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Tue, 16 December 2025

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カウンシル・フラットの光と影 - 英国公営住宅の建築事情

英国公営住宅の建築事情 カウンシル・フラットの光と影

ロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワーロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワー

1960〜80年代に建てられたブルータリズム建築を筆頭に、公営住宅の多くがその建物の無骨さや古さから新たな注目を集めている。かつて低所得者向けの安っぽい住居と思われていた公営住宅は、今やレトロでおしゃれな存在と一部の人々から認識されている。一方で、建物の老朽化や地域の再開発によって公営住宅が壊されていき、昔からの住人たちがジェントリフィケーションの波を受け行き場を失いつつあるという問題もある。ここでは、公営住宅の移り変わりを、歴史的・文化的な面から紹介する。

文:英国ニュースダイジェスト編集部
参考: Municipal Dreams: The Rise and Fall of Council Housing by John Boughton、英国の公営住宅の歴史と政策に関する調査研究報告書 by一般財団法人 住宅改良開発公社ほか

カウンシル・フラットとは

カウンシル・フラットは、英国の地方自治体によって建てられた低所得者向け公営住宅で、カウンシル・ハウス、カウンシル・エステートなどとも呼ばれる。割安な家賃で、低所得者のほか、失業者、シングル・マザー、生活保護対象者などが優先的に入居できる仕組みだ。一戸建てから高層のタワー・ブロックまで、時代や地域によりさまざまな種類があり、その多くは1919年の住宅法改正後から1980年代にかけて建設された。以来カウンシル・フラットの建設は大幅に減少しているといわれている。

もともとカウンシル・フラットは、1875年の公衆衛生法で定められた地方都市のスラム解体政策の一部であり、当初の目的は労働者階級の暮らしを向上させ、同時にスラムをなくすことで近隣の土地の価値を上げることだった。その後、第二次世界大戦による住居の破壊、急激なインフレーション、兵士の復員による新婚世帯の増加などが原因で、深刻な住宅不足が起きる。これを受けた政府は1946年、住宅法を制定し公営住宅の建設を積極的に推進。1951年までに英国全土で約90万戸のカウンシル・フラットが建設された。やがて1960年代に入ると、再び都市部のスラム解体政策に重点が置かれるほか、核家族化に伴う若年層・高齢者用住宅の建設も開始。住居の大量供給のためカウンシル・フラットの高層化も進んだ。こうして、1953年時点の公営住宅におけるタワー・ブロックの割合は2割以下だったのに対し、1961年から1966年にかけては約4割と、大幅に増加した。

Right to Buyの功罪

マーガレット・サッチャー首相率いる保守党政権が1980年の住宅法によって導入したのが、Right to Buyという制度。公営住宅の住人が、現在居住する物件を市価より安い値段(約33~50%)で購入できる権利を与えるもので、この制度によって英国の持ち家率は飛躍的に上昇した。この制度は現在も改定されながら続いている。ちなみに家の購入を申し込むための条件は、該当の公営住宅を3年以上借りていること。家の値段は賃借年数、物件がある地域、物件の種類などによって異なる。同制度を利用して購入した物件を転売する場合は、購入してから転売するまでの年数により異なるが、まず自治体、または非営利の住宅供給組織である住宅協会(Housing Association)などに、買い戻しの意思があるか確認。自治体もしくは住宅協会が買い戻しを望む場合、住民はそれに応じる義務がある。

さて、政府が公営住宅の貸借人にこうした権利を与えたことから、公営住宅が次々と私有化・民営化され、順番待ちをする入居希望者は、膨大な数にのぼった。ロンドンなどの都市部では、1980年代に買い取られ民営化された元公営住宅が、立地の良さや建築デザインの面白さから高額で売りに出されたり、月数千ポンドで貸し出されたりという事態になり、高額所得者と生活保護受給者が隣同士で暮らすことも珍しくない。戦後、労働者階級のために建てられた公営住宅は、現在大きな過渡期を迎えているといってよいだろう。

新しい波がやってきた?

Right to Buyの仕組みは自治体に大きなひずみをもたらした。新たな公営住宅建設には政府からの資金援助が望めず、借入金にも厳しい制限があることから、自治体は従来とは異なる方法で公営住宅建設の費用を捻出する必要があった。そこで、地方自治体は所管の住宅建設会社を設立。民間の土地開発業者のように、個人向け住宅を建設・販売し、その収入を公営住宅建設費に充てるというスタイルを編み出した。その一例が、ロンドン東部のショーディッチ・パーク近くに立つ2棟の豪華マンションだ。全198戸の最上階には、デービッド・チッパーフィールド卿が設計した195万ポンド(約2億7000万円)のペントハウスが鎮座する。地元のハックニー・カウンシルが開発し、収益は隣地の公営住宅再建に充てられるのだという。

このような動きはロンドンだけに限らない。すでに英国の地方自治体の3分の1以上が独自の住宅建設会社を設立した。1980年の住宅法によって力を奪われていた地方自治体は、ほぼ40年ぶりに、再び自分たちで公営住宅を建設し始めたところだ。ロンドン北東部のバーキング・アンド・ダゲナムでは15 年以内に4万2500戸、同南部クロイドンは3年以内に1000戸、英中部シェフィールドでは15年以内に2300戸を建設するという。

また、これから建てられる公営住宅は、戦後すぐ、粗末な建材で作られたものとは異なり、人にも環境にも優しいパッシブ・ハウス(省エネ・ハウス)であったり、遊び心にあふれたデザインだったりと、これまでの公営住宅のイメージを覆すものになりそうだ。

英国文化とカウンシル・フラット

年配者が、労働者階級の住民をつなぐコミュニティーとして当時を懐かしむ一方、カウンシル・フラットを「古くておしゃれな建築」として捉える若者たちもいる。貧しい家庭に生まれ育ったロンドン東部や南部のミュージシャンは公営住宅の出身であることが多く、そのファッションやアートのセンスが浸透したこ とも、カウンシル・フラットが注目を集めるきっかけとなった。

今年も、ロンドンでは800以上の建築物を無料で公開するイベント「オープン・ハウス」が開催される。イベントは、1992年、一般の人々が建築に対する関心や理解を深め、自分たちの暮らす環境への意識や知識を向上させることを願う、非営利団体及び多くのボランティアによって始められた。現在では、個々の建築物には留まらず、デザイン、エンジニアリング、環境問題といった、さまざまな面における地域ぐるみのプロジェクトを紹介、推進していく役割も担っている。

このイベントには、ロンドンを代表する特徴的なデザインのカウンシル・フラットも参加しているので、これを機にのぞいてみてはいかがだろうか。新型コロナウイルスの影響下にある今年は、例年通りの一般公開のほか、自転車ツアーやオンライン・プログラムも用意されている。

Open House logoOpen House London

9月19日(土)~27日(日)
openhouselondon.open-city.org.uk

建築から見るカウンシル・フラット

ここでは、アーツ&クラフトからブルータリズムまで、さまざまなスタイルを持つロンドンのカウンシル・フラット8軒をご紹介しよう。

1世界一古いカウンシル・フラット
BOUNDARY ESTATE
バウンダリー・エステート

BOUNDARY ESTATEかつての悪名高いスラムが落ち着いたエリアに

ロンドン東部ショーディッチ・ハイ・ストリートとベスナル・グリーン・ロードの間にある公営住宅。緑の美しい円形公園アーノルド・サーカスの周りに配置された、ヴィクトリア朝の赤レンガ造りの建物で、1890年、悪名高いスラム、オールド・ニコルの跡地に建設された。当時盛んだったアーツ&クラフト運動の影響を受けており、ロンドンで最初の、そしておそらく世界で最初のカウンシル・フラットといわれている。

Calvert Avenue, London E2
Shoreditch High Street駅
https://bit.ly/2RcZQq6

2灰色の美、タワー・ブロック
BALFRON TOWER
バルフロン・タワー

BALFRON TOWERインパクト大の無機質なフォルム

1960年半ば、ハンガリー出身の建築家エルノ・ゴールドフィンガーによってデザインされた、26階建てのタワー・ブロック。余計な装飾を排した打放しのコンクリートと直線が強調されたブルータリズム建築は、伝統的な建築物が多く残る当時のロンドンにあって、いかに挑戦的なデザインだったか想像できる。同じくゴールドフィンガーがロンドン西部に建築したトレリック・タワーも、同様の構造を持つ。

St. Leonards Road, London E14
All Saints DLR/ Langdon Park DLR駅
https://balfrontower.co.uk

3ブルータリズム低層住宅の見本
ALEXANDRA ROAD ESTATE
アレクサンドラ・ロード・エステート

ALEXANDRA ROAD ESTATEまるで一つの町のような迫力の520戸

第二次世界大戦後の英国で活躍し、集合住宅のパイオニアと呼ばれる米国人建築家、ニーヴ・ブラウンによる迫力満点の低層住宅。1978年に完成し、その後、重要建築物として1993年にGradeII指定を受けた。520戸の住宅のほか、学校やコミュニティー・センターを併設し、屋根部分は緑いっぱいの公園になっている。印象的な外観から多くの映画作品のロケ地ともなっており、2014年の英米合作映画「キングスマン」では、主人公エグジーの実家として登場した。

Rowley Way, London NW8
South Hampstead駅
http://alexandraandainsworth.org

4モダニズムの極致
BEVIN COURT
べヴィン・コート

BEVIN COURT鮮やかな赤は、1954年のオリジナル・カラーを2014年に復元したもの

ロシアから亡命し英国で活躍した建築家バーソルド・リュベトキンが、戦後間もなく手掛けたモダニスト建築。従来の公営住宅のイメージを打ち破るモダンなデザインでありながら、景観を壊さず周囲との調和を図るのがリュベトキン・スタイル。かつて亡命中のレーニンが滞在していたことから、敬意を表し「レーニン・コート」と名付ける計画があったものの、戦後英露の関係が悪化し、反共産主義の英外相アーネスト・べヴィンの名が冠された。

Cruikshank Street, London WC1X
Angel/King's Cross St.Pancras駅
https://bit.ly/35nodtj

5眺望を第一に作られた住まい
DAWSON'S HEIGHTS
ドーソンズ・ハイツ

DAWSON'S HEIGHTS近隣の住民からは「戦艦」と呼ばれる公営住宅

古代メソポタミアの神殿やピラミッド、または要塞に例えられることの多い1964~72年建設の公営住宅。12階建ての2棟から成り、鉄道建設時に除去された捨石の集積された小高い丘の上に建てられている。298戸のうち3分の2からは、南北両方向のパノラマ・ビューが楽しめる。ロンドン南部ランべスのリーガム・コート・ロード建築などで知られるスコットランドのデザイナー、ケイト・マッキントッシュが手掛けた。

Overhill Road, London SE22
ナショナル・レールForest Hill駅
https://bit.ly/35mSc4S

6イアン・フレミングに嫌われた建物
TRELLICK TOWER
トレリック・タワー

TRELLICK TOWERノッティング・ヒル・ゲートに近く立地もよい

ジェームズ・ボンドの生みの親として知られる作家、イアン・フレミングは、建築家エルノ・ゴールドフィンガーが1972年に建てたこのタワー・ブロックが気に入らず、ボンドの敵役をゴールドフィンガーと名付けた、という逸話がある。地上31階建て、高さ98メートルのトレリック・タワーは、共産圏の建築を思わせる無機質さと威圧感を持ち合わせ、バランスの悪い渡り廊下もインパクト大。今や近隣のランドマーク的存在で、観光客が訪れるほどだ。

Golborne Road, London W10
Westbourne Park駅
https://bit.ly/3m4fClp

7建設時はトラブル続き
BRUNSWICK CENTRE
ブランズウィック・センター

BRUNSWICK CENTRE外観はクリーム色に塗られるはずが、自治体の資金不足で図らずもブルータリズム風になったという逸話も

ロンドン中心部、ラッセル・スクエア駅前のショッピング・センターに隣接する低層住宅。大規模な集合住宅としてユーストン・ロードまで延びる予定だったが、国防省が関連施設の移動を拒んだことから土地を買収できず、こぢんまりしたものに。1972年に完成し、当初は公営ではなく一般向けテラス・ハウスとして販売されたが、入居者が集まらず公営住宅用に払い下げられた。デザインはパトリック・ホジキンソン。

Marchmont Street, London WC1N
Russell Square駅
https://brunswick.co.uk

8住人からも愛される集合住宅
DUNBOYNE ROAD ESTATE
ダンボイン・ロード・エステート

DUNBOYNE ROAD ESTATE向かい合わせの長屋のようなスタイル

アレクサンドラ・ロード・エステートの設計で知られるニーヴ・ブラウンが手掛けた、公営としては初の低層集合住宅で、1967年に完成。住宅71戸にスタジオとショップが付き、各戸には共同のガーデンを見下ろす大きなテラスがある。プライバシーと公共性のバランスが程よく、同時代の建築家が目指した高層の住宅とは真逆のデザイン性を持つと評価されており、住人からの人気も高いという。重要建築物としてGradeII指定を受けた。

Dunboyne Road, London NW3
Gospel Oak/Belsize Park駅

BRUTALISM ブルータリズム

1950年代~60年代に見られた建築様式。打放しコンクリートなどを用いた荒々しい仕上げが特徴で、直線の強調された力強いデザインが多い。英都市計画家のアリソン& ピーター・スミッソンによって名付けられた。

 

芸術作品を守り、作品を生んだ地下鉄

アンダーグラウンドならではのドラマ
芸術作品を守り、作品を生んだ地下鉄

1863年の開業以来、ロンドンの地下鉄は多くの人々を目的地に運んできた。戦時中はエア・レイド・シェルターとして活用されたが、ここで助けられたのは人間だけではなく、金銭に代え難い貴重な美術品も含まれていた。さらには地下鉄構内に避難した人々の素顔を描き、戦争のリアルを伝える記録作品の題材にもなるなど、戦時中の地下鉄におけるストーリーは数多い。ここでは、暗いアンダーグラウンドの世界で起こった、英国美術史の重要なエピソードを紹介しよう。

1946年2月、ピカデリー・サーカス駅から護衛警官によって持ち出される美術品1946年2月、ピカデリー・サーカス駅から護衛警官によって持ち出される美術品

作品が隠された場所

ロンドン地下鉄が開業して約150年が経過しているが、これまで多くの駅が開設される一方、いくつもの駅が閉鎖されてきた。利用客の減少、新駅との吸収合併など理由はさまざまだが、その中の一つがロンドン中心部のストランドにあった、オールドウィッチ駅(Aldwych Station)だ。1907年当初はピカデリー線の「ストランド」という駅名でオープンし、主に近隣のシアターを訪れる客を狙った駅だった。しかし、不幸にも開通当時から利用率は悪く、廃駅になるまで何度も閉鎖の候補駅に挙げられていた。また駅の構造にも問題があり、複数の企業がトンネルなどの建造許可を政府に別々に申請し、それらを統合して造った路線だったため、とにかく乗り入れが複雑で構内もごちゃごちゃしていたという。使いやすさを求めて構内を整理した結果、閉鎖されたプラットフォームやトンネルが生まれ、これらが後に美術作品の保管場所として活用されていく。

美術作品がズラリと格納

第一次世界大戦時は、使用されなくなったオールドウィッチ駅のプラットフォームにロンドンのナショナル・ギャラリーから300点ほどのコレクションが運ばれ、独空軍の爆撃から守られた。また、第二次世界大戦時は、アテネのパルテノン神殿から持ちさられ現在は大英博物館所蔵となっているギリシア彫刻群、エルギン・マーブルが保管された。

地下鉄のトンネルは基本的に湿度が高く、また洪水の危険性もあったことから決して美術品の保管に適した環境ではなかった。水に強い素材の作品であれば保管できるという理由により、総重量100トンを超えるエルギン・マーブルが1948年の冬まで地下で保管されていた。ちなみにエルギン・マーブルが展示されていた大英博物館のギャラリーは爆撃で大きなダメージを受けたので、移動させて正解だった。

1948年、ようやく地上へ出たエルギン・マーブル1948年、ようやく地上へ出たエルギン・マーブル

同駅以外にもロンドン中心部のピカデリー・サーカス付近のトンネルは、テート・ギャラリーやロンドン博物館の所蔵品の保管場所になっており、「アラジンの洞窟」と呼ばれた。

国のお抱えアーティストとなったヘンリー・ムーア

当時の地下鉄をテーマに作品を制作したアーティストもいる。20世紀に活躍した英国を代表するアーティストの一人、ヘンリー・ムーア(1898〜1986 年)は、今でこそ彫刻家として知られているが、戦時中は政府戦争芸術家諮問委員会(The War Artists Advisory Committee(WAAC))に選ばれた戦争画家として活躍した。

政府の目的は、ここで生まれた作品を通じて自国の対外的なイメージ操作を行い、同時に国民の士気を高めることだったが、WAACの会長で当時ナショナル・ギャラリーの館長でもあった切れ者、ケネス・クラークの目的は違った。第一次世界大戦で多くのアーティストが犠牲になった教訓に基づき、アーティストを戦争から公式な方法で遠ざけること、同時に戦時下に生まれた作品を英国の芸術作品として後世に残すことを、お堅い政府の名の下に秘密裏でやってのけたのだ。

地下鉄のダークな一面を描く

政府のお抱え画家となったムーアが頻繁に取り上げたのは、ロンドンの地下鉄だった。ムーア自身、1940年9月にロンドンの自宅を爆撃され、地下鉄に逃げ込んだ被災者であり、目立たないようにスケッチ・ブックを携えて地下に降り、黙々と市民の様子を描き続けた。同じ境遇の人々を見て、「今までの人生でこれほどまでに大勢の人が横たわっているのは見たことがない。地下鉄のトンネルすら、自分の彫刻作品の穴のように見える」と語ったという。ムーアの作品はどれも闇に沈んだような暗いトーンで描かれており、名もなき市民の鬱々とした姿を今日に伝えている。

1940年のヘンリー・ムーアの作品「Women and Children in the Tube」1940年のヘンリー・ムーアの作品「Women and Children in the Tube」

 

ロンドン市民を戦火から守った、エア・レイド・シェルター

ザ・ブリッツから80年
ロンドン市民を戦火から守った
エア・レイド・シェルター

今から80年前、第二次世界大戦時の1940年9月7日から約8カ月の間、ロンドンを中心に英国各地でドイツ空軍(Luftwaffe)による大規模な空襲、通称「ザ・ブリッツ」があった。この熾烈な空爆により多くの尊い命が失われてしまったが、一方で生き残った人々の命を救ったのは、街のいたるところに造られたエア・レイド・シェルター(防空壕)だった。 今回は、需要に合わせ変化(へんげ)していったシェルターについて触れてみたい。
文:英国ニュースダイジェスト編集部 参考: The Blitz Operations Manual by Chris McNab

1940年、エレファント&キャッスル駅の構内。多くの人がプラットフォームに直接寝転がっている1940年、エレファント&キャッスル駅の構内。多くの人がプラットフォームに直接寝転がっている

ザ・ブリッツとは

ザ・ブリッツの背景

第二次世界大戦勃発直後、英国本土での陸上戦はなく、政府と国民との意識の間に大きなズレが生じていたころ、ドイツは1939年9月のポーランド侵攻から1年と経たないうちに、フランスを含む欧州西部のほとんどの国を占領。破竹の勢いで勢力を広げ、1940年、ついに英国本土の制圧に動き出す。本土上陸を前に開始されたのが、1940年7月10日から10月31日にかけて英国の制空権をかけた空中戦、バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain)で、その最中に行われたロンドンなどへの一連の空爆が「ザ・ブリッツ」(The Blitz)だ。ドイツ語で稲妻を意味するこの作戦は、1940年9月7日の白昼に始まり、以後、夜間を中心にロンドン、バーミンガム、ブリストル、コヴェントリー、リヴァプールなどの工業都市、港を激しく攻撃。16もの主要都市とその周辺の町など、英国全土が標的となった。英国空軍は粘り強い反撃で応戦、同時に東部戦線へ意識を向ける必要に駆られたドイツ軍は、翌年41年の5月に作戦を中止して撤退、英国の勝利で幕を閉じた。

1940年9月7日、ロンドン東部のワッピングとアイル・オブ・ドッグス上空を通過し、爆撃に向かう独空軍のハインケル He 1111940年9月7日、ロンドン東部のワッピングとアイル・オブ・ドッグス上空を通過し、爆撃に向かう独空軍のハインケル He 111

被害状況

8カ月の空爆で延べ3万の爆弾が英国全土に投下され、負傷者数は約13万9000人、死者数は約4万3000人となり、約25万戸が全壊、200万戸以上が損害を被った。ロンドンは267日間のザ・ブリッツのうち71回も攻撃の標的にされ、長いときは57日間に渡って爆弾が降り注いだ。空爆が開始された9月7日、ロンドン上空には、348機の独空軍の爆撃機が確認された。空爆は翌朝6時で収束したものの、たった一夜で約430人が死亡、約1600人が負傷した惨事となった。

シティのモニュメント付近の様子。建物自体は残っているものの、ガラス窓は全て吹き飛んでしまっているシティのモニュメント付近の様子。建物自体は残っているものの、ガラス窓は全て吹き飛んでしまっている

戦争に消極的な市民たち、ガスマスクが配布されたが......

ミッキーマウスと呼ばれた2~4歳半用の子ども用ガスマスク「ミッキーマウス」と呼ばれた2~4歳半用の子ども用ガスマスク。臭くて蒸れて息苦しいものだった。見た目のおかしさから笑いを誘ったという(帝国戦争博物館所蔵)。

第一次世界大戦で空爆の威力を理解し、ロンドンの街の規模感から全てを守り切れないと判断した英政府は、社会的弱者の疎開を早い段階から積極的に進めていた。1939年9月1日の疎開者数は約150万人。児童のほか、5歳以下の幼児とその母親、妊婦、ハンディキャップのある人が含まれていた。しかしまだ空襲が始まっていなかったこともあり、市民は疎開に消極的だったという。

また、先の対戦で毒ガスが使用されたことから、ザ・ブリッツ開始の前には政府によるガスマスクの配布も行われたが、息苦しい使用感を嫌う子どもも多かった。

爆撃に耐え、生き延びた市民たち

戦時中の独特なマインドセットとエア・レイド・シェルターへの避難

さて、無慈悲な爆撃のなか、ロンドン市民はどうやって自分の心身を守ったのだろうか。さまざまな手段があったが、ここでは主な二つを取り上げてみたい。

一つは戦時中における不思議なマインドセットだ。市民の多くはもちろん爆撃そのものに対するストレスは感じたものの、同時に現実からどこか一線を引くような冷静さも保っており、なかには「(爆撃を見て)今日も荒れてるなぁ」とつぶやく者までいたという。一種の英国人気質に加え、政府にも奨励されたこのような精神は「ブリッツ・スピリット」(Blitz Spirit)と呼ばれるが、これを維持することで目の前の現実に対する精神的なダメージを緩和させ、また協調性を保つ効果があったと言われている。

ザ・ブリッツ前には多くの医者が、空爆により市民までもが戦地に赴いた兵士が強いストレスを感じて、持ってしまうトラウマ、シェル・ショック(戦闘神経症)を発症するのでは、と予想したが、実際は1939年よりも爆撃が始まった1940年の方が精神病棟へ入院した市民の数が少なかった。

二つ目は市内各地に造られたエア・レイド・シェルターだ。日本政府は後の東京大空襲時に、「恐れるな、空襲に耐え、戦い抜け」と避難ではなく、消火活動に努めるよう市民を扇動した。一方エア・レイド・シェルターの設置に全力で取り組んだ英政府。空の守りは英国空軍に任せ、地上の市民を守ることで無駄な死を回避することを優先させた。その結果、土地に合わせ、さまざまなタイプのシェルターが生まれていく。

エア・レイド・シェルターの種類

地下室を使ったり自宅の一室を避難場所に作り替えたりと、あの手この手で対応した市民たち。年代ごとにさまざまな様式があったが、以下は特に多く利用されたシェルターだ。決して快適とは言い難いものだが、ハード面で大きな助けとなった。

Anderson Shelter アンダーソン・シェルター

1938年にデザインされた、4~6人用の家庭用シェルター。鉄の波板の半分を地面に埋め、残りを折り曲げて庭に設置する。政府による無料支給だが、高収入家庭には7ポンド(現在の約330ポンド)で販売されたという。名前の由来は発案者である当時の王璽尚書(おうじしょうしょ / Lord Privy Seal)であったジョン・アンダーソンから。1940年の夏までに約200基が支給された。

Anderson Shelterこの中で一晩を過ごすこともざらだった

Communal Shelter コミューナル・シェルター

庭のない住人のために、1940年3月ごろ構想された50人規模の共同シェルター。実際に鉄筋コンクリートの天井とレンガで造られたが、爆撃されると重い天井が落下するという欠点があり、粗雑なものは自宅のシェルターより弱い造りだったという。また衛生面にも問題があり、とにかく最低な代物だったが、ロンドンでは5000基ほど作られた。

Morrison Shelter モリソン・シェルター

長引くザ・ブリッツにより、避難場所探しに疲れた人々は非常時も自宅で過ごすことを選ぶようになった。そこで爆撃の衝撃は家屋に任せることを前提に、屋内の倒壊物から身を守るためのシェルターが1941年に開発される。動物の檻のような見た目で、平時はテーブル・クロスを掛け、ダイニング・テーブルとして活用された。

Morrison Shelter写真中央にあるのがモリソン・シェルター。この家庭では卓球台として活用していた

London Underground ロンドン地下鉄

爆撃が激しくなるに従い、自分専用のシェルターを持てないロンドンの貧民層が最終的に行き着いたのが、堅牢で安全な構造の地下鉄駅だった。一時期はシェルターとしての使用を禁止した政府だが、情勢の悪化に伴い地下奥深くを走るベイカールー、セントラル、ジュビリー、ノーザン、ヴィクトリア、ウォータールー&シティ線を中心に開放。ザ・ブリッツ開始からの数週間で、延べ17万5000人が夜を過ごした。

開放初期は、大勢の市民が利用したことで汚物が散乱し、不衛生な環境だった。また、駅そのものが爆撃を受けたり、人であふれかえった階段で一人が足を滑らせたことで将棋倒しになって死者が出たり、人種差別による喧嘩や赤ちゃんの泣き声などの騒音、そして窃盗など、混乱が続いたという。

1940年11月から本格的に政府の援助が入り、食堂列車や簡易トイレの整備、また市内の76駅に2段ベッドが設置され、利用にはチケット制を採用。そのうち映画やコンサートなどのエンターテインメントも開催されるようになった。限られた物資や自由のなかで楽しもうとする精神、またチケットを手に入れるために列に並ぶ秩序を保てたことは、ブリッツ・スピリットがあってこそだったのかもしれない。

London Underground駅構内だけでなく、駅のエスカレーターも避難場所に利用された

ディープな体験をするなら

毎年ロンドン交通博物館主催で、実際にシェルターとして使われたクラッパム・サウス駅の深部を歩ける夏季限定のウォーキング・ツアーがある。今年は新型コロナウイルスの影響で残念ながら開催はないものの、歴史好き、廃墟好きにぜひお勧めしたい。

www.ltmuseum.co.uk/whats-on/hidden-london/clapham-south

 

進化を続けるブリティッシュ・ブラック・ミュージック

英国の多文化社会が育んだ創造性 進化を続ける ブリティッシュ
・ブラック・ミュージック

ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter=黒人の命にも意味がある)のデモ活動が欧米で積極的に行われている昨今。そう簡単に解決できない人種差別の問題は残念ながら各国に残っている。一方、英国ではカルチャー面、とりわけ近年の音楽分野における黒人アーティストの影響は大きく、すでにメインストリームとなっている。もちろん音楽の世界にも根強い差別問題はあるものの、英国におけるブラック・ミュージックは、今日の英国音楽シーンの礎を築いたと言えるほどに恩恵を与えてくれた。今回は1970年以降の音楽を中心に、「ブリティッシュ・ブラック・ミュージック」について紹介したい。(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

2019年、バンクシーが製作した防刃チョッキを着てグラストンベリー・フェスティバルに臨んだストームジー。英国の黒人アーティストとして史上初のヘッドライナーを務めた2019年、バンクシーが製作した防刃チョッキを着てグラストンベリー・フェスティバルに臨んだストームジー。英国の黒人アーティストとして史上初のヘッドライナーを務めた

ブリティッシュ・ブラック・ミュージック(BBM)とは?

アフリカ系やアフリカ系カリブ海の人々、もしくはそれらが混ざった人々を先祖に持つ英国市民が作る音楽のこと。BBMの原型は18世紀ごろに生まれ、英国に定着したのは戦後のウィンドラッシュ世代から。このときに持ち込まれたカリブ海生まれの音楽「カリプソ」は、もともと奴隷制度下の主人へのからかい、その後は政治や社会風刺など、状況に応じて歌詞・スタイルを変えていくもので、ロンドン上陸後は人種差別に対する嘆きを歌ったロンドン版カリプソに変貌を遂げる。新しい環境に適応し、恐れず変化するという「音楽の柔軟性」が、のちにほかのジャンルとのミックスを受け入れ、発展していくBBMのキーとなる。

以降、BBMは1970年代後半から若い世代を中心に黒人、また白人の間で流行し、現在はそれぞれの音楽をミックスさせつつ新たなジャンルが生まれ続けている。

ブラック・ミュージックを取り巻く環境

もともとあったジャンルとミックスさせ、新たな音楽を作る、という多様性を受け入れる英国らしい形で独自に発展してきたBBMだが、まずは英国社会におけるブラック・ミュージックの立ち位置と現状を見ていこう。

パイレーツ・ラジオからYouTubeへ

時代は少し遡って1960年代の英国。当時BBCラジオの音楽放送枠は非常に少なく、また音楽ジャンルも限られており、ブラック・ミュージック以前に人々が本当に聴きたいものは満足に放送されなかった。そこに登場したのが、船や海上のマンセル要塞から電波を飛ばす多数のパイレーツ・ラジオ(海賊放送)だ。70年にソウル・ミュージック専門ラジオ局が登場し、ブラック・ミュージックがまだメインストリームでなかった当時の英国における黒人コミュニティーの需要を満たしていた。

やがて90年以降にはジャングルやガレージ(後述)のパイレーツ・ラジオ局も生まれ、ディジー・ラスカルなど著名なラッパーもここで見出されていくようになる。2020年の現在も、アンダーグラウンドな音楽を紹介するdejavufmRinse FMなどのパイレーツ・ラジオは健在だ。

ラジオ局と同時に、YouTubeに自らミュージック・ビデオをアップロードするアーティストも現れた。ストームジーはその代表格で、投稿した「Shut Up」はロンドンの駐車場で撮影されたシンプルなものだったが、レーベル側の意図に左右されない、フリースタイルの動画は結果的に1億回以上の再生回数を記録した。

社会的な受け皿

英国音楽界には、現在ブラック・ミュージックを広める2つの大きな取り組みがある。一つは1996年から始まった「MOBOアワーズ」だ。Music of Black Originの頭文字を取った同アワーズは、ヒップホップやグライム、R&Bなど、ブラック・オリジン(ブラック発祥)の分野で優れた業績を残した人に贈られる国際的な賞。「オリジン」としているため、受賞者はアフリカ系、カリブ海系だけではなく、過去にはサム・スミス、ノーティ・ボーイなど黒人以外のアーティストも受賞している。

二つ目は2002年、ブラック・ミュージックに特化したラジオ局「BBC Radio 1Xtra」の開局だ。英国を中心に、米国、アフリカ系アーティストなどの曲紹介に加え、世間に埋れている才能あふれる若きアーティストを積極的に発掘し、ブラック・ミュージックが英国でメインストリーム化した一つの要因になった。

英ラッパーのステフロン・ドン第22回MOBOアワーズで最優秀女性アーティストに輝いた英ラッパーのステフロン・ドン。
グライムやダンスホール・レゲエの影響を受けた、歌えるラッパーとして有名だ

ナイフ犯罪と関連付けられる不運

人口の上昇にともない、近年ロンドンではナイフを使った犯罪が増えてきている。英国政府は数年前、暴力を引き起こす可能性のある要因リストに、ブラック・ミュージックのジャンルであるドリルやグライム(後述)、トラップを加えた。これは国が暴力的な歌詞が織り込まれたごく一部の音楽を犯罪と紐づけたことを意味するが、ここには政府が公にしたくない秘密が隠されているという。

2010年ごろから、青少年向け予算の大幅な削減が進んだことで、スポーツや文化を学べる青少年たちのたまり場であり、相談所としても機能したユース・センターが全国的に減少。その結果若者による犯罪が増加したという経緯があった。音楽関係者は、政府が若者を見捨てておきながら、逆に犯罪の責任をSNSやブラック・ミュージックに押し付けているのでは、としている。

知っておきたいBBMのジャンル

BBMはその多様性から、かなりのジャンル数に分かれている。活動がより活発になってきた1970年代以降に発展したジャンルの中で、代表的なものをピックアップしてみた。

2 Tone
2 トーン

2010年、「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」のコンサートに参加したスペシャルズ2010年、「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」のコンサートに参加したスペシャルズ

パンク・ムーブメントが終息した70年代後半、英中部のコヴェントリーで生まれた、エネルギッシュな英国のパンクと素朴な音色のジャマイカのスカを融合させたジャンルで、黒人と白人が一緒に踊れる音楽として流行。スカ・リバイバルを2トーンと呼ぶこともある。多くのグループは黒人と労働者階級の白人の混合メンバーで構成されており、厳密にはパンクとのハイブリッドなのでブラック・ミュージックとは少々異なる。スペシャルズ、セレクター、マッドネス、ザ・ビートなどが有名。

Jungle
ジャングル

ジェネラル・リーヴィ(写真左)。右はレゲエDJのアパッチ・インディアンジェネラル・リーヴィ(写真左)。右はレゲエDJのアパッチ・インディアン

音をデータ化し、音源として再生出力できるサンプラーを使ったエレクトロ・ミュージックの一つ。過去の音源を切り貼りして作るブレイク・ビーツは高速に、ベース・ラインはルーズに、と複雑に組み合わせたメロディーが特徴。レゲエDJによって偶然生まれたこのテクノ系レゲエはロンドンの労働者階級の若者の間で人気を博し、90年代のダンス・シーンで頻繁に流れた。ジャングル・プロデューサーのM-Beatがジェネラル・リーヴィをボーカルに迎えた「インクレディブル」は特に有名だ。

UK garage
UK ガラージ

パイレーツ・ラジオ局で出会い、トリオとなったドリーム・チームパイレーツ・ラジオ局で出会い、トリオとなったドリーム・チーム

90年代前半に登場したガラージ・ハウスやR&Bなど、複数のジャンルをミックスさせたジャンル。米国発だが、英国に上陸してからはジャズ要素が盛り込まれて、UK ガラージと名を変え独自に発展。ここ数年で再び注目されているが、現在ジャズ要素はほとんど含まれていない。ここから再生速度をあげたスピード・ガラージ、低音をベースにしたダブステップなど数々のジャンルに派生していく。ドリーム・チーム「Buddy X 99」、187ロックダウン「ガンマン」は名曲。

Grime
グライム

「ザッツ・ノット・ミー」で一躍有名になったスケプタザッツ・ノット・ミー」で一躍有名になったスケプタ

移り住んできた富裕層と、もともとの住民である移民の貧困層が過密して暮らすロンドン東部で生まれ、2000年代に登場した音楽。カナリー・ワーフやオリンピック会場の建設など、不可抗力で開発されていくロンドンの街の影響を強く受けている。アグレッシブなダンス・ミュージックにラップをのせるスタイルで、ワイリー、ディジー・ラスカルに始まり、スケプタ、JME、そしてストームジーなど、世界を熱狂に巻き込んでいる話題のMCが多いジャンルだ。

Afrobashment
アフロバッシュメント

思わず踊りたくなるような曲を生み出し続けるJ・ハス思わず踊りたくなるような曲を生み出し続けるJ・ハス

アフロスイングとも呼ばれる2010年以降に出てきたジャンルで、西アフリカ生まれのアフロビートとジャマイカ生まれのダンスホール・レゲエをミックスさせたジャンル。ここ数年で一気に知名度をあげてきている。ブラック・ミュージックのハイブリッドとも呼べ、陽気な印象のメロディーが特徴。このジャンルをメインストリームへ押し上げたのはロンドン東部ストラトフォード出身のJ・ハス。シングル「ディドゥ・ユー・シー」やアルバム「コモン・センス」は絶賛された。

UK drill
UK ドリル

スケプタやドレイクともコラボしたことのあるHeadie OneスケプタやドレイクともコラボしたことのあるHeadie One

2010年代に米シカゴで誕生したドリルが、UK ガラージの影響も一部受けつつUK版のドリルに進化。歌詞には貧困にあえぐ若者のリアルが綴られている、かなりダークなスタイルだ。初期はスラングの多用や暴力的な描写も多かったが、最近は少しポップな曲調に変化してきている。創成期から現在も世間の目が厳しいものの、音楽の方向性の変化が期待できる発展途上のジャンルだ。ロンドン北部トッテナム出身のHeadie Oneや南部ルイシャム出身のRussが有名。

ロンドン出身の魅力的なアーティスト

奥深いブラック・ミュージックの中で、ロンドンが生んだ注目のアーティストをピックアップしてみた。すでに有名なMCと、これから人気が出るもしれない個性あふれる2人をぜひ知ってほしい。

「G-Folk」のパイオニア
Hak Baker
ハック・ベイカー

「G-Folk」のパイオニア ハック・ベイカー

まだ表舞台にはそれほど登場していないが、英国のスラングで青年を意味するラッド(lad)・カルチャーを象徴する、今注目のアーティストがハック・ベイカーだ。ロンドン東部のアイル・オブ・ドッグス出身のベイカーは、コックニー・ライミング・スラング*を多用し、アコースティック・ギターを片手に歌う自らのスタイルを、グライムとフォークをブレンドした「G-Folk」と表現している。お世辞にも決してきれいな歌詞とは言えないが、英国の階級制度に対する現状をくっきりと描いている。

またミュージック・ビデオについてベイカーは、「自分を良く見せるような、見てくればかり良いビデオの価値は自分には分からない」とし、「Thirsty Thursday」「SKINT」「Conundrum」のミュージック・ビデオに見られるように、街や自分の暮らしのリアルを追求している。

一方、亡くなった親友に捧げられた「Tom」の「Nothing I could, nothing I could say」(何もできなかった、何も言えなかった)という歌詞や、「L.I.O.L.I (Like It Or Lump It)」の「We're gonna do what we like」(ただやりたいことをやるだけだ)に見られる、まるで子どものように素直な気持ちを綴った歌詞の率直さは、リスナーの心に強く響く。自身のパブリック・イメージが「世間のはみ出しもの」だと理解したうえで作るまっすぐな音楽に注目したい。

* Baked Bean – Queen(女王)、Chalk Farm – arm(腕)など、該当の語句に似た韻を持つ、別の言 葉に置き換えるコックニーのスラング。

政治にも突っ込む若者の代弁者
Stormzy
ストームジー

政治にも突っ込む若者の代弁者、ストームジー

英国出身の黒人アーティストとして初めてグラストンベリー・フェスティバルのヘッドライナーを務め、グライム新世代を牽引するストームジー。ブリット・アワーズなど数々の華々しい受賞歴があるが、グライムMCとしてスーパースターになる前は、ロンドン南部クロイドンで暮らす青年だった。

2015年にリリースした「Shut Up」の歌詞「I’m so London, I’m so South」のSouthはサウス・ロンドンのことを示しているが、ストームジーはほかの曲でも、サウス・ロンドンという言葉を歌詞に散りばめており、また今年1月にはボックスパーク・クロイドンでフリー・ギグを行うなど、どんなに人気になってもロンドン南部出身であることを大切にしている。

また、ストームジーは27年のこれまでの人生で、リーマン・ショックによる政府の緊縮財政による圧迫を少なからず受けてきた。ヒエラルキーの末端に生きる人間が受けてきた負の影響は、2019年の「Vossi Bop」でボリス・ジョンソンや現在の政治を真っ向から叩く「Fuck the government and fuck Boris」という歌詞にも表れており、自分を含めた同世代の鬱々とした若者の心をストレートな歌詞で代弁している。これまで数々の有名アーティストとのコラボを果たしてきたが、変わらぬ信念を持って取り組む姿に目が離せない。

英国のブラック・ミュージックの行く末は?

英国の黒人やブラック・オリジンのアーティストはその熱量、勢いともに音楽界で躍進しているが、その表現者たちをサポートする音楽業界、すなわち管理側には人種差別の問題が山積している。配給会社の上層部における黒人が占める割合はまだ少なく、多様性があるとは言い切れないのが現状だ。また、日本生まれでロンドンを拠点に活動するシンガー・ソングライターのリナ・サワヤマ(29)は、25年を英国で過ごしているにも関わらず、英国国籍を持っていないという理由で英国、アイルランドで優れたアルバムに贈られるマーキュリー賞への出場資格がないとされ、こちらも物議を醸している。黒人を含む有色人種(BAME)によって作り出される英国文化は今後どこまでこの国に許容されていくのだろうか。

 

ダンジェネスへ向かうミニチュア蒸気機関車

Romney Hythe & Dymchurch Railway
ダンジェネスへ向かうミニチュア蒸気機関車

ダンジェネスを訪れるには、車以外では「ロムニー、ハイス&ディムチャーチ鉄道」(RH&DR)を利用する方法がある。かつて「世界最小の公共鉄道」と呼ばれたこともある、英国屈指のミニチュア蒸気機関車RH&DRについて、7月に訪れた実地体験も含めご紹介しよう。

1927年に創業

通常の蒸気機関車の3分の1ほどのサイズであるRH&DRは、英東南部ケントの港町ハイス(Hythe)を起点に、約22キロの距離を走行する。ディムチャーチ、セント・メアリーズ・ベイ、ニュー・ロムニー、ロムニー・サンズなど海辺の町を経由しダンジェネスに至るこの路線は、1927年、鉄道ファンだった2人のレーシング・ドライバー、 J.E.P・ ハウィーとルイ・ズボロウスキーによって開設された。翌28年に全線開通し、以来、RH&DRは観光客だけではなく、第二次世界大戦中にはノルマンディー作戦のための武器弾薬を運ぶなど、遊園地などのミニチュア機関車とは異なる、実用的な鉄道としての役目も担った。近年では地元の小学生の通学列車として利用されていた時期もあったそうだ。

ダンジェネスへ向かうミニチュア蒸気機関車ミニチュアとはいえ、本格的な走りを見せる蒸気機関車。約10両だが、前方の車両にいる乗客たちは皆、煙でいぶされてしまう
ダンジェネスへ向かうミニチュア蒸気機関車

レール間は15インチ

英国の標準的な鉄道のレール間(軌間)は4フィート8インチ半(143.50センチ)と定められているが、RH&DRの軌間は15インチ(38.10センチ)と狭く、「本格的な公共輸送を行う、正式営業の実用鉄道」としては、世界で最も狭い軌間を使用している。当然、車体も小さく、コンパートメント式の車内は、大人が2人並んで座ればいっぱいになってしまうサイズで、例えるなら、ロンドン・バスの2座席分の横幅に等しい。ややカーブを描いた天井は低く、大人がまっすぐ立てる高さはない。また、窓を開けることができない設計のため、乗客は必然的にスライド式のドアそのものを開けて車内に風を入れることになり、乗車中はちょっとしたスリルを味わうことができる。

ダンジェネスへ向かうミニチュア蒸気機関車客層は家族連れやカップル、年配の英国人も多い。車椅子用の車両もあり、ペットもOK。この日は大小の犬が5頭ほど乗車していた

約1時間の旅

ハイスからダンジェネスまでの乗車時間は約1時間。緑の草原、麦畑、牧羊地、そして住宅地と、車窓の景色は目まぐるしく変わり飽きることはない。風景だけではなく、出発地点付近では「撮り鉄」たちが待ち構えているほか、RH&DRに向かって手を振る人が驚くほど多い。「Welcome back RH&DR」という手書きのポスターを掲げる人もおり、地域の住人たちがRH&DRを誇りに思い、新型コロナウイルス予防のため数カ月運休していたRH&DRの再開を心から喜んでいる様子が伝わってきた。

Dungenessへの行き方

London St Pancras International駅からナショナル・レールでFolkeston Central駅まで約1時間、Folkeston Central駅からバス(Golden16 Bus Stop A)でHythe Light Railway Station まで約35分。目の前のHythe RH&DR駅からDungeness駅までRH&DRで約1時間。

DungenessまでのRH&DRHythe駅からDungeness駅までが約1時間、途中のNew Romney駅から乗車する場合は、約30分の旅を楽しむことができる。チケットはオンラインまたは当日駅での購入(どこから乗っても26ポンド)となるが、夏場は訪問客も多いため、あらかじめオンラインで購入しておいた方が安心。詳細はウェブサイトで確認を。デレク・ジャーマンのプロスペクト・コテージはDungeness駅から徒歩で20分ほどかかるため、コテージへ行きたい方はゆとりを持った計画を。

チケット予約

Romney, Hythe & Dymchurch Railway
https://www.rhdr.org.uk/

 

 

デレク・ジャーマンの庭 - イングランド最果ての理想郷ダンジェネス

イングランド最果ての理想郷ダンジェネスデレク・ジャーマンの庭

デレク・ジャーマンの庭

英東南部のダンジェネス(Dungeness)は原子力発電所と荒涼とした海岸線をもつ、「イングランドの砂漠」とも呼ばれる海辺の町。通常の植物が育ちにくい小石だらけのこの地に特別な趣を与えているのが、映像作家デレク・ジャーマンの住んだプロスペクト・コテージだ。耽美的かつ終末観をたたえた作品で20世紀の英国アート界に独自の位置を占め、現在も多くの人々に影響を与えるジャーマンは、1994年にAIDS合併症で死去するまでの数年をダンジェネスのコテージに暮らし、作品制作と同時にガーデニングも行った。ここでは、強い海風にさらされた月面のような土地にあえて庭を作ったデレク・ジャーマンと、その終焉の地として選ばれたダンジェネスを紹介する。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

幼いころから園芸家に憧れていたというデレク・ジャーマン幼いころから園芸家に憧れていたというデレク・ジャーマン
ジャーマンによって植えられたラベンダーやポピー。自生はしないジャーマンによって植えられたラベンダーやポピー。自生はしない
石ころの浜辺には何隻も船が打ち捨てられており、あらゆるものが錆びている石ころの浜辺には何隻も船が打ち捨てられており、あらゆるものが錆びている
荒野のような風景のむこうに英仏海峡が見える荒野のような風景のむこうに英仏海峡が見える
家の外壁は黒いタールで塗られているが、1900年当時からこの姿だった家の外壁は黒いタールで塗られているが、1900年当時からこの姿だった
ダンジェネスには2つの灯台があるが、こちらは現在使われているものダンジェネスには2つの灯台があるが、こちらは現在使われているもの
遠方にうっすら見えるのが原子力発電所。夜になると緑色のライトが浮かび上がり、ジャーマンはこれを(「オズの魔法使い」の)「エメラルド・タウン」と呼んだ遠方にうっすら見えるのが原子力発電所。夜になると緑色のライトが浮かび上がり、ジャーマンはこれを(「オズの魔法使い」の)「エメラルド・タウン」と呼んだ
幼いころから園芸家に憧れていたというデレク・ジャーマン幼いころから園芸家に憧れていたというデレク・ジャーマン
 
 
 

20世紀末の表現者デレク・ジャーマン

デレク・ジャーマン(Derek Jarman、1942~94年)は、1970年代半ばから20年間にわたり活躍した映画監督。舞台デザイナー、作家、園芸家など多くの顔を持ち、ここ数年特にその作品や思想が再び脚光を浴びている。現在、ロンドンのガーデン・ミュージアムでは「Derek Jarman: My garden’s boundaries are the horizon」と題し、晩年プロスペクト・コテージに暮らしたジャーマンにスポットを当てたエキシビションが開催中だ。

ロンドン大学キングス・カレッジやスレード美術学校などで学んだジャーマンは、1960年代半ばから画家として活動する傍ら、ロイヤル・オペラ・ハウスなどで舞台デザインも手掛けた。やがて映画監督ケン・ラッセルのもとで美術監督を担当するが、そのころから8ミリ・カメラを手にし、75年の「セバスチャン」で、長編映画監督デビューを果たす。同作は古代ローマ帝国の聖セバスティアヌスが同性愛に溺れる姿を描いたものだが、ジャーマン自身も同性愛者でLGBT活動家であり、人々がセクシャリティーをオープンにできる世の中を目指していた。その後発表された作品のほとんどが、性的マイノリティーや同性愛を題材にしている。

通常の35ミリではなく、8ミリや16ミリのフィルムを使ったジャーマン独特の映像美と、アヴァンギャルドかつ哲学的な世界観は、まだ同性愛が特別視され、AIDSの治療方法が全く分かっていなかった時代の不安から生まれた。「テンペスト」「カラヴァッジオ」「ラスト・オブ・イングランド」「ザ・ガーデン」「BLUE ブルー」など、ジャーマン作品はどれも、不安や怒りを内包した自らの夢の断片のようでありながら、20世紀末という時代を鮮やかに体現しているのだ。

プロスペクト・コテージとの出会い

ジャーマンは、作品の常連俳優で友人でもあるティルダ・スウィントンとともにダンジェネスを訪れた際にコテージを見つけたという。スウィントンによれば、ロンドンに帰るため車を走らせているとき、ダンジェネス・ロードの側に「売家」という立て札が付いた小さなコテージを発見したジャーマンは、ロンドンに着く前にもうその家を買うことを決意していた。1986年末にHIVへの感染が判明していたジャーマンは、「今までのような暮らしをやめる」ことを決意し、もとは1900年に作られた漁師小屋だったコテージを3万2000ポンド(約440万円)で購入。プロスペクト・コテージ(Prospect Cottage 展望・期待の家)と名付けた。

ジャーマンは幼いときから庭作りに興味があったといい、あるインタビューでは「園芸家になるべきだったのかもしれない」とも「ガーデニングはセラピーのようなもの」とも答えている。コテージ前のスペースには海岸の貝殻や流木、鉄くずのオブジェを配し、ポピーやラベンダー、クロッカスといった素朴かつ土壌に合う草花が植えられた。コテージの周りには柵や塀といったものがないため、その庭は自然に海岸や海へとつながっているように見え、遠くに見える原子力発電所すら庭の一部のようだ。ジャーマンはここで海の色が刻々と変わるのを見つめ、草花の世話をする一方で、病と闘いながら5本の作品を製作。その中の「ザ・ガーデン」はダンジェネスの風景に着想を得て、プロスペクト・コテージの周辺で撮影されている。

ダンジェネスの不思議な魅力

原子力発電所、2つの灯台、石だらけの海辺、そしてミニチュア蒸気機関車の駅のほかには、点在するコテージ以外何もないダンジェネスは、常に「世界の果て」「月の表面」「砂漠」といった形容詞が冠されてきた。その何もなさは、大きな木が1本も生えていないことに由来する。これはダンジェネスの一部がかつては海中にあったため土壌が小石で形成されており、木が育たないことからくる。しかし一方で、実は発電所の北部にはダンジェネス国立自然保護区域が広がり、海辺の荒涼とした風景とは一転し600種もの植物やさまざまな生き物が生息し、欧州最大の野鳥保護区としても指定されている。この驚くほどのギャップがダンジェネスの魅力の一つになっているといえる。

2015年8月に、1964年からこの地を管理していたダンジェネス・エステートが、468エーカー(約1900平方キロメートル)の土地を150万ポンド(約2億500万ポンド)で売りに出し、地域住民やアート愛好家たちをやきもきさせたことがあった。もしコテージの周辺が開発され住宅街にでもなったら、ダンジェネスの魅力が消えてしまう。しかしすぐに原子力発電所を運営するEDFエナジー社がこれを購入し、ダンジェネスの地を管理していくことになった。皮肉なことに、ダンジェネスの景観は原子力発電所によって守られたことになる。

ティルダ・スウィントンによる保護運動

1994年にジャーマンが死去した後、コテージは晩年のパートナーだったキース・コリンズに譲られた。しかしコリンズも2018年に脳腫瘍で亡くなり、コテージが売りに出される懸念が高まった。ジャーマンが暮らしていた当時の姿や庭が失われる可能性があり、監督のミューズだったティルダ・スウィントンが立ち上がり、チャリティー団体「アートファンド」とコテージを維持するためのクラウドファンディングを開始。目標額は350万ポンド(約5億円)とされた。ニュースは瞬く間に広まり、ジャーマンの1960年代の友人である画家のデービッド・ホックニーやコスチューム・デザイナーのサンディ・パウエルを筆頭に、8000人以上がこのファンディングに参加し、2日間で目標額の半分が集まるという快挙を成し遂げた。最終的に、目標額を超える382万7894ポンドを達成。アートファンドは、今後コテージをレジデンス・プログラムに利用できるようにするという。ジャーマンが住んでいたとき、コテージには多くの映画関係者やアーティストが集まった。それと同様に、今後もアーティスト、学者、作家、園芸家、映画製作者、さらにはジャーマン作品に関心のある人々が、創造し、夢を見るためのスペースを提供し、今後もアートの拠点として機能させていくのだという。

エキシビション情報

Prospect Cottage: Public Visits

2022年、プロスペクト・コテージがついにオープンした。アーティストのためのレジデンシー・プログラムを開催するほか、一般の人々も40分のガイド・ツアーという形で内部を見学することができる。デレク・ジャーマンの仕事部屋、住居部分などが公開され、オブジェや工芸品も併せて展示されている。

2023年12月10日(日)まで
詳細はサイトを参照
£14(オンライン予約必須)

Prospect Cottage
Dungeness Road, Dungeness, Romney Marsh TN29 9NE
Tel: 0130 376 0740
Dungenes駅
www.creativefolkestone.org.uk/whats-on/prospect-cottage-public-visits

 

ロンドンのテムズ・パスを歩いてみよう - 大都市ウォーキングを楽しむ

大都市ウォーキングを楽しむ - LONDON THAMES PATHロンドンのテムズ・パスを
歩いてみよう

「ちょっと歩こうか?」と言って人を誘うほど、お散歩をこよなく愛する英国人。事実、ウォーキング用のフットパス(footpath)が英国全土に張り巡らされており、歩くことはこの国の根強い文化の一つだ。過去のロックダウンの影響で、以前より散歩がさらに身近な習慣となった今、テムズ川沿いに走る散歩道、「テムズ・パス」を歩いてみてはいかがだろう。開発中のエリアを遠巻きに眺めたり、趣のあるパブや話題の場所などとの思いがけない出合いを楽しんでみたりと、田園地帯を歩くのでは体験できない、大都市ウォーキングならではの面白さがある。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部) 参考: 英国政府、TfL ほか

TOWER BRIDGETOWER BRIDGE
EMIRATES AIR LINEEMIRATES AIR LINE
BATTERSEA PARKBATTERSEA PARK
CANARY WHARFCANARY WHARF
THE THAMES BARRIERTHE THAMES BARRIER
海外の有名アーティストのコンサート会場になるO2アリーナ海外の有名アーティストのコンサート会場になるO2アリーナ
アイランド・ガーデンズから眺めたグリニッジの旧王立海軍学校アイランド・ガーデンズから眺めたグリニッジの旧王立海軍学校
 
 
 

そもそも「フットパス」って何?

都市部での散歩から、本格的なトレッキングまで、さまざまなウォーキングを楽しむ英国人の支えとなっているのがフットパス(歩道)だ。英国中を縦横無尽に走るこのフットパス、実は法律によってその定義が明確に定められている。

英国で通行権(Rights of way)と呼ばれる歩道がある。これはロンドン中心地以外*のイングランドとウェールズに見られるフットパスのうち、法律により保証されている、誰もが自由に出入りできる散歩道のこと。たとえ私有地であろうとも、道は国民のものという英国人の考えが反映されている。この通行権、法律上は以下のように四つに大別されている。

イングランドとウェールズにおける四つの通行権

Public Footpaths

歩行者、シニアカーや電動車椅子を使用する人のみに認められている道

Public Footpathsナショナル・トレイルを示すどんぐりのマーク

Public Bridleways

歩行者、シニアカーや電動車椅子を使用する人、馬に乗っている人、サイクリングしている人のみに認められている道

Restricted Byways

歩行者、馬に乗っている人、サイクリングしている人のみに認められている道

Byways Open to All Traffic(BOAT)

自動車を含め、全ての交通手段に認められている道

通行権のある道として認識されるには、法律上は所有者が自ら進んで公的使用のために「献上」するということになっている。しかし実際にこのような経緯で認められるケースは非常に少ないのだとか。何でも一般人が誰かの私有地内にある道を利用していて、ある一定の期間(法によると20年間)何のおとがめもなく使えている場合には、所有者は自分の道を通行権のある道として献上したのだと自動的に見なされてしまうらしい。

今回紹介するテムズ・パスは、国が管理している16の長距離フットパスのうちの一つだ。これらは「ナショナル・トレイル」と呼ばれ、田園地帯や国立公園を通過するなど、地域によってかなり多様な道となっている。

*1949年にアクセス・マップが作成されたとき、シティを含むインナー・ロンドンはこの対象地域に入っていなかったが、2010年に英国のウォーキング・チャリティー団体、ランブラーズがもともとあるフットパスを保護し、ロンドンも同法の下におこうと地図の作成を宣言。翌11年、ランベス地区のカウンシルが地図の作成に取り組む決議を可決したものの、未だその地図の作成には至っていない。

実はウォーキング天国だったロンドン

以下で詳しく紹介するテムズ・パスのほかにも、ロンドンには各地域が協力して共同で管理するウォーキング・ルートがある。広域にわたってルートが敷かれているので、気付けばルート上にいた、なんてことも少なくない。ここでは歩きやすい6ルートを紹介しよう。

Capital Ring キャピタル・リング

リッチモンド・パークなどロンドンの郊外エリアを環状に歩くルート。全長約126キロメートルで、15のショート・コースに分けられる。

Green Chain グリーン・チェーン

テムズ・バリア、クリスタル・パレスなどロンドン南東エリアを歩く約80キロメートルのルート。11のコースに分かれ、緑豊かな地域を歩く。

Jubilee Greenway ジュビリー・グリーンウェイ

エリザベス女王の即位60周年を祝うダイヤモンド・ジュビリーと、ロンドン五輪を記念して作られた約60キロメートルのルート。O2アリーナ、グリニッジ・パークなどを歩く。

Jubilee Walkway
ジュビリー・ウォークウェイ

Jubilee Walkway
1977年に設定されたジュビリー・ウォークウェイのプレート

聖ポール大聖堂やトラファルガー広場、バッキンガム宮殿など、ロンドン中心部のランドマークを歩く約24キロメートルのルート。

Lea Valley リー・ヴァレー

テムズ川からロンドン北東部リー・ブリッジを通り、ロンドン北部ウォーサム修道院へ曳航道を歩く約29キロメートルのルート。

London Outer Orbital Path (LOOP)
ロンドン・アウター・オービタル・パス

ロンドンをぐるっと囲むように巡る環状の長距離ルート。約245キロメートルの行程は24に分かれており、ほとんどが平坦なルートで歩きやすい。

URL: https://tfl.gov.uk/modes/walking/top-walking-routes

テムズ・パス マップ

テムズ川の源泉、英西部コッツウォルズのケンブルからロンドンのシティ空港近くにあるテムズ・バリアまでを結ぶ、全長294キロメートルのテムズ・パス。そのなかから、ロンドンの多彩な魅力が感じられる6ルートを選んでみた。趣向に合うルートが見つかったらぜひブラブラ歩いてみてほしい。

A自分の世界に浸り、黙々と歩く哲学ルート

自分の世界に浸り、黙々と歩く哲学ルート

総距離24km

スタート地点最寄駅ナショナル・レール Teddington駅

ゴール地点最寄駅ナショナル・レール Battersea Park駅

ルートテディントン・ロック(水門) → トゥウィッケナム → キュー・ガーデンズ → 国立公文書館 → パットニー・ブリッジ → バタシー・パーク

ルートDより緑から離れないルート。キュー・ガーデンズを通過後、名所のそばを通るものの、道を隠すように緑が繁る部分が比較的多いため、外界から隔離されている気分に。物思いにふけりたいときにぴったりのルートだ。

Bテイクアウェイを利用して、川沿いで過ごしてみる

テイクアウェイを利用して、川沿いで過ごしてみる

総距離10km

スタート地点最寄駅ナショナル・レール Battersea Park駅

ゴール地点最寄駅地下鉄、ナショナル・レール London Bridge駅

ルートバタシー・パーク → ナショナル・シアター → テート・モダン→グローブ座 → ロンドン・ブリッジ → タワー・ブリッジ

テムズ川の南側と同様、観光名所ぞろいのエリア。食べ物や飲み物を販売するバンが多いので、ランチも取りやすい。また、ベンチが切れ間なく設置されているので、テムズ川を見やりながらひと息つくのも乙な過ごし方。

Cゴールはインパクト大! テムズ・パスの最終ルート

ゴールはインパクト大! テムズ・パスの最終ルート
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総距離17.5km

スタート地点最寄駅地下鉄、ナショナル・レール London Bridge駅

ゴール地点最寄駅ナショナル・レール Charlton駅

ルートタワー・ブリッジ → ブルネル博物館 → グリーンランド・ドック → デプトフォード → グリニッジ → O2アリーナ → テムズ・バリア

世界遺産のグリニッジ、元ミレニアム・ドームのコンサート会場、30年以上前の建設ながら近未来的な雰囲気のあるテムズ・バリアと、建物オタクにはたまらないルート。ちなみにテムズ川の北側は当ルートほど川沿いに歩けないため、こちらを使おう。

D豊かな自然から美しい住宅まで、眺望を楽しむ

豊かな自然から美しい住宅まで、眺望を楽しむ
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総距離37km

スタート地点最寄駅ナショナル・レール Hampton Court駅

ゴール地点最寄駅Cadogan Pier / 170番バスAlbert Bridge / Cadogan Pier towards Victoria停留所

ルートハンプトン・コート → テディントン・ロック(水門)→ トゥウィッケナム → サイオン・パーク → キュー・ブリッジ → ハマースミス → フラム → チェルシー・ハーバー → アルバート・ブリッジ

前半はロンドン西部に広がる豊かな自然のなかを歩き、後半は瀟洒な住宅やボート・クラブなど、変化に富んだ眺めを楽しむコース。ルートのほとんどの道が舗装されているので、長距離だが楽に歩けるようになっている。

E歴史の変化を感じられる北側の最終地点

歴史の変化を感じられる北側の最終地点
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総距離8km

スタート地点最寄駅地下鉄Tower Hill / DLR Tower Gateway駅 など

ゴール地点最寄駅DLR Island Gardens駅

ルートタワー・ブリッジ → ワッピング → カナリー・ワーフ → アイランド・ガーデンズ

かつて工業地帯として栄えていたが、現在は新興住宅や倉庫などさまざまな形態に様変わりしている面白いエリア。カナリー・ワーフを過ぎると、アイランド・ガーデンズという公園があり、対岸のグリニッジ・エリアがよく見える。

F穏やかなロンドンを感じられるのは今しかない!

穏やかなロンドンを感じられるのは今しかない

総距離9.5km

スタート地点最寄駅Cadogan Pier / 170番バスAlbert Bridge / Cadogan Pier towards Victoria停留所

ゴール地点最寄駅地下鉄Tower Hill / DLR Tower Gateway駅 など

ルートアルバート・ブリッジ → テート・ブリテン → ウェストミンスター宮殿 → エンバンクメント → ブラックフライアーズ → ロンドン・ブリッジ → タワー・ブリッジ

ウェストミンスター宮殿やロンドン塔など、ロンドンを象徴する観光名所が並び、在英者なら一度は歩いたことがあるであろう王道ルート。週末や日中は観光客でごった返しているが、早朝やまだ明るい夕方など人が少ない時間帯が狙い目だ。

テムズ・バリアの先もまだまだ歩ける!

テムズ・パスの最終地点はテムズ川の氾濫を防ぐための可動式防潮堰、テムズ・バリア。ナショナル・トレイルとしてはそこで終了となるが、バリアの南側に整備された道はさらに西方へ向かって延びており、歩き続けることは可能だ。行程は、かつて王立の兵器工場があったウーリッジを通過後、テムズミードを経て英西部ケントのダートフォードまで17.5キロメートルほど。後半は殺風景になるものの、川幅が広がり、テムズ川の雄大さを感じられるようになる。

ロンドン外にも続くテムズ・パス『Goring to Pangbourne』

 

シティ誕生と発展の歴史、再発見!

シティ公認ガイド 寅七
〜シティを歩けば世界がみえる 特別編〜

気ままにロンドン博物館シティ誕生と発展の歴史、再発見!

2024年にウェスト・スミスフィールドへの移転が決定しているロンドン博物館(Museum of London)は、世界最大級の市立博物館として約600万点の収蔵品を誇ります。常設の展示品はその0.5パーセントに満たないのですが、時系列的に展示室が区切られていますのでふらりと散歩するだけでロンドンの歴史を時代ごとに体感できます。

最近、同博物館では市民の生活を大きく変えた新型コロナウイルスに関する資料の収集を始めたそうですが、そもそもロンドンのシティがどう誕生し、どう発展してきたのか、頭の中を整理したいですね。今回、寅七はシティを先史時代から振り返り、そのダイナミックな歴史をご紹介していきます。今後のシティの未来を占うヒントになればと思います。

それでは、さっそくわれわれのタイムマシンで45万年前の世界に降り立ってみましょう。

シティ公認ガイド 寅七

シティを歩けば世界がみえる』を訴え、平日・銀行マン、週末・ガイドをしているうち、シティ・ドラゴンの模様がお腹に出来てしまった寅年7月生まれのトラ猫

ロンドン博物館 Museum of London
www.museumoflondon.org.uk/museum-london

新型コロナウイルス感染拡大の影響で現在クローズ中。2021年中に移転工事を開始する予定。

Episode 1変動に次ぐ変動、45万年前から適者生存の法則

45万年前のアングリア氷期でブリテン島は氷床に沈み、ほとんどの生物は姿を消しました。その後、大地が大きく変化します。氷河作用と地層の褶曲(しゅうきょく)によりテムズ川もライン川もセーヌ川も1本の大きな川となって大西洋に注ぎ、これがチャンネル川となり後のドーバー海峡を形成します。博物館に展示された気温グラフが示すように約10万年ごとに氷期・間氷期が訪れ、生き物は極寒と酷暑に対応しながら生き延びました。テムズの水辺はマンモスやオーロックス、カバ、ヘラジカなどの生き物の宝庫であると同時に生命の興亡が展開される場所でした。そして約1万2000年前に終わった最後の氷期で旧人類が滅びると新人類の時代がやって来ます。欧州大陸からブリテン島に移住していた新人類の狩猟民チェダーマンは集団生活で知恵を出し合い、コミュニケーションや道具の改善で氷期を生き抜き、英国人最古の祖先になります。

ロンドン北東に生息していたオーロックスの頭部ロンドン北東に生息していたオーロックスの頭部
まだ陸続きだったブリテン島まだ陸続きだったブリテン島
50万年前から現代までの地球の気温の推移50万年前から現代までの地球の気温の推移
ロンドン北東部から出土した象の足とロンドン中心部から出たカバの歯ロンドン北東部から出土した象の足とロンドン中心部から出たカバの歯
英国人の最古の祖先チェダーマンは約1万年前に生きていた(自然史博物館蔵)英国人の最古の祖先チェダーマンは約1万年前に生きていた(自然史博物館蔵)

Episode 2移民に次ぐ移民、青銅器時代から海外貿易した英国人

狩猟民の次に渡来したのが西アジアのアナトリア地方を起源とする農耕民です。今から約5500年前にテムズ川近くで農耕生活していた思われる女性(ロンドン近郊シェパートン発掘)の復元像があります。寒冷期の巨大動物の狩猟に使われた打製石器と異なり、温暖期の小動物の狩猟には矢じりが使われ、農具用に磨製石器が出土しています。やがて4500年前くらいから青銅器を使う白い肌のビーカー人が欧州大陸からドーバー海峡を渡ってきます。大酒飲みだったのか、ビーカーに似た陶器をたくさん作り、コーンウォールなどから錫や銅を掘り出して青銅器も作りました。錫をギリシャ・エーゲ文明に向け輸出し、逆に地金を輸入して黄金の肩掛けや黄金のカップも作りました。ところが2800年前ごろ、鉄器や戦闘用馬車を携えて欧州大陸からケルト系の複数の民族がブリテン島を襲ってきます。

シェパートン・ウーマンの復元像シェパートン・ウーマンの復元像
農耕に使われた磨製石器農耕に使われた磨製石器
ビーカー人の青銅器や鐘状陶器ビーカー人の青銅器や鐘状陶器
黄金製リラトン・カップ(大英博物館蔵)黄金製リラトン・カップ(大英博物館蔵)
ケルト人のウォータールーかぶととバターシー盾(本物は大英博物館所蔵)ケルト人のウォータールーかぶととバターシー盾(本物は大英博物館所蔵)

Episode 3商売に次ぐ商売、ローマ人が教えた互恵の精神

ケルト人は複数の部族国家に分かれていましたが、その最大の貿易相手は古代ローマでした。貿易港が英東部コルチェスターにあり、反ローマ勢力の部族がそこを占領するとローマ帝国は西暦43年、英国に侵攻開始。当時のテムズ川の上げ潮の限界域だった場所にロンディニウムを作ってそこを軍事拠点にしました。ここから全国に通じるローマ街道を作り、陸運と海運の拠点にしたのです。西暦60年のケルト・イケニ族の反乱以後、ローマ帝国ブリタニア地方官のクラシキアヌスは、商業(Commerce)とは互い(Com)に恵み(Mercy)を分かち合うものとして「互恵の精神」を強調。英国は鉛や錫、羊毛や牡蠣を輸出し、ローマから陶器やワイン、加工品を輸入しました。ここに父なるテムズ(貿易)と豊穣の女神(商業)が互恵の精神で結ばれ、ロンディニウム、つまりロンドンが欧州の貿易・商業センターに転じていきます。

現在のロンドン博物館から見えるローマ帝国時代の壁現在のロンドン博物館から見えるローマ帝国時代の壁
フリート川とテムズ川の合流区が感潮域フリート川とテムズ川の合流区が感潮域
ロンドンにあふれたローマ帝国からの輸入品ロンドンにあふれたローマ帝国からの輸入品
クラシキアヌス地方官の墓(本物は大英博物館所蔵)クラシキアヌス地方官の墓(本物は大英博物館所蔵)
ローマ街道は縁石や排水溝のある舗装道路(断面図)ローマ街道は縁石や排水溝のある舗装道路(断面図)

Episode 4侵略に次ぐ侵略、戦争も自由もカネ次第

ローマ帝国にとってブリテン島は辺境の地でした。軍事力が衰えてくるとフォエドゥス(傭兵契約)をゲルマン人と結び、侵略を試みる敵を牽制します。でもついに西暦410年、東西分離後のローマ帝国は英国からの撤退、ブレグジットを決断し、その後ブリテン島は傭兵として移住したゲルマン人と土着のケルト人の争いの場に転じます。9世紀後半、西サクソン王国のアルフレッド大王が国内統一してロンドンのシティを奪還しますが、その後もヴァイキングの来襲などが続き、最後はフランスのノルマン公国が1066年にイングランドを征服します。翌年、イングランド王に就いたウィリアム征服王がシティに商業活動の自由や既得権益を認めますが、これにはカラクリがありました。歴代の西サクソン王は来襲する外敵に宥和のために支払う金をシティから土地税として徴収していましたが、ウィリアム征服王はその振込先を自分に変えたのです。まさに戦争も自由もカネ次第。

ノルマン人の鎖帷子(くさりかたびら)ノルマン人の鎖帷子(くさりかたびら)
ゲルマン人はストランドに交易港のルンデンウィックを建設(6世紀)ゲルマン人はストランドに交易港のルンデンウィックを建設(6世紀)
西サクソン王国はシティを奪回し、砦を意味するルンデンブルグを建設(9世紀)西サクソン王国はシティを奪回し、砦を意味するルンデンブルグを建設(9世紀)
税金は敵に襲われたときに宥和のために使われる(黒ずんだ銀貨)税金は敵に襲われたときに宥和のために使われる(黒ずんだ銀貨)
サクソン人のおのとバイキングの長剣サクソン人のおのとバイキングの長剣

Episode 5マネーに次ぐマネー、それでも信仰心は忘れずに

サクソン人の職人気質に加え、王家の勅許状という権威の支援を受け、職人組合=リヴァリ・カンパニーが発展してシティは大きく繁栄します。1189年にシティ市長が誕生したのも、1215年のロンドン憲章やマグナ・カルタでシティに自治権が認められたのも、戦争資金に窮した王家をシティが救ったからです。また、ローマ人の英国撤退後もローマ教皇はロンドンを「メトロポリス・キウィタス」、つまり司教座の置かれる母なる都市として重要視し、604年には聖ポール大聖堂を建てました。シティ商人は地獄に落ちないよう敬虔なキリスト教徒であることを示すために多額のお布施を欠かせません。そう広くはないシティに所狭しと128もの教会があったとは、よほど後ろめたい何かがあったからでしょう。シティの都市化とは王家からも教会からもお金をせびられる「セビラレゼーション」でした。

受胎告知の屏風(1500年ごろ)受胎告知の屏風(1500年ごろ)
初代シティ市長のヘンリー・フリッツ=アーウィン初代シティ市長のヘンリー・フリッツ=アーウィン
聖ポール大聖堂は604年に建設。写真は旧聖ポール大聖堂(1314~1666年)聖ポール大聖堂は604年に建設。写真は旧聖ポール大聖堂(1314~1666年)
1215年5月のロンドン憲章1215年5月のロンドン憲章
カンタベリー巡礼バッヂ(テンプル教会資料)カンタベリー巡礼バッヂ(テンプル教会資料)

Episode 6災難に次ぐ災難、それでも適者生存の法則は続く

17世紀のスチュアート朝は絶対王政を敷いて放漫財政に走りました。シティは清教徒のオリバー・クロムウェルを支援し政治改革を期待。クロムウェルは1649年にチャールズ1世を処刑し共和制に変えました。でもその息子のリチャードの政治が拙く、1660年に再び王政復古に戻ります。そしてペストやロンドン大火の災難が続きました。

しかし1688年の名誉革命で議会制と私有財産制が認知され、1694年設立のイングランド銀行とシティは海外進出を積極的に支援。膨大な植民地を入手し、産業革命が起きます。金融資本は新産業に再投資され、連鎖的に発展。互恵の精神、自由活動、マネー主義、議会制、私有財産制を合言葉に才能に秀でた世界的な役者がシティという舞台で演じ続けます。この世は舞台、人は皆役者、演目は「氷河時代から続く適者生存の法則」です。

1666年のロンドン大火1666年のロンドン大火
1665年のロンドン・ペスト時、原因がノミと分からず戸口に十字架を記した1665年のロンドン・ペスト時、原因がノミと分からず戸口に十字架を記した
クロムウェルのデスマスククロムウェルのデスマスク
シティの中枢、イングランド銀行シティの中枢、イングランド銀行
17世紀ロンドンの人口は約50万人、現在は約900万人17世紀ロンドンの人口は約50万人、現在は約900万人
 

サミュエル・ジョンソンの言葉 - 機知に富んだ英国の精神に触れる

機知に富んだ英国の精神に触れる サミュエル・ジョンソンの言葉

18世紀の文学者サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)の名前は知らずとも、「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ」という言葉を聞いたことがある人は多いだろう。ジョンソンはこのほかにも機知に富んだ格言や警句を数多く残し、それは今も英国人たちに愛され続け、英国の文化にも影響を与えている。ここでは英国らしい諧謔精神やブラック・ユーモアにあふれたサミュエル・ジョンソンの言葉を紹介していこう。(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考:Dr. Johnsons Dictionary: The Book that Defined the World by Henry Hitchings、「イギリス文学入門」石塚久郎 編集、ウィキペディア ほか

サミュエル・ジョンソン

サミュエル・ジョンソンとは

(Samuel Johnson、1709~1784年)は、「英語辞典」の編纂で知られる文学者(詩人、批評家、文献学者)。英中部スタッフォードシャー生まれ。鋭い警句や談話の名手で、18世紀の英国で文壇の大御所として活躍した。主な著書は、「詩人列伝」、「シェイクスピア全集」(校訂・注釈)ほか。

ジョンソンとその時代

18世紀の英国は、名誉革命後に新たな市民社会が形成された時代として知られる。政治や経済の変化するスピードが速かったため、もはや伝統的な価値観はそんな社会に追い付くことができず、個人の判断力が重視された。正しい判断をするには最新の情報が必要になったことから、この時代に多くの新聞や雑誌が創刊したほか、コーヒー・ハウスや社交クラブでの議論も盛んだった。

チェスターフィールド卿のサロンを訪問したジョンソンチェスターフィールド卿のサロンを訪問したジョンソン(画面中央左)

サミュエル・ジョンソンが活躍したのはそんな時代のロンドン。英中部の小さな本屋の息子に生まれたジョンソンは、オックスフォード大学に入学したが、学費が払えず中退。いったんは故郷へ戻るものの、やがてロンドンで文筆家として生計を立て始める。180センチを超える長身で、大柄にして食欲も旺盛、話し声も大きく非常に豪快なジョンソンは、その博識ぶりやブラック・ユーモアのセンスも手伝い社交クラブでは常に輪の中心にいたという。

後にロイヤル・アカデミーの初代会長を務める画家のジョシュア・レイノルズ、政治思想家のエドマンド・バーク、劇作家のオリヴァー・ゴールドスミスらと親しく交流し、あらゆることに興味を持つ人物だった。また一方で、生き物や弱い立場にある人々に優しく、繊細な性格の持ち主であったことや、少年期の結核が原因で片目・片耳が悪く、顎には大きな瘤があったことなどが、伝記作家ジェームズ・ボズウェルにより詳細に描かれている。

8年で完成した英語辞典

歴史上、初めて英語の辞典が誕生したのは1604年。しかし単語数も少なく正確さに欠けており、その後の150年間に数々の作家や学者などが辞典の編纂に挑戦した。だがいずれも部分的だったり専門性が高かったりと、きちんとした総括的な英語辞典は生まれていなかった。1745年、文芸の庇護者を自任する第4代チェスターフィールド卿は「オランダ語にもドイツ語にも独自の立派な辞典があるのに、英語にはそう呼べるものがない。なんて不名誉なことだ」と嘆いている。

そうした状況で、出版社を経営し政治家でもあったスコットランド人、ウィリアム・ストラーンがサミュエル・ジョンソンに白羽の矢を立てる。ストラーンは1746年6月18日に1500ギニー(現在の金額にして約3000万円)でジョンソンと辞典の執筆契約を結んだ。隣国のフランスではアカデミーを創設し50年という月日をかけて辞典を編纂していたが、ジョンソンの交わした契約は「3年で辞典を完成させる」というもの。これにあたりパトロンにチェスターフィールド卿を頼ったものの断られたジョンソンは、1人で辞典作りに着手する。

ネイサン・ベイリー編の「An Universal Etymological English Dictionary,1721」を基礎にしながらも、足りない言葉を丁寧に補い、全く独自の視点から自分で用例を集め、8年をかけて独力で完成させた。こうして1755年に生まれたのが「英語辞典」(A Dictionary of the English Language)である。

A Dictionary of the English Language英北西部マンチェスターのチェタム図書館に所蔵されている
ジョンソンの編纂した「英語辞典」(第2巻)

この辞典は18世紀当時一般に使われていた言葉がきちんと組み込まれアルファベット順に並ぶ、現代の私たちが考える辞典のスタイルを備えており、以降、1928年に「オックスフォード英語辞典」が編纂されるまで、英語辞典の原典として存在した。

ただし、皮肉屋のジョンソンが執筆した「英語辞典」には右に示すような自由な語釈がところどころに含まれている。辞典編纂の最中に、心に浮かんだことをそのまま書いたような愚痴めいた語釈が楽しい。これらは第2版以降で部分修正されていることも多いという。

ジョンソンによる自由な語釈

【dull(退屈な)】活力のない、楽しくないこと。例: 辞書作りは退屈な仕事だ。

【excise(物品税)】日用品に課せられるおぞましい税金で、税額は資産評価の専門家によってではなく、物品税を徴収する側に雇われたケチな手先によって決められる。

【fart(屁)】体の後ろから空気を吹き出すこと。

【lexicographer(辞書編集者)】辞書を書く人。文章を書き写し、言葉の意味を説明するという仕事をこつこつとこなす無害の人(a harmless dr udge)。

【oat(オート麦)】穀物。イングランドでは一般に馬に与えられ、スコットランドでは人が食べる。

【patr on(パトロン)】支持し、擁護し、援助する人。たいていは尊大な態度で保護し、お追従という代償を得る見下げ果てた人間。

【pension(年金)】政府に雇われて国を裏切った者に与えられる報酬。

サミュエル・ジョンソンの言葉

友人との気軽なおしゃべりや議論、自著の中に散りばめられた一言など、21世紀の現在でも色褪せないジョンソンの言葉。そのほんの一部を紹介しよう。(出典:「サミュエル・ジョンソン伝」ほか)

サミュエル・ジョンソン

Sir, when a man is tired of London, he is tired of life;
for there is in London all that life can afford.
ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。
ロンドンには人生が与え得るもの全てがあるから。


Patriotism is the last refuge of a scoundrel. 愛国主義は不埒なやつらの最後の隠れ家だ。


信頼なくして友情はない、誠実さなくして信頼はない。


あらゆる出来事の最も良い面に目を向ける習慣は、
年間1000ポンドの所得よりも価値がある。


音楽は背徳を伴わない唯一の官能的な愉しみである。


思慮分別は人生を安全にはするが、往々にして幸せにはしない。


結婚は多くの苦悩を生むが、独身は何の喜びも生まない。


There is no kind of idleness by which
we are so easily seduce as that which dignifies itself
by the appearance of business.
多忙という威厳をまとった怠惰に、
人は何よりもたやすく惹きつけられる。


怠け者だったら、友達を作れ。友達がなければ、怠けるな。


過ぎ行く時を捉えよ。時々刻々を善用せよ。
人生は短き春にして人は花なり。


Tea’s proper use is to amuse the idle, and relax the studious.紅茶の正当な効用は、怠け者には暇つぶしになり、
勤勉な者をリラックスさせる。


腐敗した社会には、多くの法律がある。


A fishing pole has a hook at one end and a fool at the other.釣り竿は一方に釣り針を、もう一方の端に馬鹿者をつけた棒である。


恋は愚か者の知恵であり、賢人の愚行である。


政府は我々を幸せにすることはできないが、
惨めな状態にすることはできる。


Hell is paved with good intentions.地獄への道は善意が敷き詰められている。


短い人生は時間の浪費によって一層短くなる。


If a man does not make new acquaintances as he advances through life,
he will soon find himself left alone.
A man, sir, should keep his friendship in a constant repair.
人生において新しい知人を作らずにいると、
やがて独りぼっちになるだろう。
人はね、君、友情を常に修復し続けなければならないのだよ。


サミュエル・ジョンソンを有名にした人物 ジェームズ・ボズウェル
James Boswell(1740〜1795年)

James Boswell

サミュエル・ジョンソンを崇拝するがゆえに常に行動を共にし、ジョンソンの発言を日々書き留めていたのが、文学を愛好する弁護士ジェームズ・ボズウェル。ジョンソンの死後にボズウェルが伝記「サミュエル・ジョンソン伝」(1791年)を著し、その日常を生き生きと詳細に記録してくれたおかげで、ジョンソンは後世にもその性格や素顔が詳しく知られる人物となった。ボズウェルなしにはジョンソンは語れない。

ボズウェル流とは

スコットランド出身のボズウェルは1763年、ロンドンで30歳以上も年上のジョンソンと知り合い意気投合、ジョンソンを中心にした社交クラブの一員となった。ボズウェルは、このクラブで当時の作家、画家、政治家とジョンソンとの間に交わされた議論や、ともに旅行をしたときのジョンソンの言動、または自宅での愛猫や召使いとのエピソードなどを全て速記で克明に記録。帰宅後に整理し書き直していた。以来、英語には「Boswellian」(ボズウェル流)という言葉ができたほどで、その意味は「対象物に密着して、何一つ漏らさずに全てを書く」だ。

オート麦をめぐって

それほどにジョンソンに傾倒していたボズウェルだが、イングランド人のジョンソンはスコットランド嫌いとも言われている。辞書編纂の際、オート麦の説明文を「イングランドでは一般に馬に与えられ、スコットランドでは人が食べる」にしたことはすでに述べたが、これに対しスコットランド人のボズウェルは「だからイングランドの馬とスコットランドの人間は優秀なのでしょう」とさらりと反論したという。

こうした逸話がふんだんに散りばめられた「サミュエル・ジョンソン伝」は伝記文学または日記文学の傑作として、「教養ある英国人の必読書」とも言われている。英国人のユーモアや英国人らしさを、18世紀の書物から学んでみるのも楽しいかもしれない。

サミュエル・ジョンソンが住んでいた家 ドクター・ジョンソンズ・ハウス
Dr. Johnson's House

Dr. Johnson's House ザ・ブリッツ(ロンドン大空襲)の激しい空爆から生き残った建物だ

ロンドン中心部にあるジョンソンがかつて住んでいた自宅は、現在「ドクター・ジョンソンズ・ハウス」という博物館になっており、一般公開されている。

ジョンソンの旧宅は地下鉄のチャンスリー・レーン駅とブラックフライアーズ駅の間にあり、周囲を建物に囲まれた静かな場所にたたずむ。築300年以上のこのタウンハウスの屋根裏部屋で、ジョンソンは辞典の編集を進めた。20世紀初頭に一般公開を開始してから、ジョンソンにまつわる資料や絵画、工芸品、インテリアなど貴重な展示品を収集してきた同館には、英語辞典の初版やジョンソン本人が所有していた貴重な書籍なども展示されている。建物内は全ての部屋を見学できるので、当時の雰囲気を味わうことできるだろう。

Dr. Johnson's House
17 Gough Square, London EC4A 3DE
Tel: 020 7353 3745 
www.drjohnsonshouse.org

ジョンソンの愛猫ホッジ

ジョンソンズ・ハウス前方に広がるゴフ・スクエアの一角に英語辞典の上に乗った猫の銅像があるが、これはジョンソンの数匹の飼い猫のなかで、特に溺愛されていた黒猫のホッジをモデルに1997年に作られたもの。前述のジェームズ・ボズウェルの「サミュエル・ジョンソン伝」によると、その甘やかし具合は「忘れられない」とボズウェルも表現しているほどで、ジョンソンはホッジにエサとして新鮮な牡蠣を与えていたらしい。18世紀当時の牡蠣は簡単に手に入ることから、貧乏人が好む食べ物であったものの、ジョンソンは自ら毎日市場へ足を運び、ホッジのためにわざわざ購入していたのだとか。銅像の足元には牡蠣の殻が彫られており、時折、遊び心のある誰かが残したコインが入っていることもある。

ホッジは撫でられるとゴロゴロと喉を鳴らす愛らしい猫だったようで、ジョンソンはホッジが死の間際に苦しんでいたとき、痛みを和らげるためにセイヨウカノコソウという薬草を買いに行った、というエピソードも残されている。主人を精神的に支えた猫は、「a very fine cat indeed」という言葉ともに今も旧宅のそばで座り続けている。

ジョンソンの愛猫ホッジ(写真左)台座にはQRコードがついており、スマホで読み取ってみると……
(写真右)辞書の上に乗っているホッジの像。足元には牡蠣の貝殻も彫られている

【名言集】英国らしい皮肉たっぷり|サミュエル・ジョンソンの言葉
 

英国シルバー読解術 - アンティーク・シルバーを探しに行こう

これであなたも即席目利き - 銀製品の見方と豆知識 英国シルバー読解術

常に街のどこかでマーケットが立つ、アンティークの都、英国。あちらこちらに佇む骨董屋では、色とりどりの陶器や古い家具、絵画にペンにボタンまで、ありとあらゆる品物が次のご主人様を待っている。そんななか、雑多な品々に紛れて鈍い光を放つ、シルバー製品に目を奪われたことはないだろうか。マーケットでは散ばらで売られていることも多く、見方さえ心得ていれば意外な掘り出し物に出合えることも。本特集では、英国シルバー製品の見方をご紹介。製品の背景が分かれば愛着もわくというもの。目利き気分で宝探しに出掛けよう。
(取材・文: Shoko Rudquist)


アンティーク・シルバーを探しに行こう!

ホールマークの読み方や英国シルバーの歴史がざっくり分かったら、あなたももう立派な目利き。以前はちんぷんかんぷんだったディーラーのおじさんやおばさんの説明にも、訳知り顔でうなずけるはず。シルバー製品に関しては世界屈指の品質を誇るここ英国で、シルバー・アンティークを探すのに持ってこいの場をご紹介しよう。

※新型コロナウイルス拡大防止により休業中の場合あり。サイトを参照のこと

掘り出す / 購入する

世界有数のシルバー専門店街 The London Silver Vaults

The London Silver Vault

本気で一生物のシルバー製品を探すなら、世界的にも有名なこちらへ。17世紀のアンティークからコンテンポラリーまで、シルバー製品だけを専門に扱うディーラーが店を構える専門店街「ロンドン・シルバー・ヴォルツ」だ。元大型信用金庫だった重厚な建物を再利用しており、セキュリティー万全の環境で、それぞれその道50年以上という29のディーラーがとっておきの製品をそろえている。中には、中国と日本のシルバー製品を専門に扱うディーラーなどもあり、よそではお目にかかれないセレクションが期待できる。定期的にエキシビションも開催しているので、購入はさておいても、まずは見識を高めに出掛けたい。

The London Silver Vaults
53-64 Chancery Lane London WC2A 1QS
Tel: 020 7242 6646
月〜金9:00-17:30 土9:00-13:00
https://silvervaultslondon.com

立地最高!ハイソなマーケット Grays

Grays

ロンドン市内中心、ボンド・ストリート駅からすぐに位置するインドア型マーケット。元々はトイレのショールームだったという建物を、1977年、ベニー・グレイ氏と呼ばれる紳士が買い取り創立した。マーケットとはいうものの、各ディーラーがブースごとに店舗を構える小売店の集合体だ。2フロアに200以上のディーラーがひしめき合い、陶器から家具、ジュエリーまで幅広い品ぞろえ。30を超えるディーラーがシルバー製品を専門に扱っており、掘り出し物に出合える確率は高し。便利な立地なので、こまめに覗いてみよう。ちなみに地階では、北部ハムステッドから始まり市内の地下を貫くテムズ河の支流を見ることもできる。

Grays
58 Davies Street London W1K 5LP
Tel: 020 7629 7034
月〜金10:00-18:00 土11:00-17:00
http://www.graysantiques.com

国内最大級インドア・マーケット Alfies Antique Market

Alfies Antique Market

ボンド・ストリート駅すぐのインドア・マーケット「グレイズ」の仕掛け人グレイ氏が、同館より先に自分の生まれ育った地区で手掛けたのがこちら。すっかり荒れ果てていた古いデパートを改造した、その規模は国内最大級というアンティーク・マーケット、「アルフィーズ」だ。「グレイズ」と同じインドア形態をとり、100以上のディーラーがブースを構える。レトロなファッション小物やインテリア小物があふれ、アンティークというよりむしろヴィンテージ色の強い品ぞろえながら、シルバーや真鍮製品に特化したお店も。シルバー製品目当ての訪問客が少ないからこそ、意外なお宝に遭遇する可能性に期待できそうだ。

Alfies Antique Market
13-25 Church Street London NW8 8DT
Tel: 020 7723 6066
火〜土10:00-18:00
https://www.alfiesantiques.com

ストリートマーケットの大御所 Portobello Road Market

Portobello Road Market

言わずと知れた国内最大級の週末ストリート・マーケット。ロンドン西部のノッティング・ヒルから続くポートベロー・ロード沿いで、毎週金・土曜日を中心に開催されている。19世紀後半に誕生した当時は食料を扱う露天商が中心だったというが、20世紀半ばにはアンティークの取引も行われるように。現在は、ノッティング・ヒル・ゲート駅に近い南寄りの通り沿いを中心に、平日も商いを行う骨董品店が軒を連ねるほか、土曜日にはカトラリーや食器類のアンティーク露天商も出店する。スプーンやフォークが束になって無造作に売られているのはストリート・マーケットならでは。じっくり品定めして、お気に入りを見つけよう。

Portobello Road Market
Portobello Road W11 2QB
Tel: 020 7361 3001
金・土 9:00-19:00
http://www.portobelloroad.co.uk/the-market/

学ぶ / 鑑賞する

シルバーの専門家を目指すなら The Goldsmiths’ Centre

ロンドンのアセイ・オフィスを運営する「ザ・ゴールドスミスズ・カンパニー」が同組織最大の出資額を投じて、2012年にロンドン東部のクラーケンウェル地区に建設した「ゴールドスミスズ・センター」。この施設は、シルバーをはじめゴールド、プラチナといった貴金属の専門家を目指す人たちを受け入れる学術機関で、ワークショップやセミナー・ルームなどが完備されるのはもちろん、一般に公開されるエキシビション・エリアやカフェも備える。1872年に創立されたロンドンで最も古い寄宿学校の一つだった建物を再利用した、美しい外観も見ものの一つだ。

The Goldsmiths’ Centre
42 Britton Street, EC1M 5AD London
Tel: 020 7566 7650
www.goldsmiths-centre.org

充実のコレクションで目を肥やすVictoria & Albert Museum

英国屈指のシルバー・コレクションを誇るヴィクトリア&アルバート・ミュージアムでは、3階の「シルバー・ギャラリー」内で、世界各国から集めた、実に1万点以上の作品を展示している。中でも英国シルバーのコレクション数は、公的機関としては世界最大。欧州各地の作品も充実しており、希少な1400年代のものから鑑賞できる。アンティーク・シルバーの歴史を一望するにはこれ以上の施設はないはず。マーケットでお気に入りの一品を見つけるまで、ここで審美眼を磨いておこう。

Victoria & Albert Museum
Cromwell Road London SW7 2RL
Tel: 020 7942 2000
月〜日10:00-17:45(金は22:00まで)
https://www.vam.ac.uk

英国シルバー豆知識

銀の燭台

19世紀にガス灯が普及するまで、ほぼ唯一の照明器具だったろうそく。当然、銀製の燭台も多く製造されたが、17世紀ごろまでは中心部が空洞だったため壊れやすく、今日手に入る銀製の燭台は主に17世紀以降に製造されたものがほとんどだ。蝋燭を立てる腕が2本以上ある燭台が誕生したのは17世紀後半。3本のものが作られるようになったのは18世紀後半になってから。5本以上のものは、19世紀に入るまでは製造されていなかった。腕の数が多い燭台を「これは18世紀のものだよ」なんて高値で売られそうになったら、食って掛かって間違いなし!?

1853 10 Light Candelabrum, Hunt & Roskell

銀の燭台1853 10 Light Candelabrum, Hunt & Roskell

カトラリー

16〜17世紀初頭、人々は友人宅に食事に招かれると、自分専用のマイ・スプーン&ナイフを持参していたのだそう。フォークはまだ存在せず、代わりにナイフの先端が割れて、刺した物を持ち上げやすいようになっていたようだ。1660年以降に、先が2本になったフォークが製造されるように。燭台と同じく、フォークの歯の数は3本、4本と、時代を追うごとに増していった。4本のものは基本的に1760年以降に製造されたもの。また魚用のナイフとフォークが作られるようになったのは19世紀に入ってからだ。

カトラリー1691 Treffid Spoon, Richard Sweet

牛のクリーマー

英国に暮らしていると、愛嬌のある牛の形をした、陶器製のクリーマーを一度は見かけたことがあるだろう。尻尾を持って傾けると牛の口からミルクが注がれるあの容器、元々はシルバー製品だ。1759年に、シルバー職人ジョン・シュッペによって製造された銀製のクリーマーは、19世紀になってイングランド中部ストラトフォードシャーの陶器メーカーらによってコピーされ始め、現在に至っている。シルバー・アンティーク業界ではそこそこ有名なコレクター商品。カーブーツ・セールで見かけたら、ホールマークをチェックして即ゲットしてみる?

牛のクリーマー1758-1759, Creamer Jug in the Form of a Cow, John Schuppe

シノワズリ・モチーフ

英国といえば紅茶。しかし、同国におけるその歴史は意外と浅く、17世紀後半に東洋の秘薬として売られ出したのが始まりだ。巷の人々の間で実際に流行し始めたのは、その値段が徐々に下がり始めた18世紀に入ってからだと言われている。当初は高級食品だった紅茶は、貴族たちの間で大層もてはやされ、流行のデザインが施された美しい銀製の茶器が誕生する。そして、当時人気を博していたデザインと言えば東洋風のモチーフ、「シノワズリ」。初期のティー・セットは、意外にもアジアン・テイストのものがほとんどなのだ。

シノワズリ・モチーフ

シルバー製品のお手入れ

シルバー製品と聞いて物怖じしてしまう人もいるかもしれないが、銀器は中世から日常的に使われてきた身近な道具でもある。多くのアンティーク・シルバーが出回っているを見ても、大切に使えば時代を超えて輝き続けるのは明らか。お気に入りのシルバー製品を長く愛でていけるよう、ここで基本的なお手入れの際の注意事項をまとめておこう。

  • 食器洗浄機は避け、手洗いを厳守。その際、シルバーの変色を促すレモン成分が入った洗剤は使わないようにしよう。また洗った後は、手早く水滴をふき取ること。そのままにしておくと水滴のあとが残ってしまう。
  • 普段使いのシルバー・カトラリーは、毎回食事が終わったらすぐに洗い、水分を手早くふき取るだけで十分光沢は保たれる。あまり磨きすぎるとかえって製品を痛めることになるので注意。
  • 塩は変色の最大の敵。塩用の小皿、ソルト・セラーなどに残った塩は、食事が終わったら毎回別容器に移し替えよう。セラーをきれいに洗うことも忘れずに。
  • シルバーの変色は、主に硫黄成分と空気中の水素成分によって起きる。卵、タマネギ、マヨネーズといった食品は硫黄を含むため、変色を促しやすい。これらを使った料理を頂いた後は、何はともあれ即座に洗ってしまおう。
  • もし変色が進んでしまったら、シルバー専用の研磨剤を使って磨こう。シルバー製品を専門に扱うディーラーなら、手袋状になったものや布状のものなど、日常使いに適した製品を扱っていることも多いので問い合わせてみて。ただし、高価なシルバー製品は念のため専門家にお手入れを頼むのも手だ。
 
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