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Wed, 17 December 2025

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2018年の干支は戌 - 英国・ドイツの働く犬たち

近年、英国の官邸街でネズミ捕獲長として働く猫たちが人気を博し、日本では猫の駅長が地域活性化に一役買うなど、猫がメディアの注目を集めている。しかし、2018年の干支は戌。今年最初の特集では、英国とドイツで人と社会を結び付けるべく活躍している犬に着目したい。盲導犬や警察犬、救助犬など、人々の生活を補助してくれる犬たちの中から、今回は英国の牧畜業に欠かせない存在である牧羊犬と、ドイツの市民の日常生活を支える介助犬をご紹介しよう。

英国の牧羊犬とドイツの介助犬

英国の牧畜業を縁の下で支える
野を駈ける牧羊犬たち

放牧されている羊の群れの誘導や見張りをする牧羊犬は、人間との共同作業をこなす忠実さに加え、自発的な判断力も要求される。牧羊の盛んな英国にあっては人間の大事な仕事仲間だ。更に、牧羊犬は羊の世話ばかりでなく、シープドッグ・トライアルという競技を通して英国の地域コミュニティーを繋ぐ大切な役割も果たしている。今回の特集、英国は働き者の牧羊犬を取り上げたい。

取材団体:The Surrey Sheep Dog Society

1981年に設立された、南東イングランド・シープドッグ協会のサリー支部。メンバーは現在、同地区に在住の酪農業従事者を中心に、100人を超える。地区内の牧場数カ所で、牧羊犬による羊の囲い込みを競い合う「トライアル」を実施。質の高い調教師が多く、同支部のメンバーの中には、国内試合の模様を紹介するBBCの人気番組「ワン・マン・アンド・ヒズ・ドッグ」のコメンテーターや、国際大会のイングランド代表者もいる。
www.surreysheepdogsociety.org.uk

イギリスの牧羊犬

「1人の羊飼いと1頭の犬」

緩やかな丘陵と緑の牧草地、そしてそこに点在する羊の群れは、今も昔も変わらない典型的な英国の田園風景。ロンドンから電車に乗ると1時間もしないうちに、車窓に羊の群れが姿を現すことに驚く人も多いのではないだろうか。ロンドンなどの都市に暮らしていると忘れがちだが、英国は牧羊の盛んな国。昔に比べれば減少したものの、国際連合食糧農業機関(FAO)による2014年の調査では、羊の頭数は欧州一、世界では第7位。「羊の国」と言われるニュージーランドよりも多く、今でも牧羊の伝統は衰えていない。そして、羊の群れを誘導する牧羊犬もまた、英国人にとって羊と同様になじみ深い存在だ。

そんな英国でスポーツとして愛されているのが、牧羊犬の働きを競技として体系化した「シープドッグ・トライアル」。BBCには牧羊犬が羊の囲い込みをするトライアルの様子を放映する「ワン・マン・アンド・ヒズ・ドッグ」(One Man & His Dog)なるテレビの長寿番組もあるほどだ(現在は同局の「カントリーファイル(Countryfile)」の一部として放映)。羊の囲い込みは人間と犬の共同作業であり、そのタイトルからも分かるように、まさに「1人の羊飼いと1頭の犬」の信頼関係の上に成立している。

ローマ時代から存在した牧羊犬

イングランド南東部サリーで牧畜業を営み、牧羊犬の歴史に詳しいテリー・スティーブンスさんによると、英国における牧羊犬の始まりはローマ時代にまでさかのぼる。欧州各地を次々に征服したローマ軍は、自分たちの食糧となる家畜を連れており、その家畜を率いていたのが牧羊犬だった。現在、最も牧羊犬に適した犬種と言われるボーダー・コリーは、白と黒の毛をした中型犬で、イングランド、スコットランド、ウェールズの国境(ボーダー)付近の羊を管理するために品種改良された英国原産の犬。羊を統制することのできる力のある鋭い視線と強じんな体力を持ち、常に好奇心に溢れ、人間の役に立つことに誇りを見い出す性質だという。現在の純血種ボーダー・コリーは、すべてメグという雌犬とロイと呼ばれる雄犬の子孫。1893年に彼らの子である名犬ヘンプが誕生したが、この犬は「空を横切る流星のように飛んでくる、羊の世話をするために生まれてきたような犬」と言われたそう。スティーブンスさんは「ボーダー・コリーは英国の牧畜業界におけるサクセス・ストーリー」と語る。牧羊犬の代わりにドローンを使って羊を管理する人々も現れたが、農業従事者の組合である全英農業者連盟(NFU)は、「良い牧羊犬の方がはるかに優れた仕事をする」としており、まだまだ牧羊犬がお払い箱になる可能性は少ない。

鋭い視線と強い統率力を持つボーダー・コリー 鋭い視線と強い統率力を持つボーダー・コリー

羊の扱いをマスターするまで

犬は社会性の高い動物で、人間の家族と自分が一つの群れを構成していると認識する。群れの中の上位の者に従い、その命令に忠実な行動を取る習性があり、牧羊犬のトレーニングはこの習性を利用したものだ。生後半年から12カ月を過ぎたころにトレーニングを開始。羊を怖がらないように教えるところから始まる。ハンドラー(調教師)は次のような言葉に従うよう根気強く命令を覚え込ませる。

ハンドラーの声を聞きながら、羊を1列に並ばせる牧羊犬ハンドラーの声を聞きながら、羊を1列に並ばせる牧羊犬

Come Bye – 群れの左側へ行け 
Away to Me – 群れの右側へ行け 
Stand – 止まれ 
Lie Down – 止まってふせろ 
Steady – ゆっくりと 
Cast –家畜を一つにまとめろ
Find – 家畜を探せ 
Get Out – 家畜から離れろ
Hold – 家畜が今いる場所から動かないようにしろ 
Bark – 家畜に向かって吠えろ 
Look Back – 群れから離れてほかの家畜を探せ
Walk Up – 家畜に近付け 
That'll do – 戻って来い

最終的に、牧羊犬は10種類以上ある命令を理解し、言われる通りに羊の群れを移動させ、囲いの中に誘導する、という羊飼いの手足に当たる役目を果たせるようになる。また、命令には犬笛(ドッグ・ホイッスル)を使う場合もあるが、これは広大なエリアにいたり風の強いときなど、命令が聞き取れず犬が混乱したり、羊飼いが常に大声を出すことで体力を消耗するのを避けるため。2歳で一人前の牧羊犬としてデビューするのが理想的で、5~6歳が体力・気力ともに牧羊犬の最盛期だという。ベテラン犬になると、なるべく少ない運動量で羊を動かそうと、知恵を働かせるのだとか。

牧羊犬トライアルを見学

羊の囲い込みを競い合うシープドッグ・トライアルは、牧羊犬にとっても人間にとっても趣味と実益を兼ねた週末の楽しみで、英国各地で年間約400回も行われている。今回は南東イングランド・シープドッグ協会のサリー支部が開催したトライアルを見学した。会場となったディーンランド・ファームは、イースト・サセックスの街ルイスの鉄道駅から車で約15分。広々とした丘陵が広がり、公道では馬とすれ違う。牧草地にはハンドラーたちの四輪駆動車が何台も止まっていた。ハンドラーたちの多くがハンチング帽をかぶり、皆、クルックと呼ばれる羊飼い用の長い杖を携えている。足元にはボーダー・コリーが姿勢を正して座り、まさに英国の昔からの伝統を体現したような光景だ。

今回の参加者は約10人で、ほとんどが牧場経営者か農業従事者。この日は「Nursery & Novice」、つまり3歳以下の牧羊犬と見習い犬のためのトライアルで、出場した10頭以上の犬はすべてボーダー・コリーだった。ハンドラーの指示を聞き逃すまいとする様子は、その表情から機敏な四肢の動きまで、私たちがペットとして飼っている犬とは全く異なる。集中力と緊張感の塊のようなその姿からは、牧羊犬の日々の仕事振りが想像できる。

地域コミュニティーを繋ぐ犬たち

牧羊犬は「ワーカホリック」と言われ、たとえ老齢になり引退しても、羊を見掛けたら追おうとしてしまうほど。その一生を自分の職場とも言える農場で送り、地域によっては多くの人間に接しないため、飼い主1人にしか懐かない犬もいると聞く。運動量の激しさから通常のペットの犬より寿命が短いが、飼い主とは非常に強い絆で結ばれている。

多くの牧羊犬が日々の仕事に加え、週末のシープドッグ・トライアルに参加しているが、その生き生きとした表情からは、飼い主と共にフィールドに出られてうれしくて仕方がないといった様子が見て取れる。飼い主であるハンドラーたちは、週末になると皆で集まり、場所を提供し合ってトライアルを開催。当日の審判や羊の世話も全部持ち回りのため、皆が友人同士でコミュニティー・スピリットに溢れている。サリー支部で理事を務め、自身も牧場を経営するマーク・バナムさんは、丘陵を指さして言った。「想像してみてください。こういうトライアルが、今この瞬間、英国中で行われているのですよ」。羊の世話だけではなく、地域コミュニティーを繋ぐ大事な役目も果たす牧羊犬。たとえ技術が発達し牧畜の世界にハイテク化が進んでも、これからも人間と共に羊を追い続けるに違いない。

トライアルの見学者トライアルの見学者も和気あいあいとした雰囲気。子犬たちの中には将来の牧羊犬候補も

英国・ドイツの
犬にまつわる法律や規則

人間と犬が一つの社会で共存するため、英国でもドイツでも、犬に関する法律や規則が存在する。ときには「えっ」と驚くユニークな決まりも。犬と一緒に生活する上で、しっかり把握しておきたい法律や規則をいくつか挙げてみよう。

UK英国

  • すべての犬にマイクロチップを義務付け
    既に法が制定されている北アイルランド以外の地域で、2016年に生後8週間以内のすべての犬にマイクロチップを埋め込み、データベースに登録することが義務付けられた。これを怠ると最高500ポンドの罰金が科せられる。
  • 断耳、断尾の禁止
    断耳は英国全土で禁止。断尾も基本的には禁止だが、警察犬や軍用犬など一部の職業犬に限り認められている。これまで断耳、ß断尾ともに完全禁止だったスコットランドも、2017年6月に法律が代わり、一部の職業犬については断尾が可能になった。
  • 1頭の犬に6回以上出産させてはいけない
    繁殖業者は地方自治体に登録する義務がある。様々な規定が設けられており、1歳未満の雌犬に出産させてはいけない。また、1頭の雌犬に一生のうち6回以上出産させるのも不可、次までに1年以上の間を置く必要がある。
  • 土佐犬を含む4種が危険犬種に指定
    1991年に施行された危険犬種法によると、ピット・ブル・テリア、ブラジリアン・ガード・ドッグ、ドゴ・アルヘンティーノ、土佐犬の飼育が、特定の場合を除いて禁止されている。これらの犬種の繁殖や販売、譲渡も不可。

UKドイツ

  • 殺処分は原則禁止
    動物全般の殺処分は原則禁止。不治の病を患った動物のみが例外とされている。飼い主がいない動物たちは「ティアハイム」という民間の動物シェルターに保護され、引き取り手が見つかれば新たな家族の元へ、見つからなければ無期限で生活することができる。
  • 公共交通機関の同乗が可能
    公共交通機関の同乗可。ドイツ鉄道での犬の乗車賃は、大人料金の半額となる(チケットの種類により違いあり。盲導犬や介助犬などは無料)。ほかにもショッピング・センターやレストラン内で犬がおとなしく待っている姿は、ドイツでは日常の風景だ。
  • 細かい飼育規定がある
    犬も家族の一員という認識が強いドイツでは、詳細な飼育規定がある。例えば犬種などによってケージのサイズやリードの長さ、さらには部屋の大きさまでも決まっている。これらが守られていないと判断されれば最悪の場合、愛犬を没収されることも。
  • 犬税が課せられる
    自治体によって徴収の有無が異なり、金額も変わってくるが、1頭当たり平均100ユーロ(1年間)が課せられ、数が増えるほど高くなる(デュッセルドルフの場合、1頭は年間96ユーロ、2頭は1頭当たり150ユーロ)。闘犬の税金は普通犬種の倍以上になる。

エリザベス女王やショーペンハウアーの愛犬など
英国・ドイツを代表する犬たち

UK英国

  • イングリッシュ・ブルドッグ粘り強く勇敢な英国の国犬
    イングリッシュ・ブルドッグ
    English Bulldog
    雄牛と闘うためにつくり出された中型犬。勇敢で粘り強い様から、第一次大戦時には「ブルドッグ精神」として、英国民が敵に対し不屈の精神で挑むためのプロパガンダにも利用された。第二次大戦時には当時の首相ウィンストン・チャーチルのニックネームでもあった。
  • ウェルシュ・コーギー・ペンブロークエリザベス女王の愛する「動くじゅうたん」
    ウェルシュ・コーギー・ペンブローク
    Welsh Corgi Pembroke
    エリザベス女王が幼少のころから愛し、91歳の現在に至るまで常にペットとして飼い続けているのが、ウェールズ地方原産の小型犬コーギー。女王の周囲に群がるコーギーが一斉に移動していく様子を、故ダイアナ元妃は「動くじゅうたん」と形容した。

ドイツドイツ

  • ジャーマン・シェパード・ドッグ勇敢な性格で警察犬として活躍
    ジャーマン・シェパード・ドッグ
    Deutscher Schäferhund
    第一次大戦での活躍で世界中に知られることとなり、現在では警察犬として活躍している。そのほか警察犬であるドーベルマン、ボクサーもドイツ原産で、これらの犬種は日本でも警察犬指定犬種になっている。
  • プードルショーペンハウアーの愛犬
    プードル
    Pudel
    フランスが原産と思われることが多いプードルは、実はドイツが起源の犬種。ドイツ人哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアーが愛犬のプードルを散歩する姿が話題となり、当時のフランクフルトではプードルを飼うことが流行ったそうだ。
 

ニュースダイジェスト主催
フォトコンテスト2016受賞者発表!

カメラ旅の思い出や何気ない日常の一コマ、そして長らく記憶に残るであろう社会的な事件を扱ったものまで、今年も多くの力作が届いた、ニュースダイジェスト主催のフォトコンテスト2017、いよいよ受賞作品の発表です。今年は「2016~2017年の思い出」をテーマに、個性的で印象深い作品が数多く寄せられました。それでは、受賞者の皆さんによる思いのこもった力作を見ていきましょう!

テーマ「2016〜2017年の思い出」

王冠 マチュア部門大賞

「染まりゆく」
遠藤 知佳(はるか)さん 英国

「染まりゆく」遠藤 知佳(はるか)さん

よく主人と通る場所で桜を見つけ、なんだかホッとしたような、新しい発見をしたような気持ちとともに撮りました。日本人になじみの深い桜と、セントポール大聖堂というイギリスが誇る建築。あたかも日本人の私がイギリスの暮らしに染まっていく、その様を代弁しているようで気に入っています。

審査員コメント

場所、色、季節をシンプルながら強い視覚的イメージで表した作品。ロンドン中心部で撮影された 春らしい青が際立つ空と桃色の花が、日本の桜の伝統的な姿を彷彿とさせます。1枚の写真に2つの国を入れた巧みな構成ですね。通常とは異なるアングルでものを観て撮影する重要さが分かる一枚です。 by Canon Europe

大賞 キッズ部門大賞

「蓮の葉スマイリー」
ベンジャミン・フックスさん(9歳)英国 

「蓮の葉スマイリー」ベンジャミン・フックスさん (9歳)

新潟市の白山公園で池の水をポチャポチャ蓮の葉っぱにかけていたら、僕の大好きなスマイリーの顔になったので、写真を撮りました。この時はまだ蓮の葉っぱしかなかったので、今度は蓮のお花を見たいです。そして写真を撮りたいです。大賞を取れてとってもうれしいです!

審査員コメント

視覚的な力強さとユーモアにあふれています。水面の暗い部分と対照的な光や鮮明な緑色によって、睡蓮の葉のスマイル・マークに視線がいきます。これを発見し、見事な構図で写真に収めたこと、更に、水を上手に捉えた露出とシャープネス。これらによって素晴らしい写真が生まれました。 by Canon Europe

大賞 マチュア部門特別賞

「we are grieving today but we are strong」
上塚 希依(きえ)さん イギリス 

「we are grieving today but we are strong」上塚 希依(きえ)さん

イギリスでの生活の様子を思い出として残したく、カメラを持ち歩いています。これはマンチェスターで起きた凄惨なテロ事件の翌日に撮った写真です。テロの恐怖に屈せず、立ち向かおうとしているマンチェスターの人たちの思いを残そうとカメラを手に取りました。

審査員コメント

このマンチェスターで撮影された写真のように、災害やテロの現場に置かれた追悼の花を、このようなアングルや方法で撮ろうとはなかなか思い付きません。私たちは携帯電話を使って写真を撮りソーシャル・メディアですぐ共有しますが、そんな文化をも見事に表した非常にパワフルな作品です。by Canon Europe

「オストゥーニの夕焼け」
宮田 さちさん イギリス

「オストゥーニの夕焼け」宮田 さちさん

5年ほど前から毎年応募させていただいていますが、初めての受賞でとてもうれしいです。写真はイタリアにホリデーに行ったときにオストゥーニの駅で撮ったものです。2週間の滞在で、唯一雨が降った日でした。反射の写真が好きで、水たまりに目を光らせています。

審査員コメント

雨の後と夕焼けが同居する静かな夕景を、上下のシンメトリーの構図の 中で美しく捉えた作品だと思いました。カメラを持ち歩いているからこそ、このように一瞬の美を収めることができるのですね。by JSTV

「絵描きさん」
伊藤 由梨さん 英国

「絵描きさん」伊藤 由梨さん

この写真は憧れのオックスフォード大学を訪れたときに、私が撮りたいと思ったまさにその風景を描いている絵描きさんがいて、その素敵な絵に魅了され撮影させてもらいました。私は絵が上手くないので私らしい方法(写真)でこれからも素敵な風景を記録していきたいと思います。

審査員コメント

全体的に落ち着いたベージュの色調の中、右手前の煉瓦の壁、真ん中の絵描きさん、写生対象の建物が絶妙に配置された構図が新鮮です。実際の建物とキャンバス、看板内の建物のバランスも面白く、何度観ても飽きない楽しさがあります。 by Takara Shuzo

「立往生」
蔭浦 明日香さん 英国 

「立往生」蔭浦 明日香 さん

アイルランドを旅行し、大自然の豊かさに感動しきった後に偶然、遭遇した牧歌的な光景を撮影しました。車に乗り、先を急ぐ人間と、ゆったりとした時間を生きる牛の対比を表現しようと努めました。今後も欧州ならではの美しい光景を撮影していきたいです。

審査員コメント

自然の中で自由に生きている様子が感じられ、心がほっと安らぎ、笑顔になれました。写真から得られる癒しの余韻が、当サロンのコンセプトと呼応したので、こちらの作品を選出させていただきました。 by Rikyu

キッズ部門入賞

「カブ・ハミー」
志田 ジェームス雅樹さん(11歳)イギリス 

「カブ・ハミー」志田 ジェームス雅樹さん

ハミー(ハムスターの名前)はこの写真を撮った後まもなく亡く なってしまったので、入賞の知らせを聞いてとてもうれしかったです。ハミーが僕のカブ・スカウトのスカーフにすっぽり入っているところが気に入っています。白い毛布を下に敷いて光の加減に気をつけながら撮りました。

審査員コメント

好きなものをただ撮ったのではなく、スタジオ撮影のようなことにチャレンジして、自分で設定を作り込む姿勢がとても良いですね。今後が楽しみな素晴らしいスタートだと思います。 by Paris Miki

キッズ部門入賞

「アイスクリーム」
高藤 斐月(ひづき)さん(5歳)英国 

「アイスクリーム」高藤 斐月(ひづき)さん(5歳)

旅行で行ったスイスで、暑くてアイスクリームを買ってもらいました。おいしかったので写真に撮りました。このアイスクリームの色が好きだったのです。とてもおいしそうに撮れました。斐月は写真を撮るのが大好きです。これからは鳥を撮ってみたいです。賞をどうもありがとう。カメラが好きです。

審査員コメント

万華鏡のようにも見えます。まるでミクロの世界のようで、子供ならではのものの見方が発揮された作品ですね。食べるだけではなく、じっと見つめて、アイスクリームの形や色が変化するのを楽しんでいる撮影者の様子が目に浮かぶようです。 by Paris Miki

キッズ部門入賞

「夢のミリタリー・タトゥー」
牟田 百希(ももね)さん(9歳)英国 

「夢のミリタリー・タトゥー」牟田 百希(ももね)さん(9歳)

選ばれたと聞いて、びっくりしてとてもうれしかったです。この写真は、ずっと行きたかったスコットランドのエディンバラ城である、ミリタリー・タトゥーの最終日に客席で撮りました。私が気に入っているのは、男の人たちがきっちりと上を見ていて、かっこいいところです。

審査員コメント

ミリタリーの精悍な横顔を一瞬で捉えた素晴らしい写真です。大勢の人がいる中で、この男性を切り取るというところに独自の視線があるように思います。まぶしいシャープな光もイベントの雰囲気に合っています。  by IMR Education

「Timeless 」
ディオン・ヒッチコックさん 英国 

「Timeless」ディオン・ヒッチコックさん

この写真は去年10月にオーストラリアにいたときから、来英の際はぜひ訪れてみたいと思っていたストーンヘンジで撮りました。撮影の際にはときの流れとともに変化する人の流れに留意しました。そこにずっとたたずんでいる石と、人の流れのコントラストが自分でも大変気に入っています。これからも、自然にさらされ季節とともに変化するオブジェや、人の流れを撮り続けていければと思っています。

「キラキラの笑顔」
ヴンダー 七夏さん 英国 

「キラキラの笑顔」ヴンダー 七夏さん

この写真は今年の夏休みに家族でフランスへ行ったときに撮りました。楽しかった思い出がたくさん詰まったお気に入りの一枚です。いつも写真を撮るときは被写体と背景のバランス、そして光に気をつけて撮っています。子供たちの無邪気な笑顔はこのタイミングで偶然撮れたもので、普段撮ろうと思って撮れる表情ではなかったので私にとってすごく特別なものになりました。これからも子供たちの成長を楽しく写真に残していけたらいいなと思っています。

「夜明け」
村上 信郎さん 英国 

「夜明け」村上 信郎さん

写真を撮り始めて3年ほど、初めて応募したコンテストで受賞のご連絡をいただき大変びっくりしました。この写真は2017年初のロンドンのご来光を収めようとテムズ川を散策している最中に撮影したものですが、単なる日の出だけでなくロンドン名物の赤バスを一緒にフレームできたことで、ストーリー性を表現できたのではと気に入っています。

「Reflection of New York」
渡邉 一正さん 渡邉 一正 

「夜明け」村上 信郎さん

去年は入賞で今年は特別賞。チョーうれしいです。来年は大賞狙います!夏休みのNYの高層ホテルで窓の下側がちょっとだけ開きました。そこから手とコンパクト・カメラだけぎゅっと出して下の階の窓の映り込みを利用して撮影しました。空撮のような不思議な感じに撮れたと思います(笑)。

審査員総評

今年も素晴らしい作品が勢ぞろいし、大変審査の難しいコンテストでした。レンズ交換式カメラやコンパクト・カメラならではの撮りたいイメージに合わせて調整・コントロー ルされた作品や創造性豊かな作品が多く見られました。 by Canon Europe

受賞作品は日本語テレビ局 JSTV で、2018年1月より順次放送予定

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同性愛が条件付きで非犯罪化して50年 19~20世紀を生きた
英国のクィアな文化人たち

男性同士、女性同士のカップルが仲睦まじく往来を歩く姿は英国ではもはや日常の風景。しかし、今からわずか50年前まで、男性の同性愛行為は違法だった。イングランド及びウェールズで男性の同性愛が条件付きで非犯罪化されたのは1967年。同性愛者を含む性的少数者(クィア)である文化人たちは、どのように生き、制作活動を行っていたのか。50年という節目を迎えた今年、19世紀から20世紀にかけて性の垣根を越えて活躍した文化人たちを振り返ってみたい。参照「Queer British Art 1861-1967」Tateほか

性的少数者LGBTQとは?

性的少数者はLGBTQと表現されることが多く、これはレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィアの頭文字を取ったもの。もともとはレズビアン(女性の同性愛)、ゲイ(同性愛、特に男性の同性愛)、バイセクシャル(両性愛)、トランスジェンダー(身体と心の性が一致していない、違和感を覚えるなどの性の形態)をまとめて「LGBT」と呼ぶことが多かったが、近年ではクィアを含め「LGBTQ」とするケースが増えている。クィアに関しては様々な定義がみられるが、いわゆるLGBTを含むあらゆる性的少数者を指す。よって、異性装を好む人々や、特定の性的指向の枠にはめられることを避ける人々なども含まれる。

19世紀から現在に至るまでの
同性愛者をめぐる時代の変遷

1533年 イングランド王ヘンリー8世の時代、イングランド及びウェールズにおいて「バガリー」を禁じる法が制定。バガリーとは元々は神の意思に背いた不自然な性行為を指したが、後に肛門性交のことを言うようになった(男女問わず)。1861年までは有罪の場合、死刑が宣告された
1885年 「品位に欠けるみだらな行為」(gross indecency)を禁じる条項が追加。男性同士の性行為が違法に
1895年 オスカー・ワイルドが「品位に欠けるみだらな行為」を行ったとして2年の懲役刑を科される
1957年 ウォルフェンデン委員会が軍人以外の21歳以上で合意ある成人同士の同性愛行為を非犯罪化するよう提言
1967年 第三者がいると思われる場所を除き、同性愛行為が非犯罪化。性的同意年齢は21歳(異性愛及びレズビアンは16歳)
1969年
6月
米ニューヨークのゲイ・バー、ストーンウォール・インへの警官による踏み込み捜査が、5日間にわたる暴動へと発展。同性愛者の権利を求める運動の象徴的イベントとして知られるようになる。ゲイ解放戦線(GLF)がニューヨークで設立
1970年 ロンドン・ゲイ解放戦線(ロンドンGLF)が設立
1972年
7月
性的少数者の文化を称える「プライド」パレードの第1回がロンドンで開催。参加者は約700人
1980年 スコットランドで同性愛行為が非犯罪化(条件は1967年と同様)
1982年 欧州人権裁判所の判断に基づき、北アイルランドでも同性愛行為が非犯罪化
1994年 同性愛の男性の性的同意年齢が18歳に
2000年
1月
同性愛者の軍隊勤務を禁じる規則が廃止
2001年
1月
上院における3回にわたる否決ののち、労働党政権が同性愛の男性の性的同意年齢を16歳に引き下げ
2005年
12月5日
同性愛カップルに結婚とほぼ同等の権利を与える2004年シビル・パートナーシップ法が施行
2005年
12月30日
同性愛カップルが養子を迎え、共同親権を持つことが可能に
2009年
9月10日
ブラウン首相(当時)が同性愛者だったアラン・チューリングに対して、刑務所への収監と引き換えにホルモン療法を施したことを正式に謝罪
2013年
12月
エリザベス女王がアラン・チューリングに死後恩赦を与える
2014年
3月29日
イングランド及びウェールズで同性間の結婚が可能になる2013年結婚(同性カップル)法が施行
2014年
12月16日
スコットランドで同性間の結婚が可能になる2014年結婚及びシビル・パートナーシップ(スコットランド)法が施行
2017年
1月31日
イングランド及びウェールズにおいて、過去に同性愛行為で有罪になり亡くなった人々が赦免された。また、有罪となり生存している人たちは、内務省に届け出ることで記録が抹消される。通称「アラン・チューリング法」

Source: The Guardian, etc

同性愛者の恩赦への道を開いた
アラン・チューリング
Alan Turing

アラン・チューリング
ブレッチリー・パークにあるアラン・チューリングの銅像

第二次大戦時、ナチス・ドイツの暗号機エニグマによる暗号文解読に大きな筋道を示したアラン・チューリングは、「人口知能の父」とも呼ばれる優れた数学者にして暗号解読者だったが、その存在が脚光を浴びたのは近年のことだった。

1912年にロンドンで生まれたチューリングは若いころから数学や科学の才能に秀で、ケンブリッジ大学で数学を学んだ。卒業後はフェローとして研究を続け、米プリンストン大学で博士号を取得。第二次大戦中には政府暗号学校ブレッチリー・パークで暗号解読に携わるようになる。エニグマの暗号を解読する装置「ボム」の設計における主導的役割を果たすが、仕事の性質上、業績は秘匿された。

同性愛者だったチューリングは1952年、39歳のときに街で知り合った若者と関係を持つが、その男性がチューリング宅への泥棒の手引きをしていたことから警察に同性愛指向が知られ、逮捕される。刑務所への収監を避けるために性欲を抑える(とされた)ホルモン療法を受けるが、その後は暗号解読者としての仕事を続けることが不可能となる。1954年、自宅で青酸中毒により死去。自殺とされる。

死後になってチューリングの業績が公になり、その栄誉を称える動きが活発化。2009年にはゴードン・ブラウン首相(当時)がチューリングに対する謝罪を政府として正式に表明。2013年には恩赦が決定した。2017年1月31日、イングランド及びウェールズで同性愛または両性愛の罪で有罪となった人々の恩赦を認める法が施行。この法律はチューリングにちなみ、「アラン・チューリング法」と呼ばれる。

自由と美を謳歌した人々
ブルームズベリー・グループ
Bloomsbury Group

ブルームズベリー・グループ
ゴードン・スクエアにあるブルームズベリー・グループの拠点

1905年から第二次大戦期にかけて、ロンドン中心部ブルームズベリーに集った芸術家や作家、学者たちの集団「ブルームズベリー・グループ」。元々はケンブリッジ大学の複数のカレッジの学生からなる「ケンブリッジ使徒会(アポスルズ)」に端を発したもので、後にブルームズベリーに居を構えたバネッサ・ベル、トビー・スティーブン、バージニア・ウルフ、エイドリアン・スティーブンの兄弟姉妹の家に集うようになったメンバーがこう呼ばれるようになった。

平和主義や左派自由主義を掲げると同時に、同性愛やオープン・マリッジの関係を持つ人々が多かったことでも知られている。例えば画家のダンカン・グラントは同性愛者で同じグループのエイドリアンや経済学者ジョン・メイナード・ケインズ、作家のリットン・ストレイチーらと関係を持った一方で、同じくメンバーだったクライブ・ベルと結婚していたバネッサとの間に娘をもうけた。

社交界から地に堕ちた洒落者
オスカー・ワイルド

Oscar Wilde
1854 - 1900
作家 / 劇作家
Oscar Wilde

19世紀を代表する作家 / 劇作家のオスカー・ワイルドは、「ドリアン・グレイの肖像」や「サロメ」などの著作同様、耽美で破滅的な人生を歩んだことで知られる。

アイルランドのダブリンで医師の家庭に生まれたワイルドは、名門ダブリン大学トリニティ・カレッジを経て、特待生としてオックスフォード大学で学び、優秀な成績で卒業。在学中から奇抜な服装や華美な生活で名を馳せたワイルドはその後、批評家や雑誌編集者、そして作家として活躍、社交界の寵児となった。弁護士の娘と結婚し、子供を2人もうけたが、男性とも関係を結び、1891年には16歳年下のアルフレッド・ダグラス、通称「ボージー」と親しくなる。この出会いが彼の運命を大きく左右することになった。1895年には息子の将来を不安視したボージーの父、第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスがワイルドの同性愛を公に糾弾。互いが互いを告訴する事態に発展する。結果、ワイルドは「品位にかけるみだらな行為」を行ったとして有罪となり、2年の懲役刑に服した。

服役後には世間から見放され、体調を崩し経済的にも困窮。家族とも離ればなれとなり、欧州を放浪した。途中、ボージーとよりを戻すもまた別れ、1900年にパリにおいて46歳でその生涯を終えた。

女性初のロイヤル・アカデミー正会員に
ローラ・ナイト

Laura Knight
1877 - 1970
画家
Laura Knight

ヌード画を描く女流画家の自画像――今となっては驚くべき構図ではないかもしれないが、女性が美術学校でヌード・デッサンの授業に参加することが禁じられていた時代、その絵は衝撃をもって受け止められた。

幼少期に父が家を出て、経済的にひっ迫した家庭に育ったローラ・ナイトは、母が教えていたノッティンガム美術学校に学費なしで進学。卒業後には美術教師として働いた。在学中にハロルド・ナイトと出会い、1903年に結婚。イングランド西部コーンウォールのニューリンに夫とともに移り住み、「ニューリン派」と呼ばれる芸術家たちのコミュニティーの中心的存在となった。ナイトはここで戸外制作や、プロのモデルをロンドンから呼び寄せてヌード・デッサンを行うなどして画家としての自己を見出していく。

サーカスのツアーに同行したり、ジプシーと交友関係を結び肖像画を手掛けるなどしていたナイトは、第二次大戦中に戦争芸術家諮問委員会により戦争画家として選出された。戦後はドイツに3カ月間滞在し、ニュルンベルク裁判の過程を追うなど、ジャーナリスティックな姿勢と感性で作品を作り続け、1929年に女性に対する騎士に相当するデイムに。1936年には女性初のロイヤル・アカデミー正会員となった。

沈黙を強いられた作家
E・M・フォースター

Edward Morgan Forster
1879 - 1970
作家
Edward Morgan Forster

「ハワーズ・エンド」や「モーリス」、「インドへの道」などを生み出したE・M・フォースターは、同性愛という自らの性的指向を作品に投影して後世に名を残す一方、その性的指向ゆえに沈黙を強いられた作家でもあった。

1879年、ロンドンに生まれたフォースターは、ケンブリッジ大学在学中にケンブリッジ使徒会に参加。後にブルームズベリー・グループのメンバーとなった。大学卒業後、世界各地を旅したフォースターは、中東を訪れた際に17歳の青年に惹かれ、創作意欲を掻き立てられることになったが、数年後にその青年が結核で死去。哀しみを手紙の形にしたためている。

オスカー・ワイルドが有罪となった1895年、16歳の多感な青年だったフォースターにとって、自らの性的指向は物語を生み出す源泉であると同時に、公にしてはならない禁忌でもあった。ケンブリッジ大学に通う2人の男子学生の愛とすれ違いを描いた「モーリス」は1913年に執筆されたものの、出版されたのは死後。「インドへの道」が1924年に出版された後、1970年に死去するまで、小説を執筆しようとはしなかった。1964年付けの日記にはこう書かれている。「私がもっと書いていたり、もっと多くの本が出版されていたら、より有名な作家になっていただろう。しかし性が後者の道を阻んだのだ」。

レズビアン文学の先駆者
ラドクリフ・ホール

Radclyffe Hall
1880 - 1943
作家
Radclyffe Hall

イングランド南西部ハンプシャーのボーンマス(現在はドーセット)の裕福な家庭に生まれたラドクリフ・ホールは、自らを「生来の性的倒錯者(同性愛者)」と呼び、しばしば男装したレズビアンだった。

1907年にはドイツの保養地でアマチュアの歌手メイベル・バッテンと出会い恋に落ちる。当時、ホールは27歳、バッテンは51歳。バッテンは既婚者で、娘や孫もいた。バッテンの夫の死後はともに暮らし、バッテンがホールに付けた「ジョン」という名を生涯、使用していたという。恋多き人物で、バッテンの親戚であるウーナ・トゥローブリッジ(彼女も既婚者で子供がいた)と恋愛関係になり、バッテンの死後に同棲。ホールが死去するまでともに暮らしたが、その間も別の女性と恋愛関係にあったと言われる。

1928年に出版された代表作「孤独の井戸」は、男装のレズビアンで、第一次大戦中に救急部隊の運転手を務めたスティーブン・ゴートンが女性と恋に落ちる物語。あからさまな性的描写はなかったものの、わいせつであるとして裁判にかけられ、廃棄処分となった。このとき、政府の医療顧問らは同作を、女性同士の同性愛を促進し、「社会的、国家的惨事」を招くと批判したという。英国で再出版されたのは、ホールの死後、1949年のことだった。

自由としがらみの狭間で生きた
バージニア・ウルフ

Virginia Woolf
1882 - 1941
作家
Virginia Woolf

登場人物の心中に流れゆく思考をそのまま文章の形にしていく「意識の流れ」という手法を用いた作家バージニア・ウルフ。性に奔放である一方で、女性であることのしがらみを見据え、数々の作品を残した。

著述家で編集者の父と、女流写真家ジュリア・マーガレット・キャメロンを伯母に持つ母の下に生まれたウルフは、古典や英文学に囲まれて育った。女性であることから、ケンブリッジ大学で学んだ兄弟と異なり、同大に進むことはかなわなかったものの、ロンドンのキングス・カレッジの女子部で数カ国の言語や歴史を履修した。

ロンドン中心部ブルームズベリーにある自宅で知り合った文化人らと親しくなったウルフは、ブルームズベリー・グループの一員として活動。作家のレナード・ウルフとの結婚生活を送りつつ、既婚者の女流作家ビタ・サックビル=ウェストとも関係を持つなど、奔放な恋愛生活を送った。サックビル=ウェストをモデルにした「オーランドー」は、時代や性別を超越し、300年にわたり生き続ける青年貴族の人生を紡いだもので、現在でもジェンダー研究において重要な位置を占めている。

若いころから躁うつに悩まされていたウルフは、第二次大戦勃発後、病状が悪化。1941年3月28日に入水自殺した。

ミューズとの混沌とした関係
フランシス・ベーコン

Francis Bacon
1909 - 1992
画家
Francis Bacon

人間の心の奥底に沈む絶望や孤独を引きずり出すような筆致で知られるフランシス・ベーコンは、同性の恋人たちとの波乱に満ちた関係から生まれた生々しい感情を数多くの作品に写し取っている。

グレートブリテン及びアイルランド連合王国(現アイルランド)のダブリン生まれ。若いころから同性愛指向を自覚し、16歳のときに母親の下着をまとっているところを父親が見つけたことがきっかけで家を追い出された。ロンドンに移ってからは同性愛者たちが多く集うソーホーでも知られた存在となり、酒を飲み、ギャンブルに浸り、化粧をして享楽的な日々を過ごすようになる。

ミケランジェロの絵画や彫刻、エドワード・マイブリッジによる裸身のレスラーたちの写真など、男性の身体を題材にした作品を通して自らの性的指向を絵画に昇華する術を探究。また、元空軍パイロットでときに暴力的であったピーター・レイシーや、泥棒でアルコール依存症だったジョージ・ダイアーといったパートナーとの振れ幅の大きい生活や、相手の事故死や自殺などを経験してきたベーコンは、恋人たちをモデルにした作品を多く残した。1967年以前はモデルの名をイニシャルにするなどしていたが、以降はより明確に性的指向を示す作品を手掛けるようになったと言われる。

衝撃的な著作以上に波乱に満ちた人生
ジョー・オートン

Joe Orton
1933-1967
劇作家
Joe Orton

権威をこき下ろして人の偽善を暴き、同性愛を匂わせる衝撃的な舞台を生み出した若き才能は、自身が描いた物語以上に波乱に満ちた人生を生きることになった。

イングランド中部レスター出身のジョー・オートンは1951年、名門演劇学校RADA在学中にケネス・ハリウェルと出会い、恋人同士となる。卒業後にはそれぞれ地方の劇場で働いた後、ロンドンに戻って小説の共同執筆を手掛けたものの、注目を集めることはなかった。

1959年から62年にかけて、イズリントンの図書館から勝手に本を持ち出して、表紙等にコラージュを施し戻していた2人は、1962年に逮捕。6月の禁錮刑と262ポンドの罰金を科された。収監されている間に創作意欲が喚起されたオートンはここで転機を迎え、1963年にはBBCがオートン作のラジオ劇を65ポンドで購入。同作は後に舞台化された。1964年に初演を迎えた舞台「エンターテイニング・ミスター・スローン」は大成功を収め、海外でも上演。しかし一方で、ハリウェルは日の目を浴びず、うつ状態に悩むようになる。

1967年8月9日、オートンは自宅でハリウェルによって頭部をハンマーで殴られ、死亡。ハリウェルはその後、自殺した。オートンが不特定多数の男性との関係を記した日記を読むように指示した遺書を残していたという。

太陽照りつける米西部へ
デービッド・ホックニー

David Hockney
1937 -
画家
David Hockney

今年80歳を迎えた今もなお、iPadでの制作など、精力的に新たな地平を求め活動し続けるデービッド・ホックニー。米カリフォルニアの眩い太陽の下、色彩鮮やかに身近な人物や風景を描いた作品の数々には、熱狂的なファンも多い。

イングランド北部ウェスト・ヨークシャーのブラッドフォードに生まれたホックニーは、地元のアート・カレッジで学んだ後、1959年にロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートへ進学。同性愛者に対しより開放的なロンドンの空気を享受し、1960年には同性愛者としての性的指向も含めた自己の存在意義を表現するプロパガンダ・アートに取り組むようになる。同性愛行為の非犯罪化を提言したウォルフェンデン・レポートが発表されるなど、同性愛者の権利獲得への動きが活発になったころにロンドンに来たホックニーは、ベーコンなどと比べると、明快な形で性的指向を表現していたようだ。

1960年代からは基本的にカリフォルニアに拠点を置き、制作活動を行うように。水面の揺らめきや煌めきを明るい色調で表現したプールの連作などを生み出した。自らの恋人の裸体を伸びやかに描いた「ニックのプールから上がるピーター」は、奇しくも1967年に、優れた現代絵画に贈られるジョン・ムーアズ賞を受賞している。

 

岐路に立つ英国の森林問題
いま、を考える

英国にはロビン・フッドの伝説を始め、森林を舞台にした物語がいくつも存在する。だが現在の森林面積は国土の13%に過ぎず、世界190カ国中135番目の広さだという。16~17世紀には欧州諸国に材木を輸出していたことさえあり、緑豊かだった英国。しかしその後、戦争や産業革命のために乱開発が起き、多くの森が失われた。現在、英国に残された森林はどのような状況にあるのか。森林の所有権に関する法律Charter of the Forest(森林憲章)の制定800年を迎えた今年、天然林を中心に英国の森林問題を見てみよう。(参考: www.woodlandtrust.org.uk

Woodland

Ancient Woodland(天然林)とは

英国で植樹により人工的に森林を作るという考え方が出てきたのは17世紀以降。そのため、1600年(スコットランドは1750年)以前にできた森はすべて自然に作られたものと考えられる。森林には樹木はもちろん、生物や土壌が存在しており、その土壌には森が自然発生した当時からの数百年以上に及ぶ貴重な情報が蓄積されている。そのような情報は一度失えば元に戻らないが、天然林は1930年代からその数を半数に減らし、現在、その面積は国土の2%だという。

危機に瀕する天然林

現在、英国では700以上もの天然林が破壊の危機に瀕していると言われる。ここではどのような問題が起きているかを紹介する。

地球温暖化

1970年代と比較し、中央イングランドの年間平均気温は1度上昇しているという。これにより森林の生態系には変化が見られ、渡り鳥の飛来時期や楢の発芽期が早まっていることが調査から分かっている。そして今まで英国に生息していなかった外来の昆虫や害虫が、温暖化により生き延びるのが可能になったことが問題視される。また、暖かく乾いた夏の気候が、天然林の存続に必要な湿った土壌を乾燥させてしまうことも懸念の一つとなっている。

害虫

2013年、松くい虫病の原因となるマツノマダラカミキリとマツノザイセンチュウが英国で初めて発見された。中国からの木製の椅子に巣食っていたという。害虫は輸入木材に付着して運ばれてくることが多く、イングランド南部ケントのパドック・ウッドでは、数十の樹木がツヤハダゴマダラカミキリの被害に遭い、大発生を抑えるために数千本の木が伐採された。このときは中国から輸入された石版を包んだ木製の梱包材が原因だった。

住宅の建設

2016年、キャメロン政権時に制定された住宅計画法は、イングランドとウェールズの住宅難緩和のため、2020年までに100万戸の住宅を建設するというもの。既に開発された土地(brownfields)であれば、一定の基準の下で住宅建設許可が下りるという、手続きのスピード・アップを図った法だ が、元来、住居のみでは生活環境として成立しない。学校、病院、道路、店舗などが併せて必要となってくるため、結局、周辺地域も開発されることになる。

鉄道の敷設

ロンドン・ユーストン駅とバーミンガムを繋ぐ、高速鉄道路線HS2(ハイ・スピード・ツー)の第1路線(Phase 1)建設計画が2012年に承認され、今年2月に法が発効した。この路線が2026年に開通することによって34の天然林が直接的な被害を被り、29が何らかの影響を受けるという。更に、現在計画中のリーズやマンチェスター方面に延びる第2路線(Phase 2)が実現すれば、20の天然林が被害を、15が影響を受けることになる。

高速鉄道路線HS2

森林保護のための活動

英国で森林保護のために活動するグループはいくつもあるが、最もよく知られている保護団体に、全国に50万人のメンバーとサポーターを持つ大規模なチャリティー団体ウッドランド・トラスト(Woodland Trust)がある。この団体は1972年、引退した農夫のケネス・ワトキンス氏とその妻、友人たちによって始められた。「保護する、復活させる、生み出す」の3つの柱を基本に、危機に瀕している樹木や森林を救う様々な運動を展開している。

ウッドランド・トラストの活動の3本柱

森林を救うためにウッドランド・トラストが行っている事柄について紹介する。

保護する

  • 単にインフラ整備の必要性を否定するのではなく、森林の損失と被害を避け、森林の価値を尊重するような開発プロジェクトを進めるよう、政府や地方自治体、開発業者に提言する。
  • 害虫や病気は、森林だけではなく、公園、庭園、畑や牧草地など、英国の景観にも影響する。それゆえ、樹木の健康を観察し、害虫や病原体から樹木を保護するために他機関とも協力。行政機関である森林委員会の研究機関「フォレスト・リサーチ」と共同で研究プロジェクト「オブザーバトゥリー」を行うなど、広範にわたる活動を展開している。
  • その土地の景観や歴史の一部となっている、生きた記念碑のような存在である老齢の樹木の保護を行う。そうした樹木は地方自治体や開発業者には価値を正しく認識されていないことがあり、地域開発の際などに取り除かれる危険がある。

復活させる

  • 天然林は非常に数少なくなっているのに加え、現在、残っている天然林の多くも、元々は英国になかった針葉樹が植えられていたり、外来種の植物が定着するなどしている。これを、本来、天然林にあるべき姿に復元するため、土地所有者と緊密な協力体制をとり、森林を管理する。樹木や土壌の様子を見つつ適度な太陽光を当てることで、在来種の種を発芽させ、これまで受けた被害から天然林を復活させる。
  • ウッドランド・トラストは所有地で森を育成している。この森は天然林を復活させるための実験場として存在し、様々な状況での復元に対応できるよう調査している。自分の森林を復活させたいと考える土地所有者へのアドバイスも行う。

生み出す

  • 天然林や野性生物の豊富な地域の周りに植樹をし、近隣の土地開発からの直接的な被害を緩和させる。これまでに3807万8206本の植樹が行われた。
  • 学校や企業、地域コミュニティーに苗木を提供。すべての苗木は英国自生のもので、害虫や病害の輸入と拡散の危険を最小限に抑えるために栽培されている。また、種子を収集・保管し、個々の樹木を追跡できるようにすべてコード化、バッチ処理している。今後10年間で、6400万本の植林を目指す。
  • 農場や私有地に多くの木を植えたいと思っている人へのアドバイスや資金援助、苗木提供などを行う。
  • ウッドランド・トラストのサイトでは、個人向けに苗木を1本から販売している。ガーデン用、垣根用など用途に応じて選ぶことができる。

ancient wood

森林と人の関わりにおける変化

1217年

森林憲章「Charter of the Forest」
ヘンリー3世が施行

「Charter of the Forest」(森林憲章)は 1217年11月6日、今からちょうど800年前にヘンリー3世によって施行された、森林の所有権に関する法律。「forest」はここでは森だけではなく、原野、草原、沼地、及び、そこから得られる食糧、燃料などあらゆる資源を含む。それまですべての森林は王室の所有とされ、国民が勝手に利用することは禁じられていたが、この画期的な法律により、一部の森林を除き、一般市民(freemen)も森林の資源から利益を得られるようになった。

森林憲章1225年再販の「森林憲章」(British Library所蔵)

同憲章は、1215年にジョン王によって制定された憲章マグナ・カルタを補充するものであり、イングランド国王の権利を制限した法律の一つとされる。現在ではあまり知られることはないが、一部では、制定当時はマグナカルタよりも大きな影響を国民に与えたのではないかとの意見もある。

当初は一般市民を救済する非常に優れた法律と思われた森林憲章だったが、ときを経るにつれ次第にその基本となっていた考えが崩れ始め、森林という天然資源を商業的に利用する際の制度でしかなくなってしまった。この法律は1971年に廃止されるまで存在した。

森林の銅版画18世紀に描かれた森林の銅版画

2017年

市民による森林保護宣言
森林と人々のための新しいガイダンス
「Charter for Trees, Woods and People」

2017年11月6日、森林憲章が施行されてちょうど800年目のこの日、森林に関する新しいガイダンスが提示される。これは、英国の森林保護団体ウッドランド・トラストを始めとした、複数のセクターにまたがる70を超える組織が共同で編み出した森林保護に関する宣言で、いわば国民の側から提出された新しい森林憲章とも言えるだろう。ここでは森林の重要性が訴えられ、森林が人々の健康や幸せ、子供の成長に必要であることなどが記されている。

現存する2点の森林憲章のうち1点が現在、イングランド東部のリンカン城に保管されている。6日には、その1点が「Charter for Trees, Woods and People」の発表を記念し制作された木彫りの記念碑とともに展示される。

樹齢800年以上の楢の木樹齢800年以上の楢の木

都市の中の小さな天然林
Queen’s Wood クイーンズ・ウッド

ルーシー・ルーツロンドン北部ハイゲート駅に隣接するクイーンズ・ウッドは21ヘクタール(約21万平方メートル)の天然林で、市民の散策の場として人気が高い。自然保護地区に登録されており、小さいながら手入れの行き届いた気持ちの良い森だ。管理者はハリンゲイ・カウンシルだが、日々こまめに森の世話をするのは、ボランティアの住民団体フレンズ・オブ・クイーンズ・ウッド(FQW)のメンバー。今回は、この森で開催されたガイド・ウォークに参加し、イベントを主催したFQWの委員の1人、ルーシー・ルーツさんに話を伺った。

クイーンズ・ウッド

フレンズ・オブ・クイーンズ・ウッドのメンバーは何人くらいいますか。

この付近に住む200軒近くのご家庭がメンバー登録されています。ただ、積極的に活動しているのは40~50人でしょうか。それでもほかの同様の団体に比べれば、かなり人数は多い方だと思います。

どのような活動をされているのでしょう。

地元の方に自分たちの森をよく知ってもらうため、今回のようなガイド・ウォークを定期的に開催しています。樹木や鳥、コウモリ、植物、キノコなど、季節に合ったテーマを設定しますね。ゴミ箱やベンチなどの設置や手入れも私たちが行っています。毎月1回、ゴミ拾いの日もありますよ。

Queen's Wood

森を楽しむのに一番良い時期はいつでしょう。

どの季節にもそれぞれの良さがありますよ!冬は雪景色、春は植物が奇麗だし、秋は紅葉。季節の移り変わりを見ることも楽しみの一つではないでしょうか。

カウンシルとはどのように連携しているのですか。

カウンシルの自然環境保護員と一緒に、区の管理計画に沿って森の世話をしています。樹木の定期的な剪定や、考古学的な研究、動植物の調査といった大きなプロジェクトがあるときは、その手助けや、手配などを受け持ちます。

Queen’s Wood クイーンズ・ウッド

クイーンズ・ウッドは、かつてロンドンやハートフォードシャー、エセックスを覆っていたというミドルセックスの森(Forest of Middlesex)の一部。300種類以上の花やシダ類が生息し、調査によると、キツツキ、ミソサザイ、キクイタダキといった、都市ではなかなか見ることのできない種を含む、25種類の鳥類が確認されている。また、139種の蜘蛛、234種類の甲虫も住むという。
Muswell Hill Road, London N10 3LD 最寄駅: Highgate

Queen's Wood

 

「Oh Lucy!」の平柳敦子監督 & ジョシュ・ハートネットにインタビュー

「Oh Lucy!」

毎年、世界各地からインディペンデント作品が集まる映画祭「レインダンス・フィルム・フェスティバル」が、今年も9月20日から10月1日にかけてロンドンのウェスト・エンドで開催された。今回、この映画祭のオープニングを飾ったのは、平柳敦子監督の「オー・ルーシー! (原題)」(「Oh Lucy!」)。長編作品の監督はこれが初めてという平柳監督と、本作の出演者の一人である米俳優、ジョシュ・ハートネットの合同記者会見が9月20日、ロンドン中心部ソーホーで行われた。上映を数時間後に控えた会見では、日英の共通点から映画界における女性の立場まで様々な質問 が投げ掛けられ、密度の濃いインタビューが展開。2人が語った製作の過程や役作り、文化の違いなどを紹介しよう。(Photos: ©Raindance Film Centre)

Atsuko HirayanagAtsuko Hirayanagi
長野県生まれ、千葉県出身。高校2年生で渡米しサンフランシスコ州立大学で演劇を学ぶ。ニューヨーク大学大学院映画制作学科シンガポール校を卒業。卒業制作の短編作品「Oh Lucy!」には桃井かおりが主演し、2014年カンヌ国際映画シネフォンダション(学生部門)で日本人初となる2位に入賞。今回上映された同名作品は、この短編を基に物語を大きく書き加えた、平柳監督初の長編ドラマ。本作で今年のカンヌ国際映画祭の批評家週間に招待されたほか、9月16日にはNHK総合テレビで国際共同制作ドラマとして、「OH LUCY!(オー・ルーシー!)」が放送された。

Josh HartnettJosh Hartnett
1978年、米国ミネソタ生まれ。1998年に「ハロウィンH20」で映画デビュー。「パール・ハーバー」「ブラックホーク・ダウン」「ブラック・ダリア」など数々のハリウッド大作に出演。2003年にはスーパーマン役のオファーを却下し、数多くのインディペンデント作品にも参加している。2008年にはロンドンのアポロ・シアターで「レインマン」の舞台に出演した。英国では、最新主演作「シックス・ビロウ: ミラクル・オン・ザ・マウンテン(原題)」(「6 Below: Miracle on the Mountain」)が10月13日に公開される。パートナーは英国女優のタムシン・エガートンで、2児の父。

英国人の気質は日本人に近い?

「オー・ルーシー!」がロンドンのレインダンス・フィルム・フェスティバルで上映されることについてどう思いますか。

平柳:はい、オープニング作品に選んでいただいたことをとても光栄に思います。また、英国の観客がこの作品にどう反応するか、とても興味があります。国によって観客の反応が違うのですが、私は常々、英国の文化は日本のそれと似ているのではないかと思っているのです。同じ島国ですし、色々な規律もある。お天気も良くないですし(笑)。東京もちょうどこんな空をしていますよ。そして人々は表向きの仮面をかぶるでしょう。ですので、英国の方々が映画のエンディングをどう思われるか興味があります。北米の観客のほとんどはこれをハッピーエンドだと捉えました。でも日本では、これがハッピーエンドかどうか分からないという人が多かったのです。英国はどうでしょうね。

ハートネット:パートナーがイングランド人なので、彼女がどう反応するかも楽しみですね(笑)。ついこの間まで撮影していたような気がするので、こうしてこの場にいるのが感慨深いです。観客の皆さんが楽しんでくれるといいですね。そして、作品の一部になれたことを誇りに思います。普通は出演作を観た後、あれはあのように演じたので良かったのだろうかなどと考えてしまうことがありますが、アツコ(平柳)のクリアな脚本と演出のおかげで、今回はそういった迷いがなかった。滅多にないことですよ。とにかく、多くの人に観ていただきたいです。オープニング作品に選んでもらったことで、より多くの方が来てくれるでしょうね。本当にエキサイティングです!

ハートネット&平柳監督ハートネット(写真左)から役柄について多くの質問を受けたと話す平柳監督(同右)

少し不安定なキャラクターたち

この物語を作るに当たって、最も重要だった部分は何でしょうか。

平柳:通常ならば主人公にはならないような、不安定で目立たない性格の人物をヒロインに据える、それが私にとっては重要でした。主人公は、実は以前、私が実際に会ったことのある日本人女性をモデルにしています。普通ならばかき消されてしまうような人物の声を拾い上げ、作品に出来たことをうれしく思います。

脚本を読んで、自身の演じるキャラクターについてどう思いましたか。

ハートネット:初めて脚本を読んだとき、自分がこれまで演じたことのないタイプの役柄だと感じ、やってみたいと強く思いました。彼は憂鬱な部分と楽天的な部分を兼ね備えている、いわゆる「負け犬」ですが、チャーミングな男でもあります。アツコと話し合ううちに、この男は混乱しており、その混乱をできるだけそのまま表現すればよいのだと理解しました。

あなたの演じたジョンは、日本では英語教師である一方、自国の米国では誰でもない、何者でもない人物という二重構造を持つキャラクターですが、どのように演じようと心掛けましたか。

ハートネット:ジョンは自分の国からファンタジーの世界に逃げこんだのですが、そこがたまたま日本だったのですね。彼は俳優志望でしたから、日本では自分がなりたいキャラクターを演じていた。それは周囲から求められていた役割でもあったのです。ただその役は日本にいたからこそ演じられたわけで、米国に戻ることでまた元の彼に戻ったのだ、と考えました。

平柳:編集段階でジョンの過去については削除してしまったのですが、「ロサンゼルスのあまり良くないエリアに暮らす売れない俳優」という設定です。日本や、ほかのアジアの国々では、背の高くハンサムな米国人はそれだけで皆にチヤホヤされますから、ジョンは日本では人気俳優になったような、自分が特別であるかのような気分を味わっていたのです。

2人の女性との関係についてお話ください。ジョンは、2人のどちらかを愛したのでしょうか。

ハートネット:これについては製作中にも話し合いました。美花と節子のどちらかと恋に落ちるのか。まず、節子を愛してはいない。何かしらの感情を持っているとは思いますが、愛ではない。彼は人に共感する能力が高いのではないでしょうか。悪気はないけれど、その場その場で良い顔をしてしまう。恐らくジョンは、映画の終わりで自分自身に気付き、この後、自分の生活を始めるのではないかという気がします。なので、そうですね、どの女性とも恋に落ちていないと思います。

主人公の節子は米国に着いて腕にタトゥーを入れましたが、これについて話してくださいますか。

平柳:欧米ではタトゥーは一般に浸透しており、街のあちらこちらにショップがありますが、日本ではまだ一部の若者のもので、明らかに40代のOLがするものではありません。以前、米国に来たばかりの元OLの日本人女性と知り合ったのですが、3カ月後には彼女の体はタトゥーだらけになっていました。彼女の中で何かがはじけたという感じでした。もしかしたら、タトゥーは自由の象徴なのかもしれません。

作品中では2人の女性が同じタトゥーを彫っていますが、彼女たちも自由になったということなのでしょうか。

平柳:そう思います。米国は人々を解放的にする不思議な場所です。特に、規律や規制が厳しい国から来た人にとっては、何をやってもいい、ワルになってもよい、自由の国に見えるのです。

登場人物は社会的にも精神的にも孤独な人々だと思いました。これは脚本を書くときに意図してそういうタイプばかり選んでいるのですか、それとも自然にそうなってしまったのでしょうか。

平柳:私は静かでおとなしいキャラクターにより惹かれます。だから自然に孤独な主人公になってしまうのでしょう。どんな人でも語るべき物語を持っています。そして静かな人ほど、語ることをたくさん持っているように思えます。

この作品の主人公たちには、不思議な親密さや何ともリアルな居心地の悪さがありますね。

ハートネット:脚本には、キャラクターが皆、通常よりも正直で、ほかの人より「かぶっている仮面が薄い」と指定されていました。これは自分の気持ちを抑えないということなので、役者にとってはチャレンジングで楽しかったです。崖っぷちに立たされた人物は演じがいがありますしね。

最後の場面は暗示的ですが、これはハッピーエンドとして製作されたのでしょうか。

平柳:この最後は節子の新しい始まりを予感させるものとして描きました。彼女は自分の気持ちに正直ですし、何の制約も受けておらず、これから何でも自由にできるわけですから。私にとってはポジティブなエンディングです。また、誰かがそばにいてくれることの大事さに気付いたのも大きなことだと思います。この作品は卒業制作で手掛けた同名の短編映画が基になっているのですが、卒制では本作の最初の20分に当たる部分を描きました。その後、主人公がどう行動するかを考えたのが本作です。短編を薄めて引き延ばすということはしたくありませんでした。

主演の寺島しのぶさんは短編のときの女優さん(桃井かおり)とは異なりますね。

平柳:寺島さんは私と同じ周波数で繋がっているのかと怖くなるくらいに、こちらの意図をくんで演じてくださる方でした。ほんの少しの動きや表情に至るまで、まさに私がほしかったものを表現してくれました。歌舞伎役者の家系に生まれた、まさに生まれながらの女優さんです。

ジョシュ、この作品に魅かれて参加しようと思った理由は何でしょう。あなたが普段出演しているようなハリウッド大作ではないですよね。

ハートネット:日本人監督だというのがまず興味を持ったきっかけです。それから、ここ数年、大作だけでなく、いくつかのインディペンデント作品にも出演してきました。出演を決める前には監督と長いミーティングをしますが、彼女の場合はやりたいことが非常にクリアだった。(平柳監督に向かって)初めて会ってから2週間後にはもう撮影が始まったよね。

平柳:ジョシュはすごく正直だし、自分をよく知っていて、何より反骨精神があると思います。だからハリウッド作品だけでは満足できず、私の作品を気に入ってくれたのではないでしょうか。しばらくハリウッドから遠ざかってインディペンデント作品に出演していたというのも、反骨精神のなせる業だと思います。とても才能のある人。しかもハンサム。世の中は不公平ですね(笑)。

ハートネット:もうちょっとやめて(笑)。

平柳:ジョシュとの会話は本当に勉強になりました。というのも、私は女性の視点でこの作品を作っていたのですが、彼が多くの質問をしてくれたおかげで、より重層的なキャラクターが生まれたと思います。本当に多くの貢献をしてくれました。

ハートネット&平柳監督平柳監督と息がぴったりのハートネット。撮影時の逸話も披露

映画業界における女性の進出は?

お2人に質問です。これまで映画界を見てきて、女性は活躍していると感じますか。

平柳:日本の女性について、まだ本来あるべき地位に到達していないと思います。世の中はなかなか変わりませんが、自分のできることをコツコツやるしかないのではないでしょうか。それによってほかの人をインスパイアできればいいなと考えています。日本には女性監督が多くいるわけではありません。英米でもきっと同じでしょう。私の家族は監督になることをサポートしてくれました。だから続けていられるので大変ラッキーだったと思います。その分、私はほかの誰かのために声を上げていきたいのです。

ハートネット:米国の女性監督の地位は向上したのではないかと思います。僕が高校生のころ、映画監督のジェンダー・ギャップを埋めようという動きがありました。何パーセントとかそういう詳しいことは分かりませんが、そのころに比べて少しは良くなっているのではないでしょうか。ただ正直に言えば、脚本だけ読んで面白いと思うかどうかで、それが男性監督のものか女性監督のものか、性別を考えたことはあまりないかな。業界内部にいるのであまり客観的に見ることができていないかもしれないですね。

では、作品内の女性の描き方についてはどうでしょう。この作品の主人公はとても強い女性ですが、これは今では普通なのでしょうか。

ハートネット:80年代や90年代などに比べ、以前より女性キャラクターの描き方にバラエティーが出て、もっと現実に近くなった気はしますね。ただし、その時代時代で描き方に変化があるので、今が昔より良くなったというのとは違うのかもしれない。その時代の「こうあるべき」という枠に縛られている限り、自由になったということではないですから。本来ならば、何でも好きなことを、やりたいように表現すればいいはずですよね。

東京とロサンゼルスでは風景の色合いが全く異なるように思いましたが、それは意識して撮影されたのですか。

平柳:はい、東京の灰色のオフィスや暗い学校と、ロサンゼルスの青くて明るい空は対比させるつもりで描きました。

なぜロサンゼルスを舞台に選んだのでしょう。

平柳:それは私がよく知っているエリアであることと、俳優が住む街として適しているからです。

ジョシュは作品中では日本語も少し話していましたが、製作に当たり、異なる文化間でのやりとりはどうでしたか。

ハートネット:東京では皆さんが良くしてくれたので、日本語を話せなくても困ったことはありませんでした。作品中では片言で話していますが、本当は全然話せないのです。

インディペンデント映画の魅力

ハリウッド作品とインディペンデント作品の両方に出演されていますが、インディペンデント作品の良さとは何でしょうか。

ハートネット:多様性だと思います。そして、よりパーソナルな作品が撮れること。その結果、作品に深みが生まれるのではないでしょうか。ハリウッド映画は良く言えばエンターテインメントですが、インディペンデント映画はもっと芸術的で人の心に触れる。個人的にはインディペンデント作品により感動します。

インディペンデント映画である本作に、ハリウッド俳優ジョシュ・ハートネットが出演することで、多くの観客が興味を持つということはありますよね。

平柳:それは絶対そうです。ですから彼がこのプロジェクトに参加してくれたことに感謝します。おかげで人の目を引き、オープニング作品にしていただきましたし(笑)。日本の俳優の役所広司さんも、若い無名の監督をサポートする目的で本作に出演してくださいました。映画界のシステムを変える何らかの助けになればと言ってくださったのです。NHKや、米国のサンダンス・インスティテュート(米俳優ロバート・レッドフォードが設立した非営利団体)も、新人監督のサポートに力を入れています。

次回作はどうなりますか。

平柳:まだ詳しくお知らせすることはできませんが、何本かのオリジナルを書いています。後は自作ではないプロジェクトに参加するお話もあり、検討中です。

最後に、本作を観た観客にどのような感想を持ってもらいたいですか。

平柳:「 混乱する」ということでいいと思います(笑)。(この映画の主人公のように)崖から飛び降りるような思い切った行動によって、初めて自分を発見するということもありますから。混乱することを恐れないでいただきたいですね。

ハートネット:実際には飛び降りない方がいいですね(笑)。

Oh Lucy!

Oh Lucy!(オー・ルーシー!)

● 出演: 寺島しのぶ、南果歩、忽那汐里、役所広司、ジョシュ・ハートネットほか
● 監督: 平柳敦子
● 上映時間95分

東京で満たされない日々を過ごしていた40代独身OLの節子は、あるきっかけで怪しげな英会話教室に通いだす。若い米国人講師のジョンに、金髪のカツラとルーシーという名前を与えられた節子は、授業中は明るくフレンドリーな「米国人ルーシー」として振る舞うよう言われる。ルーシーを演じるうちに次第に抑圧していた自己が現れ、変化を始めた節子。ジョンに恋をした彼女は、米国に戻ったジョンを追いかけロサンゼルスへ向かうが……。米国人講師との出会いをきっかけに、新しい自分を発見した女性の姿を、コミカルにそして正直に描いたドラマ。
 

ノーベル文学賞の受賞決定!
カズオ・イシグロの
代表作を楽しむ

今年のノーベル文学賞受賞が決定し、日本でも大きな話題となった長崎県出身の英国人作家、カズオ・イシグロ。1989年には英国の権威ある文学賞であるマン・ブッカー賞も受賞しており、その著作は40カ国語以上に翻訳されている。今回は、そんなイシグロのデビュー作を含む代表作、計6作を紹介しよう。 Photos: ©Faber & Faber

長崎の記憶を描いた処女作
A Pale View of Hills

A Pale View of Hills

1982年に発表され、王立文学協会が選ぶウィニフレッド・ホルトビー・メモリアル賞を受賞した。イングランドの田舎に1人で暮らすエツコは、娘の自死から立ち直ろうとしていた。そこへ、もう1人の娘ニキが訪ねてきたことから、エツコのほの暗い長崎の夏の記憶が呼び覚まされる。

邦題「遠い山なみの光」
小野寺健訳 / 早川書房

老画家の記憶と疑問を描く
An Artist of the Floating World

An Artist of the Floating World

英国の文学賞ウィットブレッド賞(現・コスタ賞)の1987年受賞作。敗戦直後の日本。人々は日々の暮らしを再建することに忙しい。軍国時代の思い出を持ち続ける年老いた画家は、新しい価値観になじめずにいる。やがて、次第に過去の自分に疑問を持つに至り、画家の静かな暮らしに暗い影が差し始める。

邦題「浮世の画家」
飛田茂雄訳 / 早川書房

マン・ブッカー賞の受賞作
The Remains of the Day

The Remains of the Day

1989年のマン・ブッカー賞受賞作。1993年、アンソニー・ホプキンス主演で映画化された。かつてイングランドの由緒ある屋敷で長年にわたり執事を勤めたスティーブンスは、戦後、その屋敷の新しい主人となった米国人の富豪のもとで再び働き始める。現在と過去が行き交う物語を、静謐な筆致で描く。

邦題 「日の名残り」
土屋政雄訳 / 早川書房

コントロール不可能な人生
The Unconsoled

The Unconsoled

有名ピアニストのライダーは、地名も定かでない中央ヨーロッパの町に到着する。この町で演奏する予定はあるものの、彼にはコンサートの詳細も分かっていない。町に滞在するうちに次々と奇妙な出来事に遭遇したライダーは、次第に自分が大変な演奏会に臨もうとしていることに気が付く……。

邦題「充たされざる者」
古賀林幸訳 / 早川書房

記憶と過去を巡る冒険の物語
When We Were Orphans

When We Were Orphans

1930年代のイングランド。クリストファー・バンクスは英国で最も才能ある探偵として、社交界でも知られた存在だった。しかしバンクスにはたった一つ、解くことができない犯罪事件があった。それは上海で彼が幼いときに起きた両親の失踪事件だった。マン・ブッカー賞候補作品。

邦題「わたしたちが孤児だったころ」
入江真佐子訳 / 早川書房

映画化もされたベストセラー
Never Let Me Go

Never Let Me Go

キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ主演による映画化や、日本でのドラマ化でも知られる作品。ヘールシャム・スクールという閉鎖的で謎めいた施設で育った若者たちの愛、友情、そして記憶を、1人の女性の視点から描き出す。マン・ブッカー賞候補作品。

邦題「わたしを離さないで」 
土屋政雄訳 / 早川書房

 

戦時中の英国で日本語を学んだ若者たち
ダリッジ・ボーイズとSOASのブレッチリー・ガールズ

英国における日本語教育略史

* 国際交流基金などの情報を参考にして作成

1903年
英国最初の日本語学校(シャンド日本語学校)がロンドンに開校
1916年
ロンドン大学SOAS(当初は東洋研究所(The School of Oriental Studies))が設立(生徒の受け入れが始まったのは翌17年)。日本語教育が行われる
1946年
SOASにおいて日本語の学士課程、BA Honours in Japaneseが新設
1947年
第11代スカボロー伯爵ローレンス・ラムリーが東洋・アフリカ研究の必要性を訴えた「スカボロー・レポート」を作成。これに基づき、ケンブリッジ大学(1947年)やオックスフォード大学(1962年)に日本語講座が設置されることとなる
1961年
ウィリアム・ヘイターが英国における東アジア研究の状況を調査。調査報告書「ヘイター・レポート」にて、イングランド北部に日本、中国、東南アジアを専門的に研究する機関を設置するよう訴える。これに基づき、日本研究センターがシェフィールド大学に設けられることとなる
1970年
公立中等教育機関であるバリー・セント・エドマンズ・カウンティー・アッパー・スクールで日本語教育が開始。英国の中等教育では初めての日本語教育とされる
1960~
1970年代
語学学校を始めとする成人教育機関で日本語を教えるケースが見られるようになる
1986年
ダリッジ・ボーイズの一人、ピーター・パーカーが調査報告書「未来に向けて-アジア・アフリカ言語及び地域研究に対する英国外交・通商上の要請に関する一考察」(通称パーカー・レポート)を作成。外交・通商上の見地から日本研究及び日本語教育拡大の必要性を唱える
1988年
通商産業省(DTI)が対日輸出拡大を目的とする「オポチュニティー・ジャパン(Opportunity Japan)」キャンペーンを実施。高等教育機関での日本語、日本文化関係プログラムへの資金拠出が決定される。結果、88年から91年までの3年間で対日輸出額が80%増

「ナショナル・カリキュラム」が制定。日本語が選択できる19の外国語の一つとして指定される
1980年代末~
1990年代初め
大学及び中等教育機関において日本研究講座、日本語の授業が増加
1995年
中等教育機関が現代外国語を専門にすることができる「ランゲージ・カレッジ(Language College)」認定制度がイングランドで導入。認定校の約7割が日本語教育を取り入れる
1990年代
半ば
政府助成金の大幅な削減により、いくつかの大学で日本研究・日本語講座が縮小または廃止
2007年
外国語能力を技能別に認定する基準「ランゲージズ・ラダー(Languages Ladder)」が発表
2014年
初等教育(KS2)から外国語が必修となる

現在のSOASにおける
日本語教育

日本語主任、古川彰子さんに聞く

昨年、日本研究開始100周年を迎えたロンドン大学SOAS(東洋アフリカ研究学院)。
第一次大戦中の1916年から現在に至るまで、英国における日本語教育 / 日本研究を牽引する教育施設の一つとして、英国内外で高い評価を得ている。今回は、SOASの日本語主任として日本語教育や日本留学のサポートなどに携わる古川彰子さんに、現在のSOASにおける日本語教育について話を伺った。

古川彰子さん ふるかわ あきこ 神奈川県出身。応用言語学(日本語)博士、FHEA。韓国及び英国で日本語教育に携わる。1998年から14年半、レディング大学で日本語学科長、レクチャラー(lecturer)、日本語 / 中国語コーディネーターを務める。2013年4月からはロンドン大学SOAS(東洋アフリカ研究学院)で日本語主任(Principal Lector in Japanese)として日本語教育、日本での交換留学、2年プログラムであるMA... and Intensive Language (Japanese) の日本語コースの運営を担当。近年は障がい、その他の背景を持つ学生の日本でのサポートや、日本語を使って活躍できる研究者の育成などに力を入れている。

SOASの日本語学科(Japanese)では学士課程と修士課程があるかと思いますが、まずは学士課程でどのようなことを学ぶのか、教えていただけますか。

SOASではまず、1年目に初級を終わらせて、2年目で中級から中上級を学び、3学年次に日本へ留学します。協定校は東京外国語大学、一橋大学、早稲田大学、同志社大学、大阪大学、そのほか九州大学や北海道教育大学など、20以上あります。そして4年目には上級日本語のクラスを取る場合もあれば、文学や歴史の文献を読むコースを選択する場合もあります。

SOASならではの特徴はありますか。

学士課程の1学年次に2つのレベルを設けています。基本的にゼロからのスタートとなる学生はJ1: Elementary Japanese、中学校や高校のときにAレベルやASレベルで日本語を選択したりした、既にある程度の日本語の知識のある学生などはプレースメント・テストの結果によって、 J1: Accelerated Elementary Japaneseを受講し、1学年次が終わったころには同じレベルになるようにカリキュラムが組まれています。ゼロ初級のコースしかない場合、中学校・高校で日本語を学んだ学生は、レベルが高すぎるということで日本語を専攻できなくなる大学もあります。

それでは修士課程は?

英国では通常、修士課程はフルタイムで1年間のプログラムとなりますが、SOASでは2014年に、それを2年間にして、その分、日本語力をより高いレベルにまで持っていくプログラムも作りました。中級スタートと初級スタートの2つのグループがありますが、例えば中級の場合はまず1年間、中級日本語を勉強し、夏の間に5週間、日本でのサマー・コースで単位を取得し、帰国後の次の1年間で上級日本語を勉強する形になります。

大学院の修士課程ですし、研究者を育てるためのコースですので、日本語を学ぶとともに歴史や美術、宗教など専門科目の学術論文を日本語で読むというチャレンジングな内容になっています。そして最終的には自分でも日本語で論文を書きます。

ロンドン中心部ブルームズベリーにあるSOAS の校舎ロンドン中心部ブルームズベリーにあるSOAS の校舎

戦後、英国で日本語教育熱が高まった理由の一つとしては、日本が経済大国であることが挙げられるかと思います。一方で昨年はA レベルの日本語試験が終了というニュースが在英邦人コミュニティーで話題となり、署名活動などが行われた後に試験の復活が決定するなど、大きな動きも見られました。

これまで英国ではレディング大学とSOASの2つの大学に勤務してきましたが、日本でのバブル崩壊後、日本経済に興味があった学生が日本語を学ぶというケースは減ったように思えます。一時期は日本語学科の閉鎖が各地の大学で続きました。ただ、主専攻、副専攻でなく、選択科目の日本語は私が関わった大学では学生数も増え、人気が続いているようです。

最近、日本語を学びたいという学生はどのような人が多いのでしょうか。

バブル崩壊後、日本語教育はそのまま衰退していくのでは、と考えた方もいらっしゃったかもしれませんが、日本にはゲームやアニメ、漫画などのポップ・カルチャーという強みがあるので、日本文化に興味のある人が日本語を勉強するという傾向は続いているようです。かつてはポップ・カルチャーを大学の授業で扱うのはどうか……という考え方もある程度、ありましたが、次第に変わってきて、ポップ・カルチャーを取り入れた授業も見られるようになってきました。これから、選択科目の日本語にポップ・カルチャー好きの学生などが集まってくるということが以前よりも意識されるようになっていく可能性もあるでしょう。アカデミックなコンテクストで、どのように扱うかということがポイントになってくるかもしれません。

一方で、日本語専攻では文学、歴史、美術などに興味を持つ学生が多いように感じます。先日、ある学生と話す機会があったのですが、子供のころにゲームをやっていたら取扱説明書に面白い文字が並んでいて、それが日本語だと分かり、勉強を始めた、と言っていました。日本への興味がゲームからやがて文学や歴史へと移り、日本を訪れるようになる。そういう過程を経て、日本語クラスに入ってくる学生も多いのではないでしょうか。こうやって、日本のポップ・カルチャーから始まった日本への興味がさらに広がっていくのは喜ばしいことだと思っています。

近年の学生ならではの特徴はありますか。

ここ数年、学生にバラエティーが出てきたように感じます。Specific Learning Differencesを持つ学生も増えてきました。私は日本の留学先の手配や留学生のサポートも行っていますが、色々なバックグラウンドのある学生が日本語を学んだ上で日本に1年行き、将来活躍してくれるというのは素晴らしいことだと思います。このような学生が日本に留学する場合、日本の多くの大学は、できる協力はしてくださるのと同時に、情報不足ゆえにそうした状況にまだ慣れていないと感じることもあります。2020年には東京オリンピックも開催されますし、こうしたことをきっかけに日本社会が変わっていってくれたらと願っています。


[参考文献]
  • 「戦中ロンドン日本語学校」(中公新書)大庭 定男著
  • 「The Debs of Bletchley Park and Other Stories」Michael Smith著
  • The Bletchley Park Trust Reports「Japanese Codes」Sue Jarvis著
  • Dulwich Boys and Beyond: 100 Years of Japanese Studies at SOAS (Recording)
  • Bletchley Park, Podcast 56: Enter Japan など
 

戦時中の英国で日本語を学んだ若者たち
ダリッジ・ボーイズとSOASのブレッチリー・ガールズ

ダリッジ・ボーイズとSOASのブレッチリー・ガールズ

左)戦時中にSOASの日本語特別コースで学んだ生徒たち
右)SOASで日本語を学んだ7人の
ブレッチリー・ガールズ

ロンドン中心部、ブルームズベリー。20世紀初めには作家バージニア・ウルフや経済学者ジョン・メイナード・ケインズら芸術家や学者たちが集ったこの地区に、英国における日本語教育を先導するロンドン大学SOAS(東洋アフリカ研究学院)がある。

昨年、日本研究開始100周年を迎えた同大学は、現在も多くの日本研究者や日本語話者を輩出していることでその名を馳せているが、ここで第二次大戦中に敵国である日本の言語を学んだ若者たちがいたことは、あまり知られていないのではないだろうか。

今回は、ロンドン南東部にあるパブリック・スクール、ダリッジ・カレッジに居を構え、SOAS に通って日本語を習得した若者たち、通称「ダリッジ・ボーイズ」と、同じくSOAS で日本語を短期集中で学んだ後に政府暗号学校ブレッチリー・パークに勤務した「SOASのブレッチリー・ガールズ」を中心に、戦時中の英国における日本語教育と、現在に続く日英交流の萌芽を見ていきたい。

[取材協力]
  • バーバラ・ピッツィコーニさん
  • SOAS, Japan and Korea Section, Department of East Asian Languages and Culture Reader in Applied Japanese Linguistics
    1996年よりSOASで日本語、日本語教授法、日本語学などを教える。2014年〜17年には Head of the Japan & Korea, China & Inner Asia departmentsも務める。
  • Bletchley Park

情報機関の秘密のベールに包まれた
SOASで学んだ
7人のブレッチリー・ガールズ

戦後、日本にかかわる各分野で華々しい活躍を見せたダリッジ・ボーイズら日本語特別コースの男子生徒たち。その一方で、同じ時期、同じ場所で日本語を学びながら、その存在が長年にわたり秘匿された女性たちがいた。彼女たちの活動が世に知られるようになったのは、わずか数年前のことだ。次からはこの秘密のベールに包まれた女性たち7人を中心に、戦時中の情報機関に勤めた女性たちに注目してみたい。

「私の母はブレッチリー・ガールズの一人でした」

2016年2月1日にSOASで行われた日本研究開始100周年記念のイベント、「ダリッジ・ボーイズとその後」の質疑応答の最後、観客席にいた一人の女性が、日本語の辞書を片手に話し始めた。いわく、「私の母親はブレッチリー・パークでこの辞書の編纂をしていたのですよ」。辞書の編者として名前は残されていないものの、第二次大戦中、政府暗号学校ブレッチリー・パークの日本セクションで働いていたという母親の名はアイリーン・クラーク、彼女こそ、ダリッジ・ボーイズと同時期にSOASで日本語を学んだ7人の女性たち、「SOASのブレッチリー・ガールズ」の一人だったのである。

世界各国の暗号を解読する政府暗号学校

ロンドンから列車で約1時間。イングランド南東部バッキンガムシャーにある豪奢な邸宅、ブレッチリー・パークには、第一次大戦後から戦後の1946年まで政府の暗号学校(GC & CS)が置かれていた。第二次大戦時にアラン・チューリングを中心とする数学者らがナチス・ドイツのエニグマ暗号の解読に成功した功績が描かれた、2014年公開のベネディクト・カンバーバッチ主演映画「イミテーション・ゲーム / エニグマと天才数学者の秘密」で世界中にその名が知られるようになったが、エニグマ暗号以外にも世界各国の暗号解読に従事。パーク内には日本セクションも置かれていた。

英国は1920年代から日本の暗号解読に携わっており、上海、香港、シンガポール、そしてブレッチリー・パークで作業が行われていた。その中心人物だったのが、ジョン・ティルトマン。ブレッチリー・パークの軍事セクションの責任者で、暗号解読者として英国にその名を轟かせた人物である。日本海軍のJN-25暗号などの解読に成功していたティルトマンは、1940年代初めに日本軍が破竹の勢いでマレー半島及びシンガポールを支配下に治めたのを受け、SOASに対して日本の暗号解読に必要となる読み書きの力を養う日本語コースを組んでほしいと依頼。しかし平常時で5年、緊急時でも2年はかかると言われ、自分自身でコースをつくることを決意する。

1942年2月、ロンドン郊外のベッドフォードで始まった日本語コースの期間は6カ月。初回は女性1人を含む計23人が学び、その大多数がオックスフォード大学やケンブリッジ大学で古典を学んでいたそうだ。唯一の目的が暗号解読だったため、話すことは教えられず、読み書きにのみ焦点が当てられた同コースで、生徒たちは計1200単語を暗記した後、暗号解読の練習を1カ月、行った。このコースは終戦まで続けられ、1943年にはパーク内でスタッフ向けにも同様のコースが設置されたという。

ブレッチリー・パーク第二次大戦中に政府暗号学校が置かれたブレッチリー・パーク(1955年撮影)

ブレッチリー・パークの女性たち

ここで、SOASで日本語を学んだ7人の女性たちに話を進める前に、「ブレッチリー・ガールズ」と呼ばれた、ブレッチリー・パークで働いていた女性たち全般について述べておきたい。第二次大戦中、驚くことにパークで働くスタッフの実に75%が女性だった。男性が兵士として戦場に赴き、英国内で人員が不足したこともあり、貴族階級や富裕層の子女「デビュタント」や、大学のフェローやチューター「ドン」が雇用される。しかしその後も需要は増大し、王立婦人海軍(Wrens)や婦人補助空軍(WAAF)、補助地方義勇軍(ATS)の女性たちや、秘書学校の卒業生らが集められることになった。

女性たちは数こそ男性を凌駕していたとはいえ、暗号解読者として後世に名を残した者は数少なく、先述の映画「イミテーション・ゲーム~」でキーラ・ナイトレイが演じたアラン・チューリングの同僚ジョーン・クラークほか、数名である。反復的な業務に就くケースが多かったようだが、エニグマ暗号解読機「ボム」や、暗号解読用のコンピューター(電子計算機)「コロッサス」の操作を行っていたのが主にWrensであったことなどからも分かるように、彼女たちがここブレッチリー・パークで果たした役割は決して小さなものではなかった。

エニグマ暗号解読機「ボム」を操作するWrens
エニグマ暗号解読機「ボム」を操作するWrens

SOASで学んだ「ジャッピー・ワーフ」たち

さて、日本の暗号解読に話を戻そう。1943年9月、イタリアが降伏すると、英国はこれまで以上に日本へ注力するようになり、ブレッチリー・パーク内の日本セクションも拡大。このころ、WAAFは7人の女性たちをSOASへと派遣する。

SOASで日本語を学ぶために集められた7人の女性たち、メアリー・ウィズビー、アイリーン・クラーク、エブリン・カーティス、シシリー・ナイスミス、デニース・ギフォード=ハル、マーガレット・ブラブズ、ペギー・ジャクソンは、いずれもこれまで日本語を学んだことがなかった。SOASに行き着くまでの経緯は様々で、例えばウィズビーは、オックスフォード大学に進学予定だったが、戦時下に国のために何かしたいとWAAFへの道を選択。訓練を受け、ケンブリッジ大学に派遣されて心理学を学んだ後に、幾度かの面接を経て、SOASで日本語を学ぶよう指示を受けたという。

集められた7人の女性たちは、ロンドン中心部ハーレー・ストリート近くにある英空軍の宿舎に寝泊まりし、SOASへ通う生活を送るようになった。14番のダブル・デッカーに乗り、ほかの乗客たちの好奇の目にさらされながら、かなが書かれたカードを使って互いをテストし合いながら学校に通う日々。期間は6カ月で、日本語の日常会話を学ぶことなど皆無。「こんにちは」は知らずとも「戦闘機」という単語は分かるという偏った学習内容だったようだが、それまでほとんどが家を出たことがなかった彼女たちは、合宿のような感覚で仲良く毎日を過ごした。ちなみにSOASで学んだ7人のブレッチリー・ガールズは「ジャッピー・ワーフ(JappyWaaf)」とも呼ばれるが、この呼び名は彼女たち自身の命名だそうだ。

日本語コース修了後は、全員がブレッチリー・パークへ。ウィズビーだけは一足早く、コース開始の約3カ月後に一人学校を去ることとなり、どこに行くのかも知らされぬまま指示通り列車に乗り、到着した先がブレッチリー・パークだった。翌日には日本海軍セクションに配属され、呼出符号の索引作成を行ったという。そして3カ月後には残る6人もやって来て、再び7人が集結。皆が日本の暗号解読に携わることになったが、秘密保持の観点から極端な分業体制で、互いに何をしているのかはもちろんのこと、自分がどんな仕事をしているのかすら、包括的に把握することはできなかったそうだ。分かっていることと言えば、例えばウィズビーが呼出符号の索引作成の次に命じられたのは、日本の陸軍航空部隊の戦力組成を探る作業。また、クラークが日本語の軍事用語をまとめた辞書作りに携わったことなど、いずれも本人またはその家族から明らかにされた断片的な情報のみである。

日本セクションの資料
ブレッチリー・パークに展示されている日本セクションの資料

50年以上の年月を経て情報開示

SOASの日本語教育研究学科(Applied Japanese Linguistics)の准教授(Reader)で、SOASのブレッチリー・ガールズについて研究を行っているバーバラ・ピッツィコーニさんは、ダリッジ・ボーイズを始めとする、SOASの日本語特別コースで学んだ男子学生らとは対照的に、彼女たちの記録は非常に少なく、同校にも残っていないと語る。理由の一つとしては彼女たちの勤務先が情報機関だったことが挙げられる。ブレッチリー・パークに勤務する人々はすべて国家機密法(Official Secrets Act)の下、活動内容を公にすることが禁じられていた。1975年になってようやく自由に話すことが認められるようになったものの、それでも詳細を明かす人は少なかったそうだ。あとはやはり、当時の女性の常として、キャリアを追うよりも家庭に入る人が多かったこともあるだろう。7人の中ではウィズビーが結婚後も情報機関に勤めたが、ほかの6人のその後についてはほとんど知られていない。

戦時中にブレッチリー・パークで活躍した人々の多くは既に亡くなっているが、健在の方々もいる。旧姓メアリー・ウィズビー、結婚後はメアリー・エブリーとなったメアリーさんもそんな一人。90歳を過ぎたメアリーさんに当時のエピソードを聞いたバーバラさんによると、彼女たち7人は非常に仲が良く、終戦後には結婚するなどして離ればなれになったが、年に一度は会って旧交を温めていた。「2人は南アフリカ、また別の2人はスコットランド、そのほかヘレフォードに1人とアイルランドに1人。そしてメアリーさんはロンドンからオックスフォードへと、皆ばらばらだったときにも連絡を取り合い、毎年6月にはどこかで会っていたそうです。それでも50年が経つまでは互いの仕事のことは全く話さなかった。家族にも言えないのであれば、せめて同じ場所で働いていた同僚くらいには話したくなるのではないかと思うのですが、すごいことです。私には想像もできません」。

メアリー・エブリーさん
当時のエピソードを語るメアリー・エブリーさん

メアリーさんはほんの数年前、日本人による取材を受けた。なんとそのときに初めて日本人と会ったという。対日本の諜報活動にかかわっていたことから、日本人からどのように見られるか、不安もあったようだが、初めて見るはずの日本人に違和感がないことに驚いたそうだ。

光が当たり始めた女性たちの活躍

2017年現在、メアリーさんを除く6名がその生涯を閉じている。50年という長い沈黙の年月を経て、メアリーさんがSOASでたった3カ月学んだ日本語とその教育内容の記憶は、既に薄れている。機密を徹底的に守ったという点では理想的なのかもしれないが、彼女たちを含むブレッチリー・ガールズの活躍の大部分が今もなお、秘密のベールに包まれたままというのは残念だと言わざるを得ない。だが、彼女たちに対して2009年に戦時中の功績を称える金と青色のブローチが授与され、数年前にはブレッチリー・ガールズに関する数冊の本が出版。このタイミングで彼女たちの存在に、ほのかではあれ光が当たったのは、幸運だとも考えられるだろう。

現在の日英関係を支える礎となった、ダリッジ・ボーイズを始めとする日本語特別コースの男子生徒たちの華やかな活躍に比べ、SOASのブレッチリー・ガールズの活動は地味で、ささやかなものだったかもしれない。バーバラさんは言う。「ダリッジ・ボーイズが言語だけでなく、文化を学ぶ機会もあったのに比べ、彼女たちは記号としての日本語にさらされただけで、興味が湧くきっかけもなかったのだと思うのです」。コース修了後も、ブレッチリー・パークにおいて完全な分業体制の下で作業していたのだから、日本の言語や文化に知的好奇心が掻き立てられることも少なかっただろう。しかし、戦時中の英国で日本語を学んだ女性たちがいたことは、英国、そして日本の歴史の1ページに刻まれるべき事実なのである。

ブレッチリー・パークにおける
主な日本の暗号解読の軌跡

1934年11月
外務省使用の暗号機A型、通称「レッド暗号」を解読
1939年夏
ジョン・ティルトマンが海軍使用のD暗号「JN-25」を解読
1941年2月
外務省使用の暗号機B型、通称「パープル暗号」を解読した米国が、ナチス・
ドイツのエニグマ暗号解読の情報と引き換えに、解読機を英国に供与
1943年春
海軍武官使用の九七式印字機三型(JNA-20)、通称「コーラル」暗号を、エニグマ・セクションの責任者ヒュー・アレグザンダーを中心としたチームが米国とともに解読

ブレッチリー・パーク内の
日本セクション

ブレッチリー・パークでは1920年代から日本の暗号解読が行われていた。当初は日本海軍セクションがブレッチリー・パーク近くのエルマー・スクールに設置。1942年9月にパーク内へと移り、1943年2月にはハット7に拠点が置かれるようになった。

ヒュー・フォス率いるハット7と、ジョン・ティルトマン率いる軍事セクションで日本の暗号解読作業が進められたが、1943年9月にイタリアが降伏した後は、日本セクションが大幅に拡大。より大きなブロックFへ移動した。ブロックFには多くのセクションが設けられたうえ、更に細分化されていたため、別のセクションで何が行われているのかは全く分からなかったという。

長い廊下が続くブロックFは、ビルマから中国南西部まで717マイル(約1150キロ)にわたって伸びる英国軍の供給路になぞらえて、「ビルマ・ロード」と呼ばれていた。なお、ブレッチリー・パークには現在も複数のハットやブロックが残り、内部が見学できるようになっているが、ハット7、ブロックFはともに取り壊されている。

Bletchley Park
ブレッチリー・パーク

Bletchley Park ブレッチリー・パーク

1938年から1946年まで政府暗号学校が置かれたブレッチリー・パーク。長官のオフィスなどが置かれた豪奢な邸宅「マンション」を始め、ナチス・ドイツの暗号機「エニグマ」や、エニグマ暗号を解読する「ボム(Bombe)」のレプリカなどが展示されているミュージアム、アラン・チューリングら暗号解読者らが働いていた「ハット」などを見学できる。

9:30-17:00(10月31日まで。11月1日からは16:00まで)
£17.75(1年有効)
Sherwood Drive, Bletchley, Milton Keynes MK3 6EB
Tel: 01908 640404
Bletchley Park駅
https://bletchleypark.org.uk


[参考文献]
  • 「戦中ロンドン日本語学校」(中公新書)大庭 定男著
  • 「The Debs of Bletchley Park and Other Stories」Michael Smith著
  • The Bletchley Park Trust Reports「Japanese Codes」Sue Jarvis著
  • Dulwich Boys and Beyond: 100 Years of Japanese Studies at SOAS (Recording)
  • Bletchley Park, Podcast 56: Enter Japan など
 

戦時中の英国で日本語を学んだ若者たち
ダリッジ・ボーイズとSOASのブレッチリー・ガールズ

ダリッジ・ボーイズとSOASのブレッチリー・ガールズ

左)戦時中にSOASの日本語特別コースで学んだ生徒たち
右)SOASで日本語を学んだ7人の
ブレッチリー・ガールズ

ロンドン中心部、ブルームズベリー。20世紀初めには作家バージニア・ウルフや経済学者ジョン・メイナード・ケインズら芸術家や学者たちが集ったこの地区に、英国における日本語教育を先導するロンドン大学SOAS(東洋アフリカ研究学院)がある。

昨年、日本研究開始100周年を迎えた同大学は、現在も多くの日本研究者や日本語話者を輩出していることでその名を馳せているが、ここで第二次大戦中に敵国である日本の言語を学んだ若者たちがいたことは、あまり知られていないのではないだろうか。

今回は、ロンドン南東部にあるパブリック・スクール、ダリッジ・カレッジに居を構え、SOAS に通って日本語を習得した若者たち、通称「ダリッジ・ボーイズ」と、同じくSOAS で日本語を短期集中で学んだ後に政府暗号学校ブレッチリー・パークに勤務した「SOASのブレッチリー・ガールズ」を中心に、戦時中の英国における日本語教育と、現在に続く日英交流の萌芽を見ていきたい。

[取材協力]
  • バーバラ・ピッツィコーニさん
  • SOAS, Japan and Korea Section, Department of East Asian Languages and Culture Reader in Applied Japanese Linguistics
    1996年よりSOASで日本語、日本語教授法、日本語学などを教える。2014年〜17年には Head of the Japan & Korea, China & Inner Asia departmentsも務める。
  • Bletchley Park

戦後の日英関係の架け橋に
ダリッジ・ボーイズと
日本語特別コースの若者たち

2016年2月1日、ロンドン大学SOAS(東洋アフリカ研究学院)で日本研究開始100周年を記念し、「ダリッジ・ボーイズとその後」と題したイベントが行われた。1942年から43年にかけてSOASで日本語を学んだ30人の若者たち、通称「ダリッジ・ボーイズ」。彼らから始まった戦時中の日本語特別コースは、日本語を理解する情報将校たちを育成するだけでなく、戦後の日英関係を支える礎となる人材を生み出すこととなった。

火急を要する日本語要員の確保

ダリッジ・ボーイズについて語る前に、まずは戦前の英国における日本語教育について簡単にたどってみよう。1903年、ロンドンに英国初となる日本語学校が設立された。高等教育機関では、1917年、SOAS(当初は東洋研究所(The School of Oriental Studies))に日本学科が開設されたのが始まりである。講師はたったの2人。元々、小規模ではあったが、特に日英同盟が1923年に失効した後は生徒数も減り、1936年から41年にかけては12、17、15、6、5人という有様だった。その風向きが変わったのが1941年の太平洋戦争勃発後。日本を含む枢軸国側と、英米など連合国側が戦ったこの戦争で、日本軍が1941年12月に英領マレー半島北部に上陸、同半島を縦断し、翌年2月にシンガポールを占領するに至って、英国防省は日本語要員の不足を痛感するようになる。

SOASで行われた日本語特訓

1942年5月、それまでも国防省や外務省に日本語教育の必要性を訴え続けてきたSOASに、日本語特別コースが設立された。できるだけ早く日本語要員を前線に送る必要があったため、6カ月~20カ月という短期集中型。1942年から1947年まで続き、計648人が巣立っていった。同コースは主に5つに大別される。

政府給費生コース

シックス・フォーム(高等教育進学準備課程)で学ぶ17~18歳の学生を対象としたもので、期間は20カ月。30人の生徒が日本語の読み書き全般を網羅した後、軍隊用語を学んだ。

訊問官養成コース

戦場における俘虜の取り調べを行う訊問官を養成するためのコースで、聞き取り、会話の特訓が中心。期間は約13~20カ月。大学を卒業し、語学に素養のある軍人の中から選抜された。

翻訳官養成コース

日本軍から接収した文書などを読む翻訳官を養成するためのコースで、読み書きを中心に学ぶ。期間は15カ月。陸・海軍から選抜。

翻訳官短期養成コース

6カ月、または9カ月で文語及び軍隊用語を集中的に学ぶ短期コース。

軍総合コース

訊問官養成コース、翻訳官養成コースがそれぞれ会話と読み書きに特化した内容だったため、前線でもう片方の任務を行うことができないなどの問題が発生。これを受けて1944年に総合コースがつくられた。期間は約18カ月。

①から⑤のうち、最初に始まった政府給費生コースは、他のコースが軍人対象だったのに比べて学生対象だったこともあり、カリキュラムも比較的余裕があり、長期休暇もあったという。彼らはロンドン南東部にあるパブリック・スクール「ダリッジ・カレッジ」を寄宿舎として使用していたため、「ダリッジ・ボーイズ」と呼ばれるようになった。次は、このダリッジ・ボーイズがどのような日々を送っていたのか、見てみよう。

現在のダリッジ・カレッジ現在のダリッジ・カレッジ

ダリッジ・ボーイズの生活

ダリッジ・ボーイズは、語学に才のあるシックス・フォーマーたちだった。パブリック・スクール(名門私立校)やグラマー・スクール(公立選抜校)に通う、比較的裕福な家庭出身で、ラテン語やギリシャ語、ドイツ語など、別の言語を習得していた若者が集められた。ボーイズの一人、ロナルド・ドーアによると、クラスはいわゆるエリートが集うパブリック・スクール出身の生徒たちと、グラマー・スクールで学んだ生徒たちというように自然と二分されたという。英国の階級制度が、わずか30人のクラスにも反映されていたわけだ。

当然のことながら、カリキュラムはかなり厳しいものだった。生徒たちは、ダリッジ・カレッジから列車とバスを乗り継いで、当初はバッキンガム宮殿近くに位置していたSOASへ通学(コース途中でブルームズベリー地区へ移転したと見られる)。授業は月曜日から金曜日の間、午前が9時から12時まで、午後が2時から5時までで、宿題もあった。ただし、週2回は日本関連の講演に出席したり、日本映画を鑑賞する機会も設けられるなど、言語学習のみに限定せず、日本全般の知識を得られるよう、工夫がなされていたようだ。

それでは日本語学習はどのように行われたのだろう。大まかに区切ると、①ローマ字を使って日本語の初期会話を学び、簡単な翻訳や、蓄音機を使った発音練習などを行う、②話し方や書き方の実践的な訓練を受け、基本的な単語や重要な漢字を覚える、③「ナリ調」と呼ばれた軍隊特有の文体を習得する、④日本軍が実際に使用した公文書などを教材とし、集大成とする、という流れだったらしい。

日本語の辞書
日本語教材
日本語教材1945年から1947年にかけてSOASで日本語を学んだレズリー・フィリップスさんが使用していた日本語教材の数々

当時の教材を見てみると、我々日本人にとっても難解な漢字がずらりと並び、草書まで学んでいたことが分かる。いかに語学力に秀でた若者たちだったとはいえ、これだけの知識を身に着けるのは、並大抵の努力では成し得なかっただろう。そしてその目標達成のために大きな支えとなったのが、個性豊かな教官陣の存在だったのである。

個性豊かな教官たち

この戦時中の日本語特別コースが始まるまで、講師がわずか2人しかいなかったというSOASだったが、コースが開始されてから終了するまで、若者たちを教えた教官の数は合計39人。その中には英国人のみならず、在英邦人やカナダ軍から派遣された日系二世、そしてコースで学んだ後に教官として戻ってきた者などがいた。

教官陣の中心的存在だったのが、日本語主任講師だったフランク・ダニエルズ。駐日英国大使館で海軍武官として勤務した後に、日本の学校で英語講師として働いた経歴を持つダニエルズは、日本人の妻おとめとともに、熱心に生徒たちを教えた。そしてコースの精神的支柱だったと考えられるのが、ピゴット少将(フランシス・スチュワート・ギルデロイ・ピゴット)である。弁護士の父とともに日本に滞在したことのあるピゴットは、陸軍将校時代には日本陸軍との交換留学制度で日本に滞在し、その後も駐日武官としてたびたび訪日。日英同盟の終焉時には日本の立場を慮る発言を行うなど親日家だったピゴットは、引退後に軍とSOASから要請を受け、翻訳コースの主任として活動した。

蓄音機を使った発音練習などを行う上で大切なのは、正確な発音で日本語を話す人材。聞く、話す上で大きな力となったと思われるのが、在英邦人や二世たちだった。松川梅賢と簗田銓次(やなだせんじ)という2人の日本人新聞記者や、戦後はBBC日本語放送のアナウンサーとして活躍した伊藤愛子(愛子クラーク)、英国駐留カナダ軍の二世4人など、教職以外の様々な バックグラウンドを持つ人々が、この特別コースを支えた。母国や愛する国が敵となり、そんな中で英国人に日本語を教えるという複雑な環境下、悩むこともあったようだが、そんな彼らが言語のみならず、日本人の精神性や日本文化を真摯に伝えたことが、若き生徒たちの後々の将来を左右することになる。

戦場でのコース修了生たち

日本語特別コース修了後、ダリッジ・ボーイズは陸・海・空軍のいずれかに配属され、他コース出身者は所属する部隊へと戻った。彼らは情報将校としての訓練を受けてインドへ。その後、インドやビルマ(ミャンマー)などで訊問官や翻訳官としての任務を遂行した。

戦場では訊問官は日本軍の俘虜に訊問を行って情報を収集し、翻訳官は俘虜から得た作戦命令や訓示、メモや日記などを翻訳する日々を送った。訊問官養成コースまたは翻訳官養成コースで学んだ者は、日本語能力に偏りがあったため、臨機応変な対応が求められる現場に混乱が生じることもあったという。しかし、戦時中の情報収集に加え、終戦直後には東南アジア各地における日本軍との連絡業務や日本人の内地送還などに従事。日本で進駐軍に参加する者も多く、日本語の知識を生かして任務にまい進していた様がうかがえる。

連合国側の勝利に貢献した彼らの真価はしかし、戦後に発揮されることになった。彼らの多くが戦後も日本語、そして日本への興味と愛着を持ち続け、言語や文化、歴史の専門家として活躍。また、学界にとどまらず、官界や財界にも活動の場を広げていったのである。

学界や官界、財界で大活躍

ピーター・パーカー
ピーター・パーカー

毎年、ロンドンで開催されている「ビジネス日本語スピーチ・コンテスト」と言えば、英国で日本語を学ぶビジネスマンたちの目標の一つ。コンテストの正式名称「Sir Peter Parker Awards for Spoken Business Japanese」にその名が冠されているピーター・パーカーは、ダリッジ・ボーイズのリーダー的存在だった。陸軍で少佐にまで昇進。除隊後はオックスフォード大学で学び、いくつかの企業や組織を経て、英国国鉄の総裁となった。欧州三菱電機の会長としても活躍。日本関連のプロジェクトに多数か かわり、1986年には調査報告書「未来に向けて-アジア・アフリカ言語及び地域研究に対する英国外交・通商上の要請に関する一考察」、通称パーカー・レポートを作成、日本研究及び日本語教育の拡大を訴えた。

もう一人のダリッジ・ボーイズ、ロナルド・ドーアはコース修了後、軍で基礎訓練を受けているときに病気になり、そのままSOASに残って講師となった。終戦後にロンドン大学を優秀な成績で卒業。SOASやロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で社会学の教授を務めたほか、国内外の様々な大学で客員教授やフェローとして研究を続け、日本経済を専門とする社会学者として高い知名度を誇っている。

ヒュー・コータッツィは、訊問官養成コースでドーアに日本語を学んだ。外務省入省後、複数回の東京赴任を経て、駐日英国大使に就任。長年にわたる日本滞在時に、英国と日本各地の関係を研究し、複数の著作を発表した。また、随筆や論文なども数多く手掛けている。

このほかにも、能研究で知られるパトリック・オニールや、「宇治拾遺物語」の翻訳などを行った日本中世文学の研究者ダグラス・ミルズなど、日本と英国の架け橋となるべく将来を捧げた人物は枚挙にいとまがない。

冒頭で紹介した、2016年にSOASで行われたイベント、「ダリッジ・ボーイズとその後」には、当日91歳の誕生日を迎えたロナルド・ドーアと、その教え子ヒュー・コータッツィの姿があった。戦時中、敵国の言葉を学んでいたのに、なぜ日本に対する敬意を持っているのかと聞かれたドーアは、「簡単だ、なぜなら私たちは女性から日本語を学んだからね」と冗談を挟みつつ、こう答えた。「教師たちの使命は我々に日本語を教えることだった、だが同時に彼らは自分たちの文化に誇りを持っており、自信にあふれていた。彼らが持っていた敬意が私たちにも伝わっていったのだ」と。教材にも事欠く戦時中、敵国に打ち勝つために短期間で集中的に組まれた日本語特別 コースで学ぶ毎日。しかし、教師たちの日本に対する愛情と敬意の糸は、縒り合わされ、太い絆となって生徒たちへとつながり、やがて戦後、そして現在の日本と英国を結ぶようになったのだ。


[参考文献]
  • 「戦中ロンドン日本語学校」(中公新書)大庭 定男著
  • 「The Debs of Bletchley Park and Other Stories」Michael Smith著
  • The Bletchley Park Trust Reports「Japanese Codes」Sue Jarvis著
  • Dulwich Boys and Beyond: 100 Years of Japanese Studies at SOAS (Recording)
  • Bletchley Park, Podcast 56: Enter Japan など
 

映画は言葉ではなく、身体表現
映画監督 熊切和嘉さん

熊切和嘉さん

Kazuyoshi Kumakiri
1974年、北海道帯広市生まれ。大阪芸術大学芸術学部映像学科卒業。卒業制作「鬼畜大宴会」が第20回ぴあフィルムフェスティバルで準グランプリを受賞。第28回イタリア・タオルミナ国際映画祭グランプリに輝き、一躍注目を浴びる。その後も第60回ベネチア国際映画祭コントロコレンテ部門(コンペティション)で話題となった「アンテナ」など次々と話題作を発表。2014年には、モスクワ国際映画祭で、「私の男」が最優秀作品賞を受賞した。同年12月より1年間、文化庁新進芸術家海外研修制度にてパリに留学。2017年、第25回レインダンス・フィルム・フェスティバルでは、最新作の「武曲 MUKOKU」が長編コンペ部門の最優秀作品賞、そして最優秀監督賞にノミネートされている。

今回、レインダンス・フィルム・フェスティバルでは最新作の「武曲 MUKOKU」が長編コンペ部門の最優秀作品賞と最優秀監督賞にノミネートされています。ただ、次回作の準備でお忙しいため、ロンドンへはいらっしゃることができないとお聞きしました。

このたびは現地へ行くことができず、本当に申し訳ありません。レインダンスへはとても行きたかったのですが、スケジュールの都合がどうしてもつかず、無念です。今は秋から冬にかけ撮影する作品の準備に追われています。それは映画ではなく連続ドラマで、内容は冤罪事件をテーマにしたものです。

本フェスティバルでは2回にわたり「武曲 MUKOKU」が上映されますが、ロンドンの観客にはどのようにこの作品を観てほしい、また、こんな人に観てもらいたいという希望はありますか。

主人公たちが時折、口にする「己を斬る」という言葉――これはなかなか英語でそのニュアンスを伝えることが難しい言葉だと思うのですが、それは詰まるところ「己と向き合う」「自分の弱さと向き合う」といった意味合いです。このように「武曲 MUKOKU」の中では様々な「剣」や「禅」にまつわる言葉が出てきますが、それらを理屈ではなく、心で素直に感じてもらえれば、きっと国境を越えて伝わるものがあるのではないかと信じております。

2014年には文化庁の研修制度で1年間パリに留学されたそうですが、パリではどんな体験をされましたか。また、この留学が「武曲 MUKOKU」を作る上で何か影響を与えていますか。

パリ留学中は主に脚本の執筆をしていたのですが、その合間に2カ月間、黒沢清監督がパリで撮影した「ダゲレオタイプの女」の現場にメイキング・ディレクターとして参加しました。そのほかは、とにかくシネマテークや名画座に通って映画ばかり観ていました。特に、シネマテークではちょうどバスター・キートン*の特集上映が行われていて、それに通えたことは自分にとってとても大きかったです。映画は言葉ではなく、「アクション」「身体表現」だ、と改めて感じ、その思いを自分なりに形にしたのが「武曲 MUKOKU」なのです。

*20世紀初頭、サイレント時代の米喜劇俳優。表情を一切変えず、体を張ったアクションとギャグが持ち味

藤沢周さんの小説「武曲」を映画化しようと思ったきっかけは何だったのでしょう。

かつて日本には「剣戟(けんげき)」(俗に言う、チャンバラ映画)と呼ばれるジャンル映画が量産されていました。例えば三隅研次監督と市川雷蔵が組んだ「剣」三部作や、同監督が勝新太郎と組んだ「座頭市」シリーズ、それから黒澤明監督の「用心棒」や「椿三十郎」などもそうです。それを現代によみがえらせるということに、映画人としてこの上ない興奮を覚えました。

また、そこに描かれている父と子の物語は個人的に非常に強く共感できましたし、テーマ性――まさしく「自分と向き合う」ことこそ、今の時代に必要なのではないかと強く感じ、自分の手で映画化したいと思いました。

「武曲 MUKOKU」で描かれている剣道とラップは、意外な組み合わせでありながら、どちらも身体と精神をとことんまで突き詰めるような、一種の即興アートではないかと思います。熊切監督ご自身は、何かスポーツあるいは音楽演奏をなさいますか。

スポーツは子供のころから野球とアイスホッケーをやっていましたが、もう20年以上、全くやっていません。「武曲 MUKOKU」の準備に入る前、脚本家と一緒に剣道にも挑戦しましたが、身体が言うことを聞かず、半日で挫折しました。また、音楽も大好きですが、自分では家で暇つぶしにギターをいじるくらいです。今はとにかく自分のイメージを、自分の身体ではなく、俳優の身体を使って表現することに悦びを感じます。

最後に、今回のフェスティバルで「武曲 MUKOKU」を観ようと考えている弊誌読者に何かメッセージをいただけますか。

「剣」と「禅」をテーマにした映画ですので、一見とっつきにくく感じるところもあるかもしれませんが、私としてはあくまで映画的に、ある種の活劇性を重視して描いた作品ですので、素直に全身で楽しんでいただけたら幸いです。

「武曲 MUKOKU」

監督: 熊切和嘉 
出演: 綾野剛、村上虹郎、前田敦子、小林薫、柄本明、風吹ジュンほか 
(2016年、125分、英語字幕付き)

芥川賞作家・藤沢周の小説「武曲」が原作。羽田融(村上虹郎)はヒップホップに夢中な高校2年生。あるとき友人に剣道の道場に引っ張っていかれた融は、渋々竹刀を握る。同校剣道部のコーチを務める矢田部研吾(綾野剛)は、融の中に自分の父(小林薫)と同じ天賊の才能を見い出す。

レインダンス・フィルム・フェスティバルで上映

9月20日~10月1日にロンドンで開催の、レインダンス・フィルム・フェスティバル。インディペンデント作品の発掘に力を入れる同フェスティバルで上映される「武曲 MUKOKU」のスケジュールは下記の通り。30日は上映後、星野秀樹プロデューサーによるQ&Aあり。

2017年9月23日(土)18:30 、30日(土) 12:30
料金: £13
会場: Vue West End
住所: 3 Cranbourn Street, London WC2H 7AL
最寄駅: Leicester Square
www.raindance.org/festival

 
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