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Tue, 16 December 2025

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BNP ニック・グリフィン党首インタビュー

移民敗訴を打ち出す極右政党のリーダーニック・グリフィン党首インタビュー

世界各国から移民が押し寄せる英国では、国会やニュース番組などの政治的話題を扱う場において、移民問題が論じられない日はない。その中で究極の移民政策である「移民排斥」を掲げるのが英国国民党。「極右」「ファシスト」「人種差別主義者」として各方面からのバッシングを受け続けるニック・グリフィン党首に、英国ニュースダイジェストがインタビューを敢行した。 (取材・文: 長野雅俊 写真: Maiko Akatsuka)

ニック・グリフィン:1959年生まれ、ロンドン北部バーネット出身。保守党員の両親に育てられ、15歳で極右政党である国民戦線の集会に参加するなど青年期から政治活動に従事していた。1995年に英国国民党に入党。1998年に人種間の憎悪を煽った罪で有罪判決を受ける。1999年より同党の党首に。妻と4人の子供がいる。

Public Enemy No1 英国で一番の嫌われ者

テーブルを挟んで目の前に座っているのは、恐らく英国内で最大級に忌み嫌われている男だ。ロンドン郊外ロムフォードの駅前から、タクシーで5分ほどの場所にあるパブの店内。「今日は党員たちと一緒に街頭に出て、ビラを一日中配っていたからね。汗かいたり雨に降られたりで、シャツもこんなによれてしまった」と言って照れ笑いを浮かべる姿を観察しながら、頭の中で彼の経歴についてもう一度整理する。

まず、過去3度にわたって起訴されている。罪状は主にユダヤ系、そしてイスラム系の人種に対する中傷的な発言または記述を理由とするものだった。そのうち一度は有罪判決を受け、9カ月の懲役刑に。また2007年11月にオックスフォード大学において開催された、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の存在を否定する歴史作家との討論会に参加して物議を醸した事件はいまだ記憶に新しい。何よりも、彼が率いる英国国民党(BNP)は、移民排斥を政治方針として掲げてきた極右政党。長年にわたって同党への鋭い批判を繰り広げてきた政治誌「Searchlight」のジェリー・ゲイブル編集長によれば、「ニック・グリフィンを始めとするBNP党員たちの正体は人種差別主義者。政党としての体を成しておらず、むしろマフィアに近い集団」という。

一方で、英国には彼を支持する者たちが少なからず存在する。党員数は一時期6000人以上に達した。2005年に行われた総選挙では、国会の議席獲得には至らずも、全国合わせて約20万票を得ている。それどころか、人種差別発言をめぐる公判を終えて裁判所から出てくる彼を、拍手やガッツポーズで出迎えた人々さえいる。隣のテーブルでビールのグラスを傾けていたかと思うと時折、インタビューしている我々をデジタル・カメラで撮影している強面の党員たちも、きっと 「お出迎え」に出掛けたに違いない。

視線をグリフィン党首に戻すと、パブの店員にガーリック・ブレッドを注文し終えたところだった。

外国人労働者なんて必要ない

ニック・グリフィン党首
30歳の時の事故が原因で失明した左目には義眼が入っている
インタビューを始めてすぐに気付いたのだが、グリフィン党首は右斜めに首を傾けながら話す癖がある。話している間は、こちらに向けた視線をたとえ一瞬たりとも外さない。質問すると、早口でたたみ掛けるように答えを返してくる。「今でこそ様々な問題が噴出してきてどの政党も慌てふためき始めましたが、5年前の時点で移民問題を真剣に論じていた政党なんて我々しかいなかったのですよ。そして今日まで続いた大規模な移民・難民の受け入れと引き換えに、いまや英国の教育制度は完全に崩壊してしまったのです」。そう言い終えると、食べ物を素早く一口だけ口に入れて、またすぐにこちらの目を見据える。

英国への移住者数は、正式に登録されたものだけで1年間に約47万人(OECD調べ)。外国人選手ばかりが上位を独占するようになったテニスの世界選手権にちなんで「ウィンブルドン現象」とまで呼ばれた英国の経済システムは、外資系企業と外国人労働者の貢献によって大きく発展したと喧伝されてきた。

「そのような見方には賛成できませんね。自由市場がきちんと機能することに加えて職業訓練の機会さえしっかりと確保できれば、滅多なことでは労働者不足には陥らないはずなのです。働き手が少なければその業界の賃金が上がり、そうすればより高い賃金が得られる業界へと職業訓練を経た人材が流れるという形で、需給関係のバランスはある程度は取れるはずですから」。ただ、国内では確保しきれない人材が必要だったからこそ、英国は移民の受け入れを行ってきたのではないだろうか。「非常に限定的な範囲における技術、例えば英国では決して習得できない高度な知識を持った科学技術者の招聘といったものにまでは我々は反対しません。でも鉛管工として働いてもらうために、ポーランドやその周辺国からわざわざ移民を呼び寄せなければならない理由はないわけです。そもそも移民労働者を受け入れる条件として政府が指定している「技術職」のほとんどは、英国人の労働力で賄えるはず。「技術職」なんて言葉は、外国人移民を低賃金で働かせて、英国民に適切な賃金を払わずに済ませるための口実でしかないのです」。そう言って、また食べ物を素早く口に入れ込んでからこちらを見据える。

模範とするのは排他的な日本の移民政策

ニック・グリフィン党首外国人移民を低賃金で働かせることで、英国が経済的な恩恵を受けているという構造は確かに存在するだろう。だが現実問題として、その「低賃金で働く外国人移民」がいなくなってしまったら、ただでさえ高いロンドンの物価はどれだけ上昇してしまうのだろうか。「結局、何を優先させるかという問題だと思います。これまで政府が優先してきたのは、目先の利益ばかりを追う、資本主義という名を借りた拝金主義です。でも長期的な視点から見た場合、英国固有の文化を守り、英国人の生活環境を守るために移民の流入は厳しく制限する必要がある。日本だって、そうしながら今まで経済成長を遂げてきたじゃないですか」。

日本人には少し意外に聞こえるかもしれないが、極右政党として恐れられるBNPのマニフェストの1ページ目には、「民間会社の競争力と国内資本を合致させた日本を始めとするアジア諸国の経済モデルを模範とする」との一文がある。さらに言えば、その「排他的な」移民制限は、BNPにとっての鑑(かがみ)にさえなっているのだ。「日本の厳しい制限政策は、非常にシンプルかつ理にかなったものだと思います。緩やかな少子化問題に悩んでいるかもしれませんが、それでも大量で急激な移民の受け入れに比べたらずっとましでしょう。だからあなたたちは世界経済の中心にいながらにして、独特の国民性を保ったままでいられる」。

BNPに限らず、欧州のメディアが日本の入国管理を「排他的」であると表現することは多い。だから彼らが日本の経済モデルと移民制限策を模範として掲げても、なんら不思議はない。ただグリフィン党首から政策論を聞いているだけでは、何だか釈然としない思いばかりが残る。本当に知りたいのはBNPの移民政策ではなくて、彼らが生来的に持っているとされる人種差別主義についてだからだ。

BNP党員
左)取材日にBNP党員たちが配っていたビラ
右)この日はグリフィン党首の他に、複数のBNP党員たちが来ていた

仮面を被った人種差別主義者?

1999年に英国国民党の党首に就任して以来、グリフィン党首が果たした最大の功績とされるのが党の近代化だ。それまではあからさまな人種差別主義者の集団と見なされていた同党のイメージを刷新しながら、少しずつ一般層にまで支持を拡大してきたというのが彼の支持者たちによる見方になっている。そういった意味で、BNPから人種差別主義を排した政治家として彼を評価する声も一部にはある。

「人種差別とは、そもそもロシアの共産主義革命家レフ・トロツキーが政敵を悪者に仕立て上げるために編み出した非常に政治的な用語です」。グリフィン党首は時々、このように突然妙に理屈っぽい話し方になることがある。「ある特定の人種が、他の人種より優れているか、劣っているかを論じたら人種差別でしょう。でも自分たちの国における移民制度のあり方を論じることは人種差別ではない」。

ただ実際のところ、彼らの活動は「移民制度のあり方を論じる」以上のことを含んでいるようだ。2005年にはグリフィン党首がイスラム教を「邪悪で堕落している宗教」と表現している模様をBBCの潜入取材がスクープ。2006年12月には「ガーディアン」紙が、BNPの活動に携わる際には名前を偽るよう、BNP幹部が同党党員らに対して指示していると報じた。

今だって、彼らの人種差別的な一面をこの目で確認することはできる。同党の機関紙「The Voice of Freedom」の2007年11月号を例に取ってみよう。ここには英国のてんとう虫が、アジアから漂着した別種のてんとう虫に駆逐されようとしている状況を嘆いた記事が掲載されているのだが、このアジア生まれのてんとう虫の写真には「不必要な移民」というなかなか不愉快なユーモアを交えた見出しがついている。先述したBBCの潜入取材において、BNP党員が「パキ(南アジア出身の人々への蔑称)を撃て」と発言した件についてグリフィン党首に直接問い詰めると、微笑を浮かべながら「もうちょっとソフトな言い方だったよ」 と余裕たっぷり。さすがに背中に軽く寒気が走った。

Unwanted Immigrant
機関紙「Voice of Freedom」に掲載された、アジア生まれのてんとう虫の弊害について論じた記事

さらに取材班は、2004年11月にグリフィン党首の下で制定されたBNP規約を入手した。その第1部「政治目的」の欄に記された第2条の(b)―「英国国民党は、英国民の国民性と民族性を守るため、英国人と非欧州圏の人々との人種的融合をいかなる形態を以っても認めない。非白人の流入を防ぎ、1948年以前に英国に存在していた英国民の白人気質を取り戻すために全力を尽くす」。これはもう「移民制度のあり方」を超えて白人主義と呼ばれるものだろう。そうグリフィン党首に尋ねても「そんなものあったかな」ととぼけるだけだった。ちなみに同規約は昨年末に、BNPのウェブサイトから削除されている。

党規約
2004年11月に発行されたBNPの党規約。「英国人と非欧州圏の人々との人種的融合を認めない」とある

貧困問題と極右の関係

ニック・グリフィン党首ここで一旦インタビューから離れて、BNPを始めとする英国の極右政党が支持を集める背景について考えてみたい。極右政党の存在は、地方労働者を取り巻く貧困問題と密接に関連しているとよく言われる。その典型的な例とでもいうべき事件が、2001年7月にイングランド中部ブラッドフォードにおいて白人系とアジア系の若者間で繰り広げられた暴動だ。この地域ではかつて繊維産業が勃興したためにアジアからの移民が殺到した。しかし1970~80年にかけて同産業が衰えていくと多くの工場は閉鎖し、失業者が続出。次第に職口や福祉手当の配分をめぐって異なる民族間の対立が深まるようになり、やがて暴動へと発展した。同様の 歴史的背景を理由とする暴動事件は同じく2001年にイングランド北部オールドハム、そしてバーンリーでも発生。そしてこれらの都市ではBNPに対する支持が高くなる傾向にあり、特にオールドハムは、2001年の総選挙でグリフィン党首が出馬し、6500強の票を獲得した場所でもある。

後日「Searchlight」のゲイブル編集長に、この現象についてさらに詳しく話を聞いた。「1980年代のマーガレット・サッチャー政権で英国の労働市場と教育制度が大幅な自由化を遂げて以来、国内の労働力のバランスは崩れ、地方の産業は競争から取り残されていくようになりました。だから、地方の若者が低賃金の単純労働にしか就けなかったり、失業にあえいだりしているという問題があるのは確かに事実なのです。けれども労働党、保守党、自民党という主要3政党は主に都市部の中産階級に絞って選挙運動を展開しているから、地方の労働者たちは自分たちが取り残されてしまったかのように感じている。そういった層が、移民さえいなくなれば本来の生活を取り戻せるというBNPの主張に呼応しやすくなっているのかもしれません。もちろん、地方の貧困問題というのは、移民を排斥すれば片付く問題ではないのですが」。

グリフィン党首は極右のエリート

話をグリフィン党首に戻す。貧困問題を抱えた地方労働者を支持基盤とするBNPの中で、同党首が持つ経歴は異質だ。生まれはロンドン北部のバーネットで、自他共に認める中産階級の出身。ケンブリッジ大学で歴史と法律を学んでいる。「両親が共に保守党員だったのです。だから物心ついた時から親と政治について話していましたね。でも当時の保守党は左翼がかっていて馴染めなかったので、15歳の時に国民戦線と呼ばれる右翼政党に入ることを決めたのです」。

若かりし頃の彼は、どうやって極右思想に惹かれていったのか。「当時の保守党員たちは内緒話をするようにひそひそと「おい、移民をどうにかしないと俺たち困るぞ」と言いながら、公の場に出ると「これからの時代は多文化主義でいきましょう」と話しているような人ばかりだった。いわば偽善者です。でも国民戦線では党員が素直に理想を語り、かつ現実主義を貫いているように思えたのです」。グリフィン党首は「多文化主義」そして「偽善」の2語を盛んに口にする。

「昔、イングランドの片田舎で暮らしていた時があっ たんです。海岸が近くて、英国らしさに溢れた小さな町ですよ。そこの学校がある日突然、七面鳥やろうそくを用意して祝う、英国の伝統的なクリスマス行事を禁止するという決定を出した。近所に別の宗教を持つ住人がいるからというのが理由でした。それで翌年から多文化主義のクリスマスになって、七面鳥の代わりにインド料理が出ることになった。何だそれって思いますよね。今まで現地で代々何百年と住んできた伝統的な家族が、他の宗教を持つ移民が近所に住んでいるからという理由で自分たちのクリスマスを祝えないんですよ。こんな片田舎まで多文化主義のイデオロギーに支配されるべきではないと決意して、BNPに移って政治活動を本格的に始めました」。

英国人の建前と本音

ニック・グリフィン党首グリフィン党首は多文化主義を「建前」とか「全体主義」と呼んで激しく非難する。でも本当のところ、彼はその建前の重さに気付いているはずだ。だからこそ党の近代化と称して、BNPが持つ人種差別的なイメージを少しずつ削ぎ落とそうとこれまで努力してきた。

ここに一つ、興味深いデータがある。市場調査会社「YouGov」が実施したアンケートなのだが、「難民の受け入れを厳しく制限する」といった政策を、一つのグループにはBNPの政策、もう一つのグループには保守党のそれとして意見を募った。すると回答者は、実際は全く同じ政策を見ているにも関わらず、「保守党案」をより多く支持したというのだ。英国人の「建前と本音」が透けて見えるエピソードである。

グリフィン党首が、多文化主義の弊害について語り続ける。「これだけ無責任に移民を受け入れていたら、人種差別は絶対に生まれる。そもそも移民を差別する感情は、人間の本性みたいなものです。でも英国民はそういった感情を絶対に表には出さない。人種差別主義者と呼ばれるのを恐れているからです。この国では、多文化主義と言われたら絶対に逆らえないような空気が存在しているから、皆が一斉に凍り付いてしまう。でも、私はその空気を恐れない」。偽善に打ち克ち、BNPの「移民政策」を実行するためであれば、再び刑務所に戻ることになっても構わないという。

グリフィン党首の言うように、英国人は建前だけで我々のような移民たちと接しているのだろうか。そして心の奥底では、「多文化主義」に対して強い反発を感じているのか。これらの問いに対する一つの回答として、既に71歳になったという「Searchlight」のゲイブル編集長が寄せてくれたコメントを最後に紹介しよう。「どんな人にとっても、異なる人種に対しての偏見を完全に取り払うということはなかなか難しいでしょう。でもだからといって、あなたが人種差別主義者にならなくてはいけないわけではない」。

 

知っているけど知らないロゴのひみつ

知っているけど知らないロゴのひみつ

企業の顔として、商品の顔として、いつの間にか頭の隅にしっかり刻み込まれているデザインたち。しかしイメージを「形」に変え、それで人の心を捉えるというのは、実に難しい作業でもある。普段何気なく眼にしているロゴやマーク、その知られざる裏側に迫ってみよう。(本誌編集部 國近絵美 写真提供: Kayo Hayashi)

HMV

「世界一有名な犬」に見る、キャラクターのブランド力

HMV

テレビCMでは実物(にそっくりの犬)が登場することもある、世界で最も有名な犬、ニッパー。英国人画家のフランシス・バラウドが描いた1枚の絵を基に作られたこのHMVのロゴだが、実はこの原画が出来上がったのは、1899年のこと。そして絵の誕生のきっかけとなったのは、遡ること1884年、フランシスの兄、マーク・バラウドが1匹のジャック・ラッセルを拾ったことに始まる。

訪問客の足に噛み付く(nip)ことから「ニッパー(Nipper)」と名づけられたその犬は、マークが87年に死去した後、フランシスが引き取ることになった。ある日、フランシスが兄の声を吹き込んだレコードをかけると、ニッパーは不思議そうに首をかしげて蓄音機を覗きこんだという。その様子があまりに印象的だったのか、ニッパーの死から3年後の98年に、フランシスは蓄音機を覗きこむニッパーの姿を描くことにした。そして翌年完成したその絵は「His Master’s Voice(ご主人様の声)」と名付けられる。

その年の暮れ、英国で蓄音機の販売を行っていた「グラモフォン・カンパニー」がこの原画を購入し、1900年、少しシンプルに描き直されたニッパーのロゴが同社の広告に登場する。ロゴは客たちに評判が良く、グラモフォン・カンパニーが販売するレコードはいつの間にか絵の題名を略して「HMVレコード」と呼ばれるようになり、正式ではないものの、会社自体も「HMV」と呼ばれるようになったという。

それから数年後、円盤式蓄音機の発明家であるエミール・ ベルリナーが設立した「ビクター・トーキング・マシーン・カンパニー」が、米国でこのロゴの版権を手にする。そのため 「His Master's Voice」のロゴが、国によって全く別の会社に所有されることになった。

現在、ビクター・トーキング・マシーン・カンパニーの後身である「RCAレコード」は、ラジオと蓄音機にしかニッパーのロゴを使用していない。現在も「ビクター」の名で同じロゴを採用しているのは、米ビクターから独立した「日本ビクター株式会社」のみとなっている。というわけで、HMVジャパン社のロゴにニッパーの姿は無く、蓄音機がぽつんとあるだけだ。その愛らしさゆえ、意外と複雑な飼い主事情を持つニッパーだが、現在オリジナルの絵は、グラモフォン・カンパニーの後身である「EMI」社の英国オフィスに飾られているという。

Wedgewood

一文字で高級感を出す、老舗ならではの技

Wedgewood

世界最大級の英陶磁器メーカー、ウェッジウッド社が食器を製造・販売し始めたのは、1759年のこと。「結婚式の引き出物といえばウェッジウッド」という、高級な贈り物のイメージが日本では定着しているが、同社の成功の秘訣は、なんといってもこの「企業イメージ」による他社との差別化に他ならない。そしてそのイメージ戦略としてどこよりも早く社名を「ブランド化」したのがウェッジウッドだった。

創始者であるジョサイア・ウェッジウッドは、当時英国では珍しかった古代ギリシャ・ローマのミステリアスなイメージの名称を商品に付け、高級感を出した。そして、当時は紋章などのマークを陶器の裏にプリントするのが主流であったが、ウェッジウッドは1772年ごろから社名をロゴとして使用。そして1989年にロゴが規格化され、現在の「W」のロゴを印すようになった。

Victoria & Albert Museum

無駄のない美しさで個性を強調

V&A

誕生から30年近くたった今でもモダンな魅力を持つビクトリア&アルバート美術館のロゴは、英国が世界に誇るグラフィック・デザイナー、アラン・フレッチャーによる作品だ。フレッチャーは他にも、英通信社「ロイター」が92年まで使用していた、89個の点からなるロゴも手掛けている。

特別な日には、特別な衣装で

V&A

2007年6月、ビクトリア&アルバート美術館の開館150周年を記念して製作されたロゴ。150人のデザイナーや写真家、建築士などを招き、各々がV&Aへの思いを作品にして1ページずつ収録した「記念アルバム」のようなアート本を作成したという。

London 2012

英国民の心を1つにしたロゴとは?

London 2012

デザイン1つで、人はこんなにも怒れるものなのか……と感心するほどの議論をかもし出したのが、このロンドン五輪のロゴ。大会史上初めてオリンピックとパラリンピックのロゴが統一され、しかも動画での使用を意識した「次世代デザイン」であると大々的に謳われたものの、去年6月に発表されるや否や、国民から厳しい批判が相次いだ。さらには動画版を見た22人がてんかん症状を起こし、その上、制作に40万ポンド(約9000万円)も費やしたことが発覚し、国民の怒りが倍増。ロゴの廃止を求めるインターネット上の署名運動では、2日間で約5万人の署名が集まったという。

2012という数字を基にしたデザインはピンク、青、緑、オレンジのバリエーションを持つ上、確かに従来のニュートラルなデザインと比べると異色の作品であり、ロンドンらしいといえば、そんな気がしないでもない。しかし、オリンピックは世界中の人々を巻き込む、注目の一大イベント。だからこそ、「もう少し老若男女に愛されるデザイン」を英国民は求めたのだろう。

英国民を一夜にして敵にまわした「ウルフ・オリンズ」とは

過去に2004年アテネ・オリンピックのシンボルや「東京メトロ」のロゴを手掛けたこともある、ロンドンを拠点とする超有名ブランド・コンサルタント。かのゴードン・ブラウン首相の妻、サラ・ブラウンが勤めていたこともあり、33カ国にクライアントを持つという。ちなみに、今回制作指揮をとった同社エグゼクティブ・クリエイティブ・ダイレクターのパトリック・コックスは、ロゴの発表から数週間、報道陣から身を隠すために出社を控えていたという。

皆もおなじみ、ウルフ・オリンズの代表作
BT2003年4月、ロンドンに本社を持つグローバル・テレコミュニケーション企業「BT」グループが、12年ぶ りにロゴの一新を行った。これまでの「パイプを吹く人」のロゴはかなり認知度が高かったにも関わらず、 従来の「電話サービス」のイメージが強かったため、 多彩なビジネスを展開するBTによりふさわしいデザインを目指して今回の変更に踏み切ったという。

Unilever基礎化粧品から食品まで、ありとあらゆる業種を傘下に持つ世界最大級の消費財メーカー「ユニリーバ」が、2004年に行った大幅な再ブランディングの際に製作された。同社が所有する多彩な事業や商品ブランドを象徴し、なおかつ1つに統一したいという難しい期待に答えたのが、25個のアイコンからなるこのロゴ。それぞれの意味はウェブサイトでチェック出来る。

Transport for London

ロンドンのイメージを創りあげた巨匠たち

London Transport
London Transport

質の良いデザインは一生もの──そんな言葉がかわいらしく思えるほど長い間愛され続けているのが、ロンドン地下鉄のデザインだ。チューブの路線図、ロゴ、そしてフォントの3つは、単に交通機関のデザインとしてではなく、ロンドンという都市全体のイメージを創りあげることに成功した、初めての公共デザインなのではないだろうか。

1910年代、それまで数社によって運営されていた交通機関が、「ロンドン・トランスポート」という1つの組織として統合される。そこで「ラウンデル」と呼ばれる円形のマークを採用したのがフランク・ピック、そしてシンプルでいて洗練された書体をデザインしたのがエドワード・ジョンストンだ。1916年に完成したフォント「ジョンストン・アンダーグラウンド」は読みやすさ、親しみやすさ、そしてデザイン性の全てに優れており、それ以降、地下鉄に関する表示やデザインは、全てこのフォントが使用されることとなった。

さて、その「ジョンストン・アンダーグラウンド」だが、もともとはディスプレイ用に作られていたため、パンフレットや時刻表などの細かい印刷物を作るには不向きであった。それでも活字を「ジョンストン」のフォントで統一するべきだと考えたロンドン・トランスポートは、1979年、河野英一という印刷専門学校を卒業したばかりの在英邦人デザイナーに「ジョンストン」をベースにした新しいフォントの制作を依頼する。そして河野が完成させたフォント「ニュー・ジョンストン」は、現在でも公共交通機関の駅名や表示、印刷物などに使用されている。このフォントの特徴は「i」と「j」、そして「.」や「,」の点の部分が◆形になっているところだ。

一方、現在使用されている地下鉄の路線図の原型がデザインされたのは、1931年のこと。製図者であったハリー・ベックは従来の地図を簡素化し、8線(当時)が複雑に絡み合った地下鉄システムを洗練された「アート作品」のように変えることに成功した。ベックのデザインした地図と実際の地理とでは距離感がかなり違うが、乗客たちに何よりも「使いやすさ」を提供するという、公共デザインの第一目的を見事に達成している。

Royal Air Force / Mod

空軍? モッズ? 人気マークをめぐる戦いとは

Royal Airforce と The Who
左)Royal Air Force 
右)「The Who」のロゴとターゲット・マークを組み合わせた、
いかにもモッズなデザイン

モッズとは、50年代後半にロンドンから発祥した、ファッションや音楽をベースとしたライフスタイルとその支持者を指し、60年代初期にピークを迎えたサブ・カルチャーのこと。デビュー当時の英バンド「ザ・ビートルズ」も、マネージャーの意向でモッズ・ファッションとヘアスタイルにさせられたというほどの一大ムーブメントだった。そしてそんなモッズたちが好んで使用したのが、この「ターゲット・マーク」 と呼ばれるデザインだ。

もともとは英国空軍のマークで、軍が所有する航空機には現在も必ずこのマークが描かれている。しかし、60年代に英ロック・バンド「ザ・フー」がこれをTシャツやグッズなどに多様したため、モッズも自分たちのファッションに取り入れ始めた。それにより、ターゲット・マークは空軍のマークとして認知される前に、モッズの象徴的なデザインとして世界中に浸透してしまった。

ターゲット・マークは一度も知的財産として登録されたことがなかったため、英国防省は2003年、これを空軍が販売する洋服ラインのトレードマークとして特許庁に申請した。しかし、「トップショップ」などを所有する英国大手ファッション・グループ「アーカディア・グループ」が、このマークはモッズのムーブメントによって公有財産(パブリック・ドメイン)になっていると反対した。そして2004年1月、商標登録所は「ターゲット・マークはモッズたちによって広まり、人々はそのマークがついた服を見ても、空軍を連想することはないだろう」という結論を出した。しかし、服飾以外の物にターゲット・マークを使用する権利は空軍に与えられている。

Royal Airforce
英国空軍の航空機には必ず入っているこのマーク。多くの国が同じ形のマークを航空機に使用し、中の色を変えてそれぞれの国籍を表している
TV channels

地上波5局の「顔」に迫る

TV局ロゴ

長い時間をかけ、少しずつ手直しされてきた各局のロゴたち。企業イメージという資産を守りつつ、視聴者に新鮮さを抱かせるコーポレート・アイデンティティー(CI)やロゴを常に模索しているのが、テレビという媒体ならではの面白さかもしれない。

まず、テレビ界の大御所「BBC」が放送を開始したのは1936年。しかし53年まではロゴらしきものは使用されず、62年に初めて、現在のものに似たボックス型のロゴが作られた。そして90年代より、「チャンネル4」のロゴ・デザインですでに成功していた英デザイン・広告代理店「Lambie-Nairn」にロゴの製作を依頼し、91年にはBBCという企業ブランドを再構築させるため、再び同社にトータル・デザインを任せたという。さらに、97年には約500万ポンド(約11億5000万円)をかけ、3年にわたってロゴと商標を現在のものに変更した。

一方、67年にカラー放送をする英国初のテレビ局となった「BBC2」は、当時は局名よりも「カラーであること」を強調するロゴを採用していた。そして91年、「Lambie-Nairn」からの提案で数字の「2」を定期的に遊び心のあるデザインに変えたことにより、視聴者からの人気が急上したという。デザインが社内チームで行われるようになった現在でも、この手法は用いられている。

6回に及ぶ微かな訂正を加えながらも、55年に制作されたオリジナルのロゴを長年守り続けていた「ITV」。しかし、06年1月に大文字のアルファベットから現在の小文字に変更し、同年11月にはロンドン発のCM製作会社「Blink Production」によって現デザインへと移行した。ロゴ変更当時は、小文字に変わったことでぐっと親しみやすくなったと、視聴者に好評だったという。また、ITVのキッズ専門チャンネルである「CITV」のロゴを手掛けたのも同プロダクション。

現在の「Channel 4」のロゴの原型をデザインしたのは、後にBBCのイメージ・チェンジを成功させたデザイン事務所、「Lambie-Nairn」。5色の積み木のような棒を組み合わせて作った「4」という数字だけで視聴者に同局のイメージを連想させるという革新的なアイデアを実現し、このデザインは96年まで使用された。現在同局のCMでは、建物や風景などを一定の角度から見るとこのロゴに見えるという、斬新な手法がとられている。

97年に開局されたばかりの「Channel 5」が現在のロゴになったのは2002年のこと。経営体制が変わり「Five」に局名が変更されたことに伴い、ホワイトチャペル・ギャラリーや近代美術館「ICA」のロゴ、そして美術館のウェブ・デザインなどを手がけるデザイン集団「Spin」にロゴ制作を任せた。02年までは「⑤」というシンプルなデザインに、背景が5色に塗られた四角いボックス型のロゴが使用されていた。

BP

超大手企業のロゴ革命に学ぶ

BP

ビジネス環境の変化とともに、企業の顔が変わるのは当然 のこと。しかし大企業になればなるほど、ロゴやCIの急激な変化が吉と出るか凶と出るか、賭けの要素が大きくなるのもまた事実。色を味方につけて吉と出た良い例が、英国に拠点を置くエネルギー関連企業「BP」のロゴだ。

1920年代に油田操業を開始して以来、世界100カ国で約10万人の従業員を有するグループへと成長したBPの最初のロゴは、今とは全く違うデザインであった。そして1930代年に新しく採用されたロゴは、なんと社内で行ったデザイン・コンテストで選ばれた、購買部員の作品だったという。翼型の枠にBPのレターを入れただけのこのシンプルなロゴは、内側を赤、青、緑、黄、白に変えられるようにと発案されたが、いつの間にか黄色と緑色が多様され、そのうちこの 2色が同社のシンボル・カラーとして定着したという。

そして2000年、前身の「British Petroleum」から「BP」に正式名を変える際、これまでとは全く違う太陽のマークをロゴとして採用することになった。ギリシャ神話に登場する太陽の神で、エナジーの象徴でもある「ヘリオス」からヒントを得たというこのロゴは、これまでのBPの企業イメージと関連付けてもらえるよう、社のカラーである黄色と緑を強調。印象的でありながら「見慣れた配色」にすることで、マークの変化による違和感を和らげる狙いがあったという。

Google

シンプルなほど「本気」で遊べる

google

グローバルな巨大企業であるほど、シンプルなロゴを使用しているもの。そして世界中で展開している検索エンジン 「グーグル」もその多分に漏れず、この基本となるロゴに国名が入るだけというシンプルなつくりで統一されている。そんなグーグルで抜群の人気を誇るのが、1日限定で発表される記念日のロゴ。著名人の誕生日や没日、祝日などのイメージが、オリジナルのロゴをベースにデザインされたものだ。

中にはほとんど原型をとどめていない作品もあるが、それでもユーザが「グーグル」とすぐに認識出来るということから、同社の共同創立者であるセルゲイ・ブリンによってデザインされたオリジナルのロゴがいかにインパクトがあり、世界に浸透しているのかが分かる。そして何よりも、この遊び心いっぱいのグーグルの経営方針が、いっそうユーザーの心 を捉えるのではないだろうか。

UKネタ満載の限定ロゴ

2000年より記念日ロゴの製作を手掛けている、米グーグル・ウェブマスターのデニス・ホワン。全世界にファンを持つ彼の作品には、 もちろん英国ネタも登場している。

コナン・ドイルの誕生日 2006
BT名探偵「シャーロック・ホームズ」シリーズの生みの親、英作家コナ ン・ドイルの誕生日記念。世界中のファンから「来年も!」との声が寄せられたという。

ルイ・ブライユの誕生日 2006
BT「点字の父」、ルイス・ブライユの生誕を記念して、点字で「Google」と綴った作品。色の配置以外はオリジナルと全く異なるデザインで、同社の遊び心や前衛的なセンスが全面に出ている。

セント・ジョージズ・デー 2006
BTイングランドの守護聖人の祝日は、イギリス人にとっては国民の日。スコットランド人ユーザーから「セント・アンドリューズ・デーのロゴも作って」との声が殺到したという。

ハロウィーン 2005
BT恒例の行事なだけに、毎年アイデアを考えるのに一苦労だとか。記念日ロゴは楽しくハッピーなデザインが多いため、不気味なムード作りに力が入った、本人もお気に入りの作品。

 

百花繚乱の英国小政党

百花繚乱の英国小政党

英国の政党を挙げろと言われて、即座にいくつくらい思い出せるだろうか。労働党、保守党、自由民主党……。政治に興味がなければ、これら3大政党以外には、なかなか出てこないかもしれない。確かに全国区のニュースを騒がせるのは、この3党が中心だ。しかし独立、移民など、英国ならではの問題と直結し、国民の心情をストレートにくすぐるのは、実は小政党だったりする。今回は敢えて3大政党をスルーして、小政党にスポット・オン。小政党を知れば、英国政治の裏側が見えてくる!(本誌編集部: 村上祥子)

個性豊かな英国小政党の面々

お堅く手堅いイメージのある英国政治の世界。ここではそんな固定概念が覆されること間違いなしの、十人十色の個性派政党6つをご紹介しよう。

実は「日本がお手本」です
BNP英国国民党(英国民族党)
British National Party (BNP)

Nick Griffin設立年: 1980年
党派: 極右 (同党は極右であることを否定)
党首: ニック・グリフィン

EU拡大の波を受けて移民数が急増している近年の英国。英国人の潜在意識にある移民に対する複雑な思いを反映してか、じわりじわりと支持を集めているのが移民排斥を掲げる英国国民党(BNP)だ。「人種差別政党ではない」と世間に訴えているものの、2004年にBBCの記者がBNPへの潜入取材を敢行した番組「シークレット・エージェント」では「パキ(パキスタン人)を撃て」「国境を封鎖しろ」などと語る様子を録画され、06年には「ガーディアン」紙の記者が同党に潜入取材、BNPのイメージを向上させるためのテクニックを党員に伝授したり、人種差別的活動を行う際には偽名を使うよう奨励するなどといった党の実態が暴露された。06年の地方選挙では大躍進を遂げた同党だが、07年12月には党首の方針に反発し、約50名の議員らが離党、自らをReal BNPを名乗るという騒動に発展した。また意外と知られていないが、BNPの移民排斥主義は、日本の移民政策をお手本にしているというからオドロキ。

こんな人が党員です!

06年「ガーディアン」紙の潜入取材で世の人をあっと驚かせたのが、イングリッシュ・ナショナル・バレエ団のプリンシパル(最高位ダンサー)、シモーヌ・クラークさんがBNP党員であるという事実発覚だった。その後はクラークさんの舞台出演に反対する人々が劇場の外に集結するなどの騒動も。実はこのクラークさん、当時は同団の中国系キューバ移民の男性ダンサーとパートナー関係にあり、5歳になる子供もいた。この一見矛盾する関係性に「???」だったが、やはりというべきか、07年12月にはBNPのハンサムな若手地方議員、リチャード・バーンブルック氏との婚約を発表。なんでも抗議行動が起こった公演にバーンブルック氏が激励に訪れたのがきっかけだったとか。

イラク戦争反対だけじゃない!
RESPECTリスペクト党
Respect (正式名称: Respect - The Unity Coalition)

ジョン・リーズ設立年: 2004年
党派: 左派
党首: ジョン・リーズ

党名の「リスペクト」とは、Respect, Equality, Socialism, Peace, Environmentalism, Community, and Trade Unionismの頭文字を取ったもの。設立当時はイラク戦争反対の姿勢を全面に押し出したため、特定の課題を達成するため活動を行う「特定問題政党」とも言われたが、現在では鉄道そのほか公共サービスの再国有化や環境保護などを唱えている。同党の支持者には、映画監督のケン・ローチ、ノーベル文学賞受賞の劇作家、ハロルド・ピンターなどの知性派著名人も。ちなみに党名にはちょっとしたいわくが。ロンドンでは市長主催で毎年「Rise」と呼ばれるフェスティバルが開催されているが、実はこのフェスティバル、もともとは「Respect」という名前だった。しかしリスペクト党が同名を名乗ったため、名付け親のケン・リビングストン・ロンドン市長は泣く泣く「Rise」と変更したのだとか。

こんな人が党員でした!

同党の設立メンバーの1人には、2006年1月に人気リアリティー番組「Celebrity Big Brother」に出演、レオタード姿で踊っている姿も記憶に新しいジョージ・ギャロウェイ氏がいる。そんな姿からは想像するのも難Gallowayしいが、真の姿は硬派な反戦主義者。03年、当時労働党の議員だったギャロウェイ氏は、国内で論争を呼んでいたイラク派兵に真っ向から反対し、同党を除名。翌年にリスペクト党を結成した。07年には同党の状態が「あまりに無秩序である」とするギャロウェイ派と、同党と協力体制にある極左の社会主義労働者党派に分かれ対立し、同年11月にはギャロウェイ派が「Respect Renewal」を結成、同党から脱退した。

マジメにくだらなさを追求します
OMRLPオフィシャル・モンスター・レイビング・ルーニー党
Official Monster Raving Loony Party
(OMRLP)

ジョン・リーズ設立年: 1983年
党派: ?
党首: アラン「ホーリング・ロード」ホープ

くだらなさ、皮肉をこよなく愛する政党。設立者はジャック・ザ・リッパーのコスプレなどで注目を集めた長髪ロッカー、スクリーミング・ロード・サッチ。同氏は1999年に死去したが、その精神は今も同党に脈々と受け継がれている。同党のマニフェストには、「亡命者は面白いジョークを言える限りは英国滞在を許可される」「米語のスペルを使用した者は、罰として1週間、オックスフォード英語辞典(大型版)を携帯する」など、一見バカバカしい政策がズラリ。とはいえ「未成年の選挙権獲得」「パブの24時間営業」など、実現してしまったものもあるのが怖いところ。

ロンドナーの悩み、お聞きします
One Londonワン・ロンドン党
One London

ダミアン・ホックニー設立年: 2005年
主義: ロンドン自治体の権限拡大
党首: ダミアン・ホックニー

ロンドン自治体の権限を拡大することを目的とした政党。英国のEU脱退、反移民など過激な主義を掲げる一方で、ロンドンの混雑税廃止、公共交通機関の24時間運営など、ロンドナーとしては気になる政策もチラホラ。ところでこのOne Londonという党名、どこかで聞いたことはないだろうか。05年のロンドン同時多発テロ勃発の際、リビングストン・ロンドン市長は同名のキャンペーンを組み、多民族の団結を訴えた。それが全く違う主義主張を持つ団体に、名前を使われたということで市長はかなりのご立腹だったそう……。

環境に優しい政党は同性愛にも優しい
Green Party of England and Walesイングランドとウェールズ 緑の党
The Green Party of England and Wales
(GPEW)

デレク・ウォール設立年: 1973年
党派: 左派
党首: なし(2008年より選出予定)
プリンシパル・スピーカー: デレク・ウォール、キャロライン・ルーカス

ヨーロッパを中心に、米国、アジアなど世界各国に存 在する環境政党、緑の党。同党の中心政策はもちろん環境保護。そのほか動物実験反対やフェミニズム、同性愛者擁護などの主義を掲げる。なぜエコ政党が同性愛フレンドリーになるのか。一見不可解だが、そのココロは「自由」。社会的弱者や少数派の人権保護を標榜する同党にとって、同性愛者たちの権利を守るのは、当然のことなのだ。

こんな人が党員です!

世界的に有名なゲイ・パレード「Pride」にも毎年参加するという同党、メンバーにはオーストラリア生まれの過激人権主義活動家、ピーター・ギャリー・タッチェル氏の姿も。「デーリー・メール」紙から「同性愛のテロリスト」 と呼ばれたこともあるタッチェル氏は2007年5月、同性愛者に対する風当たりが強く、市より開催を禁止されたロシアのモスクワでの「Pride」に参加、そこでネオナチらから暴行を受けたが、後に「モスクワに戻って活動することにこれっぽっちのためらいもないね」と語っている。 「Green, but not peaceful」と言うこの自然を愛する過激派に、今後も目が離せない。

保守党のオトモダチ
UKIP英国独立党
United Kingdom Independence Party
(UKIP)

ナイジェル・ファラージ設立年: 1993年
党派: 右派
党首: ナイジェル・ファラージ

英国独立党の生命線とも言える最大の主義は英国のEU 脱退。そのほか、英国内における中央集権の強化をうたっており、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド議会を廃止し、すべての権限を英国議会へ委譲するよう訴えている。「トーリー(保守党)の圧力団体」とも呼ばれる UKIPは多数の元保守党党員を抱え、某政治ウェブサイトの調査によると、調査対象となった保守党党員の半数近くがUKIPを「最も見解が近い党」と認識しているという。党の規律では人種差別を禁止し、極右関係者の入党を禁じているというが、人種差別、移民排斥との関連性を指摘する声は少なくない。

こんな人が党員でした!

UKIPの名物党員といえば、ロバート・キルロイ=シルク氏。元々は労働党の内政スポークスマンとして活躍していたが、左翼組織から嫌がらせを受け、一旦は政界を引退。その後はBBCで自身の名を冠した番組を持っていたが人種差別発言が元でホサれてしまう。しかしメゲないキルロイ氏、次はUKIPに入党し、2004年の欧州議会選挙で見事当選。欧州議会議員となったあかつきに議会で何をしたいかを問われ、「破壊してやる」と答えた恐るべきタフガイだ。その後の活躍が期待(!?)されたが、同氏は党内の勢力争いに敗れ05年に離党。その後、新政党「ヴェリタス」を結成したが、05年の総選挙で大敗したことを受け、同党党首を辞任、離党している。

2大政党制の中の小政党

英国政治は2大政党制と言われる。確かに英国の政治史を紐解けば、過去にはトーリー党(保守党)対ホイッグ党(自由民主党)、労働党対保守党という2大政党の対立図式が出来上がっていた。労働党と保守党という2大政党に、自由民主党が追随する形の現在。毎日のようにブラウン管を賑わせるこれら3党だが、その政策を見ると、一見、どれがどの政党のものだか区別がつかないほど似通っているものが多いことに気付かされる。その理由としては、一つに「小選挙区制」を採用している英国の政治システム、もう一つに現代英国における階級制度の変遷が上げられる。

小選挙区制
小選挙区制とは、定員と同じ数の選挙区を設置し、1つの区に1人の当選者を選ぶ選挙制度を指す。同制度では、最高得票者しか当選しないため、無駄になる票(死票)が多くなる。そのため、自分の票を無駄にしたくないと考える投票者は、本命が世論で人気があれば自票を投じる必要がないと考え、また人気がなければ投票しても無駄だと思い2番手の候補者に投票する傾向にある。そのため小選挙区制を取り入れている国では1番人気プラス2番人気の2政党が票を集めるという、2大政党制が形成されやすいとされているのだ。こうして野党第一党も政権を握る可能性がある2大政党制を持つ英国では、幅広い層からの支持を得るため、各党が打ち出す政策も現実的で実現可能なものとなる傾向がある。

階級制度の変遷
日本と比べると、いまだ国民の生活の中に「階級」という意識が残る英国。とはいえ、以前と比べれば上流階級と労働者階級の間の差異は狭まりつつある。20世紀後半には、労働・保守両党が、労組重視、福祉国家推進の労働党、規制緩和と民営化を推し進める保守党という、各支持層に訴える個性的な政策を打ち出していた。しかし現在では上流階級、労働者階級と簡単に括ることのできない中間層が増加、その新しい層にアピールするため、労働党ではニューレーバー(新しい労働党)を旗印に党内における労組の影響力を弱め、保守党も近年、環境や医療問題を重視するなど、ともに中道寄りな政策を提唱するようになった。

こうして政権掌握を狙う労働党、保守党と、3党政治を掲げる自民党の3党の政策が必然的に類似してくる一方で、政権を取る可能性の限りなく少ない小政党は、自由に自らの主義主張を打ち出してくる。特に英国では総選挙とは別に、北アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ロンドン市議会議員選挙などでは、得票率に合わせて議席を配分するため小政党にも勝算がある比例代表制が採用されているため、小政党の活躍振りを見るならこれらの選挙に注目するとおもしろい。

地方議会で活躍する小政党

大政党の影に隠れて、小政党がなかなか日の目を見ることのない中央政治。 しかし独自の議会を持ち、比例代表制が導入されている北アイルランド、スコットランド、ウェールズでは近年、地方政党が大躍進。ここでは各地方の政治システムとともに、有力地方政党を紹介する。

Walesウェールズ
Wales

1536年、イングランドに併合された後は、イングランドとの統合王国となったウェールズ。スコットランドや北アイルランドとは異なるその背景ゆえか、ウェールズ独自の言語、文化を守り続ける一方で、英国からの独立に対してはそれほど高い関心を持っていなかった。1997年にはウェールズ議会(National Assembly of Wales)の設立が提案され、同年9月に住民投票が行われたが、その際にも賛成50.3%、反対49.7%とかろうじて設立が決定。99年より議員選挙が行われるようになった。

政治システム
英国議会下院では40の議席を割り当てられている。独自の議会を持つが、スコットランド議会(Parliament)と異なり、Assemblyであることからも分かるように、法律を制定する権限は持っていない。ただし、地方自治や農業、教育、環境、文化などの分野における二次的立法権あり。議員の任期は4年。小選挙区比例代表並立制(Additional Member System)。

ウェールズ議会議員選挙の結果
第1回(1999年)      
党名
小選挙区
比例代表
労働党
27
1
28
ウェールズ国民党
9
8
17
保守党
1
8
9
自由民主党
3
3
6
無所属
0
0
0

2007年      
党名
小選挙区
比例代表
労働党
24
2
26
ウェールズ国民党
7
8
15
保守党
5
7
12
自由民主党
3
3
6
無所属
1
0
1

(Source: BBC Online)

ソフトに攻める、イマドキの民族主義
Plaid Cymruウェールズ国民党 (ウェールズ民族党)
Plaid Cymru

ユアン・ウェイン・ ジョーンズ設立年: 1925年
党派: 中道左派
党首: ユアン・ウェイン・ ジョーンズ

なんと発音すれば良いのか見当もつかない「Plaid Cymru」という党名。もちろんウェールズ語で、Plaid=政党、Cymru=ウェールズを指す。ちなみに読み方はプライド・カムリ。設立当初はウェールズの言語と文化の保護が主目的だったが、後に自治政府の設立→ウェールズ独立を目指すようになった。しかしそんな流れと反比例するかのように、党のイメージはソフトなものに。2006年には1933年から使用していた、3つの山にウェールズの象徴であるレッド・ドラゴンを組み合わせたロゴから、温かみのある黄色いウェルシュ・ポピーの花のロゴへと変わり、党名も通称をただ「Plaid」とするようになった。07年5月の議会議員選挙では15席を獲得し、労働党との連立政権を樹立。ユアン・ウェイン・ジョーンズ党首がウェールズ副首相の座に付いた、勢いのある党である。

Scotlandスコットランド
Scotland

トニー・ブレア、ゴードン・ブラウンと2代にわたり首相を輩出しているスコットランド。もともとは地方分権に積極的な労働党支持が強いお国柄だが、近年はスコットランド独立を目指すスコットランド国民党(SNP)の支持率が上昇している。スコットランド議会は1707年、イングランド、スコットランド両王国が合邦したことで一旦閉鎖されたが、98年の「スコットランド法」制定により、翌年より新議会が設立されている。

政治システム
英国議会下院では59の議席を割り当てられている。一方で独自の議会(Parliament)を持ち、所得税率を変更するなど、中央とは別に法令を定めることが出来る(ただし、財政や外交など、全国規模の問題を扱うことは不可)。選挙は4年ごと。小選挙区比例代表並立制 (Mixed Member Proportional Representation System)

スコットランド議会議員選挙の結果
第1回(1999年)      
党名
小選挙区
比例代表
労働党
53
3
56
スコットランド国民党(SNP)
7
28
35
保守党
0
18
18
自由民主党
12
5
17
その他
1
2
3

2007年      
党名
小選挙区
比例代表
スコットランド国民党(SNP)
21
26
47
労働党
37
9
46
保守党
4
13
17
自由民主党
11
5
16
スコットランド緑の党
0
2
2

(Source: BBC Online)

ショーン・コネリーも支持する第1党
SNPスコットランド国民党
Scottish National Party(SNP)

アレックス・サモンド設立年: 1934年
党派: 中道左派
党首: アレックス・サモンド

スコットランドの分離独立を目指す中道左派政党。2007年スコットランド議会議員選挙でついに第1党となり、アレックス・サモンド党首がめでたくスコットランド首相の座についた。00年にはSNP議員2名が、英国、ドイツ、南アフリカを中心に争っていた06年サッカー・ワールド・カップ開催地決定に関する公式ウェブサイト上の投票でドイツを推したことで、トニー・ブレア首相(当時)に「反英国的」と批判されたが、「ウェブ上での投票で反英国的とするのはくだらない」と一蹴した。その一方で昨年8月には英国からの独立を問う住民投票に関する白書を発表するなど、独立を実現するための準備を着々と進めているのがウマイところ。世界的俳優、ショーン・コネリーが長年支持している党としても知られる。

Northern Ireland北アイルランド
Northern Ireland

1960年代、それまで差別を受けてきたカトリック教徒と、プロテスタントが中心となっていた北アイルランド政府が激しく対立する、いわゆる北アイルランド問題が深刻化 した同地域。1972年には英国政府による直接統治が始まり、旧アイルランド議会は消滅した。98年には、英国とアイルランド共和国が北アイルランドの和平に関する合意文書に署名(ベルファスト合意)、同時に議会設置も決定された。それが現議会(Northern Ireland Assembly)である。しかしこの議会も、党派間の対立の激化などにより一時機能停止に。2007年3月、プロテスタント系のユニオニスト *強硬派、民主統一党(DUP) とカトリック系のナショナリスト *強硬派、シン・フェイン党の間で自治復活の合意がなされ、同年5月、4年半振りに自治機能が復活した。
*ユニオニスト(英国との連合維持を支持)、ナショナリスト(北アイルランドの独立を支持)

政治システム
英国議会下院では18の議席を割り当てられている。ウェールズ同様、Assemblyである同議会には自治権が委譲されているとはいえ、英国議会が保持している権限(外交や国防、通貨など)や、後に委譲される可能性があるが、現在は英国議会が持つ権限(警察や郵便)も存在する。任期は4年。比例代表制(単記移譲式比例代表制: Single Transferable Vote System)。

北アイルランド議会議員選挙の結果

※ U: ユニオニスト N: ナショナリスト

1998年    
党名
党派
アルスター統一党
U
28
社会民主労働党
N
24
民主統一党
U強硬
20
シン・フェイン党
N強硬
18
同盟党
6
英国統一党
U
5
無所属
U
3
進歩統一党
U
2
北アイルランド女性連合
2

1998年    
党名
党派
民主統一党
U強硬
36
シン・フェイン党
N強硬
28
アルスター統一党
U
18
社会民主労働党
N
16
同盟党
7
無所属
1
緑の党
1
進歩統一党
U
1

(Source: BBC Online)

武器を捨てた闘士たちの行く末は...... 
Sinn Feinシン・フェイン党
Sinn Fein

ジェリー・アダムス設立年: 1905年 (1970年には党が分裂し、暫定派シン・フェイン
(現在のシン・フェイン党)が設立された)
党派: 極左
党首: ジェリー・アダムズ

アイルランドのゲール語で「我々のみ」という名を持ち、世界中の多くの国からテロ組織として認定されている民兵組織IRA(アイルランド共和軍)暫定派の政治組織であるシン・フェイン。しかし2005年にはIRAに武装解除を勧告し武装闘争の終結を宣言させることに成功、昨年は犬猿の仲であるDUPに歩み寄り、自治復活を実現させるなど、近年ややソフト路線に転じている(ように見える)。一見インテリ学者のような風貌のジェリー・アダムス党首は、捕虜の虐待が明らかにされ問題となったイラクのアブ・グレイブ収容所の惨状を描き出した写真を見ても、「私も拷問写真に写ったことがある」と言ってのけるツワモノ。また北アイルランド議会副首相の座についたマーティン・マクギネス氏は、自治復活時の知的な好々爺といった雰囲気とは裏腹に、IRAのトップにまで上りつめ、「IRAのゴッドファーザーの中のゴッドファーザー」とまで呼ばれたバリバリの闘士である。彼ら過去の武闘派が、平和な北アイルランドの未来を築くことができるのか、今後に注目だ。

プライド・カムリのスポークスマン、
アラン・エヴァンズ氏にインタビュー

── 現労働党政権の強みと弱みはなんだと思いますか。

現政権の強みと言えば、以前まではメディアをコントロールする能力だったと言えるでしょう。とはいえ最近ではなんの強みも見せることができずにいますが。弱みと言えば、すべてを統制したがるという点でしょうか。常に中央政府の権限を強めようとしていますが、彼らにそんな能力などないのです。もっと地方議会に権限を委譲すべきです。

── プライド・カムリと現政権の政策における一番大きな違いはなんですか。

ウェールズ政府と中央政府の違いということで言うならば、ウェールズNHS(国民保険サービス)におけるPFI(公共サービスの提供を民間に委ねる手法)の不採用、農民に対する迅速な支援、公共交通機関の改善、そしてウェールズ語の保護などが挙げられます。我々(プライド・カムリ)の長期的な目標としてはウェールズ独立の実現があります。

── 英国の政治システムは2大政党制と言われます。この点についてどう思いますか。

地域によって変わると思います。ウェールズやスコットランドでは、4党制が確立していますし、北アイルランドでは、政党の様相はそのほかの地域とは全く異なります。ですが原則として英国政治のシステムは2、または2.5大政党制と言って差し支えないのではないでしょうか。その理由は小選挙区制です。もし比例代表制、または単記移譲式比例代表制になるようなことがあれば、議会はより民意を反映するものとなるでしょう。

── 英国は比較的小さな国です。にもかかわらず、ウェールズやスコットランド、北アイルランドの人々が独立を求めるのはなぜでしょう。文化や言語の保護以外に理由はありますか。

独立を求める原動力となっているのは、ウェールズの持つ独自の政治的風土なのです。ウェールズでは伝統的に中道左派政党を支持する傾向にありますが、イングランドにより決められた右派政権に苦渋を強いられることが多々あります。1980年代、90年代の保守党政権は、ウェールズにおいて全く支持を得ることが出来ず、また我々にとっても独自の生活様式が壊滅的状況に追いやられるという事態に陥りました。多くのナショナリストたちは、二度とこのようなことが繰り返されてはならないと決意し、右派寄りの政策から我が身を守るため、ウェールズの自治/独立を求めるようになったのです。

 

日本を愛した15人の英国人たち

日本を愛した15人の英国人たち

1858年に日英修好通商条約が締結され、日英間に初めて正式な外交関係が結ばれてから今年で150周年。この記念すべき年を祝うために、日本では「UK-Japan 2008」と題された催しが企画され、2008年を通じて両国間の交流がこれまで以上に活発に行われることが期待されている。そこで本特集では、これまで日英交流に多大な貢献を果たしてきた親日家の英国人15人を紹介する。(本誌編集部: 長野雅俊)

日英修好通商条約
1858年に日英間で締結された条約。米国のマシュー・ぺリー東インド艦隊長官率いる黒船の到来によって開国した、幕末の混乱期にある日本で締結された。この条約によって函館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が決まったが、一方で日本は関税自主権を行使できず、治外法権を認めさせられるといった内容であったために、現在では不平等条約であったと見る向きが強い。同条約によって日英間での正式な外交関係が開始されたと見なされており、150周年となる今年は日本で「UK-JAPAN 2008」と題された催しが1年を通じて行われる。
UK-JAPAN 2008 www.ukjapan2008.jp
 日本に美しき言葉を残した英国人

まだ飛行機やテレビ、インターネットなどといった科学技術が発達していなかった時代。当時日本を訪れた英国人たちは、遠く海を隔てた未知の国の様子を自国の人々に対してやや興奮気味に、または分かりやすく噛み砕くように比喩の形で知らせ、またある者は日本を深く愛するがゆえに日本人に対しての箴言(しんげん)を残した。

ラザフォード・オールコック「日本人の尊敬を得るためには」

ラザフォード・オールコック Rutherford Alcock

初代駐日英国総領事   1809~1897年
ロンドン出身

若くして医師としての実力を買われ軍医としてスペイン、ポルトガルなどに赴任するが、リューマチを患い医師として働くことが難しくなったために外交官へと転身。中国(当時の清国)において上海、広州の領事として勤務した経歴を買われて日英修好通商条約の締結後に初代駐日英国総領事として日本に赴任した。赴任中は当時日本を席巻していた「尊王攘夷」という外国勢力への反発に対して心労を重ねていたとされ、やがて長期休暇に入る。この休暇中に「大君の都」という本を著し、その中で「日本の政府と人民の尊敬を得るためには、何ら武力を示す必要はないのだ」と書き残した。富士山に登った初めての外国人とも伝えられている。

イザベラ・バード山形県を「東洋のアルカディア」と評した

イザベラ・バード Isabella Bird

旅行家   1831~1904年
ヨークシャー出身

幼少時から病弱だったために、23歳の時に療養のために米国の親戚を訪れる。その時の様子をまとめた本 「The Englishwoman in America」を出版した後は旅行作家としての地位を築きやがて中国、ベトナム、シンガポール、そして日本と東アジアを訪れるようになった。日本では1878年に東京、日光、新潟、そして北海道といった日本各地を訪問。その中でも特に山形県置賜地方の赤湯温泉での湯治風景に感銘を受け、同地の風景をギリシャ南部ペロポネソス半島中央部の丘陵地帯になぞらえて「東洋のアルカディア」と評した。後に神戸や京都、大阪、伊勢といった西日本も訪れ、それらの様子は「Unbeaten Tracks in Japan」と題された紀行文として残っている。

ハリー・S・パークス「人間の仕業ではない」と感嘆の声を上げた

ハリー・S・パークス Harry Smith Parkes

外交官   1828~1885年
スタッフォードシャー出身

アヘン戦争後の中国での貿易問題をめぐり発生した、アロー号事件で発揮した外交的手腕を買われて上海領事となる。1865年より日本駐在となり、以後18年間にわたって外交官として日本に滞在。当時の首相ウィリアム・グラッドストンの指令で和紙についての研究を行い、この文書は現在でもロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館と王立キュー植物園に残されている。また当時はまだ女人禁制だった富士山に夫人を伴って登頂し、女人禁制解除の流れを作ったなどの逸話も。日本では1871年に廃藩置県の実施という大改革が行われたが、その際に反乱が起きなかった様子を観察して、「欧米でこのようなことを行えば数年戦争が起きる。人間の仕業ではない」と漏らしたと伝えられている。

バーナード・ハウェル・リーチ「日本には日本がない」と苦言を呈した

バーナード・ハウェル・リーチ Bernard Howell Leach

陶芸家   1887~1979年
香港生まれ

祖父が住む日本の京都で幼少期を過ごした後、父の転勤に伴い香港やシンガポールなど各地を転々とした。ロンドンに戻り現地の美術学校で勉学中に、詩人で彫刻家の高村光太郎と知り合い日本への興味を強め、日本へ移住し白樺派と呼ばれる芸術運動に参加。以後は美術評論家の柳宗悦などと交遊を深めた。自身が33歳の時に日本人陶芸家の濱田庄司を伴い英国に戻り、コーンウォール地方のセント・アイブスにおいて日本の伝統的な登り窯を開いている。日本美術を高く評価し、「日本にはあらゆるものがあるが、日本がない。今、世界で最も反日なのは日本人なのだ」という言葉を残すなど、西洋を崇める日本人に警鐘を鳴らした。

 お雇い外国人として訪日した英国人

明治初期に日本が近代化を果たすために欧米諸国から招聘した各分野の優秀な人材を「お雇い外国人」と呼ぶ。産業革命をいち早く成し遂げた英国はまさに日本にとっては近代化のお手本のような国であり、同時期にお雇い外国人として日本の土を踏んだ約1800人のうち、その7割以上が英国人だったという。

バジル・ホール・チェンバレン「日本研究家」の草分け

バジル・ホール・チェンバレン Basil Hall Chamberlain

日本研究家   1850~1935年
ポーツマス出身

若かりし頃は英国において銀行業に携わり、23歳の時にお雇い外国人の1人として来日。海軍兵学校で英語を教えた後に、東京帝国大学の教授として勤務することになった。同大学で研究者としての才能をいかんなく発揮し、後に「ジャパノロジスト(Japanologist)」と呼ばれる日本研究家の草分け的存在に。俳句や古事記の英訳を手掛けたほか、アイヌや琉球の文化を含む日本文化全般についての研究を行い数々の著作を残した。後に日本人に帰化し小泉八雲となったアイルランド人作家のラフカディオ・ハーンとも親交を温めたとされるなど、彼の周りには幾人もの「日本ファン」が集まったという。

ウィリアム・ゴーランド日本考古学の父

ウィリアム・ゴーランド William Gowland

化学兼治金技師   1842~1922年
タイン・アンド・ウィア出身

30歳の時に当時の大阪造幣局によってお雇い外国人として招聘される。同局では自身の専門であった反射炉の築造や鎔銅作業の指導を担当し、日本における科学技術の近代化に大きく貢献した。また多趣味な人物として知られ、業務の合い間には日本絵画の収集に励んだり、英国の伝統的なスポーツであるボート競技の漕法を伝えるなどして日英の文化交流の促進に寄与した。特にまだ当時の日本ではあまり発達していなかった考古学の分野においては、日本各地にある古墳について非常に高い学問 水準の研究成果を残したために、後に「日本考古学の父」 と呼ばれるなど、日本文化に関する全てを愛した稀有なお雇い外国人であった。

ヘンリー・ダイアー日本を「東洋の英国」と呼んで愛した

ヘンリー・ダイアー Henry Dyer

工学者   1848~1918年
スコットランド出身

学生時代は「機械の都」と呼ばれたグラスゴーで勉学に励み、大英帝国の産業革命を支えた科学技術に関する知識を身に付けた。また幕末期に英国に密航した「長州ファイブ」と呼ばれる留学生の1人であった山尾庸三と一緒に学んだことから、日本についての見聞を広げたと伝えられている。グラスゴー大学を卒業後、お雇い外国人として招聘され、25歳の時から9年にわたって東京大学工学部の前身である工部省工学寮の教頭として勤務。日本を「東洋の英国」と名付けて、英国に帰国後も教育者として日本の文化を紹介するなど、日英交流の発展に大きく貢献した。電話機やサッカーを日本に伝えた人物としても知られている。

ヘンリー・ダイアー日本名を誇りとした

アーネスト・メイソン・サトウ Ernest Mason Satow

外交官   1843年~1929年
ロンドン出身

「Satow」というスラブ系の名字を持つスウェーデン人の父と、英国人の母との間に生まれる。18歳の時に英国の外務省に入省し、19歳で来日。通訳官を経て書記官となり、生麦事件、薩英戦争と日本が近代化を成し遂げるまでの激動の時代を見守った。タイ、ウルグアイ、モロッコ駐在を経て、52歳の時に再び日本に赴任。赴任中はもともと日本に馴染みのある「さとう」という名字に漢字を当てた日本名である「佐藤愛之助」を愛用し、また書道を始めとする日本文化に対しても深い理解を持つ親日家として、日本人との交遊を深めた。東京都千代田区の英国大使館前にある桜並木の植樹は彼が始めたものであり、この桜並木の景色は現在に至るまで残されている。

 日英修好通商条約締結後の日英史概略
1858年 日英修好通商条約を締結
1861年 水戸藩浪士14名が東京都港区東禅寺にある英国公使館を襲い、英国人2名が負傷(第一次東禅寺事件)
1862年 信濃松本藩浪士が東禅寺にある英国公使館を襲い、英国人2名を刺殺(第二次東禅寺事件)
1862年 生麦村大名行列を横切ろうとした乗馬中の英国人を薩摩藩士が切りつける生麦事件が発生
(写真右:事件が起きた生麦村)
1863年 生麦事件をめぐって鹿児島湾で砲撃事件が発生(薩英戦争)
1869年 エディンバラ公が来日
1873年 岩倉使節団岩倉使節団が訪英
1902年 日英同盟を締結
1910年 大日英博覧会がロンドンで開催
1921年 日英同盟の廃棄について合意
1961年 アレキサンドラ王女が訪日
1975年 エリザベス2世が日本を公式訪問
1987年 語学指導を行う英国人などを日本に招致するJETプログラムが開始
1998年1月 ブレア首相が来日
2001年 日英間でワーキング・ホリデー制度発足
2003年4月26日 ブレア首相と小泉首相ロンドンで小泉首相とブレア首相が日英首脳会談
2003年7月18日 ブレア首相が来日
2007年1月9日 ロンドンで安倍首相とブレア首相が日英首脳会談
2008年1月~ 日英交流150周年を記念して各地で記念イベントを開催
 現代日本を愛する英国人たち

「侍」や「浮世絵」といった、かつて外国人を惹き付けた文化が歴史の表舞台から消え去ってしまった現代日本の新たな一面を愛する英国人も多く存在する。テレビ司会者、スポーツ選手、文学者、そして起業家と、異なる分野でそれぞれ違った日本像が描かれているのも興味深いところだ。

フレディ・マーキュリー伊万里焼の収集家

フレディ・マーキュリー Freddie Mercury

ミュージシャン   1946~1991年
ザンジバル出身

伝説的なロック・バンド、クイーンのボーカル。ファンの間では広く親日家として知られていたが、そもそも彼の日本への興味を焚きつけたものは何と伊万里焼。収集のためにお忍びでの訪日もあったという。またソロ・アルバム収録曲「La Japonaise」では日本語での歌唱を披露。日本公演のMCも流暢な日本語でこなしていた。

ギャリー・リネカー実は日本語がかなり流暢

ギャリー・リネカー Gary Lineker

元サッカー選手   47歳
レスター出身

1993年の日本でのJリーグ開幕に合わせて名古屋グランパスエイトに入団。当時最高年棒の3億円で契約するも、怪我のために目立った活躍が出来ないまま2年目に引退した。このためファンから強い批判を浴びたが、意外にも日本滞在中は日本語の学習を熱心に行っており、帰国から10年が過ぎた今でも流暢に話すことが出来るという。

ジョナサン・ロス自他共に認める日本オタク

ジョナサン・ロス Jonathan Ross

テレビ司会者   47歳
ロンドン出身

トーク番組や映画紹介番組の司会での軽妙な語り口が人気のテレビ司会者。BBCの人気ドキュメンタリー番組「Panorama」をもじった「Japanorama」という番組の司会を務めながら、マンガやゲーム、オカルトといった日本の現代文化を紹介している。日本映画についての造詣も深く、過去に北野武や宮崎駿といった日本人映画監督へのインタビューを行っている。

デビッド・ボウイ現役知日派の代表格

デビッド・ボウイ David Bowie

ロック歌手、俳優   61歳
ロンドン出身

大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」で北野武や坂本龍一といった日本人アーティストと共演を果たしたことで日本の芸能界にも広い交遊録を持っており、また日本人デザイナーの山本寛斎がデザインした衣装を好んで自身のコンサートでもしばしば使用している知日派。一時は京都に別荘を購入したとの噂が週刊誌などで取り上げられたこともあった。

デービッド・ベッカム来日で20億円稼いだ

デービッド・ベッカム David Beckham

サッカー選手   33歳
ロンドン出身

日本では「ベッカム様」との愛称を持つほどの人気を誇る、恐らく日本で最も愛される英国人。その人気に応えるかのように、ソフトバンクモバイルや明治製菓、NTTドコモなどといった日本の企業テレビCMに頻繁に出演している。2003年の来日では「日本が大好き」とコメントして拍手喝采を浴びた。またこの来日では10日間の滞在で20億円のギャラが発生したと伝えられている。

C.W.ニコル日本の自然を誰よりも愛する

C. W. ニコル Clive Williams Nicol

作家   68歳
ウェールズ出身

元々は空手を習うために来日するも、日本における急速な地域開発の現状に危機感を抱いて日本における自然保護運動を開始。現在では長野県黒姫山の土地4万5000坪を購入して出来た「アファンの森」の運営などの自然保護プロジェクトを実施している。1995年には日本国籍を取得。「生物と文化の多様性を持つ日本が一番好きな国」として日本での生活を謳歌している。

サイモン・ウッドロフ日本文化でビジネスする英国人

サイモン・ウッドロフ Simon Woodroffe

起業家   54歳
エセックス出身

回転寿司チェーン「Yo! Sushi」やカプセル・ホテル「Yotel」を経営するなど、現代の一風変わった日本文化を次々と取り入れたビジネスを英国で展開し、日本を「最後のオリエンタル・ミステリー」と呼ぶ起業家。かつてはロッド・スチュワートなどの大物ミュージシャンの舞台芸術に携わっていた。また日本の人気番組「夜のヒットスタジオ」の制作などに関わっていたこともある。

 

北京五輪金メダル候補 キャサリン・グレインジャー選手

2008年五輪開催記念 金メダル候補にインタビュー

北京五輪の開催年となる2008年。ニュースダイジェストの新春第1号では、欧州各国で発祥したスポーツの現役第一人者たちにインタビューを試み、それぞれの競技が持つ歴史や五輪に対する意気込みを聞いた。英国から紹介するのは、ボート競技。今大会の金メダル最有力候補とされる女子チームとインタビューを行った。

Kathrine Graingerキャサリン・グレインジャーさん
Kathrine Grainger
1975年12月11日、スコットランド北部アバディーン生まれ。身長182センチ、体重80キロ。1997年の世界選手権のエイト(8人乗り)で銅、2003年に舵手なしペア(2人乗り)で金メダル獲得。2005年からはクオドルプルスカル(4人乗り)で3連覇を達成した。五輪ではシドニーでクオドルプルスカル、アテネでは舵手なしペアでそれぞれ銀メダルを獲得し、北京ではクオドルプルスカル女子チームの一員として金メダル最有力候補となっている。競技生活の傍ら法学の研究を続けながら学士号と修士号を取得しており、現在もロンドン大学キングス・カレッジの博士課程で刑法を専攻している。

レースが佳境に入ると、肺が破裂しそうになってアドレナリンが噴出します

まずは代表チームの構成とご自身のポジション、そしてチーム内での具体的な役割について教えていただけますか。

私は「クオドルプルスカル」と呼ばれる4人乗りボート競技チームの一員です。他にフラン・ホートン、デビー・フラッド、アニー・ヴァーノンという3人の選手と合わせて1つのチームを構成しています。

その中で私は船尾に最も近い位置に座る「ストローク」と呼ばれるポジションを担当しています。選手たちはボートの進行方向とは逆を向きながらオールを漕ぐことになるので、残りの3人は皆、私の背中を見ることになりますよね。だから彼女たちは私がオールを漕ぐペースに合わせる取り決めになっているんです。つまり、皆が私の真似をすれば一番でゴール出来るような、「勝つためのリズム」を作り出すのが私の大事な仕事です。

最後尾のグレインジャー選手
ボートの最後尾でオールのリズムを作るグレインジャー選手
© GB Rowing

北京五輪では金メダル最有力候補とされていますね。

チームとして脂の乗り切ったこの時期に、英国代表チームの一員として五輪に参加できることを誇りに思っています。北京に向けての期待感は段々と高まっていて、チーム全体としても「絶対勝つ」という断固たる決意を共有しています。

代表選手の活躍に加えて、皆さんを指導するオーストラリア人コーチのポール・トンプソンさんは今年、世界ボート連盟からその功績を評価されて「コーチ・オブ・ザ・イ ヤー」賞を受賞しました。

ポールは細かい点にまで本当によく目が行き届くコーチな んだと思います。特に私たちにとっては最も大切な「どうやって水をかいたらボートをより速く進ませることが出来るのか」ということについての知識を驚くほどよく持っていて、コーチとしての能力には時々圧倒されてしまいます。

英国といえば、サッカーのフーリガンに代表されるよう に熱烈なサポーターがいることで有名ですが、ボート競技においてはどうですか。

ボート競技の世界にも、私たちを応援するために世界中どこへでも駆けつけてくれる熱烈なサポーターたちがたくさんいます。彼らはあくまでも英国代表の一員として私たちと一緒にレースに参加することに喜びを感じてくれる人たちです。そんな彼らの応援は確実にチームのエネルギーへと転化しています。

優勝を決めた直後
2007年にドイツのミュンヘンで行われたボート世界選手権で
優勝を決めた直後の女子チーム© GB Rowing

緊張感なしでは、 世界最高レベルで戦うだけの力を発揮できない。

金メダルを意識する余り、重圧を感じたりしませんか。

精神的重圧は、外的要因ではなくいつも自分たちの内側から生まれるものだと考えています。最高の結果を出したい、自分が持つ能力を最大限発揮したいという気持ちが緊張を生むのです。

この種の緊張は、正直なところ耐え難く感じることもあります。精神的重圧にさらされている時は、安らぐことが全く出来ないですからね。ただ、たとえ苦しみを経なければいけないとしても、緊張感なしでは世界最高レベルで戦うだけの力を発揮できないのです。さらに言えば、それほどの重圧を感じることって、誰もが経験できるわけではない。非常に特別で貴重な体験として捉えようとも思っています。

北京五輪では、どのチームが最大のライバルになると思われますか。

私たちが参加するクオドルプルスカル女子においては、これまでドイツ代表チームが五輪を制覇してきました。だから彼女たちが最大のライバルになると思っていいでしょう。また最近では中国が力をつけてきていて、特に今回は地元開催となるので手強い相手となりそうです。

2005年8月に日本の岐阜でボートの世界選手権が開催されましたが、日本という国についてはどんな印象を持たれましたか。

このボート世界選手権で私たちは優勝することが出来たので、日本については良い思い出ばかりが残っています。現地の人たちは皆私たちを歓迎してくれて、いつも親切に対応してくれたので感謝しています。レース当日に日本人の観客の皆様が送ってくれた声援もとても嬉しかったです。

シドニーオリンピックでは銀メダル
2000年に開催されたシドニー・オリンピックでは銀メダルを獲得した。
右から2番目がグレインジャー選手
Neal Simpson/EMPICS Sport/PA Photos

講義室と水の上に浮かぶボートという2つの空間を行き来できることに幸福を感じていた。

ボート競技を始めたきっかけは何ですか。

実はボートを競技として始めたのは法学を勉強するために大学に入ってからなんです。最初は本気で取り組むつもりはなかったのですよ。でも当時から十分な背丈がありましたし、体もある程度鍛えてあったので是非ボート・チームの一員に、と勧誘されて始めることになりました。

でも結果的にそこで素晴らしい友人たちと出会うことが出来たので、ボートを始めて良かったと思っています。大学時代は大学の講義室と水の上に浮かぶボートという2つの大好きな空間を行ったり来たりできることに、ただただ幸福を感じていました。

今でも刑法の勉強を続けていると聞きましたが。

スポーツとは別の何かを学ぶのが単純に好きなんでしょうね。いつもとは違ったように頭を使って、ボート競技生活の中では知り得ない別の世界を知ることが出来る。もちろん、今では競技生活を最優先していますが、学業も疎かにはしていないつもりです。大学時代から二足の草鞋を履いていたので、私にとっては競技と勉強の2つのバランスを取ることで、お互いが相乗効果を発揮してより上手くいくような気がするんです。あとはやはり、それぞれ別の世界で全く考え方の異なる友人たちと話し合える機会を作るのが楽しいのだと思います。

キングスカレッジ
グレインジャー選手が刑法の研究を行っている
ロンドン大学キングス・カレッジ

普段はどこで練習を行っていますか。

ロンドン近郊レディングにある湖か、テムズ河の上流。後者の場合は、イングランド南部にあるマーロー地区まで出掛けることが多いです。

ボート競技を全く知らない人にその魅力を教えるとすれば、どのようなことを伝えますか。

ボート競技の魅力は、やはりレースです。普通にボートに乗っているだけでも、オールが水の中を滑っていく感覚を味わったり、またオールが水をかく音を聞くだけでとても心地良い気持ちになれます。でもレースになると、これに加えてボートを進める自分の脚力の強さを感じたり、自分の心臓が高鳴る音を聞いたりすることが出来るのです。

レースが佳境に入ってくると、今度は筋肉が痛みを感じたり肺が破裂しそうになったりしながらアドレナリンがどんどん噴出してきます。言い換えると、自分の体が何だかよく分からないけれどとっても活発に動いていることを自覚する。そして自分はこれまでに経験したことのない、とてつもなく素晴らしい何かに挑戦しているような気持ちになるんです。そんな感覚を味わえるスポーツが、ボート競技なんだと思います。

ボート競技の中にも色々と種目がありますね。グレインジャ ーさんは前回のオリンピックでは舵手なしペアで銀メダルを獲得されていますが、種目によって異なるアプローチを取られるのでしょうか。

技術の違いよりも、ボートの広さから生まれる気持ちの持ち方とその対応の違いの方が大きいと思います。ペアだとボート内は非常に狭い空間になり、2人だけですべての責任と課題を分け合っていかなければならないので、時にこの責任感がストレスになります。4人乗り、8人乗りとなるとスペースがもっとゆったりして責任も分散される一方、全員が同じ考えを共有するために努力する必要が出てくるためコミュニケーションを取る重要性が増してくる、といった具合です。

良いチームを作るためには何が一番必要でしょうか。

代表チームのメンバーは誰もが非常に強い個性を持っているので、やはりコミュニケーションを頻繁に取ってお互いに対する理解を深めるようにしています。チームワークにはやはり円滑なコミュニケーションが不可欠だと思いますし、時には他人に対して我慢することも必要です。

特に我々は多くの時間を、大きな精神的重圧を受けながら過ごすことになります。そういった環境の中でチームとして最大限の力を発揮するためには、チームワークをどれだけ維持できるかが鍵になると思って毎日の練習に取り組んでいます。

ボート競技競技解説
オールを使って漕ぐボートの速さを競う競技。国際大会では2000メートルの距離を争うことが多い。漕ぎ手の足はボートに固定されており、座席が前後に動くようになっている。競技者の人数に応じてシングル(1)、ペア(2)、フォア(4)、エイト(8)に分かれており、種目によってはオールを持たずに指示を出す舵手の有無によって区別があり、さらには漕ぎ手1人につき1本のオールを持つ「スウィープ」、オールを左右それぞれの手に1本ずつ持つ「スカル」という2つの形式に分かれる。近代ボート競技の起源は1716年にロンドンのテムズ河で行われた「ドゲッツ・コート・アンド・バッジ・レース」と言われている。

フランスフェンシング 
フランス代表有力候補 エロワン・ル=ペシュー インタビュー

ドイツハンドボール 
ドイツ代表選手 ヘニング・フリッツ インタビュー

 

2007年ハッピーニュース総ざらい!

2007年ハッピーニュース総ざらい!

今年も残すところあと10日。泣いても笑っても2007年も終了です!みなさん、どんな1年でしたか?世界では、戦争、テロ、殺人と相変わらず暗いニュースばかりが続きますが、だからこそニュースダイジェストでは、英国の「ハッピー」なニュースだけをピックアップ!笑顔で1年を締めくくり、まっさらな気持ちで新たな1年を迎えましょう。2008年の幕開けが、みなさんにとって幸せに包まれますように。

社会
ますますパリが近くなった
ユーロスター、 新ルート・オープン!

ユーロスター英国と欧州大陸を結ぶ高速鉄道「ユーロスター」が11月14日、英国内に新設した専用軌道での運行を開始。時速約300キロでの走行が可能となり、ロンドン―パリ間はこれまでより20分早い2時間15分、ロンドン―ブリュッセル間は1時間53分で結ばれる。ロンドンのターミナルは、ウォータールー駅からセント・パンクラス駅に移った。新ターミナルからは同日午前11時すぎ、ブリュッセル行きの「一番列車」が出発した。

ひとこと
この記念すべき日を盛大に祝うはずだったのだが、当日のフランスは交通ストまっただ中。それどころじゃない。フランス側の電光掲示板も、なぜか終点がウォータールのまま。1等車両の食事は、20分短縮されたせいなのか、なぜか1品少ない。とはいえ総合点では良。ロンドン市内へのアクセスは格段に良くなりました。
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政治
「影の功績」がついに認められて
ゴードン・ブラウン新内閣誕生

ブラウン内閣誕生10年間にわたり長期労働党政権を率いてきたトニー・ブレア首相の任期途中での辞任に伴い、6月28日をもって労働党のゴードン・ブラウン新党首が戦後第13代の首相に就任、同日中に新内閣が発足した。ブレア政権下ではナンバー2として財務相を務めながら、国内の好調な経済を長期にわたって維持してきたブラウン氏。ブレア氏よりいずれ首相の座を譲り受けるとの取り決めがあるとの噂が度々流れていたが、政権奪取後10年目にしてようやく首相の座を射止めた。

ひとこと
上品な英語で、目をキラキラと輝かせながら演説するブレア前首相に憧れて渡英したので、なんだか顔に「ザー」って影が走っているようなブラウンが首相になった日には鬱寸前。が、首相就任当初は支持率が非常に高くて、たとえ性格が地味でも、見る人はちゃんと見ているんだなって嬉しくなりました。
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王室
60年間続く愛もある!
英国王室初のダイヤモンド婚

ダイアモンド婚エリザベス女王(81)と夫のフィリップ殿下(86)が11月20日に結婚60年のダイヤモンド婚を迎え、前日の19日には、ロンドンのウェストミンスター寺院で記念式典が行われた。バッキンガム宮殿によると、ダイヤモンド婚を迎えた英君主は史上初めて。夫妻にとって、同寺院は結婚式を挙げた思い出の教会。長男のチャールズ皇太子と故ダイアナ元妃をはじめ、離婚が続いた英王室で「互いを支え合うエリザベス女王夫妻の仲の良さは際立つ」とは外交筋のコメント。

ひとこと
おっとりとした女王とアグレッシブな殿下。お互いにないものに惹かれたカップルと言われていますが、ある占術から見ると、この2人の性格は見た目とは逆。女王は、行動派。殿下はゆっくり型。「お互いにないもの」とは、実はお互いに「本当の自分」を持っているからなのかもしれません。
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社会
しょせん、他人のラッキーだけど……
史上最高、宝くじで85億円の大当たり!

宝くじで大当たり!8月11日、数字選択式宝くじで英国史上最高額となる3540万ポンド(約85億円)の当たりくじが出た。この確率は7600万分の1で、1995年6月に出たこれまでの最高額、2250万ポンドを一挙に抜き去った。当選者は、スコットランドに住む郵便会社勤務のアンジェラ・ケリーさん。夫と別居中で長男ジョンさん(14)と2人暮らし。宝くじは1.5ポンドで購入し、これまでの年収が2万1000ポンドだったことを明かし「当選を知った時は手が震えました。まだ動揺して実感がわきません」と話した。英紙によると、当選は秘密にするつもりだったが、職場内でうわさが広まり、会見することにしたという。

ひとこと
昔、近所のおっちゃんが宝くじで大当たりしました。が、いきなり大金が転がり込んだ彼は、人生を狂わせてしまいました。宝くじ当選と聞くと、いまだにその話を思い出します。アンジェラさんのその後が気になります。
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社会
「地獄の16週間」を生き抜いて
ガザでBBC記者解放 「世界中の人に感謝したい」

BBC記者解放パレスチナ自治区ガザで武装集団に拉致、拘束されていたBBC放送のアラン・ジョンストン記者(45)が7月4日未明、事件発生から約3カ月半ぶりに無事解放された。同記者は解放後、ガザ市でイスラム原理主義組織ハマス幹部のハニヤ前自治政府首相らとともに記者会見し、「人生で最悪の16週間だった。携帯していたラジオでわたしの解放を求める世界各地の人々の支援を知っていた。感謝したい」と述べた。ジョンストン記者は主要欧米メディアでガザに常駐する唯一の外国人記者。3月12日、銃を持った集団に拉致された。

ひとこと
今年も、この手の事件が目立ちました。アフガニスタンで韓国人ボランティア23人が拉致され2人が犠牲に、ミャンマーでも日本人の映像ジャーナリストが射殺されました。そんな中で、無事釈放されたのは、本当に良かったです。
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歴史
英国史に新たな記録が刻まれるか
ストーン・ヘンジで積年の謎を解く大発見!

ストーンヘンジ世界七不思議の候補ともされる英南西部の巨石遺跡群ストーンヘンジの近くで、同遺跡群を造った人々の集落の一部とみられる新石器時代(紀元前2600年ごろ)の住居跡を発見したと英大学の発掘チームが1月30日、発表した。研究者の1人は「ストーンヘンジは当時としては最大の埋葬地で(住居跡などを含む)巨大な複合施設の一部だったと考えられる」と述べ、諸説あるストーンヘンジの目的を解き明かす貴重な発見だと強調した。確認された住居跡は8棟で、それぞれ広さ約5メートル四方。最大で100棟あった可能性もある。

ひとこと
一口に紀元前2600年と言いますが、よく考えるとすごいですよねー。同じ場所から箱型ベッドや木製の棚があったことを示す跡も見つかったそうですが、今からざっくり4600年前。そんな時代に人がいたのでしょうか。不思議。
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スポーツ
300億円の男
英国のスーパースターは、やっぱりベッカム!

ベッカム英国一のフットボール選手であり、その私生活 の一挙手一投足まで注目される、デービッド・ベッカムが8月、米プロ・リーグ、MLSのロサンゼルス・ギャラクシーに移籍した。その契約金は、なんと、5年で総額2億5000万ドル(約298億円)!スポーツ専門テレビ局のESPNは、ベッカムの「金のために米国に行くと世間は言うだろうが、そうではない。才能ある選手とともにギャラクシーを新しいチームにつくり変えることは、とても楽しみだ」というインタビューを繰り返し放送した。

ひとこと
300億円って、もうなんだかよく分かりひとことませんが、ベッカムにとっては現実的な数字?英国の代表メンバーにも復活できたし、結婚生活も順調だし、彼にとって今年は何だかんだ言いながらハッピーな1年だったと言えるのでは?
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スポーツ
日本選手だって負けちゃいない!
中村俊輔が、栄えある賞をダブル受賞

中村俊輔スコットランド・サッカー記者協会は5月2日、今季の年間最優秀選手にセルティックのMF中村俊輔を選出。中村はプロ選手協会からも年間最優秀選手に選ばれており、ダブル受賞となった。欧州主要リーグで、日本人としての年間最優秀選手は初。同協会のブラック会長は「中村は見ていて楽しい選手。欧州チャンピオンズ・リーグのマンチェスター・ユナイテッド戦での2本のFKと、プレミア・リーグ優勝を決めたキルマーノック戦でのFKは彼を集約している。重圧の中で輝く瞬間を生み出せる」と評した。

ひとこと
スポーツ選手にとって、海外でプレーすることだけでもすごいことなのに、なんと2つの賞まで取ってしまった俊輔くん。「日本人の誇り!」。その一言に尽きますね。これからも、さらなる活躍を見せて欲しいです。
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スポーツ
「F1界のタイガー・ウッズ」「褐色のベッカム」
大型新人、ハミルトンが大活躍

ハミルトン今年一番の注目レーサーといえば、ルイス・ハミルトン。カリブの血を引き褐色の肌を持つことから、「F1界のタイガー・ウッズ」「褐色のベッカム」など、一躍時の人となった。実際、今年1年間の記録といえば、「デビュー6戦目で栄冠の初優勝」「米国グランプリで連勝」「ハンガリー・グランプリで優勝」「日本グランプリ優勝」とそうそうたるもの。年間ランキングでは惜しくも2位と敗れたが、今季の主役だったことに間違いはない。デビュー戦から9戦連続で表彰台に上がり、F1記録を大幅に更新。新人では歴代最多に並ぶシーズン4勝をマークした。

ひとこと
今年は本当にハミルトンの名前をよく聞きました。年間王者こそ逃したものの、「頭を高く上げて来季に向かう。そして今季の経験を土台に、もっと強くなってより良い仕事をしたい」 と誓った弱冠22歳。将来が楽しみですね。
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今年のニュース

ロンドン塔に、史上初の女性衛兵デビュー
「ビーフイーター」(牛肉を食べる人)の通称で知られる英国のロンドン塔の衛兵に、スコットランド出身のモイラ・キャメロンさん(42)が9月3日、女性として初の任務についた。500年以上の歴史の中で、女性の登場は初めて。キャメロンさんはこの日、濃紺地に赤いラインの伝統の制服を着用。メディアの取材に「とても名誉に思う」と笑顔で応じた。
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ヘレン・ミレンが主演女優賞を受賞
ヘレン・ミレン英国で最も権威ある映画賞、英国アカデミー(BAFTA)賞の授賞式が2月11日開催され、「クイーン」でエリザベス女王役を演じ、下馬評の高かったヘレン・ミレンが主演女優賞を受賞した。一方007シリーズのボンド俳優としては初のノミネートとなった俳優、ダニエル・クレイグは惜しくも受賞を逃したが、ボンド・ガールを演じた仏女優、エヴァ・グリーンが新人賞を獲得した。
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スパイス・ガールズ再結成
スパイス・ガールズ1990年代に活躍した英国の人気女性歌手グルー プ「スパイス・ガールズ」が、今年6月に再結成を発表。本当に?4人は実は仲が悪いんじゃないの?など世間ではまだまだ疑いの感があったが、表明通り、12月2日カナダでツアー初日を迎えた。約2時間のコンサートでは計22曲を熱唱、ガールパワー健在ぶりを見せつけた。
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ロッド・スチュワートロッド・スチュワート3度目の結婚
恋多き男でバツ2の英ロック歌手、ロッド・スチュワート(62)と「長身のブロンドが好き」という彼のタイプにぴったりハマッたモデルのペニー・ランカスター(32)が、6月16日イタリアで結婚式を挙げた。5年にわたる交際を経てのゴールイン。スチュワートの私生活はさておき、世界のロック界で認められている彼の実力は本物。今度こそ、3度目の正直になるよう穏やかな愛を育んで欲しい。
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ジョージ・マイケル、ロシア史上最高額のギャラをゲット!
ロシアのウラジミール・プーチン大統領(54)は、新年を祝うべく英国歌手ジョージ・マイケル(43)をモスクワ郊外にある彼の豪邸へと招待したという。昨年15年ぶりにツアーを再開したマイケルには、150万ポンド(約3億4500万円)の報酬が支払われたとされ、ロシアの歴史上、最高額のギャラを受け取った有名人になるとか。
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鉄の女のブロンズ像「鉄の女」が ブロンズ像に
英国初の女性首相として1979年から90年まで保守党政権を担い、「鉄の女」と評されたサッチャー元首相(81)のブロンズ像が完成し、議会で2月21日、除幕式が行われた。生存中に元首相の像が作られるのは、長い歴史を誇る英議会でも初めて。政界を事実上退いているサッチャー氏は、久しぶりに元気な姿を見せ「大変な光栄だ」と演説。「鉄で作った方が良かったかもしれないけど、さびないからブロンズがいいわ」とのジョークも交え、参列者の笑いを誘った。
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ヴィヴィアン・ウェストウッドの世界

パンクをモードへ転身させた
反逆性とエレガンスに見る
ヴィヴィアン・ウェストウッドの世界

どこか浮世離れした雰囲気を持つこの女性が、かつて「パンクの女王」と崇拝されていたと、誰が想像するだろう。「パンク」というファッションを創り、36年間のキャリアを経た現在でも奔放な想像力でアヴァンギャルドを突き進むデザイナー、ヴィヴィアン・ウェストウッド。彼女を一躍主流に押し上げたバンド「セックス・ピストルズ」のアルバム発売から30周年を迎える今年だからこそ、彼女の足跡を辿ってみよう。 (本誌編集部:國近絵美)

ブリティッシュ・ファッション・アワードに出席したヴィヴィアン。66歳にして、このカッコ良さブリティッシュ・ファッション・アワードに出席したヴィヴィアン。66歳にして、このカッコ良さ

ファッション・ルーツ

ヴィヴィアン・イザベル・スウェアは、綿工場で織工をしていた母親と、靴職人の家系をバックグラウンドに持つ父親との間に生まれる。物心ついた頃からファッションの虜だったというヴィヴィアンは、10代の頃にフランス人ファッション・デザイナー、クリスチャン・ディオールが「現代女性のための、現代的な服」として確立した「ニュー・ルック」と呼ばれるスタイルに深い影響を受ける。ニュー・ルックに憧れ、ヴィヴィアンは学校の制服をペンシル・スカートに作り変えたり、ロング・ドレスを作ったりしたという。

16歳で私立学校を卒業し、家族と共にイングランド中部からロンドンに移動してハロウ・アート・カレッジに通い銀細工とファッションを学ぶが、「労働者階級の女がどうやったらアートで生活していけるか分からない」との理由でわずか1学期で退学。工場で働きながら、教師になるための勉強をする。

革命児との出会い、そしてデザイナーの誕生

結婚・出産を経験した後で大学に入り歴史を専攻したヴィヴィアンは、この時期にその後私生活と仕事上で長年のパートナーとなるマルコム・マクラーレンに出会う。資本主義に対する怒りを理論化し、都市の再生と創造を目指す無政府主義政治団体、「Situationist International」に属し活躍していたマルコムに影響を受 けたヴィヴィアンは、自身も反体制派の考え方に傾倒していく。彼女は当時を振り返り、「あの頃は空けるべきドアがたくさんあって、マルコムはそのどれにも通じる鍵を持っている感じがした」と語っている。

そして71年、マルコムがロンドン、キングス・ロードにブティックを開くと、ヴィヴィアンは教師を辞め、そこでデザイナーとして活動し始める。当時ファッションはヒッピーが全盛期で、英国のラジオ局ではロック・ミュージックなど流れていなかったが、その時代に逆らうように「Let It Rock」という名で店を構えた2人は、50年代のロック・ミュージックのリバイバルとも言える洋服を扱った。

70s 前半パンクファッションの産声

マルコムとヴィヴィアンは、新しいコンセプトの服を発表する度にブティックの名前や内装を変えていった。「Let It Rock」では当時どこにも売っていなかったスキニー・ジーンズや編み目の粗いモヘアのセーターを、そして「SEX」では店名の通り、ポルノを連想させるデザインや引き裂いたシャツ、チェーンや安全ピンのアクセサリーなどを扱うようになる。SM要素を取り入れたこれらの前衛的なスタイルは、今日にも見られるパンク・ファッションの原点となる。

71年の「Let It Rock」で発売していた「ROCK」Tシャツ71年の「Let It Rock」で発売していた「ROCK」Tシャツ
グルグルと逆回りする時計は、26年前から変わっていないグルグルと逆回りする時計は、26年前から変わっていない

80s 前半ストリートからキャットウォークへ

ブランド「ヴィヴィアン・ウエストウッド」は瞬く間に英国産アヴァンギャルドの象徴となり、1981年にロンドンのオリンピアで、キャットウォークを使って初のコレクションを発表する。そして翌年1982年10月、マリー・クァント以来2人目の英国人デザイナーとして、コレクション発表の場をパリに移す。

1984年後半、13年間パートナーを務めたマルコムから独立したヴィヴィアンは、東京で行われた「The Best of Five」にカルバン・クラインや森英恵らと共に選ばれ来日、コレクションを発表する。17世紀から使われている英国の伝統的な生地や18世紀のアートにインスパイアされた彼女は、これ以降、ラディカルな思想をファッションに結びつけるだけではなく、アヴァンギャルドと歴史や伝統をミックスする独自の手法を取り入れるようになる。この頃から「伝統を持って未来を創る」という彼女のクリエイティビティーを象徴し、王冠と地球をモチーフにしたブランドのロゴ、Orb(宝珠)が使われるようになる。

85年の「Mini Clini」コレクション85年の「Mini Clini」コレクション
初のコレクション「Pirate」から初のコレクション「Pirate」から
ボタンやアクセサリーなど、様々なデザインに使われているロゴ、オーブボタンやアクセサリーなど、様々なデザインに使われているロゴ、オーブ
ボタンやアクセサリーなど、様々なデザインに使われているロゴ、オーブボタンやアクセサリーなど、様々なデザインに使われているロゴ、オーブ
ボタンやアクセサリーなど、様々なデザインに使われているロゴ、オーブボタンやアクセサリーなど、様々なデザインに使われているロゴ、オーブ

80s 後半ファッションに革命を

87年の「ハリス・ツイード」コレクションでコルセットを発表し、世界で初めて洋服の上から、あるいは洋服としてコルセットを着用するスタイルを提案。「自由の達成」と名付けられたそれらは、コルセットが中世から引きずっていた女性の行動を制限、抑制するイメージを払拭し、逆に女性本来の力やセクシュアリティを表現していると絶賛された。

87年に従来のコルセットの概念を打ち破って以来、毎年のように斬新な、デザインが発表されている87年に従来のコルセットの概念を打ち破って以来、毎年のように斬新な、デザインが発表されている
87年に従来のコルセットの概念を打ち破って以来、毎年のように斬新な、デザインが発表されている87年に従来のコルセットの概念を打ち破って以来、毎年のように斬新な、デザインが発表されている
同年の「Harris Tweed」コレクションより同年の「Harris Tweed」コレクションより
89年の「Voyage to Cythera」コレクションでは、モダンと中世のスタイルを斬新にミックス89年の「Voyage to Cythera」コレクションでは、モダンと中世のスタイルを斬新にミックス
89年の「Voyage to Cythera」コレクションでは、モダンと中世のスタイルを斬新にミックス89年の「Voyage to Cythera」コレクションでは、モダンと中世のスタイルを斬新にミックス

90s 前半タータン・チェックの秘密

スコットランドの伝統をパロディーとしてパンク・ファッションに使用し、それ以後の「パンク=チェック」というイメージを定着させたヴィヴィアン。そして1993年には「Anglomania」コレクションのために独自のタータン・チェックを作製し、これを前年に結婚した夫、アンドレア・クロンザーにちなみ「McAndreas(アンドレアの息子)」と命名した。

通常、タータン・チェックとして正式に認定されるには申請から200年かかるといわれているが、伝統的な生地や技術に再び光を当てた彼女の貢献を称え、スコットランドの「Lochcarron」社が早急に認定したという。同年のコレクションは、スーパー・モデルのナオミ・キャンベルがランウェイで転倒したことでも有名。

右のメンズ・ウェアに使用されているのが、ヴィヴィアン・オリジナルのタータン・チェック「McAndreas」右のメンズ・ウェアに使用されているのが、ヴィヴィアン・オリジナルのタータン・チェック「McAndreas」

90s 後半熟年のエレガンス

「印象的な服を着れば着るほど、人は良い人生を送れるの」と断言するヴィヴィアンのデザインは、この頃からフェミニン、かつエレガントなスタイルへ移行する。「思想をファッションに取り入れる」こと自体をポップ・カルチャーに育て上げた彼女にとって、ファッションとは「一度抱いた赤ちゃんを離せなくなるようなもの」なのだという。

94年の「Café Society」コレクションより94年の「Café Society」コレクションより

'00~ファッションを武器に

「自由を得るために主張することで初めて、人は真の民主主義を手に入れることが出来る」と説くヴィヴィアンは、2005年、人権保護団体「リバティー」に「I AM NOT A TERRORIST, please don't arrest me」のスローガンが入ったTシャツとベビー服、ピンバッジなどをデザインした。また、無実の罪により30年以上経つ今でも米国の刑務所で拘束されている米先住民、レオナルド・ペルティエの釈放を訴えるキャンペーンのデザインも手掛けている。これらは全て、ヴィヴィアンが掲げるマニフェストを特集したホー ム・ページ「Active Residence To Propaganda」で見ることが出来る。

美しいカッティングが多く発表された02年の「Anglophilia」コレクション美しいカッティングが多く発表された02年の「Anglophilia」コレクション

'06デイムの爵位を授与

2006年に、Knight(ナイト)の女性版であるDame(デイム)の爵位を授与したヴィヴィアン。無政府主義を謳ったバンドをプロデュースし、多くの若者に反体制派の考えを広めた彼女が王室からこのような賞を受けるのは、皮肉な話に聞こえるかもしれない。しかし「政府を攻撃したところで、マーケティングのアイデアを与えることになるだけだって学んだの。変革を起こしたいなら、プロパガンダに反抗することね」と語る彼女は、意外にも王室制度賛成派だという。この「世間が納得する」爵位の取得をきっかけに、彼女が行っている人権問題に関するキャンペーンがもっと真剣に受け取られるのではないかと期待しているそうだ。

さて、同年6月にバッキンガム宮殿で行われた授与式に、黒のドレスに「Active Residence to Propaganda」キャンペーンのバッジを付けて現れたヴィヴィアン。記者に「今日も下着を着けていないのですか?」と聞かれ「もちろんよ」と答えた。ドレスを着る時は下着を履かないと断言する彼女は1992年、エリザベス女王からOBE(大英帝国勲章)を授与された際に、中庭でくるりと一周してスカートを閃かせ、わざわざ下着を履いていないことを報道カメラマンたちにお披露目した前歴がある。「後で聞いたんだけど、女王は私のパフォーマンス、結構面白がっていたみたい」と語ったが、今回は母親と8歳になる孫娘が同席していたこともあり、下着未着用姿を披露することはなかった。

パンクとデザイナーの育ての親 マルコム・マクラーレン

ハイ・ストリートにフェティッシュ・ウェアを持ち込み、楽器もろくに弾けない若者たちを超売れっ子バンドに仕立て上げた影の立役者、マルコム・マクラーレンの素顔とは?

マルコムがヴィヴィアン・ウェストウッドと出会ったのは、彼が19歳のアート学生だった頃。当時破綻寸前の結婚生活から逃げ出すために、息子を連れて兄の家へ転がり込んだヴィヴィアンは、そこで同居していた7歳年下のマルコムと出会った。

そもそもパンクは米国のニューヨークで、英国以前に発祥している。75年ごろ、マルコムはパンク・バンドの元祖ともいえる「ニューヨーク・ドールズ」のマネージャーを一時期務め、若者たちがパンクに熱狂する様を目の当たりにしていた。一方、当時の英国は不況のどん底。完全にビジネス化してしまったロックは社会に不満を抱える若者にとって身近なものではなく、そんな彼らにパンクを与えてみようと思い立ったマルコムは、当時のブティック「SEX」の常連客や定員をオーディションし、バンド・メンバーを集めていく。

そして集まった若者たちにヴィヴィアンがデザインした過激な服を着せ、反社会的なパンク・バンドとしてデビューさせたのが「セックス・ピストルズ」の始まりだ。やがてバンドがメインストリームに押し上がると共に、ヴィヴィアンがデザインした洋服も社会現象になるほどの人気を博す。しかし、実際にメンバーが着た衣装のほとんどは、自作の安物だったという説もある。いずれにせよ、ボーカルの ジョニー・ロットンだけはガーゼ生地のシャツなど高価な洋服を譲ってもらっていたという。

時代を駆け抜けたカオスの代弁者 セックス・ピストルズ

たった1枚のアルバムで「パンク」の存在を知らしめ、そして未だにパンクの理想像として崇められている伝説のバンド、セックス・ピストルズ。ヴィヴィアンを語る上で欠かせない彼らの活動を、ここでざっくりおさらいしよう。

結成当時のメンバーはジョニー・ロットン(メイン・ボ ーカル)、スティーブ・ジョーンズ(ギター)、グレン・マトロック(ベース)、ポール・クック(ドラム)の4人。敏腕マネージャーであったマルコムの力により、メジャー大手であるEMIと契約、76年にシングル・デビューした。しかしあまりにも歌詞が過激だったため発売と同時に放送禁止となり、各都市での公演も相次いで中止、EMIからも契約を破棄されてしまう。その間にベーシストがマトロックからロットンの幼馴染であったシド・ヴィシャスに代わる。1977年、セカンド・シングルが全英2位の快挙を遂げ、同年、アルバム「勝手にしやがれ」が発売され、パンク・ムーブメントが英国中に巻き起こった。

「パンクの精神」そのものだと称され、ボーカルの ロットンと人気を二分したシド・ヴィシャスは、ベースなど弾けないままバンドに入り、ライブではベースをアンプに繋いでさえいなかったという逸話の持ち主。しかし、フラストレーションや怒りを音楽に変えるというパンク本来のパワーや、過去や未来の存在しない「瞬間」を生きようとする様は誰にも真似出来なかった。78年、バンドが解散した数カ月後、ニューヨークのホテルで恋人のナンシー・スパンゲン殺害の容疑で逮捕され、保釈中にヘロインの過剰摂取により21歳の若さでこの世を去る。

一方、過激で社会風刺の効いた歌詞でピストルズの人気を支えたロットン。しかしアンチ・キリスト発言や痛烈な王室制批判などのせいで、右翼や保守派の人々にとって目の敵となる。後に愛国主義者にナイフで襲われ、この後遺症が原因でギターが弾けなくなったという。パンク精神を体現しようとしたシドとは反対に、ロットンは早くからパンクの限界に気づき、78年の米国ツアー中に早々とバンドからの撤退を表明。これによりバンドはわずか2年余りの活動で事実上の解散となる。

若者たちに宛てた声明文 Active Residence to Propaganda

若い人に何を伝え、どうすれば世界をより良い場所に変えられるのか、という疑問から作られたというヴィヴィアンのマニフェストを紹介する「Active Residence to Propaganda(組織的な宣伝への積極的な抵抗)」と名付けられたホーム・ページ。ここでは「情報が溢れているこの時代、どの情報が正しくてどれが操作されているのか、自分で考え、真実を見極めなくてはいけない」と警告が発せられている。「アートは文化を生み出し、その文化こそがプロパガンダの解毒剤なのだ」という彼女の信念が細かに綴られており、2005年のコレクション「プロパガンダ」で使用したスケッチ、アイデアやグラフィックの他、ヴィヴィアンが定期的に行っているマニフェストの討論会を撮影したビデオ映像も見ることが出来る。

www.viviennewestwood.co.uk

4ラインの特徴

Gold Label

デミ・クチュールとも呼べるファースト・ラインで、ヴィヴィアンを象徴するライン。パリ・コレクションで発表される。

Red Label

プレタポルテ・ラインでゴールドよりもデイリーに着ることが出来るデザイン。コレクションは行われていない。

MAN

メンズ・ライン。ミラノ・メンズ・コレクションで発表される。

Anglomania

昔のコレクションを復刻したカジュアル・ライン。キングス・ロードのブティック「World's End」で扱っている。

2008年はハリウッドの動きに注目!

ヴィヴィアン・ウェストウッドの類まれなる半生を振り返る、ドキュメンタリー・タッチの映画が来年ハリウッドで製作されるという噂がある。マルコム・マクラーレンとの恋からセックス・ピストルズとのコラボレーション、そしてアンダーグラウンドの世界からパリ・コレクションへの飛躍を振り返る伝記的映画になる予定で、ヴィヴィアン役には人気女優のキルスティン・ダンストの名前も挙がっているとか。

ヴィヴィアン・クロニクル

結婚、出産、インスピレーションとの出会い、そして数々の賞の受賞。デザイナー・デビューから36年を過ぎた今でも活躍し続けるヴィヴィアンの半生、とくとご覧あれ。

1941年 4月8日、イングランド中部、ダービシャー地方の街グロソップにてヴィヴィアン・イザベ ル・スウェア誕生。
1957年 (17歳)家族と共にロンドンに移動。ハロウ・ アート・スクールに入学するも、1学期で中退。
1962年 (21歳)スチュワードを務めるデレク・ウェストウッドと結婚。北ロンドン、ウィルスデンの小学校で教師として働き始める。
1963年 (22歳)長男、ベンジャミン・アーサー・ウェストウッドが誕生。
1965年 (24歳)ウェストウッドと離婚。当時19歳のマルコム・マクラーレンと出会う。
1967年 (26歳)マルコムとの間に次男、ジョセフ・ファーディナンド・コレー誕生。
1971年 (30歳)マルコムがブティック「Let It Rock」をロンドン、キングス・ロードにオープン。そこでデザイナーとして活動を始める。
1972年 (31歳)ブティックの外観と内装を変え、店名もマルコムによって「Too Fast To Live Too Young To Die」となる。
1974年 (33歳)店名が「SEX」へ変わる。
1975年 (34歳)マルコムがパンク・バンド「Sex Pistols」を発掘、マネージャーとなり、ヴィヴィアンが衣装プロデュースを担当する。
1976年 (35歳)店名が「Seditionaries―Clothes for Heroes」となる。
1979年 (38歳)店は新しく「World's End」と名付けられ、現在に至るまで変わっていない。
1981年 (40歳)マルコムと共に、キャットウォークを使った初のコレクションをロンドン、オリンピアで発表。
1982年 (41歳)コレクションの発表をパリに移動する。マルコムと共にブティックの第2号店 「Nostalgia of Mud」をオープン。
1984年 (43歳)「Nostalgia of Mud」を閉店。マルコムから独立し、単身イタリアに移動する。東京で行われたファッション・アワード「Best of Five」に招待され、森英恵らと共にコレクションを披露。
1989年 (48歳)「世界の優れたデザイナー」6人のうちの1人として選出される。2月、2年間の契約で「Vienna Academy of Applied Arts」のファッション専攻の教授として教壇に立つ。
1990年 (49歳)12月、メイフェアのデイヴィス・ストリートにゴールド・レーベルを扱うショップをオープン。ブリティッシュ・ファッション・カウンシルによって「British Designer of the Year」に選ばれる。
1991年 (50歳)2年連続で「British Designer of the Year」に選ばれる。 7月、イタリア・フローレンスにて初めて、メンズ・コレクションを発表。
1992年 (51歳)「Royal Colledge of Art」にて名誉奨学研究員となる。ファッション・デザイナーとして始めて世界の時計ブランド「スウォッチ」のデザインを手がける。
12月、エリザベス女王よりOBE(大英帝国勲章)を受賞。 ヴェニスで教師をしている際に出会った元教え子で25歳年下のオーストリア人、アンドレア・ クロンザラーと結婚。
1993年 (52歳)秋冬コレクションのために独自のタータン・チェック「McAndreas」を作製。この年から現在に至るまで、ドイツ、ベルリンの「Berliner Hochschule der Knste」においてファッション専攻の教授として教壇に立つ。
1996年 (55歳)1月、ミラノで新しいメンズ・ライン「MAN」のコレクションを発表。
1998年 (57歳)ヴィヴィアン・ウェストウッド社がエリザベス女王より「輸出部門成長企業会社」として表彰される。9月、最初のフレグランス「Boudoir」がロンドンで発表される。 11月、モエ・シャンドン・ファッション・トリビュート第1回目の受賞者に選ばれる。
2000年 (59歳)セカンド・フレグランス「Libertine」 を発表。
2003年 (62歳)6月、「UK Fashion Expart for Design」賞を受賞。
2004年 (63歳)4月、ロンドンのV&Aミュージアムにて34年間の軌跡を辿る回顧展を開催。08年まで世界各地のミュージアムを周る予定。
2005年 (64歳)9月、英国を拠点とする人権保護団体「Liverty」に参加。
2006年 1月(65歳)、英国人デザイナーとして初めて、エリザベス女王よりDameの称号を与えられる。3度目となる「British Designer of the Year」を受賞。3月、ダイアモンド・ライン「Hardcore Diamonds」を発表。コスメティック・ライン「Vivienne Westwood Cosmetics」を発表。
2007年 (66歳)キングス・カレッジ・ロンドンの卒業生が着用するガウンをデザイン。2008年の夏に行われる卒業式で、正式にお披露目される予定。
 

ロイヤル・バレエで活躍する日本人ダンサーたち

ロイヤル・バレエで活躍する日本人ダンサーたち

「眠れる森の美女」
英国最高峰にしてヨーロッパでも有数のバレエ団に数えられる英国ロイヤル・バレエ。約100人のダンサーを擁するバレエ団に、現在日本出身のダンサーが6人も所属しているのをご存知だろうか。主役を踊る最高位のプリンシパルである吉田都が日本での仕事と両立すべく客演ダンサーとなった今、正団員として在籍するのは5人。王子や貴公子、爽やかな若者役を得意とする佐々木陽平、貴公子からエキゾチックな役までを自分の色で見せる蔵健太、様々な役柄で観客を魅了する小林ひかる、将来が楽しみな崔(チョエ)由姫、長身とダイナミズムが映える平野亮一。今回は、この注目の5人を特別インタビュー。それぞれのバレエに対する想いやロンドン生活について語っていただいた。
(茉莉あんじぇりか)
写真)「眠れる森の美女」 ブルー・バード Photo: AK

佐々木陽平品格の高さと香るエレガンス
佐々木 陽平

1975年11月29日生まれ。
岩手県盛岡出身。
1993年、ロイヤル・バレエ団に入団。ファースト・ソリスト。
ニューモルデン在住。

紳士の国、英国。その国の最高峰のバレエ団で「くるみ割り人形」の王子を踊る佐々木陽平。主演の女性バレリーナを引き立てることに常に心を砕き、品位高く踊る彼は、古き良き時代の英国紳士を髣髴とさせるダンサーである。スターでありながらロイヤル・バレエの異端児だった熊川哲也に対して、佐々木はいつもバレエ団が理想とする男性舞踊手を具現してきた。ロンドン生活16年、入団14シーズン。プライベートでは元バレリーナのマリアさんを奥様に、日伊ハーフの2児を持つ父でもある。

15歳で単身ロンドンへ

「盛岡でバレエを習っていた14歳の春休みに、旅行で2週間イギリスに来たんです。日本のお稽古場の冬季講習会で指導してくださったロシア人のスラミフ・メッセレル先生が、当時ロイヤル・バレエ・スクール(RBS)で教えていらっしゃったんですね。それでお会いしに行ったら、RBSのオーディションを勧められ、当時のRBSの校長先生からも留学したらどうかと言われました。ただ義務教育は終わらせてからということで、その時は日本に戻ったんです。翌年、(青少年の登竜門として有名な)ローザンヌ・バレエ・コンクールに出場し、奨学金を頂いてRBSで学ぶことになりました。

学校ではザミュエル先生に師事して、毎日肉体的にハードなレッスンをしていました。バレエ団には当時、熊川哲也さんがいらっしゃったんですよ。休みの日には、ドライブやレストランに連れていって頂いたり、一緒に焼肉をしたり、とてもお世話になりました。楽しくてホームシックになっている暇は全然なかったですね。ただ熊川さんはバレエには厳しかった。留学2年目の春、学校でのテストの結果が4位になってしまい、自分でもショックだったんですが、バレエ団に入団できるかできないかが決まる重要な時期でしたから『そんなことでどうするんだ!』とずいぶん怒られました」。

ロイヤル入団とキャリアを振り返って

「眠れる森の美女」
「眠れる森の美女」
ブルー・バード  Photo: AK

その後奮起した佐々木は無事ロイヤル・バレエ団に入団。日本人男性としては、熊川に次いで2人目の快挙であった。また入団2年目に、名振付家、アシュトンの「シンフォニック・ヴァリエーションズ」で、3人の男性主役のうちの1人に大抜擢される。他の2人は熊川哲也と、映画「リトル・ダンサー」で日本でも大人気となったアダム・クーパーだった。

「バレエ団での14年のキャリアを振り返ると2000年が区切りだったように思います。入団からの7年間は自分のバレエや人生を模索していた時代。その時代の終わりに結婚して、2001年にファースト・ソリストになり、団内でのポジションが築かれたわけです」。

夫として父として

私生活の伴侶であるマリアさんは北イタリアの出身。同じ年にバレエ団に入団した元バレリーナだ。足首の故障のために引退し、今は自宅で身体のコアを鍛えるピラーティスを教えている。2人は全く違う怪我でそれぞれ手術をしたにもかかわらず、同じ足に同じ位の手術の傷跡を持つ。

「子供は2人で、長男のジョゼフが4歳、次男のウィリアムが3歳になります。子供には本を読んであげたり、一緒に工作したり。2人にバレエを強制するつもりはないですね。ただジョゼフは踊るのが好きみたいです。お絵かきも上手で、僕より芸術の才能はあるみたいですよ。買い物はキングストンに行くことが多いですね。子供の物中心のショッピ ングです。今だったら冬物のコートや靴とか。子供のサイズはすぐ変わりますからね」。

「くるみ割り人形」作品の魅力と王子役裏話

ロミオとジュリエット
「ロミオとジュリエット」
ベンヴォーリオ役(右)を踊る  Photo: AK

12月8日から翌年1月19日まで上演の「くるみ割り人形」では、1月11、19日に王子役を踊る。去年は同役を怪我で降板し、地元のファンを嘆かせた。

「腰を悪くしてしまったんですよ。『フォー・テンパラメント』という作品のリハーサルで、一つのリフトがどうしても上手くいかなくて何度も持ち上げていたら腰にきてしまったんです。それに小さい子供がいると、抱いたり、子供が床に落としたものを拾うのに、しゃがんだりするじゃないですか。そんな無理が積み重なって腰にきてしまったんでしょうね。

今回上演される「くるみ割り人形」はクリスマスに観る作品として最適ですし、誰が観ても楽しく、そして感動できるバレエです。冒頭のクリスマス・パーティーの場面では、バレエ学校の子供たちもたくさん出ています。主人公のクララがソリに乗る『雪の国』のバレリーナたちは美しいですし、最後の幕の『各国の踊り』も楽しいです。

僕が出るのは一番最後ですから、1幕のパーティーの場面の音楽を聴きながらヘアやメイクをしてもらって、『雪の国』の場面あたりでウォーム・アップをしています。普通のバレエ作品の場合、踊り始めて随分たってからグラン・パ・ド・ドゥ(GPD=主役男女の見せ場)ですが、この作品はいきなりGPDですから、自分のテンションを高めるのに神経を使いますね。純粋な古典バレエですし、王子役は技術的にも難しいんですよ」。

子供にも雪で遊ぶ楽しさを教えてあげたい

バレエ・ダンサーにとっては最も忙しいクリスマス。佐々木はどのように過ごすのだろうか。

「我が家では24日の夜にプレゼントを開けます。妻がイタリア人ですから25日の朝はパネトーネを食べて祝います。2月初めにやっと休暇がもらえるのですが、この冬はイタリアのスキー・リゾートに行って子供たちをソリで遊ばせてやるつもりです。僕は岩手の雪で育ったので、子供たちにも雪で遊ぶ楽しさを味わってもらいたいと思っているんです」。

日本人男性にはまれにみるエレガンスをそなえ、ヨーロッパの大バレエ団に君臨する佐々木陽平。現在在籍する日本出身の他の4人のロイヤル・バレエ団正団員を陰で見守り、支えているのもまた彼である。この冬、そして今後の佐々木の活躍に期待したい。

蔵健太気品とダイナミズム 今が旬の踊り手
蔵 健太

1978年8月2日生まれ。
北海道旭川出身。
1997年入団、ソリスト。
イズリントン在住。

1995年にモスクワで開催されたローザンヌ・コンクールに出場。足を剥離骨折しながらも踊り抜き、見事スカラシップ賞を獲得する。2年間ロイヤル・バレエ・スクールに留学し、入団。現在は主に準主役を踊る。白人並みのプロ ポーションと優れた音楽性を持つ、華のあるダンサーである。この冬は「くるみ割り人形」の花のワルツとアラビアの踊り、「ピーターラビットと仲間たち / ザ・バレエ」ではカエルのジェレミー、「スケートをする人々」ではブラウン・カップルを踊る。

ロイヤルは歴史のあるバレエ団で、良い作品は長く守り、繰り返し上演します。そんな歴史を守っていくのが僕たち団員の役目ですし、新作を踊る場合は、僕たちがバレエ団の新しい歴史になるわけで、身が引き締まる思いがしますね。

これまでのダンサー人生を振り返ると、剥離骨折、膝の手術、腰を痛めたりとケガが多かったと思います。そこで2年前にバレエ団でのキャリアを真剣に考え、バレエの基本をじっくり稽古したり、食事を変え、ジムに通って美しい身体づくりに励むようになりました。

食事については(日本人の)妻がいろいろ考えてくれ、魚中心の和食にして体重を10キロ落としました。日本人の場合、やっぱり白人の何十倍も努力しないとダメだと気付いたんですね。その結果ソリストになることができました。頑張れば何かを得られる街、それがロンドンの魅力ではないでしょうか。

蔵健太
「眠れる森の美女」 ガーランド・ダンスー左下に蔵健太と小林ひかる(左写真)
「ヴォランタリーズ」(右写真)Photo: AK

小林ひかるオールマイティーな魅力で観客を魅了
小林 ひかる

1976年9月19日生まれ。
東京都出身。
2003年入団、ソリスト。
クラパム・サウス在住。

大きな瞳とスリムな肢体が、少女マンガの主人公のような小林ひかるは、古典バレエから現代作品まで幅広いレパートリーを持つ。パリ・オペラ座バレエ学校に留学してバレエを学び、その後スイスのチューリッヒ・バレエ団、オランダ国立バレエ団で活躍。4年前に私生活のパートナーであるイタリア人ダンサー、フェデリコ・ボネリ(プリンシパル)とともにロイヤルに移籍してきた。インタビュー当日、左手薬指に光る指輪について尋ねると、9月に婚約されたのだという。この冬は「くるみ割り人形」の花のワルツとスペインの踊り、「ピーターラビットと仲間たち / ザ・バレエ」のベーチャー・ブラック・ピッグを踊る。

「ラ・バヤデール」
「ラ・バヤデール」影の王国ソリスト
Photo: AK

「くるみ割り人形」は、クリスマス・ツリーや家の内部のセット、衣装など、イギリス独特で小さな子供が求めるファンタジーで一杯のバレエです。この冬上演する「ピーターラビットと仲間たち / ザ・バレエ」も大人から子供まで楽しめる作品だと思います。

趣味はガーデニングです。家に庭はないんですが、ベランダで植物を育てています。今は季節的にパンジーとシクラメン。

バレエ団では、1週間に3作品のリハーサルや舞台に追われることもありますから、体調管理は大切です。普段は毎日ビタミンCを1000ミリ摂っていますが、風邪気味だな、思ったら1500ミリに増やします。ブーツで買えるオール・デイ・ディフェンスC+Zingや、ファースト・ディフェンス(ネーザル(鼻腔)スプレー)などがお勧めですね。

平野亮一将来が楽しみな長身ダンサー
平野 亮一

1983年9月5日生まれ。
兵庫県尼崎出身。
2001年入団、ファースト・アーティスト。
フィンチリー在住。

ローザンヌ・コンクールにおいて、海外の著名バレエ団で1年間働くことができる研修賞を獲得し、ロイヤル・バレエ団にやって来た平野は、ロイヤルの中で最も長身。母はバレリーナで、バレエ教室を経営。兄の啓一もバレエ・ダンサーというバレエ一家の出身。この冬は「くるみ割り人形」のねずみの王様、スペインの踊り、アラビアの踊り、花のワルツを、「ピーターラビットと仲間たち / ザ・バレエ」ではカエルのジェレミー、「スケートをする人々」ではブラウン・ボーイを踊る。関西人らしい明るさの持ち主だが、実は肺の病気にかかり、現在は薬を飲みながら舞台に立っている。

「背の高さは役を得る上で有利か」とよく聞かれますが、僕自身はそうは感じていないですね。背が高いとどうしても貴族の役など後ろで立っているだけの役をもらいがちですから。

(今回の抜擢は)ダンサーとして人間として、バレエ団や仲間に信頼された結果なんだと思います。1年目は言葉も分からず、いっぱいいっぱいでしたが、2年目からは慣れてきて、今では友達も多くできて毎日を楽しんでいます。

趣味はいろいろありますが映画鑑賞かな。忙しいので家でDVDを観ています。好きな映画は繰り返し観ますね。「スター・ウォーズ」と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がお気に入りで、毎年クリスマスはこの2本を観て1人で過ごすんですよ。

暗いヨーロッパの冬を乗り切るには、「1日を楽しむ」「友達と話し、笑う」ことかな。やっぱり「笑い」が一番ですよ。

平野亮一
「レクイエム」ー右端に平野亮一、左から4人目に蔵健太(左写真)
「ラ・バヤデール」婚約披露宴の踊り(右写真)Photo: AK

 崔 (チョエ) 由姫可憐と優美 ─ 将来期待のバレリーナ
崔 (チョエ) 由姫

1984年3月29日生まれ。
福岡出身。
2003年入団、ファースト・アーティスト。
コベント・ガーデン在住。

ローザンヌ・コンクールで研修賞を獲得し、ロイヤル・バレエ団に入団。可憐な容姿と繊細にして芸術性豊かな踊りで将来が期待されるバレリーナだ。ロンドンに来る前は、パリでバレエを学んでいた。米国のボストン・バレエ団入団の話もあったが、年齢的に若すぎることが問題となり、最終的には入団できなかった。その後、コンクールに出場し、ロイヤル・バレエへ。この冬は「くるみ割り人形」1幕の人形、2幕の雪の精、3幕の芦笛の踊りを、「ピーターラビットと仲間たち / ザ・バレエ」や「スケートをする人々」でも目立った役を踊る。

以前はパリ・オペラ座バレエ団入団を夢見たこともありました。パリは街のすべてが絵に描いたよう。古典的で芸術的、美しい街で雰囲気があります。ただフランス語をしっかり話せないと相手にされませんし、何よりも治安が悪いんです。ロンドンの街は古典的な部分と、近代的な部分の両方があって面白いと思います。フランスのバレエは「型」があって、崩せないのですが、イギリスのバレエには「遊び心」があってそれが自分には合っていると気が付きました。

ロイヤル・バレエ団では、皆ダンサーである前に人間なんだなと思います。ロイヤル版の「くるみ割り人形」も、1幕のパーティーの場面から人間味に溢れているんですよ。

将来はキレイなだけの踊り手ではなく、お客様に感動を与えるバレリーナになりたいです。でもその前に一人の女性として、素敵でありたいです。ジュリエット役を踊るのが夢なんですよ。

崔由姫
「ラ・バヤデール」影の王国ソリスト(左写真)
「眠れる森の美女」リラの精のおつき(右写真)Photo: AK

この冬のロイヤル・バレエ上演作品とその魅力

ヨーロッパの冬がその暗さを最も増す12月から1月にかけて、ロイヤル・オペラ・ハウスに点る灯は、ひときわ暖かく光り輝いて、人々を誘い迎え入れる。特に今年の冬は、大人から子供まで楽しめる作品が目白押しで、バレエ初心者や、家族連れが大いに楽しめる内容になっている。

ロイヤル・バレエ

くるみ割り人形

クリスマス・バレエと言えばこの作品。謎めいたドロッセルマイヤー氏からクリスマス・プレゼントに醜いくるみ割り人形をもらった、少女クララ。パーティーの場面に始まり、クララが旅する雪の国、お菓子の国のセットや衣装、踊りのカラフルで素晴らしいこと。バレエ団のダンサー、バ レエ学校の生徒たちが、様々な役で活躍する。

見所は1幕、ドロッセルマイヤー氏が子供たちを集めて見せる人形たちの踊り、ねずみの王様率いるねずみ軍とくるみ割り人形率いる軍隊の戦い、3幕の各国の踊りと、主役である金平糖の精と王子のグラン・パ・ド・ドゥ。

日本出身のダンサーでは、吉田都と佐々木陽平が、主役の金平糖の精と王子を踊るほか、今回ご紹介したダンサーたちも、全員出演予定。

The Nutcracker Main Auditorium
2007年12月8日~2008年1月19日
Box Office: 020 7304 4000
* スケジュールの詳細は、ウェブを参照
http://info.royaloperahouse.org

ピーターラビットと仲間たち / ザ・バレエ

ピーターラビット、リスのナトキン、アヒルのジェマイマなど、ベアトリクス・ポターの絵本の登場人物が大活躍する楽しいバレエ。可愛い着ぐるみを着て踊るダンサーたちに注目だ。

見所は大きな跳躍を見せるカエルのジェレミーと、トウ・シュースで巧みに踊る子ブタちゃんたちの踊り。

今回ご紹介したダンサーたちでは、蔵健太、平野亮一がカエルのジェレミーに抜擢されているほか、小林ひかる、崔由姫も出演予定。今回10年ぶりの上演となる英国ならではのバレエをお見逃しなく。

スケートをする人々

古き良き時代の冬のスケート・リンクに集まってくる若者たちを描いたバレエ。得意のスケート技術を披露するブルー・ボーイ、ロマンティックな恋人たちであるホワイト・カップルなど、ある者は元気で快活に、ある者は優美に踊る、心に残る小品である。

それぞれの役名は、着ている衣装の色からとられている。崔由姫、蔵健太、平野亮一らが出演する予定だ。

Tales of Beatrix Potter / Les Patineurs
Main Auditorium
2007年12月23日~2008年1月8日
Box Office: 020 7304 4000
* スケジュールの詳細は、ウェブを参照
http://info.royaloperahouse.org

12月放映予定のロイヤル・バレエ関連テレビ番組

実際、劇場に足を運ぶには忙しすぎるという方は、テレビで今回ご紹介したダンサーたちの活躍をご覧になってはいかがだろう。

ITVの人気芸術番組、サウスバンク・ショー(SOUTHBANK SHOW)では、12月中に「くるみ割り人形」特集を放映予定。佐々木陽平とラウラ・モレーラの練習風景を観ることができる。

BBCはクリスマスにロイヤル・バレエ版「ロミオとジュリエット」を放映予定で、佐々木陽平がロミオの友人、ベンヴォーリオを踊るほか、小林ひかる、崔由姫がジュリエットの友人、蔵健太がマンドリン・ダンス、平野亮一もヴェローナの若者役で出演している。

ロイヤル・バレエ団とは

1931年設立。創設者は、元バレリーナで振付家でもあったニネッタ・ド・ヴァロワ。当時はロンドン北部のサドラーズ・ウェルズ劇場を本拠地に、ロンドン南部オールド・ヴィック劇場でも公演したことから、ヴィック・ウェルズ・バレエ団と呼ばれていた。

世界の著名バレエ団の中では、比較的若いロイヤル・バレエ団が世界的に注目されたのは、振付家フレデリック・アシュトンとケネス・マクミランによる優れた作品群と、優美でたぐいまれなるスター性を持ったバレリーナ、マーゴット・フォンティーンの活躍によるところが大きい。

フォンティーンは10代でデビュー。「眠れる森の美女」のオーロラ姫役が圧巻の、バランス能力に優れたダンサーだった。創設者、ヴァロワ女史の助言により、晩年にはロシアから亡命した直後のルドルフ・ヌレエフとパートナーを組み、後には「世紀のパートナーシップ」とまで呼ばれるようになる、一世を風靡した息の長いバレリーナだった。

アシュトンは、物語バレエ、抽象バレエの双方に優れ、作品の「美」に何よりもこだわった名振付家。代表作には「シンデレラ」「真夏の夜の夢」「シンフォニック・ヴァリエーションズ」「ラプソディー」などがある。

一方のマクミランは、人間の心の闇にこだわり、ドラマティックな作品を多く手がけた。代表作は「ロミオとジュリエット」「マノン」「マイヤリング、うたかたの恋」「大地の歌」など。中でもマクミラン版「ロミオとジュリエット」と「マノン」は世界中で愛され、各国のバレエ団がこぞって上演している。

Royal Opera House
Bow Street
Covent Garden
London WC2E 9DD

ロイヤル・バレエ団ダンサーの階級について

ロイヤル・バレエ団に在団している約100名のダンサーは、主役を踊るプリンシパルをピラミッドの頂点に、5段階6種類の階級=ランクに分けられている。ランクによって踊る役が違うのはもちろん、給与もまた違ってくる。

プリンシパル・ダンサー
主役、準主役を踊る
現在、女性11名、男性8名

プリンシパル・キャラクター・アーティスト
王様、王妃様、キャピュレット夫人(ジュリエットのお母さん)など、物語バレエの主だった役を演じる  
現在、女性3名、男性4名

ファースト・ソリスト
主役、準主役を踊る 
現在、女性4名、男性7名

ソリスト
1人で踊る(ソロ)準主役や、2~3人で踊るような目立った役を演じる
現在、女性9名、男性8名

ファースト・アーティスト
群舞の一つ上。明日のスターが隠れているランクである。平野亮一や崔由姫のようなスター候補生はソロ、または2~3人で踊るような役に抜擢されている
現在、女性12名、男性12名

アーティスト
コール・ド・バレエとも呼ばれる。いわゆる群舞で、女性アーティストの場合、「白鳥の湖」ならば白鳥の群の1羽を踊り、「ロミオとジュリエット」ならば女性はヴェローナの街の娘、男性ならば街の若者や、舞踏会の場面などで大勢で踊るグループの1人となる。通常はバレエ学校から入団して1~4年の若手が在籍する
現在、女性13人、男性6人

 

屋内で暮らす「ホームレス」たち

屋内で暮らす「ホームレス」たち

北半球の高緯度に位置する英国の冬は長く、寒い。そしてこの季節になると英国のメディアで頻繁に取り上げられるのが、ホームレスの人々だ。駅の構内や路上といった公共の場所で毛布にくるまり夜を明かすために、普段は疎ましがられることが多い彼らも、冬になるとチャリティ団体の活動が活発になるため、その存在に対する注目が増える。ただ関係者の話によると、メディアが取り上げるこうした路上生活者は例外的であり、実際には英国のホームレスのほとんどが屋内に住んでいるという。今回はイングランドの事情を例に取りながら、この「隠れたホームレス」たちに焦点を当ててみた。
(本誌編集部: 長野雅俊)

イングランドにいる「屋内で暮らす ホームレス」

「屋内で暮らすホームレス」の数は13万人

全人口が5000万人強とされるイングランドにおいて、自らを「ホームレス」と定義して地方政府に保護手当を要請しているのは約30万世帯。このうち、政府が実際に援助が必要なホームレスであると認定しているのが約13万7000世帯となっている(中でもロンドンに多く、全人口に対して1%の割合で存在している)。こうして政府から認定を受けたホームレスたちは、専用のホステルやベッド&ブレックファースト(B&B)などの宿泊施設、または地方政府が用意した住宅施設などに住んでおり、彼らが「屋内で暮らすホームレス」たちの正体である。

一方、「ホームレス」と言われて一般的に思い浮かべられることが多い路上生活者(Rough Sleeper)たちは上の数字に含まれていない。彼らの多くが政府に届け出を行っていないために実態を把握するのは困難だと言われているが、推定ではイングランド全体でも約500人程度の規模だという(2004年、副首相府調べ)。つまりイングランドには、路上生活者の200倍以上に上る数の「屋内で暮らすホームレス」たちがいることになる。

ちなみに2003年の厚生省の調べによると、日本全国に存在するホームレスの数は2万5296人。この数字と比べても、英国の「屋内で暮らすホームレス」の数は突出している。

「屋内で暮らすホームレス」と路上生活者の違い

先に述べた、イングランドの法制において政府援助の対象となる13万人以上の「屋内で暮らすホームレス」たちは基本的に、(1)不可避的にホームレスになったと見なされる (2)優先的に援助が必要と判断される、との2つの要素を満たした者となっている。(1)については自己責任の有無が問われ、(2)については扶養家族がいたり、身体または精神に障害を負っている、家庭内暴力の被害を受けている、かつて軍隊勤務の経験や前科歴があるため社会復帰に援助を要する場合などに認められる。逆に例えば扶養家族を持たず、軍隊の勤務経験もないがアルコール中毒になったためにホームレスとなった独身男性などが、政府の援助を得ることが出来ずに路上生活者となることが多い。

ホームレスの2割以上は元軍人

エドウィン・リントンさん退役軍人組織「Ex-Service Action Group」の統計によると、英国全体に存在するホームレスのうち約22%が元軍人。彼らの多くが義務教育を終えた直後に入隊し、以後は軍隊の中でまるで自身の家族を築くかのような生活を送るために、一般社会に出てから自立した生活を営む際に問題を抱えてしまう場合があるという。また戦場という危機的状況には対応出来ても実社会における職業的技術を持ち合わせていないため就職が出来なかったり、場合によっては戦場でトラウマを抱えてしまった者などが除隊後に社会に適応できなかったりしてホームレスになってしまう場合が多い。今ではホームレスのためのチャリティ団体「Crisis」でボランティアとして働くスコットランド出身の64歳、エドウィン・リントンさんもかつてはそのうちの1人だった。

「16歳の時に入隊して、軍隊に27年間勤め上げました。バッキンガム宮殿で護衛したり、アフリカ東部に駐在していた時までは良かったのですが、北アイルランドでの駐在で色々な問題にぶち当たった。もう詳しくは話したくはありませんが、命の危険を感じたり、心が不安定になるような出来事ばかりだった。そしてアルコール中毒になった挙句に除隊せざるをえなくなって、路上生活を始めました。以後、お酒の量はどんどん増えていったのです。周りの路上生活者と徒党を組んでは、他のグループと訳も分からず喧嘩ばかりしていましたね」。

政府援助を受けるホームレスの該当理由(一部)
扶養家族の存在
妊娠中である
前科者
軍隊経験者
高齢者
身体障害者
精神病患者
保護者との死別
家庭問題
家庭内暴力
17歳以下である
 


「屋内で暮らすホームレス」の生活 [1]
政府援助の対象となったホームレスにはいくら支払われるのか

16歳男性、週£60のホステル(3食込み)に住むAさんの場合
住宅手当(3食付き) 週£39
保護手当 週£35.65
特殊事情に対する特別手当 週£11.20
週£85.85

35歳女性、2人の子供を持ちながら週£100の家に住むBさんの場合
住宅手当(光熱費込み) 週£83.35
保護手当 週£59.15
単身親への特別手当 週£22
週£164.50

保護手当は種々の理由で労働に携ることが出来ない者に対して支給される。住宅手当は通常、家賃の料金がそのまま支給額となるが、状況に応じてこれに特別手当が割り当てられたり、また逆に光熱費や賄い費込みの住居に関しては一定額が差し引かれたりする。上の図表はあくまで一例であり、支給額は個々のケースによって大きく変わる。英国会計検査院の調べによると、ホームレス対策のために英国民の税金から支出される予算は年間10億ポンド(約2300億円)。


「屋内で暮らすホームレス」の生活 [2]
デービッド・クックさんの1日

デービッドさん35歳、ニューカッスル出身
16歳の時に軽歩兵部隊に入隊。英国内で駐留を続けた後、21歳で除隊しホームレスとなる。近年まで路上生活を続けるも、2カ月前よりロンドン東部リバプール・ストリート駅近くにあるホームレス専用のホステルでの生活を始めた。2年前に£65でギターを購入した後はギターを習い始め、将来は歌手として生きることを目指している。現在の目標は、なるべく早くホステルを出て自分の部屋を持ち、録音機器を買うこと。

「21歳で軍隊を離れてから、路上生活はこれまで3回経験したことがあります」と語るデービッドさんは、現在は政府から援助を受けながらホステルに宿泊する「屋内で暮らすホームレス」の一員となっている。将来ミュージシャンになることを目指す彼は、かつてはバスキング(街頭で音楽を演奏してお金を稼ぐこと)を主な収入源としながら路上生活を営んでいた。「2カ月ぐらい前からホステルに宿泊できるようになったので、昔みたいにバスキングをしなくてもよくなりました。今はようやく、自分の曲を書くことに集中できます」。

バスキングただバスキングをしていた時の方が、日によっては自由に使えるお金が多かった。まだロンドンのウォータールー駅でバスキングを始めたばかりの頃、習いたてのギターではわずか1曲しか弾けなかったにも関わらず、1日で50ポンドも稼いだことがあるという。「でも路上生活していると、食べ物、飲み物も購入しなければならないので結局は高くつきますね。ホステルであれば食事は安く提供してもらえますから」。

また安全や健康の面でもホステルでの生活の方が格段に良い。「路上では絶対に深く眠ることは出来ません。ロンドンでは、どんな時間でも人々が側を通り過ぎて、酔っ払いが絡んできます」と話す。「今は安定した生活を手に入れたことで音楽という目指すべき方向性が見えてきて、これが生きがいになっている。早くミュージシャンとして自立できるようになりたいですね」と夢を語ってくれた。

デービッドさんのある1日
6:30 起床、シャワーを浴びて、しばしテレビ鑑賞
8:00 ホステル提供の朝食を食べる
8:30 自分の部屋に戻りギターの練習
11:00 外出し、日常品の買出し
14:00 ホステルに戻り、ギターの練習
17:00 ホステル提供の夕食を食べる
18:30 チャリティ団体が主催するコースで学習
20:30 ホステルに戻る
21:00 ホステルの仲間としばしチェスに興じた後、ギターの練習
23:00 就寝

デービッドさんの家計収支(週当たり)
収入
失業手当 週£57.50
住居手当 ホステル宿泊費の割引分として反映
週£57.50
支出
ホステル宿泊費 週£40
食費(朝夕2食、ホステル宿泊費込み) £0
チャリティ団体でのコース料 £0
服、靴下 £12
ギターの弦 £5
週£57

ビッグ・イシューを販売して、生活できるのか

ビッグ・イシュー1991年に英国で創刊され、2003年からは日本版も発売が開始されたホームレスが販売するストリート・ペーパー、「ビッグ・イシュー」。労働の場を提供することでホームレスの人々に自立を促すことを目的とした同誌では、一部を£1.50で販売、このうち£0.80が販売員の収入となり、残り£0.70がビッグ・イシューの製作費、人件費として徴収される。ホステルなどに住んでいる「見えないホームレス」たちにとっては、住居費などを政府の援助で賄うことが出来るので、売った部数がそのまま収入になる。ビッグ・イシューの販売経験のあるデービッドさんは1日に30部をさばき計£24の収入を得たことがあるようだ。

「地元の人々と知り合いになれるので、地域住民の一員という感覚を味わうことが出来た」というデービッドさん。一方で「(販売員に対する)あからさまに見下しているような人々の視線」が気になり、長くは続かなかったという。

屋内で暮らすホームレスへの支援とは

イングランドには政府が認める「屋内で暮らすホームレス」が13万人も存在することは既に述べた。 その中には様々なケースがあって、政府からの援助をわずかな支えとしながら生活の困窮に耐える世帯もあれば、何も事情を知らない人が見れば、なぜ援助の対象となっているか分からないような人たちにも出会う。果たして、ホームレスに対する援助はどのように行われるべきなのか。ユニークな例として、先のページで登場したデービッドさんが利用するホームレスを対象としたボランティア団体「Crisis」と、ホームレスのみで構成された劇団「Cardboard Citizens」の関係者にそれぞれ聞いてみた。


「屋根があるだけでは人は生きていけない」
ホームレスのためのチャリティ団体「Crisis」代表
レスリー・モーフィーさん

レスリー・モーフィーさん私たちのチャリティ団体では、ホステルやB&Bなどに住むいわゆる「隠れたホームレス」たちを悪循環から救い、自立した生活を送ることが出来るように働き掛けています。

英国では古くから深刻なホームレス問題を抱えてきたのですが、政府やチャリティ団体が一丸となって対策を講じてきたので、近年になってからは確かに路上生活者の数が激減しました。でも決していなくなったのではなく、彼ら路上生活者が隠れてしまったのです。Crisisでは、政府の統計には表れないこうした「屋内で暮らすホームレス」たちが40万人いると見積もっています。

 

自作を前にポーズをとるホームレス
自作を前にポーズをとる
ホームレス
ホームレス問題は、ホームレスの人々に住む家を与えるだけでは解決しません。彼らが自分の力で生きていくためには、一定レベルの教育や技術が不可欠だからです。そこでCrisisでは自転車修理の方法から、絵画のレッスンまで多様な学習コースを提供しています。こうしたコースを通じて身につけた技術は、ホームレスたちの新たな可能性を開き、さらには新しい人々と会うための機会を作る道具となって、それらの要素が前向きに生きる意欲を生み出すのです。

 

 Crisis

1967年に設立されたチャリティ団体。1971年に「オープン・クリスマス」と題したイベントにおいてホームレスに食べ物や部屋を無償で提供する運動を始め、英国のメディアから注目を集めるようになる。2002年からは「スカイライト」と名付けたプログラムを運営し、ホームレスたちが様々な文化に触れる機会を作ることで、彼らに社会復帰を促す試みを行っている。

住所: 66 Commercial Street London E1 6LT
TEL: 0870 011 3335
Website: www.crisis.org.uk

Crisis
Crisisでは英語やコンピューターのレッスンに加えて、音楽や絵画、タンゴのレッスンも無料で実施している

「文化の問題は、文化によって対処を」
ホームレスで構成された劇団「Cardboard Citizens」プロジェクト・アシスタント
リチャード・マックスさん
Cardboard Citizensのメンバーたち
Cardboard Citizensのメンバーたち

私は、ホームレス問題というのは、文化構造の歪みから生じたものだと考えます。ゆえに、この問題を解決しようとすれば文化を持って対処するべき、というのが私の考えです。この考えを実現するため、私たちは観客と一体となって作り上げる「フォーラム・シアター」と呼ばれる演劇形態を用いた、ホームレスで構成された劇団を運営しています。

次に英国のホームレスが手厚く保護され過ぎているのではないかという議論についてですが、大切なことは彼らがなぜホームレスになったか、ということ。もし彼らが怠惰な生活を送っているためだとしたら、なぜ彼らは怠惰になってしまったのか。こういった疑問に対する解答は、対話を通してのみ生まれてくると信じています。だからこそ私たちは、演劇を通して、ホームレスたちが人生を前向きに歩んでいくための道を模索していくことを願っています。

 Cardboard Citizens

1991年に設立された、ホームレスやホームレス経験者を中心として構成された劇団。過酷な状況で生きる人間への理解を深めながら、種々の問題を克服していく技術を身につけることを目的とした「フォーラム・シアター」という形式の劇を上演している。この演劇活動を通じて、演技者であるホームレスの行動力や、逆にホームレスに対する理解を一般観客から引き出すのが狙い。

住所: 26 Hanbury Street London E1 6QR
TEL: 020 7247 7747
Website: www.cardboardcitizens.org.uk

舞台で演技するメンバーたち
舞台で演技するメンバーたち
フォーラム・シアター
ブラジルの演出家アウグスト・ボアールが構築した演劇体系。同じ台本を2回にわたって異なる方式で演じるところに特徴がある。通常は重要な問題を含んだストーリーを持つ台本を、舞台俳優がまずは1回演じて見せる。次に同じ台本を元に同じ俳優が再び演じるのだが、この際に観客が劇を中断させながら、ストーリー上で問題を起こした俳優のセリフや行動を指摘し、それに応じて演技者は即興的に演技を変えながら問題解決を図るという仕組みになっている。
 

ターナー・プライズ 2007

ターナー・プライズ2007

英国の近代アートにおいて、知名度、権威ともにナンバー1の「ター ナー・プライズ」。しかし、2008年にリバプールが欧州文化都市となることを祝し、23年間の歴史上初めて、ロンドンではなくテート・リバプールで候補者の展覧会と授賞式が行われるとあって、実際に鑑賞に行けない人も多いのでは?そこで、4人の候補者がこの展覧会のために用意した作品と、選考対象となったエキシビションを一部紹介。12月3日の受賞者発表前に、ターナーが誰の手に渡るか予想してみては?(本誌編集部: 國近絵美)


ターナー・プライズとは?
1984年に「一般市民が新しい美術に関心を持つようになる」ことを目指して設立。07年現在、賞の対象者は50歳以下の英国籍、あるいは英国で活躍しているアーティストとされ、90年を除き、毎年4人のアーティストがノミネートされてきた。「ターナー」は18~19世紀に活躍した英国を代表する画家、J・M・ターナーの名にちなむ。


「物」が発する声に耳を澄ますアーティスト
ザリーナ・ビーミ Zarina Bhimji

1963 Uganda生まれ
1982-83 Leicester Polytechnic
1983-86 Goldsmiths' College, University of London
1987-89 Slade School of Fine Art, University College London

このエキシビションで展示されている写真とビデオ作品は、どれもウガンダ生まれのビーミが90年代後期から行ってきた、東アフリカに関する大規模なリサーチから生まれたものだ。不安感をあおるほどの空虚さや、人工的なまでに生気を失った風景を写す彼女の写真は、「空間」がかつて持っていた匂いや温度、音や雰囲気を伝えるドキュメンタリーとしての存在、そしてその空間がもうどこにも属していないというセンチメンタルな感情を持ち合わせている。それは社会や生活の一部であった物や場所が発する残像や声を見逃さない、ビーミならではの鋭く繊細な視点があってこそ捉える ことができる風景なのだろう。

また、彼女が3年前に訪れた工場で撮影されたのが、隣室で上映されているビデオ作品「Waiting」だ。サイザルと呼ばれる、ロープの原料となる麻を扱うこの工場では、労働者たちの顔が写されることはない。それゆえ、せっせとサイザルを加工していく手からは、物を大量に生産しては消費していく人間たちが、「街」という有機体に住み着くパラサイトであるかのような印象を受ける。この35ミリフィルムで撮影された後に高解像度のビデオに転写されたという映像では、扇風機にはためく埃、漆喰の壁に空いた穴、それらを照らす、屋根の隙間からこぼれる強い日差しといった何気ない風景が、詩のようなリズムと美しさで展開されていく。そしてその美しさの陰に、現代社会が持つメランコリーが強く滲む作品だ。

ザリーナ・ビーミIllegal Sleep 2007 © Zarina Bhimji. DACS, London 2007
Photo: Courtesy of the artist and Haunch of Venison, London
ザリーナ・ビーミShadows and Disturbances 2007 Courtesy of the artist and Haunch of Venison, London ©Zarina Bhimji. DACS, London 2007

Mike Nelson空間の魔術師
マイク・ネルソン Mike Nelson

1967 Loughborough生まれ
1986-90 University of Reading
1992-93 Chelsea College of Art and Design, London
ロンドン在住

出展作品: AMNESIAC SHRINE or The misplacement (a futurological fable): mirrored cubes - inverted - with the reflection of an inner psyche as represented by a metaphorical landscape

「記憶喪失の神殿、あるいは間違って置かれた物(未来学的な寓話):精神を比喩的な風景として『あべこべに』反射させた鏡張りの箱」という、とてつもなく長い、立派なタイトルを付けられたこの作品。狭い展示スペースに入る と、部屋の中心には焚き火のインスタレーションが無造作に置かれている。燃えあとの残る木は本物だが、火はプラスチック製で、明らかに偽物。解釈に困ったまま、そそくさと次へと移る他の観客と一緒に隣の部屋に入ると、今度は床から天井まで続く箱が4つ並んでいる。それぞれの箱に空いた穴をのぞくと、そこには砂と小さな電球で出来た夜の砂漠のような空間が、鏡張りの壁に反射して無限に広がっている。人工的な美しさはあるものの、4つのどの箱も、中身は同じ風景。箱と箱の狭い間を縫って次の部屋に行くと、最初の焚き火のインスタレーションに戻っている。しかし、「なんだ、これだけか」とあなどるなかれ。これは実は最初に入った部屋ではなく、全く別の部屋なのだ。もう一度箱の部屋に入り、来た道を戻ると、ちゃんと最初の焚き火の 部屋に戻っている。

デジャヴの様な錯覚を人工的に造り上げたこの作品は、ある空間の中にさらに異なる空間を作ることで、観客を一瞬のうちに独自の世界に引き込んでしまうネルソンの実力が見事に現れた傑作だろう。観客に「ギャラリーで作品を鑑賞している」という自己意識と、作品を理解する時の無意識の状態を行き来してほしい、という本人の希望が見事に達成されている。鑑賞後に、膝をたたいて「まいった!」と言いたくなる希有な作品だ。

代表作: AMNESIAC SHRINE or Double Coop Displacement

ネルソンが90年代後半から登場させている、元湾岸戦争の従軍兵が結成したという想像上のバイカー集団、「Amnesiacs(記憶喪失)」シリーズ。SF小説や音楽、映画、歴史や神話など、あらゆるものからインスピレーションを受けるという彼の作品の多くは、観客がそれぞれのフィルターを通して理解し、作品同士をつなぎ合わせていくことが要求される。※この作品は今回のエキシビションには含まれていません。

代表作: Mirror Infill

この暗室は06年のフリーズ・アート・フェアで、目立たないようにギャラリー・スペースの間に設置された。あまりにもリアルな部屋に、多くの観客はこれが作品であることに気がつかなかったとか。※この作品は今回のエキシビションには含まれていません。

マイク・ネルソン 壁に空いた穴をのぞくと、上の砂漠のような風景が広がる
AMNESIAC SHRINE or The misplacement (a futurological fable): mirrored cubes - inverted - with the reflection of an inner psyche as represented by a metaphorical landscape 2007 ©Mike Nelson Photo: Photography: David Lambert & Rod Tidnam, Tate
マイク・ネルソン AMNESIAC SHRINE or Double Coop Displacement, Matt's Gallery, 2006 ©Mike Nelson Courtesy the artist and Matt's Gallery, London.
マイク・ネルソン Mirror Infill, 2006 Commissioned and produced by Frieze Projects ©Mike Nelson Courtesy the artist and Matt's Gallery, London

Mark Wallingerアートを武器に、現代社会を斬る
マーク・ ウォリンジャー Mark Wallinger

1959 Chigwell, Essex生まれ
1978-81 Chelsea School of Art, London
1983-85 Goldsmiths' College, University of London
ロンドン在住

出展作品: Sleeper

英国の階級社会にシニカルな笑いを持って対峙し、歪んだ社会構造に疑問を投げかけるアーティスト、マーク・ウォリンジャー。彼が今回の展示作品に選んだのは、04年に製作したビデオ1本のみだ。そして真っ暗闇に設置されたスクリーンに映るのは、素人っぽい、手ぶれしまくりのカメラワークでクマの着ぐるみを着た本人を追ったドキュメンタリーである。

ガラス張りのモダンな建物の1フロアを行ったり来たりするクマを眺めているうち、観客が実際にパフォーマンスに参加することなく、事後報告のようにアイデアを見せられるのは果たしてアートなのか、と疑問が浮かぶ。しかし頭が重いのか、うつむき加減でうろうろと不格好に歩くクマ(実際、とても足が短い)を見守っているうちに、「偽物」に隠れながらも、アーティストの動揺、孤独などがひしひしと伝わってくる。時おり通行人が立ち止まっては、建物の中でうなだれているクマを見て笑い去っていく。ガラス張りということは、その対象が望むが望むまいが、傍観者は興味がある時にだけ見る、ということだ。時々、観客に向かって両手を挙げたり、四つん這いになったりするクマは、おどけているのか威嚇しているのか分からない。しかし、クマがたとえ助けを求めようと、観客はその滑稽な外見に、ただただ笑うだけだ。

パフォーマンス自体はとてもシンプルで、説明も一切ない。しかし「異質」なものへ社会が持つ固定観念を見せつける、力強い作品だ。ちなみに、クマはこの作品が撮影された地、ベルリンの街のシンボルである。

代表作: State Britain

ウォリンジャーがターナー賞候補に挙がるきっかけとなったのが、テート・ブリテンでのこのエキシビションだ。2001年6月からイラクへの経済制裁、そしてそれに続く戦争に反対し、パーラメント・スクエアで現在も1人で座り込みを続けているブライアン・ホー。彼が抗議活動に使った、支援者たちから贈られた看板や横断幕などは、反戦抗議を行う団体を締め出すために06年に英国政府が作った法律によって警察に没収されてしまった。このエキシビションでは、その没収された600個ものオリジナルの看板などを、15人のアシスタントと共に半年かけて、約9万ポンド(約2070万円)を費やし、40メートルにもわたるディスプレイとして再現してある。ホーの反戦運動をそのまま作品化したこのエキシビションは、「これがアート?」という疑問を抱かせつつも、ホーの運動と思想を広く社会に浸透させることに貢献したことに変わりはない。※この作品は今回のエキシビションには含まれていません。

マーク・ ウォリンジャー Sleeper 2004-5
©Mark Wallinger
マーク・ ウォリンジャー State Britain, 2007 Installation view at Tate Britain ©Mark Wallinger Photo: Sam Drake, Tate Photography

Nathan Coley「外観」が表す「内面」に注目
ネイサン・コリー Nathan Coley

1967 Glasgow生まれ
1985-89 Glasgow School of Art
グラスゴー在住

出展作品: There Will Be No Miracles Here

コリーの作品には、英国人の政治や価値観、そして信仰心などを、建築や公共のスペースがどのように象徴しているのかを考えさせるものが多い。今回の展示を見ていると、なかでも建築物がいかに人や社会に活力を与えたり、あるいは力どうしを衝突させたりするかに興味があるようだ。

広い空間にぽつんと置かれたこのインスタレーションは、元々は森や空き地など、野外で展示されていたものだ。「ここでは奇跡は起こらない」というネガティブなメッセージを電球を使ってポップに訴えることによって、英国らしいブラックなユーモアが表現されている。白い壁に囲まれたキューブの中で、そこだけ明るく輝く「嘘っぽさ」に思わず意味を求めてしまうが、野外で見ないことには、作品本来の力が発揮されないのかもしれない。

また、コリーの展示スペースは、2本の「敷居」のスカルプチャーによって仕切られている。これは自身が造り上げた「神聖なる空間」と外界とを遮り、区別するという役割を持つそうだ。日本人には馴染み深いが、敷居自体が英国人の概念にはあまりないらしく、つまづく人が続出していた。しかしこれもアーティストの望むところで、観客がこれを跨いだり足を引っかけたりすることで、「無意識に」彼の空間を通り過ぎることができないようするのも目的の1つなのだとか。

代表作: Camouflage Church

厚紙で造られたこの教会は、シナゴーク(ユダヤ教の礼拝堂)、モスク・バージョンもあり、いずれもストライプに塗られている。「美しい」というだけで芸術作品を賞賛することは、とても危険なことだと語るコリーにとって、アイデアを交換し議論を交わすことが、「次世代アート」なのだという。※この作品は今回のエキシビションには含まれていません。

ネイサン・コリー There Will Be No Miracles Here 2006 Courtesy of the artist, doggerfisher and Haunch of Venison, London ©Nathan Coley . Photo: Photography: David Lambert & Rod Tidnam, Tate
ネイサン・コリー Camouflage Church, 2006 ©Nathan Coley Courtesy doggerfisher and Haunch of Venison
ネイサン・コリー 左)Hope and Glory 2007 Courtesy of the artist, doggerfisher and Haunch of Venison, London ©Nathan Coley . Photo: Photography: David Lambert & Rod Tidnam, Tate
右)Annihilated Confessions #2 (Black) 2007 Courtesy of the artist, doggerfisher and Haunch of Venison, London ©Nathan Coley

Turner Prize : Retrospective

歴史を知って未来を読む!ターナー・ プライズ回顧展

英国のモダン・アートが、レベルも社会認識も米国や欧州に比べ遅れをとっていた80年代に制定されたターナー・プライズ。紆余曲折を経ながらも、世界を先導する近代アートの地となりつつある英国で、この賞が現在持つ意味とは?過去23年間の受賞者、22人の作品を集めたテート・ブリテンの回顧展で、その意義を探ってみよう。

1984 MALCOM MORLEY
ターナー・プライズ誕生の記念すべき年の受賞者は、マンハッタン在住の英国人アーティスト、マルコム・モーリー。しかし「過去12カ月で英国アート界に最も貢献したアーティスト」であることが審査基準だったため、メディアはもちろん、米国に移住してから26年間、数えられるほどしか英国に滞在していなかったモーリー自身もととまどいを隠せなかったという。
Hodgkin
©the artist
1985 HOWARD HODGKIN
ホッジキンは、インスタレーションが主流の現代アートの中で、ターナー賞を受賞した数少ない画家の1人だ。彼は賞について「アントニー・ゴームリーのようなアーティストが大衆に受け入れられるようになったのはこの賞のおかげだと思うけれど、近代アートがポピュラー・アートになっている最近の傾向は少し危険だと思う」と語る。
Gilbert & George
©the artists. Photo:
J Fernandes & S Drake
1986 GILERT AND GEORGE
英国現代アートにおいて先駆者的存在なこの2人は、アート学生時代に出会い、意気投合。当時素材を買う金がなく、体に絵の具を塗り自分たちを彫刻に見立てることを始め、それ以降、自分たちを作品に投影させてきたという。
Deacon
©the artist
1987 RICHARD DEACON
1984年にもノミネートされたスカルプターのリチャード・ディーコンは、若い観客がアートを日常的に鑑賞するようになったことにおいては、ターナー賞は多大なる貢献をしたと評価する。「この賞のおかげで、アートが急にセクシー なものに変わったんだ」とコメント。
1988 TONY CRAGG
1989 RICHARD LONG
1990 開催中止
1991 ANISH KAPOOR
世間の関心を得るに至らず、スポンサーが確保できなかったために賞を開催できなかった90年から一転し、この年からチャンネル4が完全にバックアップすることが決定。スターが司会を務める授賞式の模様がテレビ中継されると、突然国民的な一大イベントとなる。また、この年から50歳以下という年齢制限が審査条件に加えられ、当時37歳のカプールをのぞき、候補者が全員20代という前代未聞の年となった。
1992 GRENVILLE DAVEY
Whiteread
©the artist
1993 RACHEL WHITEREAD
この年、過去に人気ポップ・デュオ「KLF」として活躍していた現「Kファンデーション」が、その年の「最低のアーティスト」にターナー賞の賞金の2倍である4万ポンド(約920万円)を贈呈すると発表した。ターナー・プライズを受賞したレイチェル・ホワイトリードがこの賞にも選ばれたが、最初は賞金の受け取りを拒否。しかしKファンデーションが賞金を燃やすパフォーマンスを計画したため承諾し、全額チャリティーに寄付したという。
1994 ANTONY GORMLEY
Hirst
©the artist
1995 DAMIEN HIRST
牛を切断しホルムアルデヒト漬けにした受賞作品への賛否両論はともかく、保守的な傾向の強かった英国において、アートを一般人の会話レベルにまで持って行ったハースト。1988年、彼がまだ学生だったころに倉庫を使ってエキシビションを催し、これをきっかけにアーティスト達がオルタナティブなスペースで展覧会を企画するというスタイルが広まったということでも英国アート界に大きく貢献している。彼はターナー賞を「テートとチャンネル4の金儲けのためのメディア・サーカス」と呼ぶ。
1996 DOUGLAS GORDON
Wearing
©the artist
1997 GILLIAN WEARING
23年の歴史の中で、3人しかいない女性受賞者のうちの1人がウェアリングだ。前年の候補者が全員男性であったことに対する非難を受け、この年のノミネート4人全員が女性となり、この選択も「逆差別」と議論を呼んだ。
1998 CHRIS OFILI
1999 STEVE MCQUEEN
血のついた下着や使用済みコンドームが転がるベッドの作品で、一躍「セレブ」入りしたトレイシー・エミン。この年は受賞者よりも、彼女が受賞を逃したことの方が話題を呼んだ。結局、賞は斬新な映像作品を創り上げたスティーブ・マックイーンの手に渡った。
Tillmans
©the artists. Photo:
J Fernandes & S Drake
2000 WOLFGANG TILLMANS
ティルマンズは受賞するにあたって、英国メディアによってゲイであることとドイツ人であることを非難されるのではないかと心配していたという。しかしそれは杞憂に終わり、「英国では、成功した外国人に対して好意的なんだね」と喜びを語った。
2001 MARTIN CREED
5分おきに付いたり消えたりする照明──この全てを削ぎ落としたクリードの受賞作品に賛否両論が交わされたのはいうまでもない。ノミネートが発表され、エキシビション・スペースが与えられた時も、複数の作品を展示するようにとのプレッシャーがあったという。
2002 KEITH TYSON
Tillmans
©the artists.
2003 GRAYSON PERRY
きっとターナー賞授賞式の歴史上、最も壇上に上がることを楽しんだのがペリーだろう。自分のもう1人の人格「クレア」として、少女趣味なドレスを着て登場したペリーは、一夜にして英国で最も有名なトランスヴェスタイトとなった。「クレアとしての自分を世界に見てもらえたのは、政治的なことも含め、本当に貴重な体験だった」 という。
2004 JEREMY DELLER
Starling
©the artists. Photo:
Kunstmuseum Basel,
Martin Bühler
2005 SIMON STARLING
ドイツのライン川で見つけたという小屋は、展示の際「観客に破損される危険がある」とキュレーターから注意を受けていたというが、メディアの酷評とは反対に、観客からはこの作品がきっかけとなって創られた詩やビデオが送られて来たりと、温かい称賛を得た。スターリングは「英国の観客は昔よりも洗練され、アートに貪欲になっている」とコメント。
Starling
©the artists.
2006 TOMMA ABTS
2人目のドイツ人、3人目の女性、4人目の画家としてターナー賞を受賞したアブツ。英国の文化について「全てポップ・カルチャーに帰依しているようだけど、それは英国以外では考えられないことだ」 と語る彼女は、受賞する前は自身の作品が大衆受けするものでないためメディアの反応が怖かったと いう。

テート・リバプールのキュレーター、 ローレンスさんインタビュー

今回のテート・リバプールでのエキシビションの全てを取り仕切ったといっても過言ではない、キュレーターのローレンスさんに話を伺いました。

Laurence Sillarsさん
職業: Exhibitions and Collections Curator

──さっそくですが、4人の候補者のうち、お気に入りのアーティストはいますか。

いいえ、職業柄、特定のアーティストをひいきにすることは出来ないのです。どのアーティストに対しても平等に製作過程を助けたり、どうすれば作品をベストな状態で展示することが出来るのかを考えるのが私の仕事ですから。

──現代社会やアーティストにとって、ターナー・プライズの重要性はどういった点だと思いますか。

コンテンポラリー・アートを軸に、社会問題や政治などが討論されるのは、とても意義のあることだと思います。そしてこの賞は、アートがポップ・カルチャーの1つとして、深く人々の生活に浸透するきっかけになったのではないでしょうか。

──しかし一方で、候補者達がメディアから一種のセレブ的な扱いをされたり、過剰な議論が一人歩きしたりもしていますよね。

確かに、ターナー・プライズがアーティストに与える影響は大きいです。しかしだからといって、アーティストたちがノミネートされたいがために一般受けする作品を創ったり、話題作りのためだけに過激な作風にしたりする、ということはまずないでしょう。それに多くのアーティストにとって、賞を獲得することはもちろん、テートの広大なスペースに作品を展示すること自体が大きな魅力となっているようです。

──その年によってアート界に大きな流れがあるとしたら、2007年はどういった特徴がありますか。

全体的に、国としてのアイデンティティであったり、国際紛争、宗教、権力といった、現在の社会において重要な問題を反映した作品が多いのではないでしょうか。

──ずばり、今年の勝者を予想してください。

毎年予想しては外れているから、教えられないですよ(笑)。後は4人の審査員たちに任せましょう。今年は例年以上に悩むことでしょうね!

インフォメーション

TURNER PRIZE
期間 08年1月13日まで
オープン 火~日10:00-17:50 (12月24~26日は休館)
入場料 無料
住所 TATE LIVERPOOL Albert Dock, Liverpool L3 4BB
最寄り駅 Liverpool Lime Street駅
TEL: 0151 702 7400
Website www.tate.org.uk

TURNER PRIZE: A RETROSPECTIVE
期間 08年1月6日まで
オープン 10:00-17:40(入場は17:00まで)12月24~26日は休館
入場料 £9~11
住所 TATE BRITAIN Millbank London SW1P 4RG
最寄り駅 Pimlico駅
TEL: 020 7887 8888
Website www.tate.org.uk

●12月3日(月)にリバプールで行われるターナー・プライズの授賞式は、チャンネル4にて中継される。また、受賞者が発表される前の11月26日~29日までの期間中、同じくチャンネル4で、候補者たちのオリジナル・フィルムが放送されるのでお見逃しなく。

 
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