英国公営住宅の建築事情 カウンシル・フラットの光と影
ロンドン西部のタワー・ブロック、トレリック・タワー
1960〜80年代に建てられたブルータリズム建築を筆頭に、公営住宅の多くがその建物の無骨さや古さから新たな注目を集めている。かつて低所得者向けの安っぽい住居と思われていた公営住宅は、今やレトロでおしゃれな存在と一部の人々から認識されている。一方で、建物の老朽化や地域の再開発によって公営住宅が壊されていき、昔からの住人たちがジェントリフィケーションの波を受け行き場を失いつつあるという問題もある。ここでは、公営住宅の移り変わりを、歴史的・文化的な面から紹介する。
文:英国ニュースダイジェスト編集部
参考: Municipal Dreams: The Rise and Fall of Council Housing by John Boughton、英国の公営住宅の歴史と政策に関する調査研究報告書 by一般財団法人 住宅改良開発公社ほか
カウンシル・フラットとは
カウンシル・フラットは、英国の地方自治体によって建てられた低所得者向け公営住宅で、カウンシル・ハウス、カウンシル・エステートなどとも呼ばれる。割安な家賃で、低所得者のほか、失業者、シングル・マザー、生活保護対象者などが優先的に入居できる仕組みだ。一戸建てから高層のタワー・ブロックまで、時代や地域によりさまざまな種類があり、その多くは1919年の住宅法改正後から1980年代にかけて建設された。以来カウンシル・フラットの建設は大幅に減少しているといわれている。
もともとカウンシル・フラットは、1875年の公衆衛生法で定められた地方都市のスラム解体政策の一部であり、当初の目的は労働者階級の暮らしを向上させ、同時にスラムをなくすことで近隣の土地の価値を上げることだった。その後、第二次世界大戦による住居の破壊、急激なインフレーション、兵士の復員による新婚世帯の増加などが原因で、深刻な住宅不足が起きる。これを受けた政府は1946年、住宅法を制定し公営住宅の建設を積極的に推進。1951年までに英国全土で約90万戸のカウンシル・フラットが建設された。やがて1960年代に入ると、再び都市部のスラム解体政策に重点が置かれるほか、核家族化に伴う若年層・高齢者用住宅の建設も開始。住居の大量供給のためカウンシル・フラットの高層化も進んだ。こうして、1953年時点の公営住宅におけるタワー・ブロックの割合は2割以下だったのに対し、1961年から1966年にかけては約4割と、大幅に増加した。
Right to Buyの功罪
マーガレット・サッチャー首相率いる保守党政権が1980年の住宅法によって導入したのが、Right to Buyという制度。公営住宅の住人が、現在居住する物件を市価より安い値段(約33~50%)で購入できる権利を与えるもので、この制度によって英国の持ち家率は飛躍的に上昇した。この制度は現在も改定されながら続いている。ちなみに家の購入を申し込むための条件は、該当の公営住宅を3年以上借りていること。家の値段は賃借年数、物件がある地域、物件の種類などによって異なる。同制度を利用して購入した物件を転売する場合は、購入してから転売するまでの年数により異なるが、まず自治体、または非営利の住宅供給組織である住宅協会(Housing Association)などに、買い戻しの意思があるか確認。自治体もしくは住宅協会が買い戻しを望む場合、住民はそれに応じる義務がある。
さて、政府が公営住宅の貸借人にこうした権利を与えたことから、公営住宅が次々と私有化・民営化され、順番待ちをする入居希望者は、膨大な数にのぼった。ロンドンなどの都市部では、1980年代に買い取られ民営化された元公営住宅が、立地の良さや建築デザインの面白さから高額で売りに出されたり、月数千ポンドで貸し出されたりという事態になり、高額所得者と生活保護受給者が隣同士で暮らすことも珍しくない。戦後、労働者階級のために建てられた公営住宅は、現在大きな過渡期を迎えているといってよいだろう。
新しい波がやってきた?
Right to Buyの仕組みは自治体に大きなひずみをもたらした。新たな公営住宅建設には政府からの資金援助が望めず、借入金にも厳しい制限があることから、自治体は従来とは異なる方法で公営住宅建設の費用を捻出する必要があった。そこで、地方自治体は所管の住宅建設会社を設立。民間の土地開発業者のように、個人向け住宅を建設・販売し、その収入を公営住宅建設費に充てるというスタイルを編み出した。その一例が、ロンドン東部のショーディッチ・パーク近くに立つ2棟の豪華マンションだ。全198戸の最上階には、デービッド・チッパーフィールド卿が設計した195万ポンド(約2億7000万円)のペントハウスが鎮座する。地元のハックニー・カウンシルが開発し、収益は隣地の公営住宅再建に充てられるのだという。
このような動きはロンドンだけに限らない。すでに英国の地方自治体の3分の1以上が独自の住宅建設会社を設立した。1980年の住宅法によって力を奪われていた地方自治体は、ほぼ40年ぶりに、再び自分たちで公営住宅を建設し始めたところだ。ロンドン北東部のバーキング・アンド・ダゲナムでは15 年以内に4万2500戸、同南部クロイドンは3年以内に1000戸、英中部シェフィールドでは15年以内に2300戸を建設するという。
また、これから建てられる公営住宅は、戦後すぐ、粗末な建材で作られたものとは異なり、人にも環境にも優しいパッシブ・ハウス(省エネ・ハウス)であったり、遊び心にあふれたデザインだったりと、これまでの公営住宅のイメージを覆すものになりそうだ。
英国文化とカウンシル・フラット
年配者が、労働者階級の住民をつなぐコミュニティーとして当時を懐かしむ一方、カウンシル・フラットを「古くておしゃれな建築」として捉える若者たちもいる。貧しい家庭に生まれ育ったロンドン東部や南部のミュージシャンは公営住宅の出身であることが多く、そのファッションやアートのセンスが浸透したこ とも、カウンシル・フラットが注目を集めるきっかけとなった。
今年も、ロンドンでは800以上の建築物を無料で公開するイベント「オープン・ハウス」が開催される。イベントは、1992年、一般の人々が建築に対する関心や理解を深め、自分たちの暮らす環境への意識や知識を向上させることを願う、非営利団体及び多くのボランティアによって始められた。現在では、個々の建築物には留まらず、デザイン、エンジニアリング、環境問題といった、さまざまな面における地域ぐるみのプロジェクトを紹介、推進していく役割も担っている。
このイベントには、ロンドンを代表する特徴的なデザインのカウンシル・フラットも参加しているので、これを機にのぞいてみてはいかがだろうか。新型コロナウイルスの影響下にある今年は、例年通りの一般公開のほか、自転車ツアーやオンライン・プログラムも用意されている。
Open House London
9月19日(土)~27日(日)
openhouselondon.open-city.org.uk
建築から見るカウンシル・フラット
ここでは、アーツ&クラフトからブルータリズムまで、さまざまなスタイルを持つロンドンのカウンシル・フラット8軒をご紹介しよう。
1世界一古いカウンシル・フラット
BOUNDARY ESTATE
バウンダリー・エステート
かつての悪名高いスラムが落ち着いたエリアに
ロンドン東部ショーディッチ・ハイ・ストリートとベスナル・グリーン・ロードの間にある公営住宅。緑の美しい円形公園アーノルド・サーカスの周りに配置された、ヴィクトリア朝の赤レンガ造りの建物で、1890年、悪名高いスラム、オールド・ニコルの跡地に建設された。当時盛んだったアーツ&クラフト運動の影響を受けており、ロンドンで最初の、そしておそらく世界で最初のカウンシル・フラットといわれている。
Calvert Avenue, London E2
Shoreditch High Street駅
https://bit.ly/2RcZQq6
2灰色の美、タワー・ブロック
BALFRON TOWER
バルフロン・タワー
インパクト大の無機質なフォルム
1960年半ば、ハンガリー出身の建築家エルノ・ゴールドフィンガーによってデザインされた、26階建てのタワー・ブロック。余計な装飾を排した打放しのコンクリートと直線が強調されたブルータリズム建築は、伝統的な建築物が多く残る当時のロンドンにあって、いかに挑戦的なデザインだったか想像できる。同じくゴールドフィンガーがロンドン西部に建築したトレリック・タワーも、同様の構造を持つ。
St. Leonards Road, London E14
All Saints DLR/ Langdon Park DLR駅
https://balfrontower.co.uk
3ブルータリズム低層住宅の見本
ALEXANDRA ROAD ESTATE
アレクサンドラ・ロード・エステート
まるで一つの町のような迫力の520戸
第二次世界大戦後の英国で活躍し、集合住宅のパイオニアと呼ばれる米国人建築家、ニーヴ・ブラウンによる迫力満点の低層住宅。1978年に完成し、その後、重要建築物として1993年にGradeII指定を受けた。520戸の住宅のほか、学校やコミュニティー・センターを併設し、屋根部分は緑いっぱいの公園になっている。印象的な外観から多くの映画作品のロケ地ともなっており、2014年の英米合作映画「キングスマン」では、主人公エグジーの実家として登場した。
Rowley Way, London NW8
South Hampstead駅
http://alexandraandainsworth.org
4モダニズムの極致
BEVIN COURT
べヴィン・コート
鮮やかな赤は、1954年のオリジナル・カラーを2014年に復元したもの
ロシアから亡命し英国で活躍した建築家バーソルド・リュベトキンが、戦後間もなく手掛けたモダニスト建築。従来の公営住宅のイメージを打ち破るモダンなデザインでありながら、景観を壊さず周囲との調和を図るのがリュベトキン・スタイル。かつて亡命中のレーニンが滞在していたことから、敬意を表し「レーニン・コート」と名付ける計画があったものの、戦後英露の関係が悪化し、反共産主義の英外相アーネスト・べヴィンの名が冠された。
Cruikshank Street, London WC1X
Angel/King's Cross St.Pancras駅
https://bit.ly/35nodtj
5眺望を第一に作られた住まい
DAWSON'S HEIGHTS
ドーソンズ・ハイツ
近隣の住民からは「戦艦」と呼ばれる公営住宅
古代メソポタミアの神殿やピラミッド、または要塞に例えられることの多い1964~72年建設の公営住宅。12階建ての2棟から成り、鉄道建設時に除去された捨石の集積された小高い丘の上に建てられている。298戸のうち3分の2からは、南北両方向のパノラマ・ビューが楽しめる。ロンドン南部ランべスのリーガム・コート・ロード建築などで知られるスコットランドのデザイナー、ケイト・マッキントッシュが手掛けた。
Overhill Road, London SE22
ナショナル・レールForest Hill駅
https://bit.ly/35mSc4S
6イアン・フレミングに嫌われた建物
TRELLICK TOWER
トレリック・タワー
ノッティング・ヒル・ゲートに近く立地もよい
ジェームズ・ボンドの生みの親として知られる作家、イアン・フレミングは、建築家エルノ・ゴールドフィンガーが1972年に建てたこのタワー・ブロックが気に入らず、ボンドの敵役をゴールドフィンガーと名付けた、という逸話がある。地上31階建て、高さ98メートルのトレリック・タワーは、共産圏の建築を思わせる無機質さと威圧感を持ち合わせ、バランスの悪い渡り廊下もインパクト大。今や近隣のランドマーク的存在で、観光客が訪れるほどだ。
Golborne Road, London W10
Westbourne Park駅
https://bit.ly/3m4fClp
7建設時はトラブル続き
BRUNSWICK CENTRE
ブランズウィック・センター
外観はクリーム色に塗られるはずが、自治体の資金不足で図らずもブルータリズム風になったという逸話も
ロンドン中心部、ラッセル・スクエア駅前のショッピング・センターに隣接する低層住宅。大規模な集合住宅としてユーストン・ロードまで延びる予定だったが、国防省が関連施設の移動を拒んだことから土地を買収できず、こぢんまりしたものに。1972年に完成し、当初は公営ではなく一般向けテラス・ハウスとして販売されたが、入居者が集まらず公営住宅用に払い下げられた。デザインはパトリック・ホジキンソン。
Marchmont Street, London WC1N
Russell Square駅
https://brunswick.co.uk
8住人からも愛される集合住宅
DUNBOYNE ROAD ESTATE
ダンボイン・ロード・エステート
向かい合わせの長屋のようなスタイル
アレクサンドラ・ロード・エステートの設計で知られるニーヴ・ブラウンが手掛けた、公営としては初の低層集合住宅で、1967年に完成。住宅71戸にスタジオとショップが付き、各戸には共同のガーデンを見下ろす大きなテラスがある。プライバシーと公共性のバランスが程よく、同時代の建築家が目指した高層の住宅とは真逆のデザイン性を持つと評価されており、住人からの人気も高いという。重要建築物としてGradeII指定を受けた。
Dunboyne Road, London NW3
Gospel Oak/Belsize Park駅
BRUTALISM ブルータリズム
1950年代~60年代に見られた建築様式。打放しコンクリートなどを用いた荒々しい仕上げが特徴で、直線の強調された力強いデザインが多い。英都市計画家のアリソン& ピーター・スミッソンによって名付けられた。



在留届は提出しましたか?
1946年2月、ピカデリー・サーカス駅から護衛警官によって持ち出される美術品
1948年、ようやく地上へ出たエルギン・マーブル
1940年のヘンリー・ムーアの作品「Women and Children in the Tube」
1940年、エレファント&キャッスル駅の構内。多くの人がプラットフォームに直接寝転がっている
1940年9月7日、ロンドン東部のワッピングとアイル・オブ・ドッグス上空を通過し、爆撃に向かう独空軍のハインケル He 111
シティのモニュメント付近の様子。建物自体は残っているものの、ガラス窓は全て吹き飛んでしまっている
「ミッキーマウス」と呼ばれた2~4歳半用の子ども用ガスマスク。臭くて蒸れて息苦しいものだった。見た目のおかしさから笑いを誘ったという(帝国戦争博物館所蔵)。
この中で一晩を過ごすこともざらだった
写真中央にあるのがモリソン・シェルター。この家庭では卓球台として活用していた
駅構内だけでなく、駅のエスカレーターも避難場所に利用された
2019年、バンクシーが製作した防刃チョッキを着てグラストンベリー・フェスティバルに臨んだストームジー。英国の黒人アーティストとして史上初のヘッドライナーを務めた
第22回MOBOアワーズで最優秀女性アーティストに輝いた英ラッパーのステフロン・ドン。
2010年、「ティーンエイジ・キャンサー・トラスト」のコンサートに参加したスペシャルズ
ジェネラル・リーヴィ(写真左)。右はレゲエDJのアパッチ・インディアン
パイレーツ・ラジオ局で出会い、トリオとなったドリーム・チーム
「
思わず踊りたくなるような曲を生み出し続けるJ・ハス
スケプタやドレイクともコラボしたことのあるHeadie One

ミニチュアとはいえ、本格的な走りを見せる蒸気機関車。約10両だが、前方の車両にいる乗客たちは皆、煙でいぶされてしまう
客層は家族連れやカップル、年配の英国人も多い。車椅子用の車両もあり、ペットもOK。この日は大小の犬が5頭ほど乗車していた
幼いころから園芸家に憧れていたというデレク・ジャーマン
ジャーマンによって植えられたラベンダーやポピー。自生はしない
石ころの浜辺には何隻も船が打ち捨てられており、あらゆるものが錆びている
荒野のような風景のむこうに英仏海峡が見える
家の外壁は黒いタールで塗られているが、1900年当時からこの姿だった
ダンジェネスには2つの灯台があるが、こちらは現在使われているもの
遠方にうっすら見えるのが原子力発電所。夜になると緑色のライトが浮かび上がり、ジャーマンはこれを(「オズの魔法使い」の)「エメラルド・タウン」と呼んだ
幼いころから園芸家に憧れていたというデレク・ジャーマン
TOWER BRIDGE
EMIRATES AIR LINE
BATTERSEA PARK
CANARY WHARF
THE THAMES BARRIER
海外の有名アーティストのコンサート会場になるO2アリーナ
アイランド・ガーデンズから眺めたグリニッジの旧王立海軍学校
ナショナル・トレイルを示すどんぐりのマーク







ロンドン北東に生息していたオーロックスの頭部
まだ陸続きだったブリテン島
50万年前から現代までの地球の気温の推移
ロンドン北東部から出土した象の足とロンドン中心部から出たカバの歯
英国人の最古の祖先チェダーマンは約1万年前に生きていた(自然史博物館蔵)
シェパートン・ウーマンの復元像
農耕に使われた磨製石器
ビーカー人の青銅器や鐘状陶器
黄金製リラトン・カップ(大英博物館蔵)
ケルト人のウォータールーかぶととバターシー盾(本物は大英博物館所蔵)
現在のロンドン博物館から見えるローマ帝国時代の壁
フリート川とテムズ川の合流区が感潮域
ロンドンにあふれたローマ帝国からの輸入品
クラシキアヌス地方官の墓(本物は大英博物館所蔵)
ローマ街道は縁石や排水溝のある舗装道路(断面図)
ノルマン人の鎖帷子(くさりかたびら)
ゲルマン人はストランドに交易港のルンデンウィックを建設(6世紀)
西サクソン王国はシティを奪回し、砦を意味するルンデンブルグを建設(9世紀)
税金は敵に襲われたときに宥和のために使われる(黒ずんだ銀貨)
サクソン人のおのとバイキングの長剣
受胎告知の屏風(1500年ごろ)
初代シティ市長のヘンリー・フリッツ=アーウィン
聖ポール大聖堂は604年に建設。写真は旧聖ポール大聖堂(1314~1666年)
1215年5月のロンドン憲章
カンタベリー巡礼バッヂ(テンプル教会資料)
1666年のロンドン大火
1665年のロンドン・ペスト時、原因がノミと分からず戸口に十字架を記した
クロムウェルのデスマスク
シティの中枢、イングランド銀行
17世紀ロンドンの人口は約50万人、現在は約900万人
チェスターフィールド卿のサロンを訪問したジョンソン(画面中央左)
英北西部マンチェスターのチェタム図書館に所蔵されている

ザ・ブリッツ(ロンドン大空襲)の激しい空爆から生き残った建物だ
(写真左)台座にはQRコードがついており、スマホで読み取ってみると……



1853 10 Light Candelabrum, Hunt & Roskell
1691 Treffid Spoon, Richard Sweet
1758-1759, Creamer Jug in the Form of a Cow, John Schuppe






