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Sun, 01 February 2026

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ロンドンで観るHiroshige - 広重の描いた江戸末期の日本

ロンドンで観るHiroshige広重の描いた江戸末期の日本

木曽海道六十九次之内 洗馬木曽海道六十九次之内 洗馬 1830年代後半

ロンドンの大英博物館で5月1日から、江戸時代の浮世絵師である歌川広重の作品を中心に紹介する「Hiroshige artist of the open road」が開催される。日本美術に関してはその所蔵品の多さで定評のある同博物館が、2019年のマンガ展以降、久々に放つ大規模な日本美術展だ。今回は、広重作品の特徴や広重が欧州に与えた影響について紹介するほか、本展覧会のキュレーターであるアルフレッド・ハフト博士に、英国における広重の人気の秘密などについてお話を伺った。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.britishmuseum.orghttps://intojapanwaraku.comwww.hiroshige-tendo.jphttps://tokaido-hiroshige.jp ほか

Information

Hiroshige artist of the open road 2025年5月1日(木)~9月7日(日)
10:00-17:00(金は20:30まで)
£18~20
※6月30日(月)~7月4日(金)は作品入れ替えのためエキシビションは閉鎖

The British Museum
Room 35, Great Russel Street, London WC1B 3DG
Tel: 020 7323 8000
Tottenham Court Road/Holborn/Russel Square駅
www.britishmuseum.org

歌川広重
うたがわ・ひろしげ (1797~1858年)

「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などで知られる、江戸時代後期の浮世絵師。江戸の町人文化と情緒あふれる風景表現を融合させた独自の画風で人気を博し、葛飾北斎と並び称される存在である。本名は安藤重右衛門。幼くして両親を亡くし、幕府の定火消同心の職を継いだが、絵への情熱を捨てきれず歌川豊広に入門。やがて浮世絵師として独立し、特に旅情や季節感を巧みにとらえた風景画で名声を得た。代表作「東海道五十三次」が版行されたのは1833年、広重30代半ばのころで、以後同シリーズをはじめとする風景画の名手として不動の地位を築く。56年には仏門に入り「一幽斎廣重」と号したが、その創作意欲は衰えず、死の直前まで絵筆を執っていた。58年、江戸でコレラが流行するなか、その病により死去。享年62*。広重の作品は幕末期から早くも海外に渡り、ジャポニスムの潮流のなかで印象派の画家たちに大きな影響を与えたことで、後世にその名を刻んでいる。

*広重の年齢は、数え年(生まれた年を1歳と数え、その後1月1日を迎えるごとに年をとる)で表示

消防士から浮世絵師に

広重は寛政9年(1797年)、江戸の八代洲河岸(現代の八重洲)に、定火消同心である安藤源右衛門の長男として誕生。定火消同心とは火消し、つまり幕府直轄の消防組織のことで、町人に限りなく近い下級武士の家庭だった。文化6年(1809年)に母を亡くし、父が隠居したことから、13歳で広重が火消同心の職を継ぐ。だが同年のうちに父も死去。幼いころから絵のうまかった広重は、これを機に絵師になることを決意し、歌川豊国の門に入ろうとする。しかし、役者絵や美人画で当時絶大な人気を誇っていた豊国の門は満員。やむを得ず、同じ歌川一門の豊広の門下生となる。豊広は人物画の多い歌川一門の中で風景画を多く手がけていた人物であり、これが後に「風景画家」広重の重要な素地となった。

定火消同心と浮世絵師という二足のわらじを続けていた広重だが、親戚の子どもが成人したことから家督を譲り、天保3年(1832年)に絵師として独立。豊広の門下となってから20年が経過しており、広重は30代半ばに達していた。だが広重の才能が開花するのはここからだ。翌年に発表した「東海道五十三次」シリーズが庶民の間で大ヒットとなった。

日本橋 東海道五十三次之内 朝之景 1833~35年ごろ日本橋 東海道五十三次之内 朝之景 1833~35年ごろ

旅行ブームと東海道五十三次

江戸時代中期以降、平和な時代が続き経済が発展し交通網が整備されたことから、庶民の間で旅行が楽しまれるようになった。特に人気だったのは、伊勢参りや善光寺詣で、金毘羅詣でなどの神社仏閣の参拝を名目としたもの。なかでも江戸と京都を結ぶ主要街道である東海道は、風光明媚な名所旧跡が多く点在しており、旅のルートとして非常に人気が高かった。街道沿いの宿場町はにぎわい、旅人のための名所案内の書物も盛んに出版された。

広重が1833年(天保4年)に発表した東海道五十三次シリーズも、まさにそうした旅行熱の高まりに応える形で生まれた。江戸の日本橋から京都の三条大橋まで東海道の全宿場を描いたこのシリーズは、現地に行った人にとっては旅の思い出として、行けない人にとっては旅の疑似体験ができるものとして人気を集めた。つまり、現代の絵葉書に似た機能を果たしていたのだ。出版を手掛けた保永堂は、こうした旅行ブームに乗る形で、庶民の興味を引く旅情豊かな作品群として広重のシリーズを大量に販売した。版画の利点は同じデザインを何枚も刷れることで、作品が手軽に購入できるのも人気の一つだった。

東都両国遊船之図 1832~4年東都両国遊船之図 1832~4年

六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波 1855年六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波 1855年

武陽金沢八勝夜景(雪月花之内 月) 1857年武陽金沢八勝夜景(雪月花之内 月) 1857年

詩情と記録が共存する名所江戸百景

広重の晩年の代表作である「名所江戸百景」は、安政3年(1856年)から翌年にかけて刊行された風景版画シリーズで、目録1点を含む全119点からなり、江戸の四季と名所を巡るように構成されている。このシリーズが特に評価されるのは、写実的な風景描写にとどまらず、広重ならではの詩情あふれる視点にある。例えば、「深川木場」の雪に沈む深川の町並みなど、単なる名所紹介ではなく、季節感や光の移ろいや人々の営みまでもが静かに語られる。

一方でこのシリーズは、江戸という都市が大きく変貌しようとしていた時代の記録画としての価値も持っている。安政の大地震(1855年)の直後に制作されたこともあり、「市中繁栄七夕祭」や「千駄木団子坂花屋敷」などで復興中の町や焼け跡を含む場所もあえて描かれている。度重なる大火に見舞われた江戸にあって、元定火消同心だった広重は、町の復興に敏感だったとされている。また、幕末の不安定な政情や海外との開国交渉が進むなかで、これまで続いてきた江戸の町が失われるかもしれない時代。そうしたなかで、広重は変わりゆく江戸の景色を積極的に意識的にとどめようとしたのではないかともいわれている。詩情と記録性という、一見相反する要素が共存しているのが名所江戸百景シリーズの魅力であり、現代においては芸術作品というだけではなく、文化的、歴史的資料としても見ることができる。

「紫苑に鶴」、「満月に雁」、「菊に雉」 全て1830年代初期左から「紫苑に鶴」、「満月に雁」、「菊に雉」 全て1830年代初期

隅田堤闇夜の桜 1847~8年隅田堤闇夜の桜 1847~8年

ゴッホが模写した広重作品

広重は名所江戸百景のシリーズを完成させることなく、安政5年(1858年)に当時流行していたコレラにより62歳で死去する。辞世の句は「東路あずまじへ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん」(江戸に筆を残して、死後は西方浄土の名所巡りをしてみたい)だった。広重が亡くなる3カ月前に日本と米国の間で修好通商条約が締結され、横浜や長崎などが開港。関税自主権の放棄によってインフレが起き、民衆の不満が高まるなど、国内は幕末の動乱期に突入していった。その一方で開国は、日本の産業や文化が広く西欧に紹介される機会でもあった。海を渡った浮世絵は「庶民が楽しむための斬新な構図を持つ高品質なフルカラーの印刷物」と欧州の人々に驚きと称賛をもって迎えられたという。特に広重や北斎の浮世絵に使われた鮮やかな青色は、「広重ブルー」「北斎ブルー」と称された。

広重に特に大きな影響を受けたのが、新しい絵画表現を模索していた欧州の芸術家たちだった。印象派の画家クロード・モネや、後期印象派の画家ヴァン・ゴッホ、さらにジェームズ・マクニール・ホイッスラーなどが熱心な浮世絵ファンであったことはよく知られている。ヴァン・ゴッホは構図を研究するだけではなく、名所江戸百景の「亀戸梅屋舗」や「大はしあたけの夕立」を実際に模写している。広重の描く風景は必ずしも写実ではなく、むしろ美しい瞬間を捉えた理想化された姿だった。現実の旅とは異なる点も、その魅力の一つだったといえる。開国後、浮世絵は文明開化に伴った西洋文化、戦争といったジャンルを扱い、文部省も教育目的の浮世絵を刊行しはじめた。やがて写真の台頭とも重なり、江戸庶民の愛したかつてのような浮世絵は終焉を迎えることになった。

名所江戸百景 亀戸梅屋舗 1857年名所江戸百景 亀戸梅屋舗 1857年

しかし江戸末期の日本を描き出した広重の影響は今も途絶えることはない。今回の展覧会では、ゴッホやホイッスラーの作品をはじめ、英国の現代アーティストであるジュリアン・オピーやエミリー・オールチャーチによるオマージュ作品も併せて展示。広重の風景は時代や場所を越え、なお新しい息吹を吹き込まれているのだ。

歌川広重とその時代に関する年表
1797年 歌川広重が江戸に誕生
1801年 【英国】グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国が成立
1811年 広重が定火消同心となる
1812年 歌川豊広に入門
1815年 【英国】ワーテルローの戦い
1820年 広重が本格的に浮世絵を発表し始める
1831年 葛飾北斎が「冨嶽三十六景」を刊行
1833年 広重「東海道五十三次」を刊行
1837年 【英国】ヴィクトリア女王が即位
1844年 広重「六十余州名所図会」を刊行
1849年 北斎が死去(90歳)。弘化の大火発生
1851年 【英国】ロンドンで万国博覧会が開催
1853年 ペリーが浦賀に来航
1854年 日英和親条約締結
1855年 安政の大地震
1856年 広重「名所江戸百景」を刊行開始
1858年 広重が62歳でコレラにより死去。 日米修好通商条約が締結

interview
江戸時代の人たちが感じていた自然や空気感広重展キュレーター:アルフレッド・ハフト博士

東海道秋月 武州神奈川台之図 1839年ごろ東海道秋月 武州神奈川台之図 1839年ごろ

今回、大英博物館の広重展キュレーターを務めるのは、同館の日本コレクションにかかわっているアルフレッド・ハフト博士(Dr. Alfred Haft)。広重の寄贈コレクションや、広重作品の魅力などについてお話を伺った。

Dr. Alfred Haft アルフレッド・ハフト博士 Dr. Alfred Haft

大英博物館の日本コレクションにおけるJTIプロジェクト・キュレーターであり、本展の主任キュレーター。研究テーマは日本の版画および版画史。主な著作には、「Hiroshige Artist of the open road」(2025年)、「Capturing Nature」(「Salon Culture in Japan」所収、2024年)、「Hokusai and Obuse: A Study of Cultural Mobility during the Late Edo Perio」(「Late Hokusai: Society, Thought, Technique, Legacy」所収、2023年)、「Utamaro and the Culture of the Floating World」(「Studies from Nature」所収、2019年)、および「Aesthetic Strategies of the Floating World」(2012年)がある。

─ 広重コレクターのアラン・メドー氏と、本展覧会との関係についてお聞かせください。

今回の展覧会は、1989年に設立された大英博物館の「米国友の会」(American Friends of the British Museum)に広重の版画35点をアラン・メドー氏(Alan Medaugh)が寄贈したことがきっかけで開催されることになりました。米国の広重コレクターであるメドー氏は、50年以上にわたって広重の作品だけを集めています。ご本人がじっくり研究を重ねながら、本当に質の高い作品ばかりを選び抜いてきたものばかりです。今回の寄贈作品には、美人画の三部作のほか、自然をテーマにしたものや団扇絵などが含まれています。

さらに、メドー氏はこの展覧会のために追加で82点もの作品を貸し出してくださったのですが、その多くは当館での公開が今回初めてとなります。なかには、世界に1点しか現存しないと考えられるものや、同じデザインの版画の中でも最高品質と評価されるものもあって、とても貴重な機会になっています。

─ 広重の作品の魅力は何だと思いますか。ほかの浮世絵師と異なる点についてお聞かせください。

広重の作品は、見ているだけでホッとするような安心感があると思います。それでいて、すごく心に響くものがある。広重の風景画の特徴は、そこに生きる人々と自然が調和しており、全体のバランスがとても良いこと。それに、雨が降りしきる様子や、霧に包まれたうっすらした月明かりのような、ちょっとした空気の変化をとらえるのが本当にうまくて素晴らしいです。また広重の作品には、ほかの浮世絵のような派手な演出や過剰なデフォルメがない代わりに、「日常を大切にする」という感覚があります。江戸の名所を描いても、あまり知られていない田舎の風景を描いても、どこか親しみが湧くのはそうした視点のおかげかもしれませんね。

─ 今回の展覧会のタイトルでもある「Hiroshige artist of the open road」の open road(開かれた道)は何を指しているのでしょう。

まず普通に考えると、「open road」は広重の代表的なテーマである東海道や、江戸時代の街道沿いの風景を指していることになるでしょう。でもそれだけではなくて、広重の作品に流れている「開かれた、包み込むような視点」も表しています。広重の風景画には、旅人や地元の人々、身分の違う人々が自然と共存していて、どこか時間がゆったり流れているような雰囲気があります。これは、当時の大都会である江戸を描いた作品でも同じことがいえます。広重は、せわしない日常の中のちょっとした静けさや落ち着きを見つけるのが本当にうまいと思います。広重の作品を見ていると、「忙しい都市の中にも、ふと気を抜ける瞬間があるんだな」と思わされますね。

─ 広重の作品に対して、個人的に特別な思いや思い出などがありましたら、お聞かせください。

繰り返しになるかもしれませんが、広重の作品はただ美しいだけじゃなくて、どこか記憶に残るものがあるんですよね。私自身、ある時間帯や天気の中で歩いていると、ふと「今の景色、広重の絵みたいだな」と思うことがあります。広重の描く風景って、すごくリアルといいますか、どの時代、どの場所にも共通する「何か」があるんですよ。だからこそ、見る人それぞれの経験や感覚と結びついて、より特別なものに感じられるのだと思います。

─ キュレーターとして、今回の展覧会の見どころを教えていただけますか。

今回の展示には、世界的にも最高クラスとされる広重の版画や、唯一現存する貴重な作品が並んでいます。例えば、「名所江戸百景」(1856~58年)の「飛鳥山北の眺望」や「吾妻橋金龍山遠望」は、広重の晩年の傑作として知られていますし、今回の展示でも重要な作品です。また、団扇絵の「東海道秋月 武州神奈川台之図」や「東海道晴嵐 三遠大井川之図」は、広重の風景表現の巧みさを感じられる作品で、個人的にもぜひ注目してほしい作品ですね。

それから、先ほども申しましたが広重の風景画も見どころの一つです。広重の作品には、当時の人々が感じていた「自然と詩のつながり」が表れていて、ただの風景画ではなく、そこに流れる感情や空気感まで伝わってくるのです。展示を通して、その魅力をじっくり感じてもらえたらうれしいですね。


 

時代区分から知る: 激動と変革のスチュアート朝時代

時代区分から知る 激動と変革のなかで スチュアート朝時代の英国

スチュアート朝時代は、政治的には王政と共和制の交替、名誉革命による立憲君主制の確立といった大きな変化があり、社会的にはペストやロンドン大火などの災害にも見舞われた。一方で、科学や文化の発展も著しく、アイザック・ニュートンの業績や、ロンドンの再建、劇場文化の復活など、近代への礎が築かれた時代でもあった。今回は激動のスチュアート朝時代を紹介する。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: https://walk.happily.nagoya/tag/stuartwww.english-heritage.org.uk/learn/story-of-england/stuartshttps://stuarts-online.com、 「イギリス社会史 1580-1680」キース・ライトソン著 ちくま学芸文庫、「ピューリタン 近代化の精神構造」大木英夫著 中公新書 ほか

バンケティング・ハウス前で行われたチャールズ1世の公開処刑の様子を描いたドイツの銅版画バンケティング・ハウス前で行われたチャールズ1世の公開処刑の様子を描いたドイツの銅版画

スチュアート朝時代とは

スチュアート朝時代(Stuart Era 1603~49年、1660~1707年)はチューダー朝時代に続く約100年を指す。スチュアート朝時代の名前の由来は、14世紀から続くスコットランド王家の姓から。1603年にスコットランド王のジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世を兼ねることで、イングランドとスコットランド両国を統治するスチュアート朝が成立した。以降、国王の処刑、共和制への移行、疫病、大火、革命、王政復古とドラマチックな出来事の連続だった。また、清教徒革命や名誉革命といった国王と議会の権力争いは、結果的に立憲君主制と議会主権が確立したため、現在の英国の国の形を決めた時代ともいえる。

*「Stewart」はスコットランドのつづりだが、フランス宮廷で育ったメアリー・スチュアート(Mary, Queen of Scots)がフランス風に「Stuart」とつづったため、以後この表記が定着

英国の時代区分

スチュアート朝時代という111年

目まぐるしく権力が変遷したスチュアート朝時代を、政治を中心に社会、文化の側面から光を当てる。

政治

王権神授説

1603年、エリザベス1世(在位1558-1603年)の死去により、スコットランド王のジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイングランド王位を継承。イングランドとスコットランド、アイルランドは同じ君主のもとに統治されることになった。当時のイングランドはフランスなどの欧州大陸の絶対王政とは異なり議会が一定の力を持っており、国王が統治を行うにあたり、議会の承認が必要とされる慣習があった。また、1215年に制定されたマグナ・カルタ(大憲章)によって、国王の権力には一定の制限が設けられるべきだという意識もイングランドに根付いていた。しかし、ジェームズ1世はこの伝統を軽視し、スコットランド国王としての統治経験をもとに、王権神授説に基づく強力な君主権を主張。「君主の権力は神から授けられたものであり、議会の制約を受けるものではない」とする考え方は、従来のイングランドにおける国王と議会の関係と相容れず、たびたび対立を引き起こした。

13世紀に制定されたマグナ・カルタの複製13世紀に制定されたマグナ・カルタの複製

火薬陰謀事件

16世紀の宗教改革以来、イングランドではカトリックとプロテスタントの対立が続いていた。特にエリザベス1世の治世ではイングランド国教会が確立され、カトリックへの圧力が強まった。1603年にエリザベス1世が死去したことで、カトリック教徒の母を持つ次の国王ジェームズ1世が、宗教政策を緩和してくれるのではないかとカトリック教徒たちの期待は高まったが、政策は変わらず圧力は続いた。教徒たちの失望が高まるなか、カトリック急進派のロバート・ケイツビー(Robert Catesby)を中心とするグループが、カトリックの支配を回復しようと画策。1605年11月5日の国会開会式で国王と議員が集まる議事堂を爆破する計画を立てた。ガイ・フォークス(Guy Fawkes)は実行役として雇われ、地下室に火薬を仕掛けた。しかし、陰謀を密告する匿名の手紙によって計画は事前に露見。これによりカトリックへの監視と抑圧がさらに強化されることとなった。これは火薬陰謀事件(ガイ・フォークス事件)と名付けられ、陰謀が発覚した11月5日は今もガイ・フォークス・ナイトと呼ばれ、各地で花火が上がる。

一方ではより純粋なプロテスタントの教会を目指し、国教会の改革を求めるピューリタン(清教徒)らもおり、宗教的自由を求めた一部のピューリタンは、新天地を求めて1620年にメイフラワー号で北米へ向かった。

火薬陰謀事件火薬陰謀事件を計画したテロリストたち。ただ1人現行犯逮捕されたのがガイ・フォークス(右から3人目)だった

ジェームズ1世 / 6世 James I and VI

ジェームズ1世 / 6世
母親はメアリー・スチュアート

ジェームズ1世/スコットランド王ジェームズ6世(1566年6月19日~1625年3月27日、在位1603~25年)は、スチュアート朝時代のスコットランド、イングランド、アイルランドの国王。母親はカトリックを信仰するメアリー・スチュアート(Mary, Queen of Scots)。1歳でスコットランド国王になるが、イングランドのエリザベス1世に跡継ぎがいなかったことから、36歳でイングランド国王も兼任。以降、ジェームズ1世以後のイングランド君主、英国君主は全員ジェームズ1世と妻であるアン・オブ・デンマークの血を引く。

徳川家康と同時代人

ジェームズ1世と徳川家康は同時代人であり、英政府と幕府は外交関係を持っていた。日本にいる三浦按針から手紙をもらったジェームズ1世は、貿易船「クローブ号」を日本へ向かわせ、徳川家康、秀忠親子と交渉して1613年に平戸に英国商館を築いた。秀忠からは鎧などが贈られ、これは現在もロンドン塔に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、クローブ号を指揮したジョン・セーリスの日本航海記を5回も読むほどだったらしい。

爵位を販売した

ジェームズ1世は、自分の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費によって逼迫ひっぱくした国家財政の要因を作った。アイルランド北部アルスター地方ではイングランドとスコットランドの入植者が土地を開拓していたが、先住のアイルランド人との対立が続き、反乱の危険もあった。そのため、ジェームズ1世は軍隊を維持するための財源確保と、新たな貴族層の創出を兼ねて、金銭で購入が可能な準男爵位を設け、富裕層に向け一般に販売した。

清教徒革命(イングランド内戦)

ジェームズ1世の後を継いだ息子のチャールズ1世も、父と同様かもしくはそれ以上に専制的な統治を進めた。度重なる宮廷の支出や外交政策のために財政難が深刻化し、議会に増税を求める場面が増えた。しかし議会側はこれに強く反発し審議が難航したため、チャールズ1世は議会の同意なしに税を徴収するなど、国民に不当な負担をかけた。これに対し、議会は権利の請願(Petition of Right)を提出して、国王の悪政に対抗した。権利の請願は、国王の独断による課税や不当な逮捕などの停止を要求した文書で、今ではマグナ・カルタや権利の章典とともに英国の3大法典の一つとされており、英国憲法の一部になっている。

清教徒革命は王権と議会の対立が頂点に達した結果として勃発した、イングランドで発生した内戦だが、直接の引き金は1642年にチャールズ1世が軍を率いて議会に乗り込んだことで始まった。貴族や伝統的な保守層による王党派と、ピューリタンを中心とする新興の商工業者や地方の地主層による議会派が戦った。当初拮抗した戦いは、政治家で軍人のオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が率いる鉄騎隊の活躍によって議会派が優勢となり、46年にチャールズ1世は捕らえられた。その後、王党派の反乱が続くなか、議会内の急進派は国王処刑を決断。49年にチャールズ1世が処刑され、共和制(イングランド共和国)が樹立されるという英国の歴史の中でも特異な結末を迎えた。絶対王政に対する議会の勝利を象徴する出来事であり、のちの立憲君主制の確立へとつながる重要な転換点となった。清教徒革命、ピューリタン革命とも呼ばれるが、英国ではイングランド内戦と表記される。

議会派の勝利が決定した1645年のネイズビーの戦い議会派の勝利が決定した1645年のネイズビーの戦い

イングランド共和国の誕生

1649年、イングランドは共和制へと移行し、護国卿クロムウェルの指導のもとスコットランド、アイルランドを含むイングランド共和国(コモンウェルス)が誕生した。やがてクロムウェルは王党派だけではなく人民主権を唱える平等派議員も弾圧し、中流市民の権利や利益を擁護する姿勢を取るようになる。貴族や教会から没収した土地の再分配を行ったり、反議会派の拠点であるカトリックのアイルランドへ侵攻を始め、49年8月にダブリンに上陸。各地で住民の虐殺を行いアイルランドはイングランドの植民地的な存在となる。以降、クロムウェルの統治は独裁的になり、議会や国民の不満が高まるなか、58年にクロムウェルはインフルエンザで死亡。ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルは翌59年に議会を召集したが、反議会派の反抗を抑えきれずまもなく引退し、イングランド共和国は11年の短い歴史に幕をおろした。

アイルランドの最後の戦いの場となった1651年のゴールウェイアイルランドの最後の戦いの場となった1651年のゴールウェイ

チャールズ1世 Charles I

Charles I
ジェームズ1世の次男

チャールズ1世(1600年11月19日~1649年1月30日、在位1625~49年)は、1600年、スコットランド王ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)と王妃アンの次男として生まれる。兄のヘンリー・フレデリックが18歳で急死したため、王位継承者となった。王太子の頃から政治に関わり始め、21歳で貴族議員に。25年にジェームズ1世が死去すると、チャールズ1世としてイングランド王に即位した。

熱心な芸術愛好家

チャールズ1世は熱心な芸術愛好家として知られ、英国史上有数の美術収集家の一人としても名を残している。ルーベンスやヴァン・ダイクといった北方フランドルの著名な画家を宮廷に招き、イングランドの宮廷文化の発展に貢献した。特に、フランドル出身のアンソニー・ヴァン・ダイクを宮廷画家に迎え、ヴァン・ダイクが描いたチャールズ1世の騎馬像や優雅な肖像画は、後世のチャールズ1世のイメージに強い影響を与えている。多くの美術品はクロムウェル政権によって売却されたが、一部は王政復古後のチャールズ2世の時代に取り戻され、ロイヤル・コレクションの重要な所蔵品となっている。

公開処刑された唯一の国王

チャールズ1世の処刑は1649年1月30日、通常のロンドン塔ではなくロンドン中心部のバンケティング・ハウス前で行われた。バンケティング・ハウスは、天井に父ジェームズ1世と王権神授説にまつわる絵画が描かれており、これはチャールズ1世自身がルーベンスに描かせたものだった。クロムウェルは人々に君主制の終焉を知らせる目的で、この場所を国王処刑の場として選んだという。チャールズ1世は寒さによる震えが処刑の恐怖に見えることを嫌い、厚手のシャツを2枚重ねにして臨んだといわれている。死後は、王党派と国教会の一派によって「チャールズ殉教王」として聖人に祭り上げられた。

王政復古による変化

1660年、イングランドにおいて11年間の共和制を経て王政が復活した。これは王政復古(Restoration)と呼ばれ、チャールズ1世の息子でフランスに亡命していたチャールズ2世がイングランド王として迎えられたところから始まる。だが王政復古は単なる国王の帰還ではなく、あらゆる側面で大きな変化をもたらした。まず、共和制時代にはさまざまなプロテスタント諸派が力を持っていたため、すっかり鳴りを潜めていた国教会がこれを機に復活。王政を支持する体制が再構築された。61年には議会も王党派が優勢となり、62年の統一法(Act of Uniformity)によって、国教会の礼拝様式を守ることが義務付けられた。これにより、ピューリタンやカトリックに対する弾圧が強まり、多くの非国教徒が公職を追われることとなった。

チャールズ2世は即位に際し、ブレダ宣言(Declaration of Breda)に基づいて、共和制政府に協力した者への恩赦を約束していたが、ブレダ宣言はチャールズ2世が無血でイングランド王位に復帰するために練り上げた政治的な宣言文に過ぎず、実際には父親チャールズ1世の処刑に関与した者たちは厳しく処罰された。さらに、1665年の大疫病(The Great Plague)や66年のロンドン大火(The Great Fire of London)といった大災害が続き、国は深刻な社会不安に見舞われた。経済面では、イングランドは対外進出を強め、60年に王立アフリカ会社(Royal African Company)が設立され、アフリカとの貿易が拡大。また、64年にはオランダとの間で第2次英蘭戦争が勃発し、北米のニューネーデルラント(現ニューヨーク)をイングランドが獲得するなど、海外植民地政策が推進された。

名誉革命と立憲君主制

チャールズ2世の死後、1685年に弟のジェームズ2世が即位した。するとジェームズ2世はカトリック信仰を公然と擁護する方向に舵を切り、これはプロテスタントの国教会を支持する議会にとって大きな懸念材料となった。もともとジェームズ2世は父であるチャールズ1世の処刑後、兄とともにフランスに亡命し同地でカトリックに感銘を受け改宗していた。チャールズ2世の存命中である79年にジェームズ2世の王位継承を阻止しようとする王位排除法案(Exclusion Bill)が議会から提出されたが、議会を解散することで成立は阻止された。こうして国王となったジェームズ2世は、信仰の自由を掲げてカトリックへの制約を緩和し、王権によって宗教政策を進める姿勢を強めた。87年には寛容令を発布し、カトリックや非国教徒への公職就任の道を開き、さらに、王は軍隊の要職にもカトリックを信仰する者を任命し、議会の意向を無視して独裁的な統治を試みた。

こうしたジェームズ2世の政策に対し、イングランド国内では反発が強まったが、決定的だったのは88年に生まれたジェームズ2世の息子ジェームズであった。それまで王位継承者と目されていたのはジェームズ2世のプロテスタントを支持した娘メアリーだったが、新たに生まれた男子が成長すれば、イングランドのカトリック支配が続く可能性が高まる。これを危惧した議会の指導者たちは、メアリーの夫でオランダ総督のオレンジ公ウィリアム3世に支援を求めた。ウィリアムはプロテスタントの擁護者として欧州での影響力を確立しており、この招きを受けて88年11月、軍を率いて英南西部へ上陸した。ジェームズ2世は軍を動員しようとしたが、軍人や貴族の多くがウィリアム側に寝返った。ジェームズ2世はフランスへ亡命し、事実上の退位となった。この出来事は、血を流さずに政権交代が実現したことから、名誉革命(Glorious Revolution)と呼ばれている。その後、議会は89年に権利の章典(Bill of Rights)を制定し、王権の制限を明確に定めた。これによりイングランドは立憲君主制への道を確立し、議会の権力が国王を上回る近代国家への一歩を踏み出すことになった。

1688年、オレンジ公ウィリアム3世とオランダ軍が英南西部ブリクサムに上陸1688年、オレンジ公ウィリアム3世とオランダ軍が英南西部ブリクサムに上陸

オリヴァー・クロムウェル Oliver Cromwell

Oliver Cromwell
英雄か暴君か

オリヴァー・クロムウェル(1599年4月25日~1658年9月3日、任期1653~58年)は、イングランドの政治家で軍人、イングランド共和国初代護国卿(Lord Protector)。英国の歴史の中でも英雄と暴君の両面を持つ、今も評価が分かれる人物。厳格なピューリタンであり、信仰に基づいた強い意志を持つ。個人的な生活は質素であり、華美なものを好まず、演劇やクリスマスの祝祭を禁じた。一方で、政治家や軍人としては、冷徹で目的のためには徹底的に行動する現実主義者。自らが神の摂理*に導かれていると確信していたため、自分の行動に迷いがなく、反対者に対しても容赦のない態度をとることが多かった。

* 神が世界の出来事や人間の運命を計画し導いているという、ピューリタンに広まる概念

議会政治の基礎を築いた

絶対王政に対抗し、国王チャールズ1世を処刑したことで、王権神授説を否定し、議会の力を強める礎を築いた。これは後の名誉革命や立憲君主制の発展につながった。「議会政治の父」としてロンドンのウェストミンスター宮殿前には19世紀に作られたクロムウェル像が立っている。軍事的な天才ともいわれ、鉄騎隊を率いイングランド内戦で勝利。また、軍の近代化を進め、実力がある者が昇進するシステムを導入した。しかし共和制を樹立したものの護国卿という称号を用い、自身が王に代わって事実上の独裁者となった。

アイルランド政策の残虐性

ユダヤ人のイングランド帰還を許可し、英国社会の多様化に貢献した一方で、カトリック、特にアイルランドに対しては非常に厳しい政策をとった。1649年のアイルランド遠征では、数千人のカトリック住民が虐殺され、土地が没収された。現代のアイルランドでは、「虐殺者」として強く嫌われている。

社会

ペストの大流行

1665~66年、ロンドンを中心にイングランドを襲ったペストの大流行(The Great Plague)は、14世紀の黒死病以来、英国で最も壊滅的な被害を出した疫病の一つだった。ペスト菌を媒介するノミがネズミを通じて人々に感染を広げたのが原因と考えられているが、当時のロンドンは衛生状態が極めて悪く、人口密集地では病気の蔓延まんえんが加速した。これによりロンドンの経済と社会は大混乱に陥った。富裕層や政府関係者は次々と都市を離れ、チャールズ2世や宮廷も英東部オックスフォードへ避難した。反対に貧しい人々は都市にとどまらざるを得ず、その多くが感染して命を落とした。

最初の感染者は65年4月ごろで、ロンドン東部で確認された。感染が最も早く広がったのは、当時はスラムのような場所だったウェストエンドのセント・ジャイルズ地区(St Giles-in-the-Fields)。貧しい労働者階級が密集して暮らす環境が病気の拡大を助長したとされている。

また、ロンドン東部の貧困層が住むスピタルフィールズ(Spitalfields)やホワイトチャペル(Whitechapel)でも広がった。この地域は港に近く、外国からの船が頻ひんぱん繁に出入りしており、疫病が侵入しやすい環境だったともいえる。やがて夏にはペストの感染がロンドン中心部に波及。8月には、毎週7000人以上が死亡するなど、ロンドンは完全に崩壊状態に陥った。死体が街中にあふれ、死者を運ぶペスト運搬人が遺体回収のために「Bring out your dead」(死者を出せ)と叫ぶ光景が日常となったという。死者の多さから、通常の墓地では埋葬が追いつかず、大規模なペスト集団墓地(Plague Pits)が作られた。代表的な埋葬地はフィンズベリー(Finsbury)やクラーケンウェル(Clerkenwell)などにあった。66年になると、冬の寒さも影響し、感染は次第に減少していった。しかし、ロンドンの人口の約20パーセントが死亡し、社会は大きな打撃を受けた。

ペストが蔓延し、往来にも死体が放置されたロンドンの街ペストが蔓延し、往来にも死体が放置されたロンドンの街

ロンドン大火

ペストの悪夢もまだ冷めやらない1666年9月2日に起きた大火事で、4日間にわたり燃え広がり、ロンドンの街は灰燼かいじんに帰した。火元はシティ内のプディング・レーン(Pudding Lane)にあるパン屋で、強風や乾燥した気候も災いし、火はすぐに木造建築が密集するロンドン市内へ広がり、聖ポール大聖堂を含む市内の大部分を焼き尽くした。火災は9月6日まで続き、約1万3200軒の家屋、87の教会が焼失し、死者は6人、家を失った市民は7万人(数字は諸説あり)、燃えた範囲はロンドンの5分の4に及び、金融や商業の中心地が壊滅した。市民も消化活動に協力したものの、当時は消火設備が未発達で、強風により延焼が早まった。最後の手段として建物を破壊し延焼を防ぐ方法が試みられ、最終的に火の勢いを抑えることができた。また、当時は火災の原因が分かっておらず、カトリック教徒や外国人による放火説が流れた。

この大火事により67年に再建法(Rebuilding Act)が設定され、木造家屋が禁止になりレンガや石造りの建物が推奨された。また、建築家クリストファー・レン(Christopher Wren)がロンドンの再建計画を提案し、新しい聖ポール大聖堂を含む50の教会の再建を指揮した。さらに、前年より猛威を奮っていたペストは、この火災でネズミやノミが激減したことで終息したという。

火に包まれたロンドン中心部と、避難する市民の群れ火に包まれたロンドン中心部と、避難する市民の群れ

チャールズ2世 Charles II

Charles II
若くして亡命暮らし

チャールズ2世(1630年5月29日~1685年2月6日、在位1660~85年)は、チャールズ1世と妻でフランス王ルイ13世の妹ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれた。イングランド内戦の危険が高まったため、46年に母たちとフランスに亡命し、以降欧州各地を転々とする。やがてイングランドでクロムウェルの息子が護国卿の座を降りたことから、イングランドに戻り即位したのは1660年だった。

陽気な王様

清教徒革命の後、国民はクロムウェルによる厳格な宗教的価値観に疲れていた。そこへ亡命先のフランスから戻ってきたのがチャールズ2世だった。フランス宮廷の影響を受けたチャールズ2世は、個人の楽しみや娯楽、文化を重要視したため、世の中も活気づいた。社交的な性格で機知に富み、誰にでも寛容な態度を示すチャールズ2世は、陽気な王様(The Merry Monarch)と呼ばれ庶民からも愛された。1685年に死去するが、その際にも「I'm sorry, gentlemen, for being such a long time a-dying」(諸君、こんなに長く死にかけていて申し訳ない)というジョークを言ったとされる。

たくさんの愛人

チャールズ2世は多くの愛人を抱え、多くの庶子をもうけたことでも知られる。公式に認知された庶子は12人で、その母親の1人が女優として先駆者的存在のネル・グウィン(Nell Gwyn)だった。当時の軍人で作家のサミュエル・ピープスに「かわいくて機知に富んだネル」とも呼ばれたグウィンは、庶民から国王の愛人へと駆け上がったシンデレラ的な存在として語り継がれ、王政復古時代を象徴する人物の1人となった。グウィンはほかの愛人とは異なり、国王に贈り物や称号を要求せず、庶民的なユーモアを持ち続けたことから、国王と庶民をつなぐ架け橋のような存在であったとされる。

文化

文学・演劇

ジェームズ1世の時代は、エリザベス朝時代の文化的遺産を引き継ぎつつ、新たな発展を遂げた。シェイクスピアが後期の傑作「マクベス」「テンペスト」などを発表したほか、ジョン・ミルトンが英文学史上の大作といわれる「失楽園」を著した。

イングランド内戦の間は、ピューリタンの影響で演劇が禁止されるなど文化活動が制限されたが、王政復古後のチャールズ2世の時代には、王政復古演劇というジャンルが発展。女性が舞台に立つようになり、アフラ・ベーンのような女性劇作家も登場した。また、この時代は風刺文学が発展し、ジョン・ドライデンが活躍した。名誉革命を経て立憲君主制へと移行してからは、ジョン・ロックの「統治二論」が出版された。

建築

ジェームズ1世とチャールズ1世の時代、イニゴ・ジョーンズがルネサンス建築を英国に導入し、バンケティング・ハウスやグリニッジのクイーンズ・ハウスなどを手掛けた。王政復古後、クリストファー・レンがロンドン大火後に聖ポール大聖堂を再建し、英国バロック建築の代表となる。

グリニッジのクイーンズ・ハウスの内部、青い手すりの螺旋階段グリニッジのクイーンズ・ハウスの内部

科学

1660年に王立協会(Royal Society)が設立。科学の発展と普及を目的としたもので、多くの著名な科学者が関わった。アイザック・ニュートンもその1人で、「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」を出版。万有引力の法則を含むこの著作は、物理学の歴史において最も重要な書物の一つになった。

アイザック・ニュートンアイザック・ニュートン

出版

英国での新聞や雑誌文化がこの時代に発展。1665年に活版印刷の「ロンドン・ガゼット」紙(The London Gazette)が英国初の公式な新聞として発行される。同紙は政府公報として、王室の布告や政府の決定事項、法律の公布などを掲載。現在も発行が続く世界最古の新聞の一つである。それ以前、ニュースや公布は主に手書きの「ニュース・ブック」や、タウン・クライヤーなどから口頭で伝えられていた。

ロンドンの大火を報じる「ロンドン・ガゼット」紙ロンドンの大火を報じる「ロンドン・ガゼット」紙

娯楽・食

もともと演劇は庶民にも人気が高かったが、劇場の再開が認められた王政復古後は風刺劇や喜劇が流行した。そのほかは、見世物小屋、闘鶏、賭け事、酒場が庶民の娯楽の場だった。また、コーヒーハウスも流行し、知識人だけでなく商人や労働者の社交の場にもなった。最初のコーヒーハウスは1652年にオックスフォードで開業。当時の最新の飲料としてコーヒーが好まれただけではなく、情報交換や政治討論の場としても重要な位置を占めていた。紅茶は一歩遅れて輸入されたが、当時は貴族の飲むものだった。

王政復古後には貴族の間でフランス宮廷の影響を受けた洗練された料理が広まった。バターやワインを使ったソースを多用する料理が普及したほか、フランスの食卓マナーも導入され、ナイフとフォークを使う習慣が貴族の間で定着した。

ジェームズ2世 / 7世 James II and VII

James II and VII
チャールズ2世の弟

ジェームズ2世/スコットランド王ジェームズ7世(1633年10月14日~1701年9月16日、在位1685~88年)は、イングランド、スコットランド、アイルランドの国王。父親はチャールズ1世。兄のチャールズ2世の死後、51歳で王位を継承した。しかしカトリック政策が反発を招き、即位からわずか3年で名誉革命が起こりフランスへ亡命した。この後、国王は国教会の信者でなければならないとする法律が制定されたため、ジェームズ2世は英国で最後のカトリック国王となった。

海軍との関わり

ジェームズ2世は王位に就く前、ヨーク公ジェームズとして海軍を指揮していた。1660年代には総司令官として当時海軍省事務次官だったサミュエル・ピープスと共にイングランド海軍の再建に尽力。近代的な海軍の基礎を築いた。65年の第2次英蘭戦争では、実際に海戦に参加し、戦場での指揮経験もあった。ヨーク公の名にちなんで、米国のニュー・アムステルダムはニューヨークに改名された。ちなみに、兄のチャールズ2世はジェームズ2世をロンドン大火の消火活動の責任者に抜擢した。

カトリック信仰

熱心なカトリック教徒であったが、政情を考慮して10年にわたりこれを伏せていた。しかし、海軍総司令官としての職務を続けるにあたり、イングランド国教会への忠誠を誓う手続きが求められたため、これを拒否して辞職。これによって、ジェームズ2世のカトリック信仰は公然の秘密となった。1669年に正式にカトリックへ改宗し、その後は公の場でも信仰を貫いた。88年の名誉革命でイングランドを追われた後は、従兄弟にあたるフランスのルイ14世の庇護を受け、ヴェルサイユ宮殿で生活。一時期はアイルランドで軍隊を編成し、王位奪還を試みたが、晩年はフランスの修道院で過ごし、宗教に没頭した。


 

2025年に行くべき旅行先 イースト・アングリア East Anglia

2025年に行くべき旅行先East Angliaイースト・アングリア

英語圏で人気の旅行ガイドブック「ロンリー・プラネット」が「2025年に行くべき旅行先」として30の国と地域を選出し、英国からはイングランド南東部のイースト・アングリア地方が選ばれた。木とレンガや石を組みわせた16世紀ごろの家々、美しい海岸線などが「典型的な観光地がなくとも伝統的なイングランドの趣が感じられる」ことが評価され、国内各紙でも取り上げられ話題となった。今回は、イースト・アングリアを形成するケンブリッジシャー、エセックス、ノーフォーク、サフォークの訪れるべき都市とその魅力にせまる。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.lonelyplanet.comwww.independent.co.uk、各地域のカウンシル、観光局のウェブサイト

Map of East Anglis

大学都市と豊かな自然 Cambridgeshire
ケンブリッジシャー

Clare College

1974年に元のケンブリッジシャー、イーリー島、ハンティンドン、ピーターバラが合併してできた行政上の地域。ほとんどの地域が海抜ゼロと平坦な土地で、現在は自然保護区となっているホルム・フェンは海抜マイナス2.75メートルと英国で最も低い。イングランドの主要河川であるグレート・ウーズ川、ネン川があり、周辺地域では農業が盛んなほか、世界的に知られるケンブリッジ大学の本拠地でもある。
(写真:Ely / Cambridgeshire)

パンティングで穏やかな時間を Cambridge ケンブリッジ

Clare College

Clare College

オックスフォード大学と並び、世界最高峰の大学の一つとして知られるケンブリッジ大学がある。オックスフォードの学生と町民との暴力行為を伴う争いから逃れるため、13世紀初頭に学者たちがこの地に移り住んだことで、現在の大学都市としての礎が築かれた。街中にはキングス・カレッジ(King’s College)やセント・ジョンズ・カレッジ(St John’s College)、トリニティ・カレッジ(Trinity College)、クレア・カレッジ(Clare College)など、同大学を代表するカレッジが点在。また、フィッツウィリアム博物館(Fitzwilliam Museum)など大学付属の博物館もあり、1日では見切れないほどの観光スポットがある。天気が良ければ市内を横切るケム川でのボート体験、パンティング(Punting)もお勧めだ。また、市内や郊外を走るマウンテンバイクのコースも通の間で有名。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からCambridge駅まで
約1時間5〜25分

ノルマン様式建築の大聖堂は必見 Peterboroughピーターバラ

Peterborough Cathedral

Peterborough Cathedral

大聖堂や先史時代の遺跡などがあり、歴史的にも重要な主教座聖堂都市。もともと「主教が教区を管理する」という都市の性質から、ケンブリッジシャーに組み込まれたのは20世紀に入ってから。ノルマン様式建築のピーターバラ大聖堂(Peterborough Cathedral)をはじめ、同地東部には約3500年前の青銅器時代の遺跡、フラッグ・フェン(Flag Fen)が、西部には自然豊かなフェリー・メドーズ・カントリー・パーク(Ferry Meadows Country Park)がある。また、市内北西部のウェリントン村(Werrington Village)にある400年前に建てられたかやぶきの家を利用したパブ・レストラン「チェリー・ハウス」(The Cherry House)も趣があることで知られる。周辺の田園地帯の風景を楽しむならネネ・ヴァレー鉄道(Nene Valley Railway)の蒸気機関車に乗るのがお勧め。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からPeterborough駅まで
約40分〜1時間35分

穏やかな大聖堂の町 Elyイーリー

Ely Cathedral

Ely Cathedral

ケンブリッジシャー東部に位置する静かな町。かつては沼地に浮かぶ島であり、17世紀に排水事業が行われるまではウナギの産地として有名だった。一大観光スポットはイーリー大聖堂(Ely Cathedral)。設立は7世紀で、以後数世紀にわたり何度も荒廃、修繕を繰り返してきたためにイングランド・ゴシック様式、ロマネスク様式など、さまざまな時代の建築様式が見られるのが特徴だ。色鮮やかな内装はぜひ時間をとってゆっくり鑑賞したい。そのほか、イングランドの政治家、軍事指導者のオリヴァー・クロムウェルが住んでいた家(Oliver Cromwell’s House)や町の歴史がわかるイーリー博物館(Ely Museum)も見どころ。1760年代後半の建物を利用したアンティーク・センター(Waterside Antiques)やカフェなどもあり、日帰り旅行にぴったりの場所だ。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅、Liverpool Street駅からEly駅まで
約1時間15〜40分

田園地帯の宝石 St Ivesセント・アイヴス

St Ives Bridge

St Ives Bridge

グレート・ウーズ川のほとりに形成され、17〜19世紀半ばにかけてイースト・アングリアの重要な貿易拠点として栄えた町。歴史的建造物に囲まれた街並みや郊外の自然保護区など、英国の田園地帯を代表する美しい場所として知られている。見どころは1107年に木造で建造され、後に石造りになったセント・アイヴス橋と教会(St Ives Bridge and Chapel)。橋に礼拝堂を併設する様式は中世では珍しくはなかったが、イングランドで現存するものはここを入れて四つしかないのだそう。またイングランド内戦中には、オリヴァー・クロムウェルによって橋の一部に跳ね橋がかけられたりもした。町の中心部にはジョージアン、ヴィクトリア朝時代の建造物に囲まれたマーケット広場(Market Square)、南部には野生動物の楽園ホルト島自然保護区(Holt Island Nature Reserve)がある。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からCambridge North駅まで
約1時間、同駅からバスで約30分

絵葉書のような田園風景 Essex
エセックス

Saffron Walden / Essex

ロンドンからの交通の便が良い上、原生林などの豊かな緑や長く続く海岸線など多くの自然環境が残されており、特定のスポーツやアクティビティーを楽しむ人にとっても人気のエリア。また、古代ローマ帝国による征服など、英国の歴史上重要な出来事にまつわる遺跡が数多く見られ、歴史好きの人も楽しめる。特にコルチェスターなどの都市部から離れると田園地帯が広がり、フォトジェニックな風景が広がる。
(写真:Saffron Walden / Essex)

記録に残る英国最古の都市 Colchesterコルチェスター

St Botolph’s Priory

St Botolph’s Priory

西暦49年、ローマ帝国時代のブリテン島で最初の町として発展し、古代ローマの作家によって記録された英国最古の都市として知られ、街中には西暦65〜80年の間に作られた城壁が今も残っている。中心部には、1076年に建造が始まり、1860年にはすでに博物館として活用されてきたコルチェスター城(Colchester Castle)や、英国最初の聖アウグスチノ修道会の修道院として建造された聖ボトルフ修道院(St Botolph’s Priory)の廃墟があり、中世の歴史や廃墟が好きな人は必見の場所だ。郊外には小さな町や村が点在しているが、なかでもデダム村(Dedham)やサフォークにまたがるデダム・ベール・ナショナル・ランドスケープ(Dedham Vale National Landscape)は画家ジョン・コンスタブルが愛し、絵画のように美しい景観が見られる場所として有名。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からColchester駅まで
約50分〜1時間20分

静かな海辺のリゾート Southend-on-Seaサウスエンド・オン・シー

Thorpe Bay Beach

Thorpe Bay Beach

もともとは漁師小屋と農場が数軒あるだけといったのどかな場所だったが、ロンドンからのアクセスや海の水質が良かったために、次第に上流階級の人々を惹きつけ、「静かな海辺のリゾート」として名声を得た沿岸都市。広大な干潟のせいで満潮時でも水深が浅く、大型客船の停泊が困難だったために遊覧桟橋サウスエンド・ピア(Southend Pier)が作られた。同桟橋は全長約2.1キロと遊覧桟橋としては世界最長を誇る。1890年には桟橋上に乗客を輸送するための電気鉄道ができ、こちらは現在も稼働している。沿岸には海辺のアミューズメント・パーク、アドベンチャー・アイランド(Adventure Island)がある。また、より静かな海を楽しみたい人は、東部にあるソープ・ベイ・ビーチ(Thorpe Bay Beach)やシューベリー・イースト・ビーチ(Shoebury East Beach)がお勧め。

行き方
ロンドンのStratford駅からSouthend Victoria駅まで、 Fenchurch Street駅からSouthend Central駅まで
約1時間

のどかな田舎で見るかわいらしい建物 Saffron Waldenサフラン・ウォルデン

Castle Street

Castle Street

まるで絵本の中から飛び出してきたかのような、かわいらしい家々が並ぶ中世の町。1141年から市場が開かれた記録が残されており、現在も火・土曜日に新鮮な野菜や果物、魚、チーズやパンなどあらゆるものが売られるサフラン・ウォルデン・マーケット(Saffron Walden Market)が開催。有名シェフのジェイミー・オリバーも訪れることがあるのだとか。中心部には聖メアリー教会(St Mary’ s Church)があり、キャッスル・ストリート(Castle Street)とブリッジ・ストリート(Bridge Street)では壁から模様が浮き出ているかのように装飾する技法「パーゲティング」(pargetting)を施した家々を見ることができる。郊外には広大な敷地に美しい庭園を持つ17世紀初頭に作られた英国有数の邸宅オードリー・ エンド・ハウス&ガーデンズ(Audley End House&Gardens)がある。

行き方
Liverpool Street駅からAudley End駅まで約1時間、同駅からバスで約10分

芸術家が移り住んだ Great Bardfieldグレート・バードフィールド

High Street

High Street

かつては重要な馬の市場が開催され、全国から商人たちが馬を連れてきた場所で、通りの配置や特徴的な家屋やコテージが当時の歴史を物語っている。また、近隣ではセイタカセイヨウサクラソウ(Oxlip)という珍しい花が見られる。一見すると普通の小さな町だが、ここが良く知られているのは「グレート・バードフィールド・アーティスト」と呼ばれる芸術家のコミュニティーがあったから。1930〜70年代にかけて、同地とその周辺に住んでいた芸術家が中心となり、フィギュラティヴィズムという具象的な作品を多数残した。また、1950年代にアーティストたちが自宅を開放するオープン・ハウス式の展覧会を開催したこともコミュニティーが有名なった要因だった。この芸術運動の作品は、サフラン・ウォルデンにあるフライ・アート・ギャラリー(Fry Art Gallery)で見ることができる。

行き方
Liverpool Street駅からChelmsford駅まで約30分、同駅からバスで約1時間10分

英国らしい豪華な邸宅が点在 Norfolk
ノーフォーク

King’s Lynn / Norfolk

イースト・アングリアの北東部に位置する、豊かな田園地帯が広がる地域。チャールズ国王の邸宅サンドリンガム館があるほか、ドラマのロケで使用されたカントリー・ハウスが点在し、その多くが一般公開されている。北海に面している北側ではゼニガタアザラシに会うことができ、東部には多くの野生動物が生活するザ・ブローズ(後述)と呼ばれる国立公園があるなど豊かな自然環境が広がっている。
(写真:King’s Lynn / Norfolk)

中世の趣が感じられる Norwichノリッジ

The Royal Arcade

The Royal Arcade

イングランド初の地方図書館が開館し、ロンドン以外で最初の地方紙が発行されるなど、歴史的に芸術や文学、出版業と深い結び付きがある町。アートや文学に優れた都市として2012年にユネスコの文学都市に指定されている。「中世の都市」と呼ばれ、町中にはテレビや映画のロケ地に使用されたこともある、チューダー朝時代の建物が残る石畳のエルム・ヒル(Elm Hill)や、グレードI の指定建造物であるギルドホール(The Guildhall)、11世紀に建造され、後に石造りに改築されたノリッジ城(Norwich Castle)など、中世の息遣いが感じられる場所がたくさんある。また、グレードII指定のアール・ヌーヴォー様式で飾られた美しいショッピング・アーケードのザ・ロイヤル・アーケード(The Royal Arcade)など、後世に残したいさまざまな時代の建物に出合えるのも魅力。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からNorwich駅まで約1時間45分

洗練された海上貿易の町 King’s Lynnキングズ・リン

Customs House

Customs House

12世紀にはすでにイングランドの主要な港の一つとして知られ、産業革命が終わるまで重要な海上貿易の拠点となっていた海事の町。「リン」という名前は、湖または池を意味するケルト語に由来していると考えられている。注目すべきは1683年に建造された川沿いに佇む税関(Customs House)。キングズ・リンが欧州の最先端を行く地であることを強調するため、ドリス式、イオニア式、コリント式の柱にキューポラやアーチを備えたさまざまな建築様式を融合させたデザインとなっている。また、現在はコンサート・ホールに改修されたかつてのトウモロコシ市場(King’s Lynn Corn Exchange)など、海外貿易時に使用されていた建物が残るほか、中世に作られた現存するギルドホールとしては最大規模を誇る聖ジョージズ・ギルドホール(St George’s Guildhall)がある。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からKings Lynn駅まで約1時間50分

国立公園で自然と触れ合う The Broadsザ・ブローズ

Thurne Mill

Thurne Mill

ノーフォークとサフォークの間にあるザ・ブローズは、英国にある15の国立公園のうちの一つ。二つの州内の特定の地域を表すために、「ノーフォーク・ブローズ」(Norfolk Broads)、「サフォーク・ブローズ」(Suffolk Broads)と使い分けられているが、単にこの地域全体をノーフォーク・ブローズと呼ぶことも。かつて学者が「魂を癒やすための息抜きの空間」と表現したザ・ブローズには、アント川、ブレ川、チェット川、サーン川、ウェイヴニー川、ウェンサム川、ヤー川の七つの川が流れており、これらの川でカヌーやカヤック、セーリングなどが楽しめるほか、ウォーキングやサイクリングといったアクティビティーも充実している。美しい眺望はもちろんのこと、多くの野生動物に出合えるので、ゆったりとした時間を自然の中で過ごしたい人に特にお勧めしたい。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からNorwich駅で乗り換え、Acle駅まで約2時間10分。駅から徒歩18分

18世紀に再建された町 Holtホルト

Byfords

Byfords

古英語で「森林」を意味するホルトが名前の由来といわれる町。1708年に発生した大火災によって中世の建物はほとんど焼失し、民家や教会なども甚大な被害を受けた。その後、当時流行していたジョージアン様式に建物が一新されたことで、同様式の街並みが統一された形で残されている。また、この火災から生き残り、現在はレストランと高級B&Bとして営業中の「バイフォーズ」(Byfords)の建物も見ることができる。隠れた小道を自分で発見するのも楽しいが、史跡を効率良く見て回るならフクロウの看板が目印のホルト・オウル・トレイルをたどってみよう。田舎の風景を満喫できるホルトとシェリンガム駅を蒸気機関車で結ぶノース・ノーフォーク鉄道(North Norfolk Railway)もお勧めで、鉄道の催行日ならシェリンガム駅からバスの代わりに利用するのも便利だ。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からNorwich駅で乗り換え、Sheringham駅まで約3時間10分。同駅からバスで約15分

穏やかな雰囲気が広がる Suffolk
サフォーク

Lavenham / Suffolk

「南の民」を意味するサフォークは、田舎の美しい風景とビーチが広がり、農業で発展してきたエリアで、ゆったりとした休暇を求める人々に人気がある。アングロ・サクソン人の生活が分かる、考古学上の重要な発見があった場所として知られるほか、古くから記録に残る町が各地に点在している。また、この地域では「サフォーク・ピンク」と呼ばれるくすんだピンク色の外壁を持つ建物が多く見られる。
(写真:Lavenham / Suffolk)

新旧の建物に注目 Ipswichイプスウィッチ

Christchurch Mansion

Christchurch Mansion

オーウェル川の河口に位置する、イングランド最古の町の一つ。14〜17世紀には中欧、北欧の都市同盟であるハンザ同盟の拠点であり、かつては英国最大の港としてバルト海諸国への貿易に使用されていた。21世紀に入って町の再開発が進み、現在も大規模な建設工事が続けられている。町の中心部には1550年ごろに建てられたチューダー様式のレンガ造りの邸宅、クライストチャーチ・マンション(Christchurch Mansion)があり、1885年から博物館として市民を迎えてきた。画家ジョン・コンスタンブルやトーマス・ゲインズバラの絵画をはじめ、家具やおもちゃなどさまざまな展示がある。また、博物館周囲の公園も市民の憩いの場となっている。一方、ウォーターフロント・エリアにはサフォーク大学や高層ビル、新興住宅が立ち並び、歴史ある街並みとの対比が印象的だ。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からIpswich駅まで約1時間5〜25分

チューダー様式の建物が並ぶ Lavenhamレイヴナム

The Crooked House

The Crooked House

サフォークの南西部にある15〜16世紀に羊毛貿易で繁栄した町。英国有数の裕福な町だったが、17世紀に安価な布地や衣類の普及に打撃を受け一気に衰退し、その後も家を建て替えるだけの資金がなかったため、1450〜1500年に建てられた家がそのままの姿で残っている稀有な場所だ。西部には、羊毛貿易での成功を裏付ける町の規模に不釣り合いなほど立派な1525年に建造された聖ペテロ &聖パウロ教会(Saint Peter and Saint Paul’s Church)があり、町は15分ほどあれば歩くことができる。また、チューダー朝時代に建てられたレイヴナム・ギルドホール(Lavenham Guildhall)は現在博物館として運営されている。ちなみに18世紀に詩人ジェーン・テイラーがここに住んでいたときに、童謡「きらきら星」の歌詞となった詩が生まれたと伝えられている。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からColchester駅まで約50分、同駅からバスで約1時間20分。途中バスの乗り継ぎがある

アングロ・サクソン人の秘密を知る Woodbridgeウッドブリッジ

Woodbridge Tide Mill

Woodbridge Tide Mill

デベン川沿いにあり、「サフォークの宝石」と呼ばれている町。かわいらしい建物が並ぶ町中散策もお勧めだが、海岸沿いの、850年以上前に建てられ現在も稼働している潮力水車が見られるウッドブリッジ・タイド・ミル博物館(Woodbridge Tide Mill Museum)もぜひ訪れてみてほしい。また、この地域は6〜7世紀のアングロ・サクソンの遺跡、サットン・フー(Suton hoo)があることで有名。サットン・フーは独学で考古学を学んだバジル・ブラウンによって発掘されたアングロ・サクソンの王の船葬墓で、金銀や宝石でできたアクセサリー、儀式用のヘルメットなど、さまざまな副葬品が発掘され、英国の考古学上でも重要な発見となった。併設の博物館で発掘品の展示を見ることができるが、その中でも特に有名なヘルメットは大英博物館に寄贈されており、ここにはない。

行き方
ロンドンのLiverpool Street駅からIpswich駅で乗り換え、Woodbridge駅まで約1時間35分

農業で発展した東の拠点 Bury St Edmundsベリー・セント・エドマンズ

Bury St Edmunds Abbey

Bury St Edmunds Abbey

10世紀にアングロ・サクソン人によって形成され、ベリー・セント・エドマンズ修道院(Bury St Edmunds Abbey)を中心に発展した町。同修道院は1539年には役目を終えたが、当時は欧州で4番目に大きな修道院として重要な巡礼地だった。修道院がなくなった後は農業で発展し、現在も農業に関連する中世に建てられた建造物が残っている。町の中心部には1774年に新古典主義建築で建てられた劇場で現在はコミュニティー・スペースとして活用されているマーケット・クロス(Market Cross)や、1100年以上の歴史があるセント・エドマンズベリー大聖堂(St Edmundsbury Cathedral)などがある。また、パブ経営やビール醸造を行うグリーン・キングのウェストゲート醸造所(Westgate Brewery)ではビールの試飲ができるブリュワリー・ツアーを敢行している。

行き方
ロンドンのKing’s Cross駅からCambridge駅で乗り換え、Bury St Edmunds駅まで約1時間50分。Liverpool Street駅からもアクセス可

 

労働党を読み解く - 発足から125年、時代と共に変化する政党の現在地

発足から125年労働党を読み解く時代と共に変化する政党の現在地

英国の二大政党の一つである労働党は、労働組合の連合団体として1900年2月27日に発足し、2025年でその歴史は125年目を迎える。産業革命後の労働者たちの声を政治に反映させるために生まれたこの政党は、社会変革を目指しながら時代と共に変化を遂げてきた。今号では、労働党が果たしてきた役割と現在の英国政治における立ち位置を五つのポイントを通して掘り下げてみたい。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: https://labour.org.ukwww.bbc.co.ukhttps://unherd.comwww.britannica.com、イギリス労働運動史lll G.D.H.コール著 岩波現代叢書ほか

労働党の成り立ちと役割

始まりはさまざまな労働組合や社会主義団体の選抜メンバー

現在の労働党は、1900年に創設された労働代表委員会(LRC=Labour Representation Committee)が起源。当時の英国は産業革命の影響で工業化が進み、劣悪な労働条件にあえぐ労働者たちが多く、各地で労働運動が起きていた。そこで、英国議会に労働者の声を代表する議員を送り込むため、英北部ドンカスターの鉄道職員だった労働組合員のトーマス・R・スティールズが会議を呼び掛けた。1900年2月26日と27日にロンドンのシティにあるファリンドン・ストリートのホールで開催されたこの会議には、さまざまな労働組合の指導者に加えて、独立労働党(ILP)*、社会民主連盟(SDF)、ファビアン協会などが出席。討論の後、129人の代表者全員が、スコットランドの労働組合員で政治家だったキア・ハーディー(1856~1915)の「国会に独自の労働党グループを設立し、各自の院内幹事**を持ち、労働者の直接の利益となる法律の制定を推進するいかなる政党とも協力する」という動議を可決した。その結果ILPから2人、SDFから2人、ファビアン協会から1人、労働組合員7人によるLRCが正式に結成され、同年の選挙ではキア・ハーディーとリチャード・ベルの2人が下院議員として当選した。

* 独立労働党は労働党とは別の左派政党。1893年に創設され、1906~32年まで労働党と提携した。60年に解散
**whipとも呼ばれ、法案の支持や反対を組織し、会議の運営を管理するなど、内部のまとめ役となる役職

記念プラークファリンドン・ストリート14番地に掲げられている記念プラーク

キア・ハーディーが初代党首に

1906年2月15日、下院議員が29人にまで増えたLRCは正式に労働党(Labour Party)という名称を採用*することを決定。それまで存在しなかった党首には、党の設立に主導的な役割を果たしたキア・ハーディーが就任した。ハーディーは10歳から炭鉱で働き始めたのち、有能な演説家として知られるようになり、やがて炭鉱組合のリーダーとして全国炭鉱労働者会議を組織。炭鉱労働者のストライキを主導するなどした後ジャーナリストに転向し、1888年に無所属で初めて国会議員に立候補した。さらに、同年後半にはスコットランド労働党の結成にも尽力するという八面六臂の活躍をした人物だ。労働党の歴史において重要人物とみなされており、現在の労働党党首で首相のキア・スターマーの名前が、ハーディーにちなんで名づけられたことでも知られる。

* 労働党として正式登録したのは1906年だが、労働党自体は1900年を創立年とみなしている

1906年におけるLRCの指導者たち。右から4人目がキア・ハーディー1906年におけるLRCの指導者たち。右から4人目がキア・ハーディー

社会が変わるときに政権を担う

名前の通り、労働者のための権利を掲げて始まった労働党。労働者の権利擁護、社会福祉の充実、公的サービスの強化という3本の柱を基本としている。労働党は世の中が変わるとき、もしくは危機が起きたときに保守党に代わって政権を担うことが多く、これは、労働党が福祉や公的支援の拡充を重視する政党であり、不安定な時期に平等、社会正義、政府の積極的な介入といった政策が国民の支持を集めやすいからだとされる。第二次世界大戦直後のアトリー政権、科学技術の発展や社会構造の変化が目覚ましく、各方面で改革が必要だった1960年代のウィルソン政権、そして中産階級の台頭にアピールした90年代後半のブレア政権などがその例だ。

2024年にスターマー政権が誕生したのも、保守党による長期政権の間に起きた経済的停滞や社会的格差の拡大、新型コロナウイルス後の回復の遅れなどが背景になっており、物価高騰や公共サービスの低下に対する不満が労働党の勝利につながったのだといえる。

労働党の特徴がよく分かる5つのポイント

労働組合との関係、保守党との対比、スコットランドや若者文化とのかかわり、そして米国との関係性から労働党を見てみよう。

1. 労働党と労働組合

労働組合と労働党は、労働運動の歴史を通じて深い関係を持ち、互いに影響を及ぼしてきた。組合は党を通じて労働者の権利向上や生活条件の改善を目指す。具体的には、最低賃金の設定、労働時間の短縮、社会保障の拡充などで、党大会において組合が政策に影響を及ぼすことができる。また、多くの組合は定期的に党に資金を提供しているため、労働党は長らく労働組合からの財政的支援に依存してきた。それらの資金は選挙活動や党運営の重要な財源となっており、2020年代では党の資金のおよそ30~40パーセントが組合からのものといわれている。

労働党に影響を与えている主要な労働組合

  • ● Unite the Union(ユナイト) 英国最大の労働組合で、労働党への大口寄付者。しかし、キア・スターマー党首の中道寄りの政策へのシフトや、石油・ガス採掘ライセンスに関する政策など、近年の政治的動向に不満を持つユナイトは、財政支援削減の方向に動いている。2024年、ユナイトは労働党組織への支援を減らし、労働者の権利擁護に積極的な88人の労働党議員に対して、総額50万ポンド以上の寄付を行うという、個々の議員を支援する方法を取った。
  • ● UNISON(ユニソン) 公共サービス従事者を代表する組合で、社会福祉や医療分野に重点を置く。労働党議員や党本部に対して多額の寄付を行っている。特に、選挙運動期間中に党本部への寄付を強化し財政支援をしている。
  • ● GMB(全国都市一般労働組合) 製造業、サービス業、公共部門の労働者を代表する組合。労働党の政策に対して独自の立場をとることもあり、同党が推進する再生可能エネルギー産業に対し、化石燃料産業の労働者の雇用が脅かされると異を唱えたこともある。
  • ● RMT(鉄道・海運・輸送労働組合) ストライキなどの強硬な労働運動で知られる組合。労働党への公式な財政支援は行っていないが、左派の労働党議員とは連携することが多い。

一方で、1990年代後半のブレア政権のニュー・レイバー(New Labour)時代以降、労働組合との緊張が生まれていることも確かだ。中道寄りの政策をとる党に対し、労働組合は労働党が労働者の利益から離れていると批判することが増えた。ただし現在は、労働組合員の数自体が低下しているため、労働党に対する直接的な影響力はかつてほど強くない。この原因としては、若年層の意識の変化や非正規雇用の増加を含む働き方の多様化などの社会的要因のほか、労働組合自体が時代の変化に適応しきれておらず、内部硬直している可能性も挙げられている。

またかつては、一部の労働組合に所属していると自動的に労働党の党員として登録される仕組みがあったものの、2014年に党首エド・ミリバンドの提唱した投票制度ワン・メンバー、ワン・ボート制(One Member, One Vote: OMOV)の導入により、この自動登録制度は廃止され、個人が党員登録をする形に移行した。

賃上げ要求のストライキをするジュニア・ドクターたち賃上げ要求のストライキをするジュニア・ドクターたち

2. 労働党と保守党

英国には現在、大小合わせて400余りの政党が存在するといわれるが、政治の中心を占めるのは昔から変わらず保守党(Conservative Party)と労働党の二大政党だ。労働党が労働者の味方である一方、保守党は富裕層やビジネス・リーダー、高齢者から支持を得ると一般的に考えられてきた。しかし、現在では労働党が中産階級や富裕層を取り込もうとし、保守党も労働者階級の支持を狙うなど、互いに相手の支持層へと切り込む動きを見せている。特に、保守党が分裂し支持率が低迷するなか、スターマー首相の率いる労働党は中道で安定した政府というメッセージを強調することで、穏健な保守党支持者にアピールする戦略を立てている。従って、イデオロギー的には労働党は中道左派、保守党が中道右派である。

労働党と保守党の政策の傾向
労働党の政策 保守党の政策
経済
  • 大きな政府: 政府が経済や社会に深く関与
  • 公共サービスへの支出を拡大し、社会的不平等を是正
  • 富裕層への増税や企業への課税を強化し、福祉や教育、医療などに投入
  • 小さな政府: 国家の介入を最小化
  • 企業や個人の税負担を軽減し、経済成長を促進
  • 労働市場や企業活動における規制を緩和
社会
  • 平等重視: マイノリティーや社会的弱者の権利を保護し、多様性を尊重
  • 福祉の拡充: 医療や住宅、教育への公共支出を増加
  • 環境政策: 気候変動対策を優先し、再生可能エネルギーに投資
  • 伝統重視: 家族や地域社会の価値を守る
  • 福祉改革: 持続可能性を確保するため、効率的な支出を重視
  • 経済優先の環境政策: 企業活動を妨げない範囲で実
外交政策
  • 国際協調: 国際機関や同盟国との協力を重視
  • 軍事費の抑制: 国内政策に資金を振り向ける傾向
  • 移民に寛容: 多文化共生を目指す柔軟な移民政策
  • 国家利益優先: 国益を最優先とした現実的な外交
  • 軍事力の強化: 国防を重視し、軍事費を増加
  • 移民制限: 移民数を制限し、国境管理を厳格化
EUとの関係
  • EUと協力: 経済的・文化的協力を強化
  • 労働者の権利保護: EUの労働基準を参考にする
  • 独立性重視: EUからの独立を強調し、自国の法や政策を優先
  • 貿易協定の推進: 他国との自由貿易協定を積極的に締結

3. 労働党とスコットランド

労働党とスコットランドの関係は、歴史的にも政治的にも非常に重要で複雑だ。炭鉱労働者や造船業に従事する労働者が多かったスコットランドでは、労働党が1940年代以降大きく支持を広げ、90年代まで同地域の主要政党として多くの議席を獲得してきた。これは労働党がスコットランドの自治拡大に一定の理解を示してきたことも理由の一つだろう。99年のスコットランド議会の創設は労働党政府の決定によるものであり、初期の議会でも同党が主導的な役割を果たした。

しかし、2000年代以降スコットランドで労働党の影響力は低下していく。スコットランド国民党(Scottish National Party=SNP)が台頭したためだ。SNPは独立志向や地域主義を前面に押し出し、11年以降はスコットランド議会での優勢を確立。14年のスコットランド独立住民投票で労働党は英国残留を訴えたが、これが一部の有権者にネガティブな印象を与えた。その後も労働党は一貫してスコットランドの独立には反対の立場を取っているため、スコットランドでの議席を急速に失っていった。スターマー政権は現在、経済面の協力などでスコットランドでの支持基盤の再構築を狙っている。

2022年、スコットランドの独立を求めてデモ行進をする人々2022年、スコットランドの独立を求めてデモ行進をする人々

4. 労働党とユース・カルチャー

1997年の総選挙以前、保守党は18年間にわたり政権を維持していたが、長期政権の疲弊とスキャンダルの多発により国民の支持を失っていた。一方、労働党は当時43歳だったブレア党首によるイメージ戦略とメディア対応の巧みさで、若い世代の支持を獲得。「ブレア旋風」とも呼ばれる現象が起こり、労働党の支持率が急上昇し政権を手にした。その後も、ブレア首相は当時人気を博していたバンド、オアシスのメンバーであるノエル・ギャラガーらを首相官邸のイベントに招待するなど、若者文化との親和性を演出した。ニュー・レイバーのスローガン「クール・ブリタニア」は、若者文化を取り込んだ象徴的な戦略として用いられた。

これを手本にしたのが2015年に党首となったジェレミー・コービン。大学授業料の廃止、住宅政策の改善といった若年層に響く政策を掲げて、野外音楽祭のグラストンベリー・フェスティバルへの出演、ソーシャル・メディアを使った運動などを行った。これが功を奏し、「コービン・マニア」と呼ばれる現象が起きた。グライム・アーティストのストームジーや、レゲエDJのロディガンなど、音楽界からも支持を受け、2017年の総選挙では若者の労働党支持率を飛躍的に伸ばした。

ノエル・ギャラガーと握手をするトニー・ブレア首相(写真左)ノエル・ギャラガーと握手をするトニー・ブレア首相(写真左)

5. 労働党と米国

基本的に、労働党は国際協調を重視する傾向があり、特にNATOや国連を通じた外交を重視している。ただ、2003年にブレア政権が米国のイラク戦争に追従*した反省から、米国が関与する軍事行動には慎重な立場を取る。現在のトランプ政権との関係については、英国のEUとの関係や対中政策などで摩擦が生じる可能性があるものの、英国の首相として米国との「特別な関係」を維持する必要があるため、スターマー氏は経済を重視した現実的な外交を展開する可能性が高い。

現在、トランプ政権で政府効率化省(Doge)のトップとなったイーロン・マスク氏は、X(旧ツイッター)上で1月上旬、スターマー氏が10年以上前に検察局トップを務めていた際に、パキスタン系容疑者らによる白人少女らへの性的暴行事件(オールダム事件)を十分に捜査しなかったと批判。スターマー氏の辞任を求める投稿をした。スターマー氏はこれに対し、「虚偽情報を拡散する者たちは被害者に関心があるのではなく、自分たちが目立ちたいだけ」と述べるにとどめ、直接的な対立を避ける姿勢を取っていた。

* 開戦の根拠とした大量破壊兵器がイラクで見つからず、戦争による死者はイラク市民を中心に30万人近くに達した

労働党が与党になった回数は?

これまでに労働党政権が成立したのは7回。それぞれの政権の党首(首相)とその特徴は以下のとおり。

1. ラムゼイ・マクドナルド(1924年、1929~35年) ・ 第一次政権: 労働党初の政権
・ 第二次政権: 世界恐慌で深刻な経済危機に直面。挙国一致内閣(National Government)を組織する


2. クレメント・アトリー(1945~51年) NHS(国民保健サービス)設立、主要産業の国有化、社会保障制度の拡充、NATO加盟や核兵器開発を進める


3. ハロルド・ウィルソン(1964~70年、1974~76年) ・第一次政権: 経済の近代化を掲げ技術革命を推進
・第二次政権: 社会政策を推進するがインフレと経済危機に苦しむ


4. ジェームズ・キャラハン(1976~79年) 経済安定を目指すが「不満の冬」(Winter of Discontent)と呼ばれる大規模ストライキが発生。79年の総選挙でマーガレット・サッチャー率いる保守党に敗北


5. トニー・ブレア(1997~2007年) ニュー・レイバーとして、第3の道という中道路線を採用。経済成長と社会改革を両立し、クール・ブリタニアと呼ばれる時代を築くが2003年のイラク戦争への参戦が大きな批判を招く


6. ゴードン・ブラウン(2007~10年) 世界金融危機(08年)への対応に追われ、銀行救済措置を実施


7. キア・スターマー(2024年~現在) 総選挙での大勝を経て14年ぶりの政権交代を実現

才気あふれる労働党の個性派4人

労働党には、個性と才気を兼ね備えた議員が多く存在する。時に型破りでありながらも、政策や議論で確かな足跡を残してきた4人を紹介する。
()内は生没年

女性議員の草分け バーバラ・キャッスル
Barbara Castle (1910~2002年)

1996年、労働党大会で質問に答えるバーバラ・キャッスル1996年、労働党大会で質問に答えるバーバラ・キャッスル

20世紀を代表する労働党の女性政治家であり、特に社会福祉や労働政策の分野で大きな影響を与えた。1965年、ハロルド・ウィルソン政権で運輸相に就任。シートベルトの普及や飲酒運転の厳罰化など、今につながる多くの交通安全対策を推進した。69年の雇用相就任時には労働党の左派に属しつつも、労働組合の影響力を抑えようとする「In Place of Strife」(対立に代わるもの)という労働改革法案を提案。これはストライキを制限する内容で、労働組合の強い反発を受けて撤回を余儀なくされた。後に保守党のサッチャー政権がこれを採用し、より強硬な形で実施し80年代に労働組合の影響力を大幅に縮小させた。

党内きっての左派 トニー・ベン
Tony Benn (1925~2014年)

1981年の労働党大会でトレードマークのパイプをくゆらすトニー・ベン1981年の労働党大会でトレードマークのパイプをくゆらすトニー・ベン

労働党の中でも際立った個性と信念を持ち、1960~70年代にかけて官僚を務め党内最左派として知られた。貴族の称号を捨てて下院議員としての道を選び、生涯にわたり社会主義の理念を貫いた。2001年に政界を退き、同年に「戦争反対連合」(Stop the War Coalition)を組織、14年まで代表を務めた。演説の名手とされ、「血の川の演説」を唱えた保守党右派のイノック・パウエルと並び、左右の両極を代表する二大議員と評された。ベンの死後1年後に労働党党首に選出されたジェレミー・コービンをはじめ、多くの政治家に影響を与えた。16歳からパイプたばこを愛煙し、酒を飲まず、菜食主義を貫いた。

ロンドン市長として活躍 ケン・リヴィングストン
Ken Livingston (1945年~)

2005年の労働党大会で演説するケン・リヴィングストン2005年の労働党大会で演説するケン・リヴィングストン

1981年に当時のロンドン市長に等しいグレーター・ロンドン・カウンシル(GLC)議長に就任するが、当時のマーガレット・サッチャー首相と対立。結果的にGLCは廃止の憂き目を見た。その後、2000年に新設された初代市長職を2期務めた。その際には、ロンドン市内の渋滞緩和と公共交通機関の利用促進のためにコンジェスチョン・チャージを導入し、自転車レンタル・システムの導入を発案した。またレッド・ケン(赤いケン)とも呼ばれる党内左派の論客であり、歯に衣着せぬ物言いも支持を集めた。一方で、反シオニズム的な発言が反ユダヤ主義と取られたことで、18年に労働党から事実上追放された。

「北の王」の異名を持つ アンディー・バーナム
Andy Burnham (1970年~)

2022年、「ガーディアン」紙の主催で行われたトーク・イベントに出演したアンディー・バーナム2022年、「ガーディアン」紙の主催で行われたトーク・イベントに出演したアンディー・バーナム

ブレア政権で入閣し、影の保健相や内務相などを歴任。2017年からグレーター・マンチェスター市長を務める。国政がロンドン中心主義であると常から国内の南北格差と不公平を指摘し、パンデミック中の厳しいロックダウン時には、北部の地元コミュニティーへの財政支援を強く求めた。その姿勢から、メディアに「北の王」と称され、一部からは次期労働党党首としての期待も高まっている。政治的には、バーナムは労働党の穏健左派に位置づけられており、元ブレア派でもある。カトリック教徒だが同性愛者の権利については進歩的な立場をとる。サッカー・チーム、エヴァートンFCの熱心なファンとして知られる。

1906年から現在までの党首

()内は就任期間
*短期の代表代行(acting leader)は省く

  • 初代: キア・ハーディー   Keir Hardie(1906~08年)
  • 2代目: アーサー・ヘンダーソン Arthur Henderson(1908~10年)
  • 3代目: ジョージ・バーンズ George Barnes(1910~11年)
  • 4代目: ラムゼイ・マクドナルド Ramsay MacDonald(1911~14年)
  • 5代目: アーサー・ヘンダーソン Arthur Henderson(1914~17年)
  • 6代目: ウィリアム・アダムソン William Adamson(1917~21年)
  • 7代目: ジョン・ロバート・クラインス J. R. Clynes(1921~22年)
  • 8代目: ラムゼイ・マクドナルド Ramsay MacDonald(1922~31年)
  • 9代目: アーサー・ヘンダーソン Arthur Henderson(1931~32年)
  • 10代目: ジョージ・ランズベリー George Lansbury(1932~35年)
  • 11代目: クレメント・アトリー Clement Attlee(1935~55年)
  • 12代目: ヒュー・ゲイツケル Hugh Gaitskell(1955~63年)
  • 13代目: ハロルド・ウィルソン Hugh Gaitskell(1963~76年)
  • 14代目: ジェームズ・キャラハン James Callaghan(1976~80年)
  • 15代目: マイケル・フット Michael Foot(1980~83年)
  • 16代目: ニール・キノック Neil Kinnock(1983~92年)
  • 17代目: ジョン・スミス John Smith(1992~94年)
  • 18代目: トニー・ブレア Tony Blair(1994~2007年)
  • 19代目: ゴードン・ブラウン Gordon Brown(2007~10年)
  • 20代目: エド・ミリバンド Ed Miliband(2010~15年)
  • 21代目: ジェレミー・コービン Jeremy Corbyn(2015~20年);
  • 22代目: キア・スターマー Keir Starmer(2020年~)
 

英国でできる節約術 2025年版 - 家計の無駄を見直し!

これを機に家計の無駄を見直し! 英国でできる節約術 2025年版

節約術

深刻な物価高の警鐘が鳴らされてから早2年半が経過したが、インフレ率は昨年に比べて下がり、生活費の危機は一時期に比べだいぶ落ち着いてきた。しかし、目に見える急激な変化こそないものの、物価の高騰化は依然として進んでいる。また、昨年末から1月に欧州を襲った寒波の影響により、エネルギー価格に大きな影響が出ることが予想されている。2023年から始めた節約特集の第3弾となる今年も、普段の生活で取り入れられそうな節約術を集めた。
(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.bankofengland.co.ukwww.gov.ukwww.theguardian.comwww.moneysavingexpert.com ほか

現在の政策金利とインフレ率

イングランド銀行は1月19日、政策金利を4.75パーセントに据え置くと発表した。政策金利は、中央銀行がそのときどきの景気動向を見ながら上げ下げや据え置きを組み合わせて段階的に行うもので、一般的にインフレ(物価上昇)傾向では政策金利を引き上げて経済の過熱を抑え、不景気によるデフレ(物価下落)傾向になれば政策金利を引き下げて経済を刺激する仕組みになっている。政策金利の変更は、金融機関からのお金の借り入れなどに影響を及ぼすもの。金利が下がっている時期に住宅などのローンを組んでいる場合、利息の支払いが安くなることがあるが、一方で貯蓄がある場合はその利息の支払いが少なくなるため、貯蓄による利息収入が減少するというデメリットが生じる。昨年2月1日の政策金利が5.25パーセントだったことを考慮すると、このときより家計や企業にとって借入額を増やすと安く済む一方、貯蓄のメリットは少なくなっている。

そもそも政策金利が下げられているのは一体なんのためなのだろうか。それはインフレ率を低く安定させるために必要な金融政策で、現在英政府はインフレ率を2パーセントに抑えることを目指しているからだ。実際、インフレ率は2023年1月ごろから徐々に低下しており、1月27日時点で2.5パーセントとなっている(昨年1月は4パーセント)。これは2024年1月からモノの価格が2.5パーセント上昇したことになる。

インフレ率が高いほどコストはより速く膨らむため、インフレ率がプラスである限り物価高は止まらないとされている。物価が実際に下がるためにはインフレ率が降下していく以外に道はなく、英国でデフレ状態になったのは2015年が最後だ。

インフレ率が上昇すると、理論上では賃金も共に上がっていくものだが、この点で各企業、個人で差が発生し、実際には物価高を体感している人、そうでない人がいるのが現状だ。ただし、ホームレスの自立支援を促す雑誌「ビッグ・イシュー」の調べによると、2024年8~10月までボーナスを除く従業員の平均定期収入の年間成長率は5.2パーセントで、生活費の高騰は数字上では終焉に向けてゆっくりと進んでいるとされる。

2024年と25年1月の商品価格の比較

2025年のエネルギー価格はどうなる?

英国の光熱費は2025年1月に値上がりした。エネルギー部門の規制機関であるOfgem(オフジェム)のエネルギー上限により、平均的な世帯は1月から電気とガスに年間平均1738ポンドを支払うことになった。この料金はエネルギー価格の公平さを保つために3カ月ごとに見直されるが、実際の支払い額は家ごとのエネルギー利用量、住んでいる地域などによって変動し、1738ポンド以上になる場合もある。以前は還付制度が存在し、月毎に多少の節約が可能だったが、現在そのような制度はなくなってしまった。エネルギー上限は4月にさらに1785ポンドまで上昇すると予想されており、これは今冬に英国をはじめ欧州を襲った寒波による影響と、エネルギーの貯蔵レベルの不安定さが影響しているとされている。

水道料金に関しては供給業者によって差が生まれるが、昨年12月にイングランドとウェールズ全域の年間平均水道料金が、今後5年間で36パーセント上昇することが発表された。

「物価が下がった」と感じる日は来るのだろうか?

結論から言うと、「しばらくは来ない」と予想される。昨年10月の政府予算案で発表された国民保険料の引き上げや新たに導入される包装税などが影響し、スーパーマーケットなどの小売業はそういったコストを価格に反映せざるを得ないのが現状だ。「ガーディアン」紙は、消費者は今後数カ月は引き続き物価高に直面するだろうと述べ、食品価格は今年後半に平均4.2パーセント、非食品価格はインフレ率に沿って上昇する可能性が高いとしている。

こういった状況から、日常でできる節約術を積極的に取り入れていく方が生活の安心につながる。

すでに口座を持っている人、これから開設する人必見! 大手銀行の貯蓄口座

渡英後に主要銀行で口座を開設後、そのまま利用している方も多いのではないだろうか。しかし、各銀行では時代に合わせた新しい貯蓄口座を提供しており、改めて見直せばより良い貯蓄方法が見つかるかもしれない。ここでは主要銀行の貯蓄口座についてその一部紹介する。

※AER…Annual Equivalent Rateの略で、利息が毎年1回支払われ複利計算される場合の利率。gross a year…税金が差し引かれる前の利率
※ここで紹介したサービスは一例で、それぞれに細かな利用条件があります。新たな貯蓄口座の開設を検討の場合は、必ず最新の情報、条件をご確認ください

さまざまな貯蓄口座が魅力HSBC
エイチエスビーシー

HSBC

HSBCにすでに当座預金口座(Current Account)があれば、毎月25~250ポンドを貯蓄できる定期貯蓄口座(Regular Saver)を開くことができる。12カ月間引き出しを行わなければ5% AER/グロスの固定金利が適用され、金利は12カ月後に支払われる。12カ月の経過後、HSBCにほかの貯蓄口座を持っていない場合はフレキシブル貯蓄口座(Flexible Saver Account)などに切り替わる。フレキシブル貯蓄口座では、結婚式や新車購入など目的に応じて複数の口座を持つことができ、開設は1ポンドから可能。また、残高に上限はなく、定期預金、毎月一定額を口座に振り込む、一括払いのいずれかを選択でき、必要なときに手数料なしでお金を引き出しできる。金利は1.50% AER、1.49% グロス。

固定金利貯蓄口座(Fixed Rate Saver)では、1年または2年の貯蓄期間を選択し、2000~100万ポンドを預け入れできる。利息は1年で4.15% AER/グロス、2年で3.90% AER/グロスで、年払いまたは月払いで受け取りが可能。5万ポンド以上の預金をした場合、固定金利期間が終了するまで、解約、また引き出しはできない。5万ポンド未満の場合は、90日分の利息を手数料として支払えば、全額を引き出し、早期に解約することができる。なお、定期貯蓄口座をすでに持っている場合は開設できない。

www.hsbc.co.uk

クラブ会員制度があるLloyds Bank
ロイズ・バンク

Lloyds Bank

すでに当座預金口座がある人が開設できる月間貯蓄口座(Monthly Saver)は、期間中にお金を引き出すことができ、固定金利で5.25% AER/グロス。利息は12カ月後に支払われる。月に25~250ポンドの貯金が可能で、12カ月期間満了後は標準貯蓄口座(Standard Saver)に切り替わる。なお、月間貯蓄口座の期間終了前に銀行からお知らせが来るので、次の最適な貯蓄口座を検討することが重要だ。標準貯蓄口座は1.30~1.80% AER/グロス変動金利で、利率は口座の残高に応じて変わる。

また、すでに普通預金口座を持っている人が加入できるプレミアム会員制度「クラブ・ロイズ」もある。クラブ・ロイズ口座を持つには月額3ポンドが別途かかるが、毎月2000ポンド以上入金すると、手数料は免除される。クラブ・ロイズ口座の特徴は通常の貯蓄口座より優遇された金利が適用されることに加え、1年分のDisney+、映画チケット6枚、1年分雑誌定期購読などの中から特典を一つ享受できる。会員はクラブ・ロイズ月間貯蓄口座(Club Lloyds Monthly Saver)にアクセスでき、預金額は1カ月あたり25~400ポンドで、1年後に固定金利で6.25% AER/グロスの利息を受け取ることが可能。ただし、同口座は1年間のみ有効で、1年後に標準貯蓄口座に変換される仕組み。

www.lloydsbank.com

短期、中期目標の貯蓄にBarclays
バークレイズ

Barclays

エブリデイ貯蓄口座(Everyday Saver)は短期期間的な貯蓄計画、また口座から引き出しを行う可能性が高い場合に利用しやすい貯蓄口座。残高が1万ポンド以下の場合は1.51%AER、1.50%グロス変動金利が適用され、1万ポンドを上回る場合は1.16%AER、1.15%グロス変動金利が適用される。例えば1万100ポンドを預金した場合、1万ポンド分には前者の金利、100ポンド分は後者の金利が適用。1ポンドから始めることができ、1000万ポンドまで預金できる。ただし、2025年2月13日から金利が変更され、預金額1ポンドから全て1.26%AER、1.25%グロス変動金利が適用される点に注意。

リワード貯蓄口座(Reward Saver)は引き出しを行わない月の金利が高く、引き出しを行うと金利が下がるタイプの貯蓄口座。引き出しを行わない月の金利は2.51%AER、2.48%グロス変動金利、行なった月は0.76% AER/グロス変動金利が適用となる。口座にアクセスすること自体は可能だが、残高を増やしつつなるべく手をつけなくてすむ預金がある人向けで、1~1000万ポンドまで預金できる。

そのほか、より高い金利の預金口座が利用できるバークレイズ・ブルー・リワーズ(Barclays Blue Rewards)もある。月額5ポンドで利用でき(加入条件あり)、Apple TV+などが無料で使える。

www.barclays.co.uk

比較的金利が良いNatWest
ナットウェスト

NatWest

既存の当座預金口座の顧客向けに、即時アクセス可能なデジタル定期貯蓄口座(Digital Regular Saver)を提供。月間残高が5000ポンドまでの場合には、変動金利が6.17% AER、6%グロス変動金利となり、5000ポンドを超える場合には、1.50% AER、1.49%グロス変動金利となる。この口座はオンラインで開設でき、顧客は毎月1~150ポンドまで貯蓄可能で、利息は月の第1営業日に支払い。また、口座からいつでもお金を引き出すことができる。また、フレキシブル貯蓄口座(Flexible Saver)もあり、開設は1ポンドから可能。貯蓄額に応じて4段階の変動金利が設定されており、預金額が多ければ多いほど金利が良い。利息は毎月支払われる。

また、既存、新規加入の顧客の両者が始められる固定期間貯蓄口座(Fixed Term Savings)もある。1~500万ポンドの残高に対して1年で4.05% AER、3.98%グロス、2年間の期間で3.90% AER、3.83%グロスの固定金利となっており、利息は毎月の第1営業日と満期日に支払われる。固定金利の商品なので1度始めたら満期まで金利の変更はない。しかし、ほぼ毎月その固定金利のレート設定が変わる上、申し込みできる期間が新規・既存の顧客によって異なる点には注意が必要。預金が多ければ多いほど、固定金利が良いタイミングで開設したい。

www.natwest.com

引き出しを抑えた貯蓄を目指すならNationwide
ネーションワイド

Nationwide

既存の当座預金口座の顧客が利用できるフレックス貯蓄口座(Flex Regular Saver)は、年間6.50% AER/グロス変動金利を提供し、オンラインで開設可能。ただし、1年で4回以上の引き出しを行なった場合、残りの期間の利率は年間1.75% AER/グロス変動金利に下がってしまうことに注意が必要。月の入金額の上限は200ポンド。

1年トリプル・アクセス・オンライン貯蓄口座(1 Year Triple Access Online Saver)は、4% AER/グロス変動金利を提供、これも1年で4回以上引き出すと1.75% AER/グロス変動金利になるが、一度の入金額は500万ポンドまでできる。

一方、引き出しが多ければ、12カ月で3% AER/グロス変動金利のフレックス・インスタント貯蓄口座(Flex Instant Saver)が適している。この口座では貯蓄に無制限にアクセスできるため、必要なタイミングで引き出しができる。オンラインで開設可能だが、同口座も既存の当座預金口座保有者のみ対象だ。さらに、11~17歳の若い貯蓄者向けに、子ども用貯蓄口座であるFlexOne貯蓄口座(FlexOne Saver)も提供している。この口座は、5% AER/グロス変動金利と無制限の引き出しが可能で、オンライン、支店で開設可能。この口座は23歳まで使用でき、終了前にオプションに従って別の貯蓄口座へ切り替える。

www.nationwide.co.uk

貯蓄期間が終わっても続けられるSantander
サンタンデール

Santander

サンタンデールは、既存の当座預金口座の顧客向けに、最初の12カ月間は5% AER/グロスの固定金利を提供する定期貯蓄口座(Regular Saver)を提供している。顧客は毎月200ポンドまで貯蓄できるが、貯蓄期間終了後は手続きなしでロールオーバー期間になり、最初の1年が経過しても口座は閉鎖されず、その時点の一般的な金利が引き続き支払われる仕組み。既存の当座預金口座から定期的に引き落とされる資金で口座に資金を入金する必要がある。顧客が毎月200ポンド以上を貯蓄した場合、または当座預金口座から資金を入金しなかった場合は、銀行は顧客の口座を金利が大幅に低下するエブリデイ貯蓄口座(Everyday Saver)に変更する権利を持つことに注意。

また、現在口座を持っていない人対象に引き出し回数が月に2回以下の場合に1.80% AER、1.79%グロス変動金利の限定アクセス貯蓄口座(Limited Access Saver)を提供している。ただし、引き出し回数が月に3回以上の場合は、1%AER/グロス変動金利が支払われる。口座の有効期間は12カ月。

また、残高が1~200万ポンドの場合、1.20%AER/グロス変動金利でアクセスが無制限のイージー・アクセス貯蓄口座(Easy Access Saver)も提供。これも口座期間は12カ月で、その後エブリデイ貯蓄口座に切り替わる。

www.santander.co.uk


銀行口座を使って効率よくお金を貯めるには?

給料などの定期収入から貯蓄を増やしていくには、適切な貯蓄口座を選び、最大限の利率が適用される金額を預金することが重要。また、利用前に綿密な貯蓄プランを計画する必要がある。ここでは貯蓄口座との付き合い方、考え方の一例を紹介する。

その1
引き出し可能な普通預金口座を設定

必要な預金を各貯蓄口座にお金を入れる大元となる、メインの普通預金口座を決定する。金利は良くなくても常に利息を得られ、いつでも好きなときに預金や引き出しができることがメインの口座選びのポイント。ここをハブに、毎月または一括でさまざまな他の貯蓄口座に移すことで、さらに利息を増やすことができる。

その2
預金可能額に合わせた高金利の口座を決定

メインの普通預金口座が決まったら、適切な定期貯蓄口座を選択。定期貯蓄口座は毎月50~300ポンドなど少額のみの入金となるが、比較的利率が良いものが多い。ただし、最も高い金利はすでに口座を持っている顧客や特定の当座預金口座を持っていることが条件となることが多いので注意。

その3
定期預金口座を決定

定期預金口座貯金は1年から数年の間、口座からの引き落としができないものの、金利に関しては非常に良いものが多い。期間中に貯金の切り崩しが必要ないと確信している場合のみ、定期預金をオプションとして検討すること。

注意すべきポイント

  • 金融機関が破綻した場合に顧客の資金を保護する金融サービス補償制度(FSCS)は一つの金融機関で1人あたり最大8万5000ポンド(共同口座の場合は17万ポンド)までのため、この額を超える場合は、複数の銀行に分けて貯蓄することを検討する必要がある。
  • 利息が一定の額を超えると税金を支払わなければならないことに注意。控除額は支払っている所得税率によって異なる。詳細は個人貯蓄控除(PSA)で検索を。

大手銀行

ユニークな方法で楽しく実践 巷の気になる節約術

余計なものを買わない、お金を使わない週末を設けるなど、支出を抑える方法はさまざまだが、制限を設け過ぎるのも辛い。ちょっと「やってみたい」と思えるくらいの方が、結果的に節約につながる。

意外な掘り出し物があるかも!?警察のオークションを活用

警察の押収品という非常にニッチな世界だが、ジャンルの決まっていないオークションのために競争率も低めだ。欲しいアイテム、予算に見合ったものがあったらぜひ参加してみてほしい。

警察オークション

略奪品、紛失物を購入できる

英国の警察では、押収した略奪品、また届けられた紛失物の所有者を見つけることができずに保管しているアイテムを多く抱えている。保管場所に困るであろうこういった品々を、一般人でも購入できる機会がある。eBayで購入、またはオークション・ハウスに行き、競売さに参加する二つの方法がある。

eBayで購入するには、アカウントを持っている警察からのみ可能となる。例えば、レスター警察サセックス警察。アイテムには配送オプション付きであることも多いため、遠方の警察署が出品したものでも大丈夫。近隣の場合は警察署での引き取りが可能なのかどうか、購入前に必ず確認しよう。一方、オークション・ハウスを訪れ、実際に競売に参加する方法は、現場の雰囲気を楽しみながら参加できるのが魅力だ。アカウントには、ハイブランドの衣料品や靴のほか、パソコン、時計、カメラのレンズなど実にさまざまなものが出品される。

掘り出し物は自転車

オークション・ハウスで直接競売に参加する方が、eBayよりずっと一般的。裁量が運営側に任されているために、情報の開示方法が統一されていない。警察署によってオークション情報を分かりやすく開示したりしなかったりとバラバラな対応なので、手っ取り早く、「police auction 〇〇(地域名)」などでネット検索し、近隣のオークションを探そう。

通常、オークションは利益を得るために最低入札額を設定しているが、警察オークションの場合はとにかく保管した品物を処分することが優先事項であるため、利益を上げることは二の次。そのため品物が通常の価格よりも大幅に叩かれ、ハイブランド、また高価格なアイテムが市場価格の10分の1以下で落札されることもあるという。

出品されるアイテムはebayと同じようなラインアップだが、盗難の自転車が頻繁に出てくるのは注目に値する。特に最近発売された新しいモデル、ほぼ新品の状態の良い自転車に出合える可能性がある。また、車もオークションに出ることがある。車両の多くは、何らかの未払いの金融契約により差し押さえられたもの。ほかのアイテムと同様に市場価格よりは低く競り落とせるものの、走行距離など品質が見合ったものであるかは自分の目で直接確かめる必要がある。

オークションに参加する際の注意点

実際にオークション・ハウスに行く機会に恵まれ、実際に入札を試みる場合は、①事前にリサーチをすること(狙っているアイテムの相場を知っておく)、②最高入札額を設定し、予算を使いすぎないようにする、③可能であれば様子見のために1、2回は入札せずに流れを確認するために会場を訪れる、など入念な準備をお勧めする。

なお、実際に落札した際、ほとんどのオークション・ハウスではプレミアム料金(手数料のようなもの)やVATが上乗せされて請求されるので、トータル価格で意外と高くつくことをお忘れなく。

  • ジョン・パイ・オークションズ
    www.johnpye.co.uk
    エディンバラ、リーズ、プリマス、南ウェールズ、北アイルランドの各地で開催される警察や政府のオークションを探すことができる。
  • ウィルソンズ・オークション
    www.wilsonsauctions.com
    ウェスト・ミッドランズ警察やエイボン&サマセット警察など、英国とアイルランド全土のさまざまな法執行機関や政府機関のオークション情報がある

ゲーム感覚で取り組む定期的に節約&貯蓄を続けるメソッド

実際に自らの手で現金を直接移動させることで貯蓄を見える化し、節約に対する強い姿勢を身につけることも大事。銀行の貯蓄口座と併用し、自分に合う貯蓄法を見つけよう。

本当に必要なのか考える時間をとる

「この間買ったアレ、結局使ってない」なんてことにならないために、無駄なものはとにかく買わないようにすることが大事。買う前に一歩踏みとどまる時間を意図的に設けることで、無駄な買い物を防ぐことができる。

30日ルール
即時即決の買い物は避け、30日間待ってから改めて確認する。30日の間はオンラインの購入ページではなく、商品をスクリーンショットで撮影してスマホなどに保存。とにかくすぐに商品が購入できる状況になることは徹底的に避ける。30日後に画像を確認し、買うかどうか決める。

財布にメモを入れる
財布の中やカードの表面などに「これは本当に必要か?」というメモを残したり直接貼ることで抑止力なる。

日常的な貯金グセをつける

銀行の貯蓄も含め、なんでもオンラインで片付いてしまうこの時代、あえてアナログなやり方で節約に取り組むのも良いのかもしれない。以下の二つはオンライン上でよく目にする方法だ。

100封筒チャレンジ
中に1~100の数字を順番に書いた封筒(紙やメモでもOK)を100枚用意。それを袋や箱に保管する。そこから毎日1日1回封筒を選び、書いてある数字と同じ金額の現金を封筒に入れ、箱に戻す。これで100日後には5050ポンドを貯められる、というもの。100枚が難しければ、20~50枚でチャレンジしたり、現金の代わりにアプリで入金するなど、自分に合った楽な方法でチャレンジしてみよう。

52週間チャレンジ
1年はだいたい52週あるが、開始する第1週に1ポンド、第2週に2ポンド、第3週に3ポンド……と週ごとに1ポンドずつ増やしていき貯金し、これを52週間続ける。このチャレンジを完遂すると1378ポンド節約できる。

 

映画誕生から130年 欧州映画の過去•現在•未来

130周年を迎えた欧州映画の過去•現在•未来

映画誕生から130年。リュミエール兄弟が世界に初めて映像を映し出してから、映画は人々の夢や現実を映す強力なメディアとなってきた。特に欧州映画は、芸術性と社会的メッセージを両立させ、世界の映画史に多大な影響を与えている。この記事では、130年にわたる映画史を英独仏作品の視点から振り返りつつ、現代におけるその意義と、未来に向けた進化の可能性を探る。
(文・取材: 英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

1895-1920s
映画産業の創成期から黄金の20年代まで

映画の歴史的な始まりは、1891年に米国のトーマス・エジソンによって発明された映写機「キネトスコープ」とされている。これは箱型ののぞき窓から一人で映像を観ることができる機械だった。その後、1895年にフランスのリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」は、スクリーンへと動画を投影する形のもの。一度に多くの人が鑑賞できるようになり、世界初の商業的な映画上映を行ったことから、現代につながる映画の起源とされている。

「映画の父」とされるオーギュスト(左)とルイのリュミエール兄弟トーマス・エジソンと並ぶ映画発明者であり、
「映画の父」とされるオーギュスト(左)とルイのリュミエール兄弟

初めての上映が行われたのはパリのグラン・カフェで、リュミエール兄弟による「ラ・シオタ駅への列車の到着」「工場の出口」など、ワンショットで撮影された50秒ほどのショート・フィルムが公開された。映画を観た観客たちが画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から逃げ出したという逸話も残っている。

映画は登場と同時に世界中で反響を呼び、その翌年には各国でも上映されるようになった。作品にも徐々に筋書きや演出などが加えられるようになり、1902年に公開された「月世界旅行」は、世界で初めてのストーリーラインを持ち、複数のシーンで構成された映画だった。さらにカメラの動きや編集技術が発展することで、より複雑で面白い映画が作られるように。1920年にドイツで公開された「カリガリ博士」がシュルレアリスムにも大きな影響を与えたほか、監督・俳優として名をはせたチャールズ・チャップリンが誕生したのもこの年代である。

月世界旅行 監督・主演: ジョルジュ・メリエス月世界旅行 Le Voyage dans la Lune
1902年/16分/サイレント
監督・主演: ジョルジュ・メリエス
世界初のSF映画。天文学者たちがカプセル型の宇宙船で月に向かう

大きな画期となったのが、1927年に米国で世界初のトーキー映画として製作された「ジャズ・シンガー」だ。トーキー映画の登場によって、登場人物の声やセリフ、音楽が折り合わさり、物語の伝え方も大きく変化していく。1929年にはディズニー制作のアニメーション「蒸気船ウィリー」、シュルレアリスムの傑作と称される「アンダルシアの犬」が公開。欧米を中心とした映画文化が一気に花開いていった。

参考: MoMA「History and development of film」、フランスニュースダイジェスト1019号「映画誕120周年 リュミエール家の軌跡をたどる」

英国 1920s-
英国とハリウッドの切れない関係

巨大な米国映画産業の流入

1910年ごろまでにロンドンを中心に30を超える映画スタジオが設立されており、国内外で英国映画の市場は拡大を続けていた。ところが、より収入が見込める長編映画産業が米国で発展したことで、1920年代の英国でも米国の作品が多数上映されるようになる。国内の映画産業の未来を危惧した英政府は、市場を守るための数々の策を打った。そのうちの一つが質の高い映画製作を推奨した1938年の映画法で、米国はそれをうまく利用して英国に自国の映画スタジオを多数設立することに成功。1930年代にスタジオを作ったワーナー・ブラザーズなど、米大手スタジオが英国で活性化するきっかけの一つになった。

1950年、政府は映画のチケット価格の一定割合に自主的に課税するイーディ税を導入。米国の映画でも英国で製作すれば製作資金を政府から受け取ることができたため、ハリウッドのスタジオは英国での映画作りをさらに進めるようになり、ユニバーサル、パラマウントなど米大手の製作会社も英国に参入した。両国の公用語が英語であるため、黎明期から英国の映画産業は米国とどうしても切れない関係になっている。

英国と米国の才能の行き来

米国の映画が英国で製作されたように、より大きな市場を求めて英国人の監督が米国に拠点を移したり、英米の共同作品が両映画市場でヒットしたりと、英国は米国の映画産業にも多大な影響を与えてきた。

特に知られているのは、英米で50本以上の長編映画を監督したアルフレッド・ヒッチコック。製図工、広告デザイナー、ライターとしてキャリアをスタートさせたのち、ロンドンでの映画業界で働き始めたヒッチコックは、暗い題材や最後のどんでん返しなどを巧みに取り入れ、国内外でたちまち売れっ子の監督になった。1939年には家族と共に米ハリウッドへ移住。数々のヒット作の中には、同名小説を原作とした「サイコ」があり、映画内で使われた音楽は今でもホラーの演出として頻繁に使用されている。

サイコ Psychoサイコ Psycho
1960年/109分/英語
監督: アルフレッド・ヒッチコック
主演: ジャネット・リー
「サイコ」のカチンコを持つアルフレッド・ヒッチコック

デヴィッド・リーンがメガホンを取り、第30回アカデミー賞で作品賞を含む7部門を受賞した、タイのクウェー橋を舞台にした戦争映画「戦場にかける橋」は英米合作映画として知られている作品の一つ。俳優で映画監督でもある早川雪洲も出演し、日本軍の捕虜になった英軍兵と日本人大佐との交流を描き、人間の尊厳と戦争の凄惨せいさんさを描いている。

サイコ Psycho戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai
1957年/161分/英語、日本語、タイ語
監督: デヴィッド・リーン
主演: ウィリアム・ホールデン

サイコ Psycho「戦場にかける橋」で
クウェー川鉄橋の前に立つニコルソン大佐(アレック・ギネス)と
斉藤大佐(早川雪洲)。
クライマックスの橋の爆破シーンは特に有名

同じく英米共同出資で作られた作品で有名なのは、ロンドン生まれのキャロル・リードが監督したミステリー映画「第三の男」。米国人の作家が友人の依頼を引き受けるためにオーストリアのウィーンを訪れたが、友人が亡くなったことを知り、その死に関与していた3番目の男の正体を探る。リード監督は、デヴィッド・リーンと共に英映画産業を活性化させた。

サイコ Psycho第三の男 The Third Man
1949年/105分/英語、ドイツ語
監督: キャロル・リード
主演: ジョゼフ・コットン

参考: https://publications.parliament.uk

ドイツ 1930s-40s
ナチス・ドイツとプロパガンダ映画

映画界にも政治が積極的に介入

「黄金の20年代」と呼ばれたワイマール共和国の時代が終わり、ナチスが政権を握った1933年のドイツ。宣伝相となったヨーゼフ・ゲッベルスは、映画にも政治が介入していくことを宣言する。翌年に映画法が施行されると、検閲が強化され、作品にはそれぞれ「政治的に価値がある」「国民を啓蒙する価値がある」など格付けが行われた。映画会社は国家が管理するUfa-Film GmbH(UFI)に統合。ユダヤ人は解雇され、映画界から完全に排除された。

オリンピア Olympiaオリンピア Olympia
1938年/第1部126分 第2部100分/ドイツ語
監督: レニ・リーフェンシュタール

オリンピア Olympia「オリンピア」の撮影をするリーフェンシュタール(写真右)。
撮影へのこだわりのあまり、何度も再撮したという逸話も残っている

ナチス政権下では1000本以上の長編が製作されたが、政権が直接関与していたり、ナチスの価値観を具体的に体現していたりするような真のプロパガンダ映画は、そのうち10分の1程度。それらは今日でも危険とみなされ、公開が禁じられている。それ以外は現在でも鑑賞することができるが、ナチスのイデオロギーに基づいて理想化された完璧な社会のイメージや、敵の過激な描写などが含まれている。例えばアーリア人が優れた人種であることを意図するセリフがあったり、兵士がエキストラとして動員されていたりするため、芸術的に評価されていたとしても、ナチ時代に製作された作品であることを意識して観る必要がある。

ナチ政権下で映画を作った人々

レニ・リーフェンシュタールは、1933~35年にナチ党大会の記録映画を3本製作した人物で、1936年に開催されたベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」を撮影した。「民族の祭典」と「美の祭典」の2部構成で、スローモーションなどの新しい技術や美しい構図、特殊なアングルを導入。スポーツを芸術と捉え、その後数十年間のスポーツ報道に影響を与えたといわれる。しかし、本作のアスリートは理想像や人種的な優越性を誇示するものとして解釈され、さらには平和の祭典を利用してアドルフ・ヒトラーとナチス・ドイツを肯定的に描いたことで、史上最も有名なプロパガンダ映画の一つとなった。リーフェンシュタールは2003年に亡くなるまで、作品は非政治的であり、自分はナチ党員ではなかったことを主張したが、本作にナチスが介入していたことに変わりはない。

オリンピア Olympiaオリンピア Olympia
1938年/第1部126分 第2部100分/ドイツ語
監督: レニ・リーフェンシュタール

オリンピア Olympia「オリンピア」の撮影をするリーフェンシュタール(写真右)。
撮影へのこだわりのあまり、何度も再撮したという逸話も残っている

また、1937年には初の日独共同製作映画「新しき土」が作られている。共同製作の構想は日独双方の政府に受け入れられ、ゲッペルスは製作費の半分を支出。ドイツ留学を終えた輝雄がドイツ人の恋人ゲルダと許いいなづけ嫁の光子との間で揺れ、伝統と現代的な価値観による葛藤を描く。ゲルダは完璧なアーリア人として描かれ、満州の描写は日本向けのプロパガンダとして捉えられる。共同監督と脚本を務めたアーノルド・ファンクはかつて山岳映画のパイオニアとして名をはせた人物。その後新作を撮影したものの、ナチスの意図を反映して完成させた作品に納得しなかったという。戦後は森林官として働き、1974年にひっそりと亡くなった。

新しき土 Die Tochter des Samurai新しき土 Die Tochter des Samurai
1937年/125分/ドイツ語、日本語
監督: アーノルド・ファンク、伊丹万作
主演: 原節子、小杉勇

「新しき土」「新しき土」には当時10代だった原節子が出演。
本作はドイツ版と日本版で若干内容が異なる

参考: filmportal.de、Die WELT「Zwei Völker ohne Raum」

フランス 1950s-60s
戦後の映画界を革新したヌーベル・ヴァーグ

映画改革運動を開始した若手批評家たち

フランスで1950年代末に興隆したヌーベル・ヴァーグ(新しい波の意)は、戦後のフランスという特殊な社会文化的背景の中に根を下ろした。当時のフランス映画は文芸作品の脚色を重視し、凝ったセリフや硬すぎる言い回しが飛び交う「良質な伝統」作品だった。ヌーベル・ヴァーグはそれをきっぱりと否定し、映画監督は小説家や画家のようにカメラで作家として自己表現できるものだと「作家主義」を主張した。これを率いた若手監督の代表はフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット。撮影の経験はほとんどなく、リソースも少ないこれらの監督は、もともとは「カイエ・デュ・シネマ」という雑誌に批評家として寄稿していたため「カイエ派」と呼ばれている。

カイエ派の映画製作者たちは、現実とスクリーンに映し出されるものとのギャップにうんざりしていた。従来の映画のように「物語が過不足なく描かれているのか」という演出は重視せず、目の前に映る景色を記録に残すことに重きを置き、現実が映り込んでいく映画を撮るようになる。俳優たちは無名で、多くは若く平凡なキャラクターを演じる。台詞は単純で、しばしば偶然性と即興性を重視した。

例えば、ゴダール作の「勝手にしやがれ」では主役のベルモンドはパリの若者言葉を使い、ヒロインのセバーグは米国訛りのフランス語を訂正せずにそのまま生かす。技術の進歩により、軽量カメラと高感度フィルムが登場した時期でもあったため、大掛かりな装置は必要とせず、街頭で撮影することが可能だった。その上、パリの街中で車椅子にカメラマンを乗せて引っ張って撮影するなど、低予算かつ大胆な手法で見事な映像を作り上げた。「美しきセルジュ」を撮ったシャブロルは、自然光を捉えるのに長けたカメラマンを雇い、スタジオの照明では出せないような物事の微妙な輪郭や質感、老朽化と美しさの両方を浮かび上がらせる光を映し出した。こうして現実をかつてないほど身近に、そして物語を自然に表現できるようになったのだ。その後も「良質な伝統」に反抗しながら、各監督は独自のスタイルを開発していく。

ゴダール軽量カメラを持ち撮影するゴダール。ゴダールは伝統的な映画の形式を完全に打ち破る革新的なスタイルでその名を知らしめた

オリンピア Olympia勝手にしやがれ À bout de souffle
1960年/90分/フランス語
監督: ジャン=リュック・ゴダール
主演: ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ

国境を越えて世界へ波及

ヌーヴェル・ヴァーグは1960年代末には求心力を失っていくが、フランス映画とその製作者たちが伝えるメッセージは国境を越えて広がっていった。 東欧では、ポーランド人のアンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキー、チェコ人のヴェラ・ヒティロヴァ、ラテンアメリカではブラジルの映画運動「シネマ・ノーヴォ」、そして日本の「日本ヌーヴェル・ヴァーグ」など各国に影響を与え、自国の映画の規範を破ることをためらわない新しい監督たちが出現していった。

オリンピア Olympia美しきセルジュ Le Beau Serge
1958年/98分/フランス語
監督: クロード・シャブロル
主演: ジャン=クロード・ブリアリ、ベルナデット・ラフォン

参考: 中条省平「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)、National Audiovisual Institute(INA)「François Truffaut parle de la Nouvelle Vague」、La BnF「La Nouvelle Vague au cinéma」

ドイツ 1950s-80s
東ドイツ唯一の映画製作会社DEFA

ナチスと決別した国営映画会社

第二次世界大戦後、西側連合国はナチスとメディアの深い結びつきからドイツでの新作映画製作に反対していた。一方で、ソ連は映画製作のため独ソ合資会社の設立を許可し、終戦の翌年にDEFA(Deutsche Film-AG)が誕生する。東西ドイツ分断後の1953年に国有企業になると、東ドイツでの映画製作は全てDEFAで行わなければならなくなった。DEFAではドイツが再統一されるまでに、長編映画700本、短編映画450本、アニメーション950本、ドキュメンタリー2000本、ニュース映画など2500本が製作された。

DEFAは設立1年目に3本の映画を製作し、そのうち1本はドイツの戦争犯罪を描いたものだった。その後も反ファシズムは、DEFA作品にとって重要なテーマの一つで在り続ける。そのなかで最も知られている作品が、映画「嘘つきヤコブ」だ。第二次世界大戦中、ポーランドのユダヤ人ゲットーに暮らすヤコブは、ゲシュタポに出頭した際にラジオでソ連軍が進軍していることを知る。その後ゲットーに戻ったヤコブはみんなにニュースを伝え、自分はラジオを持っていると嘘をつき、その後も人々に希望を与えるために嘘をつき続ける。本作は、DEFAの長編作品として唯一アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、1999年にハリウッドでリメイクもされている。

噓つきヤコブ Jakob der Lügner噓つきヤコブ Jakob der Lügner
1974年/100分/ドイツ語
監督: フランク・バイヤー
主演: ヴラスティミル・ブロツキー

噓つきヤコブ Jakob der Lügnerヤコブを演じたヴラスティミル・ブロツキー(左)はチェコの俳優。
1975年のベルリン国際映画祭では、その演技が評価されて銀熊賞を受賞した

社会主義体制で生まれた希望の作品

国庫からの資金で製作されたDEFAの映画は、誰にでも理解できること、曖昧にしないこと、文化政策の影響を受けてはならないとされていた。一方で国の厳しい体制のもと、社会主義体制に都合の悪い作品が上映禁止となることも。それは、東ドイツを指導した社会主義統一党(SED)が映画を芸術ではなく、政治的な手段として見ていたことを意味する。

映画「パウルとパウラの伝説」も、公開が危ぶまれた作品の一つだった。純愛ではなく、それぞれ家庭のある二人の恋愛を描いているからだ。公務員で既婚者のパウルとシングルマザーのパウラが関係を持つことは、個人の感情を優先するというエゴイズムであり、集団に重きを置く社会主義体制への隠れた批判であると捉えられた。SEDの政治家たちは公開を阻止しようとしたが、当時書記長だったエーリッヒ・ホーネッカーは、国際的な東ドイツの新しいイメージにふさわしいとして、特に若者に見せることを希望。公開は許可され、300万人を動員する大ヒット作品となった。

パウルとパウラの伝説 Die Legende von Paul und Paularパウルとパウラの伝説 Die Legende von Paul und Paular
1973年/106分/ドイツ語
監督: ハイナー・カーロウ
主演: アンゲリカ・ドムレーゼ、ヴィンフリート・グラットツェーダー

DEFAの多くの作品には、東ドイツの人々の日常の姿とともに、夢や葛藤、希望がありのままに映し出されており、今日でも評価されている。DEFAはドイツ再統一によって終わりを迎えたが、作品はDEFA財団によって文化遺産として保存され、現在もYouTubeなどで観ることができる。

参考: DEFA-Stiftung、SWR「Film „Die Legende von Paul und Paula“: Wie ein harmloser DDR-Liebesfilm die SED nervös machte」、Goethe-Institut「ベルリンの壁崩壊30年 東ドイツの映画と歴史」

英国 1960s-
労働者階級を描くキッチンシンク・リアリズム

英国人のリアルな日常

英国の労働者階級と映画の関係は、社会的、文化的な観点から重要なテーマ。1960年代に起きた「キッチンシンク・リアリズム」は、労働者階級の日常生活をリアルに描いた映画や演劇のムーブメントだった。そこでは貧困、失業、社会的抑圧、家族関係といったテーマが労働者階級の視点で率直に描かれている。この流れはサッチャー政権下の1970~80年代に社会的リアリズムとして発展し現在に至る。1960年代には白人労働者家庭の物語だったキッチンシンク・リアリズムは、やがて次第に人種問題や移民問題、そして同性愛などに切り込み、さまざまな社会的弱者を主人公にした作品を包括していく。

1985年の作品「マイ・ビューティフル・ランドレッド」は、パキスタンからの移民を親に持つロンドン生まれの青年オマールと、幼なじみで今は移民を狙う右翼団体に属するジョニーの恋愛を、ときにコミカルに追ったドラマ。母国の伝統と英国社会での生活の間で揺れる移民2世の立場をはじめ、労働者階級から中産階級への上昇を目指す移民と、失業して将来に希望を見いだせない労働者階級の白人の格差、そして英国に根付く人種差別と同性愛への嫌悪などが複雑に絡み合う。ベテラン俳優ダニエル・デイ=ルイスの出世作としても知られる。

マイ・ビューティフル・ランドレット My Beautiful Laundretteマイ・ビューティフル・ランドレット My Beautiful Laundrette
1985年/97分/英語
監督: スティーヴン・フリアーズ
主演: ダニエル・デイ=ルイス

その約10年後に作られたマイク・リー監督の「秘密と嘘」は家族の複雑な人間関係を通じて、アイデンティティー、家族の絆、自己受容を探る物語。1990年代の英国社会における人種的、社会的な緊張感を浮き彫りにしているものの、過度に政治的な視点ではなく、個人的な関係性を通して描いているところが特徴だ。眼科医として働く黒人女性のホーテンスは、生みの親が白人であることを知る。未婚の母、私生児、父親の異なる姉妹、不妊といった事情をのみ込みつつ暮らす、ありふれた労働者階級の家庭の姿はとてもリアルで、本作は第49回カンヌ映画祭のパルム・ドール賞を受賞した。本作で脚本は一切使用せず、セリフは現場で役者とともに即興的に作り上げられた。

秘密と嘘 Secrets and Lies秘密と嘘 Secrets and Lies
1996年/142分/英語
監督: マイク・リー
主演: ブレンダ・ブレッシン、ティモシー・スポール、マリアンヌ・ジャン=バプティスト

不平等な世の中を可視化する

1960年代後半から活躍を続ける社会派、ケン・ローチ監督の作品「わたしは、ダニエル・ブレイク」は現代英国の福祉制度がもたらす問題を鋭く批判したドラマ。心臓病で働けないにもかかわらず、福祉制度の複雑な手続きにより生活保護を受けられず、支援を求めて苦しむ中年男性のダニエル、そしてシングルマザーのケイティを主人公に、社会に見捨てられた状況でも人間としての尊厳を保とうと奮闘する人間の姿を描く。低賃金労働、住居問題、失業が人々にどのような影響を与えるか、実直な人間が生きられない社会とは何なのか、現代の資本主義社会におけるシステムの問題を直球で批判する。第69回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得した。

わたしは、ダニエル・ブレイク I, Daniel Brakeわたしは、ダニエル・ブレイク I, Daniel Brake
2016年/100分/英語
監督: ケン・ローチ
主演: デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ

フランス 1960s-現在
フランス映画を発展させた「国際共同製作」

映画振興を統括する機関「CNC」

第二次世界大戦の後、フランスは危機的状況にあった映画業界を立て直す目的で1946年に国立映画センター(現・国立映画映像アニメーションセンター、CNC)を設立した。同国の映画産業の運営と振興を統括する機関として現在も活動を行っている。現在、CNCが中心となって積極的に支援している事業の一つが国際共同製作である。2023年の国際共同製作作品数は120作品で、CNCが助成した全映画の40.3%を占める。これらの映画は38のパートナー国と製作された。

CNC1946年10月25日に設立されたCNCは公的行政機関であり、
映画をはじめ、オーディオビジュアル、マルチ・メディア、ビデオ・ゲームも統括する組織

フランスが国際共同製作に乗り出したのは1960年代から。積極的に他国政府と2カ国で共同製作する協定を結び始めた。現在では世界で一番多い61カ国と締結。同様の制度は世界中にあるが、英国12カ国、ドイツ21カ国と比べて圧倒的に締結数が多いことが分かる。この協定では複数国から資金調達ができるほか、双方の国で国産映画とみなされるため、助成金はもちろん、研修制度、調査・統計、映像教育政策など、さまざまな分野で協力できるという利点がある。

欧州評議会でも欧州連合(EU)内の国際共同製作に積極的に取り組んでいる。1991年には欧州映画製作条約を結び、加盟国を含む3カ国以上によって製作するガイドラインが整った。事実、フランスが最も共同製作を行っているのは欧州諸国である。また共同製作は、ハリウッドや国内製作が支配的である欧州大陸内での映画の流通を改善する方法としても注目されている。

国籍問わず才能がある監督を支援

今日のグローバリゼーションによって薄れてしまう地域特有の文化を守る目的として、フランスでは1984年に開発途上国に向けた制度「ル・フォン・シュッド」を創立している(2012年に世界中の映画製作者を支援する「シネマ・ドゥ・モンド」に変更)。この目的はフランスの技術を提供するとともに、徐々に頭角を現している監督を支援すること。これまでにアルゼンチンのルクレシア・マルテル監督による「沼地という名の町」、アフガニスタン・フランスの二重国籍を有するアティーク・ラヒーミー監督の「灰と土」、グルジアのギオルギ・オヴァシュヴィリ監督による「The Other Bank」、パレスチナのエリア・スレイマン監督の「D.I.」など、今や世界的に知られている監督を輩出している。

沼地という名の町 La Ciénaga沼地という名の町 La Ciénaga
2001年/103分/スペイン語
監督: ルクレシア・マルテル
主演: マルティン・アジェミアン、ディエゴ・バエナス

The Other BankThe Other Bank
2009年/90分/グルジア語
監督: ギオルギ・オヴァシュヴィリ
主演: テド・ベカウリ、タマー・メスキー

D.I. Divine InterventionD.I. Divine Intervention
2002年/92分/アラビア語
監督: エリア・スレイマン
主演: エリア・スレイマン、マナル・ハーデル

フランスはこれらの活動を通して世界における自国の文化的存在感を示しながら、才能のある監督と早くから結びつき、産業面でも文化面でも映画業界の活性化につなげている。このように多種多様な国と積極的に共同製作を行う基盤があるため、フランス映画の製作過程には各国の文化的要素が自然に組み込まれていき、自国映画の発展に貢献している。

参考: Centre national du cinéma et de l'image animée、Council of Europe、Romain Lecler「Une diversité sur mesure」、Presses Universitaires de France

 

映画誕生から130年 欧州映画の過去•現在•未来 英独インタビュー

130周年を迎えた欧州映画の過去•現在•未来 英独インタビュー

誕生から130年という歴史の中で、映画は社会の変化とともに進化した。映画や映画館は今後どこへ向かうのか。ここでは、映画産業を内側から支える英独のお2人に話を伺った。

英国
映画館は作品を通じて
観客と新しい視点を分かち合う場所

ロンドンのインディペンデント系映画館「ガーデン・シネマ」。キュレーターであるジョージ・クロスウェイトさんが語る、映画館が今の社会で果たす役割とは。

ジョージ・クロスウェイト George Crosthwait
ジョージ・クロスウェイト

キングス・カレッジ・ロンドンのフィルム・スタディーズ修士課程で教鞭を取る。2017年にはロンドンで「Japanese Avant-garde and Experimental Film Festival」を企画。20年から「ガーデン・シネマ」キュレーター。

オーナーの思いから誕生した映画館

外観も内部もアール・デコ調のガーデン・シネマは、世界中のクラシックな名作や新作映画を上映するインディペンデント系映画館として、2022年3月にオープンしました。この映画館は、オーナーであるマイケル・チェンバース氏のこだわりから生まれたといってもいいでしょう。現在83歳の同氏は、かつてこのビルの上階で法律事務所を経営し、地下に映画館を建設しました。少年時代に通っていたアール・デコ調の映画館を再現したいという思いがあったのだそうです。また、このビルにはメディア関連の企業やロンドン・フィルム・スクールの一部も移転してきており、発展途上ではあるものの、映画業界のハブとしての役割を果たしつつあるのは喜ばしいことです。

The Garden Cinemaガーデン・シネマ

パンデミックで再認識した映画館の在り方

ガーデン・シネマも新型コロナによるパンデミックの影響を大きく受けました。開業予定だった20年3月は、英国の最初のロックダウンの直前であり、実際にオープンできたのは2年後です。その間に自宅でのエンターテインメントが主流となり、ストリーミング視聴が定着しました。そのため多くの映画館が閉鎖され、今もこの業界は非常に困難な状況にあります。また一方で、映画館という場所が提供する「体験」を一層大切にする観客が増えてきました。映画館での共同体験や特別な空間が、単なる鑑賞を超えた価値を持つようになったといえます。

The Garden Cinema地下に二つのスクリーンと、バー・エリアがある

ガーデン・シネマでは新作だけでなく、クラシック映画やキュレーションされた特集を積極的に上映しています。自宅で何万本もの映画をストリーミング視聴できる、選択肢があまりに多い現代において、「慎重に選ばれ、提示される」感覚が、人々にとって魅力的なものとなっていると感じます。プログラムの内容を信頼し、ここに来ることで何を観れば良いかという指針を得ることができるからです。この映画館全体が設計から上映作品、提供するイベントまで、全てが人々をつなげることを目的としています。映画を観た後、ロビーで知らない人とその映画について話し始めることもあるでしょう。それは単なる鑑賞体験にとどまらず、コミュニティーを築き、既存のロンドンの映画文化に新たな場所を提供する試みなのです。

The Garden Cinema2025年には地上階に三つ目のスクリーンがオープン予定

インディペンデント系映画館の未来

あるシーズンでは非常にニッチな作品を取り上げる一方で、昨年のアル・パチーノ特集のように、観客に親しみやすいものも提供するなど、年間を通じてバランスの取れたプログラムを目指しています。社会動向については、それが意識的であれ無意識的であれ、必然的にプログラムに影響を与えると感じていますが、政治的なトレンドを追い過ぎることは避けたいと思っています。そうすると、企画自体がその時代に限定されたものになり、時間が経つと古臭く感じられる可能性があるからです。結局のところ、最高の映画は時代を超えて鑑賞する価値があり、社会の大きな変化を乗り越えて存続します。それが映画の素晴らしさだと思います。そして、時には昔の映画が再び現代の文脈で関連性を持つこともあります。インディペンデント系映画館の未来は挑戦に満ちています。ガーデン・シネマやほかの独自のプログラムを上映する映画館は、過去の名作を中心としたプログラムで成功を収めているので、インディペンデント系映画館の未来は「過去」にあるともいえるかもしれません。同じ新作映画が上映される大手チェーンとは異なる、独自のビジネス・モデルを持った映画館が増加するのは、業界にとっても非常に健全な流れだと思います。

The Garden Cinema

The Garden Cinema
39-41 Parker Street, Covent Garden
London WC2B 5PQ
Tel: 020 3369 5000
Holborn駅
www.thegardencinema.co.uk

ドイツ
過去を紡いで映画の未来が生まれる

1984年にドイツ初の映画博物館としてオープンしたドイツ映画協会&映画博物館(DFF)。あらゆる映画遺産を収集・保存し、未来へとつなぐDFFの使命について、同館ディレクターのクリスティーネ・コプフさんに聞いた。

クリスティーネ・コプフ Christine Kopf
クリスティーネ・コプフ

ドイツ映画協会&映画博物館(DFF)のディレクター。映画学、文学、メディア学、民俗学を学ぶ。映画祭をはじめ、映画にまつわる展覧会や上映プログラムのキュレーションなどを20年以上にわたり手掛けている

気付いたときには多くが失われている

私たちドイツ映画協会&映画博物館(DFF)は、ドイツ連邦映画文化館やドイツ・キネマテーク財団と共に、ドイツの映画遺産を保存し、維持し、アクセスできるようにするための中央映画図書館のような役割を担ってきました。昨今では、アナログ作品のデジタル化にも取り組んでいます。

DFFDFFの常設展示では、時代を追うごとに変化する映画の技術を追体験することができる

当館には、数え切れないほどの映画史上の重要な展示物、カメラや映写機などの機材、衣装や小道具、あるいは制作文書、脚本、写真、スケッチなどが保存されています。しかし何よりもまず、映画そのものを保存することが重要です。なぜならその多くは、最初に映画遺産の保存が考えられたときには、すでに取り返しのつかないほど失われていました。こうした活動は、映画というメディアや映画産業の発展に直接的な役割を果たしてきたとはいえません。しかし、DFFのような映画遺産機関は、映画史や映画製作に関する情報、数字、データなどの提供を通じて、映画産業と密接に絡み合っています。

映画史を体感する常設展、映画史を問う特別展

DFFの常設展示では、映画史への感覚的なアプローチを提供しています。第1部「Filmisches Sehen」(映画のヴィジョン)では、18~19世紀の多種多様な映像メディアと映画の発明がテーマ。映画的知覚がどのように機能し、どのような伝統に基づいているのかについて、古い幻灯機から映写機などを実際に動かしながら学べます。第2部「Filmisches Erzählen」(映画のストーリーテリング)では、映像、音響、演技など、映画がどのようにその効果を展開していくかを理解することができます。

DFF

特別展では、映画に関する美学的・歴史的問題を取り上げてきました。2025年2月23日(日)まで開催の「NEUE STIMMEN. DEUTSCHES KINO SEIT 2000」(新しい声 - 2000年以降のドイツ映画)展では、多様性とアイデンティティーの問題を特徴とする近年のドイツ映画に光を当てています。博物館の地下には映画館があり、日替わりでドイツをはじめとするさまざまな国の映画を上映しています。博物館から映画館、保存・研究活動からアウトリーチまで、こうした活動を一つ屋根の下で行っているのは、今のところドイツでは当館だけであると自負しています。

映画の存在感はますます増していく

映画の歴史はまだ浅く、130年の間に映画は信じられないほど変化し、発展してきました。そのため映画の未来を予想するのは容易ではありません。確かなことは、私たちの日常生活の中で、映画というメディアの存在感が拡大し続けていくだろうということです。映画館やストリーミング・サービスだけでなく、広告スペース、スマートフォン、ソーシャル・メディアなど、私たちはあらゆる場所で映画と出会っています。映画鑑賞がパーソナル化する一方で、他者と共に体験する場所としての映画館がこれからも残り続けるだろうということも、映画を愛する専門家の一人として確信しています。

DFF

映画は文化的資産であり、ほかの芸術と同様に、思考プロセスや議論のきっかけを作ってきました。また鑑賞者の美的感覚を喜ばせ、社会的交流の重要な基礎を築き、人々の視点や世界を広げるという点において、重要な役割を担っています。そうした映画遺産を保存し、いつでも誰もが参照できる状態にしておくことは、歴史を検証するのと同じくらい重要なことです。私たちが歴史に関わるとき、私たちよりも前にそこにいた人々から学びます。そうしてまた新しい映画の歴史が生まれるのです。

DFF

DFF – Deutsches Filminstitut & Filmmuseum e.V.
Schaumainkai 41,
60596 Frankfurt am Main
Tel: +49 69 961 220 – 220
Schweizer Platz駅
www.dff.film
 

Life in the UK Test 合格体験記 試験対策すれば問題なし!

試験対策すれば問題なし!Life in the UK Test
合格体験記

無期限在留許可(Indefinite Leave to Remain)や市民権(British citizenship)など、いわゆる「永住権」を取得するには、このLife in the UKテストに合格することが必須となる。2024年8月に実際に受験してみて、「問題を解きまくり、解答を暗記すること」が合格につながった。逆をいえば考えて解答する設問はなく、ひたすら覚えれば問題ない試験だったともいえる。一説には英国人でも正答するのは難しいといわれているこのテスト、ここでは近い将来に受験する方への参考のために、その概要と対策を簡単に紹介する。 (文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: 英政府ウェブサイト

Life in the UK Test

Life in the UK Testとは?

永住権など一部のビザ取得の際に必要となる資格の一つで、英国での生活や歴史、伝統、文化、宗教などにまつわる設問24問を45分間で解答する試験。合格ラインは75パーセント以上。試験は指定のテスト・センターのパソコンで行う。試験日の3日前までにwww.gov.uk/life-in-the-uk-testで事前予約が必要で、受験料は50ポンド。
→8月中旬に受験したかったので、その約1カ月前に予約した。指定日の前後の日程、また時間帯ともに選択肢に余裕があるように見受けられたが、特に希望の受験日がある場合は、早めに予約する方が無難。

実際に行った試験対策

試験日を予約してから、オンラインで公開されている非公式の模擬試験を何回か解いていたが、2022年に亡くなったエリザベス女王がまだ現役であると想定された設問が多々見られたことから、最新のものがベターと考え、www.officiallifeintheuk.co.uk/shopから2024年度版の公式問題集、教科書、学習の手引きの3冊セットを購入。実際学習の手引きはほぼ開かず、教科書を一度読み込んだ後に全408問が掲載されている問題集を2周ほどし、誤答した問題は教科書に戻って復習する形で解答を覚えた。なお、問題集の解答ページには、教科書の参考ページも併記してあるので見やすかった。本腰を入れて試験勉強を始めたのは試験日の2週間ほど前。

試験当日

試験時間になるまで会場の外で待ち、試験官に促されテスト・センターの中へ。待合室では試験概要の説明を聞いて本人確認を行い、試験会場へ通された。公式問題集からの出題がほとんどだったが、1、2問ほどは非公式のオンライン・サイトで見たもので、軽くでもオンラインの問題を見ていて良かったと思った。10分ほどで解答を全て終え、会場を出た数分後には合格の通知をメールで受け取った。

実際、歴史や領土、社会構造など本当に教科書に沿った幅広い分野からの出題だったが、個人的に捨て問としていた五輪、パラリンピック選手などの人物名を答える問題も2問ほど出題されたので、苦手な分野こそ直前まで勉強するとより高得点が取れるはずだ。とにかく問題・解答を丸暗記するのが合格への何よりの近道だと感じた。

ちなみに、試験勉強を本格的に行う前に10年ほど前に同じ試験を受けた同僚や友人にその感触を聞いたところ、社会のルールなど知っていて損はしない日常生活にまつわる問題が多いという印象を受けたが、今回試験を受けてみて現在はより歴史に特化した問題が多く出題されていると感じた。なお、今後試験内容の方針やルールが変わる可能性は十分あるので、試験を受ける段階で最新の問題集で臨むのが安全だ。

問題例

❶ What is the youngest age at which you can be asked to serve on a jury?

  • 22
  • 18
  • 20
  • 30

❷ Which TWO developments are associated with the ‘Swinging Sixties’?

  • Reform of abortion law and introduction of decimal currency
  • Reform of children’s rights law and introduction of decimal currency
  • Reform of children’s rights law and reform of divorce law
  • Reform of abortion law and reform of divorce law

❸ Which TWO of the following are famous Paralympians?

  • Ellie Simmonds and Baroness Tanni Grey-Thompson
  • Ellie Simmonds and Dame Ellen MacArthu
  • Dame Jessica Ennis-Hill and Baroness Tanni Grey-Thompson
  • Dame Jessica Ennis-Hill and Jayne Torvill

❹ After the Bill of Rights was passed in 1689, which TWO main political groups emerged?

  • Labour and Tories
  • Whigs and Tories
  • Whigs and Nationalists
  • Nationalists and Tories

❺ When is a by-election for a parliamentary seat held?

  • Half-way through a parliamentary term
  • Every two years
  • When a Member of Parliament (MP) dies or resigns
  • When the Prime Minister decides to call one

❻ How many people serve on a jury in Scotland?

  • 8
  • 11
  • 15
  • 17

❼ In which battle during the First Word War did the British suffer 60,000 casualties on the first day?

  • Agincourt
  • El Alamein
  • The Somme
  • Waterloo

❽ Which parts of the United Kingdom have developed governments?

  • England and Wales
  • Wales, England and Northern Ireland
  • Only Northern Ireland
  • Wales, Scotland and Northern Ireland

❾ Which of the following statements is correct?

  • Mary, Queen of Scots was a Catholic.
  • Mary, Queen of Scots was a Protestant.

❿ Which TWO patron saints’ days occur in March?

  • St David and St George
  • St David and St Patrick
  • St David and St Andrew
  • St Patrick and St Andrew

解答

❶ B ❷ D ❸ A ❹ B ❺ C ❻ C ❼ C ❽ D ❾ A ❿ B

※ 本記事では、英政府ほか各機関で発表している例題を編集部が抜粋し、設問によっては一部を変更した上で掲載しています。実際の試験の難易度や問題構成とは異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

 

ETAの取得が必要に - 2025年1月8日から短期滞在者に義務付け 

2025年1月8日から短期滞在者に義務付けETAの取得が必要になります

UK Border

2024年に英国への渡航要件が変更され、日本国籍を含む英国への短期滞在にビザを必要としない訪問者は、2025年1月8日以降、新たに電子渡航認証(ETA)による渡航許可が必要になる。すでに永住権や労働ビザを取得している方は必要ないが、今後ご家族や友人が旅行などで英国を訪れる際、事前の手続きが必須となるため注意が必要だ。ここでは英政府が掲載している情報を元に、その概要と手続きの方法をまとめた。 (文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: 英政府ウェブサイト、在英日本国大使館ウェブサイト
※本記事は日本国籍を有する方への情報です。
ETAの詳細は英政府ウェブサイトをご確認ください。
www.gov.uk/guidance/apply-for-an-electronic-travel-authorisation-eta

ETA(Electronic Travel Authorisation)とは?

入国者のパスポートとデジタル上でひもづけされる電子渡航認証のことで、Electronic Travel Authorisation=ETAエタと呼ばれている。英政府による出入国管理システムのデジタル化を進める事業の一環で、英国への入国前に厳密なセキュリティー・チェックを実施し、入国管理の安全性を確保するためのもの。旅券情報等を登録の上、事前に認証を受けることが義務づけられ、英国およびアイルランド国籍者を除き、英国への全ての入国者は入国前にETAによる渡航許可の取得が必要となる。

日本国籍を含む非欧州圏の対象者は11月27日(水)から申請を開始しており、2025年1月8日(水)より英国入国時にETAが必要となる。なお、25年1月7日(火)以前に英国に入国する場合、ETAの申請は必要ない。

ETAの申請が必要な渡航者

  • 6カ月以下の旅行、親族や友人を訪問、商用、留学目的で滞在する場合
  • 3カ月以下のCreative Worker visa concession(一時就労)にて滞在の場合
  • Permitted paid engagement(プロ・スポーツ選手やエンターテイナーなど、許可された有料の業務のための訪問者が対象)にて滞在の場合
  • 英国で乗り継ぎをする場合(英国に入国しない場合も含む)

※すでにビザがあり、英国に居住、就労、または長期留学の許可を持っている場合は、申請の必要はない

申請費用

16ポンド。赤ちゃんや子どもも含め、対象となる渡航者全員がETAを取得しなければならない。なお、申請後の返金は不可とされている。

申請方法

❶ 申請に必要なもの

  • 訪英の際に携行するパスポートの原本
  • メールアドレス
  • 費用を支払うためのクレジット
  • カードやデビット・カード、Apple Pay、Google Pay

❷ 申請システム

アプリ、オンラインの二つの方法があるが、英政府のウェブサイトではアプリが1番早い方法だと勧めている。なお、アプリが使えない場合や渡航に同行せず渡航者の代行で申請する場合はオンラインで申請する必要がある。必要な情報を入力するほか、パスポート、渡航者の顔をアプリで撮影、またはオンラインでその写真データのアップロードが必要。なお、旅行の詳細を入力する必要はない。複数人で同時に渡航する場合、各自で申請する必要がある。申請時期が同じでも、ETA取得のタイミングにずれが生じる場合がある。

■ アプリ「UK ETA」から申請
App Store、Google Play Storeからアプリをダウンロードできる www.gov.uk/guidance/using-the-uk-eta-app

■ オンラインで申請
ページ下部のI cannot apply on the UK ETA app.をクリック
→Continue application onlineをクリックで該当ページへ
https://apply-for-an-eta.homeoffice.gov.uk/apply/electronic-travel-authorisation/easier-on-the-app

申請手順の動画

申請後と有効期限

審査後、ETAを取得したことを確認するメールが届く。通常の審査日数は3営業日以内とされているが、数時間以内で手続き完了のメールを受け取れる可能性もある。しかし、場合によってはそれ以上かかることもあるため、渡航前に時間に余裕を持って申請するのが安全。

ETAの有効期限は2年間で、その期間中は英国への複数回の入国が可能。ただし、パスポートとETAがデジタルでリンクしているために、取得後2年以内にパスポートの有効期限が切れて新しいパスポートを取得した際は、改めてETAを申請しなければならない。なお、ETAを取得しても、英国入国が確約されるものではなく、到着時に入国審査を受ける必要がある。

ETAに関する問い合わせ先

電話でのサポートは行っておらず、ウェブチャットのみとなる。なお、申請状況の確認や申請内容の変更、すでに取得済みのETAに関する質問は受け付けていない。
https://ukimmigration-support-webchat.homeoffice.gov.uk/eta

 

シティを歩けば世界がみえる 特別編:ロンドン港の栄枯盛衰物語、再発見!

〜シティを歩けば世界がみえる 特別編〜テムズの流れは絶えずしてロンドン港の栄枯盛衰物語、
再発見!

1810年出版の雑誌に描かれた西インド・ドックスの挿絵1810年出版の雑誌に描かれた西インド・ドックスの挿絵

シティ公認ガイド 寅七
「シティを歩けば世界がみえる」を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫

港を意味する英単語にPortとHarbourがあります。Portの語源がラテン語Portus=運ぶ、Harbourは古代サクソン語のHerbergh=保護する、です。南欧には沿海岸港が多く機動性を、一方の北欧は入り江港が多く安全性を重視した背景があるようです。英国の港は河口内港が多く、港といえば機動性と安全性を兼ねたDock=水路付き係留施設になります。19世紀世界最大の貿易港ロンドンは、テムズ川の背後にある巨大な内陸市場の輸出入の玄関口、かつ、植民地からの産品を各国に中継貿易をする役目も担っていました。

本特集では、今もロンドン東部に残るドックや倉庫、運河などを手掛かりにロンドン港の栄枯盛衰の物語を語り、そこに垣間見える大きな歴史の渦を再発見してみたいと思います。なお、通常コラム「英国船の歴史と大航海時代」も併せてお楽しみ下さい。

シティ・オブ・ロンドンの眺望(1750年代作、作者不詳)シティ・オブ・ロンドンの眺望(1750年代作、作者不詳)

Episode 1ロンドン税関の始まりはロンドン橋近く

古くから特定地域を通過する貨物や通行人に対して税金や通行料を課すことは広く行われており、それを習慣的徴税、Customary Dutiesと呼んでいました。港は商売の自由と権力者の支配がぶつかる利益背反の場所。イングランド最初の関税法は1203年のウィンチェスター法令です。当時、財政危機に悩んでいた欠地王ジョンは全ての輸出入品に「15分の1税」をかけました。ロンドンの税関は当初、ロンドン塔近くのビリングスゲートに置かれ、さらにクイーンハイズの埠頭にもできました。そのころ、ロンドン橋を石橋にする工事が1176年から行われていて、船がロンドン橋の上流に行けなかったからです。1275年、ビリングスゲート隣のウール埠頭に中央税関が置かれました。こうして英国王家にとって最大の収入源は領地からの地代ではなく、貿易の関税に変わりました。

関税を払わないと密貿易扱いで取り締まりの対象になった関税を払わないと密貿易扱いで取り締まりの対象になった

19世紀のビリングスゲート埠頭19世紀のビリングスゲート埠頭

ウール埠頭にできた中央税関のカスタム・ハウスウール埠頭にできた中央税関のカスタム・ハウス

左から、ロンドン橋、ビリングスゲート、旧カスタム・ハウス左から、ロンドン橋、ビリングスゲート、旧カスタム・ハウス

Episode 2法定埠頭と保税倉庫の始まり

ロンドン港の貿易は増え続けました。特に16世紀のチューダー朝では冒険商人組合(Merchant Adventurers)による海外貿易や敵国の商船を襲う私掠船活動が奨励されました。エリザベス1世は1558年に関税法を改正し、ロンドン橋からロンドン塔までの20カ所に法定埠頭を定め、そこで関税を徴収し、それ以外の波止場で荷下ろしした者を厳しく罰しました。貿易量は増える一方、テムズ川は荷下ろしを待つ船が渋滞するばかりでした。というのも、テムズ川は潮の干満が激しく、大きい船は満潮時にしか波止場に寄り付けず、また、荷下ろしするにも時間が限られていたからです。そこで、もし高級品でなければ荷下ろしを優先して税関手続きを数週間ほど後回しできる保税倉庫が考案されました。その案は渋滞回避策として人気を得て、ロンドン塔の下流域にあるワッピングなどの岸壁や水路に保税倉庫が作られました。

東インド会社奥に見えるのがシティの冒険商人組合の一つ、東インド会社

20の法定埠頭20の法定埠頭が定められ、税関が置かれた

数週間の税関手続を猶予された短期保税倉庫数週間の税関手続を猶予された短期保税倉庫

テムズ川や水路の岸に並んだ保税倉庫は、現在では高級フラットなどに変わったテムズ川や水路の岸に並んだ保税倉庫は、現在では高級フラットなどに変わった

Episode 3ドックと保税倉庫の利用

英国は18世紀に大西洋貿易が盛んになり、カリブ諸島からたくさんの砂糖やラム酒が輸入されました。保税倉庫を増やしてもテムズ川の渋滞は緩和されず、盗賊が渋滞した船を渡り歩いて向こう岸に行けたともいわれます。高価だった砂糖とラム酒の盗難対策のため、西インド商人が防犯パトロールを始め、ワッピングにテムズ水上警察が1798年に設立されました。

それでも盗難は止まず、西インド貿易専用の船渠せんきょ、西インド・ドックスが1802年にドックランズ地区に作られました。そして05年にロンドン・ドックス、08年に東インド・ドックス、28年にシティに隣接する聖キャサリン・ドックスが次々に完成します。ドックは輸入用と輸出用に分かれ、輸入用はシティに近い方でした。このころ倉庫法が制定され、ドック内の保税倉庫では関税手続きに数年間の猶予が認められました。

MARINE POLICING UNIT1798年にテムズ水上警察が設立された

西インド・ドックスを描いた古い絵画1802年に完成した西インド・ドックス

テムズ川沿いのドック次々とドック群が建設されていった

St Katherine's Dockシティに隣接する聖キャサリン・ドックス

Episode 4保税倉庫が中継貿易と貿易金融の発展に貢献

もともと保税倉庫はテムズ川の渋滞緩和目的で作られましたが、18世紀に多くの戦争増税が行われたため、顧客販売時点まで関税支払いを猶予できる保税倉庫利用のメリットが高まりました。その後、保護貿易的な航海条例や穀物法が廃止され、他国への輸出目的で保税倉庫に納入された物品に輸入関税が免除されると、米国、インド、アフリカから砂糖や茶、小麦、鉱物など一次産品が中継貿易され、ロンドンが最大の港になりました。

1865年に米シカゴで商品先物取引市場が始まり、翌年に大西洋横断ケーブルが完成すると、世界中からの農産物を倉庫に持つ英国がシティの金融技術や情報通信ネットワークと結びつき、商品先物市場の主要国になり、金融の中心地になりました。

長期保税倉庫数年の税関手続きを猶予された長期保税倉庫

大英帝国の地図(1886年)大英帝国の地図(1886年)

海底ケーブルの位置を示す地図瞬時に世界を結んだ海底ケーブルの位置を示す地図(1901年)

現在の米シカゴの商品先物取引所現在の米シカゴの商品先物取引所

Episode 5蒸気船やコンテナ船の登場で適応力に限界

ところが19世紀終盤、貨物船の主役が帆船から蒸気船に変わると状況が一変します。蒸気船は蒸気タービンを船内に据えるので重みで喫水が深くなりますが、ロンドン港は帆船の時代に作られたのでドックの水深が浅く大型の蒸気船が入れませんでした。慌てて東インド・ドックスの東に19世紀後半から深さ10メートル超のロイヤル・ドックスが作られました。

ところが20世紀に入るとコンテナ船が登場し、世の中がさらに変化します。コンテナ船は貨物箱が画一化され、荷ほどきすることもなく、貨物箱ごと船からトラック、鉄道、空輸を使って目的地まで効率的に運ばれます。保税倉庫のあるドックだけでは機能不足、道路や鉄道、空港が一体化した輸送網が求められました。でも既存のロンドン港には空き地がなく、新しい施設を増設できないまま中継貿易が衰退していきました。

ロイヤル・ドックスの風景ロイヤル・ドックスの風景

船体には水に沈む深さである喫水が表示される船体には水に沈む深さである喫水が表示される

コンテナ船は輸送システムを大きく変えたコンテナ船は輸送システムを大きく変えた

道路も鉄道も空路も港と一体化道路も鉄道も空路も港と一体化

Episode 6ロンドン港の栄枯盛衰の物語

ロンドン港の強みはテムズ川の内陸部にロンドンという巨大な消費や生産市場があったこと、そして植民地網を通じて中継貿易を促進させるドック群と倉庫にありました。コンテナ船の時代にはテムズ川河口近くにティルベリー港が作られましたが、ロンドン中心部から遠く、ライバルのシンガポールやオランダに負けました。今やロンドン港のドック群であるドックランズや倉庫街は再開発によって親水公園や高級フラットに変わっています。

港の語源は「水の戸」が訛ってミナト、つまり水門です。各国の歴史的背景によってPort、Harbour、Dockと形は異なりますが、水門の向こうは世界につながる海。デジタル時代の技術革新により、ロンドン港は情報の保税倉庫をつなぐウェブ・ネットワークに変わったのかもしれません。「テムズの流れは絶えずして、もとの水にあらず」ですね。

ティルベリー港の航空写真(1939年)ティルベリー港の航空写真(1939年)

コンテナ港の例コンテナ港の例

ロンドン・ドックランズは再開発で高級フラットにロンドン・ドックランズは再開発で高級フラットに

ロンドン・ドックランズの過去、現在、そしてデジタルな未来?ロンドン・ドックランズの過去、現在、そしてデジタルな未来?

 
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