陰影と奥行きが奏でる日本の雅 石川暢子の世界 ジュエリーアーティスト

平安の時代から近代まで“きもの”など日本特有の衣装の関係からジュエリーを日常的に身に着ける習慣がなかった日本で、ジュエリーデザイナーの世界を開拓した石川暢子。彼女の優美な世界観は、石川暢子亡き後も時代や国境を越えて人々の心に響き続けている。今年6月、パリ郊外のイッシー・レ・ムリノー市で、同市とパートナーシティである千葉県市川市にノブコイシカワの本社が所在する関係から、両市の全面協力のもと、「石川暢子の世界」展が開催される。西洋のジュエリーと、日本の伝統工芸を融合させた石川暢子の独特の世界を、この機会に堪能しよう。

Le Monde de Nobuko ISHIKAWA -1943~2012-Artiste Joaillière Japonaise
「石川暢子の世界」展  日本のジュエリーアーティスト(1943~2012)

㈱ノブコイシカワ創立45周年記念事業の一環として、パリ郊外のイッシー・レ・ムリノー市及び同市とパートナーシティである千葉県市川市の全面協力のもと開催される公的な作品展。在仏日本大使館及び、自治体国際化協会(CLAIR)後援。

「石川暢子の世界」展 6月24日(水)~7月19日(日) (火は団体見学のみ)
6月:火~金 11:00-17:00、土日14:00-18:00、月休
7月:火~日13:00-18:00、月休

Musée Français de la Carte à Jouer
16 rue Auguste Gervais 92130 Issy-les-Moulineaux
M:Mairie d'Issy⑫ 
TEL:01 41 23 83 60
www.issy.com
nobukoishikawa.com

石川暢子、ジュエリーとの出会い

さくら  la fleur de cerisier1963年、東京藝術大学の2年生だった石川暢子は、アルバイトとして装身具のデザインに携わるようになる。ここで、今日の基礎となる実に多くのことを学ぶ。ちょうどこの頃、日本にもジュエリーの新しい時代の波が訪れていた。ジュエリー業界に人材が不足していた時代、色々な会社からの要望に応え、自然と基礎固めをしていた石川は、ジュエラーとしての道を歩むことを決意する。

第2次世界大戦後は服装の変化に伴い少しずつ西洋の影響を受け、装飾品に関心を持つ人が増えてきていた。しかし財産価値の分かるような高価な宝石を身に着けることは、虚栄心を見せつける金満家という印象を与えかねず、日本人にとってジュエリーはまだ日常的に楽しめるような存在ではなかった。そこで石川はデザインを施すことで、高価な宝石でも気軽に身に着けることができるようにしたいと考える。まだ高価な石にはデザインを施す必要がないという考え方が主流だった時代、個性を出すことをよしとする西洋文化から生まれたジュエリーを、奥ゆかしいことを美徳とする日本人の感性に合うような形で表現する必要性があった。日常的に使用できるジュエリーとはどのようなものなのだろうか──石川の研究は続いていった。

一歩下がり、余白のあるジュエリーを

女性が自分で自由にジュエリーを選び、身に着けるようになること。これが日本文化の中に息づくには、まず日本女性の美しさを引き立てるようなデザインが必要だと考えた。さらにそれは熟年の女性にも装ってもらえるようなものでありたい。そう考えた石川は、いくら作品自体が美しくても、身に着ける人を引き立てるようなものでなくては本物とは言えないという事実に気がつく。工芸作品により近いジュエリーでも、工芸品のようにそれ自体で完結された形であってはならない。作品には続きがあり、人がジュエリーを身に着けた時点で初めて作品として完成するようなものを生み出すことが必要だ。作品の先にあるものを見越し、余白を残しておくこと──これがまず石川の出した答えだった。

美術界がアバンギャルドを好んだ60年代前半。新しいものの提案こそが芸術活動とされている時代に、石川は琳派などの伝統美に傾倒していった。日本女性に似合うもの、それは主張ばかりするものではなく、一歩下がった形でのジュエリー。表面が煌びやかに光るものよりは、陰影や奥行きのあるものの方が日本女性には似合う。デザインの余白の中に、たおやかで、しなやかさを併せ持つ日本人女性の姿が重なったときに、計算尽くされたジュエリーに秘められた輝きが放たれるのだ。昼はしっとりと、夜は光を浴びて複雑に輝くような表情を生み出すために、漆や七宝を積極的に用い、日本古来の技法を駆使しながら、新しいジュエリーの道を開拓し始めた。

品格という美意識を目指して

1970年、本格的に独自のジュエリーの道を進むために会社を設立する。ジュエリーの市場の中で、表現の場を確立するためにはある程度の量の作品を作らなければならない。そのために会社設立と同時に工房も設置した。技術者を育てるには地道な努力が必要であり、長い年月と、同じ目標を持ち、互いに高め合っていく信頼関係が必要だ。コストの面を考えれば、外注をした方がはるかに安く仕上がるかもしれない。しかしジュエリー製作の過程に立ちふさがるものは、高い技術の壁だった。いくら素晴らしいデザインでも、確かな技術の裏付けがない限り、正確で豊かな表情を持つ作品に仕上げることができない。

こうして苦労しながらも職人をしっかりと育成していく道を選んだことは、後に訪れる豊かなバブルの時代にも、日本経済が傾き価値観の変容がもたらされる時代にも、いつの時代にも通用する、揺るぎない基盤として会社を支えていくことになる。

世界へと羽ばたいた80年代

80年代、ファッション界を中心としてデザイナーズブランド全盛期に突入するが、それに先駆け、ノブコイシカワ・ブランドを立ち上げる。この頃になると、石川はジュエリーデザイン業界の牽引者として、ヨーロッパからも展示会の誘いを受けたり、国際ジュエリーアート展の審査員を務めたりするなど、国際的に活躍するようになる。こうして時代に先駆けて世界を見てまわった経験は、会社を発展させる上で大きな糧となった。

80年代後半にもなると、海外旅行も一般化し、服を選ぶようにジュエリーも自分の好みのものを選択する時代が始まった。時代の流れとともに幅広い層に適したラインが求められるようになり、高価なオートクチュールライン以外にも、日常に使用できるディフュージョンライン「アズタイム」、オートクチュールの技術を活かした求めやすい価格設定のブティックラインを発表する。  

どの価格のラインでも、ノブコイシカワの商品には絶対的で普遍的な価値があった。それは熟練の技。例えばブティックラインの価格が抑えられているのは、キット化し、技術をシステム化することによって制作時間を短縮させたためで、品質の高さには変わりがない。こうすることで若い職人もジュエリー作りに携わることができるようになった。なにしろオートクチュールラインは、最低10年のキャリアを持つ職人しか手掛けることができないのだ。工房で若手は全ての工程を把握できるようにキャリアを積んでいく。各工程でエキスパートになったほうが効率はいいが、全体のバランスを見られるようになるためには、全工程を熟知していなければならない。ジュエリーというとまだまだ海外ブランドが市場を占める中、石川は日本の伝統技術を持ったジュエリーを育てる努力を自分が怠ってはいけないという信念を持ち続けた。

21世紀に遺したもの

石川

新しい世紀に入っても、高い技術力が必要なデザインから簡単な修理まで、全てを自社の工房内で行っている。デザイナーと製作スタッフが妥協せず、ぶつかり合いながらでしか、理想的なジュエリーは生まれない。

2012年、石川暢子は病気によりこの世を去る。石川の死後、実妹の佳柄が代表取締役社長に就任し、姉の思いを引き継いだ。2012年にはクール・ジャパンの一環で日本のトップジュエラーとして、経済産業省に取り上げられ、インドで行われた国際ジュエリーウィーク「IIJW」の中で初のファッションショーに参加する。石川暢子の残した独特のデザインや思想といった資産は、今もしっかりと守られている。その上で佳柄は、このブランドが「石川暢子の」ではなく、「NOBUKO ISHIKAWAの石川暢子」といわれるように、次の世代への橋渡しをしたいと考えている。西洋の様式美と日本の雅を融合した石川暢子の世界は、今後何世紀にもわたって受け継がれていくだろう。

石川暢子の
時空を超えた世界観

世代を超えて使い続けられ、愛されるものを生み出すためには、膨大な文献や資料を読み込み、イメージを最大限に広げなければならない。石川暢子のジュエリーはミリ単位の細かい部分に目を凝らしながらの作業。そのため石川は、ときにはそこから抜け出し、高い空の下、大きく深呼吸をしながら五感を解放させる旅に出ることを好んだ。

そこでの出会いや感動をジュエリーのミニアチュールの世界に詰め込んでいった。ジュエリーのテーマは西欧の神話から日本の古典まで幅広く、時空を超えた世界。古今東西の技術を自在に駆使し、丹念に仕上げられている。

ヨーロッパ城紀行
異国への憧憬

何の変哲もない空の色や陽差しにゆらめく若葉の陰にも想像の余地はある。時を経てなお厳然と在るものに出会えた時などは、またひとしおと言える。「出会い」1991年(文:石川暢子)

モンサンミッシェル
Le Mont Saint-Michel

フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島。同名の修道院がある。


ベニスからパリへ
De Venise à Paris

ベニスのガス燈と石畳、パリ・オルセー駅の駅舎のアールデコのドームをオリエント急行が繋いでいる。


パリ15世紀のルーブル

パリ15世紀のルーブル
Le Louvre à Paris au XVe siècle

セーヌ川河畔より、15世紀のルーブル宮殿を望む。


源氏物語

花鳥風月、雪月花などの日本の美を表現するとともに、源氏物語を読み直し、
イメージを膨らませて人の世のはかなさや、日本の雅を描きだすことにも精進した。


黒髪 明石の上
Chevelure d'ébène- La Dame d’Akashi

源氏が流された須磨から明石に移り、明石入道の娘「明石の上」に出会う。十二単衣の亀甲紋様の上に黒髪が流れる様、女性の後姿。


若紫
Jeune Grémil

源氏が子供の若紫(後の紫の上・源氏の妻)を垣根越しに見初める。侍女が雀を逃がしてしまい残念がって、祖母に話している場面。階の欄干と雀と鳥籠。


花宴

花宴
Le banquet sous les fleurs

春、紫宸殿の前で桜の宴が催される。階(きざはし)に桜。


複雑な色合い、
奥行きを添えるための表情作り

創作の技

日本古来の技法と現代の技法を融合し、作品の表情を豊かにすることを研究し続けた石川暢子。現在でも高度な技術を有し、国家検定資格を持つ職人が作品を一つずつ手作りしている。複雑な色合い、深みを出す表情作りのために取り入れている技法の一部を紹介しよう。



  • (彫り、打ち出し)
    薄い地金を木鎚で裏側よりたたいて膨らませ、松脂の上にのせて表側より鏨を用いて意図する形・模様を表現する技法。

  • 切嵌象嵌
    ベースとなる地金に模様となる形を糸鋸で切り抜き、ベースとは質の違う地金を切り抜いた穴に合わせて切り抜き、叩いてはめ込む技法。

  • 流し象嵌
    切嵌象嵌よりも繊細な紋様を表現するときに使う技法。地金の表面に鏨で溝を作り、そこに主に金地金を施し、地金表面を削り紋様を出す。

  • 煮色仕上げ
    銀・金・銅で作られる赤銅、四分一という日本独特の合金、純銅を大根のおろし汁で下処理をして薬品で煮詰めると、地金表面の色が変化する。

  • 鍍金「金けし」
    西洋とは異なり、アマルガムを使用。鏡面ではなく、淡い梨地の表面に仕上がる。

  • 粒金
    無数の金の粒で表現する技法。日本でも古くから芥子の実のような小さな金の粒をあしらった技法がある。