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Fri, 14 August 2026

春は、まだ終わらない デービッド・ホックニー
1937-2026

1960年代初頭、ロンドンでポップアートの旗手として頭角を現し、以降は春のような光と色彩の画家として活躍を続けたデービッド・ホックニー。ホックニーは6月11日、ロンドンの自宅で静かに息を引き取った。88歳。老いてなお制作意欲は衰えず、晩年はiPadを使った創作にも果敢に挑み続けた。生涯「見ること」をやめなかった、ホックニーの軌跡をたどる。
(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.hockney.com、www.serpentinegalleries.org、www.pacegallery.com、www.thedavidhockneyfoundation.org、the guardian、BBCほか

David Hockney

デービッド・ホックニーとは

デービッド・ホックニー(David Hockney、1937年7月9日〜2026年6月11日)は、英国出身の画家・舞台美術家・写真家。英北部ブラッドフォードの労働者階級の家庭に生まれ、ロイヤル・カレッジ・オブ・アーツ在学中の1960年代初頭にポップアートの旗手として頭角を現した。1964年に渡米し、ロサンゼルスのプールや光を描いた作品群で世界的名声を確立。以後も油彩、フォトコラージュ、舞台美術、iPadによるデジタル創作と、60年以上にわたり表現手法を更新し続けた。

2026年6月11日、英画家のデービッド・ホックニーがロンドン中心部マリルボーンの自宅で88歳で息を引き取った。89歳の誕生日を1カ月後に控えてのことだった。故人の遺志に従い葬儀にはパートナーのジャン=ピエール・ゴンサルベス・デ・リマ氏と大甥のリチャード・ホックニー氏のみが参列。広報担当者は「20世紀と21世紀の現代美術における、最も重要な人物の一人」であったと発表し、その人生を貫いたモットーとして「Love Life」(人生を愛せ)という言葉を紹介している。

訃報を受け、各方面からホックニーを惜しむ声が相次いだ。チャールズ国王は「芸術と絵画の世界の巨人であり、生粋のヨークシャー・マンであり、多くの人々にとって親愛なる友人であり、インスピレーションの源だった」との声明を発表。かつて国王主催の昼食会に鮮やかな黄色いサンダルで現れたエピソードにも触れ、「その天賦の才を、デービッドはいつもあの愛すべき黄色いクロックスと同じくらい軽やかに身にまとっていた」としのんだ。

友人でもあった現代画家のトレイシー・エミンは「偉大な芸術家であり、素晴らしい人だった。その芸術の力で、英国らしさというもののイメージそのものを変えた人」と語り、スターマー首相も「英国で最も愛された芸術家の一人」への哀悼の意を表明した。体制に逆らいながら、その率直で気取らないヨークシャー・マン気質は体制からも愛された。ホックニーは半世紀を優に超えるキャリアの中で、何を見つめ、何を描き続けてきたのか ── その軌跡を振り返ってみよう。

1 ヨークシャー ➤➤➤ ロンドン 「若くして時代の寵児に」

ホックニーは1937年7月9日、英国北部ヨークシャーの工業都市ブラッドフォードに、労働者階級の家庭の5人きょうだいの4番目として生まれた。53年からブラッドフォード美術学校に学び、59年にはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アーツ(RCA)へ進学。当時の英国はようやく戦後の重苦しさを脱しつつあった時期で、若者たちの間には新しい表現を求める空気が広がっていた一方、同性愛はまだ違法とされていた時代でもあった。美術界では米国の抽象表現主義が主流だったが、ホックニーは次第にこれと距離を置き、自らの同性愛をも隠さずモチーフに取り込みながら、具象的でユーモラスな作品を大胆な色彩で描くスタイルへと転じていく。この転換を後押ししたのが、客員講師として招かれていた、のちに「ポップアートの父」と呼ばれる画家リチャード・ハミルトンだった。

61年、ロンドンで開催された「ヤング・コンテンポラリーズ」展には、ホックニーと共にR・B・キタイ、パトリック・コールフィールド、ピーター・ブレイクら同世代のRCAの学生たちが名を連ねた。のちに「英国ポップアートを世に送り出した展覧会」と評されるこの一連の動きの中にホックニーはおり、20代前半にして早くも、時代の寵児としての地位を確立していたことになる。同展で画商ジョン・カスミンの目に留まり、63年、カスミンが自身の画廊を開くと、ホックニーはその最初期の所属アーティストとなって初個展を開催している。また、NYも訪れアンディー・ウォーホルやデニス・ホッパーといった米国のアーティストたちと会う機会も得た。

この頃、後年まで続くホックニーのトレードマークの一つである脱色ブロンドの髪も誕生した。RCAの友人たちと「ブロンドの方が人生を楽しめる」と謳う米国のヘアケア・ブランド、クレイロールのテレビCMを目にしたホックニーが、その場の勢いで髪をブリーチしたのが始まりだった。

絵筆とパレットを持つホックニー(横顔)の白黒写真まだ髪の黒かった18歳のホックニー

ブラッドフォードの街並みの白黒写真紡績工場が立ち並ぶブラッドフォードの街並み

2 ロンドン ➤➤➤ ロサンゼルス 「ポップアートから、光の画家へ」

転機は1964年、27歳の年に訪れる。ホックニーは陰鬱な英国の空を離れ、同性愛に寛容な自由な空気と明るい光を求めて単身ロサンゼルスへと渡った。ホックニーを待っていたのは、それまで写真でしか見たことのなかった、乾いた光と青いプール、ヤシの木が並ぶ開放的な街だった。この光景への衝撃は、以後の画業を決定づけるほど大きなものだった。

渡米後まもなく、アイオワ・シティを車で通りかかった際、ある眼鏡店で分厚いべっ甲柄の丸眼鏡を見つけて即座に購入したという逸話が残る。「もっとプロフェッショナルに見られたかった」という理由からだったというが、以後この丸眼鏡は脱色ブロンドと並んで、ホックニーのトレードマークとして生涯身につけ続けられることになる。

ロサンゼルスでホックニーはアクリル絵具を本格的に用い始め、平坦で鮮やかな色面によって水面の揺らぎや光の反射を捉える独自の技法を確立する。プールに浮かぶ人物や、ガラス張りの邸宅を描いた一連の作品群は、まさにこの時期に生まれた。中でも代表作「とても大きな水しぶき」(A Bigger Splash 1967年)は、水しぶきという一瞬の動きを、静止した絵画の中に閉じ込めるという逆説的な構図で高く評価され、ホックニーの名を世界的なものにした。

「光と色彩の画家」としてのホックニーの原点は、まぎれもなくこのロサンゼルス時代にある。以後、拠点を英国に戻してからも、ホックニーはこの街で得た光への感受性を生涯にわたって作品に持ち込み続けることになる。

プールサイドに立つ腕を組んだホックニー1964年、ロサンゼルスにスタジオを構えたホックニー

白黒写真:黒い大きな丸メガネをかけたホックニー丸眼鏡が生涯のトレードマークに

ホックニーの有名な絵「A Bigger Splash」- 飛び込み板のある水色のプールに大きな水しぶき、背景には、青い空、平屋の建物と折り畳み椅子、向かって右に背の高い椰子の木が2本「とても大きな水しぶき」(1967年)

3 パリ ➤➤➤ ヨークシャー 「遠くを見ることで、故郷を新しく見る」

ホックニーとパリの関係は、パブロ・ピカソへの敬愛から始まった。RCA在学中の1960年、テートで開催されたピカソの回顧展に足繁く通い、計8回も鑑賞したと伝えられる。73年にピカソが没すると、ホックニーは追悼版画集への参加を依頼され、一時的にパリへ移住。ピカソ専属の名版画職人アルド・クロムランクのもとで、シュガーリフト・アクアチント技法を修得しながら、亡き巨匠への敬意を込めた作品を次々に制作した。76〜77年に手がけた版画集「ザ・ブルー・ギター」(The Blue Guitar)も、ウォレス・スティーヴンズの詩とピカソの絵画への二重のオマージュとして知られる。のちの1981年、ホックニーはニューヨーク・メトロポリタン・オペラで、1917年にピカソ自身が舞台美術を手がけたバレエ「パラード」を含む3本立ての舞台美術を依頼された際、意識的にピカソの手法を踏襲している。欧州の美術史との対話を経て、ホックニーの中で絵画と舞台という二つの表現が結びついていった時期だったといえる。

ロンドン・ロサンゼルス・パリを行き来する生活のなかで、ホックニーは友人やパートナーを写実的に描いた「ダブル・ポートレート」の連作にも取り組み始めた。等身大近くで描いたこれらの作品「クラーク夫妻とパーシー」(Mr and Mrs Clark and Percy 1970-71年)や「芸術家の肖像画 —プールと2人の人物—」(Portrait of an Artist(Pool with Two Figures)1972年)などは、移動を重ねる生活の中で出会った人々への、ホックニーなりの記録でもあった。

1978年、ホックニーは15年に及ぶ欧州と米国を行き来する生活を経て、再びロサンゼルスに定住する。しかし90年代に入ると、母の見舞いのため3カ月おきにヨークシャーへ通うようになり、97年、病床にあった旧友ジョナサン・シルヴァーに背中を押される形で、次第に故郷の風景そのものを描くようになっていく。2004年、久しぶりに向き合ったヨークシャーの光について、ホックニーは「違う光を見ることは、とても良いことだと思う」と語り、屋外での制作に没頭していった。07年に完成した「ウォーター近郊の大きな木々」(Bigger Trees Near Warter)は、50枚のキャンバスから成るホックニー史上最大の作品で、母の家の屋根裏で連日制作を重ね、ヨークシャーの春の予兆をとらえるため、木々が芽吹く前のわずか6週間で描き上げられた。各カンバスをどう組み合わせるか、全体像を確認するためにデジタルカメラやパソコンを駆使して制作されたといわれている。少年時代に見慣れていたはずの故郷の風景が、世界を巡り歩いた末の目で見返すことで、まったく新しい絵画になったともいえる。

ホックニーの有名な絵「Mr. and Mrs. Clark and Parcy」「クラーク夫妻とパーシー」(1970-71年)

ホックニーの有名な絵「Portrait of an Artist (Pool with Two Figures)」「芸術家の肖像画 —プールと2人の人物—」(1972年)

ホックニーの有名な絵「Bigger Trees near Warter」「ウォーター近郊の大きな木々」(2007年)

4 ヨークシャー ➤➤➤ ノルマンディー 「最後の創作の地」

2019年、80歳を過ぎたホックニーは、静けさを求めて仏ノルマンディーの農家「ラ・グランド・クール」に移り住んだ。4エーカー(東京ドームのグラウンドの約3分の1)の敷地には池と小川、納屋を改装したアトリエがあり、モネが「睡蓮」を描いたジヴェルニーからも遠くはない。ロサンゼルスの乾いた光、ヨークシャーの移ろう空、生涯を通じて場所ごとの光を追い求めてきたホックニーが、英国に戻る前に選んだのはこの静かなフランスの田園だった。

20年、新型コロナウイルスの流行で世間がロックダウンに入ったとき、ホックニーの生活はほとんど変わらなかった。もともと人里離れた農家で創作に没頭する日々を送っていたからだ。むしろこの隔離期間を、ホックニーは好機として捉えた。友人でもある美術評論家マーティン・ゲイフォードと電話やメールでやり取りを重ねながら、毎朝庭に出てはiPadでその日の光と季節の移ろいをスケッチし、送り続けた。この往復書簡的な記録は、のちに「Spring Cannot Be Cancelled」(春は中止にできない)という1冊にまとめられている。世界が立ち止まっていた時期に、ホックニーはただ一人、庭の中で春が巡り続けることを描き続けていた。

この日々の記録の集大成が、全長90メートルに及ぶパノラマ・フリーズ「ノルマンディーの1年」(A Year in Normandie 2020-21年)だ。100点以上のiPad画によって、農家の庭に訪れる四季の移ろいを1年かけて描いたこの作品は、バイユーのタペストリーや中国の絵巻物からインスピレーションを得た構成で、歩きながら鑑賞することで時間の経過そのものを追体験できる仕掛けになっている。88年の生涯をかけて世界を回り、「見ること」をやめなかった画家がたどり着いたのは、自宅の庭という最も身近な風景だった。

ホックニーの有名な絵「A Year in Normandie (detail)」鮮やかな緑のなかにある大きな木やフランスの民家、牧草ロールがいくつもある風景「ノルマンディーの1年」の一部(2020-21年)

ホックニーの有名な絵「A Year in Normandie (detail)」鮮やかな緑のなかにある大きな木やフランスの民家、牧草ロールがいくつもある風景「ノルマンディーの1年」の一部(2020-21年)

マーティン・ゲイフォード、デービッド・ホックニー共著「Spring Cannot Be Cancelled David Hockney in Normandie」
マーティン・ゲイフォード、デービッド・ホックニー共著
Thames & Hudson、2021年刊、280ページ
ロックダウン下のノルマンディーでの対話と、iPadドローイング約30点を収録

ホックニーをめぐるABC

A卒論の代わりに絵を描いた

RCAの卒業条件だった、実在の女性モデルを描くライフ・ドローイングの課題をホックニーは拒否。代わりに、米国のボディビル雑誌から男性像を模写した絵に、自ら描いた骸骨のスケッチを組み合わせて提出した。併せて課された小論文の提出も拒み、「絵だけで評価されるべきだ」と主張。前代未聞のこの対応に、学校側は規則そのものを変えてまでホックニーを卒業させたという。若干24歳にして、すでに型破りぶりを発揮していた。

B溺愛の対象はダックスフント

ロサンゼルス時代から大の愛犬家として知られたホックニー。飼っていたダックスフント2匹、スタンリーとブーギーは幾度となく作品のモデルとなり、キャンバスのそばで眠る姿が何枚も描かれた。あまりの溺愛ぶりに、のちに「David Hockney's Dog Days」という画集にまでなっている。「主題は犬ではなく、この小さな生き物たちに対する愛情なんだ」だそう。

C100億円の値が付いた

2018年、ロサンゼルス時代の代表作「芸術家の肖像画—プールと2人の人物—」がニューヨークのオークションに出品され、9030万ドル(当時のレートで約100億円)で落札。それまでジェフ・クーンズの彫刻が保持していた記録を大きく更新。存命作家の作品としては、当時史上最高額を記録した。しかしわずか半年後、当のクーンズが1986年の彫刻「ラビット」を9110万ドルで売却し、記録を奪還している。

D女王の肖像画を断った

2011年、エリザベス女王の肖像画制作を依頼されたホックニーは、これをやんわりと辞退した。その理由を問われ、「女王はきっと『素晴らしい題材』になるだろうが、自分は知っている人を描く方が好きなんだ」と答えている。さらにBBCラジオの取材には、「依頼されたとき、私は女王の国でもあるイングランドの風景を描くのに非常に忙しかったからね」とも語った。

E禁煙法に一人で抗議

2005年、飲食店での喫煙を禁止する法律の制定が議論された際、ホックニーは労働党大会に自らプラカードを持って乗り込んだ。掲げた文言は「DEATH awaits you all, even if you do not smoke」(タバコを吸わなくとも、死はあなた方全員を待っている)。政治家に人生の楽しみを決めさせたくないとの信念のもと、生涯チェーンスモーカーであり続けた。

F喫煙を理由に禁止されたポスター

2025年、パリのルイ・ヴィトン財団で大規模な回顧展が開催された際、その宣伝用ポスターが、パリの地下鉄構内への掲示を禁止される一幕があった。理由は、ポスターに描かれたホックニーが煙草を持っていたから! 公共交通機関でのタバコ関連の描写を禁止するフランスの法律に違反しているとのことだが、ホックニーはこの決定を、「完全なる狂気」と非難した。

エキシビション情報

David Hockney: A Year in Normandie and Some Other Thoughts about Painting

ノルマンディーの1年

本展は、生前のデービッド・ホックニー本人との緊密な協力のもと企画された。中心となるのは、ホックニーの代表作の一つであるパノラマ・フリーズ「ノルマンディーの1年」。仏ノルマンディースタジオで繰り広げられた四季の移り変わりを、「バイユーのタペストリー」にインスピレーションを得た手法で捉えた壮大な作品だ(このタペストリー自体も、9月から大英博物館で公開予定)。サーペンタイン・ギャラリーでの展示において、この作品はケンジントン・ガーデンズを取り巻く自然との対話を生み出している。

Serpentine North Gallery
2026年8月23日(日)まで

West Carriage Drive, London W2 2AR
Lancaster Gate / Knightsbridge駅
Tel: 020 7402 6075
月 12 –18時 火~金 10 –18時 土・日 10 –19時
無料
www.serpentinegalleries.org

 

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