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Thu, 28 March 2024

第51回 「ベビーP」事件― 歪められた真実

「ベビーP」事件― 歪められた真実

BBCのドキュメンタリー番組「ベビーP:語られなかったストーリー」を観て衝撃を覚えた。「ベビーP」と言ってもピンとこない方もおられると思うので事件を振り返っておこう。2007年8月、ロンドンの大学病院に運び込まれた1歳5カ月の男の子が死亡した。全身は傷だらけ、肋骨8本と脊椎を骨折、指と足の爪3本が剥がされ、折れた歯の1本が結腸の中から見つかった。耳も犬に噛みちぎられたように引き裂かれていた。

男の子の名前はピーター。最初は名前が伏せられ、頭文字を取って「ベビーP」と呼ばれた。翌年11月、母親と男友達ら3人がピーターちゃんを死なせたとして有罪判決を受けた。陪審制の英国では裁判の公正を守るため法廷侮辱罪が定められている。裁判所の命令に従って沈黙を守ってきたメディアが、判決と同時に洪水のような報道を始めた。事件のあったロンドン北部ハリンゲー区では、2000年にも、8歳の女の子の虐待死を防げなかった「ヴィクトリア・クリンビエ」事件が起きていた。

英国の児童福祉政策は、早期の保護か、それとも家族の役割重視かの間を揺れてきた。当時、労働党のブラウン政権は、親に問題がある場合は早期に予防介入して支援を行い、教育格差をなくすことで子供の潜在能力を開花させ、子供の貧困を解消する方針を打ち出していた。その一方で家族の役割にも重きを置いたため、強制的な親子分離より、まず家族や友人に子供を委託する努力を行うよう現場は指示されていた。これが不幸な事件の遠因となる。

 

ブロンド髪で青い目をしたピーターちゃんのあどけない写真が涙を誘った。ソーシャル・ワーカーや保健訪問員、虐待担当警察、小児科医が計78回も接触、故意の傷害が疑われる打撲症を確認し、虐待の疑いで2度も母親を逮捕していた。それなのに、どうして親子を分離してピーターちゃんの命を救えなかったのか。大衆紙やTVの残酷な「魔女狩り」が始まった。怒り狂った大 衆はスケープゴートを求めていた。ソーシャル・ワーカーとハリンゲー区児童サービス部長、死の2日前にピーターちゃんを診察していたサウジアラビア出身の女性小児科医らに非難が集中。「サン」紙は120万人の署名を首相官邸に持参した。

当時野党だった保守党のキャメロン首相は「壊れた社会の動かぬ証拠だ」とブラウン首相を攻め立てた。ボールズ児童・学校・家庭相は、2週間のうちに緊急の合同査察調査を終えて報告するよう命じた。その結果、担当のソーシャル・ワーカー、児童サービス部長、女性小児科医らが解雇、または事実上解雇された。

 

番組は関係者からインタビューし、抜け落ちた事実を丹念に拾っていく。教育水準局はハリンゲー区児童サービス部を「全般的に満足のいく水準」と評価していたが、合同査察調査では一転、児童保護システムに「深刻な欠陥」があったと糾弾。しかし、最初の評価に関する資料は誰も知らないうちに破棄されていた。警察も写真を撮影するなど児童虐待を立証する努力を怠っていた。

問題の女性小児科医は虐待を受けた子供を診察した経験も知識もなかった。ピーターちゃんを最後に診察したセント・アン病院では過去のカルテを調べることもできず、精密検査も行われなかった。小児科医は騒動に巻き込まれて精神に異常をきたし、家族を残してサウジに帰国。病院側から口止め料として12万ポンドが同僚の小児科医に提示されていたという。

ハリンゲー区の子供は5万3000人、うち700人以上が保護を必要としている。ピーターちゃん担当のソーシャル・ワーカーは通常より5割も多い18ケースを担当していた。殺害予告も受けた児童サービス部長は2年に及ぶ裁判闘争で、不当解雇の判決を勝ち取り、68万ポンドが支払われた。事件後、裁判所へのケア命令申請は08年度の6488件から11年度には1万件を超えた。今では家で転んで青あざを作っただけで強制的な親子分離が行われたという笑えない話もある。

メディアと政治による魔女狩りで結局、問題の所在は歪められた。ソーシャル・ワーカー不足は深刻さを増し、「ベビーP」事件以降も260人の子供が虐待で死亡、少なくとも26人のケースは当局に把握されていたという。

 
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