来年2008年は、日本とフランスが修好通商条約を結んでから150年となる。そんなことから、文化、経済などあらゆる分野でさまざまな企画が立案されている。そこで、今回は日仏交流が始まった、当時の日本とフランスを振り返ってみたい。(執筆:立松弘臣)
[写真左]皇帝ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン・ボナパルト)(1808-1873)
ナポレオン1世(1769-1821)の弟でオランダ王のルイ・ボナパルトと、ナポレオン1世の妻ジョゼフィーヌの連れ子オルタンス・ド・ボルネアの間に生まれた第3子。ナポレオン1世とは叔父甥の関係。1832年にナポレオン1世の子、ライヒシュタット公(ナポレオン2世)の没後、ボナパルト家の宗首となり、1848年にはフランス第2共和制初代大統領となり、1853年には、ナポレオン3世の名で、2代目皇帝に即位する。[参考資料:立松弘臣所蔵、Alfred Dedreux, Musée de Compiègne]
日本を開国させたペリ提督、浦賀来航以来
フランスと日本の最初の条約締結まで
1854年2月13日、マシュー=カルブレース・ぺリ提督(1794~1858年)らは再び浦賀に来航した(1回目は1853年7月8日)。同年3月31日、横浜村において徳川幕府は日米和親条約を締結。1856年には、タウンゼント・ハリスが総領事として下田に着任し、1858年6月19日、幕府は日米修好通商条約に調印した。

江戸幕府最後の将軍、
第15代将軍徳川慶喜
その年まで鎖国体制を維持してきた日本は、他の大国オランダ、ロシア、イギリスなどとも条約を締結し、フランスは皇帝ナポレオン3世(1808年4月20日~1873年1月9日)の名において、ジャン=バティスト・ルイ=グロ男爵(1793~1870年)が江戸にて1858年10月9日、日仏最初の条約にユージェヌ・メルメ師(1855年より琉球王国にあって日本語を学ぶ)通訳出席のもと水野筑後守との間に調印を交わした。そしてその1年後、グロ男爵に随行したデュシェーヌー・ド・ベルクール(1817~1881年)は初代総領事として江戸に着任し、1861年には全権公使となる。
ナポレオン3世は第15代将軍徳川慶喜へフランス風の儀礼服一揃を寸法を合わせた上で送るなど、条約調印以来、日本とフランスは友好関係を保っていった。慶喜はますますフランスとの関係を強めながらフランス語を学び、なかでもフランス料理がたいそうお気に入りのようだった。こうして連携を深めていくなか、慶喜の最後の決定のひとつは、日本を1867年のパリ万国博覧会に参加させることであった。

繁栄御江戸絵図。出版嘉永2年正月(1849年)版元、江戸京橋村田屋彦兵衛。
[参考資料:立松弘臣所蔵]

20世紀初頭のパリの巨大地田「Plan de Paris à vol d'oiseau dressé et dessiné par G.Peltier. 153×98cm」パリ中心部。 [参考資料:立松弘臣所蔵]
日仏交流の前身は琉球王国(現在の沖縄)から
現在の沖縄は、19世紀半ば琉球王国との貿易の拠点を構え、日本との通商の機会を願うフランスにとって沖縄は戦略的重要な地であった。1855年11月24日、フランス艦隊司令長官ゲランは琉球王国との間に11カ条の約条を結ぶ。
1860年代日本、5カ国(米国、英国、フランス、ロシア、オランダ)から訪れた異人達の行列。
[参考資料:立松弘臣所蔵]
世界の資本主義の荒波に投げ出された日本
政治、軍事、経済、教育、文化の面で日本が得た最初の西洋知識は、オランダを介したものであり、オランダは西洋思想を伝える親善大使であると共に、ヨーロッパ特権的商人であった。
時代をさかのぼると、ルイ16世によりジャン=フランソワ・ド・ラ=ペルーズ(1741~1788年)が命じられた調査航海において、「日本の地理的発見(1787年8月2日)、北方への通路の発見、日本の北東部の探検」など、ヨーロッパ人のアジア大陸日本に対する関心は高 かったと思われる。
こうしたなか、1857年の5カ国条約(アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス)は「各国公使の江戸駐在」「国内の多数の港の開港」及び「自由貿易」を規定。これによって日本は、(翌年6月貿易開始に向けて)世界の資本主義の荒波に投げ出されたと言える。
1858年、開国直後の日仏関係は「技術と文化的援助」といった形で展開されており、例えば軍事援助と軍事教育、日本最初の軍港、製鉄所、軍艦、及び最初の灯台、絹製糸工場などさまざまな分野において技術的指導を受けている。また着眼すべきこれらは、日本は近代化に目覚めた幕府との協力の下に始められたことだ。
科学の分野、そして日本の近代法の父として知られるギュスターヴ・エミール・ボアソナード(1825~1910年、パリ大学法学部教授)は、1873~1895年まで日本に滞在し、1883年には大日本帝国民法典草案を国文社より、また日本に関する研究論などを両国で発表している。
1895年3月8日にフランスへ帰国したポワソナードは、パリに設立された日仏協会の名誉理事に就任し、1910年、コートダジュールのアンティーブにて世を去った。新生日本の法制度を近代化したその功績と研究により、彼は後に日本帝国学士院の会員に選ばれ日本 政府より動一等瑞宝章を授与されている。
ナポレオン3世第二帝政時代における
最大の絹織物輸出国フランス
日本の優れた生糸玉に救われる
1855年、フランス、リヨン市の絹織物技術は、当時スペインで発生した蚕の大病により危機に瀕する。被害はヨーロッパ全土に広がり、リヨン地方の養蚕業界はもとより絹織物業者も大被害を被る国家的災害となった。フランスも生産量を維持するために日本や中国から生糸、蚕卵の輸入に頼らざるを得ない状況に陥る。だが、当時極東からの生糸輸入はイギリスが独占しており、リヨンへの入荷はロンドン経由とされていた。

日本で行われた修好条約調印式の模様。[参考資料:立松弘臣所蔵]
そんな中、1858年10月、日仏修好通商条約後、初代総領事デュシェーヌード・ベルクールの後任に任命され江戸公使館の2代目総領事兼代理公使となったレオン・ロシュ(1809~1900年)は、日本との貿易の重要性を認識し、1863年10月7日、貿易実務に長い経験と外交官歴を生かした新政策を打ち出し、リヨン業者を横浜に進出させ独自の輸入航路を構築した。
当時、日本に居住する外国人登録者はアメリカ、イギリス、オランダ、ドイツ、スペイン、ロシアなど283人、その内フランス人は56名、17人が絹貿易関係者だった。
レオン・ロッシュが在日中行った近代化に対する業績(*1)は幕府から明治政府に引き継がれ、日本人に多大な影響を及ぼすと共に通商発展に功績を残した。
(*1)日仏貿易を円滑にするため1866年9月横浜にパリ国立割引銀行支店を開設した(1893年この銀行は閉鎖)。
シャルル・ド・モンブラン伯爵と
1867年パリ万国博覧会
江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の最後の決定は幕府を万国博覧会に参加させることだった。慶喜の弟、徳川昭武は全権公使・向山隼人正を随行させ「中央政府の代表資格」として参加させることを決定した。ところが琉球王国(1855年11月24日フランスと約条を結ぶ)と薩摩藩(*2)が琉球王国薩摩藩として万国博覧会へ参加を申請したことで、双方の代表部が対立する。
その解決に乗り出したシャルル・ド・モンブラン伯爵(*3)は、権限上の争いをまず解決し、結局「幕府中央政府」と「琉球王国と結んだ薩摩藩」に対して『連合』という共通の紋章入りで展示品を区別させることになった。幕府はこの解決提案には不満であったが、モンブ ラン伯爵の仲裁で承諾した。
万国博覧会期間中、ナポレオン3世は日本の立場を支持しているモンブラン伯爵に日本の外交使節団がパリに常駐する間のパリ駐在日本領事の許可証を出している。万国博覧会参加の成功に力を得た日本は、以後パリで開催される博覧会に参加した。日仏親善に貢献した立役者モンブラン伯爵は、フランス王政復古に積極的な役割を果たし、1894年1月22日に亡くなった。
(*2)1609年薩摩藩の島津家久は3000人に及ぶ遠征軍と共に琉球諸島を侵略。しかし琉球王国は薩摩を通して日中両属となり1972~79年に日本に属した。
(*3)27歳で来日し、刻苦精励して日本語を学ぶ、日本社会と封建政治制度に興味を抱き、1865年、パリにて「幕政の実務と薩摩藩 江戸の庶民文化、日本の歴史について」外国人の見た日本と題した講演で紹介する。

1867年万国博覧会における最初の日本代表者、シャルル・ド・モンブラン伯爵(1833年-1894年)(複写)。[参考資料: 立松弘臣所蔵]

1867年パリ万国博覧会会場全景。初参加の日本は、みずほ屋・清水卯三郎が日本の茶屋を開店させ柳橋芸者の3人(おすみ、おかね、おさ)に接待させ人気を呼んだ。
[参考資料:会場全景リトグラフ立松弘臣所蔵]
遣欧使節団一行、品川を出港
日仏修好条約調印以来、幕府政府はヨーロッパ6カ国(フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)への派遣外交使節団の人選を決定した。全権正使・竹内下野守(勘定奉行兼外国奉行56歳)、副使・松平石見守(神奈川奉行兼国奉行31歳)率いる総勢36名のヨーロッパ使節団参加の中には、第1回アメリカ(1860年)に派遣された福沢諭吉ら6名が同行した。
これに伴い、イギリス政府は日本の使節団を運ぶためのフリゲート艦オーディン号を用意。船内の日本人使節団員用の部屋には料理ができるように配慮され、日本食材、日本酒、お茶、食器類などが大量に積まれ(*4)、火鉢までもが持ち込まれたが、ジョン・ヘイ艦長より航海中の火鉢の使用は禁じられた。
1861年12月23日、予定通りオーディン号は品川を出港、横浜~長崎を経由して香港~シンガポールを経由してスエズに到着した。
一行はスエズから鉄道でカイロへ向かいエジプトに数日滞在した。その間、イギリスとフランスの総領事は一行の宿泊先ホテルを訪問し、日本を発つ前に未解決だった重要な問題「フランスとイギリスの訪問の順番で双方の国々で争いが起きた」ことに関して、日本領事が 仲介に入り、フランスへ先に訪れることが決定された。
その後、エジプトのアレキサンドリア港からイギリスの兵員輸送船ヒマラヤ号に乗り込み出港、途中2月25日にマルタ島に立ち寄り、1862年3月5日午後、地元の見物人で埋まったマルセイユ港口に無事到着した。使節団はフランス海軍の15発の祝砲が鳴り響くなか元気よく上陸。盛大な歓迎を受けた一行は、その2日後マルセイユよりリヨンへ列車で移動し、リヨン市内のベル クール広場で開かれた観兵式に参加。翌日、目的地パリへ向けて出発した。
故国日本を離れて2カ月あまり、一行を乗せた列車は予定通りパリのリヨン駅へ夜7時頃到着した。フランス第5連隊の軽騎兵楽隊及びフランス政府外務省高官ら多数の出迎えによる大変な歓迎を受けながら、政府が用意した数台の馬車に分乗して市内の宿泊先ホテルへ向かった。このホテルはチュイルリー宮殿近くにある。1855年創立の「ホテル・デュ・ルーヴル」(現在はルー ブル骨董店、以前はルーブル・デパート)。
その夜は、ホテル内にてフランス外務省主催日仏友好歓迎晩餐会が盛大に行われ、入り口には日章旗が揚げられた。ここでもまた、ホテルの周辺は日本使節団を見ようという大変な数の見物人で埋まる。またこの時の様子を、到着駅リヨン駅から一行を追いかけた、フランスの新聞「ル・タン」紙、「ル・モニトゥール・ユニヴェルセル」紙、さらにはイギリスから駆けつけた 「タイムズ」紙が大きく紹介した。
(*4)航海途中イギリス海軍士官から「臭い臭い」と苦情が出たため、味噌や醤油の半分以上を海中に投じてしまった。
フランス国皇帝ナポレオン3世との謁見
3月15日、朝からどんよりした空模様の中、豪華に飾り立てられた6台の馬車と礼服佩刀のフランス士官がホテル玄関先で出迎える。一方、フランスのナポレオン3世に謁見する日ということで、使節団の全権正使・竹内下野守、副正・松平石見守、目付・京極能登守の3使は古式にのっとり狩衣、鞘巻き、烏帽子、太刀を身につけて組頭・柴田貞太郎は布衣の衣服で列席した。
ホテルの周辺に詰めかけた大勢の群集が見守るなか、一行を乗せた馬車はチュイルリ宮殿玄関に到着。玄関前で近衛兵の捧銃礼を受け、謁見が行われる王座の間へと向かった。謁見の間にはナポレオン3世、ウージェニ皇后(1826~1920年)、皇太子ウージェーヌ・ルイ・ナポレオン4世(1856~1879年)が着座しており、フランス政府の高官、関係者ら数百名が侍立していた。全権正使・竹内下野守が大君から託された挨拶を述べた後、ナポレオン3世は「日本皇帝の名代と初めてお会い出来て嬉しく思います。日仏間で結んだ(1858年10月9日)日仏修好通商条約が両国のために良い結果を生むことを望みます」と挨拶した。謁見後、使節団一行は武部官に案内され、同じ道順で宿泊先のホテル・デュ・ルーヴルに戻り、ホテルで待ち構えていた写真師ナダールによって記念写真が行われた。
翌日からは「西洋文明の真髄と出会った幕末の日本人の初めてのパリ訪問」とあって各自別行動の探訪。専門分野に分かれて市内の博物館、美術館、軍事博物館、研究所、市場、公園、植物園、書籍や地図の買い付け、病院の見学や医療制度について、各工場、及びセーブル 陶器工場、銀食器のクリストフル、銀行などを訪れた。
宮殿のような格式高いこのホテルの一歩外に出れば、街路樹を引きも切らずに行き交う馬車と人間の波、華美な衣服を身にまとった紳士淑女の通行人の姿。使節団たちは別世界にいるような錯覚にとらわれた印象を与えたに違いない。

1862年幕府第1回日本使節団パリ訪問。ナダール撮影:野沢郁太(松平石見守家来)、淵辺徳蔵(勘定格調役)、松本弘安(医師)、柴田真太郎(外国奉行支配組頭)、福沢諭吉(通詞)、福地源一郎(通詞)、川崎道民(医師)、他2名
パリ訪問での最大の主な課題は外交的な交渉
日本側は物価騰貴などの理由に開市開港の無期延期を、フランス側はその開港問題と安全保障、及び産物交易などを要求。数回に渡り会談を行うが、これらの問題は解決出来ず、使節団一行は4月2日フランスの軍艦コルヌ号に乗り、第2の訪問国イギリスへ向かった。
他国の訪問を終え、7月29日、ベルリンより再びパリへ戻った一行は新築されたばかりのグランド・ホテルに滞在する。前回双方で棚上げになっていた外交問題を再び外相トゥヴネルとの間で協議し、フランス側は日本側の開市開港の無期延期について延期を承認する ことで調印した。
このように、開国した幕末の日本は2回に渡り使節団を欧米に送った。この遺欧使節団は、欧米の調査観察などさまざまな目的を果たした。そして使節団の持ち帰った多くの西洋思想、技術、文化は明治の新政府へと日本の近代化政策を進める上で、伊藤博文、岩倉具視、大久保利通に引き継がれた。
立松弘臣(たてまつ・ひろおみ)● 病院医療教育機関相談役、顧問及び穀物菜食研究家(マクロビオティック)● フランス18、19世紀ナポレオン(1世~3世)時代文化研究家兼世界の歴史上人物の資料書簡及び食卓コレクター ● ミュージック・ド・ガルド・アンペリアル(ナポレオン・フランス楽隊)総本部名誉会長 ● シャルル・ドゴール大統領より大統領賞受賞(1968年)● フランス政府よりコマンドール・オフィシエ、シュバリエ勲章受章● フランス国民議会議長より栄誉特別功労賞受賞 ● フランス芸術・科学・文学・アカデミック協会会長よりオフィシエ功労賞受賞 ● シュバリエ・ド・タストヴァン賞(ブルゴーニュワイン騎士団)受賞 ● ボルドーワインアカデミー会長より名誉博士コマンドール賞受賞 ● オギュスト・エスコフイエ・インターナショナル・ガストロノミ総本部会長より金メダル特別代行労相受賞 ● フランス料理アカデミー(日本人として最年少で)入会(1972~2005年)● アカデミー・ナショナル名誉会員● 岸信介 (元総理大臣)より第3回全国大会にて最優秀技術大賞受賞● 高松宮宣仁親王名誉総裁より名誉と区別大金賞受賞 ● 総理府宮内庁大膳長より感謝状(2回)● 2007年6月より健康で社会に貢献するための雑誌「Epic World」誌にて連載 ● 2008年2月銀座・資生堂にて世界の歴史的メニューと資料及び食卓展開催予定(2回目)









