物館はピアフと親交があった人たちが中心となって1967年に設立された非営利団体「Amis d'Edith Piaf」が運営しており、展示されているものはピアフの死後、親近者から寄贈されたピアフの遺品だ。

アパートに入った瞬間、ピアフ自身に会えたかのような錯覚を覚える。ピアフが舞台で着ていた衣装、恋人のジョルジュ・ムスタキから贈られたガウン、写真集で見覚えのあるかばん、最後の夫、テオ・サラポからの贈り物などが、ごく普通のアパートの部屋の中に置かれている。いわゆる現在から過去を眺めるような博物館ではなく、時間を巻き戻すことに成功したかのような貴重な空間だ。

館長は博物館の創立者であり、ピアフと晩年交流が深かったベルナール・マルショワ氏。

「エディットは仕事をするときは本当にプロフェッショナルでした。何時間も厳しい練習を続けますが、いったん終われば皆にごちそうし、わいわいと飲食するような人でした。1人でいることを嫌いました。人の才能を見出す力もありました。でも才能がないと思えば『今仕事はあるの? それだったらその職業のままでいなさい』ときっぱりと言うような人でした」

ピアフが舞台に立つときに身に着けていた黒のドレスも飾られている。シックで素敵なものだが、背の低いピアフが歌う哀しげな愛の歌は、どこかそのドレスを寂しく質素に見せることもあった。ゴージャスな飾りを嫌ったピアフは、きらびやかな宝石をもらっても、決して身に着けることがなかったという。博物館には宝石も飾られているが、ほとんど使用したことがないそうだ。

机の上に置かれたボクシングのグローブは、ピアフが愛した男性、マルセル・セルダンのものだ。ピアフの代表曲「愛の讃歌」も、このセルダンのために歌ったといわれている。

「恋多きピアフの人生の中でもセルダンとの恋が特別だった理由は、まず2人の気が合った、というのが一番大きいでしょう。また、セルダンが飛行機事故で突然亡くなったという衝撃もピアフにとっては大きかったと思います。愛の讃歌は実はピアフが知人にあげた曲でした。しかしその知人がレコーディングする前にセルダンが亡くなりました。ピアフはこの曲をセルダンのために自分が歌いたいと思い、その知人にはレコーディングしないようにとお願いしたのです」

セルダンにはもともと妻と子どもがいたが、セルダンの死後、ピアフはセルダンの妻子と友好関係を築いている。

「マルセルは3、4カ月と自宅に帰らないこともありましたし、もちろん妻は愛人がいることは分かっていました。マルセルの死後、エディットは他の人からではなく、自分の口から真実を話したいと思い、マルセルの妻に連絡を取って彼女の住むカサブランカへ出向いたのです。最終的に2人はとても親密になりました」

博物館には、セルダンと交際中にセルダン宛に書かれたピアフの遺書が飾られている。

今でもAmis d'Edith Piafでは、ピアフを直接知る人、またピアフのファンなどの会員が毎月1回集まり、一緒に音楽を聴いたり、ピアフについて語ったりする活動を続けている。年月が過ぎるとともに直接彼女のことを知る人が少なくなってきているのも事実だ。

「今の音楽は、消費社会のビジネスの一部としての存在でしかありません。昔はシャンソンといえば、作曲家、作詞家、歌手、オーケストラ……全ての人が力を出し合い作り上げた一つの芸術作品でした。そのため、エディットの曲は世界中のアーティストにカバーされ、今でも聴き続けられているのです」

エディット・ピアフ博物館
TEL:01 43 55 52 72(要予約)

※住所は予約時に電話でお聞きください。

ピアフの歌声をお楽しみください。
Edith Piaf - La vie en rose (Officiel) [Live Version]


生誕100年記念展覧会「PIAF」

レコードエディット・ピアフ生誕100年を記念した展覧会。国際的な大スターとなった後も、自由を愛し、素朴な生き方を貫いたピアフの人生を少女時代から追う。オーディオガイドで音楽を聴きながら、ピアフの人生の中で重要な出来事を振り返ることのできる貴重な機会。写真、手紙、ポスター、レコード、雑誌、オブジェ、衣装などの展示もある。

2015年4月14日(火)~8月23日(日)
火~土 10:00-19:00(日13:00から) / 休: 月祝
入場料: 9€

Bibliothèque François Mitterrand
Quai François-Mauriac 75013 Paris
TEL: 01 53 79 59 59
M: Bibliothèque François-Mitterrand⑭、
Quai de la Gare⑥
www.bnf.fr

生誕100年記念展覧会「PIAF」

 

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*本文および情報欄の情報は、掲載当時の情報です。

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