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法政ミーティング in Paris
ven 01 juillet 2016

エルボリストリー(Herboristerie)とは?

パリの改造計画

フランスでは健康志向、自然派志向の人々の間で頻繁に利用されるherboristerie(エルボリストリー)。 ここでは植物の知識が豊富なherboriste(エルボリスト)が、まるで薬局のように懇切丁寧に個人個人に合った薬用植物の調合や生成物を提案してくれる。風邪の季節が到来する前に、自然な療法で抗体アップを図りたい。薬用植物を取り扱うHerboristerieをのぞいてみよう。(Texte et photos : Satomi Kusakabe、協力 : Grande Herboristerie Médicale de la Place de Clichy)


薬用植物を巡る歴史

薬用植物が治療に用いられるようになったのは、紀元前3000年以上前にさかのぼる。古代メソポタミアの都市で香油や煎じ薬、粉末として、じつに250種類の植物が扱われていたことが分かっている。植物の薬用効果については、「医学の父」と言われている古代ギリシャの医師、ヒポクラテスの生涯かけての研究でもあった。ヒポクラテスの医術集の中には、「約250の見本(植物)」が記録されている。ギリシャでは薬用植物の研究が続けられ、西暦1世紀にはその後何世紀にもわたって植物の参考になるような「約600の見本」ができ、2世紀には植物の用法を編集するに至り、非常に多くの処方書が完成することになる。

18世紀になって、それまでヨーロッパでまだ知られていなかった植物、または大衆医学によってのみ伝えられていた植物、例えばジギタリスなどの効用も発見された。19世紀から20世紀半ばは、薬用植物の発展があまりない時期。治療に植物が処方されることが減少し、1950年ころには大学の医学部から植物療法や植物学の講座が消えて、薬用植物の研究機関なども減少した。  

60年代以降、今日に至っては植物を用いた療法に2つの傾向が見られるようだ。1つは、より客観的で科学的なアプローチで植物療法を行いたい医師や科学者が増えていること。もう1つは、多くの化学療法を行った後で、化学薬剤の弊害に気付き有効な治療を求めた結果、植物療法にたどり着く人が増えていることだ。

フランス革命の時代からあったといわれるフランスのherboristerie(エルボリストリー)。 一時期、フランス全土にあるherboristerieは約2万軒と、薬局とほぼ同軒数だったが、現在はその数に程遠い。

Herboristerieでは何を販売している?

Herboristerieではさまざまな製品が販売されている。煎じ茶、ジェル、エッセンシャル・オイル、殺菌剤など治癒効果のあるものから、シャンプーや石けん、マッサージオイルなど健康や美容に効果的な植物性の製品がそろう。  

Herboristerieにおいては、植物の知識の豊富なherboristeが対応してくれる。病状または改善したい健康状態などについて相談すれば、その症状の緩和だけでなく、原因までさかのぼって体質改善する製品 ― 直接摂取するものではなく、薬用植物を乾燥させたものやエキス、またはその成分の入った製品 ― などを案内してくれる。シナノキ(tilleul)やタンポポ(pissenlit)の根、オリーブの葉など、植物によってはエキスよりも煎じ茶として摂取した方が効果が高いものもあるようだ。また、南米産や珍しい植物がそろっている店もあり、herboristeに尋ねれば新しい知識や、貴重なアドバイスが得られることは確かだ。

主な薬用植物

* ラベンダー(lavande)
ラベンダー鎮静効果が大きい。睡眠を助ける。発作的なせきに効果的。エッセンシャル・オイルは鎮痛ややけどに効く。

* カミツレ(camomille)
消化を助ける。鎮痙(けい)剤。頭痛、関節痛などに効く。

* シナノキ(tilleul)
鎮静作用があり、睡眠を助け、神経的な疲れに効果的。頭痛などの鎮痛剤としても用いられる。煎じると美味。

* ムクゲ(hibiscus)
強壮剤。体を温める。疲労回復。


これからの季節に採れる効果的な薬用植物

* イチゴの木の根
収れん効果。下痢止め。

* イチクサ(ortie)の根
収れん効果。腸炎や線維腫に作用する。歯肉炎予防にうがい薬としても用いられる。

* パセリ(persil)の根と種子
生理不順、高血圧に効果あり。整腸作用があり、腸内ガスを抑える。

* タンポポ(pissenlit)の根
肝臓の不調に効果的。胆汁の分泌を整える。

* シラカバ(bouleau)の樹皮
利尿作用が大きい。湿疹などの皮膚のトラブルに効果的。

* マロニエ(marronnier)の樹皮
強壮剤。収れん作用があるので、下痢止めに効果的。痔にも効く。

* ニワトコ(sureau)の樹皮
利尿作用があり、腎臓の排膿に効果的。リウマチや便秘にも。

* ヤドリギ(gui)の葉
高血圧に効果大。心筋を強化する。利尿作用もあるのでタンパク尿に効く。


Herboristeが直面する問題

トケイソウ
上:鎮静効果があるというトケイソウ
(passiflora caerulea)
下:調合された薬用植物

Herboristerieに立ち薬用植物を販売するのは、植物学に精通する、または植物の知識が豊富なherboriste。現在、フランスにはherboristeとして植物を治療のために扱ったり、生理学的に利用したりする職業資格がない。1941年、ヴィシー政権で首相を務めたフィリップ・ペタンがherboristeの職業活動について定められた法を廃止した。以来、幾度か法の制定の試みはあったものの、いまだにherboristeの資格制度はない。ただし、薬局として営めなくなっただけで、herboristerieの営業が禁止されたわけではない。薬剤師だけがフランスの薬局方で定められた薬用植物を販売、アドバイスを与える資格があるのだ。逆に、薬用植物だけを売り、化学薬剤を売らないと、どんなに専門知識を持っていても薬剤師の登録をする資格はないという不条理が生まれている。しかしながら、来店客にアドバイスする法的権利はないのに、多くのオーガニックや健康食品の店舗で薬用植物を勧めるなどしているのが現状だ。というのは、2008年以降、148種類の薬用植物に限り、治療目的でない条件付きで一般の店頭で販売してもよいという法令が出たためだ。  

11年、上院議員で社会党のジャンリュック・フィシェ氏は先頭に立ち、健康保険の赤字の軽減と雇用創出、そして健康保障のために有用なherboristeの資格創設を主張した。その資格制度が整ったなら、学業過程で植物学、化学、生理学、植物治療学、栄養学、植物の蒐集や保存法などについての学問を修めることになる。政府不認可ではあるが、リヨンにはherboristeの独自の資格を創設した学校もある。  

今は、薬局の下請けとしてのherboristeが調合した煎じ薬を薬局で少し上乗せした金額で売っているという現状だが、資格化されるとそのような問題も解消されそうだ。

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薬学博士であり、パリ8区で20年間herboristerieを営む
ジャンピエール・ラヴァノー氏にうかがった

ジャンピエール・ラヴァノー氏薬用植物を販売する目的は?  

病気を治療する際に、私たちは化学薬剤や薬用植物、鍼灸(しんきゅう)などの療法を考えます。私はherboristerieを営む20年以上前に化学薬剤を扱っていましたが、もっと毒性の少ない療法はないかと考えるうちに、薬用植物にたどり着きました。

最近の傾向は? 

多くの人は化学薬剤で病気を治療しています。しかし、最近になって、果たしてそれで良いのかと考え始めているようです。  

30年にわたり医師から痩身(そうしん)薬として処方されていた食欲抑制剤、メディアトール(商品名)の副作用で数百人の死亡者が出たことが問題になったのはつい2~3年前。化学薬剤には益と害があります。1996年から化学薬剤には副作用の表示が義務付けられました。化学薬剤には常に副作用、つまり毒性があるということです。そのことを気にする人が増えたこの10年、副作用のないオメオパシーや薬用植物が好まれるようになったのでしょう。

どんな薬用植物製品が売れますか? 

日本人がよく購入するのは、圧倒的にラベンダーです。日本人はラベンダー好きですね。香りが好まれるようで、リラックスのためにと、エッセンシャル・オイルがよく売れます。  

フランス人に人気があるのは、睡眠を助ける薬用植物、クマツヅラ(verveine)です。煎じて飲むことの多いカミツレ(camomille)もよく購入されます。当店には、あらゆる病状についての薬用植物製品がそろっています。多くの方が大袋で買って、自宅で小袋に詰め替えているようです。

今後herboristerieは どう発展していくと思いますか?

もし、herboristeの資格取得制度が整えば、フランスでの薬用植物分野は大きく発展していくと思います。1950年代からあるオメオパシーのような学問を医学部の中に作るべきでしょう。

Grande Herboristerie MédicaleGrande Herboristerie Médicale
de la Place de Clichy

87, rue d'Amsterdam 75008 Paris
M: Pl de Clichy②⑬
TEL: 01 48 74 83 32
月 11:00-13:00 / 14:00-19:00
火~金 10:00-13:00 / 14:00-19:00
土 10:00-13:00 / 14:00-18:00

 

パリの改造計画

パリの改造計画
完成後のLes Halles

現在、約225万人が住むパリ市。世界から観光客やビジネスマンが訪れてやまないパリは、利便性の高い町、市民が住みやすい町、魅力ある町であり続けるため、絶え間ない進化を続ける。住居、公共交通網の整備、緑地開発、雇用創出を目標に掲げた、現在進行中の大規模なパリの改造計画にはどんな内容が盛り込まれているのか。主なものをここに紹介しよう。 (Texte et photos : 編集部)


1. メトロとトラムウェイの延長・増設

無人自動運転のメトロ1号線
無人自動運転のメトロ1号線

メトロの無人自動運転が2011年、1号線で実施されたのに続き、25年までに更に無人自動運転の線の増設を予定している。また、イル・ド・フランス地域圏ではメトロ4、12、14号線が延長され、トラムウェイ8線も延長・増設に向けて工事が着々と進められている。

メトロ13号線の慢性的な混雑を緩和するために、14号線がSt-Lazareから北のMairie de St-Ouenまで延長される予定。一方でメトロ4号線は南へ、最終的にはBagneuxまで延びるが、13年3月にはPorte d’ Orléansから1つめの駅、Mairie de Montrougeまで開通することになっている。また、TGVの発着駅やオルリー、ドゴール空港にアクセスするメトロの定刻運転を目指し、自動運転化も進められている。  

トラムウェイについては、現在稼働しているT1~4の一部を延長するのに加え、T5~8が新たに加わる。パリ郊外北のSt-Denis とGarges-Sarcellesの間を結ぶT5 は13年から稼働する予定。T6はChâtillon、Clamart、Fontenay-aux-Roses、Meudon、Vélizy-Villacoublayなどの町を結ぶ14キロメートルに及ぶ路線で、14年夏 ~15年夏の開通を目指す。08年から始まったT7の建設工事は、パリ郊外南の町、Villejuif やl'Hay-les-Roses、Orlyを結んでAthis-Monsまで行われ、13年には終了する。パリの北、メトロ13号線、RER C とD線にアクセスできるT8は14年に開通する。  

現在郊外では商業、住宅、レジャー、産業地域がそれぞれ離れて存在しているが、交通網で結ばれることでその分立がなくなり、真の生活の場としての町が生まれる。

延長・増設されるメトロとトラムウェイ

2. 住宅整備

首都圏の人口増加とともに常に付きまとう住宅問題。住宅を増設することはパリ市やイル・ド・フランス地域圏にとって最重要課題の1つとなっている。農業や森林、自然保護区域を侵すことなく、働く町に住めるような居住環境を目標に、今後25年間に毎年7万戸の住宅を建設していく計画だ。古い住宅を建て替えるにしても、完全に取り壊して新築建物を建造するというよりは地区ごとの文化的、芸術的特徴を残して生かすような住宅建設が求められる。住宅地増設のために、建設戸数150万戸の建設に必要な土地の2~3倍、言い換えるとパリ市内の大きさの2倍に相当する200キロ平方メートルが2030年までに住宅用地として当てられることが見積もられている。

大きな工事では、19区の北に位置し、1960年代に建設された4000人以上が居住する、パリ市内でも最大級の公団住宅が立ち並ぶ「レジデンス・ミシュレ」の再建、15年の完成を目指す17区クリシー・バニョレの住宅、公園を建てるための土地開発などが挙げられる。

大規模な住宅建設事業は雇用を創出すると同時に、首都圏の住宅価格上昇を抑制するだろう。

3. セーヌ河岸の車両減

2010年4月にドラノエ市長がセーヌ河岸の整備計画を 発表した。11年にパリとその周辺の町の住民を対象に行ったアンケートでは、71%が当計画に賛成という結果だった。この整備計画は両岸で異なる。

左岸ではソルフェリーノからアルマまで自動車の通行を遮断。工事着工は13年春からで、約2.3キロメートルの間が車両進入禁止となる。  

セーヌ河岸の工事
2012年夏、急ピッチで進められたセーヌ河岸の工事

一方、右岸では高速道路だったところを近代的かつセーヌ川の景観に調和するように植物を植え、信号機や歩道のある緩やかに車の流れる並木通りにする。既に整備工事は 始められ、12年9月半ばに生まれ変わる右岸には、パリ市庁舎公園とアンリ4世の河岸の間1.2キロメートルに歩道 が設けられる。現在、車道となっているセーヌ川側に広い 歩行者用、自転車用の石畳の遊歩道を造り、新しい右岸のシンボルとなるトリコロールの信号も設置。芝や草木を植え、セーヌ川の風景に多くの緑を添えることになる。これまで高速道路2車線の交通量に相当する、1時間当たり平均4000台の車が走行していたが、整備することにより、交通量減と走行車の速度減を狙う。また、両岸を簡単に行き来できるように既存の橋に歩行者専用部分を設ける。実現すると、パレ・ド・トーキョーとケ・ブランリー美術館、チュイルリー公園とオルセー美術館の間を歩いて行き交うことができる。

4. 光ファイバーの普及

フランスをあげての取り組みでもあるが、現在、パリ市内全域でも光ファイバーを張り巡らす工事が進行中だ。既にパリの地中を網の目のように通っている下水道管や電話線、ケーブルの道を利用し、各建物まで光ファイバーが引かれる。工事が完了した地域では、光速で大量のデーターを送信することのできる、毛髪よりも細いガラスやプラスチックの繊維の束、光ファイバーによる超高速インターネット通信技術を各家庭でも簡単に利用できるようになる。現在のADSL回線の約100倍の情報を送ることが可能なため、インターネットへの接続がスムーズになり、映画のダウンロードが数秒ででき、HDや3Dでテレビを見ることもできる。また、遠隔医療や遠隔地での仕事にも応用できるなど、アクセスできると多くの恩恵がもたらされる。各家庭、各事業所などは、建物に届いている光ファイバーを利用する権利がある。

各家庭に光ファイバーをつなぐ工事については、Orange、Free、SFR、Numéricableの4社のうち、1社が行う。2011年初め以降に建てられた新築の25世帯以上の建物には、既に光ファイバーと従来の電話線(銅製)を併設することが義務付けられている。

5. 地区の整備

パリの町の中で大きな改造工事といったら、真っ先にパリ中心部のLes Halles駅周辺を思い浮かべる人は少なくないだろう。地上と地下を含め、公園、駅、ショッピングモール、公共施設などを総合的に再開発する大工事だ。毎日75万人が利用するLes Halles駅とChâtelet駅は、造られてから30年以上も経っていたため、狭くて混雑が著しく、また、安全性も問われた。新生Les Halles駅は、地下3階から地上のサントスタッシュ教会を見ることができるほど広く開放感があり、RER線の出入り口が一目で分かるよう設計されている。全体を覆う透明ガラスの屋根は、自然の風や光が入るように工夫されており、図書館などの文化施設、スポーツ施設、子供が遊べる公園も含め、近代的で明るく、清潔感のある活気に溢れたスポットとなる。完成は2016年暮れの予定。

パリ市内の各地区で行われている開発は、それぞれ地区の象徴的スポットとなりそうだ。15区の展示場、ポルト・ド・ヴェルサイユには高さ180メートルの近代的なピラミッド型高層ビル「Tour Triangle」(17年完成予定)が登場し、レピュブリック広場は第2帝政時代に造られた環状交差点が取り去られ、広場の中心に人々がアクセスできる集会などにも適した広場(13年春完成予定)となる。14区の19世紀後半に建てられたブルッセ病院の再建、全仏オープンテニスの会場である16区のローラン・ギャロスの拡大・改良工事などを含め、公共施設の整備も次々と行われている。

完成後のTour Triangle完成後のTour Triangle
ポルト・ド・ヴァンセンヌ
ポルト・ド・ヴァンセンヌでは道路を含めた環境の整備が進んでいる

バリアフリーの町を目指して

パリは世界随一の観光都市でありながら、石畳に段差ありと、決して身障者や高齢者が安心して自由に歩き回れる町とは言えない。車イス利用者や盲人、ベビーカー連れの歩行者など、不自由を感じている人はパリ市民の10%に当たる12万人。そんな人々にとっても便利な町となるべく、歩道やバス乗降に適した道の整備、補助者の配備などを進めている。

Wi-Fi サービス

Wi-Fi表示
公園の入口にあるWi-Fi表示

市内を含め、イル・ド・フランス地域圏では公園、美術館、図書館などにおいて無線LANで超高速インターネット通信に接続が可能なWi-Fiサービスを無料で利用できる。「Paris Wi-Fi」のロゴが目印。また、シャトレ駅、東駅、モンパルナス駅などを含む十数カ所の地下鉄やRER線の駅、約10カ所のバス停でも同サービスが利用できる。
TEL : 08 10 55 54 21

知的公共設備

デジタル掲示板
街角の高画質デジタル掲示板

2011年2月までに公募で集まった、実用的で知的センスのあるパリの未来の市街地設備となるアイデアの中から選ばれた40点が、6カ月から1年の間、実際にパリの町の中で試用される(12年から)。例えば、小さな空間を有効に利用した、10台ほどの自転車が収まるケース「Vélobox」(4区)や、センサーを利用して駐車場の空きなどを報告するネットワークシステム(15区)など。

緑地化

都市温暖化現象へ対処するため、パリ市内の緑化もさることながら、郊外も合わせて1000ヘクタールの植林を行う。パリの北西にあるピエールライエの森が一例。合わせて住宅難を解消すべく、植林地周辺に約8000戸の住宅を建設する予定。

改造により発展を続けてきたパリの歴史

ガリア人が住み始めたシテ島からセーヌ左岸に、そして右岸へと広がっていったパリは、現在では約1万ヘクタールの大きさに及ぶ。パリの歴史は要塞の歴史とも言えよう。パリの要塞は少なくとも7回は築き直され、拡大した。  

最初の要塞は3世紀末にシテ島に造られ、ノルマン人の攻囲に屈せず守られた。その後、パリはセーヌ右岸へと拡大を続け、新たな要塞がサン・ジェルマン・ロクセロワ教会とサン・ジェルヴェ教会の間に築かれた。  

そして中世、とうとう大都市としてのパリの輪郭がフィリップ・オーギュストの壁によって造られることになる。十字軍遠征を前にパリを守るために3番目に築かれた要塞だ。5キロメートル間隔で要塞の標柱が置かれ、都市化が強化された。そのフィリップ・オーギュストの時代、パリの人口は約5万人。その1世紀後には要塞内の人口は20万人にまで膨れ上がり、パリはヨーロッパの大都市へと変貌を遂げた。  

ルーヴル美術館内に残る要塞の一部
ルーヴル美術館内に残る要塞の一部

そして14世紀には4番目の要塞が築かれる。シャルル5世は主に右岸へ要塞を拡大した。1420年に完成したシャルル5世の要塞の形状はその後2世紀にわたって守られることになる。5番目に築かれた要塞は、石で積み重ねたものではなく、土を盛り、周辺より少し高くしたものだった。4区のボーマルシェ通りがその一例で、周囲の通りに比べ約4メートル高くなっている。16世紀のアンリ2世が囲った要塞はルイ13世へと引き継がれたが、ルイ14世の時代にはパリはもはや要塞のない、開放された都市に変革されたため、ルイ15世の時代には人口が2倍に増えた。ルイ16世は巨大化したパリで統制がきかなくなることを恐れ、大通りの建設を禁止した。6番目の要塞は、事実上税収のためのもので、フランス革命直前に築かれた「総括徴税請負人の壁」と呼ばれる要塞だ。これは18世紀における最大の工事であり、55カ所の税関が設けられ、パリはそれまでの2倍の面積(約3300ヘクタール)となり、境界線が明確になった。

フランス革命後の1791年にいったん壁は取り払われたが、98年には再築され1860年まで続く。そして7番目の要塞が築かれたのはルイ・フィリップ時代、公共工事の大臣を務めたアドルフ・ティエールが、当時敵対していた英国などへの対策として町を要塞化するために外環状線を造り、要塞内で1860年まで税収を行った。同時に、1795年以降12の行政区に分かれていたパリは、1860年より拡張されて20区に再編され、人口は170万人と記録されている。その後、1920年に全要塞は取り壊された。  

要塞の変更とは別に、19世紀に行われたパリの大改革と言えば、ジョルジュ・オスマンによるものだろう。不衛生なパリに上下水道を設け、エトワール広場を中心に大通りを造り、複雑に入り組んだ路地を大幅に減らすなど交通網を整備、建造物を高さ、形状を統一あるものにし、パリの文化施設の象徴となるオペラ・ガルニエ座の建設などを進めた。パリは清潔で世界の主要都市にふさわしいものとなった。

 

高いところで気分転換をしよう

高いところで気分転換をしよう

夏の爽やかな青空の下、いつもと違った角度から
住んでいる町を眺めてみてはどうだろう。
住んでいると意外と訪れないスポット、
夏のバカンス時期にゆっくりと訪れるのもいい。
町の景観に新鮮な感激を覚えること間違いなしだ。
(Texte et photo : 編集部)


パリ編

ホテル・コンコルド・ラファイエットの都会派バー

ホテル・コンコルド・ラファイエット La Vue950以上の客室が備わっている34階建ての四つ星ホテル、コンコルド・ラファイエットのタワーはパリのランドマークにもなっている。その最上階にあるラウンジ・バー「La Vue」から見下ろすパリの風景は、決して他では見られないもの。グラスを傾け、パリに居る喜びを味わいたいなら、日暮れ時がお薦め。全面ガラス張りの窓に向いている席からは、オレンジ色に輝くエッフェル塔を含めた宝石箱のようなパリの夜景が一望できる。アジアでバーやラウンジのデザインを手掛けたピエル・ルイジ・コパの内装は都会的でロマンチックなムードを演出。カクテル調合の達人、ステファン・マルタンによるカクテルメニューをぜひお試しあれ。

La Vue
Hôtel Concorde La Fayette
3, pl du Général Koenig 75017 Paris
TEL : 01 40 68 51 31
www.concorde-lafayette.com
日~水 17:00-翌1:00、木~土 17:00-翌2:00 (8月26日まで毎日 17:00-翌1:00)

アンドレ・シトロエン公園の気球

アンドレ・シトロエン公園の気球大手自動車メーカー、シトロエンの工場跡地に造られた公園は、芝生が一面に広がる開放的で、水と緑が調和よく配置された近代的な公園だ。その公園上空に浮かぶのは、世界一大きな気球。気球に乗ってパリの上空150メートルに上昇すると、地上とは違う風を肌で感じることができる。1999年に出現したこの気球は、パリ市民の娯楽はもとより、今ではパリの大気観測にも役立っている。空気の質によって変わる気球の色を見て乗船するかを考えよう。緑は○、赤は×。ルイ16世の時代にフランス人、モンゴルフィエ兄弟によって発明された熱気球は、今でもフランス人の興味を引く乗り物となっている。

Ballon Air de Paris
Parc André Citroën
Quai André Citroën 75015 Paris
www.ballondeparis.com
9:00-閉園(30分おきの乗船)
10€(土日曜日・祝日 12€)

世界一美しい通りを見下ろせる凱旋門

凱旋門ナポレオンの命によって古代ローマにある凱旋門をモデルに建立されたモニュメント。パリに帰還した兵士たちは家路につく前に必ずここを通るようにナポレオンに言われていた。凱旋門の最上階、テラスに上ると、エトワール広場を中心に放射状に通りが伸びているのが分かる。ラデフォンスの近代的なビル群からシャンゼリゼ大通り、歴史の重みあるルーヴル美術館の建物までが見事に一直線上に見渡せる。上ばかりが注目されがちだが、門の下には、第1次世界大戦の無名戦士の遺骸が埋葬されており、1923年追悼の火がともされて以降、毎日18:30に点火され炎が絶やされることはない。

Arc de Triomphe
Pl Charles-de-Gaulle 75008 Paris
TEL : 01 55 37 73 77
arc-de-triomphe.monuments-nationaux.fr
4月1日~9月30日 10:00-23:00 10月1日~3月31日 10:00-22:30
休: 1月1日、5月1日・8日午前、7月14日午前、11月11日午前、12月25日
9.50€

シャンパンで乾杯できるエッフェル塔最上階

エッフェル塔最上階全高324mの錬鉄製の塔に、一度といわず、何度も上りたくなる粋なバーがある。汗をかきながら階段で上がってきた人も、長い時間待ってエレベーターで上がってきた人も、最上階にあるシャンパン・バーで乾杯しよう。一杯10~15€とうれしい価格で、ロゼ、白とお好み次第。眺めも、気分も最高だ。作家モーパッサンは、エッフェル塔を「不格好な骨組み」、「空洞の燭台」と呼んで嫌い、よく上っては塔が見えない最高の眺めとともに食事をしたという。やはりこの塔からパリを眺めるのが一番なのだろうか……。

Bar à Champagne
La Tour Eiffel
Champ de Mars 75007 Paris
TEL : 01 44 11 23 23
www.restaurants-toureiffel.com
9:00-22:30(6月中旬~9月末23:00まで)
バー:12:00-22:00

ノートルダム大聖堂の伝説の塔

ノートルダム大聖堂パリを訪れたら見逃せない観光名所の1つ、ゴシック建築の傑作であるパリのノートルダム大聖堂は、作家ユゴーが革命に沸く市民を中世の舞台に置き直し描いた小説「ノートルダム・ド・パリ 1482年」の舞台としても知られる。その中に登場する民衆の力をも象徴した、グロテスクな風貌のカジモドがこの大聖堂の塔の鐘突き男だ。387段の塔の階段を上がると、そこには不気味な怪物たちの彫刻が。カジモドに塔から突き落とされた聖職者フロロを思うと背筋が寒くなるが、足下に注意しながら南塔を上がってみよう。屋上の眺めは、疲れが吹き飛ぶほど格別だ。

Notre-Dame de Paris
Rue du cloître Notre-Dame 75004 Paris
TEL : 01 53 40 60 80
www.notredamedeparis.fr
4月1日~9月30日 10:00-18:30(6~8月の土・日 10:00-23:00)
10月1日~3月31日 10:00-17:30
休 : 1月1日、5月1日、12月25日
8.50€

日光浴もできるモンパルナスタワーの屋上

モンパルナスタワーの屋上田園風景の広がる丘だった土地が18世紀に切土され、歓楽街、そして芸術家、作家の集まる町、モンパルナスへと発展。そこに建てられたのが、59階建てのパリ市内で一番の高層ビル、モンパルナスタワーだ。1959年、モンパルナスタワーの計画を基に調査が始まり、69年、ようやくタワーの工事に着工し、73年に完成した。53階まではオフィスが入居し、56階はパリの町が一望できる展望室となっている。56階までは世界最高速のエレベーターで38秒。屋上テラスへ上がると地上210メートルの日差しと風を感じることができる。北はドゴール空港、東はヴァンセンヌの森、南はムードンの天文台までも見通すことができる。

Tour Montparnasse
33, av du Maine 75015 Paris
TEL : 01 45 38 52 56
www.tourmontparnasse56.com
4月1日~9月30日 9:30-23:30、10月1日~3月31日 9:30-22:30
(金・土・祝日前日9:30-23:00)
大人13€ (7~15歳 7.50€、学生 9.50€)

遊園地のアトラクションの目玉、観覧車

観覧車バカンスの時期、移動式遊園地がパリのみならず郊外や地方の都市にもやってくる。その目玉の1つが観覧車。小さなプライベートの空間はゆっくりと数分間かけて空中を回転し、360度美しい街の風景を見渡すことができる。パリの中心部では夏チュイルリー公園に、冬コンコルド広場に恒例の観覧車が出現する。親密になりたい相手と、もしくはパリの眺めを独り占めするために、ぜひ夢のひとときを……。1900年のパリ万国博覧会で全高100メートルの当時世界最大の観覧車が設置されたことからも、現在も観覧車は欠かせないアトラクションのようだ。

Fête foraine du Jardin des Tuileries
Jardin des Tuileries Rue de Rivoli 75001 Paris
www.feteforaine-jardindestuileries.com
2012年8月19日(日)まで

広大なサン・クルー公園のテラス

サン・クルー公園のテラス7世紀にルイ14世が弟のために購入したサン・クルーの城と公園は、後にマリー・アントワネットにより改良が施された。1870年、大火災にあった後、君主制や帝政と深く結びついていたこの城はとり壊されたため、現在は城跡と噴水の庭園が見られるのみ。460ヘクタールの緑豊かな広大な敷地は、現在、レストランや博物館、スポーツができるスペースもあり、サン・クルーの住民を始め、パリジャンの週末の憩いの場所となっている。丘の並木道を上がって、セーヌ川の方向を眺めてみよう。例えば「手すりの円形広場」は、パリの町の眺めが美しいテラスとなっている。

Domaine national de St-Cloud
92210 St-Cloud
TEL : 01 41 12 02 90
saint-cloud.monuments-nationaux.fr
3・4・9・10月 7:30-21:00
5~8月 7:30-22:00
11~2月 7:30-20:00
入場無料

ムードンの天文台のある丘

ムードンの天文台のある丘パリの南西、ヴェルサイユに向かう途中にあるムードンの丘には、フランス最大級の天文台が立つ。ここは世界でも屈指の天文学研究所であり、天文学と天体物理学の研究などが行われている。建設は17世紀。土星探知機の名称の由来にもなっているイタリア出身の天文学者、ジョヴァンニ・カッシーニが初代台長を務めた。上空の、更に高いところを研究するこの場所には、緑が広がり、その高台からは遠くにパリが見える。革命記念日の花火が見えるスポットとして、地元の人たちが集まる。

Observatoire de Paris - site de Meudon
5, pl Jules Janssen 92190 Meudon
TEL : 01 45 07 75 30
天文台は2013年6月まで閉鎖

地方編

南仏の世界一高い高架橋、ミヨー橋

ミヨー橋フランス南部、ミディ・ピレネー地域圏を流れるタルン川の渓谷に架かるこの橋は、主塔部分の高さが343メートルにも及ぶ世界で最も高い橋。バカンスシーズンに、この川を渡って南へ向かう車が大渋滞を起こし、交通の難所となっていたため、この橋が英国の建築家、ノーマン・フォスターの協力も得て設計された。開通は2004年。渓谷に雲が立ちこめたときには、まるで雲海を渡るような幻想的な光景になる。傾斜角度などがドライバーに恐怖感を与えないよう工夫も施されたこの橋、南仏へドライブする際に1度は渡ってみたい。

Viaduc de Millau
メゾン・ミディ・ピレネー
TEL : 05 34 44 18 18
日本語ウェブサイト
www.midipyrenees-kanko-spot-tokusen.jp

ル・ピュイ・アン・ヴレーにそびえる火山岩に立つ礼拝堂

ル・ピュイ・アン・ヴレーリュベロン地方のゴルドやニースに近いエズなど、南仏には丘の上に孤立した城壁を構える町が数多く存在するが、オーヴェルニュ地域圏のル・ピュイ・アン・ヴレーには、奇妙な一方で神聖な雰囲気の漂う丘がある。標高80メートル以上の火山岩尖端に立つロマネスク様式のサン・ミシェル・デグイル礼拝堂に行ってみよう。ここは中世にサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の起点となったこともあり、今でも250段以上もある階段を上がり巡礼をする人が後を絶たない。上から眺めるのもいいし、岩山のそびえる町の全景を遠くから眺めるのもいい。歴史ある絶景を堪能しよう。

Le Rocher et la Chapelle St- Michel d’Aiguilhe
ル・ピュイ・アン・ヴレー観光局
TEL : 04 71 09 38 41
www.ot-lepuyenvelay.fr

 

フランスで手当金(アロカシオン)をもらう

フランスでアロカシオンをもらう

フランスで生活をする上で、どんな手当があり、
それはどんな場合に支給されるのか知っておくことは重要だ。
当然支給される権利のある手当から、
いざというときに必要となるものまで、
申請を行うべき機関やそろえる主な書類など、
手当の種類を見ていこう。
(Texte : Emiko Tsuzuki)

*すべての金額、手続きに関する情報は、2012年7月当時の情報です

アロカシオンとは

日本に社会保障制度があるように、フランスにも同様の制度があり、支給される手当金のことをアロカシオン(Allocation)という。Allocations Familiales(家族手当)、Allocations Logement(住宅手当)、 Allocations chômage(失業手当)などがあるが、家族手当、住宅手当は家族手当金庫であるCAF(Caisse d’Allocation Familiales)、失業手当は職業安定所であるpole-emploiというように、アロカシオンの内容により管轄機関が異なる。

フランス人にとっても大切なアロカシオン制度

CAFの統計によると、2012年3月31日現在、フランス本土で約1776万人がCAFからの手当を受けている。これはフランス人口の約27%に当たる。アロカシオンはフランスで生活する人にとって大切な制度であるようだ。

グラフから確認できるように、一番多いのが家族手当関係の支払い。出産(もしくは養子受入)・育児に関する出生関係手当と合わせ、扶養に関する手当はCAF全体の46%、フランス人口の約13%が家族関係のアロカシオンを受けている。

次いで住宅補助関係が多く、CAF全体の32%を占める。うち学生への支給件数は70万6267。住宅補助を受給している人の12%は学生だ。

CAFによるアロカシオン支給件数
(2012年3月31日現在)

(2012年3月31日現在)CAFによるアロカシオン支給件数

CAFによるアロカシオン支給者数
(2012年3月31日現在)

保証内容 受給者数
出生関係 220万9708人
家族手当関係 605万7225人
住宅補助関係 496万 569人
住宅補助関係(学生) 70万6267人
収入保証関係 382万1855人

(グラフ、表ともCAFのデータを元に作成)

住宅補助

アロカシオンの2大柱の1つである住宅補助手当。住宅補助制度とは主たる生活住居の家賃や住宅ローンの支払いを一部CAFが補助してくれるというもの。外国人でも申請はできるが、受給するにはさまざまな要件がある。

1留学生の場合

留学生でも当然の権利として申請は可能だが、社会保障が充実しているために、悪意に利用する人が多いフランスでは、留学生のアロカシオン受給を快く思わない人もいるようだ。そもそもアロカシオンとは最低限の生活を営むための援助制度であるが、留学で渡仏=「裕福」と考える人もいる。アロカシオンを受給する場合は学業に専念するなど学生としての誠意を尽くすようにしよう。

受給資格1:滞在許可
外国で生活する場合に必要となるのが滞在許可証。アロカシオンの申請は外国人にも門戸を開いてはいるが、有効な「滞在許可証」があることが絶対条件。3ヵ月以内の滞在のためビザ及び滞在許可証を取らず、「プチ留学」としてフランスで語学学校に通う場合などは対象外。また、ワーキングホリデービザで入国している人も対象外となる。

受給資格2:所得要件
申請する前々年の所得を問われる。学生の場合、年間収入が4800€以下(奨学金を受けている場合は5700€)とされている。申請の書類には収入状況の記載が必要で、奨学金や親からの援助があれば記載しなければならない。また金融資産による収入があればそれも記載する。

受給資格3:住宅要件
申請する前々年の所得を問われる。学生の場合、年間収入が4800€以下(奨学金を受けている場合は5700€)とされている。申請の書類には収入状況の記載が必要で、奨学金や親からの援助があれば記載しなければならない。また金融資産による収入があればそれも記載する。

いかなる居住形態でも要件を満たせばOK。つまり、アパート(家具付、家具なし問わず)、又貸し、学生寮、ルームシェア(※)、ホテルの一室、ホームステイなど居住タイプは問われない。問われるのは間取りや広さ。ルームシェアやホームステイなどの場合、そこで自分が占有する部分の広さを問われる。  

ところで、生活保障の一部でありながら、質素すぎる住宅は対象外という点にも注意しよう。健康を損なわないための最低限の快適性がある住居(湯沸かし設備、暖房設備など)であること、広さは最低でも9㎡(一人暮らしの場合)は必要とされる。  

なお、住んでいる住居が家族の所有物件である場合は支給対象外。例えば、日本の両親がパリに所有するアパートに滞在するという場合には支給されない。

(※)ルームシェアの場合は賃貸契約書に同居するすべての人の名義が記載されていることが必須。

2住居者の場合

留学生の場合と同じく所得要件や住宅要件などがあるが、賃貸はもちろん、住宅購入のための住宅ローンの支払いも補助対象となる。特に住宅ローン返済補助の手当をAide personnalisée au logement(Apl)といい、手当金はCAFから債権者(銀行やローン会社など)へ直接支払うようになる。

もらえる金額は?
賃貸であってもローンであっても住居にかかるお金は大きく、アロカシオンを受けたい人には金額は重要ポイントだ。しかし計算は個々の状況に応じて行われ、居住地域、物件の構造、間取り(部屋数)、面積、備付け家具の有無などにより異なる。居住物件の目処がついているならシミュレーションしてみよう。シミュレーションは下記のウェブサイトにて可能:

CAFのウェブサイト
wwwd.caf.fr/wps/portal/caffr/aidesetservices
/lesservicesenligne/estimervosdroits/lelogement

申請するには?
申請には貸主の記載、サインも必要になる。前述したように、中にはアロカシオンの受給を快く思わない貸主もおり、すべての要件を満たしていても書類への記載を拒否する貸主もいる。アロカシオンを前提に賃貸契約もしくはホームステイを考えているなら、確約する前に確認しよう。

必要書類は、

● 申請書 (CAFに直接行ってもらうか、ウェブサイトよりダウンロードする)
なお、申請書類は申請書、賃貸証明書、世帯状況証明書、収入証明書がセットになっている。
● 滞在許可証(オリジナル&コピー)
● 銀行RIB

これらの書類をそろえ、最寄りのCAFへ提出する。

支給は居住月の翌月から退去月の前月まで。申請が遅れる場合でもさかのぼって支払われるので安心だが、できるだけ早めに申請したい。なお、退去する場合もCAFへの届出が必要。万一、届出を忘れ退去後にもアロカシオンを受給していた場合、CAFより払い戻しを請求される。自分が黙っていても貸主(大家)が退去届けを提出することで判明する場合もあるので注意。

住宅手当参考サイト
www.service-public.fr (Logement)
www.caf.fr/aides-et-services/s-informer-sur-les-aides/logement-et-cadre-de-vie

家族手当

フランスで結婚、出産し、子供を育てる人には家族手当が気になるところ。家族手当というと厳密には家族手当(Allocation familials)になるが、その他の子供の扶養に関する手当と合わせ、出生から成長に伴いどんな手当があるか確認しよう。

1子供が1人の場合

出生(または養子受入)すると
● 出生(または養子受入れ)一時金(Prime à la naissance ou à l'adoption)
世帯所得が規定額(※1)以下の場合、妊娠7カ月を迎えたときに一時金が支給される。一時金の額は912.12€。養子の場合は1824.25€。

0歳~3歳までの間は
● 基本手当(Allocation de base)
世帯所得が規定額(※1)以下の場合、月額182.43€支給される。期間は子供が3歳の誕生日を迎える前月まで。養子の場合は36カ月間(子供の年齢が20歳を限度とする)。

※1 世帯所得は申請年の前々年の所得税申告の金額を問われる。子供の数、共働きかどうかにより規定金額は異なるが、子供1人の場合、夫婦の一方のみが働いている場合は年収34103€、共働きなら45068€。なお申告所得はCAFが税務署に直接確認する。

働くママには……
● 就業自由選択補足手当(Complément de libre choix d'activité)
育児のために職を離れたり、労働時間を短縮する場合に支給される。支給条件は、世帯所得が規定額以下であること、子供が3歳以下(養子の場合は20歳以下)であること、過去2年間年金(cotisations vieillesse)を納めていること。支給金額は基本手当を支給されている場合、離職の場合が月額383.59€、時間短縮の場合は月額247.98€または143.05€(短縮時間による)。支給期間は最長6カ月。

(注) 年金納付期間、支給金額及び支給期間は子供の数により異なる。ここでは子供1人として記載。

● 保育方法自由選択補足手当(Complément de libre choix du mode de garde)
子供をassistant(e) maternel(le)(ベビーシッター、通称ヌゥヌゥ)またはgarde à domicile(保育ママ)に預ける場合、その者に支払う給与の一部及び社会保険の雇用主負担分を全額または一部補助してくれる。条件は、所得が月収798€(単身の場合399€)以上かつ世帯所得が規定額以下であること。またベビーシッターなど被雇用者に関する規定があり、assistant(e) maternel(le)なら、各地域にある乳幼児保護機関(Service de la protection maternelle et infantile)に認定されていなければならない。シッターの子供1人当たりの報酬は日給47€を超えてはいけない。その他にも、預け先がアソシエーションや、シッター、保育ママを派遣するなどの民間認定機関の場合は、保育時間が1カ月に16時間以内という規定がある。条件に合う場合は子供が6歳になるまで補助を受けられる。補助金額は子供の数、子供の年齢により異なる。

6歳になったら……
● 学業準備金援助(Allocation de rentrée scolaire)
子供の入学・進学に関する準備金援助を目的とし、世帯所得が規定額(※2)以下の場合に毎年支給される。支給額は子供の年齢に応じ356.20€(6~10歳)、375.85€(11~14歳)、388.87€(15~18歳)。当援助金の概要は連載コラム「身近な経済学」No.17を参照。

※2 所得は前々年の所得を問われるが、規定額は子供の人数により異なる。子供1人の場合は23200€。

22人目が生まれたら

● 家族手当(Allocations familiales)
世帯所得が規定金額(※3)以下であることが条件だが、扶養すべき子供が2人以上になった場合に支給される。ただし子供2人とも20歳以下であること。支給金額は月額127.05€。子供が3人、4人……と増えるに従い支給金額も増える。また、子供の年齢と共に追加支給があり14歳(※4)になると63.53€月額に加算される。

※3 世帯所得は申請年の前々年の所得税申告の金額を問われる。子供の数、共働きかどうかにより規定金額は異なる。申告所得はCAFが税務署に直接確認する。
※4 法改正により現在は14歳(生年月日が1997年5月1日以降)になれば63.53€の追加支給となるが、1997年5月1日より前に生まれた子は改正前の法が適用されるため、11歳で月額35,74€が追加支給され、16歳になるとこの額が63.53€になる。

家族手当関係は、妊娠確認後に医師よりもらう証明書(Premier examen médical prénatal)の提出でCAFより受給者番号を付与され、以後は子供の年齢に応じ自動的にCAFにより支給可否、金額等を計算される。ただし、就業自由選択補足手当及び保育方法自由選択補足手当は、CAFのサイトまたは最寄りのCAFにて申請が必要。また保育方法自由選択補足手当は、www.pajemploi.urssaf.fr のサイトにて各月ベビーシッターへの支払額の報告が必要になる。

家族手当参考サイト:
www.service-public.fr (Famille)
www.caf.fr/aides-et-services/s-informer-sur-les-aides/enfance-et-jeunesse

 

ロンドン五輪へ

地図世界のアスリートたちが一堂に会するロンドン五輪へ

開幕間近のロンドン五輪。
その主な舞台となるロンドン東部ストラトフォード周辺には、
開会式が行われる五輪スタジアムや
巨大なショッピングセンターなどが建設された。
注目のフランス代表選手たちにも会える、
オリンピックパークを中心にした五輪施設を紹介しよう。
(取材・文:英国・フランスニュースダイジェスト)

Photo: ①③⑤⑩⑭ Yuichi Ohara / ②④⑥⑦⑧⑨⑪⑫⑬⑮ London 2012

国際放送メディア・センター1. 国際放送メディア・センター(IBC / MPC)
The International Broadcast Centre / Main Press Centre

五輪開催中のメディア本部。ケータリング施設に加えて、銀行、旅行代理店、郵便局としての機能をも担う場所となる。昨年7月には既に建設が完了しているのだが、プレハブが並ぶだけの簡素な造りから「ここが放送局なのか?」と思わせるような一角も。

ベロドローム

2. ベロドローム  
Velodrome

プリングルス自転車競技場。外観が似ていることから、スナック菓子の「プリングルス(右写真)」が愛称として付けられている。競技場を奇抜な形にして、この種目に注目を集めようとした、とも言われる。五輪後はロード・サイクル用のサーキットなどを新たに追加し、複合スポーツ施設として運営される予定だ。

リー川

3. リー川  
River Lea

元々は流れの激しい川で洪水の危険もあったが、水門が設置されてからは運河となった。また周辺地域が産業用地としても使われた名残で汚染がひどかったものの、五輪開催地となることが決まった後に大規模な浄化作業が2年間かけて実施された。

五輪のことがもっと気になる豆知識五輪パークの開発に当たり、景観保持やクリーン・エネルギー利用への移行のため、敷地内にあった送電タワーをすべて撤去し、地下ケーブルに切り替えた。従来であれば10年はかかると言われていたこの工事、たった18カ月で完了したそう。

ハンドボール・アリーナ

4. ハンドボール・アリーナ
Copper Box

ハンドボールの試合に加えてフェンシングの練習場としても利用される。建設にリサイクルされた銅が用いられたことから、カッパー(銅)・ボックスとも呼ばれる。観客席を移動可能な造りにしたことで、国際選手権のような大イベントから、地域のスポーツ大会のような小さなイベントまで幅広く利用でき、持続可能性を備える。

ハンドボールハンドボール
2008年、北京五輪で金メダルを獲得した男子ハンドボール・フランス代表。男女とも世界選手権などの大会では常に上位に食い込んでいる。今年5月、日本代表女子はフランスに敗れたため、五輪出場のチャンスを逃し、苦杯をなめた。

ハンドボール・アリーナ

5. ビュー・チューブ  
View Tube

五輪パーク周辺の施設や跡地の利用法について、写真とともに解説している簡易博物館スペース。これまた「環境配慮」から、リサイクルされた配送コンテナで造られている。隣にはカフェや五輪グッズを販売するショップもある。

Olympic Stadium

6. 五輪スタジアム  
Olympic Stadium

環境に配慮して、上部の白い骨組みには建設で余ったガス・パイプが再利用されている。また競技場の屋根は全体の3分の2までしか閉じることができない。これは、陸上競技種目において屋根を完全に閉じてしまうことで室内参考記録扱いされないようにとの配慮から。大会後もこのスタジアムは残されるが、観客席は縮小する計画。上部の観客席5万5000人分のスペースは他施設での転用を検討しているそう。

五輪のことがもっと気になる豆知識最少の工事で作り上げた最小限のスペースに、より多くの観客を収容する狙いから、五輪スタジアム内には飲食施設が一切設けられていない。会場の敷地面積は4年前に行われた北京五輪の3分の1だが、同じ数の観客を収容することが可能になっている。

クリストフ・ルメートル

陸上競技
大会後半に盛り上がる陸上競技。フランスで注目の選手は、100、200メートルの国内記録保持者、クリストフ・ルメートル。100メートルの自己ベストは9秒92と、白人ではまれな駿足に加え、爽やかな笑顔が人気の理由。

Eaton Manor

7. イートン・マナー  
Eton Manor

車椅子テニスの会場。かつてはスポーツ・センターとして利用されていたが、2001年から使用が途絶えていた。内部には2つの大戦における戦没者記念碑が立つ。また敷地内には、選手向けに練習用のプールも併設。大会終了後には、ホッケーなど多種目に対応した複合スポーツ施設として利用される。

Basketball Arena

8. バスケットボール・アリーナ
Basketball Arena

選手村とベロドロームとの間に位置する。パラリンピックの際には、12時間以内で車椅子バスケットボール・コートから車椅子ラグビー競技場へと様変わりさせる予定。大会後の解体も決定しており、最も変化の激しい場所かも。

バスケットボールバスケットボール
バスケットボール・フランス代表の愛称は「レ・ブルー」。1948年、初出場のロンドン五輪、2000年のシドニー五輪では男子チームが銀メダルを獲得、女子チームも01、09年の欧州選手権で2度優勝している。

オリンピック・パラリンピック選手村

9. オリンピック・パラリンピック選手村
Olympic and Paralympic Village

1万7000人が利用可能なこの建物群、遠くから見ると何の変哲もない住宅街だ。効率的な建設を目指した結果、この住居施設にはキッチンがないという。部屋のイメージとしては、今や世界中で利用可能な簡易ホテル「ホリデー・イン」の一室に似た造りをしているそうだ。五輪終了後は2800戸の住宅として生まれ変わる予定。

五輪のことがもっと気になる豆知識ロンドン五輪における3つの理念: 1つ目は「環境配慮」。会場内で再生エネルギーを利用したり、建築物にリサイクル素材を用いたりなどの取り組みが見られる。2つ目は「地域の再生」。産業用地として利用されてきたロンドン東部ニューアム地区にメイン会場を置くことで、同地域の再生を目指している。3つ目は「持続可能性」。過去の五輪では、巨大施設が後に地域のお荷物的存在になることが珍しくなかった。そこでロンドン五輪では、大会終了後の使用を視野に入れた建設計画を用意。国民の税金で賄う予算の75%が跡地利用関連に費やされるそう。

 Westfield Stratford City

10. ウェストフィールド
Westfield Stratford City

ロンドン五輪計画に合わせて建設された巨大ショッピング・センターであり、その規模は欧州最大級。五輪開催中は、ストラトフォード駅を降りてから会場に到るまでの通路となる。またデパート「ジョン・ルイス」の最上階には、五輪パーク観覧ポイントが設けられている。

11. ストラトフォード駅・ストラトフォード国際駅
ストラットフォード Stratford / Stratford International

五輪をきっかけに拡張工事が実施された。ストラトフォード駅にはナショナル・レール、DLR、地下鉄、オーバー・グラウンドが発着、また前者2線の停車駅となるストラトフォード国際駅からは、日立製の高速列車「ジャベリン」が運行する。ジャベリンは、セント・パンクラス駅から片道5ポンドで乗ることが可能。

五輪のことがもっと気になる豆知識ガイド・ツアー中、敷地付近を通る車の所持品検査が行われていた。警察犬も待機しており、警備に気を使っていることが分かる。大会中、観客は、ストラトフォード駅を始めとする限られた場所からしか敷地内に入ることはできない。

12. アクアティック・センター
Aquatics Centre

五輪スタジアム近くに位置し、美しいカーブを描いたフォルムが目を引くプール施設。観客席が設置された両脇がウイング状になっている。観客席は五輪終了後に解体されることになっており、施設自体は地域住民などが利用可能なプールとして残る予定だ。(写真左下)


 Westfield Stratford City

13. 水球アリーナ
Water Polo Arena

水球場。この施設がアクアティック・センターのすぐ隣に位置するのは、省スペース、工事の効率化を意識してのこと。記者席・ケータリング・警備システムなどを両施設で共有している。なお、この施設は大会後に解体されるが、部分的にほかの場所で再利用できないか検討中。(写真右下)

五輪のことがもっと気になる豆知識競技場、選手村など五輪パーク内で利用されるエネルギーの20%は、新たに敷地内で建設・運営される専用施設から供給する予定。バイオマス、風力など再生可能エネルギーを中心に生産する。

 Westfield Stratford City

14. オービット・タワー
Orbit Tower

約115メートルの高さを誇る、五輪を象徴するモニュメント。赤いパイプが入り組んだデザインが印象的だ。中心には銀色のらせん階段があり、上部から五輪パークを見下ろすことができるようになっている。タワー内には最大700人が収容可能で、最上部にレストランを作る計画もあるそう。五輪後は地域のシンボルとして残すという。将来は第2のビッグ・ベン的な存在となるか。

五輪のことがもっと気になる豆知識オービット・タワーに1600万ポンド(約20億円)を出資したのは、インド系の鉄鋼企業ミタル・スチール。またデザイナーはロンドン在住の有名な現代美術家アニッシュ・カプーアである。下水システム用のパイプをどうタワーに組み込むかが建設上の課題だったとか。五輪会場のモニュメントへの出資やデザインを他国の企業や人材に任せてしまうところに英国のビジネス風土を感じる。

15. アビー・ミル・ポンピング・ステーション
Abbey Mills Pumping Stations

別名を「下水大聖堂」という。建物の外観は聖堂のようだが、実はロンドンの下水処理を行う施設。過去にはスチーム・エンジンの力で下部の汚水を汲み上げていた。1933年までは大きな2本の煙突が脇に立っていたが、第2次世界大戦を前に敵の標的とされることを恐れて解体されたとの逸話も。

英国王室御用達の味が買えるブティック

有閑マダムたちが好む家庭料理
Partridges

Partridges

ウィリアム王子と結婚する前のキャサリン妃が頻繁に出没したと言われる、高級ショッピング街のスローン・スクエアに位置する高級食材店。店内に併設されたデリでは、ステーキ & キドニー・パイやシェパーズ・パイといった英国の代表的な惣菜を用意。

2-5 Duke of York Square,
Sloane Square, London SW3 4LY
TEL: 020 7730 0651 
最寄り駅: Sloane Square
営業時間: 8:00-22:00 
www.partridges.co.uk

チョコレート職人が仕込んだ
手作りの味
Prestat

Prestat

英国に帰化したフランス人チョコレート職人の息子が開業した、100年以上の歴史を持つ高級チョコレート店。最高級のココアを使用した商品は今でもすべて手作りで、その完璧主義を貫き通すために、チョコレート販売に関わる全作業を同店スタッフが手掛ける。顧客リストには、お墨付きを与えたエリザベス女王だけではなく、彼女の母である故クイーン・マザーや、故ダイアナ元妃も名を連ねていたとか。

14 Princes Arcade, Piccadilly,
London SW1 6DS
TEL: 0800 021 3023
最寄り駅: Piccadilly Circus/ Green Park
営業時間: 月〜金 9:30-18:00
土 10:00-17:00 日 11:00-16:30
www.prestat.co.uk

英国紳士はこの店でチーズを買う
Paxton & Whitfield

Paxton & Whitfield

ロンドン市内でチーズ販売の屋台を構えていた商人が、店名となったハリー・パクストン氏とチャールズ・ホイットフィールド氏の2人と共同して1797年に創業。1850年にヴィクトリア女王よりロイヤル・ウォラントを授かって以来、エドワード7世、ジョージ5世からエリザベス女王、チャールズ皇太子などに至るまで、歴代の王家メンバーに愛されている。ウィンストン・チャーチル元首相は、「紳士たる者は同店でチーズを買う」という言葉を残したとの逸話も。

93 Jermyn Street, London SW1Y 6JE
TEL: 020 7930 0259
最寄り駅: Piccadilly Circus/ Green Park
営業時間: 月〜土9:30-18:00
日11:00-17:00 
www.paxtonandwhitfield.co.uk

300年以上同じ敷地でワイン店を営む
Berry Bros & Rudd Ltd

Berry Bros & Rudd Ltd

食料雑貨店として始まった1698年の創業当時は、商品の計量のために店内に設置されていた大型の量りで、顧客の体重測定を行うなどのサービスを提供し、話題を集めていたという。19世紀前半から20世紀前半に英国を統治したエドワード7世の時代に王室御用達に指定された。加えて、ナポレオン3世や名優ローレンス・オリヴィエなどそうそうたる面々が同店を贔屓にしたと伝えられている。日本にも支店あり。

3 St. James’s Street, London SW1 1EG
TEL: 0800 280 2440
最寄り駅: Green Park
営業時間: 月〜金 9:00-18:00
土 10:00-16:00
www.bbr.com

 

アルジェリア独立から50年 - アルジェリア独立戦争を振り返る

アルジェリア独立から50年 アルジェリア独立戦争を振り返る

アルジェリア1962年3月、ローヌ・アルプ地域圏にあるエビアン・レ・バンで、フランスとアルジェリア民族解放戦線の間で戦争和平協定が締結された。同年4月にはフランス本国で、7月にはアルジェリアで国民投票が実施され、絶対多数の賛成票を得て7月5日、アルジェリアは独立を達成した。

しかし54年から始まったこのアルジェリア戦争では、兵士はもちろんのこと、多くの市民が犠牲になった。フランスでは第2次世界大戦後の46年に発足し、戦争で崩れたフランス社会の復興に取り組んでいた第4共和政が、50年代に相次いで発生した植民地問題に悩まされ崩壊。危機を救うために担ぎだされたシャルル・ドゴールは、現在まで続く新しい政体、第5共和政を発足させ、アルジェリア戦争終決に向けて動き出すことになった。(Texte:編集部)

アルジェリア戦争と第4共和政の崩壊

戦争の背景

第2次世界大戦後、民族自決の潮流の下、ヨーロッパ諸国の植民地だったインドやパキスタン、ビルマやインドネシアなど、アジア諸国が独立を果たしていた。更にフランスの支配下にあったラオスやカンボジアが独立。1946年から独立を巡ってフランスとの間で戦われた第1次インドシナ戦争も、54年のジュネーヴ協定により休戦となり、ベトナムが独立を果たした。このアジアの独立の波に勇気づけられる形で、アルジェリアでも独立への要求が高まり始めていた。  

54年3月、アルジェリアの独立を望む人たちで、統一と行動のための革命委員会(Comité révolutionnaire d'unité et d'action:CRUA)が結成された。この幹部には、独立に貢献することになる重要な人物が含まれており、後のアルジェリア大統領、ベン・ベラも一員だった。  

ちょうどその頃、フランスは第1次インドシナ戦争でフランスの撤退を余儀なくされた、ディエンビエンフーの戦いの真っただ中であった。同年5月に決定的な敗北を味わったフランスは、ピエール・マンデスフランスを新しく首相に迎える。インドシナ戦争終結に向けて動きだしたマンデスフランスは、7月21日、スイスのジュネーブで和平協定を成立させた。また、チュニジアとモロッコの紛争の解決にも取り掛かり、チュニジアに内政の自治を約束したのに続き、モロッコにも国内自治を付与するなど、植民地との話し合いに応じていった。

特別な植民地、アルジェリア

このように独立に向けて各国との交渉が続くにもかかわらず、フランスはアルジェリアとはこのような話し合いに応じることはなかった。  

アルジェリアは1830年にフランスの支配下となった。フランスはアルジェリアを西からオラン県・アルジェ県・コンスタンティーヌ県の3つに分け、直轄県を置き、フランス本国の延長として内務省の管轄に組み込み、本国の一部としていた。そのためフランス本国の県と同様、本国議会に議員を選出する権利を有していた。アルジェリアとフランス本国との経済的・軍事的結び付きは極めて強かった。コロンと呼ばれるフランス系の移民も多く、他の植民地とは異なり、膨大な規模の白人社会が確立していた。彼らはアルジェリアが独立することで自分たちの地位が危うくなることを恐れ、独立には反対であった。そのためアルジェリアの独立を、フランス政府は簡単に認めるわけにはいかなかったのだ。

第4共和制の崩壊

前出のCRUAは54年10月にアルジェリア民族解放戦線(Front de Libération Nationale:FLN)と改名した。そして同11月1日、ついにゲリラを開始した。これがアルジェリア戦争の始まりである。一時的なものと見られていた反乱は、実は深く根を張ったものであった。  

あくまでも「アルジェリア人によるアルジェリア」の独立を求めるFLNと、「フランスのアルジェリア」を求めるフランス政府との戦いは平行線をたどり、具体的な解決策も見いだせぬまま両方による残虐な殺し合いが続くことになる。アルジェの市内でもFLNによる爆弾テロ、そしてそれに対する政府の復讐が続き、多くの一般市民が犠牲になった。  

56年にモロッコのラバトからチュニジアのチュニスへ向かうベン・ベラらFLNの幹部が乗った飛行機が、フランスの航空当局の命令によりアルジェに着陸させられ、そこでフランス官憲に逮捕されるという事件が発生。これに加えスエズ戦争でのフランスの対応が、モロッコやチュニジアなど、アルジェリア周辺諸国とフランスとの関係を悪化させた。もともと軍事的に劣位にあったFLNはこれら長期にわたる戦いで勢力が弱まっていたが、長引く戦争で国際世論もフランスに批判的になり、これに訴えていく作戦で勢力を保っていった。


フランス政府の抱える問題はFLNだけではなく、現地コロンの不満にもあった。コロンは新しく任命された総監が過去に他国の脱植民地化にかかわった経歴があったり、政府がアルジェリアとの話し合いで譲歩する姿勢を見せたりするたびに不満をあらわにし、しばしば暴動を起こした。このような混乱の中で第4共和政は内閣の交代を繰り返した。そして58年5月13日、アルジェにてアルジェリア学生総協会代表のピエール・ラガイヤルドが中心となり、独立に反対する現地軍人やコロンたちによる暴動が発生。フランス本土への侵攻も盛り込まれたこの暴動は、内戦にもなりかねない状況へと発展した。この混乱の中、危機を救うために政界に呼び戻されたのが、第2次世界大戦中にロンドンで自由フランス政府を樹立し、レジスタンスを指導したシャルル・ドゴールであった。ドゴールは同年6月、内閣を発足。9月28日には第5共和政の憲法案を国民投票にかけ、大統領の執行権が強化された第5共和政が誕生した。  

そしてドゴールは59年9月16日、アルジェリアの将来をアルジェリア人に自由に選ばせること約束する。次々と起こるコロンの反乱などを鎮圧しながら、アルジェリア戦争解決へと徐々に進み始めたのである。

それぞれの50年
旧フランス軍兵士インタビュー

アルジェリアの「治安を維持」すべく、フランス本土からは軍人、徴兵された若者190万人がアルジェリアの戦場に赴いた。アルジェリア戦争は、独立を要求し反乱を起こすアルジェリア人はもとより、独立に反対するコロンや反政府軍事組織との戦いでもあった。  

独立が認められて以降、フランス本国に帰還した旧フランス軍兵士、あるいはアルジェリア人で当時フランス軍に加勢したアルキと呼ばれる旧兵士らは、今でもこの戦争の後遺症に悩んでいる。  

アルジェリア戦争当事者である旧フランス軍兵士のうち、帰還後彼らのために献身的に活動をしている3氏がアルジェリア戦争について振り返った。

「人生を台無しにしたアルジェリア戦争」

ジャンルイ・セルソーさんジャンルイ・セルソーさん
(Jean-Louis Cerceau)
現在72歳 / 兵役期間1961年1月~62年4月

1961年1月、21歳の時、義務兵役で他の20代の男子と同様に徴集されて、陸戦隊に入隊することに。当時のアルジェリア・コンスタンティーヌ県の北、反乱の非常に激しい地に降り立ちました。とうとう、自分もアルジェリア戦争に加わることになったのです。  

アルジェ(Alger)に1カ月、その後駐屯部隊のあるエル・ミリア(El Milia)に戻り、61年12月から62年2月初めまで秩序維持が困難なアルジェリア北西部の都市オランに赴きました。この地域は、最も多くのフランス人を含むヨーロッパ人が住んでいて、アルジェリアの独立に反対していました。オランの要塞にあった軍司令塔の駐屯部隊で、私は秩序維持と戦闘に当たったのです。  戦火が収まったはずの62年3月19日、アルジェリア独立を問う国民投票が行われた同年4月8日、オランでは激しい戦闘が起こり、仲間2人が命を失いました。このオランに駐留した3カ月間が、最もつらく、困難な時期でした。  

その後、アルジェリア戦争が終わり、62年4月にフランスに帰還しましたが、「間接的な損害」はなかなか回復しません。恋人は戦地に赴いた自分を待ってはいませんでした。別の男性と結婚してしまったのです。そして、他の兵士も患ったように、私は何年間も心理的障害を抱え入院するなど、戦争が終わってから10年も治療を続け、20年たっても精神不安定な状態でした。アルジェリア独立戦争終結50周年という今年、いろいろな所で講演会などを行い、当時の痛みを思い出すと、やはり数日間とても心が乱れます。  

私は何の資格も持っていませんでしたが、69年に警察官となりキャリアを積みました。そしてある日、労働組合FO(労働者の力)の事務局長としてテレビ番組でインタビューを受けたときのこと。何とそれを見た、アルジェリア戦争前の恋人が私に連絡をしてきたのです。その3カ月後には、私たちは互いにあった家庭を離れ、一緒になることに決めました。  

アルジェリア戦争は私の人生を台無しにしました。戦争が無ければ、若いときに恋人を失うこともなかった……。戦後50年間の人生を再構築しているのですが、それはとても難しいことです。

「誇りに思うこと、それはフランスにとって最後の戦争だったこと」

ピエール・モリナリさんピエール・モリナリさん
(Pierre Molinari)
現在77歳 / 兵役期間1956年4月~57年12月

フランスで生まれた私は、その後イタリア人の両親と共にアルゼンチンに渡り、そこで学業を修めました。20歳のときにイタリアで兵役を行うはずでしたが、なぜか適合しないという判断。1955年9月1日、フランス国籍も保持する私にフランス政府からアルジェリア戦争への召集令状が届き、フランス国民として戦地に赴くことになったのは皮肉なことでした。56年にアルジェリアに向けて出発。私の所属する部隊では、ティジ・ウズ(Tizi Ouzou)、ブリダ(Blida)、ラグワット(Laghouat)などの戦場を経て、57年からは秩序維持とアルジェの港を守るのが任務でした。

戦場で思ったこと……。戦争が、良いものであるはずがない。仲間の死や、拷問までを目にしたのですから……。ただ、あったのは連帯感だけです。  

フランスに帰還してからは、学業を続けました。アルゼンチンで取得した資格はフランスでは通用しなかったためです。その後、広告代理店勤務、ある機関のエンジニアを経験して、27年間所属した非営利団体UCPA(若者へスポーツを推進する団体)で最後は理事長を務めました。  

私は、北アフリカ在郷軍人全国連盟(Fédération Nationale des Anciens Combatants Algérie, Maroc et Tunisie:FNACA)の前身組織の1つ、FNAA(Fédération Nationale de l'Ancien Algérie)に創立時からかかわり、74年からはFNACAの機関誌の編集委員を務めていました。300人の加盟者のいるパリ11区のFNACAでは、当初からボランティアで、本土に引き揚げてきた元フランス軍兵士が兵士証明書(carte du combattant)を申請する手助けなどをしてきました。今ではほとんどの問題がほぼ解決しました。  

われわれが少し誇りに思っていることがあります。それは、第1次世界大戦、第2次世界大戦に続き、フランスにとってアルジェリア戦争が最後の戦争となったこと。国外への派兵などはありますが、62年の終戦以来、フランスは戦争をしていません。この第3の戦争世代で終止符を打つのです。

「FNACAで旧フランス軍兵士の権利回復を訴え続ける」

FNACAの機関誌「L'Ancien d'Algérie」編集長
ミシェル・サブルディさん
(Michel Sabourdy)

1954年から62年までの7年半のアルジェリア戦争の間、戦地には常に25万人がいるように、兵士が送られていました。ある時期には、それは50万人にも。  

兵士証明書
アルジェリアでの兵役は60~62年。
フランスへ帰還後、兵士証明書の交付を要求し、
76年に同証明書を受け取った。

実に、約200万人が徴兵としてアルジェリア戦争に赴きました。戦争が終息しアルジェリアは独立しましたが、このアルジェリア、モロッコ、チュニジアでの10年にわたる紛争の中で、3万人のフランス軍兵士が命を落としました。アルジェリアでは2万6000人。フランス政府は長い間これを戦争とは認めずに、フランス領土での秩序維持、もしくは保安作戦だったとし、「独立戦争」という言葉を使わなかったのです。そのため、兵士の負った傷害や疾病がなかなか認められませんでした*。58年に創設されたFNACAは、これを戦争と認めさせるための連盟です。73年、フランス政府は歩みよりを示し始め、74年には兵士証明書の交付に関する法が制定されました。これはわれわれ旧兵士の威信にかかわるとても重要なことです。  

FNACAの目的はわれわれの権利を認めてもらうこと。そして連帯。定期的に会合を開き、現況や当時の思い出を語り合うのです。FNACAは全国に4500の委員会があり、1年に1度集会を開きます。35万人の加盟者がいるFNACAフランスで最大の国の連盟です。

*1952~62年、フランス軍の戦死者約2万6000人、負傷者6万5000人


3月19日の記念行事でシャンゼリゼ大通りを行進する
旧フランス軍兵士たち
1962年に帰還したフランス軍兵士たちは、長い間戦場に赴いた事実を認められずに、傷病軍人法が適用されなかった。兵士資格法が制定され、第1・2次世界大戦に従軍した兵士と同じ資格が認められたのは74年。また、フランス政府は「北アフリカでの作戦」と呼び、フランス領土における治安維持としていたアルジェリア戦争を、99年10月20日、「アルジェリア戦争またはチュニジア及びモロッコにおける戦闘」と表現するように法律を制定。その後はアルジェリア戦争を忘れないための記念行事が公的に行われるようになった。
 

見本市 「メゾン・エ・オブジェ」の魅力とは?

Maison & Objet

見本市「メゾン・エ・オブジェ」の魅力とは?

多くの見本市の中でも、フランス国内外から大きな注目を浴びているのが、年に2回開催される インテリアに関する国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」だ。1回の開催で約3000社が出展し、 総来場者数は約8万5000人という大規模なイベントになっている。見本市として成功している 「メゾン・エ・オブジェ」の魅力と効果に迫ってみたい。
(協力:ジェトロ・パリ事務所)

パリ近郊の見本市

パリ市とその近郊では1年を通して、ワイン、チョコレート、生地など、年間400件の見本市が開催されている。また、仕入れ人を含めた見本市への来場者は約900万人。出展社数は総計10万社にも上る。そのため、大きな見本市の開催期間には、パリ市内のホテルの予約が困難になったり、宿泊料金が跳ね上がったりする。  

見本市に呼び込む対象者もさまざまだ。「パリ・モーターショー」のように宣伝を中心に行っているものは事業者以外にプレスも多く、「サロン・デュ・ショコラ」のように事業者と一般の個人入場者を対象にしたもの、「パリ国際ランジェリー展」や「メゾン・エ・オブジェ」のように商談のみを目的としている見本市などあるが、大部分の見本市は商談のみとなっている。  

見本市の成功の鍵は、魅力的な出展者、そして確実に買っていく仕入れ人がいかに多く集まるかにある。商談のみの事業者向けの見本市では、出展者は年間販売額の大部分を売り、仕入れ人は大部分を買い付けるという。見本市の主催者は、出展者を厳しく審査し、質の高い出展者を確保しようとする。  

出展者、訪問者が多いパリの見本市の成功には、「パリ」というブランドも一役買っている。「創造の都」とも呼ばれるパリでの出展、成功は、欧州の市場のみならず世界に羽ばたくための登竜門でもあり、出展した実績そのものが評価される見本市も少なくない。

パリやその近郊にある大きな見本市会場として、パリの北、シャルル・ドゴール空港近くのパリ・ノール・ヴィルパント、そしてパリ市内南に位置するポルト・ド・ヴェルサイユが挙げられる。前者は後者よりも大きく、会場の展示面積は24万6000㎡。日本最大の見本市会場「東京ビックサイト」が約8万㎡というから、その規模の大きさが分かる。1つの会場に数千のブースが集まる見本市で数日間の会期中、仕入れ人はまとめて出展ブースを見て回れるため、コストや時間の面で効率が良い。そのため、見本市は商品を流通させる仕組みとして優れたモデルなのである。

数多くの見本市の中で、近年日本でも広く知られるようになったのが「メゾン・エ・オブジェ」。同見本市への来場者の国別ベストテンには日本が入っている。

「メゾン・エ・オブジェ」とは

年に2回、1月と9月に開催される見本市「メゾン・エ・オブジェ」は、インテリアに関するデザインの見本市の総本山と見なされている。家具、装飾品、テーブルウェアなど、最新のインテリアデザインの事情やトレンドを知るため、また最新の商品を購入するため、仕入れ人や店舗経営者なども来場する。  

「メゾン・エ・オブジェ」はパリ・ノール・ヴィルパントの25万㎡弱の会場を借り切り、更にその会場を拡張している。約3000社が出展し、インテリアや家具、デザイングッズなどの経営者や仕入れ人合わせて約8万5000人が来場する。  

経済効果も絶大だ。仮に、仕入れ人が1人当たり2000万円の予算を持って、数日間開催される1回の「メゾン・エ・オブジェ」で4万人が商品を買い付けたとすれば、約8億円という金額が売買されたことになる。  

また、継続して出展することにより、他のブースの同業、異業種の出展者とのつながりができ、訪問者の中から別の見本市への勧誘があるなど、可能性が大きく広がったという声もこの見本市ではよく聞かれる。

「メゾン・エ・オブジェ」への出展

出展者は、主催者の厳しい審査を経てブースを構えることになる。スペース料金を払えば誰でも出展できるという見本市ではない。見本市「メゾン・エ・オブジェ」の主催者の審査基準は高く、企業などにとっては出展したということがステータスになり、出展実績が大きな影響力を持つ。  

なぜ、そんなに「メゾン・エ・オブジェ」の見本市はブランド力を持つのだろうか? それは、「メゾン・エ・オブジェ」の質やレベル、魅力を維持、向上させたいと願う主催者の並々ならぬ努力にある。主催者は世界各国で行われている見本市なども回り、そのレベルにかなった企業を「メゾン・エ・オブジェ」に誘致しているという。だからこそ、そこに出展している高レベルの企業から商品を購入しようと、多くの仕入れ人たちが集まるのだ。

年々、日本からの出展者も増えている。日本貿易振興機構(ジェトロ)・パリ事務所では、2005年から「メゾン・エ・オブジェ」に「ジャパン・ブース」を設け、日本からの出展者を応援している。2012年1月はジェトロの支援で57社・団体が出展。日本人の来場者は1865人で、フランス以外の国別来場者数では7位だった。また出展者に与えられる賞の中で、出展申込審査が厳しく、競争も激しい、最新のデザインを発信する「Now! design à vivre」というゾーンにおいて、世界で活躍する日本人デザイナー、吉岡徳仁氏が「2012年のクリエーター」賞の1人に選ばれた。

吉岡徳仁氏「2012年のクリエーター」賞の
「Now! design à vivre」を受賞した吉岡徳仁氏

見本市
リピーターを持つことが本当の成功だ。仕入れ人は、毎回継続して買い付けたいブースに、見本市開催期日の初日と2日目にやって来る

「メゾン・エ・オブジェ」の概要

開催場所 Parc des Expositions de Paris Nord Villepinte
開催時期 年に2回、1月と9月
出展物 装飾品、雑貨、家具、テーブルウェア、織物、アクセサリー、贈答品など
出展者 職人、クリエーター、製造業者、出版物発行者、問屋業者、輸入業者など
来場者 事業者(小売業者、チェーン店業者、百貨店、アートギャラリー、建築装飾家、卸売業者など)
来場者数 85 766人の事業者…国外からは39 763人(アジア約11.7%)
来場者の66%に当たる
購入者の主な内訳
(2012年1月展)
• 54% 小売業者
• 14% 百貨店、ショッピングセンターなど
• 13% 製造業者
出展料金 (最低小間9㎡)
基本装飾なし 230€(㎡当たり)
基本装飾あり 284€(㎡当たり。壁、カーペット、電源含む)
小間数と割り当てられた㎡が一致しない場合は費用が調整される

2012年1月の出展作品

Ateliers d'Art de France
Ateliers d'Art de France
©Grégoire Sevaz

Linadura
Linadura
Collection Recto Verso
© Linadura Red dot honourable mention 2011
for Recto-Verso shelves.

Hall 5B côté déco ACTUEL
Hall 5B côté déco ACTUEL
©Anne-Emmanuelle Thion

objet de mode
Prix les découvertes accessoires maison
"objet de mode"

「メゾン・エ・オブジェ」への日本からの出展者を支援する
ジェトロ・パリ事務所に聞く

ジャパンブース
ジャパンブース

近年、フランス(パリ)での見本市に出展する日本の企業が増えているそうですが、それはなぜでしょうか? 

パリで行われる見本市は、まさに国際見本市で、来場者の半数近くはフランス国外から来ています。なぜこれほど多くの国から来場者が訪れるかというと、パリで発表される製品が、次シーズンの流行、傾向の基点になるからです。服飾の世界ではパリコレ、またパリコレに合わせて開催される各展示会が次シーズンの流行、傾向の発表の場となり、デザイン雑貨の分野ではこれが「メゾン・エ・オブジェ」展となります。海外に物を売り込む日本の中小企業の方も特に服飾やデザイン雑貨の分野では、まずパリの展示会から発信をし、海外に物を売り込んでいくという計画の方が多いため、出展企業が増えているようです。

日本の出展者、フランスの反応はどうでしょうか?

フランスにおいても「メード・イン・ジャパン」であることが、フランスのバイヤーにも安心感を与えていることを商談の場で出展者は感じるそうで、出展者は自分たちの製品が日本製品であることについて、責任感、使命感を新たにしています。

「メゾン・エ・オブジェ」に出展する日本の企業の現状は?

ジェトロの支援企業数を見ると2011年1月展では29社だったのに対し、2012年1月展では57社に増加しています。世界に市場や評価を求める企業が増えている傾向にあります。日本経済が停滞する中、海外でのビジネス機会を開拓しようとする意欲のある中小企業が増えていることは心強い限りです。

2005年から「メゾン・エ・オブジェ」に「ジャパン・ブース」を設けて参加していますね。

「メゾン・エ・オブジェ」はメゾン(家)を中心とするインテリアとデザインの最新トレンドを世界に発信する見本市です。デザイン、品質に優れた日本企業の商品をアピールするためには、打って付けの見本市であり、出展者にとっても質の高い来場者に商品を見てもらえるという利点があります。また、ここ数年でも来場者、出展者の数が増え続けており、世界の見本市業界で確固たる地位を築いています。日本でも「メゾン・エ・オブジェ」の知名度は高く、欧州市場開拓を目指し、デザイン性に優れたユニークな商品や明確なコンセプトを持つ商品が集まる傾向にあります。

ジェトロ経由で「ジャパン・ブース」に申し込みができるのですね。

ジェトロにお支払い頂く出品料には、スペース費、アシスタント雇用費、カタログ掲載費などの費用が含まれ、かつ、出品料の一部をジェトロが補助しているため、「メゾン・エ・オブジェ」主催者に直接申し込む場合よりも、出展費用が抑えられます。また、現地での商談に当たって準備すべき資料や物、価格設定や輸送方法などについてジェトロからアドバイスや情報提供をしますので、初めての海外出展の方でも安心して参加頂けます。

日本企業が出展するに当たっての注意点はありますか?

日本と欧州の見本市の違いとして挙げられるのは、日本の場合、見本市は製品発表や名刺交換の場であるのに対し、欧州の見本市は会場で実際に受発注が行われることです。日本から来た出展者からも、実際の取引が多くて驚いたという声があります。ですので、出展に際しての注意点としては、商談をする際の価格設定の仕方や、日本からの輸送手段・方法や商品受け渡しまでの経費を考えておくことです。そうでないと、せっかくフランスまで来たのに具体的な商談ができませんし、あいまいな情報で商談をしてもトラブルのもとになります。

「メゾン・エ・オブジェ」への出展方法

● ジェトロを通して「メゾン・エ・オブジェ」に出展を申し込む
ジェトロ本部(東京)へ。出品料金、条件などの詳細はホームページに記載されていますのでご参照下さい。
www.jetro.go.jp/world/europe/fr/events/20120502217-event
※2013年1月展の募集は、応募多数のため2012年 6月8日に受け付け締め切りとなりました。

●「メゾン・エ・オブジェ」に直接申し込む
「メゾン・エ・オブジェ」ホームページをご覧下さい。
www.maison-objet.com/en/contacts/#comment-exposer

 

フランスの地方で活躍する日本人

フランスの地方で活躍する日本人:ニース/ボルドー/サン・ペレ+モナコ

フランスは地方ごとに特色があり、
その魅力は住んでみないとなかなか分からない。
その地に住み、現地の人々に受け入れられ
新たな人間関係を築くこともあれば、慣れない地で
困難に立ち向かわなければならないこともあるだろう。
地方に暮らし活躍する日本人はどんな過去を経験し、
現在どのような生活をし、
将来に向けどんな目標を持っているのだろう。
(Interview:編集部)

思いと出会いからニースでのレストラン開店へ

長井宏明さん(左)
長井宏明さん(左) レストラン・セゾン フランス料理の食材を知り尽くした松嶋シェフと、熟練した和食の技を持つ近藤板長とのコラボレーションによるオリジナリティー溢れる「Japanice」料理が味わえます。

RESTAURANT SAISON
17, rue Gubernatis 06000 Nice
営業時間 : 12:00-14:00 / 19:00-24:00
(22:00ラストオーダー)
休 : 日月
TEL : 04 93 85 69 04
www.saison-nice.com

長井宏明さん
Hiroyuki Nagai

「レストラン・セゾン」経営者

1999年、日本の大学を卒業後パリのソルボンヌ、そしてフィレンツェの学校に留学。2002年、日本へ帰国し、カルフール・ジャパンに管理職として入社しました。その後貿易会社に勤務していたとき、当時パリで鉄板焼きレストランをスタートしようとしていた相田氏に声を掛けられ、サービスとして立ち上げに携わったのが、レストラン業務の第一歩でした。その後、「レストラン櫂」に勤務し、和食の基本、トップクラスの人々への話し方やサービスを学びました。独立を考えていた頃、ニースでミシュランの1つ星を獲得したシェフ松嶋啓介氏から連絡があり、ニースへ向かうことに。「現地の食材を使い日本の技術を生かした和食を出す」というコンセプトで意気投合し、08年「レストラン・セゾン」をオープンしました。  

ニースでは、和食と言えば寿司という認識しかなかったので、最初はしょうゆ、みそ、豆腐の説明から始めました。和食と他のアジア料理を一緒に考えている人々にゼロから説明するのは大変でした。だんだんと常連客もついてきて、寿司の次にわれわれの和食が浸透してきたと手応えを感じています。旬の素材を生かしたおいしい料理を提供したいと、食材は週に1回イタリアにも買い出しに行き、探究を続けています。  

ニースの人々はものすごく温かい。この一言に尽きます。困ったことがあると皆で助けてくれます。ただ、社会が狭いので息苦しいところはあるかもしれません。ニースに来て、日本人として得をしたことはいくらでもありますが、損をしたことは一切ありませんよ。

ビオとエコロジーをテーマにしたコンセプトホテル、「Hi Hotel 」のプライべートビーチ。日本人の料理人が毎日市場で仕入れる、新鮮な魚を使った寿司を食べることができます。降り注ぐ太陽の下での寿司を、よく冷えたプロヴァンス・ワインと試してみて下さい。

コンプレックスと放浪癖が今の自分を

荒川恵さん(右)
荒川恵さん(右) インターナショナル・ハウス・ニース ニースのビーチまで徒歩15分という恵まれた立地。フランス語を始め、フランス料理のレッスン、ファーム・ワイナリーステイ研修など、バラエティーに富んだ質の高い授業が人気です。フランス経営大学とキャンパスを共有し、世界各国から学生が集い、アットホームで国際色豊か。

INTERNATIONAL HOUSE NICE
4, bd Carabacel 06000 Nice
営業時間:月~金 9:00 - 17:00 
休 : 土日祝
TEL : 04 93 62 60 62
www.ihnice.com
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荒川恵さん
Mimosa Arakawa

フランス語学校「インターナショナル・ハウス・ニース」 マーケティング担当

義務教育を韓国で過ごしたコンプレックスから、日本の高校を中退。大検を取得後、2000年、カナダにあるウェブデザインの専門学校を卒業しました。日本に帰国後、IT企業や銀行に勤め、海外旅行などをするうちにやっぱり海外で仕事をしたいと思うようになりました。ハワイに渡りロミロミの資格を取得し、その後20カ国以上を放浪し、06年再びワーキングホリデー・ビザを取得してニースへ。ニースを選んだのは太陽が恋しかったからです。  

「自分にできることが生かせる仕事はなんだろう」と考えたとき、フランス語学校での仕事が当てはまりました。そして今勤務している「インターナショナル・ハウス・ニース」でサイト作成に携わり始めました。放浪していたときと同様に、さまざまな国の人と出会ううちに、国際的なこの仕事にもっと深く携わりたいという気持ちを持ち始めたのです。私自身も当校の卒業生であり、自分も経験してきたので、学生ビザや銀行口座の開設から、仕事の探し方まで、日本からこちらに来る人たちのお手伝いができることがとてもうれしいのです。そのような仕事に無我夢中で取り組む中で、人生を共有できると思えるパートナーと出会い、今の自分を築き上げることに。

外国人として生きる大変さはありますが、日本人としての良い点に気付いたり、困難に立ち向かう強さが身に着いたりします。外国に生きるということは2つの文化を楽しむことができ、人生を豊かにしてくれます。この語学学校でより多くの国の人たちにフランス語を学んでもらうように努めながら、子育てに励み、子供にできる限りのチャンスを与えてあげることが今の仕事だと思っています。

プロムナード・デザングレに立つホテル・メリディアン・ニースの最上階にあるカフェ、Le Colonial Café。紺碧の海が目の前に広がり眺めがとてもよく、シャンパンやフルーツのカクテルを飲みながらプールサイドでくつろぐ時間は気持ちを優雅にしてくれます。

モナコからヨーロッパへ日本の物を届けたい

村木淳一さん インターナショナル・ハウス・ニース 今年5月に開店する、日本食材や小物をフランスやヨーロッパの卸問屋から商品を買い付けるだけでなく、少林寺拳法などの武道用具、書道、華道、盆栽の道具、日本の骨董など、日本から直接輸入もしています。

ZEN SHOP JAPON
5, av d’Alsace 06240 Beausoleil
営業時間 : 10:00-19:00 
休 : 日 TEL : 04 93 52 15 03
www.zenshopjapon.fr
www.idea-montecarlo.com
(モナコの輸出入会社)
www.monaco-info.com
(モナコの一般情報発信)

村木淳一さん
Jun-ichi Muraki

フランス有限会社
「ゼンショップジャポン」責任者
モナコの輸出入会社
「イデアモンテカルロ」責任者

世界は広いので日本を出たいと思っていました。1980年、パリに留学で渡仏。パリに住みついた後、パリで貿易会社を設立、日本と輸出入を始めました。89年にモナコ公国の税制と安全性に注目し、同国に移住。モナコの居住権を取り、貿易会社を設立。その他モナコで旅行関係の会社や花屋も手掛けました。現在はモナコ居住やモナコでのビジネスに関するアドバイザーもしています。更に今年、新たに日本の食材や小物を売る店を開店しました。日本の物品や文化を紹介していくことは、モナコとフランスだけでなく全ヨーロッパを対象にしています。ヨーロッパの生活で難しいことと言えば、人間関係でしょうか。パリではフランス人の詐欺師に億単位の被害に遭ったり、モナコではイタリア人にだまされたりしましたが、根が楽観的なので今までやってくることができました。  

一般にモナコは安全で気候も良いので住みやすく、外国人が多いので、日常では全く国籍は意識しません。ここに来て良かったとは思いますが、 生来の放浪を続けるならば、イタリアやスペインの田舎に住んでみたいですね。  

私は大学を終えてすぐにフランスに渡ったため、日本の伝統文化についてあまり知りませんでした。 しかし、外国に居ることでかえって日本のことに興味がわき、日本武道の合気道を始めてから黒帯を取るまでに。今は少林寺拳法にはまっています。武道などに興味のあるフランス人やモナコ人の方が、普通の日本人以上に日本に対するあこがれや興味を持っているのが面白いと思います。新しく開く店では、日本食材の他、書道や茶道、華道や盆栽の道具、日本の骨董なども扱っていきますが、私自身それらの日本文化を楽しみながら学んでいきたいと思います。

日本庭園九州の別府保男氏設計の日本庭園。海水浴のできる人口砂浜海岸、ラルボット。日本庭園はヨーロッパの中でも本格的な日本庭園。のんびりできます。

流れ着いたボルドーで地元に根付いたレストラン経営

横山耕二さん L'arc en ciel ボルドーでは良心的な価格で料理を提供し、地元の人々が喜んで訪れる創作料理のレストラン。

L'arc en ciel
3, impasse du Couvent 33000 Bordeaux
営業時間:19:30-22:00
休 : 日
TEL : 05 56 81 06 79
www.larc-en-ciel-restaurant.com

横山耕二さん
Koji Yokoyama

レストラン「ラルクアンシエル」
経営者兼シェフ

17歳の時にレストランの世界に入りました。そこでは、「フランス=かっこいい」という図式があり、いつか本場フランスで修行してみたいと思っていました。貯金ができた21歳の時にニースに来ました。ホームステイ先のマダムに「仕事を探している」と言ったところ、ニースに到着して2日目に和食レストランに連れて行かれました。ラッキーなことに、そこに居た人から住まいや語学学校などの情報を得ることができたのです。ちょうど当時、ニースには25歳でレストランをオープンしたばかりの松嶋氏が居ました。尊敬すると同時に衝撃を受け、刺激されました。その後、ニースのあるフレンチレストランで3年ほど勤めることになります。ボルドー出身の恋人がいたので、「では、ボルドーに行ってみようか」ということになり、ボルドーに移ってから2年ほどレストランに勤務。その後、自分のレストランを出すことになりました。  

修行するレストランが大きければ大きいほど、フランス人との競争が激しいです。その中で続けることができたのは、この仕事が好きだったから。そして「いつか、ひょっとしたら自分の店が持てるかも」と希望を持っていたからでしょうか。町の小さなレストランでは努力していたら必ず認めてもらえます。フレンチレストランで働き始めてから1年半後の渡仏2年半後に労働ビザを取得しました。更に難しかったのは、労働ビザを取得した後です。世間からは仕事に対するきちんとした姿勢や語学力を見られ、より厳しく評価されるのです。  

僕を信じて協力してくれ、ついて来てくれる従業員を含めた人々を満足させたいと常に努力しています。それは料理の知識だったり、時には金銭だったりしますが、それを満たしてあげ続けることが自分に課された仕事だと考えています。

一般的に皆が訪れる場所というところで、シャトー(ワイナリー)でしょうか。レストランを開くという目標があったときにワインの味をみて回ったシャトーは多すぎて限定できませんが、例えばぺサック、サンテミリオンには、ボルドー以外の地域から来た友達などを連れていったりしますね。

ワイン造りを始めて10年、やっとスタートラインに

大岡弘武さん ワイン醸造 主にパリの酒屋さんと取引をしています。ほぼ1人でブドウ畑の仕事から瓶詰め、出荷作業まで行います。輸出先は日本、ベルギー、カナダ、スイス、イギリス、スウェーデン、デンマーク、シンガポールなど。

SARL La Grande Colline
7, rue Marcale 07130 St-Peray

大岡弘武さん
Hirotake Ooka

ワイン醸造家

20歳のとき、ピレネーの山奥でさまざまな国の若者がキャンプをしながらボランティアをするイベントに参加しました。父がワイン好きだったので、小さな酒屋さんに入り、主人に父へのワインを選んでもらいました。その人は地下から大事そうに1本のワインを持ってきて、一生懸命説明をしてくれました。そのときワインはこんなにも愛されている飲みものだと感じ入ったのです。帰国して家族と飲みましたが、そのおいしかったこと。それがワインに興味を持つきっかけでした。日本の大学では化学専攻でしたが、卒業と同時にボルドー大学醸造学部に2年在籍。恥ずかしながらそこでは落第してしまいましたが、その後ボルドーで醸造、栽培を学び、BTS(上級技術者免状)を取得しました。そのBTS Viti-Oenoの2年目の終わりからローヌのGuial社でエルミタージュ、サンジョセフ地区の栽培長として働き、その後コルナスのThierry Allemandで働きながら、剪定(せんてい)から収穫に至るまで行う自分の畑を持ちました。現在はコルナスに3Ha、サンペレイに0.8Haある自分のブドウ畑でワインを造っています。  

農業の社会は閉鎖的なので新たにゼロからスタートするのは難しかったですね。また、ブドウ畑が急斜面にあるので、畑をくわで耕すなど、ほとんどが手作業になります。ワインを造り始めて10年が経ちましたが、やっとスタートラインに立てたかなという気持ちです。最初の目標だったコルナスの開墾、植樹がほぼ終わりこれから本格的にコルナスでのワイン作りができます。  

フランスで活躍した先輩たちのお陰で、ここでは日本人に対して理解と信頼があります。そのため、私は日本人として得をすることが多かったと思います。2つの違う文化の中でも、人としての礼儀を重んじるなど共通している部分を多く発見できたのはうれしいことです。  

フランスで亜硫酸を入れずにワインを生産する人は10~20人しかいませんが、その方法でワインを造ることは安定してできるようになってきたので、畑仕事をもっと追及していきたいです。

サンペレイの切り立った石灰岩の丘の上には11世紀の城跡Château de Crussolがあります。ここからの眺めはとても素晴らしい。眼下にローヌ河がゆっくり流れ、その奥にアルプスの山々がそびえ立ち当時の景色が想像できます。

 

2012年 フランス大統領選 決選特集

2012年フランス大統領選決選特集

フランス大統領選の第1回投票が4月22日行われ、社会党(PS)のフランソワ・オランド氏が28.63%の票を獲得し、首位に立った。オランド氏にわずか1.57ポイント差で2位につけたのが民衆運動連合(UMP)のニコラ・サルコジ現大統領(27.06%)。5月6日に行われる決選投票は、この両者の戦いとなる。果たしてオランド氏はこのまま逃げ切り、17年ぶりの政権交代を実現できるのだろうか?それともサルコジ大統領が逆転勝利し、今期やり遂げられなかった課題に立ち向かうのか。フランス中の注目が集まっている決選投票に向け、今回の選挙戦の特徴を見ていこう。(Texte : 編集部)

サルコジ大統領の失敗

今からさかのぼること5年。「もっと稼ぐためにもっと働こう」と、購買力を高めて、多くの雇用を創出することを掲げて華々しく大統領になったニコラ・サルコジ氏。しかし失業率は同氏が大統領に就任した2007年の8%から10%へ上昇。年金改革では、60歳から62歳への定年引き上げ、公務員の削減などを進めたものの、財政赤字も政府債務も増加した。また、08年には公務員削減案に対するストライキが発生。10年に年金改革法案が元老院を通過した際にも、フランス各地で大規模なデモが発生した。このような改革を進めるたびにサルコジ氏は支持率を落とすこととなった。  

この5年、世界の動きにも変化があった。大統領に就任したばかりの07年、サブプライム問題が発生。翌年の9月にはリーマンショックが起こり、世界経済に打撃を与えた。更に欧州連合(EU)を揺るがす債務問題に解決策を見出せず、ユーロは90円台まで下落。不安定な状態が続くことになる。それに追い討ちをかけるように、フランス国債トリプルAの格下げ問題が発生し、国民の不満は募っていった。

第1回投票結果の傾向

オランド氏は、パリのあるイル・ド・フランス地域圏で34.83%という支持率を得た。この数字は、2007年の大統領選挙でサルコジ氏がたたき出した32.2%を上回り、第5共和政始まって以来、都心で得た最高支持率となった。  

また今回注目されたのが、サルコジ氏に次いで3位につけた極右政党、国民戦線(FN)のマリーヌ・ルペン氏だ。フランス全土で18.3%の得票率を獲得。02年に実父、ジャンマリー・ルペン氏がジャック・シラク大統領(当時)との決戦投票まで残り、世界を驚かせたが、そのときでさえ支持率は16.9%だった。今回のFNの高支持率の背景には、まず今年3月にフランス南部トゥールーズで発生したアルジェリア系移民による銃乱射事件など、選挙前に治安問題が注目され、不安を抱く人の票がFNに流れたことが挙げられる。また第2の理由として注目すべき点は、ルペン氏が脱ユーロを主張していることだ。ギリシャやスペインなど金融危機に陥ったEU加盟国の財政支援を強いられているフランスとしては、EUに対する不満も強まっており、ルペン氏の「ユーロ貨幣によりフランスの経済成長が弱まった」という主張に賛同する声は大きい。これらの不満を吸収する形で票を集めたことも、FN得票数増加の一因にありそうだ。この傾向はフランスだけではない。オーストリアでも外国人排斥運動を主導する極右政党の自由党が、フィンランド総選挙でも、反移民、反EUを掲げる真正フィン人党が議席を大幅に伸ばしている。  

サルコジ氏は移民問題に関し、極右の票を取り込むかのような厳しい政策を発表している。今年3月には、「フランスにはあまりにも外国人が多過ぎるために、彼らのために住宅や職、学校を探すことは不可能だ」と語り、移民の在留資格認定をより厳格にすること、そして最終的な移民受け入れ数については、現在の年間18万人から10万人にまで減らすべきだと語った。ただしEUに関してはルペン氏とは異なり、「メルコジ」と比喩(ひゆ)されるほどドイツのメルケル首相と歩調を合わせ、EUの連帯を図っている。

対するオランド氏は、移民対策について、労働者として必要な移民の数を決定する、合法で滞在している移民に対する保護を厚くすると述べるに留めている。ただしEUに関しては、サルコジ氏が英国とチェコを除くEU諸国と合意した財政規律を強化する新条約が財政緊縮を強制するとし、もう一度見直す話し合いを持つことを公約に掲げている。

オランド、サルコジ両氏の主な公約
フランソワ・オランド ニコラ・サルコジ
雇用
  • 若者の雇用をうながし、同時期に高齢者社員を解雇しない場合、新規雇用者の社会保険料を3年間免除(50万人分)。若年層の雇用の拡大を目指す。
  • 失業給付金を、失業が発生した日から段階的に減らしていく。
  • 失業者に研修を受ける機会を与える。ただし受けた研修に関する仕事が提案された場合には、それを受ける義務がある。
年金
  • 累計41.5年以上働いている人は、60歳から年金生活を送ることが可能。
  • 外国人が年金を享受する場合には、10年以上フランスに住み、5年以上年金を納めた者に限る。
税金
  • スイス、ベルギー、ルクセンブルクと協定を結び、フランス人でこれらの国に預金のある人の情報を共有し課税対象とする。
  • 年間15万ユーロを超える収入に45%、100万ユーロを超える収入に75%の課税をする。高額所得者に課税する。
  • 給与にかかる年金を年0.1%引き上げる。
  • TVAを19.6%から、21.2%に引き上げる。
E
U
  • EU国債を発行する。
  • 2014-2020年にかけて、EU内で長期のプロジェクトを起こし、そこに予算を組む。
  • EUの新財政協定を見直す。
  • 債務の金額が一定以上に達した場合、それ以上借り入れすることをできなくする。
  • ユーロ圏のみの議会を作る。
  • 欧州銀行の役割を見直し、債務を返却するだけではなく、成長に導くようにする。
移民
  • 毎年議会で労働に必要な移民の数を決定する。
  • 合法的に滞在している移民の保障を厚くする。
  • 5年間で移民の数を約半数に減らす。
  • 家族のためにフランスへ入国する移民のフランス語能力を重視。
  • 社会保障を受給するためには、少なくとも10年間のフランス滞在と5年の労働が必要。

5月6日の決選投票を予想

4月22日の第1回投票では、有権者の80%以上が大統領の直接選挙に臨んだ。フランス国民の選挙への関心がうかがえた第1回投票の結果は、何を示唆するのか。その2週間後の第2回投票はどんな展開となるのか。国内外の政治に詳しいジャーナリスト、クリスチャン・マラー氏に聞いた。

Christian Malard Christian Malard
クリスチャン・マラー

1992年よりフランス公共放送(France Télévisions)の国際政治解説者を務める。2000年よりアメリカのCNN、NBC、イギリスのBBC、BBCワールド、カタールのアルジャジーラ、アル・アラビーヤ放送局の顧問。1000人以上のジャーナリストが所属するEuropean American Press Clubのパリ代表の1人。11年、テレビの視聴者による人気投票で国際政治解説者ベスト3の1人に選ばれる。

第1回投票の結果に驚きは?

予想通りの結果だった。以前から多くのフランス国民はサルコジ大統領の政治政策に不満を抱いていた。同大統領が就任した2007年、国民は彼の掲げる改革に大いに期待を寄せた。しかし、実際にその改革が始まると、国民は不満を示し始める。更に、その後の経済危機がサルコジ氏の改革意志をくじいたと、私は見ている。08年に世界経済危機が起こると、その改革を中断し、複雑な経済政策に切り替えざるを得なかった。  

この選挙戦で、オランド氏はそつなく決戦へ駒を進めた。オランド氏への票は「反サルコジ」の票だ。オランド氏は選挙戦が始まってから一貫して、国民の間に広がる「反サルコジ」の波に乗った今回の選挙は容易だと口にしていた。驚きだったのは、その「反サルコジ」の国民感情がはびこっているにもかかわらず、サルコジ氏との差がたった1.5ポイントほどだったこと。  

そして、更なる大きな驚きは、FNの党首、マリーヌ・ルペン氏が大統領選で党始まって以来の18%という高い得票率で3位につけたこと。02年の大統領選で、シラク前大統領に次ぐ2番手につけ、決選投票に進んだ同党のジャンマリー・ルペン氏でも16.9%の得票率だった。07年の大統領選決戦では、第1回投票でのFNのルペン氏への支持票がサルコジ氏に流れたが、今回、12年の第1回投票で彼女に投票した有権者600万人のうち200万人は、07年サルコジ氏に投票したものの彼に失望した人々なので、サルコジ氏がその票を呼び戻すことは難しいだろう。  

極左派のメランション氏については、第1回投票前には3位につけると予想されていたが、結果は約11.5%の得票率で4位。欧州エコロジー緑の党(EELV)や極左の党はサルコジ氏を阻止するため、オランド氏に投票することを呼び掛けている。左派、右派に、さまざまな政党があるが、概してフランスは右派53~54%、左派46~47%という割合で、右寄りの国だ。しかし、分裂する右派に比べて、左派はより忠実に結集する傾向にある。

第1回投票は右派にとって期待以上の良い結果では?

「Oui」であり、「Non」でもある。「Oui」の理由は、オランド氏とサルコジ氏、両者の差は予想に反して約1.5ポイントと小幅だった。しかし、先日記者クラブで会ったUMPのジャンフランソワ・コペ氏が明言していたように、サルコジ氏がこの大統領選で勝利するためには、第1回投票で3~4ポイントリードしてトップ当選していないと難しい。今回の大統領選は、その点でサルコジ氏の勝利は不可能に思える。

サルコジ氏とオランド氏の対決について

第2回投票までに両者が討論する機会は3回与えられているが、そのうち1度しかオランド氏は出席しない。討論はとても重要だ。オランド氏が2回の討論の機会を拒んだことはよしあしだが、彼は冷静沈着を維持し、話さないことでより彼の株が上がることを狙っている。フランス国内の「反サルコジ」の動きをもて遊んでいるのだ。オランド氏への票は、熱狂的な支持によるものではなく、サルコジ氏拒否の表れなのだから。  

両者が出席するたった1回の討論会でオランド氏は、将来有利に発展するような大きな国際問題に向き合うことに慣れている自分は、経済状況に対応でき、信頼して船のかじ取りを任せられる人物だ、と国民に訴えるだろう。  

サルコジ氏はオランド氏に大きく差をつけなければならないが、それは難しい。たとえサルコジ氏の努力が功を奏しても、それはオランド氏との差を少し縮めるだけで、オランド氏が敗北するとは、私には考えにくい。

第2回投票の結果を予想すると?

オランド氏53%、サルコジ氏47%というところではないか。いくらフランスが右寄りと言えども、ルペン氏に投票した600万人のうち、サルコジ氏に失望した200万人の票を呼び戻すことができるのか?そして、彼らにどんな公約ができるか?  

チャンスがあるとすれば1つだけ。選挙方法を第2回投票までに変更すること。国民議会でFNの獲得代議員数の変更を公約することだ。そうすれば、その200万人を誘導することができるだろう。しかしそうなると、バイル氏には何が必要なのかなど、サルコジ氏から離れていった人々を呼び戻すために多くの宣誓が必要になる……。それは非常に難しい「ヘラクレスの仕事」になるだろう。  

サルコジ氏が再選される可能性は低い。

オランド氏は新戦略を用いるか?

いいえ。オランド氏は、フランス国民の多くがサルコジ氏を排除しようとする動きに便乗し続ける。彼は恐れているわけではなく、冷静さで攻めてくる。戦略は変えてこないだろう。一方、サルコジ氏は勝利のためにすべてを捧げ、失う物は何も無いかのように、第2回投票までの2週間、遮二無二の選挙戦を繰り広げるだろう。サルコジ氏は情勢に対応できる能力を全面的に示し、「目覚めよ! 目を見開き、オランド氏と共に歩むことで直面する事態に気付くべきだ」と、フランス人の意識に訴えようとするだろう。そして、サルコジ氏のその叫びは、あながち誤りではない。

オランド氏が当選したら?

1980年代に、労働者階級や中産階級の人々の夢に逆戻りする。週35時間労働、そして60歳の定年制が実施され、これらはとても快適だろう。しかし、変化や改革、動きのある他国に比べ、何の前進もないフランスは、誤った道を選ぶのではないかと思っている。そして、オランド氏に投票した後、フランス人は難しい未来を歩むことになるのではないかと、私は恐れている。

第1回投票以降、特別に感じることは?

フランス人は、なぜルペン氏が18%という高い得票率だったのか理解していない。フランスで一体何が起こっているのか?これまでに見られないほど多くの支持を得た極右、力を取り戻している極左の党や共産党、そして従来メジャーだったPS、UMP……。人々は、今フランスは独自の政治問題を抱えていると考えている。

 

フランスの水事情

フランスの水事情

成人の人体の約60%を占める水。
体内に貯めておくことができない水を、
われわれは食事などで常に補給している。
また洗濯、入浴、排水設備など生活の上で、そして農業、
工業にも欠かせない水。 命の源である水、
健康を維持するために大切な水について考えてみよう。
(Texte : Satomi Kusakabe)

豊かなフランスの水資源

四季があり、適度の降雨量に恵まれているフランスは、アルプスやピレネーなど複数の山脈を擁し、セーヌやロワール、ローヌなどの河川が流れ、大西洋と地中海に接する水資源の豊かな国だ。水資源に関する数値を見てみると、フランスには年間4800億㎥の降雨量、河川には110億㎥の水流があり、空気中に蒸気として3210億㎥の水が存在する。また、地下の貯水量は2兆㎥、池や湖などの貯水量は1080億㎥と豊富なため、生活、農業、工業用水に困ることはない。しかし、地中海周辺、フランス南西部は乾燥するため、住民は時期により節水を心掛けなければならないなど、水事情に地域差はある。また、水の質や処理方法も地域によって異なり、例えばブルターニュ地方の花崗岩質の場所では地下の貯水量が少なく、またそのために家畜の飼育で地下水が汚染されやすいので、飲料水にするための処理が複雑だ。パリの首都圏はセーヌ川だけの水源では足りないため、周辺に複数の貯水池を建設したり、ロワール川やノルマンディー地方のセーヌ川からも供給を受けしたりしている。

日本と違うフランスの水

軟水、硬水の定義
軟水 15°F未満
中硬水 15~30°F
(パリの水道水25〜30°F)
硬水 30°F超

硬水と軟水の水質の違いをご存じだろうか。カルシウムやマグネシウムイオンを多く含む水は硬水、逆にそれらのイオンが少ない水は軟水と定義されている。水の硬度はフランスで°Fの指標を用い、1°F は1リットル当たり4mgのカルシウムもしくは2.43mgのマグネシウム、あるいは石灰質10mgが含まれていることを表す。硬水は60度に熱したときに石灰質の不溶性の沈殿物が表れる。

日本が軟水なのに対して、フランスの大部分の水は硬水だ。フランスは石灰質の土壌が広く分布しており、ローヌ・アルプ、ラングドック・ルシヨン、ノール・パ・ド・カレ、ピカルディ、イル・ド・フランス地域圏の一部の水は、特に石灰質を多く含む。一方、ブルターニュ、オーヴェルニュ地方のある地域の水は、石灰質が少ないため軟水となる。

硬水のメリット

洗った食器を拭かないと白く跡が残る、せっけんが泡立ちにくい、水道管や食器洗浄機などに石灰質が付着して故障を引き起こす、など硬水のデメリットはよく耳にするが、メリットはあるのだろうか?  

フランス政府も発表しているように、硬水が人体に害を及ぼすことは無い。それどころか、カルシウムやマグネシウムを多く含むために、人体が必要なそれらの成分の3分の1を硬水から摂取することが可能だ。それは心筋梗塞などの心血管疾患を防ぐ効果があるという。逆に、硬水を軟水化すると、古い水道管などが通っている建物では危険を招くというデメリットがある。まず、水道管に付着していた石灰質が溶解し、亜鉛や銅なども溶け出す。また、軟水化した水はナトリウムを多く含むことから、高血圧や心疾患を抱える人、妊娠中の女性、塩分抜きの食餌療法を行っている人には不向きとなる。

水道水の流れ

家庭での水の用途フランスの地中には延べ90万km以上(地球20周以上)の水道管が張り巡らされ、年間約60億㎥の水が浄水処理を経て供給されている(2008年)。飲料用の水は、地下水約60%、湖水や川など地表に流れる水40%を水源としているが、どんな方法で集水されても、すべて同等に水質分析が行われ、どの家庭にも均一の水質、水圧で蛇口から供給される。  

使用後の水は、フランス全土に約1万8000カ所ある下水処理場を経て公共用水域へ排水されるが、市区町村で清掃、消火のための貯水、植物への撒水用などとして再利用される水もある。市区町村は企業から出た使用済みの水、または清掃後の水などを集め、浄化する義務を負っている。

水質を心配するフランス人

命の源である水だからこそ、気になるのは水質だ。今年の3月12~17日、マルセイユで開催された「世界水フォーラム」で報告された調査結果から、フランス人の95%が水質汚染について関心のあることが分かった。これは空気汚染への関心(94%)を上回り、水が環境に関する最重要問題としてトップにあげられたことになる。また、82%が水資源に限界があると感じており、逆に14%は地球に水は十分存在していると考えている。そして、91%は自宅で利用する水の質について注意をしており、80%以上が使用後の水の下水処理を容易にするため水の使用に関して工業、農業分野に働きかけるべきだと考えている。(Institut Harris調査)  

飲料水としての水質は最も重要である。水は病原菌や寄生生物などを含んでいてはならず、また人体の新陳代謝機能を妨害する恐れがあってはならないことから、血液疾患を引き起こす硝酸性窒素や、鉛や水銀のような重金属、発がん性要素とされる放射線物質などは除去されている。  

ところが今年3月、消費者団体UFC-Que Choisirが2年間にわたって保健省の調査を分析した結果により、フランスでも都市部と農村部で水の質が違うことが明らかになった。それによると、フランスでは年約200万人が汚染された水を使用しているという。都市部では安定した良質の水が供給されるのに対し、人口3万人以下の町で衛生基準に合致しない水道水が供給されていた。また、パリ盆地のパ・ド・カレやシャンパーニュ地域圏、ロワレやセーヌ・エ・マルヌ県の農業が盛んな地域で、農薬や基準値を超える硝酸塩、セレンが水の中から見付かった。これは処理上の欠陥や自然汚染によるものだそうだが、何とも気になる分析結果だ。

パリの水事情

パリの水源

バラエティーに富む水源

大都市パリには多くの水を供給する必要があるため、水源は4つに分かれている(右図)。また、パリ盆地の地下水は2万年ごとに新しい水と入れ替わるため、言い換えれば、われわれは2万年前の水を飲んでいる可能性もある。パリ盆地の地下600メートル、アルビャンの地下水層から汲み上げた水を飲める場所があるので行ってみよう(13区ポール・ヴェルレーヌ広場、16区ラマルティーヌ公園、18区マドンヌ公園)。

水道水の成分

カルシウム 90
マグネシウム 6
ナトリウム 10
カリウム 2
重炭素塩 220
硫酸塩 30
塩化物 20
硝酸 29
フッ素 0.17
(mg/l)

パリジャンの水の消費実態

一般に、昼食後から夕食までの時間(13:00-19:00)に多く、23:00ころから減り始め、2:00から4:00にかけて消費量が最も減少する。また、夏季(7~9月)には多く、祝日(復活祭の日曜日、8月15日、12月25日)は最も少なくなる。フランスでの1日の平均消費量150リットル(浴槽にいっぱい貯めた量に相当する)に比べて、パリの平均消費量は120リットル。

パリの水は生涯飲める

パリの飲料水は、世界で最高水準の保健衛生を保証する50項目以上の細かいヨーロッパの法規にのっとり供給されている。パリ市の研究所が1日に数回水質を調査し、また国から独立した研究機関も定期的に調査報告をしているため、乳児から大人まで生涯飲み続けても健康への害は全くない。町に設置されている「ワラスの泉」からの水も、家庭の水道水と同様、安心して飲むことができる。


水に関する素朴な疑問

蛇口から出てくる湯をそのまま飲んだり、料理に使ったりしてよい?
健康を害する恐れがあり危険。給湯器から来る湯には、熱のせいで破損した配管の金属質が混じったり、高い温度で微生物などが繁殖したりする可能性もあるので、水から温めて使用しよう。

水道水の値段は安い?
フランスでの水道水の料金は1㎥当たり平均で3.31ユーロ(2008年)。ミネラルウォーターの130分の1程度だ。年間では、1世帯当たり183ユーロ。地域で料金が違うのは、水質によって処理方法などが異なるため。

洗浄には硬水軟化剤を使用した方がよい?
硬水は温めれば温めるほど、石灰質が沈殿するために、60度以上の温水で洗濯するのは避けたい。60度以上で洗浄する食器洗浄機などは、洗剤と共に硬水軟化剤を使用しよう。

石灰質を落とすには?
流しや蛇口、ポットなどに付着した石灰質を落とすには、白ビネガーを使用すると効果的(温めると更に効果的)。ただし、30°F超の硬水では効き目が薄いので、専門家による調査後に水道管などに軟水化装置を取り付けるなどの対応が必要になる。

CNRS、Ministère de l’écologie, du développement durable, des transports et logement、UFC-Que Choisir、Eau de Paris、C.E.R.D、Sénatの資料参考

 

平野啓一郎氏と フランス、そして文学

小説家 平野啓一郎氏とフランス、そして文学

三島から始まったフランスへの興味。フランスの中世を舞台に書き上げた芥川賞受賞作「日蝕」は「三島の再来」と称賛された。現実世界での孤独から救ってくれたのはフランス文学だったと言う。フランスが好きで、「美」という価値観を大切に考える小説家、平野氏にお話を伺った。 (インタビュー、写真:編集部)

平野 啓一郎(ひらの けいいちろう)
平野啓一郎1975年6月22日、愛知県生まれ。京都大学法学部在学中の98年に発表した「日蝕」で第120回芥川賞を当時史上最年少で受賞。続いて、「一月物語」(98年)、「葬送」(2002年)と、過去を舞台にした「ロマンチック三部作」と呼ばれる長編小説を執筆。その後は、現代を舞台にした「滴り落ちる時計たちの波紋」(04年)、「顔のない裸体たち」(06年)、「あなたが、いなかった、あなた」(07年)、「決壊」(08年)、「ドーン」(09年)、「かたちだけの愛」(10年)などの著作がある。2004年3月から1年間、文化庁の文化交流使として渡仏。11年度のフランス観光親善大使に任命された。

フランスという国、そしてフランス文学への興味

僕は14歳のころから三島由起夫の作品を読み始め、ファンになりました。彼が影響を受けたフランス文学に興味を持ち、作品を読むようになったので、彼の存在は大きかったです。同時に外国文学も好きで、町の図書館の本棚に並んでいた岩波文庫の外国文学シリーズを端から読破しようと試みたのもそのころです。中でも19世紀のフランス文学、バルザックやフロベールなどの小説を良く読んでいました。また、20世紀のドイツの詩人、リルケらも傾倒した19世紀のフランス象徴主義の詩人、ボードレールが、読んでいて特に自分の肌に合うと感じていました。象徴派の詩は、日常を飛躍的な比喩によって語るというのが特徴でもあり、それが日常を豊富にしていきます。  

このような文学は僕を救ってくれました。現実世界で孤独を感じていたとしても、自分の思想に合った文学作品に出会うと、自分と同じことを考えている人が別の場所にも居るのだということが分かり、気持ちが楽になります。僕の場合はそれがフランスの文学作品でしたので、こんなに離れている場所にも、自分と分かり合える人がいるのだと思うことが、驚きでもあり救いだったのです。文学は国境を越えて人を結びつける力があります。

イマジネーションを膨らませた「日蝕」、
フランスで丹念に取材をした「葬送」

「日蝕」の中では、神学においてこの神秘主義の中心だったパリ大学の学生を主人公に設定し、イタリア・ルネサンスの波がまだアルプスを越えて到達していないフランスを舞台に、イマジネーションの世界が広がっていくように書き上げました。  

「日蝕」を執筆した当時、中世末期のキリスト教の神秘主義に関心がありました。スコラ哲学を完成させたトマス・アクィナスの著作に見られるような神を頂点とした1つの世界観が、戦争やペストという現実的な理由で崩壊し始めていたのが中世末期。「神の作った世界なのに、なぜ?」と人々が懐疑的になり、信仰が揺らぎつつあった時代です。その、地上の被造物から神に至るまでの壮大なピラミッドが崩れ始めるという現象が、僕の生きていた1990年代後半の日本の社会に近しく感じていたのです。バブル経済が崩壊していろいろな価値観が変化し、社会をつなぎ止める新しい価値観がまだ見出せない状態……。中世末期、魔女裁判が頻繁に行われており、悪者を仕立て上げて、それと向かい合うときだけ人々は連帯できました。良い価値観は共有できないけれど悪と向かい合うときには1つになれる、という似たような気配を、僕は90年代に感じていたのです。奇しくも21世紀に入って、アメリカで同時多発テロ事件が起こり、敵を見つけ出せばまとまることができるけれど、敵がいなければばらばらになった価値観をまとめることができない、という構図が単純化して現れることになりました。  

「葬送」の執筆に際しては、実際に渡仏して取材をしました。資料で知り得ないことの1つに距離感があります。例えば、シテ島からオデオン座まで、と一口に言っても、実際に訪れて歩いてみないとなかなか分かりません。「葬送」の舞台となっているショパンやドラクロワなどの時代は、今も建物が残っているので、実際に場所を訪れて距離を知ることができました。「日蝕」はフランスのどこだか分からないようなある町を設定している一方で、「葬送」はパリを舞台にして書いていますので、丹念に歩いて回りました。  

また、過去を舞台に書くとき、どこまで取材に頼るのかも難しいところです。当世のフランス人の意見や感想を参考にして19世紀のフランス人を描いても、おかしなことになりますからね。

文化庁の文化交流使としてフランスに滞在した1年間

フランスは「あこがれの国」です。フランスに初めて来たときのことを覚えていますが、建築、町の構造などが美しく、圧倒されました。観光客として幾度かフランスを訪れていましたが、1年フランスに暮らしてみるようになって初めて、フランスの生活、フランス人の見方も分 かるようになってきました。表現が適切か分かりませんが、フランス人は気さくで、人間的な可愛い国民だと分かりました。2、3日ほどパン屋や小さな食料品店に通えば、お店の人が親しく話し掛けてくれます。たとえ日本で、あるコンビニエンスストアに2年通い続けたとしても、店員が親しく話し掛けてくることはありませんよね。  

また、大学生のときに観光で来たのと、推薦状を携えて文化庁の文化交流使として来るのとでは、パリの中でも見える世界が全然違っていました。「フランスのゴンクール賞に当たる芥川賞を受賞した作家」という紹介をされると、人の接し方も全く違うのを、パリで特に感じました。実際は、ゴンクール賞と芥川賞はちょっと違いますけれど。

文化交流使としての活動の一環で、講演会などを月に数回行いました。地方に招かれて講演したときは、「三島の話を聞きたい」と、三島に詳しい人たちが結構いらっしゃいました。例えば、「三島は『侍スピリット』といって、侍の生き方を理想化しているけれど、一方で『天皇万歳』 と言っている。三島は幕藩体制を支持していたのか、それとも明治以降の天皇制を支持していたのか、一体どっちなんだ」という鋭い質問を投げ掛けられました。これはフランスで王党派であり、かつナポレオン主義者という矛盾した立場を意味します。日本ではこのような質問を受けたことが無く、明治維新に対して賛成か反対かを問われた、フランスならではの質問でした。  

文化交流使としての1年は部屋にこもっていても仕方ないので、原稿執筆活動をしないつもりで来ました。今の日本での生活に比べるとものすごく時間があり、ストライキでも生活が乱されたことがないほど、緩い、時間に余裕がある生活をしていました。例えば、食材を買い込み、フランス料理の本の1ページ目から料理を作ってみるなど。料理をすることが好きではなかったのですが、野菜や肉などがおいしかったために、つい楽しくなりました。  

文化交流使として滞在した左岸、特にオデオン駅の辺りにはパリに来るたびに滞在します。お土産になるしゃれた食材探しなどのショッピングもあの辺りで。

第32回 Salon du livreのテーマでもあった東日本大震災、
その復興について

皆がそれぞれ、あまりにも異なった形で震災を経験しているので、日本人を代表してフランス人に何かを伝えるということはできません。  

小説家として発言するならば、震災は死生観へ大きな影響を与えました。一瞬にして2万人近くの方が亡くなったのですから。そして、考えるべきタイムスケールが変わりました。例えば、人間は生まれて死ぬまでの約80年という時間を考えて暮らしていたのが、1000年に1度起きる津波のことを考えて生きなければいけなくなり、10万年後まで残る核廃棄物の問題を考えなければならなくなりました。もともとの人間の想像を超越したタイムスケールが日常生活に割り込んできたのです。また、そう いうことを考えざるを得ない世界に人間が生き始めたというのは、小説を書く上で踏まえなければいけないと思っています。震災後、宮城、岩手県の海岸沿いへ行きましたが、言葉が出ません。自分自身を見失ってしまうような、間違いなく、自分が見た中で一番凄惨(せいさん)な光景でした。また、宮城、岩手県の津波の去った場所では復興が始まっていますが、福島の原発周辺ではまだ復興すら始まっていないことも考えなければなりません。

美しい小説を書く

小説を書くという、好きなことを職業にしているので、その点で幸せに思っています。苦労はありますが、組織内で働く人間関係が原因のストレスが無いのは楽です。  

単なるエンターテイメントとしての小説を書こうと思ったことはありません。また、そういうものを読んで小説が好きになったわけでもありません。自分が生きて行く上での孤独感、生きにくさなどを小説の中の人物の生きる姿を通じて描き出すことで、自分自身が救われたと思っています。美的なものに救済を求めるというのも、僕の小説の特徴です。ですので、おもしろいというより、人間が生きていくことに本質的にかかわっていくことが僕にとっての小説の執筆です。また、それが美しいと思えるのです。  

また、なぜ難しい擬古的な文体や漢字を使用するのか聞かれますが、難しいからではなく、美しいと思うために使用しているのです。子供のころから読んでいた昔の文学や外国文学の翻訳は、ずっと変わらず版を重ねているため、古典的な言い回しがそのまま残っていました。これまで読んできたそのような本の古典的な言い回しが、僕の体に染み付いているのでしょうね。


平野啓一郎著書平野氏の著書をフランス語で読む

左写真:
フランスを舞台に書かれた小説の中でフランス語に翻訳されている「日蝕」
L’Eclipse, éd. Philippe Picquier, 2001

右写真:フランス人にも人気のある「一月物語」
Conte de la première lune, éd.
Philippe Picquier, 2007
 

日本酒・日本食を世界の人へ - 地酒試飲&ディナー

日本酒・日本食を世界の人へ - 地酒試飲&ディナー

日本の文化は食にあり。「SUSHI」に始まり、「おいしい」「ヘルシー」などの合言葉で世界的に広まった日本食は今、ブームの域を超えてグルメ界で確固たる地位を築きつつある。そして、その深い味わいで多くの愛飲家を虜にしている「酒」もまた、日本食の代表格の一つ。ワインやビールの文化が根付くここ欧州で、美食家たちの舌を唸らせる極上の日本酒と日本料理の魅力を余すところなく紹介するイベントが去る3月12日、ドイツのデュッセルドルフで開かれた。

JFC主催の日本応援イベント

料理今回のイベントを主催したのは、欧州のレストランや食料品店などを対象に日本食品の卸業を営むJFCEUROPEグループ。同社は3~4月に掛けて、東日本大震災から1年という節目を機に、日本食のさらなる普及・浸透を通して日本を応援する取り組みを欧州全土で展開している。その一環として、同社が特に販売促進に力を注ぐ地酒と日本食との相性の良さを日欧の人々に実感してもらおうと企画されたのが、この夕食会だ。招待客は、JFCと日頃取引のあるレストランのオーナーをはじめ、利き酒師、ソムリエ、ホテルのオーナーシェフなど業界通ばかり。日本料理レストラン「NAGAYA」を会場に、同社を通して欧州展開を図る5つの酒蔵が厳選する日本酒を、蔵元直々の説明を聴きながら、長屋佳澄シェフが腕によりを掛けて作る料理の数々と共に味わうという至極贅沢な会となった。

レストラン NAGAYA
ドイツで日本料理レストランとして唯一ミシュランの星を持つ長屋シェフ。「日本応援」というイベントの趣旨に賛同し、企画段階から参画。参加者に、多種多様な日本酒に合う10品以上のコース料理を提供した。www.nagaya.de

参加酒蔵と紹介された日本酒

中島醸造(岐阜県)
小左衛門 特別純米 美山錦「小左衛門 特別純米 美山錦」
「始禄 ゆず酒 純米酒」

清らかな水と上質な米を元に醸される「小左衛門」は、全員30代という若き作り手たちの情熱がたっぷり込められた酒。食事のひと時を楽しく盛り上げる名脇役だ。芳醇なゆずの香り漂う「始禄 ゆず酒」は食前・食後酒に最適。
www.kozaemon.jp


秋田清酒(秋田県)
やまとしずく 山廃純米酒「やまとしずく 純米吟醸」
「やまとしずく 山廃純米酒」

秋田県南部の雪深い土地で、1865年の創業当初から伊藤家が代々伝統を受け継いできた酒蔵。「やまとしずく」は、料理の味を邪魔せず引き立てる、香り控えめのやさしい味。この酒造では地産地消を目指し、地元産の原料のみを使用している。
www.igeta.jp


新藤酒造(山形県)
やまとしずく 山廃純米酒「裏・雅山流 楓華 純米生詰め」

世界最大のワインコンテスト、国際ワインチャレンジ(IWC)の吟醸酒部門で金賞トロフィーを受賞した経歴を持つ雅山流。軽やかで芳醇な香りの酒は、常に変化を求め、自由な発想で酒造りに挑み続ける酒造の勢いと活力を感じさせる。
www.kurouzaemon.com

月山酒造(山形県)
「銀嶺月山 月山の雪 純米吟醸」「銀嶺月山 ささら月 純米酒」
「銀嶺月山 月山の雪 純米吟醸」

蔵人以下、米から麹、酵母まで、徹底して山形産という、「顔の見える原料」にこだわる酒造。日本名水百選に選ばれている出羽月山の雪解け水と最高級の酒造好適米「出羽の里」が、自然の厳しさを内包する凛とした香りの酒を生む。
www.gassan-sake.co.jp


三和酒造(静岡県)
臥龍梅 純米吟醸 山田錦「臥龍梅 純米吟醸 山田錦」
「臥龍梅 純米吟醸 五百万石」

おいしい酒を新しいコンセプトの下で造るべく現社長が編み出したのが、全品種の醸造工程を統一し、米の品種だけ変える手法。醸造には一切手を抜かず、醸造後は余計な手を掛けない酒は、米の個性が最大限に生かされた純粋な味わい。
www.garyubai.com


*上記の地酒は、欧州各地の日本食レストランでお召し上がりいただけます。
レストランにお問い合わせの上、ぜひ最高の地酒をお楽しみください。

体験記 元気な日本食を欧州へ

JFC EUROPEの清松社長
夕食会の冒頭で挨拶する
JFC EUROPEの清松社長

「この甘みはどこから来るのですか?」「Sake Meter(日本酒度)とは何のことですか?」
── 各料理に合わせて注がれる日本酒を試飲する参加者の表情は、真剣そのもの。会場は、それぞれの酒を吟味し、特徴を知り尽くした上で納得のいくものを消費者へ届けたいと願うプロたちによる、れっきとしたビジネスの場だった。

東日本大震災発生後、日本から欧州への 食品輸出は一時期、困難を極めたという。しかし、あれから1年が経ち、当地の日本食産業は着実に再興隆の兆しを見せている。そこで今一度、欧州で日本食文化を盛り上げることで日本の復興を応援しようと立ち上がったJFCと、その熱意に賛同した人々により実現した今回の地酒試飲とディナーの会。その盛況ぶりは、日本食のパワーと健在ぶりを肌で感じさせてくれた。

試飲中
真剣な表情で試飲をする参加者たち

仕込みのため来独が叶わなかった新藤酒造を除く4つの蔵元による紹介が、酒の味に説得力を持たせる。「キレのあるシャープなタイプのお酒」と言われれば米の力強さが感じられ、「さらっと飲める軽い口当たりのお酒」と聞けば、口に含んだ瞬間に爽やかな香りが広がり、すっと喉を通る感触が心地良い。そして何より、蔵人が発する一言一言から造り手の息遣いが伝わり、「このお酒には蔵人の魂が宿っている」と実感するのだ。”手造り”の地酒だからこそ味わえる温もりとも言えるだろうか。

そして、酒の味をより豊かにしてくれたのが長屋佳澄シェフによる絶品の料理。魚介や肉、その他和洋の多彩な食材を使った品々は、目と舌で楽しむ日本料理の醍醐味を最大限に活かした芸術品でありながら、日本酒の存在を隅に追いやることなく、互いに引き立て合う。遠くはドバイ、そして欧州各地から集まった参加者たちは、各料理と酒の相性だけでなく、冷酒と熱燗、ぬる燗の差異や、米の品種の違いが酒の味に与える影響など、日本食、日本酒の奥深さと可能性を自らの舌で感じ取っていた。

牛フィレ
長屋シェフが提供した絶品料理。
フランス産シャロレー牛フィレ

イベントを主催したJFCの清松直之社長は、「(日本を応援する活動は)1人や1社ではなかなか困難ですが、皆の力を合わせればできると思っています」と語る。徹底した品質管理の下、良好な状態で高品質な食品を日本から欧州へ卸している同社は、今回の取り組みを機に、欧州でより一層の日本食文化の浸透を図りたい意向だ。それが日本の元気につながれば……。日本食伝道師たちの飽くなき挑戦は続く。

(編集部:林 康子)

日本食で日本を応援!
JFC では現在、食品販売の収益の一部を被災地の支援活動団体へ寄付する取り組みを展開中。お近くの日系・アジア系食料品店で日本食品をお買い上げの際は、以下のシールおよび店頭ポスターにご注目! おいしい日本の味に触れて、皆で一緒に日本を応援しましょう!

 

2012年 フランス大統領選の行方 J-38

2012年 フランス大統領選の行方  J-38

2002年より、5年ごとに行われるフランス共和国の大統領選挙。2012年5月16日にニコラ・サルコジ大統領の任期が満了するため、現在、大統領立候補者が選挙戦を行っている。4月22日(日)の第1回投票で過半数を得る候補がいない場合、上位2人の立候補者が5月6日(日)の第2回目の決戦投票で争い、得票率の高い一方が大統領に選出される。新しい共和国大統領が誕生するのか、はたまたサルコジ大統領の再選になるのか、行方に注目が集まる。(Texte: Satomi Kusakabe)


大統領選の立候補者になる第一歩

3月9日時点では12人が主な立候補者として挙げられるが、正式に立候補者と認められるためには、異なる30県の市区町村長や県、地方議会議員、上院議員などの推薦者500人以上の署名を集めなければならない。その理由は、立候補が現実的かつ真剣であることを証明し、地域に偏らず、手続きに透明性を保証するためだ。この署名は匿名では受け付けられないため、署名を得にくい候補者がいる。例えば、世論調査で支持率の高い極右政党の国民戦線(FN)党首マリーヌ・ルペン候補だ。同候補は、3月2日時点で48人の署名が不足しているが、実名での署名を求められた議員などが圧力を受けることを恐れ署名に応じない可能性があると主張。この意見には右派のコリーヌ・ルパージュ候補らも同調するが、1962年11月に定められ、76年に改正されて今も存続するこの立候補手続きの法を、今年2月21日、憲法評議会は「合憲」と判断している。3月16日までに500人の署名を集められない場合には、大統領候補者として認められない。

フランス大統領選

これまでの支持率推移

大統領選候補者の支持率に関して、前社会党第1書記のオランド氏は社会党公認候補に決まった2011年10月より2月まで、多くの世論調査でトップを独走している。2番手にはサルコジ氏、続いてバイル氏かルペン氏となり、上位4人はほぼ不動だ。

大手調査機関による2012年3月1日時点での支持率

2012年3月1日時点での支持率

大統領選第1回投票得票率予想(Harris Interactive調査より)

大統領選第1回投票得票率予想

現政府への不信感

TNS Sofresの調査では、2009年6月にサルコジ大統領(UMP)とフィヨン首相(UMP)とも、国民から最高の信頼度44%、41%を得ていたが、12年3月に入ってからそれぞれ32%、26%にまで落ちている。サルコジ大統領が再選を目指して立候補を表明した2月15日以降も、この信頼度が回復することはなかった。社会党のオランド氏が支持されている理由には、「失政」と批判も多いサルコジ大統領が率いる現政府への国民の不信感が表れたためとの見方もある。

大統領と首相の信頼度(TNS Sofres調査より)大統領と首相の信頼度

大統領選の争点

今回の大統領選では経済危機の下、約10%で高止まりする失業率と雇用問題が大きな争点の1つとなる。  

オランド氏は今年1月26日、60項目の選挙公約を発表し、それには若年層を中心に15万人の雇用創出、サルコジ政権が公務員改革で削減した教員を6万人増員、治安や司法分野で年1000人分新設するなどの雇用対策が盛り込まれている。また、富裕層や大企業への課税を強化し、増加した税収を景気・雇用対策の財源に充てるとした。2月27日には民放テレビに出演し、大統領選に当選した場合、年収100万ユーロを超える所得部分に75%という高い税率で課税すると公言。既に選挙公約にある「15万ユーロを超えた分への45%課税」と合わせると、超高所得者への課税と2区分の課税法を新設することになる。これに政界右派やスポーツ界では、「富裕者や優秀な選手が国外に移住する」と反発が出ている。  

一方、オランド氏の対抗馬とされるサルコジ氏は、オランド氏にリードされている国民の支持率を盛り返すため、3月と予想された出馬表明を2月中旬に前倒しし、本格的に選挙活動を開始した。その表明の中で、ヨーロッパの景気対策では現政権の指導により、フランスがギリシャやスペインなどヨーロッパの近隣国を導いた形で経済危機を回避したとの功績を強調。また、出馬表明以前にフィガロ誌上のインタビューでは、オランド氏との政策の違いを明らかにした。失業者の手当について、職業訓練や社会奉仕活動へ参加を拒否した場合の支給打ち切りの是非を問う国民投票を提案、地方選での外国人の投票権を否定し、同性婚反対や厳しい移民制限、共同体主義の否定など保守的政策を打ち出す。更に大企業への増税などを財源とするオランド氏の雇用対策を批判。選挙演説の中で宿敵オランド氏を意識した発言が目立つ。


大統領立候補者12人 (2012年3月9日現在)

Nathalie Arthaud極左
Nathalie Arthaud
ナタリー・アルトー

1970年2月23日生まれ
LO(Lutte ouvrière: 労働者の闘争)
2007年、大統領選にLOから立候補したラギエ氏のスポークスマンを務め、その後08年より同氏の後継者となる。革命共産主義の立場を取る。失業ゼロ、年金支給額の引き上げ、収入の底上げ、金融機関の透明化など、労働者のための政権を目指す。
Philippe Poutou 極左
Philippe Poutou
フィリップ・プトー

1967年3月14日生まれ
NPA(Nouveau parti anticapitaliste: 反資本主義新党)
2009年に解散したLCR(Ligue communiste révolutionnaire:革命共産主義同盟)の党員として07年に県議会選、NPA党員として10年に地方議会選に立候補した。解雇禁止や反原発、銀行の国有化などを訴え、労働者の立場で政策を考える、唯一、労働者の立候補者。
ジャンリュック・メランション極左
Jean-Luc Mélenchon
ジャンリュック・メランション

1951年8月19日生まれ
Front de gauche(左派戦線)
PG(Parti de gauche:左翼党)の党首の1人。86年から2000年、04年から10年まで上院議員、09年より欧州議会議員。11年1月に早々と大統領選挙への立候補を宣言し、共産党など多くの左派政党からの支持を集める。リスボン条約を廃止し新しい欧州の構築、富の社会への分配を訴える。
フランソワ・オランド左派
François Hollande
フランソワ・オランド

1954年8月12日生まれ
PS(Parti socialiste: 社会党)
79年よりPSに入党し、95年の大統領選で同党のジョスパンのスポークスマンを務める。有力視されていたストロスカーン前国際通貨基金(IMF)専務理事が不出馬となり、11年10年の予備選でオブリー第1書記を破り党公認候補となる。15万人分の雇用創出や、富裕層への75%の課税強化を盛り込む方針を発表。
エヴァ・ジョリ左派
Eva Joly
エヴァ・ジョリ

1943年12月5日生まれ
EELV(Europe Écologie Les Verts: 欧州エコロジー緑の党)
ノルウェー出身。90年、パリ裁判所の予審判事に任命され、エルフ事件や銀行や政治家の不正などの予審を行い、2001年、汚職撲滅に取り組む非政府組織から栄誉賞を受賞した。11年7月、 立候補を争ったユロ氏を下し、EELVからの党公認候補となる。金融機関の透明性、核に代わるエネルギーを使用する未来を目指す。
ジャック・シュミナド Jacques Cheminade
ジャック・シュミナド

1941年8月20日生まれ
S&P(Solidarité et Progrès: 連携と進歩)
81年から数回、大統領選の候補となるが500人の署名が集まらず、また95年には0.27%を得票したが落選。金融機関の体制の見直し、「寡頭(かとう)政治打倒」を掲げる。本人は右派でも左派でもないと言うが、07年の大統領選決選では社会党ロワイヤル氏に投票。
Corinne Lepage中道左派
Corinne Lepage
コリーヌ・ルパージュ

1951年5月11日生まれ
Cap21(Citoyenneté, action, participation pour le XXIe siècle: 21世紀市民行動)
環境法が専門の弁護士で、95年から97年まで環境相を務めた。2009年より欧州議会議員。遺伝子組み換え作物についての環境的、保健衛生的危険について情報や研究を行う組織を指揮するなど環境問題にかかわる一方で、非宗教化と男女平等を訴える。
ドミニク・ドヴィルパン右派
Dominique de Villepin
ドミニク・ドヴィルパン

1953年11月14日生まれ
République solidaire(共和国連帯)
外務省に入省し、大統領となる前のシラク氏の側近として外交に携わり、大統領就任時の大統領府の官房長官として抜擢された。その後2002年から04年まで外相、04年から05年まで内相、05年から07年まで首相を歴住する。省庁を減らし、政権の強化、新付加価値税の新設などを政策に掲げる。
ニコラ・サルコジ右派
Nicolas Sarkozy
ニコラ・サルコジ

1955年1月28日生まれ
UMP(Union pour un mouvement populaire: 民衆運動連合)
2007年、フランス第5共和政第6代大統領に就任。自由競争を推し進める新自由主義、新保守主義の政治政策を掲げる。2月中旬の出馬表明では、雇用創出への取り組みの他、同性婚反対など保守色を前面に出し、移民制限や宗教上の慣習をどこまで許容するかについて選挙戦で強く訴える。
ニコラ・ デュポンエニャン右派
Nicolas
Dupont-Aignan
ニコラ・
デュポンエニャン

1961年3月7日生まれ
DLR(Debout la République: 立ち上がれ共和国)
95年からエソンヌ県イエール市長、97年から同県議会議員。2007年、大統領選に立候補するが、500の推薦署名を得られず敗退する。12年の選挙戦では、政府が主要改革を行う際には国民の声が直接反映される国民投票を実施することを公約。ドゴール主義の立場を取り、統一通貨ユーロの廃止などを主張。
マリーヌ・ルペン極右
Marine Le Pen
マリーヌ・ルペン

1961年3月7日生まれ
FN(Front national: 国民戦線)
2011年の党大会で、父ジャンマリー・ルペン前党首の後任としてFNの党首に選出された。11年3月の世論調査では、サルコジ氏を抜いてトップの支持率を得た。FNから初めての女性の大統領候補者として、FNの一貫した政策である不法移民排除と統一通貨ユーロ廃止を訴え、欧州統合に反対する。
フランソワ・バイル中道派
François Bayrou
フランソワ・バイル

1951年5月25日生まれ
MoDem(Mouvement Démocrate: 民主運動)
93年から97年まで教育相を務める。議長だったUDF(Union pour la Démocratie Française: フランス民主連合)から2007年大統領選に立候補し、第1回投票では3位で落選。同年、MoDemを結成し党首となる。緊急に政府の立て直しを図り、恒久的な国内生産の促進などを掲げる。
 

1年後の東日本大震災被災地にて

1年後の東日本大震災被災地にて かけがえのない日常を取り戻すために

あれから1年。
海外に暮らす多くの日本人にとって、
「何の役にも立てない」無力感と向き合う1年でもあった。
原発から20kmの警戒区域内にとどまり、命懸けで牛を守る畜産農家、
被災地に笑顔を届け続ける覚悟をした応援隊長、
パリから福島の子供の心を抱き締めに行ったアーティスト。
彼ら3人がその目で見た今の被災地と、これからについて語ってくれた。
何も終わっていない。「自分にできること」は誰にもきっとある。

(Texte:Miwa ARAI)

希望の牧場 ~ふくしま~プロジェクト
動物も人と同じ命。殺すのではなく
生かしておくことは本当にできないのか。

ベコ(牛)屋として、300頭の牛と運命をともにするエム牧場
浪江農場長 吉沢正巳さん

「(原発爆発後)避難が始まっていることを知ったのは、カーナビのTVだった。ドーンと重く響く爆発音を2度聞いた。自宅から双眼鏡を通して白い噴煙もこの目で見た」。 それでも畜産農家の吉沢さんは牧場に通い続ける。「私は牛を置いて逃げることはできなかった。3月は牧草がまだ生えない寒い冬。放置すると牛が餓死する。警戒区域に立ち入り餌運びをする合間に、近所の農家の惨状を目撃していた私たちは、牛たちの命を助け餓死させない決意を固めた」

けがをした子牛の面倒をみる吉沢さん
けがをした子牛の面倒をみる吉沢さん。
2012年2月時点でも牧場の空間線量は約6μSv/hある。
「私が線量のことを気にしていてはこの活動は続けられません」

福島第一原発事故後、原発から20km以内の住民は、ほんの少しの荷物を手に、慌てて家を後にした。数日後には帰宅するつもりで、ペット(登録犬約5800匹、猫は不明)には数日分の餌を置いてくるのが精いっぱいだった。地域の酪農・畜産・養豚、養鶏農家(牛約3500頭、豚約3万頭、鶏約44万羽)の家畜の避難手配もされなかった。数日のはずが、住民に初めての一時帰宅が許可されたのは約2カ月後。動物たちは、無人の街に置き去りにされた。そうして、警戒区域では多くの犬や猫が、家畜が、鎖につながれたまま、家に閉じ込められたまま、戻ることのない飼い主を待ちながら餓死していった。飼育舎につながれていた鶏も豚も牛も飢え、渇き、仲間のうじ虫のわく死体に囲まれながら生き、そして徐々に息絶えていった。

一時帰宅時に、変わり果てた愛犬・愛猫の姿を目にした避難住民の悲しみはどんなだったろう。畜産農家にとっても、食肉処理場へ家畜を送り出すことと、苦しみながら飢え死にさせるのでは、全く意味が違う。動物の命を生活の糧にしていることを常に感謝しながら育て、敬意を込めて出荷している彼らには、スーパーでパックされた食用肉しか見たことのない私たちにはうかがい知れない、家畜と呼ばれる生き物の“命”への尊敬の念がある。元酪農家だった南相馬市の桜井市長は訴えた。「家畜は、一頭一頭が自分の家族だ。私たちは、彼らから命をもらっている。牛の苦しみは自分の苦しみだ」。餓死を避けるために安楽死処分を選択したある酪農家は、「注射を打たれた牛は、今まで聞いたこともないような悲鳴を上げて、苦しみながら死んでいくんだ。安楽なんかじゃない、私には、殺せない」と慟哭(どうこく)した。一時帰宅時に飼っていた牛たちを処分した後、自殺した酪農家もいた。

「人命があれだけ失われた時に動物のことを声高には主張できなかった。仕方がなかった」。そう言い聞かせながらも、時間がたつとともに、多くの農家やペットの飼い主たちが、家族同様に暮らしてきた動物を見殺しにしたという思いに苦しみ、自らを責め、押しつぶされそうになっている。

そうした人々の苦しみと悲しみに覆われた無人の警戒区域に、希望のともしびを、と立ち上がった人がいる。吉沢正巳さん、第一原発から14km地点にあるエム牧場経営の浪江農場の場長だ。水素爆発をその目で見たという吉沢さんは、牧場の牛の商品価値が瞬時にして無くなったことをすぐに理解した。もう畜産家としての人生は終わりとさえ覚悟した。しかし、それと牛の命とは別のこと、と避難指示の数日後には牧場に戻り、放射能を浴びながらも、牛を生かし続けるために餌を運び入れた。「農家も牛も何も悪いことはしていない。なぜ、殺さなくてはいけないのか」。餌をやりに牧場へ通い続け、牛の生き残る道を必死で探し、そして『希望の牧場』プロジェクトを立ち上げた。牛たちは放射能被害の貴重な生き証人なのだ。今後の健康状態の変化をデータ化し、除染の研究をし、大学や研究所にその成果を提供する。事故の教訓を同地域の復興に活かすためにも、牛を生かしておく意味がある、と国に訴えている。また、無人化し、それまでの人々の営みがすべて消えたかに見える警戒区域に、命の灯をともし続けることは、いつかは故郷へ戻りたいと願う、警戒区域すべての住民の希望にもつながるはずだ、と。その意味を込めて、『希望の牧場』プロジェクトと命名した。

2012年2月現在、牧場には約300頭の牛がいる。震災後に生まれた子牛も多く、むしろ震災前より数は増えている。出荷、収入がゼロとなった現在、牛の飼育費はプロジェクトメンバー(全6人)個人の貯金、及びこの活動に賛同する一般の人々からの寄付金で賄われている。しかしながら、国や県、自治体への補助金などの協力要請への反応はなく、このままでは牧場の存続は不可能だ。

「多少の放射能被曝(ひばく)はしても、家畜に餌運びをするのは畜産者としての当然の道であり、意地でもあります」と、“決死救命”を覚悟した吉沢さんの訴えを無視したままに、役人たちは、昨年5月に出された「警戒区域内に生き残った家畜のすべてを殺処分する」という指示を、粛々と実行し続けている。国以外の反応はどうなのか? 「正直、真っ暗です。国も県も自治体も全く協力的ではありません。大学などの研究機関は、国などが予算をつけない限り、動かないと思われます……」

家畜としてその命を私たち人間に捧げてきた牛も、その命を頂いてきた人間も、今回の壮絶な災害の前には、共に被害者であり、生き残ったかけがえのない命だ。(ましてや原発事故に関しては人間は加害者でさえある)取り返しのつかない多くの尊い命が失われ、"生きてる"それだけがどんなにありがたいことかを、多くの人々が実感した。そんな今だからこそ、私たちは感じることができないだろうか、人間以外のすべての生き物の命の重みについても。「肉も乳も汚染されているから死ねばよい」とはどうしても言えないと、命懸けで家畜の命を守ろうと闘っている警戒区域の畜産家の苦しみから、「私には関係ない」と目をそらしてよいのだろうか。“2011年3月11日”は、過去ではない。あれから時が止まったままの警戒区域内では、『希望の牧場』とその外にも、放れ牛、豚、鶏、犬や猫たちが必死で生き残り、待っている。

『希望の牧場』プロジェクト
fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/
〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂1-22-7 道玄坂ピア4F
Tel: 03 3496 2177 Fax: 03 3496 2188
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吉沢氏の2012年
年頭手記からの抜粋

2012年3月末、4月を目標にした、警戒区域内に生き残る1000頭以上の野良牛たちの整理(国による抹殺)は、被ばく地・被災地における災害廃棄物(ガレキなどの)処理と同じ目線・発想に他なりません。原発事故によるセシウム汚染地帯の浪江・双葉・大熊・富岡の各町の水田は、コメ作りは不可能なまま今後、荒廃化を続けるでしょう。そこに1000頭の牛たちを研究目的で収容・保護すれば立派な低コスト省力型の除染と環境保全管理の役目を担ってくれるはずです。いずれ双葉郡被ばく地帯は、食用のコメ作りはできなくてもバイオ燃料用の作物なら望みはあります。国の復興支援策は、もっと農家の目線・発想に着目してほしいと思う。私たちがかねてより希望し要望を繰り返し国に伝えてきた、餓死でもない、殺処分でもない、第3の牛たちの生きる道を是非、みんなの力で絶望的な状況の中でも負けずに作り出しましょう。

牛
近所迷惑となった野良牛を殺処分しない農家は
損害賠償で訴えられるぞ、という圧力も。
震災後に生まれた子牛には耳標がなく、
“所有者不明家畜”とされ真っ先に処分対象になる。

避難所の教室の冷たい床の上で暮らすお母さんたちが
『ちょんまげに期待していますよ!』って、
笑顔で言ってくれたんです。

Smile for Nippon ~日本に笑顔を~
被災地支援 ちょんまげ隊 隊長 ツンさん

「無事です」「避難所にいます」、震災直後のツイッターに飛び交う被災者の声。その中にツンさんは「靴が濡れている」「靴が欲しい」という書き込みを目にする。津波の濁流から生還した被災者の生の声だった。「僕は全くボランティアの経験なんて無かったんですよ。でもその時、理屈でなく"啓示"のようにつかまれた。靴屋の僕に、誰かが訴えている、と」。震災後で流通が混乱する中、高齢者でも履きやすいマジックテープ式の運動靴を200足手配。それを荷台いっぱいに積んで、3月22日に宮城県へ向かったのが始まりだった。

牡鹿半島の子供たちをバスでサッカー観戦に
牡鹿半島の子供たちをバスでサッカー観戦に。
被災地にも、あえてちょんまげ姿で行く。
笑いはどんな時でも人の気持ちを和らげ、会話のきっかけにもなる。

「その靴を届けた時には、まさかそれからも被災地に通うとは考えていなかったですよ」。しかし、靴を届けた避難所の中学校の寒い校庭の水飲み場の前に、年配のお母さんたちが行列し、手を真っ赤にして凍るような水で洗濯しているのを見る。校庭にいた子供とも話した。聞くと、「津波で家が流された」と言う。“家”と一言で言うけれど、それは、勉強道具も漫画もゲームも、そういうすべてをこの子は失った、ということなのだ。何が欲しいかなんて、聞けなかった。報道だけでは伝わってこなかった、人々の無念の思いや我慢を目の当たりにした。「洗濯機は僕が持って来る、子供に漫画を持って行く」こうして再び被災地へ向かうこととなり、以来17回現地での支援を行っている。

当時、被災地では多くの物が不足していた。しかし避難所によって、不足物資と過剰物資の品目のずれも大きかった。支援物資は多かったが、仕分けをする人材の不足、各避難所からの情報の収集・分析の難しさ、平等性、さまざまな理由で、多くの物は集積所にたまり、支援を申し出ようと集積所の管轄役所に問い合わせると、「十分にある」と言われるが避難所に行くと「無い」、そんなことが多々あった。結局、被災者が「無理なんだ」と我慢しているうちに時間はどんどん過ぎていく。誰もが疲労困憊(こんぱい)していて、いろいろなことを諦めていた。こうした現地の実情を理解したツンさんは決めた。避難所を回り、何が必要なのかを人々に直接聞いて、自分でそこへ持っていくのが一番確実だ、と。千葉に戻ってすぐに知人・友人の寄付を募り洗濯機を買い、設置技術のある電気屋さんを見つけ、洗濯機と、応援メッセージ入りの300冊の子供の漫画と、電気屋さんとを車に乗せて、10日後にその校庭に戻ってきた。

「木を見て森を見ず、ということわざがありますが、僕はあえて、森を見ずして目前の木を見ることにしたんです。目隠しをした競走馬みたいにね、見える範囲だけ見て走る!」。森を見て絶望するより、目の前の木を見てできる限りを尽くす。それが、彼の結論だった。

だんだんと支援の多い地域、ほぼ全く無い地域などの差があることも分かってきた。メディアや支援が全く入らない多くの“無名の”被災地がある。例えば鉄道が無く道路も復旧していない牡鹿半島。簡単にはよそ者に心を開いてはくれなかったが、ツンさんはその地区へ何度も通い、年末には、子供たちをバスでサッカー観戦ツアーに連れ出したり、住民と一緒にクリスマス会をしたりするようになった。「東北の方々はとても遠慮心が強く、なかなか『こうして欲しい』とは言ってくれないんです。例えばあの地方では、正月の餅は大切なのに、『この非常時に餅なんて』と誰も口に出さない。なので餅つき機(電化製品)を持って行って、自分たちでお餅を作ってもらいました。そしたらやっぱり楽しいんです。『どうやって使うのか?』なんて皆でやりながら、おじいちゃん、おばあちゃんたちがすごく喜んでくれた。震災から時間がたって衣食住の最低限のものはそろい始めているんです。でも、逆に言えば、それしかない、最低限しかないんです。サッカーもクリスマス会もお餅(餅つき会)も、無くてもいいものだけれど、あるとすっごい笑顔が出てくるじゃないですか?」

講演会
聴講者の応援メッセージを手書き
講演会の後には、聴講者に応援メッセージを手書きしてもらい、
それを持った笑顔の写真を撮らせてもらって被災地に持っていく。
“日本に笑顔を!”というちょんまげ隊の支援活動の1つ。

現地での支援と同時にツンさんは、日本全国、世界各地で、被災地で撮ったビデオと写真を上映しながら自らの体験談を語る講演会を行い、被災地の様子を必死で人々に伝えようとしている。震災から時間がたつにつれ、メディアの報道もボランティアの数もはっきりと減ってきている。被災地の人々の「忘れ去られていくのでは」という不安をなんとかしたいという気持ちから、この活動も始めたのだという。彼の映像や話は聞く人の心に響き、涙する人も多いが、同時に、自分も何かしようか、というやる気もわき出てくる。ちょんまげ姿や、彼独特の明るい口調のせいかもしれない。

被災地という過酷なピッチの中で、選手たちがあんなに頑張っているのに、スタンドが沈んでいてどうする!応援隊長たるもの、試合が苦しければ苦しいほど元気を出して、盛り上げていくのが仕事なのだ、とでも言うように、ツンさんはいつも元気でノリが良い。

支援を続けるモチベーションを聞いたら、「いやー、やりたいからっていうだけですよ。つらいの我慢してやっているんじゃ、続けられないですから!」と言いながら、1つだけエピソードを教えてくれた。

「3月22日、初めて仙台に夜到着して、食事をしよう、と安い定食チェーン店に入りました。メニューが半分しかない、大変な状況をうかがわせる店内で先払い形式の注文をする時。パートのおばちゃんが『何にしますか?』じゃなくて『どこの城から来たの?』と。僕『えっ』(方言が聞き取れないって最初思いました)。おばちゃん『どこの城から来たの?』。(僕は6時間の運転に疲れて、ちょんまげ付けたまま店内に入ったのに気付きました)で、『千葉の城から来ました~』『支援物資持って来ました~』って言ったら、おばちゃんが厨房内のおばちゃんたちの方を振り向いて『殿様が来たよ~~』って叫んだんです。すごい状況の中でのユーモアに、泣きそうになりました。あの出会いも、僕が支援も続ける1つの理由です」

きっと、そのお店のおばちゃんは感じたのだ。初めて見る被災地の様子に、彼が打ちのめされていることを。そしてそれでも明るく振る舞おうと精いっぱいだったことを。ツンさんの繊細さと謙虚さが人々を笑顔にし、その笑顔が彼の力になっている。

プロフィール
千葉県で靴屋を経営する多忙な一児の父、角田寛和さんは、ちょんまげにサムライ甲冑(かっちゅう)姿でサッカー日本代表の試合を世界各地のスタンドから明るく元気に応援をするサポーター、ちょんまげ隊長ツンさんとしても有名な人だ。震災以来、ちょんまげ支援隊として被災地支援を続行中。

ちょんまげ隊の活動が分かるサイト

ブログ
ameblo.jp/piroponpin
facebook
「Smile for Nippon」www.facebook.com/smile4nippon

ツンさんコンタクト先
twitter.com/smile4nippon
email: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください

7月20日頃、ロンドンオリンピックへ応援渡英しますが、その前後にパリでの被災地上映・講演会を熱望しております。どなたかご協力いただけますか。

悲しみを分かち合うことはできなくても、
未来は一緒につくれる。

在仏オブジェ作家
akoさん

「被災地の子供たちのそばへ行きたい、いつか絶対に行く」二児の母でもあるakoさんが、震災以来出会う人皆に「被災地の子供のそばで何かできないか」と発信し続けた思いは通じ、2011年12月、akoさんは、福島の小学校での一日工作教室の先生をすることとなった。

小学校での一日工作教室
「akoさんの暮らすフランスはどこにあるの?
どうやって行くの? 何を食べているの?」と
子供たちからは質問が飛び交い、笑い声がいっぱいにはじけた。

被災地の子供たちに伝えたかったのは、「君たちは1人じゃない、皆つながっているよ」ということだった。出発前のパリでは、できる限り多くの子供たちに声を掛け、一緒に福島の子供たちを思いながらガラス瓶に柄を描いた手作りキャンドルホルダーを100個近く作った。「私だけでなく、私の子供たちを含むフランスの子供も大人も、皆胸を痛めていました。すぐにでも抱き締めに行きたい、っていう皆のその気持ちを、ろうそくの灯に浮かび上がるようにして、一人一人に届けたかったのです」

12月20日、福島の小学校で生徒たち全員が元気に出迎えてくれた。授業では、「パリも福島も子供は皆つながっている」メッセージを込め、人をつなげたデザインのカンムリを作った。工作をする子供たちはとても楽しそうで真剣だ。「子供たちは、フランスという知らない国への好奇心に溢れ、無邪気な質問をたくさんしてきました。かと思うと、『今日はxxちゃんのおうちへ初めて行くんだー』と、日常生活の小さなイベントにもワクワクしている様子。ああ、この子たちはごく普通の子供たちなんだ、だからこそ、そのちっちゃな心で受け止めている大きな悲しみや大変な日常、そのギャップを思うと胸が震えました」

子供たちは遠い国からやって来たakoさんの話に、さぞ目を丸くしたことだろう。"ここではないどこか"に想像を膨らませながら、会ったこともないフランス人の友達が作ってくれたキャンドルホルダーを、きっと不思議な思いで受け取ったことだろう。

ヨーグルトの空き瓶の再利用のキャンドルホルダー
キャンドルホルダーは、ヨーグルトの空き瓶の再利用。
パリへ戻ったakoさんの元へは、
福島の子供たちから感謝の手紙とともに、
フランスの友達への箱いっぱいの折り紙作品が届いた。

「それまでは被災した子供たちの様子を知るほどに悲しくてたまらなかったのですが、彼らに会い、変わりました。この子たちのつらい過去を分かち合うことは私にはできない、と感覚的に悟ったのです。一緒に泣くには、彼らの負った傷はあまりに深い。でも、逆に思ったんです、それでも輝くような笑顔を失っていないこの子たちと、未来を一緒につくっていくことはできる、と。この子たちに、もっともっと世界の果てしない広さや、つながりを見せてあげたい。風穴をいっぱい開ける。私にもできることがある、と」

akoさんは、震災直後の非常時ではない静かな時間を子供たちと一緒に過ごした。手を動かし、ごく普通の会話を交わしながら、感じ取ったのだろう。山が立ちはだかっている、その山がどんなに険しくても、この子たちはそれを登るしかないのだ、と。私たちは、彼らのこれまでの苦しさは和らげられなくても、彼らがこれから向かっていく山に、途中でくじけてしまわないように、山を登り続ける勇気となるように、無数の明かりをともすことはできるはずだ。子供たちは、その小さな足で、登山口からの一歩をもう踏み出そうとしている。

プロフィール
ako(永末アコ)さん:96年よりパリに暮らすアーティスト(主作品はランプとオブジェ)。著書「akoからはじまるパリのABC」(飯塚書店、2009)

警戒区域の動物たちを見捨てない!

警戒区域の動物たちを見捨てない!

警戒区域に残されたペットと動物たちを救う活動を個人で続けている、佐々木ちはるさんのブログサイト「警戒区域の動物たちを見捨てない!」には、これまでと今の現地の様子が克明につづられている。animaldemo.blog.fc2.com

3.11 福島から 「歩き続ける」

編集部に持ち込まれた弦短歌会福島支部の短歌集。会員14人は地震発生2週間後から互いの安否を気遣い、情報交換をしながら歌会を続け、リアルタイムな作品を大震災の記録として短歌集「歩き続ける」にまとめた。

二カ月の男の子殉職の父を知らず新盆の客われは抱き締む

将来に子を産めぬかと訴うる十五歳の頬のやわらかき紅

かき分けし汚泥の臭いマスクつく画面に映らぬ被災地をゆく

放たれし理由も知らで脚細き黒牛四頭海辺ひた走る

新しい水筒提げて園児たちは通園の肩に重たきも喜び

誰一人泣いてはいられず復興への厳しき道を歩み始める

 

ランジス市場へ、ようこそ!

ランジス市場

パリの胃袋と呼ばれたパリ中央市場は、1969年にパリ市から南へ7kmほど離れた郊外ランジス市に場所を移し、ランジス公益市場として生まれ変わった。生鮮食品を扱う市場では世界一の大きさを誇るこの市場の全容を公開!
(取材、執筆、写真:泉田蓮、協力:ランジス公益市場、ジェラール・カニャ氏)

ランジスの地図
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ランジス市場
ランジスの活動は人々が寝静まった、
丑三つ時から始まる。市場の入り口


数字で見るランジス市場
設立 1969年
広さ 232ha
業者数 1200社
市場で働く人 1万2000人
年間取扱量 150万tの食料品、5000万tの生花や植木
年間総売上高 78億ユーロ

1日平均2万4000人が来場し、約2万6000台の大小のトラック、乗用車が門をくぐる。ランジスで扱われた品は、イル・ド・フランス地域圏の1100万人(65%)を含む約1800万人の消費者の元に届く。また、90%は国内で消費される。

パヴィヨン
ランジスではパヴィヨンと呼ばれる棟ごとに魚介類、臓物、家禽類、豚、果実・野菜類、生花・鉢植え、乳製品などと、扱うものが異なる。サテライトのようなランジス市場、一体どんな世界なのだろう。


information

毎月(8月を除く)第2金曜日の午前5~8時、完全予約制でグループ見学ができる(3時間コース75ユーロ)。専門業者以外の個人の見学はできない。 詳しい情報はランジス公益市場の公式サイトでご確認下さい。
www.visiterungis.com

訪問の決まりごと
訪問者は2ユーロでビニールの帽子とカッパのセットを買う。魚介、精肉など基本的に店員が白衣を着ているパヴィヨンでは白いカッパを着なければならない。

カフェ、レストラン
カフェ、レストランランジス内にはカフェやレストランが21軒ある。驚きのカフェは、狩りの神様、守護神の名が付いている「Le St Hubert」。1日のカフェの消費量はヨーロッパ一でコーヒー豆19kg、2500杯のカフェが売れる(0~10時の営業)。 その他、魚介のパヴィヨンのすぐ近くにあるカフェ、「A la Marée」では海の幸も食べられるが、表面に薄いムースができるカフェも絶品。

 

フランスでの就職に役立つCVの書き方

フランスでの就職に役立つCVの書き方

フランス企業はもちろん、在仏日系企業において求職活動をする際にもフランス語の履歴書(Curriculum Vitae : CV)(以下、CV)の提出を求められる。人を引き付ける簡明なCVを作成するには、何をどう書いたらよいのだろう。また、大切なポイントは何か。フランス語でのCVの書き方、作成に際しての心得をここに紹介する。(Texte:編集部)

フランスのCVの体裁
PRÉSENTATION DU DOCUMENT!

白いA4サイズの用紙に、手書きではなくタイプする。
なるべく1ページに収め、裏面は使用しない。

  • 全体をバランス良く並べ、あまり詰めすぎないように適度に間隔を空ける。
  • 一文は短く、個条書きや電報のようなスタイルでシンプルに。
  • 奇麗に印刷されるように、コピーなどの質には注意する。

! 履歴書(CV)を書く

具体的に、下記のような求人広告に応募する場合、どのようなCVを作成したらいいのだろう。

旅行会社で事務職募集:
高等学校卒業以上で、2年以上の事務職経験者、 日本語を母国語としている人を求める。

では、この求人広告に応募するためのCVの例を挙げよう。下記に紹介する書式は、職種や活動内容が明らかで、職歴、学歴とも年代順に並び分かりやすくなっている。

!CVの書式は千差万別だが、CV作成に当たって日本もフランスも変わらない心得として、以下の点には気を付けよう。

  • 目的を始めからはっきりさせ、その目的に沿って作成する。
  • 読み手のことも考え、繰り返しや長文を避ける。
  • 自分にとって不利となること、求人側の欲していないことはすべて書かない。
  • 就きたい職に対する自分の適性をアピールできる能力、経歴をすべて記す。

CV 履歴書サンプル

1. 身分

求人側が求職者に連絡を取るために必要な情報なので、必要事項として氏名と住所、電話番号は明記する。ファックス番号や電子メールアドレスは任意で記せばよい。年齢や生年月日は、自分に不利になるようだったら記す必要はない。外国籍を持つ場合、国籍を明らかにするために記入してもよい。

顔写真
指示が無ければ、随意撮影した顔写真で構わない。また、写真をCVに付けるよう指示がある場合は貼付する。

2. タイトル

CVのタイトルとなる言葉、特に求める職種、もしくは自分の売りになる技能を真ん中に大きく、他の書体よりも目立つように書く。

3. 職歴

CVにおいて最も重要な部分である職歴は、年代別に、もしくは職種別に示すことができる。

年代に従って記す場合、新しい職歴から順に、年、社名などを上から下へ並べる。この場合、年を重ねるほど進歩していると見られるので、一番上にある職歴が最高のポストと思われる傾向にある。また、転職や経験が少ない人には向いている書き方だ。

職種ごとに記す場合は、企業名や経験の内容や活動などを書く。多くの経験、職歴のある人に向いている書き方だ。また、いつその職に就いていたか定かでない場合や、ブランクがある場合にもよい。

例えば、個人で心理カウンセラーなどを行ってきた場合、職歴としてではなく「経験(EXPÉRIENCES)」として、どこで、いつ、どんなケースのカウンセリングを行ってきたかなど、経験を羅列できる。

未就職者は、企業研修などを行った場合に企業名を記す程度でよい。

4. 学歴

必ずしもすべての学歴を示すことはない。例えば、中等教育を書き入れる必要なく、高等教育から、もしくは最終学歴を書けばよい。専門職の学業については、詳細を記すのがよい。

5 & 6. 特記すべき技能、資格など

自分の価値を上げる技能、資格などを書き入れる。例えば、語学に堪能、海外滞在歴、自動車免許所有、ワードやエクセルの使用が可能など。就きたい職業で特記した方が有利と思われるものがあれば、1つの項目として独立させるのもよい。


! 動機書(lettre de motivation)を付ける

作成したCVを完全なものとするためには、必ず動機書を添付すること。動機書は、なぜこの仕事に就くことを望むのかを求人側に理解してもらうための手紙だ。ここに一例を挙げる。

動機書

チェックポイント!
  • 1左上に、氏名、住所、連絡先となる電話番号、右上には作成した日付を書く。
  • 2 結辞を付ける。
  • 3手書きの署名が他者に解読不明なら、下にタイプで氏名を打つ。

まず、求人側の興味を引くようなアプローチをすることが大切だ。応募のきっかけ、そして2、3文で、現在の状況、就きたいポストや職について書く。また、その職に対する自分のヴィジョンを示してもよい。

次に、自己紹介を兼ねて、将来の職業プロジェクトやポストなどについて書いてもよい。また、CVでは書けなかった職業に関する個人の特性に触れたり、将来のプロジェクトや持っている技能について少し詳しく説明をしたりしてもよい。自分のことばかりでなく、求職先ではどんな理由で自分の技能が生かされるかなどを書くことも重要。最後に、面接を希望して締めくくる。

 
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