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Tue, 16 December 2025

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英国シルバー読解術 - 銀製品の見方と豆知識

これであなたも即席目利き - 銀製品の見方と豆知識 英国シルバー読解術

常に街のどこかでマーケットが立つ、アンティークの都、英国。あちらこちらに佇む骨董屋では、色とりどりの陶器や古い家具、絵画にペンにボタンまで、ありとあらゆる品物が次のご主人様を待っている。そんななか、雑多な品々に紛れて鈍い光を放つ、シルバー製品に目を奪われたことはないだろうか。マーケットでは散ばらで売られていることも多く、見方さえ心得ていれば意外な掘り出し物に出合えることも。本特集では、英国シルバー製品の見方をご紹介。製品の背景が分かれば愛着もわくというもの。目利き気分で宝探しに出掛けよう。
(取材・文: Shoko Rudquist)


英国が誇る高品質シルバーの歴史

英国シルバー製品の「ホールマーク」って?

英国のシルバー製品は、古くから、世界に誇る品質を保っているとされる。それは、数百年以上前から国単位で厳格な品質管理が行われ、厳正な審査にのっとった品質保証マークである「ホールマーク」(Hallmark)が各製品に刻印されてきたからだ。まずは、英国シルバー製品を見る上で最も重要な要素の一つと言える「ホールマーク」についてみていこう。

刻印左)シルバー製品の品質保証マークを付ける際に使われる刻印機 
右)手作業で刻印されている

鍵は純度

英国ではゴールドと並び、ローマ時代から希少な貴金属としてもてはやされてきたシルバー。その価値の高さから12世紀にはすでに取引法が定められ、14世紀になると銀の含有率が92.5%を超えるものだけを正式なシルバー製品とする、という決まりもできる。日本でも耳にすることの多い「スターリング・シルバー(Sterling silver)」とは、この純度を持つシルバー製品のこと。欧州各国では、純度80%や83%のものもシルバー製品として扱われるなか、英国では一貫してこの純度が保たれている。英国製のシルバー製品が世界にそのクオリティーを誇るのは、この厳格な制度のおかげだ。

そしてこのころから、各製品は生産者により品質が保証されていることを示す刻印が押されるまで出荷が許されなくなる。これが、「ホールマーク」の始まり。15世紀にはそれに日付を示す文字も加わる。つまり、この時期以降に製造された製品のうち現存する英国産シルバー製品のほとんどは、いつ誰がどこで製造したかが分かるということだ。ただ残念なことに、17世紀以前に使用されていたシルバー製品のほとんどは戦争の際に武器の原料として再利用されたため、現存しているものは少ない。

地域によって微妙な違いがあったホールマークの図柄が全国で統一されたのは、「ホールマーク法」が施行された1975年のこと。そしてこの法により、7.8グラム以上の重量がある全てのシルバー製品は、ホールマークを刻印しない限りシルバー製品と呼んではいけないことに。以来、英国内で流通する全てのシルバー製品には、必ずホールマークが押されることになったのだ。

アセイ・オフィス

厳格な分析・鑑定を行い、ホールマークを刻印することのできる機関は、国によって定められている。アセイ(試金)・オフィス(Assay Office)と呼ばれるこの機関は現在英国内に4つ。1300年から鑑定を行い、1327年には国内初のアセイ・オフィスとして認知されたロンドン・オフィス、教会や家庭で使用される銀器が盛んに製造され、15世紀から鑑定が行われるようになったというエディンバラ・オフィス、1773年の創立時にはシルバー製造業が国内で最も栄えていたというバーミンガム・オフィス、そして燭台の製造で名を馳せ、バーミンガムと時を同じくして創立されたシェフィールド・オフィスがそれらになる。このほかにも、ヨーク、ノリッチ、エクセター、ニューカッスル、チェスター、グラスゴーといった街にもオフィスは存在したが、それぞれすでに閉められている。

The Goldsmiths' Companyロンドン東部にあるアセイ・オフィス、ザ・ゴールドスミスズ・カンパニー

現存するほとんどのシルバー製品には、上記のアセイ・オフィスによる刻印が押されている。マークはそれぞれのオフィスによってデザインが異なり、どの街で鑑定された製品かが一目瞭然。併せて押される日付を示す文字(デート・レター)などまで読むことができれば、いつどこで生産され、品質が保証されたかがはっきりするという非常にシステマティックな仕組なのだ。

ホールマークを読み解く

それでは、具体的にどうすればホールマークが読めるのだろう。1975年の法制定以降、ホールマークは、基本的に下のような形で並んでいる。左から、「メーカーズ・マーク」「スタンダード・マーク」「メタル&ファインネス・マーク」「アセイ・オフィス・マーク」「デート・レター」だ。ここからは、これらのマークを詳しく説明していこう。

ホールマーク

1メーカーズ・マーク

それぞれの生産者のマーク。通常、メーカーの名前が2、3文字のアルファベットに短縮された形で表されている。

2スタンダード・マーク

シルバー含有率92.5%を超える「英国品質」を保証するマーク。スターリング・シルバーと呼ばれるのはこれ(1974年ごろまでに製造されたものは、王冠をかぶったライオンの顔の場合も)。1975年以前のものには「ブリタニア像」と呼ばれる女性の全体像(純度95.84%)が押されていることもあり、ブリタニア・シルバーと呼ばれている。

3メタル&ファインネス・マーク

シルバーの純度を表すマーク。

800 純度80%
925 純度92.5% スターリング・シルバー
958 純度95.84% ブリタニア
999 純度99.9% いわゆる純銀

4アセイ・オフィス・マーク

どこのアセイ・オフィスでホールマークが押されたかが分かる。

アセイ・オフィス・マーク

レオパード
ロンドン・アセイ・オフィス。1327年、英国で初めに分析鑑定の専門組織として承認されたオフィス。1697〜1719年は横向きのライオンが代用された。


バーミンガム・アセイ・オフィス。シルバー製品の名産地だったことから1773年に創立。1973年の製品には創立200年を記念した特別印が押されている。ちなみに、錨マークが横向きになっていればその品はゴールドかプラチナだ。

ヨーク・ローズ 
シェフィールド・アセイ・オフィス。燭台の名産地として有名に。1974年12月までは王冠のマークを使用していた。

城 
エディンバラ・アセイ・オフィス。シルバーの分析鑑定に関しては、15世紀半ばからの歴史がある。

5デート・レター

アルファベットと枠(盾の形)の組み合わせ。大文字だったり小文字だったり、ブロック体だったり飾り文字だったりと、さまざまなデザインで表される文字を、これまたさまざまな枠(盾)の形と組み合わせ、何年に刻印が押されたかを示す仕組み。ただしロンドン以外のオフィスでは、1999年以降はこの刻印付けが省略されている。


これらのホールマークの組み合わせ次第で、いつ、どこのメーカーが作った製品か、そしてその品質までがはっきりと分かるというからくり、分かっていただけただろうか。また上記のほかにも、女王の即位記念日などがある年には「コメモレーション・マーク」が刻印される。

ただし、特にメーカーズ・マークとデート・レターに関しては、その種類が相当数に上るため、興味のある方にはオンライン・ショッピングのアマゾンなどで5ポンド程度で購入できる、ホールマークの種類を図解したポケット・サイズの本がお勧め(Antique Marks by Anna Selby : Collins Gemシリーズなど)。小さめサイズなら、マーケットでの宝探しの際にも重宝する。また各地のアセイ・オフィスでも鑑定を受け付けているので、相談してみてもいいだろう。

英国シルバー、デザインの変遷

英国における、各年代の代表的なシルバー製品のデザインを紹介。
*カッコ内の記述は制作年と作者名
*画像 ©The Goldsmiths’ Company

1450 銀の大杯 ©The Goldsmiths’ Company銀の大杯 (1460、製作者不明)
1550 ©The Goldsmiths’ Company1559年の戴冠式でエリザベス1世が使用したと伝えられているカップ(1554、製作者不明)
1650 お粥用ボウル©The Goldsmiths’ Company お粥用ボウル(1667、製作者不明)
1700 チョコレート用ポット©The Goldsmiths’ Company チョコレート用ポット (1717、Joseph Ward)
1750 コーヒー・ポット©The Goldsmiths’ Companyコーヒー・ポット(1796、Henry Chawner)
1800 ティー・セット©The Goldsmiths’ Companyティー・セット (1850、J. Angell)
1850 トレイ©The Goldsmiths’ Company日本的な装飾が施されたトレイ (1877、Elkington & Co.)
  ワイン入れ©The Goldsmiths’ Companyワイン入れ(1880、Hukin & Heath)
1900 ボウル ボウル (1902、C.R. Ashbee for the Guild of Handicraft)
  蓋付きボウル(1931、H.G. Murphy)©The Goldsmiths’ Company蓋付きボウル(1931、H.G. Murphy)
1950 燭台©The Goldsmiths’ Company燭台(1958、Robert Welch)
1960 ボウル©The Goldsmiths’ Company昆虫を彷彿とさせる デザインのボウル (1962、Gerald Benney)
1990 エナメル加工された皿(1999、Jane Short)
2000 ボウル©The Goldsmiths’ Company古代エジプトの女神、イシスの名が付けられたボウル(2011、Abigail Brown)
 

第二次世界大戦・欧州戦勝記念日のロンドンで何が起こったか - VE DAY 80周年記念

2025年5月8日は「VE DAY」80周年記念 第二次世界大戦・欧州戦勝記念日のロンドンで何が起こったか

5月8日、第二次世界大戦で英国を含む連合国がドイツを降伏させた戦勝記念日、通称VEデー(Victory in Europe Day)は2025年で80周年を迎える。同大戦で敗戦国となった日本と異なり、当日のロンドンは祝福のムードに包まれていたが、一方で身内を亡くした人々も多く、手放しで喜べる国民ばかりではなかったという。複雑な思いが絡み合うその日に、当時の人々は何をしていたのか調べてみた。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

参考資料: winstonchurchill.org、www.bbc.co.uk

VE DAY道端で勝利を祝う人々

VEデーとは?

1945年5月8日、第二次世界大戦でナチス・ドイツが降伏文書に署名し、欧州における第二次世界大戦が終わった日。太平洋戦争での日本軍の抵抗はこの時点でまだ続いているので、あくまでも欧州においての戦勝記念日となる。ソ連軍によって包囲されたベルリンは陥落し、亡きヒトラーに代わりカール・デーニッツ海軍元帥が設立した臨時政府、フレンスブルク政府は国防軍に署名の許可を与え、5月8日、ベルリンで無条件降伏を受け入れた。降伏文書調印が成立してからも、各戦線での降伏には時間差があり、最終的に欧州内での戦いが幕を閉じたのは同11日のプラハの戦いであった。

現在も英国をはじめ、欧州の連合国では祝日となっているが、時差の関係からロシア(旧ソ連)では9日が対独戦勝記念日となっている。

欧州における第二次世界大戦の終結
1943年 2月 ドイツ、スターリングラードで敗北
7月 連合軍、シチリア上陸
9月 イタリア、無条件降伏
11月 テヘラン会談
1944年 6月 米英主力の連合軍、ノルマンディーに上陸
8月 連合軍、パリを解放
1945年 2月 ヤルタ会談
4月 アドルフ・ヒトラーが自殺
5月 ソ連軍、ベルリン占領
5月8日 ドイツ、無条件降伏

何千もの人々がトラファルガー広場に集まった何千もの人々がトラファルガー広場に集まった

あの日…
ウィンストン・チャーチル首相は

時代が選んだリーダー

英国の最も著名な政治家の一人で、今なお人気のあるウィンストン・チャーチル首相(1874~1965年)。チャーチルといえば、「鉄のカーテン」など、印象的な言葉を散りばめた記憶に残る演説を行ってきた宰相で、2002年に行われたBBCの世論調査で「最も偉大な英国人」の1位に選出されるほど、英国民の間で長きにわたり英雄視されている人物だ。

第二次世界大戦勃発時、ネヴィル・チェンバレン内閣の海軍大臣だったチャーチルは、ナチス・ドイツ軍が軍需産業で必要とする鉄鉱石輸送の拠点であったノルウェー北部ナルヴィクの占領に失敗。チャーチルはチェンバレンを擁護したものの、責任を負ってチェンバレン首相は辞任してしまう。ドイツとの全面的な戦争に対し、当時対独強硬路線を提唱していたチャーチルが他党や世論の後押しを受け、首相の座に着く。

チャーチル首相ホワイトホールに集まる約5万人の聴衆に向けて、勝利のVサインを示したチャーチル首相

つかの間の喜びを国民と分かち合う

VEデー当日、チャーチルは15時からBBCラジオ放送と、保健省(The Ministry of Health)の建物があったホワイトホールに集まる群衆に向かって2回スピーチを行っている。ラジオ放送では、冒頭でナチス・ドイツ軍の無条件降伏の事実を伝え、この勝利が本戦争における一時的な喜びであり、日本がまだ降伏しておらず、英国はまだまだ戦い続ける、という強い意志を持って結んでいる。一方、大勢の聴衆を前にしたスピーチでは、国民への熱い労いの言葉を中心に、英国全体で戦っていることを強調。国民を鼓舞する劇的な言葉を多用し、ドラマティックな印象を残した。

VEデー当日のスピーチ(抜粋)

God bless you all. This is your victory! It is the victory of the cause of freedom in every land. In all our long history we have never seen a greater day than this. Everyone, man or woman, has done their best. Everyone has tried. Neither the long years, nor the dangers, nor the fierce attacks of the enemy, have in any way weakened the independent resolve of the British nation. God bless you all ...and later ...

My dear friends, this is your hour. This is not victory of a party or of any class. It's a victory of the great British nation as a whole. We were the first, in this ancient island, to draw the sword against tyranny.
— Whitehall, Londonにて

(日本語訳)神のご加護があらんことを。これはあなた方の勝利である! この勝利は、英国全土における自由の根源となる勝利である。われわれの長い歴史のなかで、この日に勝る最高の日を目にしたことは未だかつてない。男子、女子、一人ひとりが最善を尽くし、挑んできた。長期間にわたる危険も、敵の激しい攻撃も、英国国家の独立の決意を弱めることなど決してできない。神の恵みを、これからも……。

親愛なる諸君、この時間はあなたたちのものだ。特定の党、階級だけの勝利ではない。大英帝国の全てにおける勝利なのだ。古代から続くこの島で初めて、独裁政治に対して剣を抜いたのだ。

「ナチス」という言葉を避けた理由

演説の名手、チャーチルは初めから雄弁だったわけではない。1904年、当時保守党の下院議員であったチャーチルは、保護貿易問題に対する立場の違いから党内で浮いた存在だったが、その緊張も手伝い、同年4月22日にあった労働組合権について流暢な演説のさなか、言葉に詰まってしまった苦い経験がある。以降、暗記ではなく原稿を前もって作成するようになった。また、チャーチルは吃音にも悩まされており、「S」の発音をなるべく回避するよう、ナチスをあえて「Narzees」(ナジィーズ)と呼んだという。

勝利のVサインの秘密

第二次世界大戦中に、勝利のサインとして「V」の文字が頻繁に使われている。このVサインはもともと1941年、BBCのラジオ・ベルギーの局長であったベルギーのヴィクトル・ド・ラブレー元法務大臣がフランス語で勝利を意味する「victorie」、オランダ語で勝利や自由を意味する「vrijheid」でVサインを広めようと発言したのがきっかけ。この発言以降、ベルギー、オランダ、フランス北部でこれらのサインが街中に現れたことを受けて、BBCは「V for Victory」と題したキャンペーンを始めた。チャーチルもこのハンド・サインをメディアへ向けて積極的に使用していく。あるときは葉巻を指に挟みながら、手の甲を相手に向けたいわゆる「裏ピース」を多用していたが、これが特定の階級にとって侮辱を意味することだと知らなかったチャーチルは、指摘を受けて以降、手のひらを外側へ向けるようになったと言われている。

チャーチル首相Vサインはチャーチル首相のイメージの一つ

チャーチル(左)指令を待っている英国空軍のパイロット。搭乗した航空機には非公式にVサインが塗られている (右)米国のプロパガンダ・ポスター。「. . . —」はモールス符号でVを表す

あの日…
英国民は

喜びと安堵の気持ち

戦場の第一線にいるわけではないものの、数年にわたる配給制度や停電、爆撃など、さまざまな形で抑圧を受けていた市民たちは、8日になる前から早々に祝い始めた。カラフルなユニオン・ジャックの旗がロンドンをはじめ英国中の町や村にはためき、パブは自由を喜ぶ人であふれかえったという。

祝日となった8日、チャーチル首相は当時配給制度を担当していた食品省(The Ministry of Food)に、ロンドンで十分にビールの供給があるかどうか確認をとり、当時の商務庁(The Board of Trade)は、人々が配給切符なしで赤、白、青の旗布を購入できるよう制度を調えた。また、VEデー・マグカップなど、急ピッチで製作された記念品が出回ったほか、簡易ながら通りにテーブルを出して祝うストリート・パーティーを楽しんだ市民も多く、1942年から45年3月まで製造が禁止されていた入手経路不明のアイスクリームなど、子どもたちが待ち望んでいた食べ物も並んだ。スプーンを持参していなかったため、食べたい欲求を抑えて泣きながら家まで持ち帰った子どももいたようで、微笑ましくも心が痛むエピソードも数多く残されている。

複雑な思いを抱える人々も多かった

戦争で家族や恋人、友人を失った国民にとっては、VEデーは心の底から喜べるものではなかった。諸外国の戦地に取り残されている身内の安否を心配するものも多く、歓喜の声に耐えられず、家から一歩も出られなかった人々もいた。勝利のムードに酔いしれた人々の脳裏にすら、勝利とは配給制度など生活面における困窮を消し去ることではない、という暗黙の思いがあった。

喜ぶ人々(左)左からスターリン、チャーチル、ルーズベルトの顔と
「United for Victory」と描かれた記念マグカップ 
(右)喜びにあふれ、ローリーに乗り込む大量の人々

あの日…
BBCは

戦時中はテレビ放送が休止され、報道はラジオ放送に絞られた。1939年9月より政府の影響下にあったBBCにとって、VEデーの当日の様子はもちろん、国外に派遣された戦争特派員を通じて現地の声をも拾って大々的に報道するというのはBBCの大きな挑戦でもあった。

1945年5月8日の放送スケジュールは、朝6時30分から翌日まで分単位、時に秒単位で細かく決められた。軍人による長々とした政治演説はあえて取り上げず、バーミンガムやリヴァプール、ニューキャッスルなど国内各地、また戦争特派員による国外から中継を行った。前述の通り、全ての国民が戦勝を喜べる状況ではないという事実を考慮したため、人々の悲しみにくれる様子、また敗戦国となったドイツの落ち込んだムードなど、事実をありのまま伝えることに尽力し、戦争が始まって約5年8カ月にわたる人々の思いと経験を大勢の人と共有できる報道を第一に考えた。

もちろんこれらのプログラムは、VEデー直前に驚くべき早さで準備されたもの。また政府側の放送内容の決定などを、限られた時間のなかで組み立てた上、VEデー以降も10日間にもおよぶ戦勝記念の特別番組の編成も進められた。

BBC戦時中、ノルマンディーからの放送を試みるBBCのスタッフ(1944年)

あの日…
英国王室は

王室メンバーも国民と共に勝利を祝うため、バッキンガム宮殿のバルコニーから歓声をあげる国民の前に姿を現した。同宮殿から東へ延びるザ・マル、トラファルガー広場まで群衆で埋め尽くされ、ジョージ6世とエリザベス王妃、エリザベス王女、マーガレット王女が宮殿のバルコニーから人々に手を振った。ジョージ6世とエリザベス王妃は、合計8回も群衆の前に現れ、途中からチャーチル首相も王室メンバーと共にバルコニーに登場した。その夜、当時19歳のエリザベス王女と妹のマーガレット王女は宮殿を抜け出し、歓喜に湧く国民の中に混じり、喜びを密かに分かちあっていたという。エリザベス女王は後にこの夜の出来事を振り返り、「国民の皆さんと一緒になって、『We want the King(王様が欲しい)!』と一緒に叫びました。あの夜は人生の中で最も思い出深い一夜の一つです」と語っている。

バッキンガム宮殿のバルコニーバッキンガム宮殿のバルコニーに現れた、左からエリザベス王女、
エリザベス王妃、チャーチル首相、ジョージ6世、マーガレット王女

 

第二次世界大戦、使われなかったプロパガンダ・ポスター - VE DAY 80周年記念

2025年5月8日は「VE DAY」80周年記念
Keep Calm and Carry On 第二次世界大戦、使われなかったプロパガンダ・ポスター

「Keep Calm and Carry On」と印刷された真っ赤なポスターやマグカップ、ティー・タオルなどをロンドンのお土産物屋の店先で見かけたことがある方は多いだろう。「落ち着いて、日常生活を続けよう」というこのスローガンは、新型コロナウイルスの時代を生きる今の私たちにこそしっくりあてはまるようだが、元は英国政府が第二次世界大戦開戦を目前に制作した、国民向けのプロパガンダ・ポスターから取られている。ここではポスターがたどった数奇な運命を紹介する。(文: 英国ニュースダイジェスト編集部)

VE DAYシンプルで強い印象を与える、今ではおなじみのデザイン

ドイツ軍の本土上陸に備えて

1939年春、もはやドイツとの戦争は不可避と考えた英政府は、情報省(Ministry of Information)に国民の士気を維持するプロパガンダ・ポスターの制作を命じた。当時は、開戦となればドイツ軍が数時間以内に英国内の都市を爆撃すると考えられていたため、政府は国民が空襲の恐怖で戦意を喪失することを危惧したのだった。情報省は、「Keep Calm and Carry On」(落ち着いて、日常生活を続けよ)「Freedom Is In Peril. Defend It With All Your Might」(自由は危機に瀕している。全力で防衛せよ)「Your Courage, Your Cheerfulness, Your Resolution Will Bring Us Victory」(あなたの勇気、元気、決意が勝利をもたらす)という3部作を制作。混乱した町中にあってもはっきりとメッセージが識別できなくてはいけないため、スローガン、フォント、配色など、どれもシンプルで強い印象を与えるようデザインされ、上部にはこれが国王と国家からのメッセージであることを示す王冠のイラストが配された。

何千もの人々がトラファルガー広場に集まったKeep Calm and Carry Onの他、同時期に作られたシリーズの2枚

上から目線があだとなり廃棄処分に

ポスターの印刷が開始されたのは1939年8月23日。9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、同3日、英国がドイツに宣戦布告するなか、まず「Freedom Is In Peril. Defend It With All Your Might」と「Your Courage, Your Cheerfulness, Your Resolution Will Bring Us Victory」の2つのポスターが街頭に貼り出された。ところが、当初すぐに大空襲が始まるという予想ははずれ、1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻まで、英独は戦争状態にあったにもかかわらず陸上戦が全く行われない状態が続いた。国民やメディアはこれを「まやかしの戦争」(Phoney War)と呼びはじめ、それに伴い大きな政府予算を投じたポスターに対しても、スローガンが「上から目線」であるという批判が起きた。

ロンドンの帝国戦争博物館のアート・キュレーター、クレア・ブレナード氏によると、当時巻き起こった批判は、「ポスターのスローガンは人に考えを促し、自ら行動に移すように仕向けるべきで、命令されるようなものであってはならない」というものだった。また、「防衛せよ」という受身の姿勢や、勇気や元気といった抽象的な言葉が並ぶのは、第一次世界大戦時の政治家がよく演説に用いた手法で、当時の人々にはそれが控えめで古臭いと感じられたのではないかと語る。こうして先の2枚の評判が甚だしく悪かったことから、3つのポスターの中で1番多く印刷され、出番待ちをしていた250万枚あまりの「Keep Calm and Carry On」は日の目を浴びることすらなく、1940年4月に廃棄され再生紙の原料となった。

Grow Your Own FoodGrow Your Own Food
自分の食糧は自分で育てようという、非常に直接的なメッセージ

ほんの偶然から21世紀によみがえる

イングランドの最北、スコットランドとの境にあるノーサンバーランド、アニック(Ainwick)の町。そこにヴィクトリア時代の駅舎をそのまま利用した古本屋がある。バーター・ブックス(Barter Books)と呼ばれるその店は、1991年に英国人と米国人カップルによって始められた。第二次世界大戦から半世紀以上を経て、21世紀に「Keep Calm and Carry On」がよみがえったのは、このバーター・ブックスのおかげといえる。

バーター・ブックス Barter Booksヴィクトリア時代の駅舎をそのまま利用した古本屋、バーター・ブックス

2001年のあるとき、古書の入った大箱をオークションで購入した店主のマンリー氏は、多くの本の底にホコリをかぶった古ぼけた1枚のポスターを発見する。それが、かつて全て破棄されたはずの「Keep Calm and Carry On」のオリジナル・ポスターだっだ。同氏はいたく感激し、額に入れて店内に飾ることにした。するとそのポスターに多くの客たちが反応を示すことに気が付き、試しにポスターをカラー・コピーして販売してみると……。

これが現在の「Keep Calm and Carry On」ブームの始まりである。1939年のデザインはすでに著作権の保護期間も終了しており、誰もが自由に手を加えることができるとあって、これをもじったあらゆるデザインが登場。かつて「上から目線」と言われたそのスローガンも、今では、何事にも動じず淡々とやり過ごす「英国人らしさ」の象徴にすらなっているといえるだろう。

 

英国人貴族にまつわる3つの疑問 - 英国の貴族制度とは

英国の貴族制度とは 英国人貴族にまつわる3つの疑問

ロンドンの一等地は、なぜ一部の英国人貴族のみによって所有されているのか。またそもそも貴族である、とはどういうことなのか。公爵、伯爵の違いは何かなど、ここでは英国の貴族制度について解説する。(文:長野 雅俊)

1 ロンドンの一等地はなぜ貴族が所有しているのか?

ウエストミンスター公爵、カドガン伯爵、ウォールデン男爵、ポートマン子爵といったロンドンの一等地における一連の大手地主たち。そろいもそろって古くから代々続く貴族ばかりが名を連ねているのは一体なぜか。

成功した理由として、「定期借地権」という仕組みを最大限活用してきたことが挙げられる。この制度の下では、地主がまず借用期間を定めて一定の金額と引き換えに建設業者、または宅地造成業者に所有する土地を貸し出すことになる。次に土地を借り入れたこれら業者は、自費負担または資金の調達を行いながらその土地の開発を担い、やがて住居やオフィスとして貸し出す。そして賃貸期間が終われば、また開発した物件などをそのまま地主へと返す取り決めになっているのだ。

通りの名(写真左)メイフェア地区に立つ、初代ウエストミンスター公爵の祖父ロバート・グロブナーの銅像
(同右)ポートマン家やカドガン家の名前はロンドン各地の通りの名に刻まれている

この制度下では、地主たちは常に一定の賃貸料を得られることに加えて、自分たちは金銭的負担なくして敷地を開発し、その度に土地は価値を上げていくことになる。最近では借用人や住居人が物件を維持する場合などの権限が拡大されてきたとはいえ、地主たちはいまだに既得権益を活用して多大な利益を得ているというわけだ。

さらに相続法の問題もある。英国では従来、地主が死亡した場合に長子相続権が認められてきた。つまり残された土地はまとめて長男がすべて受け取るため、広大な土地が分散されていくという事態が起きることを防いだ。

ちなみに、ロンドン中心部を通るリージェント・ストリートや巨大な公園ハイド・パークといったものは王家の所有物。つまり、旅行ガイドブックに掲載されているようなロンドンの観光名所は、最終的にはほぼ全て有産階級によって所有されている、というのが実情のようだ。

ハイドパークリージェント・ストリートやハイド・パークは王家が管轄するThe Crown Estateの所有となっている

2英国貴族ってどんな人たち?

英国貴族とは、英国における一定の爵位を保持している人物またはその家族のこと。爵位とは、主に18~19世紀初頭にかけて、当時の各地の支配者がそれぞれの地域の有力者や功労者に授与した栄誉称号のことを指す。英国にはイングランド、スコットランド、グレート・ブリテン、アイルランド、イギリス連合王国といった異なる場所または時代に創設された爵位が存在しており、イングランドを筆頭に先に述べた順から序列が出来ている。

貴族と見なされる世襲の爵位の数は、通常は下の表に挙げた5種類。Baron(男爵)の下に「サー」の称号を持つナイト爵があるが、これは一代限りとなっている。さらにはチャールズ皇太子などが持つ王族公爵、また貴族院議員の多数を占める一代限りの男爵などがいる。

最高位となるイングランドの公爵だけでも10名存在しており、全ての土地における全爵位の数は数百に及ぶとされる。ただ日本のように家系に与えられるのではなく、基本的に土地の所有者に与えられるため、いくつも異なる土地の爵位を掛け持ちする場合もしばしばだという。

英国にあるその他の由緒正しき名家

スペンサー家 The Spencer Family

故ダイアナ元妃は、現在の第9代スペンサー伯爵の姉。イングランド中東部ノーフォークに広大な土地を持っており、現在はマナー・ハウスの経営などに携っている。

スタンリー家 The Stanley Family

かつては王位継承権も保持していた名家で、ダービー伯爵の爵位を持つ。第12代ダービー伯爵が経営していたエプソン競馬場で行われる競馬レース「ダービー」の名を冠していることでも有名。

パーシー家 The Percy Family

イングランド最北部の地ノーザンバーランドにおける公爵の爵位を受け継ぐ貴族。イングランドで2番目に大きな規模の住居であるアニック・キャッスルを保有している。

英国の貴族制度

英語 日本語 通常の呼び名
Duke(Dutchess) 公爵 Duke+地名
Marquess(Marchioness) 侯爵 Lord+地名
Earl(Countess) 伯爵 Lord+地名
Viscount(Viscountess) 子爵 Lord+名字
Baron(Baroness) 男爵 Lord+名字

*カッコ内は女性の爵位。スコットランドの制度は若干異なる
*夫人など女性に対する呼び名としては、Dukeの代わりにDuchess、それ以外の世襲爵位に対してはLordの代わりにLadyを用いる

爵位を授与された著名人

カズオ・イシグロノーベル賞作家のカズオ・イシグロも2018年にナイト爵を受けた

3爵位販売ビジネスとは?

インターネット上などで「英国貴族の爵位販売致します」と書いた広告を見かけたことはないだろうか。「爵位ご購入のお申込みは、先着順となっております。買うなら今!」「爵位を持てば、あなたの人生は一変します」「今年のクリスマスには、ちょっと変わったプレゼント―爵位をお届け致します」など、いかにもいかがわしい文言が並ぶが、果たしてこの爵位販売ビジネスとはどういった仕組みになっているのだろうか。

その多くが、事務的な手続きを経て名前をそのまま変更してしまう方法を取っている。英国では条件さえ整えば自由に改名することが認められており、生まれ持った名前に「Lord」と書き加えたり、自分の出生地と特定の爵位を組み合わせた名前を代行申請することを商売としているわけだ。これに加えて土地を購入させて、その登記手続きの際に貴族であることを連想させる名前を登録するという、かなり手の込んだものもある。いずれにしても、貴族の「ような」名前に変更できるだけで、本当の爵位を得ることができるわけではない。ただ意外にも特に本国に住む米国人に被害者が多いらしく、米国大使館のウェブサイトに警告が出されたほど。米国人の、英国への隠れた憧れを表しているのかもしれない。

 

ロンドンの一等地を握る英国貴族4つの名家

チェルシーもメイフェアも、ぜーんぶ彼らの所有地! ロンドンの一等地を握る
英国貴族4つの名家

メイフェア、チェルシー、マリルボーン、オックスフォード・ストリート……。全て名士や有名人たちが住む豪邸や、一流ホテルまたは高級ブランド店、さらには大型デパートなどが並ぶロンドンの一等地だ。街中を歩けば思わずため息が出るほどの建築物が並ぶが、実はこれらの土地の大部分は、たった4つの貴族階級に属する名家によって所有されているということを皆様はご存知だろうか。外国人や外国資本が大量に流入し、国際色の豊かさが強調されるロンドンにあって、その一番輝かしい部分を牛耳っているのは、古くから代々伝わる由緒正しい一握りの貴族たち。在英邦人がなかなか気付かない、階級社会の影響がいまだ色濃く残っていると言われる英国の一面に迫る。(文:長野 雅俊)

ロンドンの地主

ニュースダイジェストの代行執筆・取材

Mayfair & Belgravia 20代の若き公爵が見守る
メイフェア、ベルグラビア地区

高級紳士服の仕立屋が並んだサヴィル・ロウ、アンティーク・ショップを内包するロイヤル・アーケード、さらには王立芸術院「ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ」などが存在するメイフェア、ベルグラビア地区。ロンドン屈指の高級住宅街と呼ばれるこの区域の開発は、340年以上も前からグロブナー家と呼ばれる富裕貴族が担っている。

超高級ホテルのクラリッジズ超高級ホテルのクラリッジズ

この土地の代々の所有者

グロブナー家(1677年~)

ヒュー・ルーパス・グロブナー

1677年、当時グロブナー家の長男だったサー・トマス・グロブナーが、ロンドンに数百エーカーの土地を所有していた荘園領主の娘メアリ・ディヴィスと結婚し、多くの資産を得る。この資産を利用して18世紀前半にグロブナー・スクエアを中心とした街づくりが開始され、現在のメイフェア地区が出来上がった。またグロブナー家は19世紀、ヒュー・ルーパス・グロブナーのときにウエストミンスター公爵の爵位を授与され、代々同家の長男に受け継がれている。(右写真:19世紀後半を生きた初代 ウエストミンスター公爵、ヒュー・ルーパス・グロブナー)

現在の所有者

ヒュー・リチャード・ルイ・グロブナー
Hugh Richard Louis Grosvenor

ウエストミンスター公爵

爵位: ウエストミンスター公爵
7th Duke of Westminster
経営する会社: Grosvenor Group www.grosvenor.com
資産: 推定101億ポンド(約1兆3500億円)
所有している土地の面積: メイフェア地区に100エーカー(約12万坪)、ベルグラビア地区に200エーカー(約24万坪)ほか

米国、オーストラリア、日本など世界各国でビジネスを展開していた第6代公爵の死去に伴い、2016年に総資産を相続し若くして世界有数の大富豪になった第7代ウェストミンスター公爵ヒュー・グロブナー氏。30歳未満の世界長者番付でトップの地位は今も維持している。その若さから、会社は家族経営のスタイルに変更。いまだ独身のため、各国の上流階級の令嬢から狙われている。

メイフェア(写真左)高級店がひしめくオールド・ボンド・ストリートのアーケード
(同右)紳士服の仕立屋が密集したサヴィル・ロウ

ニュースダイジェストの代行執筆・取材

Chelsea & Knightsbridge ハンズ・スローン卿の遺産を受け継ぐ
チェルシー、ナイツブリッジ地区

センスの良いセレクト・ショップが集まる高級住宅地チェルシー。そこから北へ数十分ほど歩くとシャネル、アルマーニなどの一流ブランド、さらには高級デパートのハロッズが立ち並ぶナイツブリッジに到着する。これらの街では、大英博物館の創設に貢献したハンズ・スローン卿の遺産を受け継いだカドガン家が権勢を振るっている。

高級デパートの代名詞、ハロッズ高級デパートの代名詞、ハロッズ

この土地の代々の所有者

カドガン家(1753年~)

ウィリアム・カドガン伯爵

大英博物館の創設に大きく貢献した収集家で自然科学者のハンズ・スローン卿が1753年に死去した際に、それまでスローン家が所有していたチェルシー区域の広大な土地を娘2人が相続。そのうちの1人であるエリザベスがカドガン家に嫁ぎ、エリザベスの死後にカドガン家へと受け継がれた。もう1人の娘であったサラの相続分も、やがてカドガン家が吸収。19世紀前半にはチェルシー地区の人口が急激な伸びを見せて、現在に至っている。
(右写真:17~18世紀を生きたカドガン家の名士、ウィリアム・カドガン伯爵)

現在の所有者

チャールズ・カドガン
Charles Cadogan

爵位: カドガン伯爵 8th Earl Cadogan
経営する会社: Cadogan Estate Ltd www.cadogan.co.uk
資産: 推定68億ポンド(約9122億円)
所有している土地の面積: チェルシー地区に93エーカー(約10万坪)ほか

グッチ、シャネルといった高級ブランドからトム・フォードなどの比較的新しいブランドまで、一流のブランド店を呼び込んでチェルシー、ナイツブリッジ地区を高級住宅街へと変貌させたカドガン・グループ。一方で携帯電話の端末販売店や、ファストフードのチェーン店などの進出には厳しく制限をかけてほかの繁華街とは一線を画した街づくりを進めている。またカドガンの名前を冠したホテル、ホールの運営も行っている。

カドガン・ホールカドガン家が保有するカドガン・ホテル(写真左)とカドガン・ホール(同右)

Marylebone & Harley Street 女性たちが受け継いできた街
マリルボーン、ハーレー・ストリート周辺

世界的知名度を誇るマドンナやポール・マッカートニーといった有名人が邸宅を持つことで知られるマリルボーン地区。そして高額だが腕利きのプライベート・ドクターが集まるために、この地に診療所を構えることが医師として一流の証と見なされるまでになったハーレー・ストリート。貴族同士の結婚を通じて、さまざまな名家が所有してきたのがこれらの土地だ。

ウィグモア・ホールコンサート・ホールとして有名 なウィグモア・ホールが立つウィグモア・ストリート周辺の土地も、ハワード・ドゥ・ウォールデン家の所有となっている

この土地の代々の所有者

ハワード・ドゥ・ウォールデン家(1879年~)

トーマス・ハワード

18世紀初頭まで莫大な資産を持つホールズ家が所有していた地域だが、その後はハーレー家、そしてポートランド家へと、名家の娘や姉妹への遺産相続を通じて所有者は移り変わっていった。1879年に5代目ポートランド公爵が死去した際にも、妹が6代目ハワード・ドゥ・ウォールデン男爵の未亡人になっていたことから、土地は同家の管轄下に。またこの頃から、ハーレー家の名前が残るハーレー・ストリートに病院施設が集中するようになった。(右写真:トーマス・ハワード、初代 ハワード・ドゥ・ウォール デン男爵(1561-1621))

現在の所有者

メアリー・ヘーゼル・ツェルニーン
Mary Hazel Czernin

爵位: ハワード・ドゥ・ウォールデン女男爵 10th Baroness Howard de Walden
経営する会社: The Howard de Walden Estate www.marylebonevillage.com
資産: 推定46億ポンド(約6170億円)
所有している土地の面積: マリルボーン・ハイ・ストリート周辺に92エーカー(約10万坪)ほか

9代目ハワード・ドゥ・ウォールデン男爵の死後、激しい遺産争いの末に娘メアリー・ヘーゼル・ツェルニーン氏が2004年に遺産を相続した。本人がカトリック教信者のため、ハーレー・ストリートにおいては中絶を施行する病院の設立を阻んだり、さらには整形医療などを行う医療施設に対して厳しく制限をかけていると伝えられている。またマリルボーン・ハイ・ストリートには現在ファッショナブルな店が集まっている。

マリルボーン・ハイ・ストリートおしゃれな店舗が並びつつ、ビレッジ感も残すマリルボーン・ハイ・ストリート

ハーレー・ストリート一流の医師たちが集まるハーレー・ストリート

Oxford Street 欧州最大のショッピング街
オックスフォード・ストリート周辺

セルフリッジ、ジョン・ルイス、ハウス・オブ・フレイザーといった巨大デパートが乱立するオックスフォード・ストリート。休日には買い物客でごったがえすため、まともに歩くのさえ困難になるほど、ロンドンで最もにぎわいのあるショッピング街だ。またクリスマス期間中には華麗なイルミネーションを照らすなど、常に注目を集めるショッピングのメッカとなっている。

オックスフォード・ストリートロンドンで一番のにぎわいを見せるオックスフォード・ストリート

この土地の代々の所有者

ポートマン家(1532年~)

Edward Berkeley Portman

英国国教会の創設者として有名なヘンリー8世王制下の裁判所首席裁判官だったサー・ウィリアム・ポートマンが、1554年に270エーカー(約32万坪)にも及ぶ広大な敷地を購入。当時は主に農地として活用されていたが、18世紀中ごろから開発が進み、中流階級の邸宅や、労働者のためのアパートなどの建設が始まった。1900年代後半からはオックスフォード・ストリートやベーカー・ストリート界隈の開発に力を入れるようになった。
(右写真:初代ポートマン子爵となったエドワード・バークリー・ポートマン)

現在の所有者

クリストファー・エドワード・バークリー・ポートマン
Christopher Edward Berkeley Portman

爵位: ポートマン子爵 10th Viscount Portman
経営する会社: Portman Estate www.portmanestate.co.uk
資産: 推定20億ポンド(約2846億円)
所有している土地の面積: オックスフォード・ストリート周辺に110エーカー(約13万2000坪)ほか

オックスフォード・サーカス区域を中心に多数の不動産物件を扱うポートマン・エステイトは、現オーナー、第10代ポートマン子爵が1999年に事業を受け継いでから事業形態を刷新。それまでの借し出していた物件などを一気に買い戻した後に、8000万ポンド(約107億円)に及ぶ費用を注ぎ込んだ改築工事を実施するなど、大規模な再開発を行った。このため、同地区の家賃は毎年上昇を見せているという。

セルフリッジズオックスフォード・ストリートにある大型デパート、セルフリッジズ

 

意外な手洗いの話 - 新型コロナウイルス感染対策の基本、手洗いの歴史

新型コロナウイルス感染対策の基本 意外な手洗いの話

日常ですっかり習慣化されている手洗いだが、ウイルスから身体を守るのに有効な手段だと認識されたのは案外最近のことらしい。新型コロナウイルス感染防止に一役買っている手洗いにまつわる小ネタを集めてみた。

手洗いの話

衛生的な手洗いの歴史は比較的新しい

手を洗う行為自体は、古代から複数の宗教の中に存在してきた。ユダヤ教では食事の前や帰宅後に、イスラム教では礼拝の前に手を洗う。神社を参拝する前に手水舎(てみずや・ちょうずや)で手を洗う作法と同じで、そのどれもが身を清めるための儀式にとどまり、衛生的手洗いとはかけ離れたものだった。「手に付着した何かが感染症を引き起こす」という仮説が生まれたのは実は1840年代に入ってから。残念ながら当時はまだ細菌学が確立される前であり、提唱者であるハンガリー人医師、センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ(1818~1865年)の先進的な考え方はなかなか理解されなかった。

センメルヴェイス・イグナーツセンメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ博士。最後は精神病院で亡くなった

センメルヴェイス・イグナーツの早過ぎた発見

1846年、オーストリア帝国のウィーン総合病院・第一産科で働いていたセンメルヴェイスは、産後に発熱が続く産褥熱による産婦の死亡率の高さが、同院の第二産科に比べ著しく高い原因を知りたかった。恐ろしいことに、この時代はミアズマと呼ばれる気体が病気を蔓延させると信じられていたため、死体解剖を行った医師が手を洗うことなくお産に立ち会うことはごく当たり前に行われていた。

ある日センメルヴェイスの同僚が産褥熱で死亡した患者の遺体の検体解剖を行った際に指を傷つけてしまい、その後産婦と似たような症状を発し死亡してしまう。これを見て「死体の粒子が産婦を汚染しているのでないか」と仮説を立てたセンメルヴェイスは、解剖台の臭い消しに塩素消毒が使われていることにヒントを得て、次亜塩素酸カルシウムで手の消毒を実行。結果死亡率が大幅に下がったものの、中・上流階級出身の医師集団にとって「自分の手が汚い=貧困層のようだ」という事実は受け入れがたく、センメルヴェイスは医学界から追放されてしまう。

奇しくもセンメルヴェイスが亡くなる19世紀半ばごろは、ルイ・パスツール、ロベルト・コッホ、英外科医のジョセフ・リフターなど欧州各地で学者・医師が見えない敵に対し独自のアプローチを行っていた時期でもあった。医療業界にはびこる常識が科学的根拠によって打ち砕かれたのは1890年代に入ってからで、手洗いは医療現場から一般市民へと広がっていく。

産褥熱の死亡率の推移センメルヴェイスの著作をもとに作成した、第一産科における産褥熱の死亡率の推移。センメルヴェイスが塩素消毒法を導入した1847年5月半ば(赤線)から明らかに低下している

新型コロナウイルスには手洗いが有効

先人が生きていた時代と異なり、現在はマスクや手指用のアルコール消毒など、対策グッズが世に多く出回っているものの、新型コロナウイルスに対する感染予防には手洗いの方が有効のようだ。

咳やくしゃみをするときに手で口を抑えたり、電車やバスなどの手すりを掴んだりすることで、手は自然と病原体の温床へと化していく。「ガーディアン」紙(電子版)によると、人間は2~5分に1回、手で顔に触れているそうで、汚い手で無意識に目、鼻孔、口などに触れてしまうとさらに感染リスクが高まる。大切なのはとにかく手からウイルスを洗い流すこと。新型コロナウイルスの表面は脂質二重層になっており、せっけんはその脂肪層を融解させることができるので手洗いにかなりの効果が期待できるという。アルコール消毒も有効だが、こちらはウイルスを「死滅」させるものであり、手洗いとはその役割が異なる。

自分だけの手洗いソングが作れるウェブサイトが登場

現在政府は20秒間の手洗いを推奨している。これは「ハッピー・バースデー」の曲を2回歌う時間と同じくらいなのだが、もし自分の好きな曲でできたらより積極的に手を洗えるのではないだろうか。新型コロナが流行し出してすぐ、英中部ノーザンプトン在住のウィリアム・ギブソンくんは手洗いソングの歌詞カードが簡単に作れるウェブサイト「ウォッシュ・ユア・リリックス」を開発。ウェブサイトにて曲名とアーティスト名を入力するだけでNHS(国民医療制度)が推奨する13ステップの手洗い図解シートに自動的に歌詞が振り分けられ、オリジナルの歌詞カードが作れるという楽しいシステムだ。お子さんや身近に高齢者の方がいたら、ぜひ家族のために作ってみてはいかがだろうか。

Wash Your Lyrics歌詞カード。1番人気のある曲は英バンド、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」だそう
https://washyourlyrics.com

 

英国で公開!「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-」石川由依さんインタビュー

英国で
公開決定

劇場版アニメ
ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝
-永遠と自動手記人形-
声優 石川 由依さん インタビュー

数多くのヒット作を世に送り出してきたアニメ制作会社「京都アニメーション」が手掛ける「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、現在Netflixで全世界に配信されている話題のアニメ・シリーズだ。仲間との会話を通し成長していく主人公と、心揺さぶるストーリー展開は「切なくも美しい」と形容され、英国でも若い女性を中心に人気を集めている。そんな本作の劇場版アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-」がついに英国でも公開が決定。これに先駆け、主役のヴァイオレット・エヴァーガーデン役を務める声優の石川由依さんに、本作の魅力や作品に対する思いについて伺ってみた。
(取材・文: ニュースダイジェスト編集部)

石川 由依 Yui Ishikawa 石川 由依
Yui Ishikawa
1989年生まれ、兵庫県出身。6歳で劇団ひまわりに入団し、以来舞台を中心に活躍している。声優業ではテレビ・アニメ「進撃の巨人」のミカサ・アッカーマン役や「アイカツ!」の新条ひなき役、映画「聲の形」佐原みよこ役など、クールなキャラから明るいキャラまでマルチにこなす。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン石川さん演じるヴァイオレット・エヴァーガーデン(左)と、
「外伝」編の主役である、良家の子女のイザベラ・ヨーク(右)

英国ではNETFLIXでテレビ・アニメ・シリーズが公開されており、すでに大勢のファンがいます。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-」が英国で劇場公開されることについて、率直なお気持ちをお聞かせください。

私は英国に行ったことがないので、現地の方々がどのくらいアニメに親しんでいるのかよく分からないのですが、こうして外伝が上映されるということが、きっと「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」がたくさんの方に愛されている証拠だと思っているので、すごくうれしいです!ぜひ、より多くの方々に見ていただきたいなと思っています。

アニメ・シリーズに続く「外伝」では、ヴァイオレットの心の成長をどのように声に反映されたのでしょうか。役を演じる上で意識したことを教えてください。

外伝の中で3年ほどの年月が流れるのですが、それと同じようにヴァイオレットも成長し、年齢を重ねています。テレビ・アニメのときに比べても、ちょっとだけ笑顔が増えていたり、温かみも増しています。また、自分が紡ぎ出す言葉も、いろいろ考えた上で言葉にしているという小さな変化を表現できたらいいなと思って演じていました。映像になっていない部分でも、ヴァイオレットは生き続けて成長してるんだな、ということを感じていただけたらうれしいです。

大変繊細な表情、目の動きなどが印象的でした。そのような動きに合わせて声を吹き込む、というのはやはり難しいのでしょうか。

いや、絵からいただくヒントというのが本当にたくさんありまして。京アニさんのアニメーションは本当に丁寧で分かりやすいので、難しいというよりもむしろ助けてもらった場面がたくさんありました。でも、こういうお話を京アニさんにすると、逆に私の声から新たなインスピレーションを受けて、絵を描き直します、と言っていただくこともあるんです。プラスの意味での相互作用と言いますか、何かお互いに良い影響を与えて、結果的に素晴らしい作品になっていたらいいなと思っています。

これまで数々の主人公を演じてこられた石川さんにとって、ヴァイレットとはどんな人物ですか。

これまで結構クールな役柄が多かったのですが、この「クール」にもさまざまな種類があるんですね。本当は感情があるけどそれを表に出しちゃいけないと言われて出さない、あるいは悲しい出来事があって感情がうまく出せなくなってしまった、などいろいろなんですけど、ヴァイオレットに関しては感情がもともと全くない、感情を知らない状態からのスタートだったので、私にとって挑戦しがいのある役柄でした。とにかく感情のないゼロの状態にもっていくのが難しい部分でしたね。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-

演じていて印象深かったシーンはありますか。

アニメ版の9話で、たくさんの人に出会って多くのものを受けとってきたヴァイオレットが「悲しい」という感情に初めて出合ってしまいくじけそうになる、という痛ましいシーンがあるのですが、これまで受け取ったこと全てが自分の力、大きな糧になってることに気付きます。前向きに「私も生きていこう」という意識に変わっていく、という流れがすごく好きですね。

最後にこれから見る英国の方々にメッセージをお願いいたします。

この作品はスタッフの皆さんと私が深い思いを詰め込んで大切に作った作品ですので、制作側のこだわりや気持ちが皆さまに届くといいなと思っています。全て瞬きしないで観てと言いたいくらい、まぁちょっとそれは無理なんですけれど(笑)、いろいろなもの感じて受け取って帰っていただけたらうれしいと思いますので、ぜひ楽しんでください!

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 あらすじ

ある「大切なもの」を守るために、自分の未来を引き換えに父親と契約を交わした大貴族・ヨーク家の子女、イザベラは、良家の子女だけが学ぶ女学校での生活に嫌気がさしていた。そんな将来を悲観するイザベラのもとに、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが教育係としてやってくる。

ヴァイオレット・エヴァーガーデンとは

幼少の頃から武器として訓練されてきた少女、ヴァイオレット・エヴァーガーデン(声: 石川由依さん)は、数年にわたる大陸戦争で共に戦ったギルベルト少佐に言われた「愛してる」という言葉の意味を知りたかった。戦後、第二の人生を歩き始めたヴァイオレットは、「自動手記人形」と呼ばれる代筆業を通し、人間の心を少しずつ学んでいく。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝
-永遠と自動手記人形-
Violet Evergarden: Eternity and the Auto Memory Doll

英国全土にて公開予定(先行してNetflixで4月2日から公開)
原作: 「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」
暁 佳奈(KAエスマ文庫/京都アニメーション)
監督: 藤田春香 
声の出演: 石川由依、寿美菜子、悠木碧、子安武人 ほか
Netflix: https://www.netflix.com/gb/title/80182123

 

ナイチンゲールの衛生学 - フローレンス・ナイチンゲール生誕200年

フローレンス・ナイチンゲール生誕200年 ナイチンゲールの衛生学

クリミア戦争で負傷兵たちを献身的に介護し、公衆衛生や看護教育の分野で大きな改革を起こしたフローレンス・ナイチンゲールが生まれて今年で200年。ここでは、ナイチンゲールによるさまざまな医療改革の中から衛生の分野に焦点を当て、ヴィクトリア時代の劣悪な衛生環境や公衆衛生の概念がナイチンゲールによっていかに向上したかをご紹介する。(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

1906年、ベッド上のナイチンゲール1906年、ベッド上のナイチンゲール(86歳)。
クリミアでプラリア熱という病にかかったナイチンゲールは、
38歳ごろからずっとベッドの上で寝ながら仕事をした

フローレンス・ナイチンゲールとは

フローレンス・ナイチンゲーフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日~1910年8月13日)は、ヴィクトリア時代の英国で看護婦としてばかりではなく優秀な教育学者としても活躍し、近代看護教育の母と呼ばれる。裕福な家庭に生まれながらクリミア戦争に看護師として従軍し、負傷兵たちを献身的かつ進歩的な方法で介護するほか、統計に基づく医療衛生改革でも大きな評価を受けた。戦時中に作られたナイチンゲール基金でロンドンの聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校を作り、英国ではそれをモデルに現在に近い看護師養成体制が整った。ナイチンゲールの誕生日は国際看護師の日とされている。

ヴィクトリア時代の衛生状況

ナイチンゲールの生きたヴィクトリア時代の英国は、産業革命で近代化する一方で生活環境が悪化。人々の階級格差も大きく広がり、弱者は街でも戦場でも劣悪な状況に甘んじ苦しんでいた。

都市はスラム化していた

19世紀の英国は産業革命により都市に急激に労働者が流入したものの、街にはそれを受け入れる環境もシステムも整っておらず、低賃金で働く労働者たちの生活水準は劣悪を極め、非人間的なレベルだった。しかも当時はそうした下層労働者や貧民層に対する支援は「国庫の無駄遣い」と政府から切り捨てられ、貧しいのは自身の努力が足りないのが原因と考えられていたため、事態はいっこうに改善されることはなかった。

ケンジントンのスラム街ロンドン西部ケンジントンのスラム街。借りられる家があればまだましで、
貧しい人々は数時間から滞在できるドス・ハウスと呼ばれる汚い宿で体を休めては働いた

そんな都市部を避けて中流階級の人々が郊外に引越して行く一方で、労働者たちはより狭い面積により多くの人間を収容できるように建てられた通風も採光もない粗末で狭い建物に、多人数で押し合うようにして暮らした。そのため、あらゆる感染症が広まったほか、下水道も発達していないことから道には汚水が流れ出し、ペストやコレラといった伝染病も蔓延。この時代の中流階級男性の平均寿命が45歳なのに対し、労働者階級のそれはその約半分だった。1840年の国勢調査によると、英北西部マンチェスターの労働者とその家族の平均寿命が17歳という驚くべき記録も残っているという。

19世紀にロンドンには4度のコレラ大流行が起こり、1853~54年には1万人以上もの犠牲者を出した。工場排水や下水がテムズ川に流れ込み井戸水が汚染されたのが原因だが、テムズ川は当時ひどい悪臭を放っていたため、腐敗物の不快な臭いを吸い込むことでコレラに感染すると考える人々もいた。

この時代、コレラは空気感染すると思われていたこの時代、コレラは空気感染すると思われていた

コベントガーデンのセブン・ダイアルズかつてロンドン中心部コベントガーデンのセブン・ダイアルズは悪名高いスラム街。
雨が降れば地下の家には容赦なく汚水が押し寄せた

クリミア戦争の死者の多くは実戦からではなかった

そんな時代に起きたクリミア戦争(1854~1856年)は、黒海に面するクリミア半島を舞台に、英国、フランス、サルディーニャ(イタリア)がオスマン帝国の連合軍として参加した対ロシア戦。その一進一退を繰り返す持久戦は、敵と戦う以外にも兵士たちに多くの負担と犠牲を強いるものだった。将校たちは比較的快適な生活を送っていたものの、一般の兵士は極寒の時期にも満足な供給物はなく、地面の上で眠るなど悲惨な日々だったという。また、英国軍はイスタンブールのセリミエや近郊のスクタリに基地を置き、陸軍の野戦病院も設立されていたが、膨大な数の負傷兵や病人に対処する能力を持っておらず、前線で傷ついた兵士たちは十分な手当もされず放置された。その結果、その多くが戦いそのものではなく、感染症や伝染病、飢餓で死亡するという状況だった。

スクタリの病室1856年、フローレンス・ナイチンゲールによって整備された後の、
快適な環境になったスクタリの病室。太陽光が差し込む

その様子は新聞社の特派員たちによって本国にも伝えられた。特に「タイムズ」紙の従軍記者ウィリアム・ハワード・ラッセルが、前線の負傷兵たちの極めて悲惨な状況を鮮明に描いた記事に、本国の市民たちはショックを受け、当時大きな反響を巻き起こした。ドイツの看護師養成施設で研修後、ロンドンの慈善施設で管理者としてすでに活動を始めていたフローレンス・ナイチンゲールも心を動かされた一人で、この新聞記事がきっかけで、自ら従軍看護師として現地に赴くことを決意した。

ロシア軍のセヴァストポリ要塞を攻める連合軍ロシア軍のセヴァストポリ要塞を攻める連合軍。セヴァストポリは小高い台地にあり、
土塁と塹壕で固められていたため、連合軍は苦戦し大量の犠牲者を出した

ナイチンゲールが取り組んだこととは

上流階級出身でロンドンのメイフェア地区に住む身ながら、親の反対を振り切り貧民施設などを訪れ、何とか社会のためになれないかと考えていたナイチンゲール。クリミア行きで隠された能力が開花した。

当時の「看護婦」のイメージを一新

1854年にナイチンゲールが24名の修道女と14名の病院看護経験者とともにイスタンブールのスクタリ野戦病院に乗り込んだとき、英軍は諸手を挙げて歓迎したわけではなかった。当時の英国で看護師は専門知識の必要がない職業と考えられており、人の嫌がる不潔な仕事につくしかなかった意地悪でがさつな年配の女性というのがそのころ定着していた看護師のイメージだったという。軍としてもそのような集団に来てもらう理由もなく、医務官が指示を出し、雑役兵が看護をするという、これまでの規律を崩そうとしなかった。

そこでナイチンゲールはどの部署の管轄でもなかったトイレ掃除に目をつけ、それを皮切りに病院の内部に入り込んでいく。負傷兵の食事の世話や不潔なシーツの洗濯など、医療行為以前の基本問題に取り組むことで、着任当時42%だった負傷兵の死亡率が、3カ月後には5%にまで低下した。ナイチンゲールはこうしてスクタリ病院のスタッフ総責任者に昇進。看護婦のイメージを根底から覆しただけではなく、重要なのはまず衛生であることを上層部に気づかせた。

ナイチンゲール写真左)クリミア戦争勃発直後、34歳のナイチンゲール
写真右)ナイチンゲールがスクタリの野戦病院に持って行った薬箱

病院の看護システム改善に一生を費やす

1856年の終戦とともに帰国したナイチンゲールは、戦地で成し遂げた偉業を認められ、国民的英雄として迎えられた。クリミア戦争の悲劇を繰り返したくないという思いから、ナイチンゲールはその後も統計学を駆使し、兵士の死因ごとに死者の数をひと目で分かるように工夫した「コウモリの翼」と呼ばれるグラフを作り報告書をまとめたほか、戦時中に始められた「ナイチンゲール基金」に集まっていた多くの寄付金を使って1860年に看護学校をロンドンの聖トーマス病院内に設立。また、「看護覚え書き」をはじめとした看護の仕事に関わる多くの執筆も行った。ナース・コール、病室に設置された水とお湯の出る蛇口、ナース・ステーションを中心とする現代の病院でも使われている病棟のシステムを開発したのもナイチンゲールで、90歳で死去するまでその一生を医療衛生学に費やし、公衆衛生の発展に尽力した。

ナイチンゲールの編み出した円グラフその形から「コウモリの翼」と呼ばれる、ナイチンゲールの編み出した円グラフ。
クリミア戦争における死者数を視覚で訴えるために作られた

ナイチンゲール誕生200周年記念エキシビション
Nightingale in 200 Objects, People & Places

ナイチンゲール誕生200周年記念エキシビション

1860年に建てられたナイチンゲール看護学校の跡地に作られたミュージアムでは、5月12日のナイチンゲールの誕生日を記念したエキシビションが開催中。あいにく現在は新型コロナウイルスの感染拡大で休館中だが、展示の様子をオンラインで公開中だ。ナイチンゲール自身や同時代の人たちの声を聞くことができるほか、クリミア戦争に持参された薬箱や、見回り時に使われたランプ、ナイチンゲールが飼っていたペットのふくろう「アテナ」のはく製、体調を崩したナイチンゲールが過ごしていたベッドなども見ることができる。

Florence Nightingale Museum
St Thomas’ Hospital
2 Lambeth Palace Road London SE1 7EW
Tel: 020 7188 4400 
www.florence-nightingale.co.uk/200exhibits

ナイチンゲール誕生200周年記念エキシビションペットのふくろう「アテナ」。クリミアに発つ日に死んでしまい、
ナイチンゲールはショックで出発を2日遅らせたという

参考:フローレンス・ナイチンゲール博物館、www.nationalarchives.gov.uk、「19世紀イギリスの日常生活」クリステン・ヒューズ著ほか

 

ドラマ「ピーキー・ブラインダーズ」はなぜ世間を熱狂させるのか

ギャングたちの命を懸けた人生ゲームに釘付け! ドラマ「ピーキー・ブラインダーズ」はなぜ世間を熱狂させるのか

最近、英国では街中でバックを短く刈り込んだヘア・スタイルにハンチング帽というファッションの男性をよく見かける。そのスタイルの火付け役となったのが、1920年代の英中部バーミンガムを舞台にしたBBCの犯罪ドラマ「ピーキー・ブラインダーズ」だ。一度見たら止まらなくなるストーリー展開や独特の世界観、スタイリッシュな映像と音楽、豪華キャストの競演などで高い評価を集める本ドラマは、視聴者が人気作品を選出する「ナショナル・テレビジョン・アワード」で、2020年1月に最優秀ドラマ賞を受賞するなど、単なる「格好良いギャング集団の立身出世物語」を超え、一つの社会現象となって英国を席巻している。なぜこのドラマが注目されるのか。その人気の秘密をさまざまな観点から検証してみた。(文:名取 由恵)

ギャング団の長、トーマス・シェルビーギャング団の長、トーマス・シェルビー

ピーキー・ブラインダーズとは
THE STORY OF PEAKY BLINDERS

第一次世界大戦後のバーミンガムでギャング集団「ピーキー・ブラインダーズ」を率いるトーマス・シェルビー(キリアン・マーフィー)の活躍を描く。シェルビー家の次男、トーマスはカリスマ性にあふれた一家をまとめる実質のリーダー。頭脳明晰、冷静で非情だが、家族思いな一面もある。長男アーサー(ポール・アンダーソン)は大戦による戦争後遺症を抱えており、三男ジョン(ジョー・コール)は妻を亡くして4人の子持ち、妹のエイダ(ソフィー・ランドル)は共産主義活動家と交際中など、家族をまとめるトーマスの悩みは尽きない。シリーズ1は、武器工場から銃が盗まれた事件をめぐり、捜査のために派遣されたキャンベル警部(サム・ニール)、潜入捜査官としてスパイ活動をするグレース(アナベル・ウォーリス)との駆け引きを中心に展開される。シリーズ5まで放映されており、シリーズ6は撮影間近。

ドラマ「ピーキー・ブラインダーズ」の背景

「ピーキー・ブラインダーズ」は、第一次世界大戦出征で人生が一変したギャングのトーマス・シェルビーが、ライバルを倒しながら立身出世していくBBCのテレビ・ドラマである。物語の始まりは大戦直後の1919年。第一次世界大戦といえば、総力戦により多大な犠牲者を出した戦争で、英軍の戦死者だけでも88万人*を超えた。その影響で、欧州の帝国が崩壊、ソビエト連邦が生まれ、世界は大きな混乱状態にあった。戦後、財政が困窮していた英国は少しずつ回復に向かうものの、それも束の間、1929年に世界恐慌が起こり、世界は全体主義の不穏な空気に包まれていく。「ピーキー・ブランダーズ」は、近代史に大きな爪痕を残したこの2つの大戦に挟まれた変化の時代に焦点をあてている。*英国立公文書館「ナショナル・アーカイブズ」調べ

戦争直後の鬱々とした雰囲気戦争直後の鬱々とした雰囲気も、本ドラマの重要なバックグラウンドとなる

「ピーキー・ブラインダーズ」は実話だった? 実在の犯罪集団がモデル

1870年代ごろのバーミンガムの都市部にはスラムが広がり、極貧の生活を余儀なくされる子どもたちが次第に自分のテリトリーをかけて争うようになっていた。1890年代、同地にあるスモール・ヒースでは、通行人を標的にスリや盗みを働く少年たちが現れる。この少年たちが徐々に組織化され、窃盗、恐喝、暴行などの犯罪を行い、「ピーキー・ブラインダーズ」と名乗るようになったという。メンバーは労働者階級や下層階級の若者たちが中心で12、13歳の子どもも混じっていた。ピーキーたちは地元のライバル・ギャングと抗争しながら、20年あまり町を支配していたが、やがてビリー・キンバー率いるバーミンガム・ボーイズとの争いに負けて衰退。しかしその後も、ピーキー・ブラインダーズの名前は、バーミンガムのストリート・ギャングを指す言葉として残ったという。

実在の犯罪集団「ピーキー・ブラインダーズ」リアル・ピーキー・ブラインダーズのハリー・フォウルズ、アーネスト・ベイルズ、
スティーヴン・マクニクル、トマス・ギルバート

1914年のボーデスリー・グリーンスモール・ヒースから少し東に位置する1914年のボーデスリー・グリーンの様子。
ドラマの設定は実際のピーキー・ブラインダーズが活躍した時代とおよそ20年のずれがある

名前にはどんな意味がある?

名前の由来については、「ハンチング帽の先端(peak)にカミソリの刃を縫い付け、それで相手の目を攻撃していた」「相手の額を切り、流血で目を見えなくさせた」など諸説ある。歴史学者でバーミンガム大学名誉教授のカール・チン氏は、英国に安全カミソリが入ってきたのは1900年代初頭のことで、少年たちには手の届かない高価すぎる品だったはずだとし、「当時バーミンガムでは、ツバのある帽子はピーキーと呼ばれていた」と説明。また、ウォルヴァーハンプトン大学のローラ・ウゴリーニ教授は、「ブラインダーは『しゃれた格好をした人』を意味するバーミンガムのスラングである」としている。

2020年とのシンクロニシティ

今から約100年前の話であるにもかかわらず、不思議と現代社会に酷似する点も多い。本作の生みの親である脚本家スティーヴン・ナイトは、英国で働くナイジェリアからの不法移民の人生を描いた映画「堕天使のパスポート」でアカデミー賞脚本賞にノミネートされた社会派だが、ナイトは本ドラマの構想について、「(設定された時代は)ファシズム、国粋主義、人種差別主義が台頭し、世界中で自分たちにとっての敵を排除する動きがあった」「英国の現代社会と似通う部分もかなりある」と昨年7月のプレミア上映会で語っている。作中で垣間見える深い洞察、また現代社会への警鐘を鳴らす本作に、欧州連合から離脱したものの、移民問題、貧富の格差などで人々が分断され、国粋主義の動きすら感じられる2020年の英国の現状と重ね合わせている視聴者も少なくない。

また、昨年国家統計局が行った「赤ちゃんの名前人気ランキング」では、トーマスの兄の「アーサー」が1920年代以降初めてトップ10に、妹の「エイダ」もトップ100位に初めてランクイン。専門家もドラマが赤ちゃんの名付けに影響を与えた可能性を指摘するなど、ドラマ人気の余波が英国人の暮らしにも広がりつつるあることが伺われる。

キリアン・マーフィー主人公のトーマス・シェルビーを演じるキリアン・マーフィーはアイルランド出身の俳優。
同役で2つの演技賞に輝いた

これまでのギャング映画になかった人物描写

米作品「ゴッドファーザー」「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」など、ギャングやマフィアを描いた人気作品はこれまでにもいくつも存在する。堅気な人間には無縁の世界だが、私たちは裏社会で生きる男たちの姿にロマンを見出すのかもしれない。本作も同様だ。トーマス・シェルビーは大戦後の不安定な時代を利用し、共産主義者、労働組合、アイルランド共和軍(IRA)、ファシスト党など、次々に現れる組織と対決、さまざまな戦略を使い、権力も地位もない状態から国会議員へと昇りつめる。その一方で、冷静沈着で非情なトーマスにも迷いや悩みがあり、「自分は何のために生きるか」と自問し葛藤する。視聴者はその姿に次第に共感していく。

また、本作が際立っているのはパワフルな女性たちの描写だ。これまでのギャング映画と異なり、労働組合のゼネストに参加し男と対等に渡り合うシェルビー家の女たち、周囲から怖がられているトーマスを一喝できる叔母、敵のギャング団を目の前にしても一切ひるまないトーマスの妹など、女性たちのしたたかな姿を描いたところが、今の社会情勢に図らずもマッチしている。

Peaky Blinders女性の権利がまだ制限されていたこの時代、女性たちの暗躍は物語の鍵となる

1920年代の労働者風ファッション

1920年代の英労働者階級の男くさいファッションが英国男子の間でトレンドに。ヴィンテージ・ファッションを好む若者たちにも、このスタイルがはまり、ドラマ人気の一端を担う。一方で、中高年にも取り入れやすいスタイルとあって、コスプレ感覚で楽しむ男性も増えているようだ。ここではピーキーたちになりきるための必須アイテムを紹介しよう。(図・解説:英国ニュースダイジェスト編集部)

ピーキーブラインダーズのファッション

ハンチング帽 サイドとバックを短く刈り込んだヘア・スタイルにハンチング帽(ベイカー・ボーイ・ハット、フラット・キャップとも呼ばれる)がトレード・マーク。生地はツイードで色はグレー、ネイビー、ダーク・グリーンなどが人気。

ウェストコート 第二次世界大戦まで背広は常に三つ揃えで着用されていたので、ウェストコートはこの時代の必需品。もしもディテールにこだわるならば、ボタンの数が6個でV ゾーンが浅めのもの、ポケットは4つ。

懐中時計 懐中時計はこの時代の実用的な必須おしゃれアイテム。スーツからのぞく懐中時計の鎖はアルバート・チェーン、ブラス・フォブなどが使われ、ウェストコートのボタン・ホールに通してからポケットへ。

ミリタリー・コート オーバーサイズのミリタリー・コートで、襟にヴェルヴェットかコーデュロイの襟が付くのがピーキー・ブラインダーズ風。主役のトーマスのコートは第一次世界大戦時に軍から支給されたスタイルがモデルだそう。

オックスフォード・ブーツ スーツにミリタリー・スタイルのブーツを加えることでピーキー・スタイルが完成。足首までのブーツで靴の先は丸くてがっしりしており、できれば色は黒で。あえて磨かずにラフなエリアを闊歩してきたように見せる。


セレブにも人気
David Beckham

ファッション・リーダーのデービッド・ベッカムもこのスタイルを積極的に取り入れている。英デパートのジョン・ルイスではハンチングの売り上げが急上昇した。

ファッションを楽しむイベントも

ピーキー・ブラインダーズをテーマにしたライブやそのファッションを楽しむイベントも英国各地で行われ、昨年はバーミンガムでレジティメート・ピーキー・ブラインダーズ・フェスティバルが開催された。

ドラマの世界をもっと知るために

過去のシリーズを観る

2013年にシリーズ1がスタートし、現在まで5シリーズ(全30話)が放映済み。現時点でストリーミング配信「Netflix」で視聴できるほか、DVD/Blu-ray、BBC iPlayerにて不定期に公開中(現在はシリーズ5のみ公開)。

バーミンガムの「聖地」を訪問する

ドラマ人気により、バーミンガムの観光客数は2018年に4280万人を突破し、シリーズ1が放映された2013年からの5年間で26パーセントも増加した。休暇を使って映画やドラマのロケ地を巡るこの動きは英国で「スクリーン・ツーリズム」(日本でいう聖地巡礼にあたる)と呼ばれ、近年活発になっている観光の在り方の一つだ。同地は再開発されてヒップなエリアに移り変わった市内中心部ディグベスをはじめ、ピーキーゆかりのスポットが点在するファン垂涎の聖地となったが、お勧めはバーミンガム郊外ダドリーにあるブラック・カントリー・リビング・ミュージアム。18世紀から1960年代までの町の歴史を再現した体験型の野外博物館で、ドラマの一部シーンはこの場所で撮影されている。毎年行われるピーキー・ブラインダーズ・ナイツも大盛況で、次回は今年9月に開催。

ブラック・カントリー・リビング・ミュージアム26エーカーの広大な敷地を持つブラック・カントリー・リビング・ミュージアム

Black Country Living Museum
Tipton Road, Dudley, West Midlands DY1 4SQ
Tel: 0121 557 9643 
入場料:£19.95
オープン:水~日 10:00-16:00 (3月30日以降は毎日10:00-17:00)
最寄駅:ナショナル・レールTipton駅 
https://www.bclm.co.uk

公式ブック「By Order of the Peaky Blinders」を読む

オフィシャル・ブック「By Order of the Peaky Blinders(バイ・オーダー・オブ・ザ・ピーキー・ブラインダーズ)」ではメイキングの秘話をあますことなく紹介している。

By Order of the Peaky BlindersBy Order of the Peaky Blinders
編著:Steven Knight, with Matt Allen
発行元:Michael O'Mara Books 

 

オーブリー・ビアズリーとはいったい誰だったのか - 世紀末の英国を妖しく彩ったイラストレーター

世紀末の英国を妖しく彩ったイラストレーター オーブリー・ビアズリーとはいったい誰だったのか

オーブリー・ビアズリー Aubrey Beardsley 21歳のオーブリー・ビアズリー

ロンドンの美術館テート・ブリテンで4日から大規模な回顧展が始まったばかりのオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 1872〜1898年)は、ヴィクトリア朝後期の英国に彗星のように現れた夭折の天才画家。活動期間は10年にも満たないものの、ビアズリーの挿絵によるオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」が1894年に出版されるやいなや、美術界はその大胆で独創的な構図を持ったモノクロのイラストレーションに魅了され、ビアズリー旋風が巻き起こった。日本の浮世絵やラファエル前派の影響を受けたとも言われるが、人を惹きつけずにはいられない妖艶な魅力に満ちたビアズリーの芸術はいったいどのようにして生まれたのか。ここではビアズリーが影響を受けたアーティストたちのエピソードを織り込みながら、一貫して完成度の高い作品を描き続けたビアズリーの、短い人生を振り返ってみよう。

(文: 英国ニュースダイジェスト編集部) 参考:Victorianweb.org など

ケイト・グリーナウェイの挿絵を模写

オーブリー・ビアズリーは1872年8月21日、英南部ブライトンに2人姉弟の長男として生まれた。ビアズリーの父親が、金細工師だった祖父と不動産業者の曽祖父から受け継いだ遺産を女性関係で失ったため、一家の暮らしは軍医の娘であった母親が住み込みの家庭教師(ガヴァネス)として働くことで支えられていた。母親の世話を受けることができないビアズリーは、6歳で近隣の寄宿学校に入学する。しかし後にビアズリーの命を奪うことになる結核を発症する。

当時の欧州は、印刷技術の発達から本の挿絵の黄金時代を迎えており、英国では絵本や児童書の分野が大きく開花。ランドルフ・コールデコットやケイト・グリーナウェイ、ウォルター・クレインといった才能あるイラストレーターたちが次々に現れ、人気を博していた。そんな時代にあって病弱で屋内にいることの多いビアズリーは、英国の伝承童話「マザーグース」の挿絵で知られるケイト・グリーナウェイのイラストを好んで模写していたという。その才能はこの頃すでにほう芽が見られ、一家を援助していた裕福な友人から3枚のイラストの注文を受けたビアズリーは、グリーナウェイの模写を制作。11歳にして30ポンド(現在の金額にして約3580ポンド、日本円で約50万円)を稼いでいた。

アール・ヌーボーのスタイルで描かれた「シンデレラ」 ガラスの靴を履き花の咲く公園に立つ、アール・ヌーボーのスタイルで描かれた「シンデレラ」。
ケイト・グリーナウェイの影響が見られる

エドワード・バーン=ジョーンズがその才能に太鼓判

18歳になったビアズリーはロンドンで事務員として働き始めるも、結核の悪化によりすぐに休職。しばらくは自宅で療養しながら絵を描き読書をする生活が続く。1891年、当時流行していたラファエル前派の絵画に傾倒したビアズリーは、同派の中心的な存在であるエドワード・バーン=ジョーンズが、毎週末に自宅を開放し客を招いていることを知る。早速、自作のポートフォリオを持って姉のメイベルといきなり大画家の家を訪れるが、その日はある大事なゲストがお茶に呼ばれていたため、2人はバーン=ジョーンズの友人で工芸家のウィリアム・モリスに玄関先で追い払われてしまう。

だが、がっかりした姉弟が帰りかけると、バーン=ジョーンズが顔を出し、「こんな暑い日にわざわざやって来てくれたのに、作品も見ずに追い返すことなどできない」と2人を招き入れる。そしてビアズリーのポートフォリオを丁寧に見たバーン=ジョーンズはその才能を絶賛。ぜひプロの画家になるべきと断言したうえで、美術学校への進学を勧めた。こうしてビアズリーはロンドンのウェストミンスター・スクール・オブ・アートの夜間クラスに入学。これが生涯で唯一の正式な絵画の勉強となった。ちなみにこの時バーン=ジョーンズ宅を訪れていた「大事なゲスト」はオスカー・ワイルド夫妻だったという。

トマス・マロリーの小説「アーサー王の死」の挿絵 トマス・マロリーの小説「アーサー王の死」の挿絵。
出版社はバーン=ジョーンズのような作風でイラストが描ける画家を求めており、
最終的にビアズリーに依頼した

ウィリアム・モリスに嫌がられる 

世紀末の英国には退廃的な文化ばかりが流行っていたわけではなかった。産業革命の結果、大量生産による安価で粗悪な商品があふれたヴィクトリア朝の文化を批判して、「アーツ&クラフト運動」を推進したウィリアム・モリスのような人物もおり、耽美主義のビアズリーとの共通点は少なかった。1892年にビアズリーがJ.M.デント出版社に依頼され、トマス・マロリー作の小説「アーサー王の死」の挿絵を描いた時、モリスは、「ケルムスコット・プレス*のひょう窃だ」と文句を言っている。それに対しビアズリーは「モリスの作品はただ旧弊な代物を模倣したに過ぎないが、自分の作品は新鮮で独創性にあふれている」と返した。

ビアズリーのスタイルは、画面から陰影や奥行きなどを排除し、画面の一定領域を何も描かずに白く残すか黒く塗りつぶすなどして、単純化された線を効果的に配することで成立している。ビアズリー以前の挿絵は銅版や木版で制作されていたことを考えると、印刷技術の向上でシャープな線の複製が可能になった事実を効果的に活用したと言える。また、ビアズリーが普段から描くモチーフが一様に退廃的であったり、弱い男性と魔性の女性の対比であったりと、保守的で偽善的な道徳観を持つヴィクトリア朝の中産階級を否定するものだったことも、真面目なモリスを苛立たせたと考えられている。

*ウィリアム・モリスが始めた印刷工房。名称はオックスフォード近郊の別荘の名にちなみ、中世の写本装飾やルネサンスの書物から影響を受けている

「ザ・レディ・ウィズ・ザ・ローズ・ヴェルソ」「ザ・レディ・ウィズ・ザ・ローズ・ヴェルソ」

「ヴォルポーネ」劇作家ベン・ジョンソンの戯曲「ヴォルポーネ」のために描かれた挿絵。
エロティックなイメージを多く描いたビアズリーは、ウィリアム・モリスに嫌われていた

オスカー・ワイルドとのコラボレーション

劇作家ワイルドとビアズリーの関係は、当初から穏やかなものではなかった。 1893年4月、発表されたばかりのワイルドのフランス語版戯曲「サロメ」に触発され、ビアズリーは美術誌「ステューディオ」の表紙に、「サロメ」の一場面「ヨカナーンよ、私はおまえの唇に接吻した」を自主的に描く。ワイルドは、ビアズリーがいかによく自分の芸術を理解しているかを知り感動し、英語版のための挿絵を依頼。ただし当時、浮世絵に影響を受けた米画家J.M.ホィッスラーの構図を研究中だったビアズリーが依頼された16作品を描き上げてみると、ワイルドは、「ビザンティン風の舞台を想定していたのに、これではあまりにも日本的」と評した他、グロテスクな性描写を含む4つの挿絵の描き直しを命じた。

その報復として、ビアズリーは新しい挿絵の中にワイルドの姿を風刺的に忍び込ませている。それは、フランス語で「サロメ」を書いているワイルドの側に、基礎フランス語の教科書が置いてあるというような他愛のないものだったが、ワイルドはビアズリーに対する怒りを募らせ、「オーブリー・ビアズリーを発掘したのは自分である」などと宣言する。ただし、あまりにパワフルなビアズリーの挿絵の魔力に、自作の意図が誤って伝わってしまうのではないかと恐れていたのはワイルドの方だった。その挿絵は戯曲の内容と完全に呼応するわけではなく、新約聖書が題材にもかかわらず設定はファッショナブルな現代という画期的なものであったのだ。こうしてヴィクトリア朝の保守的なイメ―ジを覆すモダンな挿絵により、ビアズリーは一躍美術界の時の人となった。

オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵「クライマックス」オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵「クライマックス」

「ピーコック・スカート」オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵「ピーコック・スカート」

「黒いケープ」オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の挿絵「黒いケープ」。
浮世絵をヒントにしたと思われる構図や着物の柄のようなパターンが散りばめられ、
ワイルドには「日本的すぎる」と評された

ワイルドの巻き添えを食った「イエロー・ブック」

イエロー・ブックは、1894年に英国で創刊された挿絵入りの季刊文芸誌で、19世紀末のデカダンな文化を紹介する雑誌として、美術担当の編集主任をビアズリーが担当した。寄稿者にはH.G.ウェルズ、ヘンリー・ジェイムズ、W.B.イェイツ、アナトール・フランスなど欧米第一線の作家たちが名前を連ねる他、才能あふれる過激な若手作家やアーティストの発表の場としても位置付けられた。保守的な新聞雑誌は同誌を酷評するが、おかげでこれまで美術界でのみ知られていたビアズリーの名が、一躍一般大衆の間に広まった。

ところが、1895年4月にオスカー・ワイルドが同性愛の罪で逮捕される。ワイルドはこの雑誌に関わっていなかったにもかかわらず、「サロメ」の挿絵以来、ワイルドと同一視されていたオーブリーは、英国の世論から強烈なバッシングを受け、同誌からの追放処分を受ける。ビアズリーは以降、好色な小説の挿絵を描いて暮らすはめになり、翌96年にはパリに居を構えるも喀血。健康状態の悪化により次第に借金がかさんでいった。97年にビアズリーは刑期を終えたワイルドとフランスで再会するが、自著の装丁を頼まれ拒絶する。ワイルドの醜聞のせいで自分の人生が狂ったと考えていたのだ。同年末に南仏のマントンに転地するが時はすでに遅く、98年3月16日、同地にて結核で死去。25歳という若さだった。

The Yellow Book「イエロー・ブック」第1号の表紙。
ビアズリーがワイルドの巻き添えで追放されてから精彩を欠くようになったものの、
同誌は1897年4月まで13冊が刊行された

 
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