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Tue, 16 December 2025

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死を悼むモーニング・ジュエリーの秘密 - 現代の人々に語りかけるアンティーク Mourning Jewellery

現代の人々に語りかけるアンティーク
死を悼むモーニング・ジュエリーの秘密

死を悼むモーニング・ジュエリー1828年に亡くなった人物のモーニング・リング。外側にある小さなボタンを押すと隠された遺髪が見られる仕掛けになっている

2019年12月に突如出現した新型コロナウイルスにより、日々の活動に制限が生まれ、「人はいつか死ぬ」という周知の事実を頭の片隅に留める生活が続いている。このウイルスで愛する人を亡くしても、感染の懸念から最後の瞬間まで相手に触れることができず、過去これほどまでに死や愛について考える機会はなかったのではないだろうか。かつて英国には故人を偲ぶ方法の一つとして、故人の遺髪を使用した「モーニング・ジュエリー」(mourning jewellery)と呼ばれる、喪に服すときに身に着ける装飾品があった。ジュエリーが生まれた経緯をたどってみると、重く辛いイメージが付きまとう死に対して別の解釈があるように感じられる。今回は英国のモーニング・ジュエリーの歴史を紐解きつつ、さまざまな経路で現在のアンティーク市場に出回るそれらとの出会い方について紹介する。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考:「 The Art Of Death: Visual Culture In The English Death Ritual C.1500 - C.1800」Nigel Llewellyn Reaktion Books、www.famsf.org、www.tate.org.uk、www.thehistorypress.co.uk、www.thepracticalgemologist.com ほか

モーニング・ジュエリーとは?

服喪中に着ける、故人の死を悼むためのジュエリーのこと。黒を基調とし、編み込んだ遺髪をブローチやバングル、指輪などに埋め込む。特に指輪が知られており、現在もアンティーク市場に出回る。英国でモーニング・ジュエリーが本格的に流行したのはヴィクトリア朝時代だが、この習慣が生まれる前から「メメント・モリ」に代表される死を思う文化は存在しており、そこから派生してできたとされている。

死と生を同時に実感する「メメント・モリ」

モーニング・ジュエリーの歴史を語る前に、まずは西洋における死生観について整理しておきたい。「メメント・モリ」(memento mori)というラテン語のフレーズを耳にしたことはあるだろうか。「死ぬことを忘れてはならない、死を想え」という意味を持つこの言葉は、主に人間の脆さ、命の短さを表し、死が身近にあることを思い出させる事象をテーマにした、芸術活動全般をさす用語として使われている。この言葉が誕生したのははるか昔の古代ローマ時代。凱旋パレードで将軍に仕える兵士が、勝利の味に溺れ、過度のプライドを持って傲慢になるのを防ごうと、軍の統制のために使われた。戦場で命を落とした自分たちの指揮官のことを決して忘れるな、という戒めの言葉は「今日は生きているが、明日は分からない」「永遠に続くものなどない」という命のはかなさを喚起させつつも、同時に今この瞬間に生きていることを改めて実感させるポジティブな意味合いも含まれていた。

また、同時代の政治に携わるようなエリートたちは、金の指輪をすることが認められていた。喪に服すときは、金の指輪の代わりに鉄の指輪をはめていたことが分かっている。

死をモチーフに作られた数々の作品

やがてメメント・モリは、カトリック教会の文脈においてより道徳的な解釈へと変化していく。疫病や紛争が蔓延し、死について考えざるを得ない日々が続いた中世の欧州で、現世における一時の贅沢よりも、天国で至福のときを過ごすために、生きている間に罪を悔い改めることが教徒たちにとって最も重要な課題となった。メメント・モリは、魂の不滅や来世へ備えることに意識を集中させるという、よりストイックな考えが主な意味合いとなり、それと同時に多くの宗教芸術家たちがこの哲学に魅了され、数多くの作品を世に残していった。ルネサンス、バロック期にこのモチーフとして最も取り上げられたのは骸骨で、そのほかにも砂時計、時計、消えかけたロウソク、果物、花などがあった。また、オランダではメメント・モリとは別に人生の虚しさをテーマにした「ヴァニタス」(vanitas)と呼ばれる静物画が生まれ、特に16~17世紀にかけて人気を博した。

バロック期のフランス派画家、フィリップ・ド・シャンパーニュによる「ヴァニタス」(1671年ごろ)。生、死、時間は当時頻繁に用いられたモチーフだったバロック期のフランス派画家、フィリップ・ド・シャンパーニュによる「ヴァニタス」(1671年ごろ)。生、死、時間は当時頻繁に用いられたモチーフだった

ミニマライズされた宗教観

話の舞台を英国に戻そう。前章から少しさかのぼった15世紀のチューダー朝も欧州大陸の状況と同じく、イングランドも赤痢や天然痘など多数の病気が流行し、市民は死と隣り合わせの生活を送っていた。16世紀中ごろに宗教改革が起こる前まで、カトリックが主流だったイングランドでは、すでにメメント・モリにまつわる作品の制作は始まっていた。数あるメメント・モリ作品のなかでも特に貴重なものとして知られているのが、1546年に金とエナメルで作られたと推定される骸骨のジュエリー(写真下)。

英南西部デヴォンで見つかった骸骨のジュエリー英南西部デヴォンで見つかった骸骨のジュエリー

骸骨が棺の中に横たえられた毒々しいデザインで、おそらく金製チェーンのペンダントのオーナメントに使用されていたとされている。蓋の部分は取り外しできる仕組みになっており、中には「THROUGH THE RESURRECTION OF CHRISTE WE BE ALL SANCTIFIED」(キリストの復活を通じて私たちは神聖化される)と碑文が彫られている。裕福だった上流階級の人々は生前からトランジ(一種の記念碑で、遺体や骸骨などのレリーフのこと)を作って自身の信心深さを示していた。

英南部オックスフォードシャーのフィフィールドにある聖ニコラス教区教会内のトランジ英南部オックスフォードシャーのフィフィールドにある聖ニコラス教区教会内のトランジ

金銭の余裕はないもののこの考え方は次第に中流・労働階級へと広がっていき、大きなトランジから日常で身に着けられる小さな芸術品、装飾品へと軽量化していった。「メメント・モリ・ジュエリー」もその流れを汲んだもので、骸骨、頭蓋骨、棺などをモチーフにして作られ、アイテムのどこかに自身の宗教に関する考えや記憶をしるし、必要に応じてそれを読むことで、日常的に死について思い出すことができるようにしていたようだ。

1620~50年、オランダ北部で作られたとされるメメント・モリ・リング1620~50年、オランダ北部で作られたとされるメメント・モリ・リング

モーニング・ジュエリーへの転換

「死を忘れない」という宗教色の強いジュエリーから、特定の故人を偲ぶ「モーニング・ジュエリー」への転換は16世紀ごろからあったようだが、明確に認識されるようになったのは17世紀ごろ。1649年、当時イングランド国王だったチャールズ1世が処刑されたとき、その1年後に国王の肖像をあしらった指輪やその遺髪を入れた指輪が作られ、直接故人を偲ぶジュエリーが生まれた。これをきっかけに、イングランドでは哀悼するための指輪であるモーニング・リングの習慣が世間に広まっていくことになる。デザインはメメント・モリ・ジュエリーのように骸骨のものや、パールをあしらったシンプルなものまでさまざまだったようで、リングの内側に精巧な仕掛けを取り付けたり、宝石の下などに遺髪を入れ、故人の名前や没年を刻み、死を悼むものとして遺族によって所持されるようになった。大抵がブラック・エナメルやジェット(黒玉)など黒色をベースに作られ、未婚の女性や子どもが亡くなったときには白いエナメルが使われた。いずれにしても比較的安価な素材が使用されていたようだ。

モーニング・リングの一大ブームが巻き起こったのは、ヴィクトリア朝時代。この時代の平均寿命は40~45歳で、人々は常に戦争や疫病に脅かされる毎日を送っていた。ヴィクトリア女王は最愛の夫であるアルバート公を1861年に亡くし、悲しみのあまりその後約40年間のほとんどを黒いクレープ・ドレスとモーニング・ジュエリーを身に着けて生活した。多くの市民から慕われていたヴィクトリア女王のこの姿は世間に大きな影響を与え、巷ではモーニング・ジュエリーを日常的に身に着けることが大流行。また、当時の服喪に関するルールは現在よりも厳格で、女性の場合喪服を2~3年も着なければならなかった。これらのことを踏まえると、街中に黒色があふれていたのは想像に難くないだろう。自ら重い口を開かずとも、大切な人が亡くなったことをジュエリーだけで伝えられた時代があったのだ。モーニング・ジュエリーは指輪に始まり、ロケット、ブレスレット、ネックレスなどさまざまなスタイルが出回った。またそのモチーフも、メメント・モリのときのような宗教色は薄れ、柳や天使、雲、イニシャルなど、より穏やかなイメージが多く採用された。

喪服を着るヴィクトリア女王。1867年撮影喪服を着るヴィクトリア女王。1867年撮影

廃れていった黒の魅力と日本への影響

ロンドンのオールド・ベイリー刑事裁判所の記録によると、1730年から1908年の間にモーニング・リングの盗難事件が190件あり、流刑地に飛ばされたり、死刑判決を受けた者もいた。このようにイングランド全土で大流行したモーニング・リングだったが、1887年にヴィクトリア女王が即位50周年を迎え、喪服の緩和令が施行されると、ベゼル(指輪の枠部分)にダイヤモンドやアクアマリンなど宝石を取り付ける大量生産タイプの指輪に流行が移っていく。英王室が牽引したといっても過言ではないモーニング・リングのブームは、突如終焉を迎えることになった。

ちなみに日本の「服喪中に黒い服を着る」という習慣は明治以降に英王室から輸入された文化。日本の皇室では服喪中、世間一般に見られるパールではなく、ジェットなど黒いジュエリーをモーニング・ジュエリーとして身に着けている。

葬儀では伝統的に黒いジュエリーを身に着けていた英国だが、現在ではパールも認められている葬儀では伝統的に黒いジュエリーを身に着けていた英国だが、現在ではパールも認められている

所有していた指輪を近親者に配ったサミュエル・ピープス

日々の細やかな出来事を日記に残したことで知られる政治家サミュエル・ピープス(1633~1703年)も、自身が亡くなるときに所持していた123個の指輪を手放した。指輪は友人関係、社会的に地位の高い人に向け3つの階級に分類され、配られたという。「自分のことを忘れないで」というこの意志は、かの文豪ウィリアム・シェイクスピアも同じだった。1616年に亡くなるときに、「私の記憶を愛して」という意味の指輪を持つように自分の妻と娘に伝えていたそうだ。

どうやったら見つけられる?
アンティーク・ディーラーに聞くモーニング・ジュエリーの探し方

指輪をはじめとするモーニング・ジュエリーは、現在もアンティーク市場で取引されている。遺髪が組み込まれているので生理的にダメな人にはお勧めできないが、一見するだけでも大変価値があるもの。一度見てみたい、という方々のために、探し方のコツを現役のアンティーク・ディーラーに聞いてみた。

まず、モーニング・ジュエリーの市場価値について教えてください。ほかのアンティークに比べると価値が高いように思うのですが。

そうだとも、そうでないともいえます。モーニング・ジュエリーに限らずどのアンティークも値段をつけるのは難しいところですが、モーニング・ジュエリーの場合、価格が高くなる条件を備えています。優れた職人の技で高品質に作られていることに加え、アイテムそのものが特定の人物の思い出や歴史と結びついている点などです。ひとえにモーニング・ジュエリーといっても、英王室に関係するものなら、莫大な価値があるということになります。コンディションの良いモーニング・リングであればだいたい500ポンドくらいでしょうか。これらが市場に流れるルートは、指輪の継承者が興味を持たず自ら売却したり、生活困窮のためやむを得ず手放したりなどです。また、一時の流行が終わり多くのモーニング・リングが新しい指輪を作るために溶かされてしまったという時代背景もありますので、現在アンティーク市場に出回るものはそれだけで希少性があるといえます。

モーニング・ジュエリーはだいたい黒色が基本ですよね?

黒色が基本ですが、故人との間柄によって異なる場合があります。以前深い青いエナメルで作られたブローチを扱ったことがありましたが、この色の場合は故人との関係が父、母、夫や妻といった密接なものでなく、いとこなど間柄が離れていた人々が着けていました。

どうすればコンディションの良いモーニング・ジュエリーを見つけられるのでしょう。

全てのアンティークにいえることですが、まずは自分が気になっているジャンルについて知ることが大事です。基本的な知識があれば、実際にアイテムを目にしたときにそのコンディションが良いかどうか、その希少性も分かりますよね。また、評判の良い、信頼できるディーラーから買うことはとても大事なことです。買い手として常に覚えておいていただきたいのが、売り手はアイテムを売ってビジネスをしているということ。例えば売り手に「これはルビーですよ」と伝えられたとき、「あ、天然の良いルビーなのだな」と思うかもしれませんが、同じルビーでも加工があるかによってその価値は大きく変動します。私の考えとして、良いアンティーク・ディーラーというのは買い手に知識を与えることができ、またそのアイテムについて情熱を持って説明できること。結果その場で売れなかったとしても、良い話ができ、また別の機会に会いにきてくれる方が個人的にうれしいので、ぜひたくさん話しかけてほしいです。

また、ご存知の通りアンティークは常にこの世に一点しか存在しません。どの場所にいっても常にお目当のものが手に入る保証はなく、あってもクオリティーが良いとは限りません。大事なことはベストなタイミングで、良い場所ないし売り手から購入すること。手に入れるまで時間はかかると思いますが、美術館などで良いものを見たりして審美眼を鍛えておくことは、自分が最も欲しいと思うアイテムに出会うために大事なことだといえます。

1850年製のバングル、指輪、イヤリング、ブローチ、懐中時計付きペンダントのモーニング・ジュエリー。15カラットゴールドにブラック・エナメル、ダイヤモンドと大変豪華な仕様だ1850年製のバングル、指輪、イヤリング、ブローチ、懐中時計付きペンダントのモーニング・ジュエリー。15カラットゴールドにブラック・エナメル、ダイヤモンドと大変豪華な仕様だ

インタビューした人

Paul Coakley-Webb ポール・コックリー=ウェッブさん

ロンドン北部のカムデン・パッセージ(後述)で販売するアンティーク・ディーラー。一家でアンティーク業を営んでおり、英国のシルバーを中心に、金、ガラス、ジュエリーなどさまざまなアンティークを販売している。

@working_925

モーニング・ジュエリーに出会えるかも?
ロンドン&ロンドン近郊のアンティーク・マーケット

ディーラーが買い付けにくる本場
Sunbury Antiques Market

Sunbury Antiques Market

ロンドン郊外サリー州のケンプトン競馬場で行われる大規模なアンティーク・マーケット。より良い商品を求め、朝6時30分の開場前からディーラーたちが列をなすプロ御用達の場所だ。お目当のアイテムがあるなら、朝早くに訪れること。カードを受け付けない店もあるので、現金を持っていくのが安心だ。

毎月第2、最終週の火曜日6:30-14:00
入場料£10(8:00まで。以降は無料)
ナショナル・レールKempton Park駅
www.sunburyantiques.com/kempton

ショップからカフェまで何でもそろう
Camden Passage

Camden Passage

アンティークやセカンドハンド、ヴィンテージの洋服までいろいろな商品が並ぶ、小さいがフレンドリーな雰囲気のマーケット。ほかにもチーズやチョコレートの店、カフェなども連なっているので、半日以上滞在できるのもうれしい。インタビューしたポールさんの店はCharton Place通り前の区画にある。

水・土 9:00-16:00
地下鉄Angel駅
www.camdenpassageislington.co.uk

高値だが良質ぞろいのセンター
Grays Antique Centre

Grays Antique Centre

インドア型のアンティーク・センターで、100を超えるディーラーたちが各々ブースを構えている。ジュエリーからシルバーまでどれもお高めの価格設定だが、それに見合った高品質のアイテムがそろう。

月〜金 10:00-18:00 
地下鉄Bond Street駅
www.graysantiques.com

 

英国文化のルーツにあるもの マザーグースの秘密

英国文化のルーツにあるもの
マザーグースの秘密

英国では庶民から貴族まで隔てなく親しまれ、聖書やシェイクスピアと並ぶ教養の基礎となっているといわれている、伝承童謡のマザーグース。現代においてもマザーグースからの引用や言及は頻繁に利用され、新聞記事、小説、映画にそうしたフレーズがしばしば登場する。本誌では、英国人の言語感覚に関わるマザーグースの歴史や、英国文化を知るうえで便利なマザーグースのフレーズなどを紹介する。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考:「 マザーグースの唄」 平野敬一著 中公新書、「もっと知りたいマザーグース」 鳥山淳子 スクリーンプレイ、BBC、pookpress.co.uk、通訳品質協議会 ほか

マザーグースの秘密がちょうに乗って空を飛ぶおばあさんが描かれた、マザーグース絵本の表紙

マザーグースとは

植民地化政策とともに世界中に広まっていった英国の伝承童謡の数々を指すが、「マザーグース」という言葉が定着したのは18世紀半ば以降。もともとは1697年にフランスで出版されたシャルル・ペローの童話集「昔ばなし」の口絵に「contes de ma mère l'oye」(がちょう母さんのお話)と書かれていたことから、1729年の英訳本ではこの部分を「mother goose's tales」と変えて同書の副題にした。これが後年独り歩きした形で、特定の作者がいない英国の伝承童謡や昔ばなし全体を指すようになった。また、米国や一部地域ではマザーグースを「グース家のお母さん」とし、童謡の作者として考えることもある。その場合、マザーグースはがちょうに乗って空を飛ぶおばあさんの姿をしている。

フランス版「昔ばなし」の口絵フランス版「昔ばなし」の口絵

英語版「昔ばなし」の口絵英語版「昔ばなし」の口絵

マザーグースの唄

無邪気に口ずさみたくなるものの、毒を内包した作品が多いマザーグースの唄。ここでは特に昔から英国人に愛されている作品を選んでご紹介する。

Song of sixpence

Sing a song of sixpence,
A pocket full of rye;
Four and twenty blackbirds,
Baked in a pie,

When the pie was opened,
The birds began to sing;
Was not that dainty dish,
To set before the king?

The king was in his counting-house,
Counting his money;
The Queen was in the parlour,
Eating bread and honey,

The maid was in the garden,
Hanging out the clothes;
When down came a blackbird
And pecked off her nose.

6ペンスのうた

6ペンスの うたをうたおう
ポケットは むぎでいっぱい
24はのくろつぐみ
パイにやかれて

パイをあけたら
うたいだす ことりたち
おうさまに さしあげる
しゃれた おりょうり?

おうさまは おくらで
おかねかんじょう
おきさきは おへやで
はちみつと パンをもぐもぐ

じょちゅうは にわで
ほしものを ほしてる
そこへつぐみが やってきて
はなを ぱちんと ついばんだ

Song of sixpence

Lady Bird, Lady Bird

Lady Bird, Lady Bird,
Fly away home,
Your house is on fire,
Your children will burn.

テントウ虫、テントウ虫

テントウ虫、テントウ虫、
家へ飛んで帰れ、
お前の家は火事だ、
子供たちが焼け死ぬぞ。

Doctor Fell

I do not like thee, Doctor Fell,
The reason why I cannot tell;
But this I know, and know full well,
I do not like thee, Doctor Fell.

ドクター・フェル

フェルせんせい 
ぼくはあなたがきらいです
どういうわけかきらいです
でもたしかです まったくたしか
フェルせんせい 
ぼくはあなたがきらいです

London Bridge

London Bridge is falling down
Falling down, falling down
London Bridge is falling down
My fair lady

ロンドン・ブリッジ

ロンドン・ブリッジがこわれた、
こわれた、こわれた、
ロンドン・ブリッジがこわれた、
マイ・フェア・レイディー。

Goosey, Goosey, Gander

Goosey, goosey, gander,
Where dost thou wander?
Up stairs and down stairs,
And in my lady’s chamber.

There I met an old man
Who would not say his prayers,
I took him by the hind legs
And threw him down stairs.

がぁー、がぁー、鵞鳥さん

がぁー、がぁー、鵞鳥さん
わしはどこへ行こう。
上がったり、下りたり、
奥さんのお部屋へ。

そこに爺いがいたが、
お祈りをしようとしないんだ。
それでやつの左足をつかんで
階段の下にほうり投げた。

Humpty Dumpty

Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall;
All the king’s horses and
all the king’s men
Couldn’t put Humpty
together again.

ハンプティー・ダンプティー

ハンプティー・ダンプティーは
壁の上に座った、
ハンプティー・ダンプティーは
勢いよく落ちた。
王さまの馬を総動員しても、
王さまの部下を総動員しても、
ハンプティー君をもとに
返すことはできなかった。

Jack and Jill

Jack and Jill
Went up the hill,
To fetch a pail of water;
Jack fell down,
And broke his crown,
And Jill came tumbling after.

ジャックとジル

ジャックとジルは
山を登っていった。
バケツに水を汲むために。
ジャックはころび、
あたまに大けが、
ジルも続いてころころりん。

Song of sixpence

以上「マザーグースの唄」 平野敬一著より引用

マザーグースの歴史と魅力

身に付く読み聞かせのリズム

身に付く読み聞かせのリズム

親が歌い読んで聞かせるそのリズムを聞いて子どもは育つ。英語の抑揚はまだその言葉の意味が分かる以前の幼少期に刷り込まれ、言語感覚が育っていくのだ。現代の子どもたちを取り巻く環境が昔と変わったとはいうものの、英国では幼少期の読み聞かせが重視されており、マザーグースの童謡は今でも人気が高い。

多くの関連絵本が出版されていて、ナーサリー・リズムとして保育園や幼稚園などでも歌い習う。韻を踏んだメロディーや詩が自然と身に付くうえ、古くは中世のものといわれる伝統童謡の文化を、子どもたちはそうと知らずに継承していることになる。その数800篇以上という、ほかの欧州の国に比べ異様に多くの童謡を抱えた英国は、文学、演劇、そして楽曲といった言葉のリズムに関し敏感という特徴を持つ国でもある。人々の中に生きるマザーグースゆえの文化、といっても良いかもしれない。私たち外国人にとっても、マザーグースは英国の文化や歴史、英国人の思考回路を知るための格好の教材になるはずだ。

権力を笑いナンセンスを愛する

マザーグースが長く愛され、何世紀にもわたり命を保っている理由の一つには、これまでの編者や解説者が「ナンセンスなものに常識や論理をあてはめてはいけない」、という暗黙の約束を守り、大事に育んできたからだといわれている。まず、世界初の児童書専門出版者であり、1765年に伝承童謡を編纂したジョン・ニューベリーは、マザーグースの捉えどころのないナンセンスな部分を無理に説明せず、とぼけて真面目くさって受け入れるという、英国人の笑いのセンスにも通じる態度で童謡に接し、当時の子ども用に内容を変えることなく52篇を編んだ。次の編者は文献学者のジェームズ・ウォーチャード・ハリウェル。古文書や稿本が大好きなハリウェルは、弱冠20歳で600以上の童謡を編纂し、1842年に「イングランドの童謡」、49年に「イングランドの俗謡と童話」を編んだ。

民間に没したままになっている伝承の発掘に取り組んだハリウェルはまた、マザーグースには当時のヴィクトリア朝の浅薄な道徳主義を伴った学校教育や合理主義に屈しない、でたらめでのびやかな、たくましい魅力があり、子どもたちには絶対気に入ってもらえるだろうと考えたのだった。そこにはズルをする王さまや、奥さんを二束三文で売り飛ばす僧侶がおり、牛が月を飛び越え、ネズミに食べられてしまう小人がいる世界があった。マザーグースは窮屈な学校生活をする子どもたちへの応援歌だった。

意外と不気味で危ない内容も

意外と不気味で危ない内容も

マザーグースは道徳に準じていない唄が多いと述べたが、今の時代ではタブーになりそうなものも多い。現に1952年に道徳的に好ましくない唄のリストが作られた。それによると、人間や動物に対する残酷な取り扱いが12件、盗みや嘘が14件、身障者への言及が15件、暴力23件、人種偏見2件、そのほか諸々で計200件にもなるという。当時ですらそれほどあるのだから、ウォーク・カルチャーの現代はもっと数が増えているだろう。全てをきれいに書き直してしまったら伝承童話の生命は絶たれてしまうが、出版社はやはり社会通念を無視したものは出しにくいという事情もあるようで、現在マザーグースとして出版されているものは、極端にガラが悪いものは掲載しないなどの体裁を取っている。

また、童謡という形で残ることの不思議さを禁じ得ないものもある。例えば「ガイ・フォークス・デー」の唄は、「覚えておいて 覚えておいて 11月5日のことを 火薬 陰謀事件のことを あの反逆事件を 忘れていい訳がない ガイ・フォークス ガイ・フォークス 彼の目的は 王と議事堂を吹き飛ばすこと」である。

日本ではいつも詩人が訳した

日本で初期のマザーグースは、文学者の鈴木三重吉が創刊した児童雑誌「赤い鳥」に、詩人の北原白秋による訳で、大正9年(1920年)に掲載された。「There was a little green house」(「胡桃」)と「Hickory, dickory, dock」(「柱時計」)の2篇だった。白秋はその後も情熱を傾けて訳出紹介に励み、翌年末までに132篇を訳して「まざあ・ぐうす」として発表。「不思議で、美しくて、おかしくて、馬鹿馬鹿しくて、面白くて、怒りたくて、笑いたくて、歌いたくなる」と自ら広告文も書いている。しかし、当時の日本では「子どもの童謡なんて」、という風潮があったようで、あまり話題にもならず、英国のマザーグースの文化も伝わらなかった。次に挑戦したのは同じく詩人で英文学者の竹友藻風で、「英国童謡集」として昭和4年(1929年)に87篇を発表した。だがこちらも話題にはならずじまいだった。

しかしようやく昭和45年(1970年)に詩人の谷川俊太郎が訳した「マザー・グースのうた」が大ヒットする。短く簡潔で日本語の言葉のリズムを大事にし、本来のマザーグース同様に唄いたくなるような117篇が訳出された。グラフィック・デザイナーの堀内誠一が挿絵を手掛け、日本でマザーグース・ブームが巻き起こった。それ以後も、劇作家の寺山修司、イラストレーターの和田誠などが一部翻訳。英語より言葉の流行り廃りが激しい日本では、すぐにまた新たな翻訳版が刊行されるかもしれない。

これもあれもマザーグースだった

マザーグースのフレーズは新聞記事、小説、映画などでもしばしば登場する。ここでは、わずかではあるがいくつかその例を紹介しよう。

映画

Birds of a Feather = 類は友を呼ぶ

Birds of a feather flock togetherを略したもの。同じ羽の鳥たちは群れる、つまり似た者同士の意。

シェイクスピアの「ヘンリー6世」やルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に出てくるほか、格言として日本語の「類は友を呼ぶ」のような使われ方をしている。また、ハリウッド映画「ダイ・ハード3」では、犯人役のジェレミー・アイアンが刑事を挑発して下記の一節を電話口でささやく場面も。

Birds of a feather f lock together,
And so will pigs and swine;
Rats and mice will have their choice,
And so will I have mine.

同じ羽毛の鳥は 群れつどう
豚だって 同じ
ドブネズミやハツカネズミすら
つれをえらぶ
わたしだって 同じ

All the king’s men = どうにもならない

欧州には古くから卵のようにいったん壊れたら元へ戻らないことを擬人化した唄が各地にあったそうで、英国ではハンプティー・ダンプティーがこれにあたる。壁の上から落ちて壊れたハンプティー・ダンプティーは、王様の家来を動員してももう元には戻せない。米国の政治スキャンダル、ウォーターゲート事件を扱った1976年の米映画「大統領の陰謀」の原題は「All the President’ s Men」。マザーグースを知っている人ならタイトルを見ただけで、大統領の側近たちがどう頑張っても、ニクソン大統領を救うことはできず、大統領がその座から転がり落ちていく様子を連想できる。

新聞

Who killed Cock Robin? = 誰が犯人だと思う?

新聞の見出しに使われる「Who killed ~」はたいていマザーグースのこの一篇から来ていると考えて差し支えない。英国の国鳥でもある胸の赤い小さな駒鳥は被害者を指し、スズメが犯人という構図。2017年に北朝鮮の金正男氏がマレーシアの空港で殺害されたとき、BBC、米CNNやABCの見出しはどれも申し合わせたように「Who killed Kim Jong-nam?」だったとか。

Who killed Cock Robin?
I, said the Sparrow,
with my bow and arrow,
I killed Cock Robin.

誰が駒鳥 殺したの
それは私 とスズメが言った
私の弓で 私の矢羽で
私が殺した 駒鳥を

また、殺人事件だけではなく、社会的に葬られた場合にも使われる。かつて詩人のジョン・キーツが「クォータリー」誌に酷評されたのち25歳の若さで結核で死去した際、友人のバイロンがキーツを悼んだマザーグース風の1篇を作っている。

Who kill'd John Keats?
"I" says the Quarterly,
So savage and Tartarly,
"Twas one of my feats."

誰がキーツを殺したか?
自分だと クォータリーがいう
手荒に 容赦なく
見事な手柄ぶりだったと

さらに、英政府が1948年に表明したインフレ対策のように、マザーグースのスタイルのみ引用した一文もある。ちなみにジョン・ブルとは英国を指す。

Who’ll kill inf lation?
I, says John Bull,
I speak for the nation –
We’ll work with a will.
And we’ll thus kill inf lation.

誰がインフレを止めるだろう?
私、とジョン・ブル
私が国を代表してこう表明します
我々は強い意志を持って奮闘し
そうやってインフレを止めます

小説

Oranges and Lemons = 古き良き昔

ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984年」には「Oranges and Lemons」が効果的に使われる。主人公は極端な監視社会に生きながら、正気を保つためお守りのようにこの唄の一節を唱え続ける。ロンドンの教会の鐘がたくさん登場し、英国で特に愛される一篇で、2人がアーチを作り、その下をほかの子どもがくぐり抜ける遊び唄として知られる。

Oranges and lemons,
Say the bells of St. Clement's.
You owe me five farthing,
Say the bells of St. Martin's.
When will you pay me?
Say the bells of Old Bailey.
When I grow rich,
Say the bells of Shoreditch.
When will that be?
Say the bells of Stepney.
I do not know,
Say the great bell of Bow.
Here comes a candle to
light you to bed,
And here comes a chopper to
chop off your head.

「オレンジとレモン」と
聖クレメントの鐘が言う
「おまえに5ファージング貸しがあるぞ」と聖マーチンの鐘が言う
「いつ支払ってくれる?」と
オールド・ベイリーの鐘が言う
「お金持ちになったらね」と
ショーディッチの鐘が言う
「いつなるの?」と
ステプニーの鐘が言う
「知らないよ」と
ボウの大鐘が言う
お前をベッドへ案内するろうそくが来たぞ
お前の首を切り離す首切り役人が来たぞ

「ゴールデン・スランバー」はアルバム「アビイ・ロード」に収録「ゴールデン・スランバー」はアルバム「アビイ・ロード」に収録

ビートルズの曲の歌詞が「不思議の国のアリス」やマザーグースに似ているとはよく言われていることだが、その世界観が同じだったり、韻の踏み方や言葉の繰り返し方が似ているだけで、あからさまに引用された曲は少ない。そのなかで例外的に、ほぼ丸々フレーズが使われているのが、アルバム「アビイ・ロード」(1969年)に収録された「ゴールデン・スランバー」だ。この曲はポール・マッカートニーが異母妹の家で絵本を読み、すぐその場でピアノに向かいメロディーを付けたのだとか。その際ピックアップされたのが「黄金の眠り」のこの部分だ。

Golden slumbers kiss your eyes
Smiles await you when you rise
Sleep pretty darling, do not cry
And I will sing a lullaby

黄金の眠りが おまえのまぶたに
キスをする
朝には ほほえみが 起こしてくれる
おやすみ いたずらっ子 泣かないで
子守唄を 歌ってあげよう

訳詩は右記以外は「マザーグースの唄」 平野敬一著より引用。「誰がキーツを殺したか」English Poetry and Literature、「誰がインフレを止めるだろう」通訳品質協議会

 

マニアックな勝負の世界 - 英国の鳩レース

マニアックな勝負の世界
英国の鳩レース

鳩の深い魅力にはまるファンシーズたち鳩の深い魅力にはまるファンシーズたち

訓練された鳩を飛ばし、レースごとに指定された距離内の移動速度で優勝を決める「鳩レース」は、世界各地で盛んに行われているスポーツの一つだ。英国内では衰退してきているものの、今もなお英語でファンシーズfanciersと呼ばれる約6万人の愛鳩家と4万2000羽のレース鳩がおり、一定数の熱烈なファン層に支えられ今日に至っている。英国のレースの大きな特徴は、王室がレースに参加しているということ、そして大々的な品評会があるということ。独自の愛鳩文化が育つマニアックな世界を、少しだけのぞいてみよう。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.rpra.org、www.pigeonracinguk.co.uk、https://racingpigeon.co.uk、www.britannica.co、www.theguardian.com、www.jrpa.or.jp/index.html ほか

鳩レースの発展は伝書鳩から

品種改良され、飛翔能力を大幅にアップさせたレース鳩が生まれる前から、人間と鳩には非常に深い関係がある。諸説あるものの、鳩を飛ばして遠方地にメッセージを伝えたことが歴史に記されたのは古代エジプトのファラオ、ラムセス3世が名を轟かせた紀元前1200年ごろ。ナイル川の氾濫の様子を各都市に知らせたとされ、以降ローマ帝国時代にはオリンピックの試合結果、船の帰港をいち早く知らせる通信手段として広く使用されていた。また、中東では情報を運んでくる鳩たちは「The Kings Angels」(キングス・エンジェルス)と呼ばれてかわいがられており、中世には十字軍によって欧州中にも同文化がもたらされ、鳩は国を超えてさまざまな地域で使われていた。1000キロメートル(東京から小笠原諸島あたり)も移動できる現在のレース鳩とは違い、伝書鳩は200キロメートルほどの距離を飛んでいた。

19世紀のフランスでは、鳩を公式の郵便サービスとして利用し、1870年にはロンドン-パリ間の国際郵便サービスが開始。当時のフランスでは普仏戦争の最中で、パリは独軍によって包囲されており、郵便物を運べるのは空路のみ。気球を使って鳩をパリの外へ運び、そこからより安全にメッセージを届けたようだ。機密事項を運ぶ鳩を攻撃しようと、独軍では鳩を撃ち落とすためにタカが動員されるなど、空と言えども安全の保証があるわけではなかった。のちに無線通信やラジオの登場により、1910年ごろには伝書鳩は次の文明の利器にとってかわったものの、その後も欧州各国で第1次、第2次世界大戦中に軍事目的で使用されたり、インドでは2000年代まで伝書鳩による郵便サービスがあったりと、必要に応じて用いられた。

第1次世界大戦中、仏軍で使われた伝書鳩第1次世界大戦中、仏軍で使われた伝書鳩

スポーツとしての鳩レースと王室との関係

戦争や個人の利用など多目的に使用されていた鳩だったが、1818年にはベルギーで初めて約100マイル(160キロメートル)を飛ぶ鳩レースが行われた。続く1820年にはベルギーのリエージュ-パリ間で、1823年にはロンドン-ベルギー間でレースが開催。英国内初のレースは1881年で、エクセター、プリマス、ペンザンス各地からロンドンまでを競った。英王室は1886年から鳩レースに参加している。

英王室が参加したきっかけは、同年にベルギーのレオポルド2世からレース鳩を贈られたから。これをきっかけに、王室メンバーは別邸、サンドリンガム・ハウスに王室専用の鳩舎(ロイヤル・ロフト)を構え、現在も約160羽の成熟した鳩と若い80羽のレース鳩を飼っている。エリザベス女王はレース鳩好きで知られており、ロイヤル・ピジョン・レーシング・アソシエーション(The Royal Pigeon Racing Association)とナショナル・フライング・クラブ(National Flying Club)のパトロンにもなっており、1990年の大会では優勝したことも。ロイヤル・ロフトは毎シーズン大会に参加し、何年にもわたって勝ち続けたこともある強豪の鳩舎となっている。ちなみにかつてロイヤル・ロフトの鳩は二つの大戦で伝書鳩として戦場に駆り出されており、そのうちの1羽はその優秀さから戦争への献身を評価された動物に授与されるディッキン・メダル(the Dickin Medal)を与えられた栄光を持つ。名実ともに名のある鳩舎というわけだ。

地方のショーに出展するロイヤル・ピジョン・レーシング・アソシエーションのトレード・ブース地方のショーに出展するロイヤル・ピジョン・レーシング・アソシエーションのトレード・ブース

鳩レースを管理する団体

英国にはイングランド、ウェールズが参加できる総合クラブ、ナショナル・フライング・クラブと、英国全土に六つの組織がある。

● Royal Pigeon Racing Association (RPRA)

1896年の会合をきっかけにできた組織で、英王室が所属している。参加には約2500のレーシング・クラブがある。

● Irish Homing Union (IHU)

1896年設立の北アイルランドを含むアイルランド地域をまとめる組織。32県のうち19県にある、121のレーシング・クラブと計3318人のメンバーが所属。

● North of England Homing Union (NEHU)
● North West Homing Union (NWHU)
● Scottish Homing Union (SHU)
● Welsh Homing Union (WPHU)

各組織には地域ごとのレーシング・クラブが多数所属している。参加したい場合はまず組織に連絡して書類をもらい、その後組織から地元のクラブに連絡がいく、というシステムだ。

レースの仕組み

組織ごとにレースの仕組みは若干異なるが、RPRAの場合、クラブ・レースとロフト・レースの二つがある。クラブ・レースはファンシーズ(鳩の飼い主)が鳩舎(ロフト)を持っていなければならず、管理費、予防接種、飼育代、初期費用などがかかる玄人向け。

ロフト・レースは、ロフト・マネージャーと呼ばれる特定のロフトの管理人が持つロフトをレースのときだけ間借りし(有料)、1羽から複数の鳩を入れて参加するレースのこと。適切な費用を払えば鳩だけ持ち込めば参加OK。同じ条件で入場した全てのハトが一つのロフトに収容される仕組みで、試合会場へほかの鳩たちと同時に向かい、そのホーム・ロフトに向かって鳩が戻るまでのタイムを競う。

基本的にクラブ内でレースを行うが、2クラブ以上で開催することもある。

19世紀ごろのレースは飛翔時間・距離を正確に記録する機材が整っていなかったため、当時は、鳩は駅の警備員によって放たれ、ロフトに到着次第人間の手によって足首につけられたレース・リングを取り外し、ファンシーズは最寄りの郵便局に駆け込み、郵便局長に記録を取ってもらうという人的要素も順位に大きく関わってくるお粗末なシステムだった。

後にさまざまなルール改正、機器の発達を経て、現在は片足に特定の番号が付いた電子テクノロジーを採用した金属製、またはゴム製のレース・リングが採用されている。ホーム・ロフトに戻ると金属製は電子で、ゴム製は専用ボックスに収めることで結果を記録できるようになっており、飛行距離と所要時間で平均速度を割り出し、その早い順で勝利を決める。このシステムにより、初心者でも参加しやすくなった。

レース・リングを付けた鳩の右足レース・リングを付けた鳩の右足

どのように訓練するのか

レース鳩は、繰り返しロフトに戻る練習をすることで、異なる距離から解放されても対応できるよう、ロフトの出入り口、トラップ・ドア(外から中へ一方通行のドア)から入るように訓練される。ドアを完全に通過しないと記録にならないので、とにかく練習あるのみ。ファンシーズは、シーズンが本格的に始まる2~3週間前に訓練を開始し、ロフトの周りで最低でも毎日1時間運動させる。毎日同じ時間に行うほうがよく覚えるので、ファンシーズにもそれなりの根気が求められる。また、給餌は水場のあるロフトで行われる。水にアクセスできるのはロフトのみなので、水浴び好きのレース鳩はこの場所を記憶する。ロフトへ戻るための訓練は水を通しても行われるのだ。飛翔トレーニングは、ロフトから20~30マイル(32~48メートル)離れた場所に鳩を連れて行く個人練習のほか、クラブのメンバーが集まって訓練することも。

もちろん初心者にはどのように訓練したらいいのか分からないので、所属する地元クラブの先輩に聞いて上達する方式。意外と縦のつながりも求められる。

ファンシーズがホーム・ロフトから愛鳩を解き放つファンシーズがホーム・ロフトから愛鳩を解き放つ

鳩レースの勝利の決め手は名鳩を手に入れられるかどうか

レースは成熟しきった鳩が対象の「オールド・バード・シーズン」(3月下旬~7月中旬)と、若い鳩が対象の「ヤング・バード・シーズン」(7月中旬~9月下旬)の2シーズンがある。別名「空のアスリート」とも呼ばれるレース鳩はカワラバトを祖先に持つ鳩で、基本的には街中にいるものと同じ種類だが、レース鳩はより骨格がよく、長距離飛翔に耐えられる強靭な羽と立派な脚を持っているのが特徴だ。街中で見られる鳩の寿命が3~4年であるのに対し、レース鳩はきちんと世話をすれば20年以上生きるといわれている。また、普通のレース鳩であれば50~150ポンド程度で購入でき、これに予防接種など初期費用が上乗せされる。レース鳩の価格はまちまちで、500ポンド以上する場合も多い。優勝経験のある強いレース鳩にいたっては22万ポンド(約340万円)と驚きの値が付けられたことも。高値ではあるが、再び優勝するチャンスは高く、先の投資として大金をはたく熱烈な愛鳩家もいるのだとか。

「美しく強いレース鳩」を楽しむ品評会がある

鳩レース・ファンも多いが、鳩の美しさそのものを競う品評会「ブリティッシュ・ホーミング・ワールド・ショー・オブ・ザ・イヤー」(The British Homing World Show of the Year)も見逃せない。2021年は新型コロナの影響でオンラインでの開催となったが、通常は英北西部ブラックプールで2日にわたり行われる。同イベントでは、鳩の品評会のほかにもこれまでレースで勝利を重ねてきた2500羽ほどの選ばれし鳩の展示、レース鳩に関するグッズ販売、鳩のトレード・ブース、講演会、映画上映などさまざまな催しものが開催され、街をあげてのお祭りとなる。1972年に始まって以来、英国内やアイルランドからの客がほとんどだったが、近年は世界各国のファンシーズが訪れている。

審査員によって入念にチェックされる鳩たち審査員によって入念にチェックされる鳩たち

特筆すべきは、その売り上げの全てが慈善団体やホスピスなどに寄付されること。ファンシーズたちは常に鳩たちと触れ合っていることから、寄付先にはファンシーズたちの肺に問題がないかアドバイスする団体も含まれているそうだ。過去15年間で計25万ポンド(約3866万円)を寄付してきた同イベントは、鳩を愛する人たちだけでなく、英国社会にも広く貢献している。

会場一面、鳩でいっぱいになる会場一面、鳩でいっぱいになる

レース中、鳩が消えた……

鳩レースは鳩の帰巣本能を利用したスポーツだが、近年の研究では、人間と同じように優れた時間、空間把握能力を持っていることが証明されている。また、鳩は愛情を持って育てるほど飼い主を認識するようになり、ファンシーズにとってはいわば家族のような存在。よって鳩レースにどっぷりはまるファンシーズが多く、レース参加者のそのほとんどが、自分の鳩が無事に戻ってくることを願ってやまない。

レースの間1~3日ほど、ファンシーズたちは自分の鳩を待つことになるが、鳩レースでは高確率で鳩が「消える」ことがある。2021年6月19日、国内で50カ所でレースが行われたが、鳩が全く戻ってこない現象が各地で起き、現在も数千羽が行方不明のままだという。遠くはオランダやマヨルカ島で見つかった鳩もいたのだとか。その場合、各組織では「タグの付いた迷い鳩を見つけたら即連絡を」とサイトで知らせてはいるものの、一般人にはなかなか共有されず、そのまま所在が分からなくてしまうことも多々あるようだ。

ブレグジットが影響? 鳩レースの未来

熱狂的なファンシーズが一定数いるものの、英国では鳩レースの競技人口は減少傾向にある。動物愛護団体などからの訴えも影響しているが、ほかの大きな問題は英国のEU離脱(ブレグジット)だ。

英国-フランス間での鳩レースが行われる場合、鳩たちも人間と同じように、自由に欧州に旅行ができなくなる。検疫や健康証明の提出など、必要な事務処理を行わない限り、鳩であっても渡航は認められない、ということらしい。これはブレグジットによって鳩が輸入品扱いとなるためだが、ファンシーズたちの言い分は「厳密には連れてきてすぐ解き放つのだから厳密には輸入品ではない」。この問題は未だ解決しておらず、しばらくの間は論争が続くとみられている。

異常気象などの問題もあり、鳩レースの開催は今後苦労を強いられることになりそうだ異常気象などの問題もあり、鳩レースの開催は今後苦労を強いられることになりそうだ

鳩に魅せられた人たち

鳩が好きなのはファンシーズだけではない。エリザベス女王を筆頭にエドワード7世、ジョージ5世、ジョージ6世など英王室メンバーが鳩に魅せられていた。世界各地にいる、鳩を愛する人たちを紹介したい。

英画家のウィリアム・アンドリュー・ビアー(William Andrew Beer、1862~1954年)はレース鳩をこよなく愛した人物の一人。ビアーは英西部ブリストルにスタジオを構え、日々列車で輸送されるレース鳩を油彩で描いていた。絵画は大抵同じ作風で、自然を背景に、1羽または数羽をほぼ等身大に細密に描いた。作品は国内の博物館や美術館にコレクションされているが、ごくたまにアンティーク市場に出回ることがある。

アンドリュー・ビアー作「'スマッシャー' ザ・ピジョン」アンドリュー・ビアー作「'スマッシャー' ザ・ピジョン」

生物学的な観点から鳩を好んだのは、自然科学者のチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin、1809~1882年)だ。ダーウィンはロンドンの鳩クラブのメンバーで、自身の研究ではあらゆる種類の鳩を飼育し、全ての品種が野生のカワラバト(学名コルンバリビア)にさかのぼることができると明らかにした。また、品種改良を行い、さまざまな仮説やその証明実験に使う、多種多様な鳩を管理するロフトを所有していたという。

チャールズ・ダーウィン著「The Variation of Animals and Plants under Domestication」内の鳩の先祖の挿絵チャールズ・ダーウィン著「The Variation of Animals and Plants under Domestication」内の鳩の先祖の挿絵

鳩を愛した人物は海を渡って世界各国にも数多くいた。ウォルト・ディズニーのロフトは現在も米南カルフォルニアに存在し、米ジャズ・プレーヤーのジョニー・オーティスは、鳩を飼育しつつ、鳩ブリーダーとも強い友人関係を築いていた。ほかにも、パブロ・ピカソ、クリント・イーストウッド米監督、米元プロボクサーのマイク・タイソン、伊ファッション・デザイナーのマウリッツィオ・グッチ……など挙げればきりがない。

 

創刊30周年 THE BIG ISSUE(ザ・ビッグイシュー)の挑戦

創刊30周年
THE BIG ISSUE(ザ・ビッグイシュー)の挑戦

THE BIG ISSUE(ザ・ビッグイシュー)の挑戦

そろいの赤いジャケットを着て、雑誌を片手に街角に立つ人々の姿はロンドンでは見慣れた光景だろう。この人たちが販売している雑誌がビッグイシューだ。ホームレスの人の仕事を作り、社会的自立を応援するためにロンドンで1991年に立ち上げられた。今年は同誌が誕生してちょうど30年。現在では日本を含む世界各国にも活動が広がるビッグイシューがどのように誕生したのか、また、これまでの経緯や発展、そしてコロナ禍に立ち向かう様子を紹介する。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

ビッグイシューとは? www.bigissue.com

1991年9月11日に創刊の、路上で販売されている週刊ストリート・ペーパー。販売員(Vendor)はホームレスや生活困窮者で、販売価格1部3ポンドのうち半額が販売員の収入となる。当初はロンドンのみだったが、次第に販売地域を拡大。ロンドン版のほか、英北部版「Big Issue North」、英南西部版「Big Issue South West」、ウェールズ版「Big Issue Cymru」、スコットランド版「Big Issue Scotland」などの地方版がある。現在は全国で毎週約19万5000部*を販売している(定期購読も含む)。2020年には、新型コロナウイルスの蔓延によるロックダウンで街頭での販売が制限されたことから、同年4月に専用アプリを使ったデジタル版も生まれた。

*2020年12月~2021年2月調べ

THE BIG ISSUE ビッグイシュー

そもそもの始まりは2人の飲み友達

1990年、動物愛護などの社会活動にも力を入れる化粧品メーカー「ザ・ボディ・ショップ」の経営者の1人ゴードン・ロディック氏が米ニューヨークを訪れた際、ホームレスによるストリート・ペーパー「ストリート・ニュース」の存在を知り感動したのが始まり。もともと英国のホームレス増加に危機感を抱いていた同氏は、30年来の飲み友達で、自身もホームレスの経験があったジョン・バード氏に声を掛けた。バード氏はロンドン出身で、かつてはヘンリー・ミラーやチャールズ・ブコウスキーといった破天荒で放浪を愛する米国の作家・詩人たちに傾倒したこともある人物。さまざまな仕事を転々とした後、70年代に印刷業を始めたことから出版業も手掛けるようになっていたため、それがビッグイシューの発行へとつながった。

ただ、前例はあるものの、「ホームレスの自立と社会復帰を手助けするため、作った雑誌をホームレスに売ってもらう」という方法が斬新であることには違いなかった。ロディック氏やバード氏の周囲の人々は、この事業が成功するとは思えないと口々に言い、バード氏自身も成功する自信は全くなかったようだ。2人は路上にいるホームレスに声を掛けたり、慈善団体に協力してもらうなどして販売員を募ったが、そもそもホームレス当人になかなかこの事業の意図を理解してもらえず、あるホームレスから「お前たちに飢えや貧しさの苦しみが分かるもんか。どうせ金持ちの慈善事業だろ」と怒鳴られたこともあったという。それでも約30人の販売員が集まり、ビッグイシューは1991年9月11日に船出。

当初はロンドンのみのA3月刊誌で、内容も社会問題のみならず、著名人のインタビューなどエンターテインメントの側面も重視した総合雑誌というスタイルを取った。ホームレスがお金を得ることが第1の目的であるため、一部の人しか読まないような前衛的な誌面にするのではなく、より多くの人々に受け入れられる必要があったからだ。ビッグイシューは口コミで評判がどんどん広がり、創刊後3年を超えるころにはザ・ボディ・ショップからの援助も必要としなくなった。

ゴードン・ロディック氏(写真右)。ザ・ボディ・ショップの経営者で妻のアニータ・ロディック氏と共にゴードン・ロディック氏(写真右)。ザ・ボディ・ショップの経営者で妻のアニータ・ロディック氏と共に

2021年4月、ロックダウンを経て販売員たちが街角に戻ったことを喜ぶジョン・バード氏2021年4月、ロックダウンを経て販売員たちが街角に戻ったことを喜ぶジョン・バード氏

ジョン・バード John Bird

1946年ロンドン西部ノッティング・ヒルの貧しい家庭生まれ。5歳でホームレス、7歳で養護施設に預けられる。10歳から万引、強盗、放火などさまざまな犯罪に手を染め、少年院生活を繰り返す。1970代後半以降、印刷・出版業を手がけ成功。1991年、45歳のときにゴードン・ロディック氏とともに欧州初のストリート・ペーパー「ザ・ビッグイシュー」を創刊、編集長に。1995年にホームレスへの支援活動を評価され、名誉大英勲章第5位(MBE)を受勲した。2012年には「How to change your life in 7 steps」(「ホームレスから社長になった男の逆転法則」、徳間書店)を発表。

エネルギッシュな活躍は75歳になった今も変わらず、2015年に上院議員として政治の世界へ。ホームレスを救うのはもちろん、ホームレスを生み出してしまう現状の社会システムから変革しようと模索している。

従来とは異なる画期的な販売方法

初期のビッグイシューは、販売者が1冊10ペンスで雑誌を仕入れ、50ペンスでこれを販売、その差額が販売者のものになるシステムだった(現在は仕入れ額が1.50ポンド、販売額が3ポンド)。最初の10冊は無料で提供されるのでそれを元手にするわけだが、売れるかどうか分からない雑誌に貴重な所持金を投資するのは、販売者にとって大きな賭けでもある。「working, not begging」というキャッチフレーズの通り、販売者は「物乞いではなく、働いている」ということだ。

ビッグイシュー販売の利点は、定まった住所や連絡先がないなどの理由から、一般の仕事が探せない人でもすぐ始められることにある。年齢不問、販売経験不要、履歴書不要で、ノルマなどもない。路上での売り方や客への話し方など研修を受けて、契約書にサインをすれば販売場所をもらってスタートできる。ビッグイシュー販売で一定のお金をためて住まいを確保し、誇りをもって次のステップを踏み出すチャンスを自分で作り出すことができるのだ。

1991年以来

1991年以来

2016年までに

2016年までに

会社としてのビッグイシュー

ビッグイシューの誌面はニュース、特集、カルチャーの3本柱で構成されている。毎号、ホームレス問題はもちろん、移民・人種にまつわる人権問題や環境問題など、厳しい社会の現実に迫るルポや、それに対するキャンペーンを紹介する。その一方で、映画やコンサートなどのイベント情報もあれば、大物セレブへのインタビュー、ビッグイシュー販売員の横顔紹介など多岐に渡り、読みごたえのある記事が満載。記事執筆と編集はプロのライターや編集者だが、取材、執筆しウェブ上でブログ形式の記事を発表している販売員もいるようだ。

「利益の100パーセントをホームレス減少のための事業に充てる」と明言しているコーヒーまた、ビッグイシューは株式会社として雑誌「ビッグイシュー」を発行・販売するほか、これと別に慈善財団「Big Issue Foundation」や「Big Issue Invest」「Big Issue Shop」があり、さまざまな規模の社会支援事業に対する資金援助や支援を展開している。ビッグイシュー・ショップでは、販売者や商品の作り手をサポートするだけではなく、サステナブルな商品を販売。T シャツ、セーターなどの衣類のほか、小物やアクセサリー、食器類が並ぶ。食品もあり、写真右のコーヒーは「利益の100パーセントをホームレス減少のための事業に充てる」と明言している。

ロンドン中心部ヴォクソールにあった初期のロンドン・オフィスロンドン中心部ヴォクソールにあった初期のロンドン・オフィス

コロナ禍で売り上げが激減

2020年、新型コロナウイルスの感染拡大でビッグイシューは大きな打撃を受けた。「Stay Home」が呼び掛けられ英国各地では3月から、リモート・ワークの開始や外出自粛で街中から人通りが激減。繁華街やオフィス街で雑誌販売をしていた人々は、以前は1日で10~20冊、多い人は40冊ほど販売していたというが、皆この時期は10分の1にまで売り上げが落ちた。多くの販売者にとっては、雑誌販売が命をつなぐ大切な収入源。ジョン・バード氏が、「ビッグイシュー創刊以来の危機」と呼ぶ事態が発生した。そして3月半ばに完全なロックダウンとなると同時に、雑誌販売者たちにも「Stay Home」が命じられた。だが、このとき英国は自宅待機といってもそもそもステイする家もないホームレスが全国に50万人いる状況でもあった。

地区のカウンシルやチャリティー団体などがホームレスの一時滞在先を何とか確保し、路上生活者たちがホテル、ベッド& ブレックファスト、鉄道駅などさまざまなタイプの滞在先へ散っていくなか、ビッグイシューが始めたのが、38.99ポンドで当面3カ月の間毎週郵送で雑誌を読者に届ける緊急販売だった。サブスクリプション制度はこれまでもあったものの、「ロックダウンのため街角で販売できない人々を助ける」とダイレクトにうたったものは初めて。4月にはデジタル版が読める専用アプリも生まれた。

また、誌面上で読者と販売員をつなぐ告知板を掲載。読者からは「ファーリントン駅前で雑誌を売っていたピエールによろしく。元気でいるといいけれど。私は2月から自宅待機になってしまい、さよならも言えませんでした。定期購読を始めたと伝えてください」など、特定の販売員に向けたメッセージが掲載され、販売員たちも、「いつも私から購入してくださっていた皆さんが、ご無事であることを祈っています。僕は元気でおります。またレスター駅でお会いできることを楽しみにしています」などの言葉を残すなどした。ロックダウンによって絶たれてしまったコミュニケーションを、シンプルな形でつなぐ場としても活用されたのだ。

2003年に大阪デビューした日本版

英国での創刊の後、ビッグイシューはオーストラリア、南アフリカ、台湾、韓国、フランス、米国など世界に広がった。「ビッグイシュー日本版」も2003年に発行。これは大阪にベースを置く市民団体「シチズンワークス」の水越洋子さんが、「ビッグイシュー・スコットランド」の代表メル・ヤングさんが書いたホームレスに関する記事を読んだことが始まりだった。記事に感動した水越さんは2002年9月、ヤングさんに会うためスコットランドに飛び、これが日本版発行につながった。当初は月刊誌で大阪のみの販売だったが、すぐに東京でも販売を開始。現在は都市周辺 地区まで販売地域が拡大している。

現在、販売員数は106人。記事は他言語版の翻訳と独自取材した記事を組み合わせて発行されており、社会問題のほか、国内外の俳優や音楽家、芸術家などへのインタビュー、健康、文化などについての記事が並ぶ。草間彌生からリリー・フランキー、ポール・マッカートニーからベネディクト・カンバーバッチまでが表紙を飾ることも。読者からは、「ホームレスに対する考えが変わった」「自分のなかの偏見に気づいた」などの声が寄せられているそう。

http://bigissue.jp

413号は俳優のベン・ウィショーが表紙。新作映画について語るほか、ゲイであることをカミングアウトした時期を振り返ったショート・インタビューが掲載413号は俳優のベン・ウィショーが表紙。新作映画について語るほか、ゲイであることをカミングアウトした時期を振り返ったショート・インタビューが掲載

絵本「だるまちゃんとかみなりちゃん」が表紙の412号は、同絵本の作者で2018年に死去したかこさとしさんをフィーチャー。かこさんの親族へのインタビューだった絵本「だるまちゃんとかみなりちゃん」が表紙の412号は、同絵本の作者で2018年に死去したかこさとしさんをフィーチャー。かこさんの親族へのインタビューだった

世界にビッグイシューの名を広めた野良猫ボブ

ロンドン北部エンジェル駅近くでビッグイシューを販売していたジェームズ・ボウエンさんは、いつも肩に茶トラの猫を乗せていた。ハイタッチもできる物おじしない賢い猫、ボブのおかげで駅前の人気者になったボウエンさんは、やがて1冊の本を書く。それは、荒れた家庭環境や人間関係から薬物依存症となり路上生活を送っていた青年が、1匹の野良猫と出会ったことから幸せをつかんでいくという、自らの体験を描いたもの。2012年発表の「A Street Cat Named Bob: And How He Saved My Life」(「ボブという名のストリート・キャット」、辰巳出版)は驚きのベストセラーとなり、ボウエンさんは作家に転身、5作のシリーズを出版した。2016年には映画化もされて、ボブ自身が出演。同名映画(「ボブという名の猫 幸せのハイタッチ」)は日本でもビッグイシューの知名度が上がるきっかけとなった。

ボウエンさんがボブと出会ったのは2007年。迷い込んできた野良猫がけがをしていたので世話をしたところ、ボウエンさんの元を離れなくなった。以来、ボブとボウエンさんは一心同体。映画のプロモーション時には日本へも行ったボブだが、残念ながら2020年6月に死去。推定年齢は14歳だった。今年の7月11日、1人の人間を更生させ、多くの人々に勇気と希望を与えたボブの等身大の彫像がイズリントン・グリーンに設置された。

在りし日のボブとボウエンさん在りし日のボブとボウエンさん

イズリントン・グリーンにあるボブの彫像イズリントン・グリーンにあるボブの彫像

   

知っているようで知らない、英国のチーズ。

知っているようで知らない
英国のチーズ。

英国のチーズ。

オランダ、フランスとチーズの有名な国はあるが、英国にも優れたチーズがたくさんあることをご存知だろうか。英国内でチーズが製造されるようになったのはさかのぼること2000年以上前。当時は修道院など局所的に作られていたチーズだが、現在はオンラインで英国各地の名産チーズを身近に楽しめる良い時代になった。今回は英国を代表するチーズとそのエピソードを紹介する。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: www.gourmetcheesedetective.com、www.petersyard.com、www.theguardian.com、www.bbc.co.uk、https://cheese-store.com ほか

あなたに合うのはどのチーズ?
英国の有名なチーズ

英国には750種以上も国産チーズがある。その中からスーパーマーケットで買えるものから変わり種までを厳選してみた。あなたの好みに合うのはどのチーズ?

 

スーパーで買える 王道チーズ

Double Gloucester ダブル・グロスター

Double Gloucester
ダブル・グロスター

15世紀から英西部グロスターで製造されているハード・タイプのチーズ。さっぱりとした酸味が感じられる「シングル」と、まろやかで濃厚な「ダブル」の2種があり、どちらもグロスター牛の乳から作られている。丘の上からチーズを転がすクーパーズ・ヒルのチーズ転がし祭りで使われる品種だ。

Stilton スティルトン

Stilton
スティルトン

ロックフォール、ゴルゴンゾーラに続く世界三大ブルーチーズの一つで、ダービーシャー、ノッティンガムシャー、レスターシャーの3地方のみで生産されている。外皮も食べられ、塩気のあるクリーミーな味わいが特徴で、強い香りがあるものの比較的食べやすい品種。王室の食卓にもよく上るのだとか。

Cheddar チェダー

Cheddar
チェダー

英南西部サマセットにあるチェダー村発祥のチーズ。名前が法律で保護されていないため世界各地で同名のチーズがあるが実は英国発のもの。牛乳から作られ、ポロポロと崩れるものからなめらかなものまで、チーズの成熟度によって異なる食感が楽しめる。英国人が好きなチーズの上位によくランクインする。

Red Leicester レッド・レスター

Red Leicester
レッド・レスター

牛乳から作られているハード・タイプのチーズ。熟成が進むにつれ味が強くなり、少し甘めで、キャラメルのような旨味を感じられる頃合いが良いとされている。特徴であるチーズのオレンジ色は植物由来の色素、アナトーで着色。チェダーに似ているが、こちらの方がよりマイルドな味わいだ。

Cornish Brie コーニッシュ・ブリー

Cornish Brie
コーニッシュ・ブリー

フランス産が有名だが、英西部コーンウォール発のクリーミーで柔らかなブリーも負けていない。現在はコーニッシュ・カントリー・ラダーなど、特定の業者によって製造されている。サラダやサンドイッチ、パスタなどあらゆる料理に合わせやすく、大変使い勝手の良いチーズだ。

Cheshire チェシャー

Cheshire
チェシャー

英国の最も古いチーズの一つ。長時間の輸送に耐えられるようハードに作られており、かつ簡単に製造できるため、現代では工場での大量生産と小規模の生産者によるより濃厚な味わいの2種に大きく分けられる。ピリッとした後味のアップルビーズ・チェシャーなど、数多くの種類がある。

 

特定のドリンクに合わせて 〇〇に合うチーズ

Wensleydale ウェンズリーデール

Wensleydale
ウェンズリーデール

12世紀に修道院で作られ始めた歴史あるしっとりタイプのチーズ。ヨーグルトのような程良い酸味があり、デザート感覚で食べられる。クランベリーやアプリコット、ルバーブなどの果物や野菜が練り込まれた商品も人気。クランブル、フルーツ・ケーキやリンゴなどに添えて、紅茶と共に食べるのがお勧め。

Sage Derby セージ・ダービー

Sage Derby
セージ・ダービー

緑色の大理石模様で見た目もインパクトがあるチーズ。緑色の要因はセージで、元々はクリスマスなど特別なときに食べられていた。味はチェダーのようなマイルドな食感で、クリーミーな味わいの中にハーブの香りが感じられる。果物や鶏肉料理、白ワインに合わせれば、より爽やかな味が堪能できる。

Lancashire ランカシャー

Lancashire
ランカシャー

クリーミー、クランブリーなどさまざまなタイプがあり、バターのような濃厚な風味が美味。同味のクリスプスも販売されているほど、ビールのおつまみとして最高の組み合わせだ。トーストに載せたり、サンドイッチにしても◎。黒いワックスでコーティングされたランカシャー・ボムも有名だ。

 

一度は食べてみたい 変わり種チーズ

Stinking Bishop スティンキング・ビショップ

Stinking Bishop
スティンキング・ビショップ

「臭い司教」という不名誉な名前の通り、独特で鼻をつく強い香りがする。この特徴的な香りは同名の梨の果汁を発酵させた液体で外皮を洗い、熟成させたため。スライスしたパンやクラッカーに付けて食べると、もったりとした濃厚な味が楽しめる。保存の際はラップやタッパーで密閉するのが安心だ。

Cornish Yarg コーニッシュ・ヤーグ

Cornish Yarg
コーニッシュ・ヤーグ

牛乳から作られたセミ・ハードタイプで、イラクサの葉で包まれたキノコのような味のチーズ。17世紀のレシピを偶然見つけたアラン・グレイという人物によって1980年代に製造されたもので、グレイの名前を逆さにし、ヤーグと名付けられた。イラクサの代わりにニンニクの葉で包んだガーリック味も人気。

Hereford Hop ヘレフォード・ホップ

Hereford Hop
ヘレフォード・ホップ

チーズ製造会社のチャールズ・マーテルが作った比較的新しいチーズ。牛乳から作られたチーズを焼いたホップでコーティング。外側はカリカリ、内側はわずかな苦味とレモンのような柑橘系の味が感じられる複雑な味わいが特徴で、ビールはもちろん、トーストに載せても良い。

ここで買える! ロンドンにあるチーズ専門店

pistachio & pickle

6 Camden Passage, London N1 8ED
Tel: 020 7354 0656
火~日 10:30-17:00
www.pistachioandpickle.com

Cheese Hub

52 Broadgate Link, North Mall, London EC2M 7PY
Tel: 020 7628 6637
月~木 10:00-17:00 金 11:00-19:00
https://cheesehub.com

Neal's Yard Dairy

Covent Garden Shop, 17 Shorts Gardens,
London WC2H 9AT
水~土 10:00-18:00
www.nealsyarddairy.co.uk

英国人はどう付き合っている?
チーズにまつわるエトセトラ

英国人はチーズをどのように楽しんでいるのだろうか。英国産チーズとの付き合い方から、チーズにまつわるエピソードまでを集めてみた。

英国チーズの歴史

欧州の北部に位置し、温暖な気候と頻繁に降る雨によって牧草が育つ自然条件に恵まれている英国。牛乳を長期間保存するために生まれた同国のチーズづくりは、古代ローマ時代以前にさかのぼる。初期の製造元は農民や修道院などに限定的されていたが、時代の荒波に揉まれた結果、その生産方法などは著しく変化を遂げていった。

16世紀前半にヘンリー8世がアン・ブーリンと結婚するためにローマ・カトリック教会から分離し、修道院を閉鎖したことにより、同国のチーズ製造は大々的にストップしてしまい、英国のチーズ製造業は衰退の一途をたどる。17世紀ごろ、町の発展と人口増加に合わせた大規規生産を可能とした近代的なチーズづくりが復活したが、一方で職人たちによる小規模なチーズづくりは減少。20世紀に入ってからも第一次、第
二次世界大戦の被害を受け、再び安定して生産が始まったのは今からたった50年あまり前のこと。現在目にできる元祖英国チーズのチェシャーとランカシャーは、そんな負の圧力に耐えながらこの数世紀で洗練されていったものなのだ。

英国には現在750種を超えるチーズがあり、これはフランス産約400種のほぼ2倍にあたる。英国内のスーパーマーケットの棚に並ぶもの、日本に輸入されるものはこれらのほんの一部でしかない。チーズ専門店はもちろん、オンライン・ショップもたくさんあるので、ぜひお気に入りの一品を探してほしい。

第一次世界大戦中、仏人店主に「ミサのためにパンとバターとチーズをください」と尋ねる英准大尉第一次世界大戦中、仏人店主に「ミサのためにパンとバターとチーズをください」と尋ねる英准大尉

チーズは食後にいただくもの

日本や米国のレストランでは、前菜にチーズの盛り合わせが提供されることがあるが、フランスなど欧州の国ではデザート前、英国ではデザート後にチーズがサーブされることが普通。デザートを食べた後にチーズ、というのは数世紀前からの伝統で、英作家チャールズ・ディケンズの小説「マーティン・チャズルウィット」(1843年)でも食事の最後にセロリと一緒にチーズが提供されているくだりがある。昨今では「デザートの後に赤ワインを飲みたくない」と、チーズが出される順番に疑問を感じている英国人もおり、しばしば新聞のネタに上がるほど。ちなみに科学的にはチーズを食事の最後に食べることは良いとされており、人間は食事をすると口の中が中性から酸性に変わるので、チーズを食べることでアルカリ性に保ち、歯の酸化を防ぐのに活躍してくれるそう。

英国チーズは、ポート・ワイン、ブドウ、リンゴ、洋ナシ、セロリ、ピクルス、チャツネ、クラッカーなどを合わせて食べるのが定番だ。

ウイスキーとのペアリングも人気があるウイスキーとのペアリングも人気がある

スティルトンを食べると変な夢を見る

チャールズ・ディケンズの有名な小説「クリスマス・キャロル」のなかに、スクルージがチーズひとかけで知覚が狂ってしまう、と表現するシーンがある。そのエピソードから「寝る前にチーズを食べると悪夢を見る」という説が定着し、特に英国が誇るブルーチーズ、スティルトンを就寝前に食べると変な夢を見る、というまことしやかな説が有名だ。スティルトンを含む英国産のチーズを食べると良い夢、悪い夢を意図的に見ることができるのか、という夢の研究が2005年になされた。一言断っておくと、この研究は英国でチーズを宣伝する団体ブリティッシュ・チーズ・ボード(British Cheese Board)によるもので、巧妙なマーケティング手法の一つであったようだが、興味深い結果が出た。男女200人、7日間に渡る調査により、「スティルトンを食べると奇妙な夢、レッド・レスターでは学生時代などの過去、ブリティッシュ・ブリーを食べる女性はリラックスした情景、男性は謎めいた夢、ランカシャーは未来、チェダーは有名人のことを夢に見る割合が上がった」のだそう。就寝前のチーズがさまざまな夢を誘発し、より現実離れした面白い光景を見せてくれるということは事実のようだ。

寝る前のスティルトンで不思議な冒険に出てみ
てはいかがだろうか寝る前のスティルトンで不思議な冒険に出てみてはいかがだろうか

 

チーズを使った表現

英語にはチーズという言葉を応用した表現やことわざがある。その一部を紹介しよう。

To Cheese (someone) Off
誰かを怒らせたり、イライラさせたりすること

Cheese it!
やめろ! よせ! 相手に何かをやめるか、逃げるかを言うこと。19世紀に泥棒たちの間で使われていたスラング

Chalk and Cheese
見た目が似ているが、中身は全く異なる性質のもの

Tough/Hard/Stiff Cheese
苦難を受けている人に同情していない、相手のためにできることが何もないことを示すために投げかける言葉

Cheesy
安っぽい

Cheesy romance
感情的で安っぽくロマンティックすぎる、安っぽいラブソングにも使える。また、公共の場での過度なイチャつきや愛情表現など安っぽい男女間のやりとりを表す

Cheeze
お金。またはヴィーガン用チーズのこと

Cheeseparing
お金を使いたくない人、ケチケチした、しみったれた様子

 

大聖堂の街、Ely(イーリー)の歴史を知る - ロンドンから電車で1時15分

ロンドンから電車で1時15分
大聖堂の街、Ely(イーリー)の歴史を知る

ケンブリッジから北東約25キロメートルに位置するイーリー(Ely)。週末でも静かな雰囲気がただよう街だが、イングランドの長い歴史のなかでは大変重要な意味を持つ場所だ。今回はそんなイーリーの興味深いエピソードや街にまつわるストーリーを紹介し、実際に訪れることのできる観光スポットや食事処を併せて紹介。ロックダウンの規制がほぼ全面的に解除となった今、まるで中世にタイムスリップしたかのような気分が味わえるこの街へ出掛けてみてはいかがだろうか。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

ロンドンからのアクセス:キングス・クロス駅、リヴァプール・ストリート駅、チャリング・クロス駅などからナショナル・レールで1時間15〜45分

参考:「Interpreting Ely Cathedral」Lynne Mary Broughton Ely Cathedral Publications、「The Stained Glass Museum: Highlights from the Collection」Jasmine Allen Scala Arts & Heritage Publishers Ltd、www.visitely.org.uk、www.elystandard.co.ukwww.britannica.com、www.historic-uk.com、https://univ.swu.ac.jp ほか

大聖堂の街、Ely(イーリー)の歴史を知る街のシンボル的存在のイーリー大聖堂。1342年に完成した高さ52メートルのオクタゴンと呼ばれる8角形の塔(写真)の美しさは必見だ

魅力たっぷりのElyってどんな街?

長い歴史を持つ街だけに、その魅力は計り知れないものがある。ここでは4つのキーワードを元にその一部を紹介する。

 

ここ無くしてイーリーは成り立たない
イーリー大聖堂
Ely Cathedral

数奇な運命をたどった創立者、エセルスリス

創立者のエセルスリス(Æthelthryth、英: Etheldreda、636〜689年)はイースト・アングリア王アンナの娘で、イングランド東部サフォーク州のエクスニングで生まれたアングロ・サクソン人と伝えられている。未亡人となったエセルリスは、655年ごろからイーリー島で隠居生活をスタート。現在は内陸部のイーリーだが、当時は沼地に囲まれた島で、ボートや土手道を使ってのアクセスに限定されていた地域であった。660年、エセルスリスはノーサンブリア王国のエグフリスと二度目の結婚。12年後、エセルスリスはエグフリスの元を去り、修道女として生きることを決め、673年に現在の大聖堂の元となる、男性、女性のどちらもが同じ規則に従う修道院、ダブル・モナステリ(double monastery)をイーリーに設立した。

ノルマン人によって作られたネイヴ(Nave)と呼ばれる身廊。天井はヴィクトリア時代にペイントされたノルマン人によって作られたネイヴ(Nave)と呼ばれる身廊。天井はヴィクトリア時代にペイントされた

エセルスリスは疫病で680年に亡くなったが、死後数多くの伝説が残されている。①亡くなって17年後に石棺を開けたところ、遺体は腐敗しておらず体を包んでいた布もきれいなままだった、②エセルスリスは一般的に聖オードリー(Saint Audrey)と呼ばれており、崇拝者の一人がこの名前で見本市を開いた。シルクとレースのネックレスを販売したが、品質はとても良いものではなかったため、Audreyからtawdry(安っぽい)という言葉の語源になった、③生前、高貴な身分でありながら、温かい湯船に浸かることもなく、修道院での生活は徹底して質素であった。エセルスリスの生涯は中世の作家の研究テーマとして頻繁に取り上げられた、などがある。

イーリー大聖堂の礎を築いたエセルスリスイーリー大聖堂の礎を築いたエセルスリス

何度滅ぼされても復活してきた結果……

673年に建てられ、970年に再建された当初の修道院は、1066年のノルマン征服、ヘリワード・ザ・ウェイクの反乱などで荒廃し、修繕に着手したのが1079年以降。ノルマン人に征服されたことで、再建に対する罰金、材料費用の捻出など、莫大な費用がかかり、当時の修道院長シオメンは頭を悩ませることになる。最終的にシオメンは当時のウィンチェスター大聖堂の司教であった実の兄弟をあたり、設計のスケジュールや資金繰りに奔走した。13世紀末には大聖堂がほぼ完成し、大聖堂の中央にあるオクタゴン・タワーや聖母礼拝堂など数々の建物の再建を進め、14世紀末にはほぼ現在に見られるような壮大な建物が復活。300年にわたる気の遠くなるような事業だった。ところが16世紀、ヘンリー8世の宗教改革によって再び困難な時代に突入する。現在見られる大聖堂はかろうじて残されたものの、「使う目的がない」と判断された聖職者用の食堂や寝泊まりに使っていた場所は再び破壊されてしまった。

復興の道すじが見えたのは、チャールズ2世が在位した17世紀。しかし過去の破壊行為で、建設にまつわる重要な記録が残っておらず、修繕には再び莫大な時間を費やすことになり、19世紀中ごろにようやく大方の修繕が終わった。何世紀にもわたって破壊と修繕が繰り返された一連の建物は、イングランド・ゴシック様式、ロマネスク様式など、さまざまな時代の様式が詰まった見ごたえのある建物群となった。

近付いてみるとその大きさに圧倒される近付いてみるとその大きさに圧倒される

Ely Cathedral

Chapter House, The College, Ely CB7 4DL 
Tel: 01353 667735
月〜土 10:00-16:00 
日 12:30-15:30 
£8(+ステンドグラス博物館 £12.50)
www.elycathedral.org

大聖堂内でインスタレーション「ガイア」が開催中(7月31日まで)

イーリー大聖堂にて、英国を代表するアーティストの一人、ルーク・ジェラム氏のインスタレーション「ガイア」が期間限定で展示されている。空中に浮かぶ地球を模した直径7メートルの球体は圧巻。チケットは大聖堂の入場料に含まれるので、機会があればぜひ訪れてみてほしい。2021年7月31日(土)まで。

Luke Jerram

大聖堂に併設する隠れた名所
ステンドグラス博物館
The Stained Glass Museum

大聖堂に入って右手に、中世から現代にかけてステンドグラスがたどってきた歴史やその技術を伝えるステンドグラス博物館がある。同大聖堂にかつてはめ込まれていたステンドグラス、ウィンチェスター大聖堂のものなど、約800年以上に渡るコレクションが並び、技術の発展や最新アーティストの作品紹介など、ステンドグラスにまつわるエトセトラを知ることができる。ステンドグラス=宗教建築のデコレーションの一つ、というイメージが一般的だが、材料や光の引き込み方などは今もなお研究されており、実は発展途上のアートなのだ。小さな博物館ながら国内外でも非常に有名で、訪れる価値がある。

フレデリック・アシュウィン作「最終日の夜明け」フレデリック・アシュウィン作「最終日の夜明け」

The Stained Glass Museum

Ely Cathedral, Ely CB7 4DL 
Tel: 01353 660347 
火〜土 10:00-15:30
£4.50(+イーリー大聖堂 £12.50) 
https://stainedglassmuseum.com

 

実は「良い人」? イーリーに住んでいた
オリヴァー・クロムウェル
Oliver Cromwell

イングランドの政治家、軍事指導者のオリヴァー・クロムウェルはイーリーに住んでいた時期があった。現在観光案内所となっている場所がそこで、1636年から約10年間、自身の母親、妻のエリザベスと子どもたちと暮らしていた。クロムウェルはイングランドの歴史において重要な人物だが、その評価は賛否両論で評価が分かれる。イーリーに住む住民にとっては概ね「良い人」だという。

オリヴァー・クロムウェルの家。チケットは1階の観光案内所で購入しようオリヴァー・クロムウェルの家。チケットは1階の観光案内所で購入しよう

イングランド内戦が起こった17世紀半ば、クロムウェル率いるコモンウェルスは当時、教会を破壊し、その資源を売却して病人や飢餓に苦しむ子どもたちを助ける資金に充てていた。当然大聖堂もその運命をたどるはずだったが、約100年前の宗教革命の折にすでに破壊されていたため、それ以上の制裁は加えず放置した。この決定はクロムウェル自身の宗教建築に対するある程度の無関心さが要因とされているが、いずれにせよ大聖堂は致命的な損傷を受けることなく、ほかの地域で重要文化財が多く取り壊されていたこの残酷な時期を乗り切ることができた。

クロムウェル家のキッチンの様子クロムウェル家のキッチンの様子

現在この建物はオリヴァー・クロムウェルの家として一般公開されている。クロムウェル夫人が使ったキッチンや家庭生活の様子が再現され、政治家としてではなく父親であり夫である一人の男性としての側面を強調した展示となっている。展示の最後の部屋は不気味なほど真っ暗で、幽霊が出るという噂もあるらしい。

Oliver Cromwell's House

29 St Mary's Street, Ely CB7 4HF
Tel: 01353 662062
10:00-17:00(11〜3月 11:00-16:00) 
£5.20
www.olivercromwellshouse.co.uk

 

貨幣にもなった重要な特産品
ウナギ
Eel

棒の先頭にこの道具を付け、水中のウナギを地上から狙った(イーリー博物館蔵)棒の先頭にこの道具を付け、水中のウナギを地上から狙った(イーリー博物館蔵)

かつて沼地に浮かぶ島であったイーリーは、17世紀に排水事業が行われるまでウナギがよく獲れる場所としても有名で、ウナギを捕獲するイール・キャッチャーという職業が存在し、各々の仕掛けでウナギを取っていた。捕まえたウナギは食用のほか、通貨、税の支払いなどさまざまな目的に使われ、イーリー大聖堂の修繕に必要だった大量の石材も、1年で8000匹というウナギ取引で賄ったという。また、オリヴァー・クロムウェルの妻エリザベスもウナギを捌き、シチューの具材やイールとオイスターのパイなどを作っていたそうだ。Ely Museumちなみに、街名のイーリー(Ely)とウナギ(Eel)の発音が似ているため、ウナギが命名に絡んでいるという説もあるが、定かではない。

毎年5月には「イーリー・イール・デイ」(Ely Eel Day)と呼ばれるイベントが開催されており、ウナギ投げ大会やウナギ料理が食べられる1日になっている。ウナギが常時楽しめるレストランは少ないが、ザ・オールド・ファイアー・エンジン・ハウスでは燻製のウナギを提供。また、観光案内所ではイーリーズ・イール・ブリュー(2.99ポンド)というエール・ビールを販売している。

Ely Museum Ely Museum

The Old Gaol, Market Street, Ely CB7 4LS
Tel: 01353 666655
火〜土 10:30-17:00 日 12:00-17:00 
£5.50
www.elymuseum.org.uk

The Old Fire Engine House The Old Fire Engine House

25 St Mary's Street, Ely CB7 4ER
Tel: 01353 662582
営業時間はサイトを参照
www.theoldfireenginehouse.co.uk

 

伝統の一戦、ケンブリッジ大学の練習場
ボート
Boat

毎年ロンドンのテムズ川で開催される、名門校オックスフォード大学とケンブリッジ大学のボート・レース。ケンブリッジの学生が、本格的にボートの練習ができる場所として活動拠点を置いているのがイーリーだ。

2021年4月4日に開催された第166回男子ボート・レースと第75回女子ボート・レースは、新型コロナウイルスによるアマチュア・イベント開催の制限と、現在工事中のハマースミス橋の安全性を考慮し、イーリーのグレート・ウーズ川で開催されることに。これは1944年にイーリーで同レースが開催されて以来のことで、当日はテレビ中継でファンたちを楽しませ、男女ともにケンブリッジ大学が勝利した。

4月にイーリーで行われた伝統の一戦4月にイーリーで行われた伝統の一戦

グレート・ウーズ川は昔から人や荷物の移動に使われ、周辺地域の排水を引き込む主要な川としても重要な河川だった。先史時代は海までまっすぐに流れていたものの、人間が生活するようになってからは洪水が起こるたびに流水量が変動し、定期的にルートを変更する動的な河川だったという。また、この川はカム川の一部が合流しており、イーリーとケンブリッジ間の荷物や人の移動に使われていた。今でこそ電車で20分程度だが、ボートでの移動は約6時間と長旅だった。

建物がかわいすぎる!
歴史的な雰囲気たっぷりのイーリーを散策

駅から歩いて数分で街の中心部に到着する。イーリー大聖堂のそばには緑豊かな公園が広がり、草を食む牛ののんびりした姿が見える。こぢんまりとした街の朝はとてもスロー。都会の喧騒から離れるためにこの地を訪れ、夜には恋しくなって戻る、そんな週末旅にぴったりの場所だ。

ローカルの気分を味わうならココ
The Prince Albert

小径にひっそりとたたずむ、白と緑のレトロな外観が印象的なパブ。室内は昔ながらのパブの雰囲気がただよう。屋外にはテントのような屋根つきの庭があり、風を感じながらビールのジョッキを傾けるのは、さながらビア・ガーデンのよう。定期的に入れ替わるカスク・エールを味わいに、地元の家族連れや熟年夫婦などがひっきりなしに訪れる。

62 Silver Street, Ely CB7 4JF 
Tel: 01353 663494 
月~土 11:00-23:00 日 12:00-22:30 
www.facebook.com/PrinceAlbertEly

The Prince Albert

ロマンティックなティー・ルーム
Peacocks Tearoom and A Fine B&B

おとぎ話から飛び出してきたかのようにかわいらしいティー・ルーム。紅茶の品ぞろえは豊富で、ブラック・ティーだけでも50種を超える。軽食やアフタヌーン・ティーが楽しめる。室内は外観から想像できないほど入り組んだ構造になっており、カントリー風の装飾が施されている。中庭もあり、つい長居したくなってしまうほど居心地の良い場所だ。2階にはB&Bもある。

65 Waterside, Ely CB7 4AU 
Tel: 01353 661100 
火~日 10:30-17:00(9~6月は火定休) 
www.peacockstearoom.co.uk

The Prince Albert

The Prince Albert

パン好きは早朝に訪れて!
Grain Culture

焼きたてのパンやコーヒー、地元で採れた野菜や卵、世界各国の選りすぐりの輸入食品を扱うショップのあるパン屋で、健康意識の高い若い世代御用達の人気店。自慢はイースト発酵させた自家製ヴィエノワズリーで、昼前には売り切れになってしまうほど人気なのだとか。店内は2名ほどが利用できる飲食スペースがあるが、目の前に公園があるのでテイクアウェイでピクニック気分を味わうのもいい。

30 St Mary's Street, Ely CB7 4ES 
火~土 8:00-17:00
www.grainculture.co.uk

Grain Culture

川のそばで夕涼みを楽しめるパブ
The Cutter Inn

街の南側を流れるグレート・ウーズ川のほとりにたたずむパブ。フィッシュ&チップス、ソーセージ&マッシュなどのメインから、デザートのホームメイドのレモン・ポセットまで、英国らしい定番のメニューがそろう。日曜のサンデー・ローストも人気。テラス席が豊富にあるので、短い夏の夕暮れどきにぜひ利用してみたい。

42 Annesdale, Ely CB7 4BN
Tel: 01353 662713
月~木 12:00-22:00 金・土 12:00-23:00 
日 12:00-20:00
www.thecutterinn.co.uk/coming-soon

The Cutter Inn

出会って心がときめいたら迷わず購入!
Ely Markets

11世紀に始まった由緒正しき屋外マーケット。新鮮な野菜やペストリーなどフード・ストールもあるが、1番の魅力はヴィンテージ品やここでしか購入できない手作りのアイテム。特にヴィンテージはレコード、家具、装飾品、食器などさまざまなものがあり、時間を忘れてつい物色してしまう。朝から活気にあふれ、見ているだけで元気がもらえる場所だ。

Market Place, Ely CB7 4NT
木~土 8:30-15:30
(ファーマーズ・マーケット 第2・4の土曜)
日 10:00-16:00
www.elymarkets.co.uk

Ely Markets

優しいスタッフがお出迎え
観光案内所

オリヴァー・クロムウェル博物館併設の観光案内所の一角でお土産が購入できる。ウナギの項目で紹介した観光案内所限定のビール、地元で作られたお菓子やジャム、オリヴァー・クロムウェルにちなんだグッズなど、一風変わったイーリー限定の商品が見つかる。

Oliver Cromwell's House,
29 St Mary's Street, Ely CB7 4HF
Tel: 01353 662062
10:00-17:00(11~3月 11:00-16:00)
www.olivercromwellshouse.co.uk

Ely Markets

秘密の倉庫感で大人もワクワク
Waterside Antiques

1760年代後半の建物を利用した巨大なアンティーク・センター。65を超えるブースがあり、フィギュアや食器、ジュエリー、家具などさまざまなものが販売されている。各店のオーナーたちがセンター内を徘徊しているので、気になる商品があれば気軽に声をかけてみよう。雑多に置かれた商品の中から掘り出し物が見つかるかもしれない。

55a - 55b Waterside, Ely, CB7 4AU
Tel: 01353 667066
月〜土 9:30-17:30 日 11:00-17:00
www.watersideantiques.co.uk

Waterside Antiques

 

北アイルランドの「誕生」から100年 - 今も続くアイルランドの複雑な問題

北アイルランドの「誕生」から100年
今も続くアイルランドの複雑な問題

今年は英国とアイルランド(愛)の間で英愛条約が締結されちょうど100年。1921年に南部26州は英国王を元首とするアイルランド自由国として分離し、北部6州は英国の統治下にとどまり現在でいう北アイルランドになることが決まった。英国で今も続く北アイルランドの帰属問題は、ここから始まっている。この特集では過去から現在までに起きたいくつかの歴史的事件をピックアップしつつ、日本人には分かりづらいアイルランドと英国の複雑な関係、アイルランドと北アイルランドの関係を改めて見ていく。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考:「アイルランド独立紛争史 シン・フェイン、IRA、農地紛争」森ありさ著 論創社、「北アイルランド紛争の歴史」堀越智著 論創社、The Irish History.com、BBC、世界史の窓、JIIAほか

今も続くアイルランドの複雑な問題

英国にもある分離壁

今では北アイルランドの観光名所に

ベルリンの壁やヨルダンの壁が良く知られているが、北アイルランドにも分離壁は存在する。平和の壁(Peace lines、Peace walls)という皮肉な名前で呼ばれており、互いの暴力衝突を避ける目的で、カトリックとプロテスタントのコミュニティーの間に建設された。最初の壁は1969年の暴動直後にベルファストに造られた。当初は一時的なものと考えられていたが次第に数を増やし、現在北アイルランドにはベルファストを中心に60近い平和の壁がある。長さは数百メートルから長いものでは5キロにもおよび、総延長にすると34キロともいわれる。平和の壁の側面はさまざまな絵画やスローガンで埋め尽くされており、近年では平和の壁巡りをする観光ツアーも行われているようだ。2023年までに解体される計画もあるが、暮らしの安全のためにまだ必要だと考える市民も多い。

アイルランドが現在に至るまで

1541年 ヘンリー8世がアイルランド国王に
1649年 オリヴァー・クロムウェルがアイルランドを攻略
1690年 ボイン川の戦い
1845年(〜49年) 大飢饉
1916年 イースター蜂起
1919年 アイルランド独立戦争
1920年 アイルランド統治法の成立。アイルランドは南北に分割
1921年 英愛条約が締結
1922年 アイルランド内戦
1938年 英連邦内の共和国として、英国がアイルランド自由国の独立を承認
1949年 アイルランド自由国が英連邦を離脱。アイルランド共和国に移行
1966年 アルスター義勇軍(UVF)がカトリック住民に対しテロ行為を実行
1972年 1月に英陸軍によるデモ隊銃撃事件「血の日曜日事件」、7月にIRAによる爆弾事件「血の金曜日事件」が発生。北アイルランド地方議会および行政府が廃止、英政府の直接統治下に置かれる
1985年 英愛両政府が英国・アイルランド協定に調印
1993年 英愛両政府が政治的な和解を目標とした「ダウニング街共同宣言」を発表
1994年 IRAが無期限停戦宣言
1998年 ベルファスト合意(Good Friday Agreement)が成立。アイルランド共和国は、国民投票により北アイルランド6州の領有権を放棄
2005年 IRAが武力闘争の終結を発表
2006年 連立政権の権限配分、司法、治安維持に関する問題の進展に向けた「セント・アンドルーズ協定」が成立
2010年 武装組織UDAが武装解除
2011年 エリザベス女王がアイルランド共和国を公式訪問
2020年 EU離脱協定に北アイルランド議定書が盛り込まれる。
英国がEU離脱する一方で、EU加盟国であるアイルランドと地続きの北アイルランドはEUの関税同盟と単一市場に部分的に残留
2021年 3~4月 北アイルランド各地で暴動
12-16世紀

北アイルランドにプロテスタントが多いのはヘンリー8世の政策

アイルランド島はケルト系文化を持ちカトリックを信仰するなど、東隣りにある大ブリテン島とは異なる歴史を持つ。英国(イングランド)がアイルランドへの介入を積極的に始めたのは12世紀後半からだが、百年戦争やバラ戦争など、その時々のイングランド国内の事情により完全な支配には至らず、アイルランドに移り住んだアングロ=サクソン系やノルマン系の貴族が、同地に元から住むケルト系ゲール人の貴族と共存しそれぞれ発展。イングランドの国王は英国の首長としてローマ教皇からアイルランドの宗教管理をまかされているという形式的建前があったものの、アイルランドは独立国家として存在していた。

ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚は、その後のアイルランドの運命も変えたヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚は、その後のアイルランドの運命も変えた

ところが、宗教改革でローマ教皇と断絶したヘンリー8世は、1541年に自らがアイルランド国王となることをアイルランド議会で承認させた。そのため、アイルランドは形の上では独立した国のまま、イングランド王の支配を受けることになった。ヘンリー8世はダブリンに行政府を置き、イングランドから多くのプロテスタントを移住させた。続くエリザベス1世もヘンリー8世の政策を受け継ぎ、アイルランド北東部(アルスター地方)のデリーにロンドンの富裕な商人を多く入植させた。このような強引な移住政策は、後に大きな火種を残すことになる。こうして、アイルランド全体ではカトリックが主流だが、アイルランド北東部ではプロテスタントが多数派になり、同地のカトリック教徒は少数派として迫害されるようになっていった。

17-19世紀

クロムウェルはアイルランドから今でも恨まれている

ピューリタン革命の指導者で共和主義者のオリヴァー・クロムウェルは、アイルランドが王党派やカトリックの拠点になっていることを口実に1万7000人余りを派兵し、1649年にアイルランドを侵略。さらに、アイルランドのカトリック教徒と結束して再起を図ったジェームズ2世が1690年にボイン川の戦いでウィリアム3世の率いるプロテスタント軍に敗れたことで、アイルランドの植民地化が決定的になった。英国はアイルランド住民の反乱を抑えるために直接統治に乗り出し、カトリック教徒を徹底的に弾圧。アイルランド・ゲール語は使用できず、文化や伝統も否定された。また、カトリック教徒は土地を所有できないうえ、大学に行けず、医者、弁護士、政治家などにもなれなかった。差別されたカトリック教徒たちは、米国の独立やフランス革命の影響を受けて、英国からの独立を求める運動を起こし始めた。

オリヴァー・クロムウェルオリヴァー・クロムウェル

18世紀後半に立ち上がった「統一アイルランド人協会」は武器を取るも、英軍に鎮圧され3万人の死者を出した。英政府は、独立運動を抑えるため1801年にアイルランドを完全に併合。それにより「大ブリテン及びアイルランド連合王国」が成立し、アイルランドは英国の一部になった。併合は120年以上続くが、その間にアイルランドに大飢饉(1845~49年)が起こり、住民の死亡や移住でアイルランドの総人口は最盛期の半数にまで減少したといわれる。

「ジャガイモ飢饉」と呼ばれた大飢饉(1845~49年)は英政府の政策が原因で長引き、人々は4年にわたり飢餓に苦しんだ「ジャガイモ飢饉」と呼ばれた大飢饉(1845~49年)は英政府の政策が原因で長引き、人々は4年にわたり飢餓に苦しんだ

20世紀 ①

北アイルランドは妥協案から生まれた

アイルランド Map

1916年にアイルランド独立運動の急進派が対英の武装蜂起をする。イースター蜂起と呼ばれるこの反乱は、首謀者の多くが処刑されたことで多くのアイルランド人の反英感情を増大させた。その後の総選挙で、蜂起に加わった者を含んだ民族主義政党シン・フェイン党が躍進。当選議員は、ウェストミンスターでの英議会に出席せず、ダブリンに独自のアイルランド議会を樹立した。さらに1919年1月、独自に国民議会を開催し、アイルランド共和国の独立を宣言する。これに対し英政府は軍隊を派遣。アイルランド側も義勇軍を組織し、アイルランド独立戦争となった。義勇軍は後にアイルランド共和国軍(IRA)と呼ばれることになる。戦いが長期化するなか、アイルランド北部を分離して英国領に残し、それ以外の南部は王国内の自治領としての独立を認めるという英国から打開案が示される。これは、プロテスタントの多いアイルランド北部をアイルランドから分断するという過激なものでもあったので、この妥協案に対してそれを認めざるを得ないとする多数派と、あくまでアイルランド全島の完全独立を求める少数派に分裂した。受け入れをめぐって内戦が起こったが、この妥協案は支持され、1920年にアイルランド統治法が成立。翌21年に英愛条約が締結され、アイルランド南部はアイルランド自由国となった。

カトリック系 宗派 プロテスタント系
ナショナリスト / リパブリカン 思想 ユニオニスト / ロイヤリスト
英国からの分離独立、共和主義を掲げる 特徴 英国との連合、英国人としてのアイデンティティーを重視
シン・フェイン党 政党 民主統一党(DUP)
社会民主労働党(SDLP) アルスター統一党(UUP)
アイルランド共和軍暫定派 (IRA) 民兵組織 アルスター防衛協会(UDA)

*北アイルランドには北アイルランド同盟党(APNI)など、ユニオニスト、ナショナリストの双方を支持しない層から一定の支持を受けている政党もある。APNIは現在、北アイルランド議会では90議席中7議席を保有している

イースター蜂起で建物が崩壊したダブリンのサックヴィル・ストリートイースター蜂起で建物が崩壊したダブリンのサックヴィル・ストリート

1916年に独立運動の急進派が出したアイルランド共和国宣言1916年に独立運動の急進派が出したアイルランド共和国宣言

20世紀 ②

血で血を洗う闘争へ

英愛条約は北アイルランドには平和をもたらさず、特にカトリック系住民の長年抱えていた不満が増大した。いくら多くのプロテスタントが入植していたとしても、北アイルランド人口のおよそ40パーセントはカトリックである。統治側のプロテスタントは武装警察に加え、独立戦争中に編成された特別警察を使い強硬な治安体制を敷くほか、比例代表制を廃止するなどして各地方議会をプロテスタントで独占。そうしたことからカトリックの失業率は常にプロテスタントの2倍以上と、カトリック差別の社会がよりいっそう進んでしまったのだ。その結果として、カトリックのなかからは、英国の支配を終わらせアイルランドの独立を打ち立てようとする組織(リパブリカン)、アイルランド共和軍暫定派(IRA)が生まれた。また、プロテスタントのなかにも、英国とのつながりを守るために銃を持つ組織(ロイヤリスト)アルスター防衛協会(UDA)が現れた。

北アイルランドの大多数の人々は暴力による解決を望まない。しかし、リパブリカンとロイヤリスト双方によるゲリラ活動と、それを鎮圧しようとする英国の国家治安部隊の活動によって、20世紀の北アイルランドは市民を巻き込んで大きく揺れた。特に1970年代には暴力が激化し、「北アイルランド紛争=暴力」と定義されるようになっていったのだ。北アイルランド問題は今も、「ザ・トラブルズ」(あのやっかいごと)と呼ばれている。

1976年8月、ベルファストで起きた市街戦。英国兵士の持つ銃の先が見える1976年8月、ベルファストで起きた市街戦。英国兵士の持つ銃の先が見える

4回あった血の日曜日事件

1972年、北アイルランドのロンドンデリー(デリー)でデモ行進中だった非武装の市民が英陸軍に銃撃され、27人が死亡した「血の日曜日事件」(Bloody Sunday)は、アイルランド史のなかでも特筆すべき事件として広く知られる。だがアイルランドには同名の事件がほかに3件ある。①1913年にダブリンで起きた労働争議、②1920年に独立戦争の際に市民を巻き込み31人の死者を出したダブリンの銃撃戦、③1921年にベルファストでリパブリカン、ロイヤリスト、英国軍が関与した戦闘。17人が死亡し100人余りが怪我を負い、200軒近くの家屋が損傷した。

1970年代のロンドンデリー(デリー)で、建物の屋上から火炎瓶を投げようとしている男性1970年代のロンドンデリー(デリー)で、建物の屋上から火炎瓶を投げようとしている男性

21世紀 ①

ブレグジットでも悩みの種に

1998年に北アイルランド紛争に関する和平合意、ベルファスト合意が成立。北アイルランドとアイルランドの間に置かれていた検問所が撤廃された。つまり、英・愛・北アイルランド間の自由な往来が可能になったわけだが、これは英国とアイルランドが共にEUに加盟していたからできたことだった。関税同盟と単一市場のおかげで、北アイルランドとアイルランド間の人、物資、資本、サービスの自由な移動が可能になったのだ。しかし、英国がEUから離脱すると、英国側の北アイルランドとEU側のアイルランドの間で再び通関手続きが生じてしまう。そうした国境の復活は、やっと落ち着いた北アイルランドの和平を経済的にも政治的にも再び危険にさらすことを意味する。

どうすれば英国は国境管理を復活させずにEUを離脱できるのかが英政府の悩みどころとなった。EUは北アイルランドをEUの関税同盟内に残留させることを提案したが、当時の首相テリーザ・メイはこれを拒否。このとき保守党は少数政権で、ユニオニストの民主統一党(DUP)から閣外協力を必要としていたこともあり、北アイルランドを切り捨てるような案を受け入れることはできなかった。メイ首相は代わりにバックストップ案を提案。これは、離脱移行期限である2020年12月までに英国とEUとの間に協定が締結されない場合、英国全体がEUとの関税同盟にとどまり、北アイルランドは単一市場の法則に従うというものだった。だがこの案は党内で理解を得られず、首相退陣、内閣改造のきっかけとなった。

ベルファスト合意のパンフレットを手にしたシン・フェイン党の元党首ジェリー・アダムズ氏(写真右)ベルファスト合意のパンフレットを手にしたシン・フェイン党の元党首ジェリー・アダムズ氏(写真右)

北アイルランドとアイルランドの国境に立つ交通標識北アイルランドとアイルランドの国境に立つ交通標識

21世紀 ②

まだまだ終わらないザ・トラブルズ

2019年7月にメイ首相の後任に就いたボリス・ジョンソン首相は、英国はEUの関税同盟からも単一市場からも離脱するが、北アイルランドだけはこれらに部分的にとどまるという案を打ち立て、EUと離脱に合意した。これが離脱協定と共に結ばれた北アイルランド議定書だが、これはEU加盟国のアイルランドと英国側の北アイルランド間の自由な物流を認める一方で、北アイルランドと英国間の物資の移動に通関手続きが導入されるというものだった。当然ながら、ユニオニストはこの取り決めを快く思わなかった。英国のほかの地域と北アイルランドの間に差異ができ、英国における北アイルランドの地位を脅かすものだと反発。今年3月には、ユニオニストの軍事組織の代表を含むグループが、ベルファスト合意の順守をやめるとジョンソン首相に書面を送っている。21年3月末から4月にかけて北アイルランド各地では連日ユニオニストとナショナリストの間で暴動が続き、10日間で警官70人以上が負傷する事件が起きた。大方の人々が心配したように、ブレグジットは鎮火しつつあった問題に再び火を点けた格好となっている。

北アイルランド議定書に対する反対デモ北アイルランド議定書に対する反対デモ

「アイリッシュ海に境界線を作るな」、と書かれたベルファストのグラフィティ「アイリッシュ海に境界線を作るな」、と書かれたベルファストのグラフィティ

 

ウィリアム・モリスの見た夢

ウィリアム・モリスの見た夢

デザイナーで社会主義者のウィリアム・モリスは、エドワード・バーン ジョーンズをはじめとしたラファエル前派の友人たちと共に、1861年にモリス商会(Morris, Marshall, Faulkner and Co. 本文ではモリス商会で統一)を立ち上げた。産業革命によって大量生産の粗悪な商品が氾濫していた19世紀後半の英国で、昔ながらの美しい手工芸品を暮らしに取り戻そうと、モリスらはこの商会で自分たちのデザインした家具や装飾美術品を製造販売した。そんなモリス商会は2021年で創立160周年を迎えた。かつてモリスが描いた夢は形を変えながらも、モリスの死や二つの世界大戦を乗り越え、しっかりと後の世代に引き継がれていると言ってよいだろう。この特集では、紆余曲折のあったモリス商会の軌跡を追う。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考: ナショナル・トラスト、ウィリアム・モリス・ギャラリー、Morris&Co. by David Cody、News from Nowhere and Other Writing by William Morris、Morris&Co.ほか

ウィリアム・モリスの見た夢モリスの最も初期の壁紙デザイン「トレリス」1862年

William Morrisウィリアム・モリス William Morris
1834年3月24日~1896年10月3日

シティの証券仲買人の子としてロンドン郊外の裕福な家庭に生まれた、19世紀英国のデザイナー、詩人、社会主義者。多方面で活動し各分野で大きな業績を挙げたが、特にテキスタイルや壁紙のデザインで知られる。モリス商会を設立し、「モダン・デザインの父」と呼ばれる。

アーツ・アンド・クラフツ運動 Arts and Crafts Movement

ウィリアム・モリスに提唱された美術工芸運動。産業革命の起きたヴィクトリア時代の英国は、大量生産による安価で粗悪な商品があふれていた。アーツ・アンド・クラフツ運動はこうした状況を是正し、中世の手仕事を復活させ、生活と芸術を統一させることを目指した。世界各国の芸術家や工芸家たちにも大きな影響を与えてきた。ちなみに、アーツ・アンド・クラフト運動という言葉は、1887年に製本デザイナーのT・J・コブデン=サンダーソン(T. J. Cobden-Sanderson)が初めて用いた。

モリスは何を目指したか

オックスフォード大学で学んでいたときに、「生まれる時代を間違えた」と言ったほど中世の芸術を愛したウィリアム・モリス。ただ当時、そんな中世の礼賛者はモリスだけではなかった。同時代の美術評論家で社会思想家でもあるジョン・ラスキンの思想が広まり、ラスキンの著「ヴェネチアの石」を読んで、12~15世紀にかけて欧州に広まったゴシック建築に傾倒する者が増加。ヴィクトリア時代の英国において、「反近代」としての中世は人々の憧憬をかき立て、静かな流行を見せていた。ラスキンは、ヴィクトリア時代の労働者たちが工場で細分化された作業をしているため、全ての作業を通して自分の手で製品を作り出す中世の手工業者のような喜びがないと、産業革命で急速に発展する英国のありようを非難した。

モリスもまた、熟練の技や手仕事の美しさが失われていくだけではなく、大量生産された商品を使う市民の毎日が無味乾燥なものになることを恐れた。また一方で、当時の上流階級の華美で過剰な装飾も嫌い、「役に立たないものや、美しいとは思わないものを家に置いてはならない」と述べている。こうした自身の哲学から、モリスは英南部ケントに「レッド・ハウス」と呼ばれる邸宅を建設する。当時モリスは妻を迎えたばかりで、理想の新居造りに腕を振るった。原型となるアイデアはモリス自身が起こし、実際の設計は友人の建築家フィリップ・ウェッブが担当。建物に合わせた家具や内装は、やはり友人であるラファエル前派の画家たちがデザインした。伝統的なヴィクトリア朝の住宅に比べると家の中はいたってシンプルで素朴。ただし、内装、家具はもちろん、窓などの建具までがオリジナル・デザインで、隅々にまで神経のいき届いた凝った造りだった。自分が建築家としても画家としても大成できないことを実感したモリスは、レッド・ハウスを完成させた時点で、会社を作り美の総合プロデューサーとして社会に貢献できることに気が付いた。

モリスの邸宅レッド・ハウス内部モリスの邸宅レッド・ハウス内部

1874年のモリスとバーン=ジョーンズ1874年のモリス(写真右)とバーン=ジョーンズ(同左)

友人を巻き込んで会社を設立

モリスは、作り手がデザインから製品作りまでを一貫して行うことによって、より良い製品を購入者に提供できるとし、1861年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立した。事業所は、モリスがバーン=ジョーンズと共有していたスタジオにも近い、ロンドンのブルームズベリー地区、レッド・ライオン・スクエア8番地に開設。メンバーは、モリスのほかに、フォード・マドックス・ブラウン、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、エドワード・バーン ジョーンズという3人の画家、建築家のフィリップ・ウェッブ、測量技師のピーター・ポール・マーシャル、そして経理のチャールズ・フォークナー。多くが同年代の仲間で、フォークナーを除いて、全員が製品のデザインを提供した。初期の主な事業は、教会のステンドグラスを作ることだった。19世紀半ばには教会の儀式を重要視する風潮が復活し、教会建築の見直しが流行していた結果として、これはかなりの需要があったらしい。

モリスとバーン ジョーンズによるアーサー王とランスロットのステンドグラスモリスとバーン=ジョーンズによるアーサー王とランスロットのステンドグラス

また、1862年に王立美術製造商業協会の主催でロンドン万国博覧会(International Exhibition)が行われ、幕末の日本を含む世界36カ国から2万8000人以上の出展者が参加した。このときモリス商会もサンプル商品を展示。一定の成果を上げることに成功した。家具のほかにも、ろうそく立て、絵画、彫刻、宝石、壁紙、ランプ、タペストリーなどさまざまな製品を手掛け、モリス商会の名は次第に国内外へと広まっていった。

モリスがデザインしたテキスタイル「コンプトン」シリーズモリスがデザインしたテキスタイル「コンプトン」シリーズ

ロセッティがモリス商会のためにデザインした椅子ロセッティがモリス商会のためにデザインした椅子

大人の事情と再出発

やがてモリス商会はあるジレンマに陥る。良い材料を使い時間をかけて丁寧に作られた製品は、それが家具であれタペストリーであれ、販売価格が非常に高くなってしまうということだった。いかにモリスが庶民の暮らしに本物の美を、と考えたところで、一般の人々にモリス商会の製品は手が届かない。顧客はモリスがあんなに嫌った、労働者を機械の部品のように扱う企業家たちである。それまでは貴族の真似をすることで富を誇示していた企業家たちが、独自の好みを発掘していた時期でもあり、モリス商会の製品は資産を持つ人々に愛されることになったのだ。自宅の改装を依頼する資産家が増え、モリス商会の活動は製品の販売だけではなくインテリア・デコレーション全般となった。セント・ジェームズ宮殿とヴィクトリア&アルバート・ミュージアムの一室を装飾するコミッションなどがその例で、タイタニック号の客室を手掛けたこともあったという。社会主義者のモリスにとって、これは解決することのできない悩みとして残った。

また一方で、モリスが当初から父の遺産を持ち出す形で行っていたモリス商会の経営状態は、なかなか改善することはなかった。1875年までには主要メンバーの脱退や引退が相次ぎ、ロセッティとは退職金をめぐり激しい口論となるなど、モリスにとって苦い経験が続いた。同年、モリス・マーシャル・フォークナー商会を全て買い取る形で、モリス商会(Morris&Co.)と改め企業の立て直しを図る。製品は手ごろな壁紙などへと変化させ、ロンドン中心部に店を出すなど、消費者にとってより身近な存在になることを心掛けた。やがて、子どものころに触れた自然をもとにモリスが生み出した植物や鳥などをあしらったテキスタイル・デザインは、モリス商会の顔となる。自分は画家にも建築家にもなれないと考えていたモリスは、いつのまにか後世にも名を遺すデザイナーに転じていた。1880年代になるとモリス商会のような工房が各地に設立され、それは「アーツ・アンド・クラフツ運動」へと発展していく。

1879年に撮影されたロンドン中心 オックスフォード・ストリートの店 1879年に撮影されたロンドン中心 オックスフォード・ストリートの店

守られていくモリスのレガシー

ウィリアム・モリスはテキスタイル・染色・製本のデザイナー、詩人、作家、社会主義運動家、会社経営者、環境保護運動家など多くの顔を持っていた。アーツ・アンド・クラフツ運動が世界へも広がりはじめていた1896年に62歳で死去するが、その際、医師は「死因はウィリアム・モリスだ」と言ったとされている。「普通の人なら一生かかってもできない重要な仕事を10人分こなし、そのために亡くなった」のだと。

モリス商会はモリスの死後、忠実なアシスタントであったジョン・ヘンリー・ダリルが後を継いだ。1917年にはロンドンの高級ショッピング街ハノーヴァー・スクエアにショールームを設立。その後もモリスとバーン=ジョーンズのデザインはその時々の嗜好に合わせて繰り返し使われたが、アート・ダイレクションをしていたダリルが32年に死去し、第二次世界大戦に突入した40年に会社は閉鎖される。しかし、モリス商会のデザインはすぐにテキスタイル会社のサンダーソン&サンズ社とリヴァティー・ロンドン社が版権を買い取り、以来「モリス商会」(Morris&Co.)というブランド名で現在も引き続き販売されている。現在私たちは昔よりも気軽にウィリアム・モリスのデザイン製品に接することができるようになった。「生活に芸術を」と唱えたウィリアム・モリスのこだわりやレガシーは消えることなく、160年後の今もそのまま引き継がれている。

モリス商会のデザインに出会える場所

英国にはウィリアム・モリスやモリス商会のデザインに出会える場所が各地にある。オンラインによる事前の予約が必要になるものの、ロックダウンの規制緩和で各施設が再オープンし、 モリスの生み出した美に気軽に触れることができるようになった。

Red House

Red House

ウィリアム・モリスが自分と妻のためにフィリップ・ウェッブと設計した邸宅。ネオ・ゴシック様式の建築で、内部はロセッティやバーン=ジョーンズが装飾を担当した。現在はナショナル・トラストが管理し、一般公開している。

Red House Lane, Bexleyheath, London DA6 8JF
最寄り駅: Bexleyheath駅
Tel: 020 8303 6359
木~日 11:00-15:00
£10
www.nationaltrust.org.uk/red-house

Standen House and Gardens

Standen House and Gardens

19世紀の弁護士ジェームズ・ビールの別宅として、美しい田園を見渡す丘の上に建てられた。設計はフィリップ・ウェッブ、内装はモリス商会が担当。美しい家具やテキスタイルで整えられた内部と庭園とのバランスが美しい。

West Hoathly Road, East Grinstead, West Sussex RH19 4NE 
最寄り駅: East Grinstead駅
Tel: 0134 232 3029
11:00-16:30
£10
www.nationaltrust.org.uk/standen-house-and-garden

Wightwick Manor and Gardens

Wightwick Manor and Gardens

ロセッティ、バーン=ジョーンズ、イーヴリン・ド・モーガンなどラファエル前派の絵画コレクションが勢ぞろいする、チューダー式の大邸宅。広大な全室がモリス商会のテキスタイル、タペストリー、ステンドグラスなどで彩られている。

Wightwick Bank, Wolverhampton WV6 8EE
最寄り駅: Wolverhampton駅
Tel: 0190 276 1400 
11:00-17:00
£10
www.nationaltrust.org.uk/wightwick-manor-and-gardens

William Morris Gallery

William Morris Gallery

モリスが1848年から56年までの8年間を過ごした家をそのままギャラリーにし、その生涯と業績を称えた博物館。インテリア・デザインだけではなく、社会主義的思想を追求したモリスの哲学についても触れている。

Lloyd Park, Forest Road, London E17 4PP
最寄り駅: Walthamstow Central駅
Tel: 020 8496 4390 
火~日 10:00-17:00 
入場無料
www.wmgallery.org.uk

Victoria and Albert Museum

Victoria and Albert Museum

各国の古美術、工芸、デザインなど多岐にわたる400万点の膨大なコレクションを持つ装飾博物館。モリス商会がデザインを担当した「グリーン・ダイニング・ルーム」は、現在も同館のカフェとして一般客に利用されている。

Cromwell Road, London SW7 2RL
最寄り駅: South Kensington駅
Tel: 020 7942 2000 
水~日 10:00-17:45 
入場無料 特別展は有料 
www.vam.ac.uk

William Morris Society & Museum

William Morris Society & Museum

ウィリアム・モリスが1876年から死ぬまで暮らしたロンドンの邸宅の一部を利用した、ウィリアム・モリス協会によるミュージアム。モリスがケルムスコット・プレスに使用した印刷機をはじめとしたさまざまなコレクション、関連ライブラリーや展示スペースもある。

Kelmscott House(地下と離れのみ)26 Upper Mall, London W6 9TA
最寄り駅: Ravenscourt Park/Hammersmith駅
Tel: 020 8741 3735  
土 12:00-17:00 
入場無料  
https://williammorrissociety.org

Kelmscott Manor

ケルムスコット・マナーは、オックスフォード近郊コッツウォルズの村にある16世紀末~17世紀初頭に建てられたマナー・ハウスで、モリスが「地球上の天国」と呼び、1871年から別荘として使用した。ロセッティが選んだ装飾品やモリスがロンドンの自宅のためにデザインした物などが展示されている。

Kelmscott, Lechlade GL7 3HJ
Tel: 01367 252486
木~土 11:00-17:00
£12.50
www.sal.org.uk/kelmscott-manor

 

 

故エリザベス女王の生涯を振り返る

故エリザベス女王の生涯を振り返る

2022年9月8日にエリザベス女王は96歳の生涯を閉じた。1952年に父親ジョージ6世の急逝により25歳で即位し、「生涯を奉仕に捧げる」と決意を表明してから70年。この6月にはプラチナ・ジュビリーを祝ったばかりだった。ここでは、数しれない悲喜こもごもの出来事を体験してきたエリザベス女王の一生を、英国の現代史とともに振り返ってみよう。

エリザベス女王

エリザベス女王の半生

1921年  北アイルランド誕生
1926年(0歳) 4月21日、ヨーク公夫妻の長女としてロンドンに誕生
1930年(4歳) 妹マーガレットが誕生
1931年  ウェストミンスター憲章による英連邦(コモンウェルス)発足
1936年(10歳) 祖父にあたる国王ジョージ5世が死去。伯父がエドワード8世として即位するも、後に退位したため、代わってエリザベスの父である国王ジョージ6世が即位
1937年ごろの国王ジョージ6世一家。エリザベスは父親の肩に手を掛けている1937年ごろの国王ジョージ6世一家。エリザベスは父親の肩に手を掛けている
1939年(13歳) 後に夫となるフィリップと知り合う
 第二次世界大戦勃発
1940年(14歳) 一家は戦禍を逃れるためにウィンザー城に疎開
1942年(16歳) 近衛歩兵第一連隊の名誉連隊長に
1945年(19歳) 女子国防軍に入隊
 第二次世界大戦終結
1947年(21歳) 初めての外遊で南アフリカを訪問。フィリップと結婚
1948年(22歳) 長男チャールズを出産
1949年  北大西洋条約機構(NATO)に加盟
1950年(24歳) 長女アンを出産
1952年(26歳) 父である国王ジョージ6世の病死後、25歳でエリザベス2世として即位
1953年(27歳) 6月2日、ウェストミンスター寺院で戴冠式を執行。夫とともに半年間の世界ツアーに出発
ウェストミンスター寺院での戴冠式のようすウェストミンスター寺院での戴冠式のようす
1955年  ウィンストン・チャーチル首相が退陣
1956年  スエズ戦争
1960年(34歳) 33歳で次男アンドリューを出産
1963年  ビートルズがデビュー・アルバムを発表
1964年(38歳) 37歳で三男エドワードを出産
1965年(39歳) 英元首として52年ぶりにドイツを訪問
1969年(43歳) チャールズ皇太子に国王の長男の証であるプリンス・オブ・ウェールズの称号が与えられる
1970年  北海油田を発見
1973年  EUの前身である欧州共同体(EC)に加盟
1977年(51歳) Silver Jubilee(即位25周年)
1978年(52歳) マーガレット王女がスノードン伯爵と離婚
1981年(55歳) チャールズ皇太子とダイアナ・スペンサーが結婚
1982年(56歳) 6月21日、未来の君主であるウィリアム王子が誕生
 フォークランド紛争
1985年 1985年の公式誕生日、バッキンガム宮殿上空をレッド・アローズが飛行するフライパストを見守る王室一家1985年の公式誕生日、バッキンガム宮殿上空をレッド・アローズが飛行するフライパストを見守る王室一家
1986年  狂牛病が発生
1992年(66歳) アン王女が離婚。女王の離宮であるウィンザー城で火事が発生。即位40周年
1996年(70歳) チャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚が発表
1997年(71歳) ダイアナ元妃が交通事故死。英王室のウェブサイトがオープン。 フィリップ殿下との結婚50周年
 スコットランド、ウェールズの地方議会設置が決定
2002年(76歳) Golden Jubilee(即位50周年)
妹マーガレットと母エリザベスが死去
2005年(79歳) チャールズ皇太子がカミラ・パーカー・ボウルズと再婚
2006年(80歳) 80歳の誕生日と結婚60周年を迎える
英南部のロムジーのブロードランズを歩くエリザベス女王とフィリップ殿下英南部のロムジーのブロードランズを歩くエリザベス女王とフィリップ殿下
2011年(85歳) 孫に当たるウィリアム王子がケイト・ミドルトンと結婚。英国の君主として初めてアイルランド共和国を訪問
2012年(86歳) Diamond Jubilee(即位60周年)
2012年のダイヤモンド・ジュビリーで英国各地を訪問したエリザベス女王。スコットランドのグラスゴーにて2012年のダイヤモンド・ジュビリーで英国各地を訪問したエリザベス女王。スコットランドのグラスゴーにて
 ロンドン五輪開催
2013年(87歳) ひ孫のジョージ王子が誕生
2014年(88歳) アンドリュー王子に児童買春スキャンダル
 スコットランド独立住民投票が実施。反対が54%で独立否決
2015年(89歳) ヴィクトリア女王を抜き、英国君主の在位最長記録を更新。ひ孫のシャーロット王女が誕生
2016年(90歳) 90歳の誕生日と結婚70周年を迎える
 欧州連合離脱是非を問う国民投票が開催、離脱支持が51.89%獲得し可決
2017年 Sapphire Jubilee(即位65周年)
 ロンドン橋、マンチェスター・アリーナでテロ事件発生
2018年(92歳) ハリー王子がメーガン・マークルと結婚。ひ孫のルイ王子が誕生
2019年  ボリス・ジョンソンが首相に就任
2020年  英国が欧州連合を離脱。新型コロナウイルスの世界的大流行
2021年(95歳) 夫のフィリップ殿下が99歳で死去
 北アイルランド誕生100年
2022年(96歳) Platinum Jubilee(在位70周年)
関連記事:エリザベス女王在位70周年を祝う
2022年のプラチナ・ジュビリーに、バッキンガム宮殿のバルコニーに現れたエリザベス女王2022年のプラチナ・ジュビリーに、バッキンガム宮殿のバルコニーに現れたエリザベス女王
 リズ・トラスが首相に就任
エリザベス女王、9月8日に死去
2022年9月9日、ロンドンの中心部トッテナム・コート・ロード駅の外側に掲げられた、エリザベス女王を追悼するサイネージ2022年9月9日、ロンドンの中心部トッテナム・コート・ロード駅の外側に掲げられた、エリザベス女王を追悼するサイネージ

エリザベス女王の死
訃報直後の新聞や街の様子

9月8日に亡くなったエリザベス女王を偲び、9〜11日の新聞は女王への感謝から新国王の即位宣誓までを取り上げ、ロンドンの街中では思い思いの形で哀悼の意を示す市民の姿が見られた。また、中心地ではトリビュート・サインも各地に出現した。

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葬儀当日の様子や新聞でどのように取り上げられているかをまとめています。

 

新聞の様子

「デーリー・テレグラフ」紙(2022年9月9日)

「デーリー・テレグラフ」紙(2022年9月9日)

Grief is the price we pay for love - HM QUEEN ELIZABETH II
「悲しみは愛に支払う代償」 - HM エリザベス2世

「ガーディアン」紙

「ガーディアン」紙

「ミラー」紙

「ミラー」紙

「メトロ」紙(2022年9月9日)

「メトロ」紙(2022年9月9日)

「タイムズ」紙(2022年9月10日)

「タイムズ」紙(2022年9月10日)

GOD SAVE the KING
神よ国王を守り給え

「フィナンシャル・タイムズ」紙 ウィークエンド版(2022年9月10日)

「フィナンシャル・タイムズ」紙 ウィークエンド版(2022年9月10日)

‘I shall endeavour to serve with loyalty, respect and love’
「私は忠誠心、敬意、そして愛をもって奉仕するよう努めます」

「デーリー・テレグラフ」紙(2022年9月10日)

「デーリー・テレグラフ」紙(2022年9月9日)

‘To my Darling Mama, thank you’
「親愛なるママ、ありがとう」

「サンデー・ミラー」紙(2022年9月11日)

「サンデー・ミラー」紙(2022年9月11日)

REUNITED FOR GRANNY
おばあちゃんのために兄弟が再会

「オブザーバー」紙(2022年9月11日)

「オブザーバー」紙(2022年9月11日)

Charles III assumes ‘the heavy duties of sovereignty’
チャールズ3世は「主権の重い義務」を引き受ける

街中の様子

街の至るところに出された女王逝去のサイネージ街の至るところに出された女王逝去のサイネージ

ピカデリーの書店ハッチャーズに置かれた女王への追悼の言葉ピカデリーの書店ハッチャーズに置かれた女王への追悼の言葉

ピカデリー・サーカス駅前の電子広告に映し出された女王の姿ピカデリー・サーカス駅前の電子広告に映し出された女王の姿

いつも華やかなディスプレイのフォートナム&メイソンが、女王の写真を使いシンプルで黒いディスプレイに変わったいつも華やかなディスプレイのフォートナム&メイソンが、女王の写真を使いシンプルで黒いディスプレイに変わった

バッキンガム宮殿の外に手向けられた市民からの花束バッキンガム宮殿の外に手向けられた市民からの花束

 
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