北アイルランドの「誕生」から100年
今も続くアイルランドの複雑な問題
今年は英国とアイルランド(愛)の間で英愛条約が締結されちょうど100年。1921年に南部26州は英国王を元首とするアイルランド自由国として分離し、北部6州は英国の統治下にとどまり現在でいう北アイルランドになることが決まった。英国で今も続く北アイルランドの帰属問題は、ここから始まっている。この特集では過去から現在までに起きたいくつかの歴史的事件をピックアップしつつ、日本人には分かりづらいアイルランドと英国の複雑な関係、アイルランドと北アイルランドの関係を改めて見ていく。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)
参考:「アイルランド独立紛争史 シン・フェイン、IRA、農地紛争」森ありさ著 論創社、「北アイルランド紛争の歴史」堀越智著 論創社、The Irish History.com、BBC、世界史の窓、JIIAほか
目次

英国にもある分離壁
今では北アイルランドの観光名所に
ベルリンの壁やヨルダンの壁が良く知られているが、北アイルランドにも分離壁は存在する。平和の壁(Peace lines、Peace walls)という皮肉な名前で呼ばれており、互いの暴力衝突を避ける目的で、カトリックとプロテスタントのコミュニティーの間に建設された。最初の壁は1969年の暴動直後にベルファストに造られた。当初は一時的なものと考えられていたが次第に数を増やし、現在北アイルランドにはベルファストを中心に60近い平和の壁がある。長さは数百メートルから長いものでは5キロにもおよび、総延長にすると34キロともいわれる。平和の壁の側面はさまざまな絵画やスローガンで埋め尽くされており、近年では平和の壁巡りをする観光ツアーも行われているようだ。2023年までに解体される計画もあるが、暮らしの安全のためにまだ必要だと考える市民も多い。
アイルランドが現在に至るまで
| 1541年 | ヘンリー8世がアイルランド国王に |
|---|---|
| 1649年 | オリヴァー・クロムウェルがアイルランドを攻略 |
| 1690年 | ボイン川の戦い |
| 1845年(〜49年) | 大飢饉 |
| 1916年 | イースター蜂起 |
| 1919年 | アイルランド独立戦争 |
| 1920年 | アイルランド統治法の成立。アイルランドは南北に分割 |
| 1921年 | 英愛条約が締結 |
| 1922年 | アイルランド内戦 |
| 1938年 | 英連邦内の共和国として、英国がアイルランド自由国の独立を承認 |
| 1949年 | アイルランド自由国が英連邦を離脱。アイルランド共和国に移行 |
| 1966年 | アルスター義勇軍(UVF)がカトリック住民に対しテロ行為を実行 |
| 1972年 | 1月に英陸軍によるデモ隊銃撃事件「血の日曜日事件」、7月にIRAによる爆弾事件「血の金曜日事件」が発生。北アイルランド地方議会および行政府が廃止、英政府の直接統治下に置かれる |
| 1985年 | 英愛両政府が英国・アイルランド協定に調印 |
| 1993年 | 英愛両政府が政治的な和解を目標とした「ダウニング街共同宣言」を発表 |
| 1994年 | IRAが無期限停戦宣言 |
| 1998年 | ベルファスト合意(Good Friday Agreement)が成立。アイルランド共和国は、国民投票により北アイルランド6州の領有権を放棄 |
| 2005年 | IRAが武力闘争の終結を発表 |
| 2006年 | 連立政権の権限配分、司法、治安維持に関する問題の進展に向けた「セント・アンドルーズ協定」が成立 |
| 2010年 | 武装組織UDAが武装解除 |
| 2011年 | エリザベス女王がアイルランド共和国を公式訪問 |
| 2020年 | EU離脱協定に北アイルランド議定書が盛り込まれる。 英国がEU離脱する一方で、EU加盟国であるアイルランドと地続きの北アイルランドはEUの関税同盟と単一市場に部分的に残留 |
| 2021年 | 3~4月 北アイルランド各地で暴動 |
北アイルランドにプロテスタントが多いのはヘンリー8世の政策
アイルランド島はケルト系文化を持ちカトリックを信仰するなど、東隣りにある大ブリテン島とは異なる歴史を持つ。英国(イングランド)がアイルランドへの介入を積極的に始めたのは12世紀後半からだが、百年戦争やバラ戦争など、その時々のイングランド国内の事情により完全な支配には至らず、アイルランドに移り住んだアングロ=サクソン系やノルマン系の貴族が、同地に元から住むケルト系ゲール人の貴族と共存しそれぞれ発展。イングランドの国王は英国の首長としてローマ教皇からアイルランドの宗教管理をまかされているという形式的建前があったものの、アイルランドは独立国家として存在していた。
ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚は、その後のアイルランドの運命も変えた
ところが、宗教改革でローマ教皇と断絶したヘンリー8世は、1541年に自らがアイルランド国王となることをアイルランド議会で承認させた。そのため、アイルランドは形の上では独立した国のまま、イングランド王の支配を受けることになった。ヘンリー8世はダブリンに行政府を置き、イングランドから多くのプロテスタントを移住させた。続くエリザベス1世もヘンリー8世の政策を受け継ぎ、アイルランド北東部(アルスター地方)のデリーにロンドンの富裕な商人を多く入植させた。このような強引な移住政策は、後に大きな火種を残すことになる。こうして、アイルランド全体ではカトリックが主流だが、アイルランド北東部ではプロテスタントが多数派になり、同地のカトリック教徒は少数派として迫害されるようになっていった。
クロムウェルはアイルランドから今でも恨まれている
ピューリタン革命の指導者で共和主義者のオリヴァー・クロムウェルは、アイルランドが王党派やカトリックの拠点になっていることを口実に1万7000人余りを派兵し、1649年にアイルランドを侵略。さらに、アイルランドのカトリック教徒と結束して再起を図ったジェームズ2世が1690年にボイン川の戦いでウィリアム3世の率いるプロテスタント軍に敗れたことで、アイルランドの植民地化が決定的になった。英国はアイルランド住民の反乱を抑えるために直接統治に乗り出し、カトリック教徒を徹底的に弾圧。アイルランド・ゲール語は使用できず、文化や伝統も否定された。また、カトリック教徒は土地を所有できないうえ、大学に行けず、医者、弁護士、政治家などにもなれなかった。差別されたカトリック教徒たちは、米国の独立やフランス革命の影響を受けて、英国からの独立を求める運動を起こし始めた。
オリヴァー・クロムウェル
18世紀後半に立ち上がった「統一アイルランド人協会」は武器を取るも、英軍に鎮圧され3万人の死者を出した。英政府は、独立運動を抑えるため1801年にアイルランドを完全に併合。それにより「大ブリテン及びアイルランド連合王国」が成立し、アイルランドは英国の一部になった。併合は120年以上続くが、その間にアイルランドに大飢饉(1845~49年)が起こり、住民の死亡や移住でアイルランドの総人口は最盛期の半数にまで減少したといわれる。
「ジャガイモ飢饉」と呼ばれた大飢饉(1845~49年)は英政府の政策が原因で長引き、人々は4年にわたり飢餓に苦しんだ
北アイルランドは妥協案から生まれた

1916年にアイルランド独立運動の急進派が対英の武装蜂起をする。イースター蜂起と呼ばれるこの反乱は、首謀者の多くが処刑されたことで多くのアイルランド人の反英感情を増大させた。その後の総選挙で、蜂起に加わった者を含んだ民族主義政党シン・フェイン党が躍進。当選議員は、ウェストミンスターでの英議会に出席せず、ダブリンに独自のアイルランド議会を樹立した。さらに1919年1月、独自に国民議会を開催し、アイルランド共和国の独立を宣言する。これに対し英政府は軍隊を派遣。アイルランド側も義勇軍を組織し、アイルランド独立戦争となった。義勇軍は後にアイルランド共和国軍(IRA)と呼ばれることになる。戦いが長期化するなか、アイルランド北部を分離して英国領に残し、それ以外の南部は王国内の自治領としての独立を認めるという英国から打開案が示される。これは、プロテスタントの多いアイルランド北部をアイルランドから分断するという過激なものでもあったので、この妥協案に対してそれを認めざるを得ないとする多数派と、あくまでアイルランド全島の完全独立を求める少数派に分裂した。受け入れをめぐって内戦が起こったが、この妥協案は支持され、1920年にアイルランド統治法が成立。翌21年に英愛条約が締結され、アイルランド南部はアイルランド自由国となった。
| カトリック系 | 宗派 | プロテスタント系 |
|---|---|---|
| ナショナリスト / リパブリカン | 思想 | ユニオニスト / ロイヤリスト |
| 英国からの分離独立、共和主義を掲げる | 特徴 | 英国との連合、英国人としてのアイデンティティーを重視 |
| シン・フェイン党 | 政党 | 民主統一党(DUP) |
| 社会民主労働党(SDLP) | アルスター統一党(UUP) | |
| アイルランド共和軍暫定派 (IRA) | 民兵組織 | アルスター防衛協会(UDA) |
*北アイルランドには北アイルランド同盟党(APNI)など、ユニオニスト、ナショナリストの双方を支持しない層から一定の支持を受けている政党もある。APNIは現在、北アイルランド議会では90議席中7議席を保有している
イースター蜂起で建物が崩壊したダブリンのサックヴィル・ストリート
1916年に独立運動の急進派が出したアイルランド共和国宣言
血で血を洗う闘争へ
英愛条約は北アイルランドには平和をもたらさず、特にカトリック系住民の長年抱えていた不満が増大した。いくら多くのプロテスタントが入植していたとしても、北アイルランド人口のおよそ40パーセントはカトリックである。統治側のプロテスタントは武装警察に加え、独立戦争中に編成された特別警察を使い強硬な治安体制を敷くほか、比例代表制を廃止するなどして各地方議会をプロテスタントで独占。そうしたことからカトリックの失業率は常にプロテスタントの2倍以上と、カトリック差別の社会がよりいっそう進んでしまったのだ。その結果として、カトリックのなかからは、英国の支配を終わらせアイルランドの独立を打ち立てようとする組織(リパブリカン)、アイルランド共和軍暫定派(IRA)が生まれた。また、プロテスタントのなかにも、英国とのつながりを守るために銃を持つ組織(ロイヤリスト)アルスター防衛協会(UDA)が現れた。
北アイルランドの大多数の人々は暴力による解決を望まない。しかし、リパブリカンとロイヤリスト双方によるゲリラ活動と、それを鎮圧しようとする英国の国家治安部隊の活動によって、20世紀の北アイルランドは市民を巻き込んで大きく揺れた。特に1970年代には暴力が激化し、「北アイルランド紛争=暴力」と定義されるようになっていったのだ。北アイルランド問題は今も、「ザ・トラブルズ」(あのやっかいごと)と呼ばれている。
1976年8月、ベルファストで起きた市街戦。英国兵士の持つ銃の先が見える
4回あった血の日曜日事件
1972年、北アイルランドのロンドンデリー(デリー)でデモ行進中だった非武装の市民が英陸軍に銃撃され、27人が死亡した「血の日曜日事件」(Bloody Sunday)は、アイルランド史のなかでも特筆すべき事件として広く知られる。だがアイルランドには同名の事件がほかに3件ある。①1913年にダブリンで起きた労働争議、②1920年に独立戦争の際に市民を巻き込み31人の死者を出したダブリンの銃撃戦、③1921年にベルファストでリパブリカン、ロイヤリスト、英国軍が関与した戦闘。17人が死亡し100人余りが怪我を負い、200軒近くの家屋が損傷した。
1970年代のロンドンデリー(デリー)で、建物の屋上から火炎瓶を投げようとしている男性
ブレグジットでも悩みの種に
1998年に北アイルランド紛争に関する和平合意、ベルファスト合意が成立。北アイルランドとアイルランドの間に置かれていた検問所が撤廃された。つまり、英・愛・北アイルランド間の自由な往来が可能になったわけだが、これは英国とアイルランドが共にEUに加盟していたからできたことだった。関税同盟と単一市場のおかげで、北アイルランドとアイルランド間の人、物資、資本、サービスの自由な移動が可能になったのだ。しかし、英国がEUから離脱すると、英国側の北アイルランドとEU側のアイルランドの間で再び通関手続きが生じてしまう。そうした国境の復活は、やっと落ち着いた北アイルランドの和平を経済的にも政治的にも再び危険にさらすことを意味する。
どうすれば英国は国境管理を復活させずにEUを離脱できるのかが英政府の悩みどころとなった。EUは北アイルランドをEUの関税同盟内に残留させることを提案したが、当時の首相テリーザ・メイはこれを拒否。このとき保守党は少数政権で、ユニオニストの民主統一党(DUP)から閣外協力を必要としていたこともあり、北アイルランドを切り捨てるような案を受け入れることはできなかった。メイ首相は代わりにバックストップ案を提案。これは、離脱移行期限である2020年12月までに英国とEUとの間に協定が締結されない場合、英国全体がEUとの関税同盟にとどまり、北アイルランドは単一市場の法則に従うというものだった。だがこの案は党内で理解を得られず、首相退陣、内閣改造のきっかけとなった。
ベルファスト合意のパンフレットを手にしたシン・フェイン党の元党首ジェリー・アダムズ氏(写真右)
北アイルランドとアイルランドの国境に立つ交通標識
まだまだ終わらないザ・トラブルズ
2019年7月にメイ首相の後任に就いたボリス・ジョンソン首相は、英国はEUの関税同盟からも単一市場からも離脱するが、北アイルランドだけはこれらに部分的にとどまるという案を打ち立て、EUと離脱に合意した。これが離脱協定と共に結ばれた北アイルランド議定書だが、これはEU加盟国のアイルランドと英国側の北アイルランド間の自由な物流を認める一方で、北アイルランドと英国間の物資の移動に通関手続きが導入されるというものだった。当然ながら、ユニオニストはこの取り決めを快く思わなかった。英国のほかの地域と北アイルランドの間に差異ができ、英国における北アイルランドの地位を脅かすものだと反発。今年3月には、ユニオニストの軍事組織の代表を含むグループが、ベルファスト合意の順守をやめるとジョンソン首相に書面を送っている。21年3月末から4月にかけて北アイルランド各地では連日ユニオニストとナショナリストの間で暴動が続き、10日間で警官70人以上が負傷する事件が起きた。大方の人々が心配したように、ブレグジットは鎮火しつつあった問題に再び火を点けた格好となっている。
北アイルランド議定書に対する反対デモ
「アイリッシュ海に境界線を作るな」、と書かれたベルファストのグラフィティ



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モリスの最も初期の壁紙デザイン「トレリス」1862年
ウィリアム・モリス William Morris
モリスの邸宅レッド・ハウス内部
1874年のモリス(写真右)とバーン=ジョーンズ(同左)
モリスとバーン=ジョーンズによるアーサー王とランスロットのステンドグラス
モリスがデザインしたテキスタイル「コンプトン」シリーズ
ロセッティがモリス商会のためにデザインした椅子
1879年に撮影されたロンドン中心 オックスフォード・ストリートの店






















街の至るところに出された女王逝去のサイネージ
ピカデリーの書店ハッチャーズに置かれた女王への追悼の言葉
ピカデリー・サーカス駅前の電子広告に映し出された女王の姿
いつも華やかなディスプレイのフォートナム&メイソンが、女王の写真を使いシンプルで黒いディスプレイに変わった
バッキンガム宮殿の外に手向けられた市民からの花束

かつてベケットの遺骨や血に染まった衣服が入っていたエナメル製の聖骨箱
カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)に設置されていたとされるネロのブロンズ製の頭部。1907年に英南東部サフォークのアルド川で発見されたが、長い間第4代皇帝クラウディウスだと間違われていたそう
2014年にコルチェスターにあるショップの地下から発掘されたローマ帝国のコインや装飾具
ナイキのモナークとロンドン拠点のファッション・ブランド、マーティン・ローズ(Martine Rose)のコラボ・スニーカー。それぞれのブランドの強みや個性を最大限に生かし、実験的なスニーカー作りに取り組んだ
リミテッド・アイテムなど貴重なスニーカーも多数展示される
金属という画期的な新素材を用いて、ル・コルビュジェとともに製作したシェーズ・ロング(長椅子)のバスキュランテB306に横たわるペリアン。本展では同モデルの復刻版が展示され、実際に座ることができる
フランスのスキー・リゾート、レ・ザルク内にあるレジデンス、Arc 1600
描く動機の一つに「自分の弱さを認めつつも、誰かに認められたい」と挙げているパッカー。大胆な色使いに隠されたメッセージは、鑑賞者の琴線に触れる何かがあるはずだ
後期の水彩画「ナポリ」(1851年)は、長らく別のイタリアの街「ジェノヴァ」と題されていたが、最近の研究で場所が異なっていたことが分かり改称された。改称後初のお披露目となる
ロダンが考えた手法「アバティス」(abattis)は、手のひらなど個々のパーツを別々の彫刻から集め、再利用する手法のこと。前例のない型破りなやり方で独自の世界観を築いていった
旧1000円札の夏目漱石を撮影し、写真文化の発展に貢献した小川一真(1860~1929年)による作品。同氏による菊の写真も展示される。120年以上前に撮影されたとは思えない美しさは必見
透明で強固な熱硬化性アクリル樹脂、ルーサイトを使ったイブニング・バッグや16~17世紀に使われたブルザ(エリザベス1世の印章を守るために使われた袋)など、マニアックなアイテムがそろう
バーニーにとって初の屋外展示作となったインスタレーション「Sawtooth Battery」(2019年)が公開。高さ約10メートルのすらりと伸びた作品で、ギャラリーのテラスに設置されている
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春の訪れからその終わりまでが豊かな色彩で描かれており、心満たされる作品がずらり。ホックニーが最新テクノロジーで描くのは2007年のiPhoneからで、デジタル機器には相当強いようだ
天文学者の生誕400周年を記念して、1873年に描いた縦2.26メートル 、横3.15メートルの巨大な絵画「天文学者コペルニクス」。ポーランド本国で愛されている作品を見られる貴重な機会だ














ラジオ放送を成功させたレジナルド・フェッセンデン
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フラット・ホルム島でマルコーニの助手が無線機器を検査する様子
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ベテランDJのジョン・ピール(2004年に逝去)
サフォークのイプスウィッチ発「イプスウィッチ・コミュニティー・ラジオ」の収録の様子。メイン・ストリームで拾われないネタを中心に発信している
調査により、ロックダウン中にラジオで孤独を癒やしたリスナーは多かったことが分かった
イングラムが日本に里帰りさせた「太白」の原木。 ザ・グレンジで阿部菜穂子氏撮影
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晩年のイングラム氏(イングラム家提供)

阿部菜穂子氏 略歴 ジャーナリスト、ノンフィクション作家。毎日新聞記者を経て、2001年から英国在住。「チェリー・イングラム日本の桜を救ったイギリス人」(2016年、岩波書店)で第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。同書は著者が全面的に英語で書き直し「‘Cherry’ Ingram The Englishman Who Saved Japanʼs Blossoms」として2019年にペンギン社から出版。英語版はBBC Radio 4 のBook of the Week として朗読されたほか、英米の主要各紙誌で高い評価を得、複数のメディアで最優秀書籍に選ばれた。その後ドイツ語、イタリア語、オランダ語、中国語など8カ国語に翻訳・出版された。
現在造園中のロンドン・ブロッサム・ガーデンのイメージ
仲睦まじかったヴィクトリア女王(写真左)とアルバート公(同右)
1871年3月29日のグランド・オープンの模様を描いた銅版画
鉄筋ドームは当時の英国エンジニアリング技術の結晶
現在でも上空からユニークな形状が識別できる
迫力満点のパイプ・オルガンは、ホールの「顔」的な存在
1933年6月17日、ホールで講演するアインシュタイン博士(写真左)
「ロイヤル場所」の開始に先立ち、清めの儀式が行われた
小錦(写真手前左)をはじめとした力士集団が勢ぞろい







「グラス・マイクロバイオロジー」の一環で、パンデミックと戦う科学的、医学的な努力に敬意を示し、制作されたガラス彫刻作品「COVID-19」
CADデータを用い、3Dでプリントする
この強震波形データを元に作品が作られた(出典不明)
ジェラム氏の最新作「オックスフォード−アストラゼネカ・ワクチン」。直径34センチメートルで、実際のナノ粒子の100万倍サイズに当たる






