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Wed, 17 December 2025

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ロンドンでHAWAIIに行こう!

ロンドンでハワイに行こう!

気軽に常夏気分を味わいたい!

hawaii貧乏学生だ、まとまった休みが取れない、寒い……。そんな寂しい想いで夏を過ごしている人は多いはず。とはいえ、年に一度しか来ない太陽の季節を満喫するためには、「でも」なんて問答無用。そこで今回は、「キング・オブ・夏の楽園」であるハワイへ読者の皆さんをご招待。ロンドンにあるバーチャル・ハワイをご堪能あれ! (本誌編集部: 國近絵美)

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ハワイ・ブーム再び?

そもそも世界各地で巻き起こったハワイ・ブームの先駆けとなったのは、1950年代半ばの米国でのこと。1959年にハワイが正式に米国の50番目の州となり、本格的にリゾート地として開発され始めたことで注目を集める。そして「キング」ことエルビス・プレスリーが「ブルー・ハワイ」(61年)を始めとするハワイを舞台にした映画に次々と出演。ハワイへの憧れから米国にハワイアン・バーやレストランが流行し始め、そのブームは英国にも波及。60年代は英国ハワイ・ブームの黄金期となった。70年代になって流行の波は去ったものの、現在、また米国と英国でもブームが甦りつつある。米国と英国の50年代半ば~70年代前半を彷彿とさせる、ノスタルジー漂うこのハワイ第2次ブーム、波が去る前に堪能しよう。

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ハワイを数倍楽しむ合言葉

ALOHA

日本で最も知られているハワイ語といえば、「アロハ」。「こんにちは」はもちろん、「ありがとう」、「さようなら」など、様々な日常の挨拶に使える万能の言葉だ。とはいえ、アロハの極意はさらにその奥にある。「Aloha」の「Alo」は共有する、現在の瞬間を心に留める、という意味で、「oha」は幸せや喜び、そして「ha」はエネルギーや魂を表す。これらの意味を繋げると「今、この瞬間の喜びを共に分かち合う」という意味になるのだ。また、アロハは5つの言葉の頭文字から成り立っていて、こんなにもたくさんの意味が込められている。

Aloha

(ハワイ州観光局サイト参照)

TIKI

tiki「ティキ」とは、ハワイの原住民であるポリネシアの神話に登場する、人類を創造した神たちのこと。木や石で造られたティキ像はお守りとして身に付けられているほか、置物やマグカップなどのデザインにも登場し、世界中にコレクターがいる。また、英国や米国では「ハワイアンの」という形容詞として、よく「ティキ」が使われる。例えば「ティキ・カクテル」と言えばハワイアン・カクテルのことだ。

Lomi Lomi Massage

全身をリズミカルに揺らしたりマッサージしたりすることで優しくコリをほぐし、ネガティブな感情を体から開放することでエネルギーを取り戻すというのが、このハワイ式マッサージ「ロミロミ」だ。元々は古代ハワイアンが医療として行っていたという伝統的なもので、ストレスや疲れの基となる、体に染みついた古い習慣や行動を解き放つのが目的とされる。血液とリンパの流れが改善されるため、デトックス効果もばっちりだ。

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バー・クラブ

South Lonson Pacific英国で一番楽園に近い場所
South London Pacific

40~50年代の本格的なレシピを復活させたカクテルが自慢の「サウス・ロンドン・パシフィック」。かつてのティキ・バー・ブーム後も生き残り、ロンドンでのブーム復活のきっかけともなった「元祖ティキ・バー」の人気を支えたのは、言うまでもなくこのカクテルの味だ。「トロピカル・カクテルの女王」と称されるマイタイだけでも7種類を誇り、また、夜10時まではカクテルがすべて3.95ポンドというのも嬉しい。

ドアをくぐるとまさに「アロハ!」な世界で、竹の皮で覆われた壁や花輪を着けた店員はもちろん、テーブル・サッカーの人形たちですらアロハ・シャツを着用しているというこだわりようだ。一歩間違えれば笑いが出てしまうコテコテのインテリアに居心地の良さと愛着を感じるのは、店員も常連客たちも、本当にハワイとこのバーを愛しているから。モータウンや50年代ロックを聴きながら、ロンドンが生み出した「楽園」を堪能しよう。

オープン 3:00まで
住所 340 Kennington Road, London SE11 4LD
Tel 020 7820 9189
最寄り駅 Kennington / Oval駅
Website www.southlondonpacific.com

Mahikiティキ・スピリット満載のセレブ御用達クラブ
Mahiki

「王室御用達」と言っても過言ではないほど、ウィリアム王子とハリー王子のパーティー姿が目撃されているのがここ「マヒキ」だ。ほかにも女優のシエナ・ミラーや歌手のマドンナなどのセレブが常連客として名を連ねているが、彼女たちの心をがっちり掴んでいるのが、遊び心いっぱいのティキ・カクテルだろう。ピニャコラーダは丸ごとくりPineapple抜いたパイナップルにサーブされ、ほかにもフローズン・ココナッツに入った「ココナッツ手榴弾」や、24金の飾りが付けられた宝箱に好きなシャンペンを入れて注文できる 「Armada宝箱」など、容器も中身も凝ったカクテルが勢揃い。1人用はもちろん、8人用の巨大カクテルも用意されているので、カップルでもグループでも楽しめる。

オープン 月~金17:30-3:30 土は19:30から
住所 1 Dover Street, Mayfair, London W1S 4LD
Tel 020 7493 9529
最寄り駅 Green Park駅
Website www.mahiki.com

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レストラン

Blue Hawaiiハワイでエルビスに遭遇?!
Blue Hawaii

いつもの外食では物足りないという人や、ちょっとしたお祝いにもぴったりなのが、エルビス主演の映画「ブルー・ハワイ」にちなんで命名されたこのティキ・レストラン。新鮮なシーフードや肉料理が堪能できるうえ、種類が豊富なカクテルは4ポンドからと、ロンドンではかなりリーズナブルなのも魅力だ。また、土曜日と日曜日の夜には、様々なジャンルの音楽の生演奏が行われ、さらにハワイ気分を盛り上げてくれる。

この店の自慢はなんといっても、何十種類ものハワイアン・ソースでいただく鉄板焼きスタイルのBBQだ。まずはメインとなる肉かシーフードを選び、一緒に炒める野菜、そしてソースを決める。レストランのおすすめを選んでも良いが、2度目からは、ぜひスパイスをブレンドしてオリジナルのソースを作ってみよう。そしてデザートで外せないのは、「Ko Ko Nut Fireball」。ハワイではお馴染みの揚げたアイスを食べることができる、英国では貴重なレストランだ。

オープン 月~土18:00-1:00 日12:00-1:00
住所 2 Richmond Road, Kingston Surrey, KT2 5EB
Tel 0872 148 4885
最寄り駅 Kingston駅
Website www.bluehawaii.co.uk

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カクテルバー

Sugar Cane世界各国のラム酒がずらり
Sugar Cane

至るところにティキ・テイストが溢れるシュガー・ケインでは、アロハ・シャツに身を包んだバーテンダーの笑顔までもが最高にハワイアン。クラシック・レシピにこだわったティキ・カクテルからエキゾチックなビールまで楽しめるが、世界中から集められた上質のラム酒を試さないわけにはいかない。また、「喜びを分かち合う」ハワイの心を体現すべく、ほとんどのティキ・カクテルは2~6人のシェア用を注文できるのだそう。オリジナルのティキ・マグカップも販売しているので、バーで気軽に聞いてみよう。

一方、曜日ごとにジャンルの違ったDJがプレイし、木曜日には80’s、金曜日にはソウルやファンク、スカにレゲエ、土曜日はミックス・ジャンル、日曜日はチルアウト系の音楽が楽しめる。水曜日にはビール2杯で5ポンドになるなど、嬉しいスペシャル・オファーが目白押しだ。

★ 読者プレゼント
本誌の掲載ページを見せると、大人気のカクテル、カイピリーニャとモヒートが2杯で1杯分の値段に(日~木曜日)。さらに、グループ予約を電話かネットで行う時に「ダイジェストを読みました」と言うと、特別なティキ・スタイルでもてなしてくれるという。

オープン 火~木19:00-23:30 金、土20:00-1:30
住所 247-249 Lavender Hill, London SW11 1JW
Tel 020 7223 8866
最寄り駅 Clapham Common駅
Website thesugarcane.co.uk

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マッサージ

Elemis day-spa心と体のコリを芯までほぐそう
Elemis day-spa

本格的なロミロミ・マッサージを セラピスト2人から同時に受けるという、なんとも贅沢な体験が出来る(1時間15分£140)。4本の手がシンクロしてマッサージすることによって、より体のエナジーの流れが改善されるのだとか。このセッションではフランジパニ(ブルメリア)というポリネシア諸島原産の花の香りをつけたアロマ・オイルが使用される。また、熱した石を体の主要なエネルギー・ポイントに置くというハワイ式マッサージ、「アロマ・ストーン・セラピー」(1時間15分£90)も実施中。

オープン 月~土9:00-21:00 日10:00-18:00
住所 2-3 Lancashire Court, Mayfair, London W1S 1EX
Tel 0870 410 4210
最寄り駅 Bond Street駅
Website www.elemis.com/DaySpa

The Hale Clinic癒しの極意を体と心で味わう
The Hale Clinic

100人以上もの専門家により、40種類以上ものマッサージや治療を行っているこのクリニックでは、ハワイでロミロミ・マッサージを習得した米国出身のロザリー先生のマッサージを受けることが出来る。もともと看護婦であった先生は、かねてから人を心身の痛みから解放する方法を探していたが、ロミロミと出会った時に「これしかない!」と習得を決心したという。20年近い経験を経た今では、マッサージを受けに来た人の話し方や動作を見ただけで、大半はどのような治療が必要か分かるのだとか。「すべての動きには哲学がある」と説く先生は、忙しない現代社会に生きる人ほど、心と体をリセットして、ネガティブな考えや感情を開放しなくてはいけないと断言する。1日の体験ワークショップや自宅でのマッサージも行っているので、自分へのご褒美にぜひ。

オープン 月~金8:30-21:00 土は17:00まで
住所 7 Park Crescent, London W1B 1PF
Tel 020 7631 0156
最寄り駅 Marylebone / Euston駅
Website www.haleclinic.com
ワークショップ
個人予約
Rosalie Samet
Tel: 0127 373 0508
www.hawaiianmassage.co.uk

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ダンス

Hula Boogieフラ初心者も安心のダンス・イベント
Hula Boogie

ロンドンではまだ馴染みの薄いフラ・ダンスを楽しみたいのなら、前記「サウス・ロンドン・パシフィック」で月に一度開催されるダンス・イベント「フラ・ブギー」に参加しよう。イベント開始前には30分のジャイブ初心者のレッスン、そしてその後フラ・ダンスのレッスンも行われる。次回のイベント開催は9月21日。ぜひ参加してみては?(写真©www.thecastingcouch.biz)

Tel 020 8672 5972
Website www.hulaboogie.co.uk

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「せっかくの夏、ハワイ以外も体験したい」という欲張りさんのために、ロンドンにいながら異空間に行けるレストランやお店をご紹介。

レストラン

遊び心たっぷりの大人の遊園地
Abracadabra Restaurant

Abracadabra思わず呪文を唱えたくなるような怪しいゴージャスさを持つ「アブラカダブラ・レストラン」は、マハラジャ気分で豪華な食事を楽しみたい人にぴったりだ。ブースはそれぞれ異なるテーマで飾られていて、「自分好み」にするために、テレビ画面やCDが用意されている。ほかにも、ブースが置かれた床が回転する「回転テーブル」や、個室の1つ1つにテレビ画面が設置されている女子トイレなど、仕掛けがいっぱいだ。

住所 91 Jermyn Street, London SW1Y 6JB
Website www.abracadabra-restaurant.co.uk

俳優気分で食事が出来る
Sarastro

Sarastro大のオペラ好きというオーナーが、長年の夢と情熱をそのまま実現させたのがこのレストラン。オペラ劇場とアラビアン・テイストがミックスされた店内には、舞台の小道具や骨董品が至るところに並んでいる。店名の「ザラストロ」は、店長が特にお気に入りという、モーツァルト作曲のオペラ「魔笛」のキャラクターに由来。劇場ならではのボックス席も再現されていて、まるで観劇しているような気分で食事が楽しめる。

住所 126 Drury Lane, Theatre Land, WC2B 5SU
Website www.sarastro-restaurant.com

「野生」との対面でサバンナ気分
Archipelago

Archipelago「多島海(たとうかい)」と称されたレストランの内装は、金色に輝く仏陀やヤシの木などに囲まれたエキゾチックなもの。そしてこの異国情緒溢れる店内で挑戦できるのは、普段は目にすることすら稀な、いわゆる「ゲテモノ」食材だ。ワニやクジャク、カンガルーの肉は初心者向け、そして「心臓に毛が生えてます」という人にはイナゴのチリ&ガーリック炒めやサソリのチョコレート掛けなどのメニューをぜひ味わって欲しい。

住所 110 Whitfield Street, London W1T 5ED
Website archipelago-restaurant.co.uk

暗闇の世界へようこそ
Dans Le Noir

Dans Le Noir「暗闇」という店名の通り、完全な暗闇の中で食事ができる。視覚障害者を支援するためのチャリティー団体が始めた同店は、現在では欧州3カ国で展開する人気ぶりだ。注文を決めたら、前の人の肩につかまって、真っ暗なレストランにいざ入室。後は目の不自由なウェイターがガイドしてくれるのに身を任せよう。ぜひ試して欲しいのはサプライズ・メニュー。味だけで何を食べているか当てるのが、実は意外と難しいことに気付くはず。(関連記事:UKグルメレストラン)

住所 30-31 Clerkenwell Green, London EC1R 0DU
Website www.danslenoir.com/london

ロンドン一の愛されキャラがレストランに
Rootmaster

Rootmasterかつてはロンドンの「顔」として、観光客にも地元っ子にも愛されてきた2階建てバス「ルートマスター」。残念ながら05年に運行が中止されたこの人気者が、なんとベジタリアン・レストランに大変身した。メニューは新鮮なキノコや野菜、チーズなどを使った前菜に、野菜の天ぷらなど。25~30人の団体であれば、食事代+貸し切り代100ポンドで、気軽にパーティー用として貸し切ることができる。

住所 Elys Yard, Old Truman Brewery, London E1 6QL
Website www.root-master.co.uk

クリスタルの氷輝く北極圏に突入
Absolut Icebar London

Absolut Icebar Londonどうせ冷夏を嘆くなら、思い切って氷点下の世界を体験してみては?マイナス5度に保たれた店内は、壁や椅子からグラスに至るまですべて氷で出来ている。欧州3カ国に加え、東京でも展開している人気店だ。また、年に2回がらりと内装が変わるというのも、氷という素材ならでは。現在のバーは、シャネルのデザイナー、カール・ラガーフェルドのもとでジュエリー・デザインをしていた「デービッド&マーティン」が担当した。

住所 31-33 Heddon Street, London W1B 4BN
Website www.belowzerolondon.com

ショップ

身に着けるだけでハッピーになれる
Black Pearl

Black Pearlアクセサリー・デザイナー兼オーナーのフィオナさんが05年にオープンさせた、アクセサリーとヴィンテージ・ドレスを扱うお店。ハワイアンな内装の店内は、50’sの匂いが漂う品揃え。レトロで上品なコルセットや帽子、そしてロカビリー・ファンには堪らない小物やアクセサリーは、ファッション雑誌でも度々取り上げられるほどの人気ぶりだ。オンラインでも注文できるので、こまめに新作アイテムをチェックしよう。

住所 Unit 2.10 Kingly Court, Kingly Street, London W1B 5PW
Website www.blackpearlboutique.co.uk

ボーリング場

アロハ着用でキメたい
Bloomsbury Bowling

Bloomsbury Bowlingこちらも50’sがテーマとなったボーリング場。当店自慢のカクテルと軽食を楽しみながらプレーできるのが人気の秘密だ。また、「キングピン・スイート」というプライベートのイベント・スペースも隣接していて、貸し切りでパーティーを行うこともできる。40~250人収容可能というこのスペースでは、ラスベガス・スタイルのゴージャスな内装にレーンが5つ完備されている。専用のカクテル・バー2つやカラオケにDJブース、卓球やスヌーカーなどをプレーすることが出来るゲーム・ルームやケータリングも行っているという。

住所 Basement of Tavistock Hotel, Bedfordway,
London WC1H 9EU
Website www.bloomsburybowling.com
 

英国人が愛する地中海の真珠 スペイン・マジョルカ島へ

マヨルカ島
英国人が愛する地中海の真珠 スペイン・マジョルカ島へ

夏だというのに英国の空はどこか憂鬱。「太陽を求めてどこかにバカンスに出掛けたい」そう願うのは日本人だけではなく、英国人も同じこと。そんな彼らが今、大挙してスペインに向かっている。そしてそのスペインのなかでも、特に英国人を虜にしているのがマジョルカ島、「地中海の真珠」とも呼ばれる太陽と海のリゾート地だ。今回は、日本ではあまり知られていないこの島に現地取材を敢行!
三上 義一(http://homepage3.nifty.com/ymikami

マヨルカ地図

英国人が最も愛する外国

近年、英国から海外へ移住する人の数が増え続けている。英政府の公式統計によると、1997年から2006年のおよそ10年間に、英国を去り、海外へ移住した英国人の数は、なんと200万人に上るという。06年だけでも、約20万人もの英国人が海外に去っていった。では彼らはどこへ行ったのだろうか。

人気の移住先の内訳を見てみると、第1位がオーストラリア、第2位がスペインとなっている。これまで、オーストラリアには100万人以上、スペインには76万人以上の英国人が移住した。とはいえ、オーストラリアは英連邦の一部であり、同じ英語圏の国。連邦に属さない非英語圏の移住先となると、スペインに人気が集まる。つまり、英国人が最も愛する外国はスペインということになる。

その人気の理由をまとめると、天候の良さ、海と山の美しい景観、英国から2時間半程度で行かれる便利さ、渡航費の安さ、家族で渡航できる安全性などが挙げられよう。また、欧州連合(EU)域内なので手続きが簡単で、英国にあるものがすべて揃うという利点もある。英国の新聞はもちろん、テレビでプレミア・リーグ・サッカーを観ることもできるのだ。それにアルコール類が英国よりも安く、料理や酒も美味しい。

英国人の「ハワイ」

そしてその人気のスペインのなかでも、特に英国人が愛してやまないのが、バルセロナの沖合、地中海に浮かぶ真珠のような島、マジョルカ島だ。まさにこの島は英国人にとって、日本人のハワイに匹敵する存在だといっても過言ではない。年間300日程度が晴天という素晴らしい気候に恵まれ、「地中海の楽園」とも「地中海の宝石」とも呼ばれている島。日本人には馴染みが薄いかもしれないが、人気の高い、ヨーロッパ有数のリゾート地である。

この地には、セレブの別荘が目白押しだ。元ウィンブルドン・テニス・チャンピオンのボリス・ベッカー、米俳優のマイケル・ダグラス、作曲家のアンドリュー・ロイド・ウェバー、元F1ドライバーのミハエル・シューマッハ、スーパーモデルのクラウディア・シファーなどが邸宅を構えている。

また歴史をさかのぼると、1838年には作曲家のフレデリック・ショパンが結核治療の目的で、恋人の女流作家、ジョルジュ・サンドと共にマジョルカ島に滞在したことがある。2人の「恋の逃避行」は半年で終わり、ショパンの病状は回復に向かうこともなかった。当時彼らが滞在していた修道院があるバルデモサには、ショパンが使用したピアノなどが現在でも展示され、観光の名所となっている。

日本では2004年、サッカー日本代表の大久保嘉人が、この島に本拠地を置くリーガ・エスパニョーラのマジョルカにレンタル移籍したことで一時話題になった。また、今年の全仏オープンとウィンブルドンのテニス男子シングルスで優勝した、ラファエル・ナダルもこの島の出身である。

意外と知られていないのが、日本でも人気の靴ブランド「カンペール」(Camper)の本拠がこの島にあるということ。島の農夫たちが履いていた靴がその発想の原点になっているのだという。島内には愛らしい、アート作品のようなカンペールの店舗がいくつかあり、アウトレット店もある。また、スペインが生んだ大画家、ジョアン・ミロもこの島にアトリエを構え、長年創作活動を続けていた。

マジョルカ写真
上段左)ショパンとサンドが「同棲」していたバルデモサ
the Government of the Balearic Islands and IBATUR Photo: Eduardo Miralles
下段右)Inca という街にあるカンペールのアウトレットの店内
下段左)円形が珍しいベルベル城
the Government of the Balearic Islands and IBATUR Photo: Pere Coll
下段右)趣ある石畳の路地

首都、パルマ・デ・マジョルカ

マジョルカ島の首都は、空港から約20分のところに位置するパルマ・デ・マジョルカだ。パルマは港に面した街で、見どころがいくつかある。その代表的なものが大聖堂。16世紀に完成したものだが、20世紀に入り、スペインが生んだ大建築家、アントニオ・ガウディの設計によって改修されている。

大聖堂の近辺は公園となっていて、そこから街を散策することができる。大通りもあれば、古(いにしえ)の面影を残す石畳の細い路地が続く旧市街地もあり、坂を上ると広場に着く。途中には、バルやカフェやレストラン、おしゃれなブティックや店が並ぶ。店によって異なるが、英国と違い、夏は午後1~2時ごろから夕方4~5時ごろまで閉まっている店が多いので要注意だ。また午後は日差しが強く、かなり暑くなるので、散策をするなら午前中と夕方が無難だろう。

ここでスペイン的時間の流れについて一言。マジョルカ島には、近年、本土では廃れてきたシエスタという昼寝の習慣がまだ残っている。つまり、あまりにも暑いので、ランチの後は店を閉め、昼寝をするのである。店は夕方からまた開き、飲食店は夜遅くまで営業している。週末ともなれば、夜通し朝方まで騒いでいることも稀ではない。また食事も遅く、昼食は午後2~3時から、夕食は夜の10時頃から食べ始めるのが普通だ。また夏と言えば花火大会のシーズン。ここマジョルカ島でも、夏には花火が打ち上げられる。とはいえ、日本なら花火は夜7~8時ごろから始まるだろうが、ここマジョルカ島では午前0時~午前1時ごろから花火が夜空を彩る。

パルマのもう一つの見どころは、円形のベルベル城だ。牢獄として使用されていたこともあるという城だが、丘の上に建つこの場所からは、眼下にパルマの街や港、ヨットハーバーを見下ろす素晴らしい眺望が楽しめる。街全体のイメージを掴めるばかりか、遙々と海を渡り、地中海の楽園に来たのだなという感慨に打たれるはずだ。

パルマの大聖堂とアルムダイナ宮殿
パルマの大聖堂とアルムダイナ宮殿
the Government of the Balearic Islands and IBATUR
Photo: Eduardo Miralles

information
スペイン政府観光局日本語オフィシャルサイト
www.spain.info/JP/TourSpain
観光案内所
Plaza de la Reina, 2   Tel: +34 971 71 22 16
大聖堂
Plaza Almoina, s/n 07003   Tel: +34 971 72 31 30
ベルベル城
Calle Camilo José Cela, 17 07003 Tel: +34 971 73 06 57

自分好みのビーチ探し

パルマの観光は1~2日あれば十分。パルマはハワイで言えばいわばホノルル。その近辺のビーチはワイキキといったところで、この島で最も素晴らしい海岸が首都の近辺にあるわけではない。その辺りの事情はハワイと同様だろう。美しい海岸を求めるならば、是非ともパルマから離れたリゾート・ビーチに足を伸ばしたい。島の最大の魅力は紺碧の海。青い海で泳がなければ、ここまで来た甲斐がないというものだ。

エメラルド色の海
エメラルド色の海に浮かぶヨット
the Government of the Balearic Islands and IBATUR

マジョルカ島というと、どうしても「島」という言葉から、小さいというイメージを持ってしまうかもしれない。だが、実は沖縄本島の3倍もの面積を有していて、かなり広いのだ。到るところにリゾート・ビーチが点在しているので、自分の好みに合ったビーチを探してみることをお勧めする。例えば、釣り、マリン・スポーツ、ダイビング、ヨット遊びなどの趣味趣向、それに予算や滞在日数によっても理想の場所は異なるはずだ。

ここマジョルカ島で、人々は仕事も時間も忘れて、ビーチで潮風に吹かれながらゆったりとくつろぐ。多くの日本人とは違い、この地で過ごす人々は、何もしないことに罪悪感を覚えないのである。短くても10日から2週間はのんびりと休暇を過ごしている。

海
Sa Calobra の海。パルマの北東54キロほどの場所に位置する、
中世の面影を残す街の近くの海岸
the Government of the Balearic Islands and IBATUR

「大胆で開放的」なビーチ・カルチャー

マジョルカ島のビーチ・カルチャーは「大胆で解放的」だ。ご存じのように、ヨーロッパの浜辺では女性のトップレスはごく当たり前。この島でも年齢・国籍に関係なく、ビキニを着ている女性もいれば、トップレスの女性もいる。それは全く個人の自由、本人の勝手なのだ。

だがなかには、さらに「解放」されている人々がいる。下半身も裸の「ヌーディスト」たちである。この島においてヌーディスト・ビーチは公認されていて、わいせつ物陳列罪で逮捕されることはない。ちなみに現在、英国では「ヌーディスト」(nudist)とは言わず、「ナチュラリスト」(naturalist)という。すなわち、神が意図された自然のままの姿を愛する人々のことである。

長い海岸線を歩き進むと、現代の「アダムとイブ」たちに遭遇する。「ここから先はヌーディストの楽園です」という看板が出ているわけではない。自然発生的にそこに裸天国が誕生するらしい。

ヌーディスト・ビーチと聞いて、興奮される方もいるかもしれないが、そこにいるのは大半が40~50歳代の女性たち。失礼だが、なかにはピカソのキュービズム時代の絵画に登場するような、体型がかなりデフォルメされた女性もいる。またはルノアールが描いたような太めの方も……。その姿を目の当たりにすると、ニュートンの引力の法則が正しかったことを再確認させられる。この世の森羅万象は、地面に向かって垂れ下がって行く運命にあるのだ。

それにしても日本人的な感覚からすると、なぜ欧米の人々は体のすべてを太陽にさらすのかと素朴な疑問を抱いてしまう。一説によると彼らは、ヨーロッパの夏が短く、太陽があまりにも恋しくなるため、全身で太陽を満喫したいのだという。まさか直接、「あなたはなぜ裸になるのですか」と聞くわけにはいかないので、ぼんやりとヌーディストたちを眺めていると、ある男性の胸に刻まれた漢字のタトゥーに目が奪われ た。「愛」「友情」そして「温泉」!

なぜ「温泉」なのかは分からないが、その2字に疑問の答えを見出した気がした。すなわち、ヌーディスト・ビーチとは、日本的に言うなら混浴の露天風呂なのではないか。東西を問わず、人間はやはり裸になりたい欲求があるに違いない。仕事や面倒なことも忘れ、ただのんびりと疲れを癒す。裸であれば社会的地位も年収も関係ない。ただの一人の人間に戻れる。その快感を得るために、人は裸になるのではないだろうか。

マヨルカ
上段左)Colonia de Sant Jordi近くの海
上段右)マジョルカ島は魚介類が豊富
下段左)Campos の市でイベリコ・ハムを切る職人
下段右)氷山と見紛う塩田風景。マジョルカ島の塩は世界的に有名

海辺のグルメ

スペインといえば、やはり食事。美しいビーチだけでなく、美味しいスペイン料理も楽しみたいという方にお勧めなのが、パルマから自動車かバスで約45分のエス・トレンク(Es Trenc)だ。コバルト・ブルーの海、遠浅の海岸、美しい砂浜、そしてどこまでも青く澄んだ大空が、観光客を待っている。ここは、マジョルカ島でも最も美しいビーチの一つである。

パルマからは観光客用の直行バスが出ていて、浜辺ではパラソルとデッキチェアーを1日使用して1人7ユーロ。スペイン風の軽食、というかスペイン風B級グルメを出してくれるレストランもビーチ沿いにあるので、丸1日海で楽しめる。

レストランのメニューには写真が付いているので、注文するのはさほど難しくない。ポテトの入ったオムレツ、オリーブ・オイルが効いたイカの丸焼き、生ハムのサンドウィッチなどなど。味付けはさっぱりしていて、日本人の口に良く合う。海を眺めながら飲む、スペインのビールやサングリアも格別だ。

ここで是非注文したいのが、卵の黄身とおろしたにんにく、オリーブ・オイルにマヨネーズを混ぜ合わせた「アリヨリ」と呼ばれる一品。パテのように、バゲットに塗って食べるのだが、それが実に美味しい。それに2ユーロ程度と安い。

実はこの島、「マジョルカ」というのは英語読みで、スペイン語では「マヨルカ」であり、この島の名前がマヨネーズの語源だとする説がある。もちろん、その真偽のほどは定かではないが、そんなことを空想しながらアリヨリを頬張ると、さらに美味しく感じるかもしれない。

パエリアこのエス・トレンクに一番近い街が、コロニア・サン・ ホルディ(Colonia de Sant Jordi)。この小さな街にはホテルが多く、ヨット・ハー バーや海に面したプロムナードにはのんびりとした雰囲気が漂っていて、太陽と海を満喫したい人には最適だ。ハーバー近辺にはレストランやタパス・バーなどが軒を連ねているが、ここで試していただきたいのは、やはり本場のパエリアである。

パエリアは言うまでもなくスペイン風炊き込みご飯で、日本でも人気の料理。サフラン風味が多いようだが、ここマジョルカ島では魚介類をふんだんに使い、トマト・ソースをベースにしたものが好まれるようだ。この地域で抜群のパエリアを出すと人気なのが、「アントニオ」(Antonio)という魚介類専門店。ロブスター・パエリアもあり、通常の魚介類のパエリアは1人13ユーロ、注文は2人前からとなっている。海が見渡せるレストランで地中海に沈む夕日を眺めながら乾杯するのは、まさに人生の至福。なぜ英国人が、この島をこよなく愛するのか納得できるはずだ。

Antonio「Antonio」
C/Alejandro Farnesio, 5 , Colonia Sant Jordi
Tel: +34 971 65 54 05

マジョルカ島では9月でもまだまだ泳げるので、地中海の潮風に吹かれ、ヨーロッパ的バカンスを味わってみてはどうだろうか。英国人のように島に魅了され、移住したいという誘惑に取りつかれるかもしれない。

お菓子風パンとアーモンドの花
左)マジョルカ島特産のお菓子風パン、エンサイマダ。
アンズがたくさん使われていて、実に美味しい
the Government of the Balearic Islands and IBATUR
右)2月に咲くアーモンドの木の美しい花々
the Government of the Balearic Islands and IBATUR Photo: Pere Coll

民族大移動

「民族大移動」……そんな形容がぴったりと当てはまるのが、近年の英国における移民状況である。これは英国にやって来る海外からの移民のみを指しているのではない。英国を去り、海外に移住する英国人たちをも含んでいる。

先述の通り、1997年から2006年までのおよそ10年間に、英国から海外に移住した英国人の数は、約200万人。ある英国人歴史家は、この人数は英国の歴史上、記録的な数であり、世界中に植民地を有した大英帝国時代においても見られなかった現象ではないかと指摘している。現在、海外で生活している英国人の数は550万人以上、英国の総人口は約5975万人だから、およそ10人に1人の英国人が外国で暮らしていることになる。

英国人ジャーナリストのなかには、国土が狭い英国が近年、ポーランドなどの東欧諸国から大量の移民を吸収することができたのは、大勢の英国人が海外に移住していたからではないかと主張する者すらいる。何しろ1997年から2006年の間に英国に来た移民の数は、390万人にも上り、06年だけでも50万人以上もの移民が英国に押し寄せてきているのだ。

近年の英国を舞台にした人々の移動は、まさに現代の「民族大移動」、「21世紀のエキソドス*」だといっても過言ではない。

この数字は、各国に移住した英国人のおよその数。スペインが第2位で、非英語圏では1位。米国よりもスペインに赴く英国人の方が多い。面白いことに気候が良く、スペイン同様イベリア半島に位置するポルトガルは、トップ20位以内にすら入っていない。理由の一つは恐らく、ポルトガルが大西洋に面していて、海が地中海と比較して荒いからではないだろうか。いずれにしろ、非英語圏の国としてはスペイン、フランス、ドイツの順となっており、スペインが圧倒的な人気を誇っていることが分かる。

* 旧約聖書に描かれている、イスラエル人のエジプト脱出

英国人の移住先トップ10
1. オーストラリア
1,300,000人
2. スペイン
761,000人
3. 米国
678,000人
4. カナダ
603,000人
5. アイルランド
291,000人
6. ニュージーランド
215,000人
7. 南アフリカ共和国
212,000人
8. フランス
200,000人
9. ドイツ
115,000人
10. キプロス共和国
59,000人

出典:「Daily Express」紙

ライフスタイル移民

ではなぜ、英国人は大挙して祖国を後にするのだろうか。大勢の移民が英国を目指す理由は明らかであろう。過去10年間、英国は好景気に恵まれ、賃金が他国よりも比較的高く、04年にポーランドなどの東欧諸国がEUに加盟したことにより、移住しやすくなったからだ。

それに対し英国人が海外に移住する理由は、それほど明確ではないようだ。いまや英国人たちは「英国の文化やアイデンティティーはどうなってしまうのか」といった懸念を抱いている。英国人にとって祖国は、もはや魅力的な国ではなくなってしまったのだろうか。国内メディアも特集を組み、その理由を問い掛けてきたが、一つの決定的な理由があるというよりは、多種多様の動機があるようだ。

下の表を見てほしい。これらの理由を総合すると、英国人は自国に対し、何となく暮らしにくさや窮屈さを覚え、現状に不満を感じているということなのであろう。英国人は、より高い賃金を求めて海外に行く出稼ぎ移民ではなく、より快適な生活を求めて外国へ行く「ライフスタイル移民」なのだと言える。


英国人が海外に移住する主な理由
高齢者が定年退職し、引退先として海外移住を好む
ポンドが強いことを反映し、海外での購買力が増大した
英国の憂鬱な天気に嫌気が差した
相続税などの税金が高い
国内に移民が多過ぎる
イラクやアフガニスタンに軍事進攻したため、英国全土がテロの標的になっている
若者による反社会的行動の数は欧州最多
CCTV が到る所で監視の目を光らせる管理社会である
国民健康保険(NHS)などの医療保険に不満がある
グローバリゼーション化に伴う労働市場の広がりが、海外における雇用の確保を容易にした
EU拡大により、域内での移住が容易になった
国内の物価全体が高騰している

(順不同)

 

2007年車椅子テニス4大大会制覇 国枝慎吾選手インタビュー

車椅子テニス4大大会制覇を達成
国枝慎吾選手インタビュー

国枝慎吾、24歳。ここ数年間にわたって車椅子テニス男子の世界王者として君臨し、欧州や米国を中心とする国際大会で活躍する逸材である。彼は車椅子テニスに、一体何を追い求めているのか。2008年北京パラリンピックへの意気込みとともに、話を聞いた。
(本誌編集部: 長野雅俊)
(2008年に行われたインタビューです)

国枝慎吾(くにえだしんご)

国枝慎吾選手インタビュー

1984年2月21日生まれ。麗澤大学に勤務。2004年にアテネのパラリンピックで斉田悟司選手と組んだダブルスで金メダル。2007年に史上初となる全豪、全英、全米、そして日本で開催されるジャパン・オープンの4大大会を制するグランドスラムを達成し、2018年現在世界ランキング1位。2018年7月22日から開催された全英オープンでは圧倒的な強さで優勝した。北京パラリンピックでの金メダルが期待されている。

公式ウェブサイト: https://shingokunieda.com/
twitter: @shingokunieda


つけいる隙を与えない

とにかく、半端なく強かった。

直径7センチ弱の黄色いボールが、頭上に上がる。ラケットを振りかぶった瞬間、国枝選手の下半身を支える車椅子がぐらりと揺れた。倒れてしまうのではないか、と観客が不安になる間も与えず、腹の底から絞り出したかのような唸り声とともに強烈なサーブが放たれる。

ライン際で待ち構えていた相手は、ラケットを片手に握りながら車輪を前方へと転がし、推進力に乗ってそのボールを強く打ち返す。そこからラリーとなれば、ストロークごとに車椅子をくるりと半回転させて横移動。コート奥の深い位置まで下がるときには、中央を隔てるネットに背を向けながらも、首から上をよじることでボールを視界に留め、歯を食いしばり車輪を漕ぐ。

ギャラリー国枝選手が出場した試合には、1回戦から多数のギャラリーが詰め掛けていた

斉田選手とダブルスで金メダルアテネのパラリンピックでは、斉田選手(写真左)と組んだダブルスで金メダルを獲得した©共同

でも、最後に自陣の真ん中辺りまで出てきて一振りを決めるのは、ほとんどいつも、彼だった。

ラファエル・ナダルの全仏に続く2連覇で話題を集めたウィンブルドン選手権から約2週間後。伝説の義賊ロビンフッドの故郷として知られるイングランド中部ノッティンガムで開催された車椅子テニスの全英オープンにおいて、「KUNIEDA」の存在は際立っていた。2007年には史上初となるオーストラリア、英国、米国、日本で開催された4大大会を制するグランドスラムを達成したのだから、無理もないのかもしれない。彼のプレーを一目見ようと、コートの周りには初戦から人垣ができていたほどだ。

「相手選手にマークされているな、と意識し出したのは2006年くらいからなので、その感覚にはもう慣れました。それよりも、他の選手たちが『国枝はまた強くなったのはないか』といった風にコメントしているのを聞くと、その分だけでも自分は精神的に優位に立っているのかな、と思います」。試合終了後に広報室で取材に応じる彼の顔からはもう、コート上で見せた険しい表情は消えている。

握手してもらうと、手の分厚さにまず驚く。しかし、それよりも特徴的だと感じたのが、太い声帯を震わせながら、質問の一つ一つを丁寧に自分の言葉に置き換え直す話し方だ。「相手がつけいる隙さえない、と思ってしまうような試合運びを心掛けているので」と言う彼には既に、一流のアスリートに相応しい言葉と風格が十分に備わっているように見えた。

圧倒的なチェアワーク

テニスは、いわゆる健常者と障害者が共に楽しむこと ができる、数少ないスポーツの一つと言われている。例えばウィンブルドン選手権と、今回行われた車椅子の全英オープンとの間に、ルールの違いはほとんどない。唯一といっていいほどの例外が、前者では自陣コート内で2バウンドする前に打ち返さなければ相手の得点となるが、後者においては2バウンドまで許されるという点。多くの場合、健常者が2バウンド制のルールに適応することで、両者間でも試合が成立する。

ところが国枝選手は、ほとんどすべてのボールを1バウンドで打ち返す。自身は「ツーバウンドで拾うのは、全体の約3割未満」と言うが、この日の試合を見る限りでは1割に満たないのではないかと感じた。対戦相手にとってはボールを待つ時間が半減するわけで、そのプレー・スタイルは脅威となるであろう。現在は世界ランキング3位のマイケル・ジェレミアス選手(フランス)も、「オールマイティな能力を兼ね備えているのは確かだけど、とりわけ秀でているのは動きの速さ。どんなボールでもワンバウンドで対応する身体能力は、現在の車椅子テニスの世界ではずば抜けている」と称える。

全英オープンで優勝全英オープンで優勝し、トロフィーを掲げる

「チェアワーク」と呼ばれる、車椅子を自在に操る能力は青年期から発揮していたようだ。国枝選手が11歳の時から通い続けているという吉田記念テニス研修センター(TTC)理事長の娘であり、選手たちの通訳アシスタントとしても働いている吉田仁子(まさこ)さんは「学生時代から、彼は健常者に混じってプレーしていましたからね。女子の競技選手の練習相手とかも、よく務めていたんですよ」と当時を振り返る。現在でもスピード感溢れるプレーに対するこだわりは持ち続けているようで、昨年にはワンバウンドの処理への慣れをテーマとして掲げながら、健常者のテニス大会にも出場した。

国枝選手に、いつかは健常者が参加する大会でも優勝する自信はあるかと問うと、こんな答えが返ってきた。「そういった戦術、練習をしていけば、できないことはないかな。えっ?それが目標となるか、ですか。目標なのかな……。うーん、まあそこまでいくと、今はまだ夢ぐらいのレベルになりますかね」。

でも、彼であれば、遠くない未来にその夢を叶えてしまうような気がする。

なぜ車椅子テニスなのか

あえて穿った見方をすれば、「とにかく、相手に考える時間を与えない」という彼の攻撃的なプレー・スタイルは、どこかで「健常者」と「障害者」という垣根を取り払う試みの一つであるようにも見える。そう感じたのは、国枝選手が絶大の信頼を置くという丸山コーチが「ルールとしては、確かに2バウンドまで許されているという違いがある。でも逆に言えばそこだけです。車椅子テニスだからって何か指導法を変えている感覚はないし、また妥協も一切していません」と話すのを聞いた後だった。

丸山コーチは、車椅子テニスを障害者スポーツとしては捉えていない。「実はまだ車椅子テニスの指導を始めたばかりのとき、大森康克選手っていう、バルセロナとアトランタのパラリンピックの日本代表選手を指導することになりましてね。彼に『あなたは私の介護者になるのか、それともテニスのコーチなのか』と聞かれたことがあったんですよ。それ以来、僕も車椅子テニスに対する考えを改めました。目が悪ければ眼鏡をかける。歯が悪ければ差し歯をつける。車椅子に乗ってテニスする人もいる。そういう感覚ですね」。

丸山コーチ国枝選手が全幅の信頼を寄せるという、丸山コーチ

全部で19面を数えるこの日の試合会場を広く見渡せば、先の丸山コーチの言葉の意味が自ずと理解できるはずだ。どの選手も、安定性を高めるために補助輪、そしてハの字型になった主輪が付いた競技用の車椅子に自身の体を置きながら、普段使用している生活用の車椅子にラケットやバッグといった荷物を載せ、これを手押し車のように使って移動している。

テニスというスポーツにおいては、どんな選手であれ、自分の荷物は自分の手で持って運ぶことが求められる。また一度コートに立てば、コーチと会話を交わすことさえ許されない。テニスとは、それだけ自立を促されるスポーツなのだ。そして国枝選手にとっては、それこそがこのスポーツの最大の魅力と映る。

「コートに入ったら、すべてが自分一人の問題。勝つも負けるも、自分が練習した分だけ結果に反映される。いかに自分に厳しく毎日過ごせるか、ということを考えるようになるんです。そして、だからこそ車椅子テニスが好きなのだと思います」と話す彼にとって、「強くなること」と「成長すること」は同義なのであろう。

母に連れられて始めたテニス

幼い頃は、少年野球チームに入っていた。「やんちゃな子供だったと思います」と言う彼の身に大きな変化が起きたのは、9歳のとき。突然、腰の痛みが数カ月にわたって続くようになった。その時点では何が原因なのかよく分からなかったが、とにかく寝られないぐらいに激しい痛みだったという。病院でMRI(核磁気共鳴映像法)を使って検査してみると、脊髄に腫瘍が見つかった。そしてちょうど手術日に、足が全く動かなくなる。手術しても、やはり下半身は動かなかった。

それから2年後、母に連れられて、自宅から徒歩30分の場所にあるテニス・コートを訪れた。そこが、これまで数々の車椅子テニス選手を世界へと輩出しているテニス教室であるTTCだった。「ルールも全く知らない状態だったんですけどね。母がもともと、テニスが大好きなんですよ。TTCで車椅子テニスの指導が行われていることを知り合いから教えてもらって、僕を連れていくことにしたみたいです」と、まるで他人事のように話す彼の記憶にはしかし、たくさんの思い出が今も鮮明に残っている。

曰く、回転をかけたり、作戦を練ったり、最初はなんだか難しいスポーツだと感じて、すぐにはテニスを好きになれなかった。1年後に初めて試合に出場して、1回戦で敗退。悔しくて、どうしても勝ちたくなって、それから夢中で練習した。やがて日本の全国大会で優勝。高校1年のときにはもう、オランダで行われた国際大会を制し、世界のジュニア・チャンプに。2004年に開催されたアテネ・パラリンピックのダブルスでは、金メダルを受賞した。

抜群のチェアワーク世界一の速さを生み出す、抜群のチェアワーク

試合後試合後、観客の声援に笑顔で応える

華やかな戦績の裏で、この頃の彼を、人知れず悩ませていることがあった。それは両親への金銭的な負担。国際大会は、主に欧州や米国で開催される。飛行機に乗れば、車椅子を手荷物として認めず、別途料金を徴収する航空会社がある。宿泊費もばかにならない。とにかく車椅子テニスを世界レベルで戦おうとすると、お金がかかるのだ。「アテネのパラリンピックまではまだ学生だったんですが、国際大会に出ると年間200~300万円ぐらいかかるんですね。それを全部親に負担してもらっていたんです。でも父は普通のサラリーマンなんですよ。もうこれ以上の負担を親にかけることはできない、とさすがに思いましたね」。

だから、アテネを最後に、競技生活には幕を引こうと思っていた。ところがこの大会のダブルスで優勝を遂げたことで、「金メダルがあれば、テニスが仕事になるのではないか」と考えを改める。就職活動を開始することを決意し、付属高校から通い続けた麗澤(れいたく)大学に打診すると、大学への寄付金を集める部署に就職することができた。「主な仕事は、テニスをすること」と言い切る彼の言葉は、もうプロ選手としての矜持(きょうじ)を含んでいるように聞こえる。

不利な条件を乗り越える集中力

国枝選手は、毎朝6時から練習を行っている。起床は4時半。「私と彼がやっているのは本当に基本的な練習なんです。傍から見ると本当に地味でつまらない練習だと思いますよ」という丸山コーチの言葉を信じるならば、彼の強さを作り出しているものは何だろうか。国枝選手の答えは「集中力」だった。「練習の質をどれだけ高めることができるか、つまりどれだけ集中できるか。練習が2時間だったら、どれだけの内容をその2時間に注ぎ込めるか。まあ強いて言うならば、自分にはたとえ練習においても、決勝戦を戦っているのと同じくらいの集中力と緊張度を持てる才能があるかな、とは思います」。

そんな毎日の積み重ねが、そのまま彼の強さとなる。「100%の集中力を出さないままこなしても、それは自分の自信にはならないですね。例えば、1回戦で手を抜きながらもなんとか勝ったとする。でもその手を抜いた部分が、次の試合で結果となって出たりするんですよ」と言ったときだけ、声が一際大きくなったように感じた。

彼がそこまでして集中力にこだわるのには、地理的条件も関連している。先に述べたように、車椅子テニスの大会が行われるのは欧州や米国が中心なので、日本人は圧倒的に不利。国枝選手が現在参加しているのは年間11大会で、欧州に拠点を置く他の選手と比べると、これはかなり少ない。彼が日本国内に留まっている間に開催されるいくつもの大会に出場する欧州選手の中には、車椅子テニスでプロとして活動している者が多くいる。そして彼らはそれだけ「真剣度、気迫」に満ちているから、大会自体のレベルが上がっていくという好循環が生まれる。

強くなることで、彼が成し遂げたいこと。それは車椅子テニスの魅力を、もっと広く知ってもらい、日本でもその好循環を作り出すことだ。「車椅子テニスって、なかなか報道されないスポーツじゃないですか。だから自分から発信しないと、誰にも気付いてもらえない」と訴える彼が「ちょうど流行っていたし」という理由で始めたブログは、いつもファンからの温かいメッセージに溢れている。「車椅子テニスの現状を変える」という目標は、少しずつ実現に近付いているのではないか。「うーん、難しいですね。どうなんだろうな。でも自分の活躍によって、車椅子テニスがもっと注目を集めるようになれば、それほど嬉しいことはないですね」。 夢は、また膨らんでいく。

だから、彼は勝ち続ける。「北京パラリンピックの前哨戦」と位置付けていた今回の全英オープンでも、国枝選手はすべての試合でストレート勝ちを収めて優勝を決めた。体調を崩し、大会後半はほぼ絶食状態で過ごす中で見せつけた圧倒的勝利だった。「車椅子テニスをやっている先輩方に出会えたことが何よりの財産になった。車椅子生活においてのヒントや勇気をいっぱいもらった。もし車椅子テニスをやっていなかったら、街を堂々と歩くこともできなかったかもしれない。テニスに、希望をいただいたんです」という気持ちが、彼の強さが湧き出る源泉となっている。

今では希望を与える立場となった彼が、北京のコートに立ち、世界にアピールする日まで、およそ1カ月である。

 

いざ心の休息地、湖水地方へ

いざ心の休息地、湖水地方へ

柔らかな陽光を反射する、穏やかに凪いだ水面。日の光や雨、風や霧とともに刻一刻と表情を変える水と緑の姿に、自然が持つ奥深さを見る。湖水地方は、美しい。「時間」の質を考える暇もない忙しない大都市を離れ、この夏、懐深い自然に身をゆだねてみてはどうだろう。
(本誌編集部: 國近絵美)


ロンドンのユーストン駅からオクセンホルム駅まで約3時間30分

湖水地方ロードマップ&フォト・ギャラリー

未知の魅力を求めて伝統と歴史の 「現在を訪ねる」

湖水地方の列車の玄関口であるオクセンホルム駅に降りた瞬間、冷たく芳醇な空気に癒される。自然の美しさにすでに圧倒されつつも、「未開拓の魅力」を探すため、まずは日本人観光客があまり訪れることのない湖水地方北部の町コッカマスと、西部のマンカスターに向かった。

map1インタラクティブに楽しむ詩人の生家

湖水地方の大自然を愛し、その景観を何よりのインスピレーションとした桂冠詩人、ウィリアム・ワーズワース。英国が誇るこのロマン主義の詩人は、1770年、湖水地方北西部に位置する人口約7000人の小さな町、コッカマスに生まれた。そして観光の中心部であるウィンダミアよりもずっと北に位置し、落ち着いた雰囲気が楽しめるこの町の中心部に、ナショナル・トラストが所有する詩人の生家がある。

ワーズワースが幼少期を過ごしたこの家は、1770年代の生活様式をロール・プレイ式に紹介するという珍しい仕組みと共に公開されている。受付を抜けるとまず来場客を出迎えるのは、キッチンから流れてくる香辛料と油の香り。石炭を焼くべた旧式のコンロには鍋が置かれ、パチパチと油が爆(は)ぜている。「あれはハーブ入りポテトの揚げ物で、テーブルの上にあるのはマジパンのケーキ。でも子どもたちが触ったから、食べないでくださいね」。18世紀当時のメイド服に身を包んだガイドが笑顔で教えてくれる。

台所や家具、寝室や書斎には今でも人が住んでいるかのように日用品が展示されているが、注意書きされている場合以外は触っても良い、というのがこの家のうり。小麦を磨りつぶす石臼の重みを手で確かめられるし、子ども部屋のクローゼットを開ければ、ちゃんと当時の服が吊るされている。しかも、子どもは実際に服を試着することもできるというから驚きだ。

だがこの建物で一番の見所は、なんといっても裏庭にある、丁寧に手入れされたガーデンだ。ハーブの茂みでぐるりと野菜畑を囲んでいるのは、昔から害虫対策として伝わってきた知恵が生きている証拠。「オーガニック」という生き方がそのまま継承されたこの屋敷には、自然を愛したワーズワースの思いとそれを後世に残そうとする人々の情熱が満ちている。

map2地ビールに見る175年の伝統の味

ワーズワース・ハウスから歩いて5分ほどの距離にあるのが、カンブリア地方最大の醸造所、「ジェニングス・ブルワリー」。1828年にコッカマスにほど近い村ロートンで創業し、1874年に同地に場を移して以来、湖の清水と伝統的な製法を使用したエールを製造してきた由緒ある醸造所だ。表には、地ビールの要である新鮮な水が汲み上げられる井戸が設置されている。

観光シーズンの間は1日2回のガイド付きツアーがほぼ毎日敢行されているので、香ばしいホップの匂いを嗅ぎながら、工程を見学してみよう。もちろんツアーの最後には、醸造所見学の一番の楽しみである試飲が待っている。また、ジェニングスでは現在、毎月新作エールを1カ月限定で発表中。地ビールを扱う酒屋であればロンドンでも同社の商品を手に入れることができるが、期間限定のものは今のところ湖水地方でしか手に入らないというから、試さない手はないだろう。

map3景勝と人の温もりが味わえる古城

コッカマスから車で海岸線沿いに1時間ほど下った南西部の町、ラベングラス近郊に位置するマンカスター城。去年は世界各地から9000人もの来客を集めたというこの城は、過去800年以上にわたり、所有者であるペニントン一家が代々住んでいる。1800エーカーにも及ぶ広大な敷地を有するこの城の手前には野趣に富んだ渓谷が広がり、この光景を見るだけでもこの地を訪れる価値がある。

現在でも一家3世代が住む城は一部が開放されていて、古城ならではの重厚な造りをじっくりと見学することができる。おとぎ話に登場しそうな「これぞ貴族」といったインテリアに、歴史的価値の高い絵画や調度品がずらりと並ぶが、見学の途中で見知らぬ老夫に声をかけられても驚いてはいけない。彼こそが、城の名物おじいちゃんにして現城主のパトリック・ゴードン=ダフ=ペニントンさんなのだ。レシーバーでガイドに聞き入る観光客をおもむろに止めては挨拶するパトリックさん。「今日は来てくれてありがとう。楽しかったですか?」最初は訝しげな目を向けた来場者たちも、城主の笑顔に緊張を解き、一期一会の会話を楽しみ始める。

また、ここマンカスター城は、英国で初めて「幽霊教室」なるものを開講したほど、英国では名の知れた「ホーンテッド・キャッスル」なのだそう。少女の幽霊が住むという、いわくつきの寝室「タペストリー・ルーム」では、1日1組(6名まで)限定で宿泊できるので、英国流の肝試しを体験したい方はぜひ参加してはどうだろう。

旅人を惹きつける湖水の魅力

Dry Stone Wall
Dry Stone Wall「ドライ・ストーン・ウォール」とは、自然の形のままの石を計算しながら積み上げていき、壁の外側の重量バランスを中心部に傾けることで、モルタルを一切使用せずに強度を保つという手法で造られた壁のこと。さらに、年月とともに隙間に苔が発生し強度が増すという、まさに人間の知恵と自然の合理が一体となった伝統技術だ。湖水地方では家や塀の建設にも多用されていて、ウォーキング・パスに沿ってどこまでも続く石塀には、旅情をかきたてるなんとも温かな趣がある。

Ginger Bread
GInger Bread一般にジンジャー・ブレッドといえば、人形のかたちをしたサクサクのクッキーを想像しがちだが、湖水地方のそれは味も 姿も似つかぬもの。体がすぐに温まる強いしょうがの味と、ねっとりとした食感が特徴だ。

Herdwick Sheep
Herdwick丘で良く見かけるこのハードウィックという種類の羊は、赤ちゃんの時は真っ黒の毛で生まれ、次に茶色、そして灰色へと、成長とともにお色直しするとても珍しい品種だ。かつては絶滅寸前だったが、絵本「ピーター・ラビットのおはなし」の作者、ビアトリクス・ポターが保護に努めたことでも知られる。雨や厳しい寒さに強く、他種の羊が生息できないような高地でも放牧できるという、湖水地方の環境で飼育するには最適なハードウィック。また、一般の羊肉よりも割高だが、濃厚な味わいは一度食べたら病みつきになるはずだ。

Kendal Mint Cake
Kendal Mint Cakeケンダルという町が発祥地の、ミント風味の砂糖水を棒状に固めたお菓子。ケーキとは名だけで、口に入れるとゆっくり溶ける「砂糖の塊」といった方が近い。ミントがリフレッシュ効果抜群、かつエネルギー補給として最適なので、ウォーキングなどのお供として重宝される。

表情豊かな緑の地、コニストン

ウィンダミア湖の西に位置し、いわゆる「メイン・ストリート」が2本しかないという小さな町、コニストン。とはいっても見所は多く、ここを拠点にホークス・ヘッドやヒル・トップへ足を運ぶこともできる。そしてこの町の魅力は、観光地にありがちないやらしさとは全く無縁な、懐(ゆか)しい、手付かずの素朴な自然が堪能できること。荒涼とした山々を背景に、かつてのスレート採掘場や銅鉱山の跡地を訪ね、同地を愛した偉人たち縁(ゆかり)の地を巡ってみよう。

map5大自然に抱かれたラスキン邸

コニストンを語る上で最も重要な人物は、アーツ・アンド・クラフツ運動の父であり、芸術評論家にして詩人、そして社会思想家として世に多大な影響を与えたジョン・ラスキンだろう。創作活動を行いながら、鉄道が湖水地方に延伸することに反対し自然を守ったラスキンは、ビアトリクス・ポター同様、ナショナル・トラストの設立に大きく貢献した人物でもある。

そんな彼が、1900年に死を迎えるまでの28年間を過ごした邸宅「ブラントウッド邸」が、博物館として一般公開されている。深い森に身を隠すように建つその邸宅の眼下にはコニストン湖が広がり、屋敷からの景観が素晴らしいと聞いたラスキンが、実際に建物を見ることなく購入を決意したというのも頷ける。館内にはラスキンが手掛けた絵画や仕事場として利用していた書斎などが展示され、「自然をあるがままに見ることの大切さ」を説いた故人と同じように屋敷からの景色を見ようと、世界各地からファンが訪れている。

一方、町の中心部にあるラスキン・ミュージアムでは、ラスキンのアート界や社会への影響力、そして急進的な思想を考察することができる。また、故人の墓は観光局付近の墓地にある。アーツ・アンド・クラフツ運動が支えた「職人技」による、凝ったデザインが彫られた墓石が目印だ。

ウォーキングで堪能する自然という至極の芸術

湖水地方の天気は変わりやすい。なのでウォーキングを最大限に楽しむには、防水の上着やトレッキング・シューズが必要となる。とはいえ、雨が降りだしても晴天の時とはまた違う自然の表情を見ることができるし、またすぐに止むことが多いので落胆してはいけない。そしてしっとりとした雨上がりの空気は、懐かしい甘い土の匂い。静謐な美しさに心が洗われる瞬間だ。

さて、無数に存在するコースのなかから「コニストンならではのウォーキングを」と勧められたのが、「大聖堂の洞窟」という、300年以上も前からスレート採石のために掘られた洞窟を通るルートだ。滝を越え、小川や石壁を渡って行くと洞窟の入り口にたどり着く。そして暗く水浸しのトンネルを進んだ先にある洞窟の光景は、まさに別天地としか形容できない美しさだ。高い天井からは8メートルほどものスレートの柱が伸び、地上に空いた穴から差し込む光が洞窟内を照らす。その光は巨大な水溜りに反射し、荒々しい岩盤の天井に光の波を投げかける……。夢現(うつつ)のまま洞窟から出たら、石塀に沿ってさらに歩を進め、湖水地方の絵はがきでよく見かける「スレーターズ・ブリッジ」まで行ってみよう。絵本から飛び出てきたかのようにかわいらしい太鼓橋に、また感動のため息が漏れるはずだ。

map6英国一美しい農場 ユー・トゥリー・ファーム

06年に公開されたビアトリクス・ポターの伝記映画「ミス・ポター」で、ポターが住んだ家「ヒル・トップ」として撮影されたのがこの農場だ。かつてはポターが所有し、後にナショナル・トラストへと寄贈したもので、インテリアの家具はポター自身が揃えたものが多い。また、02年よりナショナル・トラストから委託経営しているワトソン夫婦は、農業の傍ら、ティー・ルームとB&Bも手掛ける。手作りジャムや羊毛、ハードウィックの羊肉やベルティック・ギャロウェイという牛の肉といった食材も販売しているので、地元の品や味をお土産にすることできる。

羽を伸ばすならコテージが一番!

せっかくの休息の旅、宿泊先でも思い切りリラックスしたい──そんな希望を適えるために今回お世話になったのは、良質で趣のある貸しコテージを70軒以上も所有する「コッパーマインズ&レイクス・コテージズ」。ありとあらゆるサイズやロケーションからお気に入りの1軒を選ぶことができるうえ、週単位の滞在しか受け付けない通常のコテージとは違い、週末や短期間の滞在でも利用できるのが嬉しい。

チェックインを済ませスレート葺きの瀟洒なコテージのドアを開けると、まさに「第二の我が家」に帰って来たような、なんともアットホームなリビングが迎えてくれる。ピカピカのオーブンに冷蔵庫、洗濯機にDVDプレイヤーまで完備。好きな時間に起き、ソファに身を沈めてパンをかじりながら窓越しに風景を愛でるもよし、早朝に庭に出て、身が締まるような冷たい霧に烟(けむ)る緑を、熱々のコーヒーをすすりながら楽しむもよし。そんな何気ない日常の行為を、都会では手に入れることのできない贅沢な環境で気ままに堪能できるのも、コテージならではだ。

コテージまた、外食に疲れた、あるいは節約したいという時に自炊できるのも、コテージ利用の大きな魅力だ。というわけで、最終日の夕食は、ユー・トゥリー・ファームで購入したハードウィック・ラムのローストに、地元で採れたポテトとブロッコリーの付け合わせに挑戦。自宅と変わらない環境で料理できることに感動しつつ、ラム肉の芳香に、隣のコテージの宿泊客が「今晩の夕飯はなに?」と聞きに来るという、ほのぼのとした土産話までできてしまった。「冬は地元食材をたっぷり入れた鍋を囲んで、夏は庭でバーベキュー……。」あまりの居心地の良さに、誰しもが次の旅計画に思いを馳せてしまうに違いない。

The Coppermines & Lakes Cottages
The Estate Office, The Bridge, Coniston LA21 8HJ
Tel: 0153 944 1765(24時間)

www.coppermines.co.uk

ローカルinfo

① Wordsworth House
Main Street, Cockermouth, CA13 9RX
Tel: 0190 082 0884
www.wordsworthhouse.org.uk
② Jennings Brewery Castle
Brewery, Cockermouth, CA13 9NE
Tel: 0845 129 7185
www.jenningsbrewery.co.uk
③ Muncaster Castle
Ravenglass, CA18 1RQ
Tel: 0122 971 7614
www.muncaster.co.uk
④ The Pennington Hotel
Main Street, Ravenglass CA18 1SD
Tel: 0122 971 7222
thepennington.co.uk
写真)マンカスター城の近くにあるペニントン・ホテルでは、本格的なメニューが揃う。いちおしのアフタヌーン・ティー(2人分)は、ボリュームも満点
Brantwood⑤ Brantwood
Coniston, LA21 8AD
Tel: 0153 944 1396
www.brantwood.org.uk
Brantwood⑥Yew Tree Farm
Coniston, Cumbria England LA21 8DP
Tel: 0153 944 1433
www.yewtree-farm.com
BrantwoodRuskin Museum
Coniston, LA21 8DU
Tel: 0153 944 1164
www.ruskinmuseum.com
料金: £2~4.25
Tourist Information Centre
Ruskin Avenue, Coniston LA21 8EH
Tel: 0153 944 1533
www.conistontic.org
Steam Yacht Gondola
Coniston Pier
Tel: 0153 944 1288
www.nationaltrust.org.uk/gondola
写真)コニストン湖では、ナショナル・トラストが運営する18世紀・ビクトリア時代の蒸気船に乗ることもできる

湖水地方ロードマップ&フォト・ギャラリー

 

「英国の女たち」シリーズ 第4回 実業界の女たち

「ガラスの天井」を突き破る実業界の女たち

今や「女ボス」は当たり前の時代。特にここ英国では、世界的なビジネスの頂点に立って指揮を執る女性も珍しくない。そこで今回は、女性らしいしなやかな感性と、転んでもタダでは起きない強靭な精神で成功を手にし、今日の実業界を賑わしている英国のビジネスウーマンたちにスポットを当ててみた。(黒澤里吏)

企業家編

ここでは独自の着眼点で英国に新しいアイデアと流行をもたらした、4人の女性起業家たちをピックアップ。会社創業に踏み切った背景やきっかけ、また成功の秘訣を探ってみよう。


talkbackTHAMES、CEO
思いきりのよさは天下一品
業界に新風を吹き込む女ボス

ロレイン・ヘガシー Lorraine Heggessey

出身地不明 51歳

ロレイン・ヘガシー

「X Factor」「Apprentice」などといった大ヒット番組を次々と生み出し、昨今のテレビ業界をリードしている英国最大の番組制作会社「talkbackTHAMES」。現在、そのCEOとして総指揮を執っているのが、業界のパイオニア的存在とも言われるロレイン・ヘガシーである。2005年に現職に就くまではBBC1に20年間にわたって勤務し、そのうち5年間は辣腕ディレクターとして活躍。いまだ圧倒的な男社会であるテレビ業界、それも天下のBBC1でディレクターに就任した女性は彼女が初とあって、就任当時は大きな話題を呼んだ。そして「教育と娯楽を別物として考えるような人たちは、結局どっちも理解していない」との考えから、出来は良くても商品として成り立っていない、お堅い教育番組を大衆化して視聴率を上昇させるなど、時には物議を醸しながらも、業界内でさまざまな改革をもたらした。

BBCからの転職後はまず、携帯の着メロを、BBCで放映する「EastEnders」から「The Bill」(「talkbackTHAMES」社制作のドラマ)の主題歌に変えたというロレイン。現在、あらゆる種類の番組を制作販売し、経営面も含めて優れた統率力を発揮している。「とにかく仕事を楽しむこと!それと、男と対等にやろうと思わないことね。それよりも、女ならではの能力をもっと活用するべきよ」という言葉に、彼女の成功の鍵が隠れているようだ。


バーミンガムFC、MD
自分の道は自分で切り開く
15年を経た今が正念場

カレン・ブラディ Karren Brady

ロンドン出身 39歳

カレン・ブラディ

23歳という若さで、英国のサッカー・クラブ史上初の女性マネージング・ディレクターの座に就いたカレン。昔から話術に長け、エネルギーに満ち溢れていたという彼女は、放送局の広告営業をしていた頃、スポーツ新聞社オーナーのデビッド・サリバンに気に入られ、そのまま彼の下で働くことになる。そしてバーミンガムFCが管財人管理下にあることを知った際にはサリバンを説得して同FCを買収し、現職に就任。以後、15年にわたってクラブの運営に携わってきた。観客動員数や収益率の増加、さらにはスタジアムの活性化と、あらゆる面において経営改善を図った彼女の貢献度は計り知れない。私生活では同FCのカナダ人選手と結婚して2児をもうけているが、第1子出産後、たった3日で仕事に戻ったという逸話も残されている。また2006年には大脳動脈瘤を患い手術を受けるも、術後1カ月で現場に完全復帰。まさに不死身の仕事人と言えるだろう。

しかしFC運営とはある意味、ギャンブルのようなもの。金銭事情や戦績不振などによるストレスからか、近年ではサリバンがクラブ売却の意向を漏らすようになった。さらに今年4月には経営上の不正を疑われ、カレンとサリバンの2人が警察に事情聴取されるという事態に。固い決意と粘り強さが信条のカレン、この窮地をどう乗り越えるのだろうか。


BP 代替エネルギー部門、CEO
仕事と家庭の両立を実現
冷静沈着な理系の才女

ヴィヴィアン・コックス Vivienne Cox

エクセター出身 48歳

ヴィヴィアン・コックス

英国に本拠地を置く国際石油資本、BPの重役として多忙を極めるヴィヴィアン・コックス。オックスフォード大で化学を学んだ後に同社に入社し、以来26年間BP一筋で働いてきた。1987年に同社が完全民営化を果たした際、折しも財政管理部に異動となった彼女は、政府との関わりの中で石油産業の政治的側面を学ぶ。その後、フランスの名門INSEADに留学してMBAを取得。帰国後は石油貿易に関わる金融取引商品の開発部門の設立をはじめ、中央・東ヨーロッパにおける新事業開発に伴いウィーン駐在を経験した。2004年にはガス、パワー、リニューワブルズ部門のCEOに就任。現在は新たに開設された代替エネルギー部門で、水素や風力などを用いた低炭素排出の発電事業という、10年で約40億ポンド(約8000億円)の投資が行われる一大プロジェクトを牽引している。

そんなバリバリのビジネスウーマンは、イングランド南東部バッキンガムシャーにある16世紀のファームハウスに夫と2人の娘と暮らし、仕事と家庭をうまく両立させていることでも有名だ。最低週3日は早めに帰宅して娘たちを寝かしつけ、週末は自家農園で野菜を育てたり、ケーキやジャムを作ったりして、家族との時間を楽しむ。まさに理想の充実ライフ、働く母のみならず全女性の鑑である。


ロンドン証券取引所、CEO
世界経済を動かす
マルチリンガルな3児の母

クララ・ファース Clara Furse

カナダ出身 51歳

クララ・ファース

200年以上にわたるロンドン証券取引所(LES)の歴史を変えた人物、それがクララ・ファースである。オランダ人の両親を持ち、カナダで生まれ育った彼女は、コロンビア、デンマーク、英国で国際的な教育を受け、名門大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学位を取得。華やかな学歴を引っさげて大手証券会社に就職し、そこでコモディティ市場に携わったことから先物取引の世界に関わるようになる。2年後には世界有数の投資銀行UBSの重役に就任。さらに90年代に入ってLESのディレクター、ロンドン金融先物取引所(LIFFE)の会長代理を務め、2001年、43歳でLES史上初の女性CEOに就任した。前任者がドイツ証券取引所との合併に失敗したことを受け、旧体制に縛られ、内部抗争に明け暮れていたLESの組織変革を図ろうという風潮に乗っての大抜擢だった。

以来、ナスダック、ユーロネクストといった各国の取引所との数多くのタフな交渉にあたり、卓越したビジネス能力を顕示しているクララ。3人の子を持つ母でもあるが、時にクリスマス休暇さえ返上して働く多忙ぶりである。まさに男勝りのリーダーだが、女性としてトップに立つことをどう考えているのだろうか。「性別は仕事には関係ないわね。あえて言うとしたら、他人から覚えてもらいやすいってことかしら。良くも悪くもね」。


起業家編

ここでは独自の着眼点で英国に新しいアイデアと流行をもたらした、4人の女性起業家たちをピックアップ。会社創業に踏み切った背景やきっかけ、また成功の秘訣を探ってみよう。


Colourblind Cards創業
3足以上の草鞋を履く若きシングル・マザー

ジェシカ・フイエ Jessica Huie

ロンドン出身 28歳

ジェシカ・フイエ

アフロ・カリビアンに出生のルーツを持つジェシカは、ある日、娘に送るカードを求めてハイストリートの店を回るが、しっくりくるものが全然見つからないことに気付く。それもそのはず、カードに使われているモデルは白人ばかり。その事実に釈然としないものを感じると同時に、この「欠落」はビジネス・チャンスだと直感、7歳の娘をモデルにしてカード制作を開始し、弟とともにエスニック・グリーティング・カード会社設立に乗り出す。

18歳でシングル・マザーとして出産。娘の将来のためにも、との思いからジャーナリズムのBA取得を決意したジェシカは、大学に通いながらBBCラジオや大手PR会社マックス・クリフォード社でインターンを務め、週7日労働の日々を3年続ける。努力の甲斐あってBA取得後は同PR会社に就職、同時にエスニック系読者を対象とした「Pride」誌やタブロイド紙「サンデー・ミラー」に寄稿するなど多方面で活躍。そして2006年、これら全仕事を続けながら前述の「Colourblind Cards」で念願の起業。以来順調に事業を拡大し、今年5月には米国進出も果たした。面白いことに今や「Colourblind Cards」の顧客の6割は白人だという。単純にデザインやメッセージに惹かれる人が多く、人種や肌の色を超えて広く愛されつつあるのだ。ジェシカいわく「色分けされるべきものは洗濯物だけだと思うわ」。


Coffee Republic / Skinny Candy創業
兄と二人三脚で夢を実現
好きこそものの上手なれ

サハー・ハシェミ Sahar Hashemi

イラン出身 40歳

サハー・ハシェミ

弁護士としてロンドンの法律事務所に5年間勤務していたサハー。仕事は順調だったが、より自分らしく生きるための何かを模索していた。そんな矢先、証券マンの兄を米国ニューヨークに訪ねた彼女は、現地で上質なコーヒーの虜になる。英国にもこんなUSスタイルのコーヒー・バーがあったら……。兄妹の間に閃いたアイデアは、たちまち実現化に向けて動き出した。商売の経験など全くない2人だったが、まずは徹底したリサーチを実施。結果、英国人の多くが実は紅茶よりもコーヒーを飲んでいるという事実を知り、ビジネスの余地を確信する。その後、銀行の融資を断られること19回と資金繰りに苦労しながらも、1995年、ついに「Coffee Republic」第1号店をオープン。以後、着々と店舗数を増やし、6年後には国内に110店舗を展開、年商3000万ポンド(約60億円)を達成するに至った。

2001年、経営から退いた彼女は執筆活動を開始。自らの起業体験とノウハウを綴ったビジネス書「Anyone Can Do It」はベストセラーに。さらにその後も糖分ゼロの菓子ブランド「Skinny Candy」を創業するなど、精力的に活動中。「誰でも起業家になるための素質は持っています。自分が心から熱中できて楽しめるものを見つけ出すこと。成功とはお金でも権力でもなく、自分が好きなことをできているかどうかだと思うのです」。


Lastminute.com創業
大事故から奇跡の生還を果たした
元祖ネット・ビジネスの女王

マーサ・レーン・フォックス Martha Lane Fox

ロンドン出身 35歳

マーサ・レーン・フォックス

マーサの名を一躍有名にしたのは、共同創始者ブレント・ホバーマンと1998年に立ち上げた格安旅行情報サイト「Lastminute.com」だろう。ひと味違った巧みなマーケティング戦略で一人勝ちしていた同社はITバブルの波に乗り、UKネット業界のアイコンとして君臨。なかでも若々しく熱意に溢れたマーサに対するメディアの注目度は高く、サイバー・ビジネスの申し子とでもいうべき存在となった。

2001年、バブル崩壊により株価が暴落、一時は同社も大混乱に陥るが、こういうときこそモノを言うのが女の底力。見事な手腕を発揮して不安定な過渡期を乗り越え、会社の信用度および自身の株もアップさせたのである。しかし2003年に同社を退社後、旅先のモロッコで車を運転中、大事故に遭い瀕死の重傷を負う悲劇に見舞われる。幸い一命を取り留めた彼女は、丸一年にわたる療養期間中も、もともと力を注いでいた刑務所の改善を目指す慈善団体の理事活動や、「Marks & Spencer」、Channel4などのディレクター業務、高級カラオケ店経営など多くの仕事に携わり、健在ぶりを示した。後日、事故を振り返って「私自身は何も変わっていないわ。ただもっと人生を楽しんで、自分にできることをしていかなくちゃという思いを強くしただけ」と語ったマーサ。今後も目が離せない存在だ。


Jimmy Choo創業
前夫に三行半をつきつけた
私生活も忙しいセレブ起業家

タマラ・メロン Tamara Mellon

ロンドン出身 41歳

タマラ・メロン

才色兼備でお金持ち、向かうところ敵なしといった感じのタマラ。父は実業家、母は元シャネルのモデルというだけあって、若い頃からファッションとビジネスの両分野に才覚があったという。大手PR会社を経て、高級ライフスタイル雑誌として名高い「UKヴォーグ」誌の編集者として働いていた90年代初頭、ファッション小物にヒットの可能性を見出していた彼女は、中国系マレーシア人の靴職人、ジミー・チュウに話を持ちかけ、起業のチャンスをつかむ。そして1996年、高級靴ブランド「Jimmy Choo」を創設。以来、同ブランドは世界中のセレブに愛されようになり、ファッション関連では数々の賞を受賞してきた。タマラ個人も「サンデー・タイムズ」紙の英国長者番付に毎年ランクインするようになり、現在ではセレブの称号をほしいままにしている。

お金、地位、ビジネスでの成功、結婚……と、すべてが順風満帆に進んでいるかのように思えた彼女だが、前夫との離婚をめぐり裁判沙汰になったお陰でメディアからは嫌といえるほどの注目を浴びたり、実の母親と相続問題で揉めたりと、私生活はなかなかどうして波乱気味。最近は米俳優のクリスチャン・スレーターと交際中で、写真誌にキャッチされるなど、またしても華やかな話題が多くなっているようだが……。

今はテレビ番組の中にもビジネス・チャンスは転がっている時代。その代表格ともいえるのがBBCで不定期に放送している 「Apprentice」と「Dragon's Den」だ。ここでは、この2つの大人気番組に登場し話題を呼んだ女性たちの今を見てみよう。


Apprentice アプレンティス
Apprentice数千人の中から選ばれた16人の候補者男女が、実業界の大物アラン・シュガー卿が与える課題に挑むBBC1の看板リアリティー・ショー。優勝者には年収10万ポンド(約2000万円)の役職が約束されている。

Dragon's Den ドラゴンズ・デン
Dragon's Den日本発「マネーの虎」の英国版。一般人が持ち込んだ新規事業アイデアを、大物起業家の「ドラゴン」たちが査定し、交渉が成立すれば資金援助や投資が受けられる。2005年からBBC2でシリーズ放映中。

Apprentice
懐の深さが垣間見える お茶の間の人気者

ルース・バッジャー Ruth Badger

ウォルヴァハンプトン出身 30歳

ルース・バッジャー

セカンド・シリーズで最終候補に残ったものの、惜しくも敗退したルースは、豊富な営業経験を生かしてビジネス・コンサルタント事務所を設立。またその際立ったキャラを買われ、ケーブル・テレビ局「Sky One」でのビジネス・リアリティー番組「Badger or Bust」がスタート、さらに多くのファンを獲得している。彼女の魅力は、何と言っても表情豊かで自信に溢れたスピーチ。男顔負けの豪傑さの中に覗くお茶目さも人気の秘密だ。


Apprentice
七転八起の精神を持って
不屈のチャレンジを続ける

ジョー・キャメロン Jo Cameron

コヴェントリー出身 37歳

ジョー・キャメロン

自動車会社「MG Rover」(2005年倒産)の営業などをはじめ多くの職務経験を持つジョーは06年、番組終了後に娘を出産するが、早産だったために、不運なことにその子供は生後数時間で息を引きとってしまう。この悲しい経験を通じて決意を新たにした彼女は、自らを「立ち直りの達人」と称し、ポジティブ・シンキングを唱えるメディア・コメンテーター、ライフ・コーチャーに転身。テレビ出演などをこなしながら、各地で講演やセミナーを開催している。


Dragon's Den
仏頂面もご愛嬌、生まれついての実業家

デボラ・ミーデン Deborah Meaden

出身地不詳 49歳

デボラ・ミーデン

歯に衣着せぬ物言いで知られるドラゴンの紅一点。レジャー・パークを経営する両親のもとに生まれ、物心ついたときから起業を志していたという生粋のビジネスウーマン。 19歳の時に陶磁器輸入販売会社を設立したことに始まり、小売・レジャー産業に携わって財を築き、今や推定資産額4000万ポンド(約80億)の富豪に。夫と暮らすイングランド南西部サマセットのジョージアン・ハウスには、犬や猫に加えて馬、鶏、カルガモ、そして食用に4匹のブタがいるんだとか。


Dragon's Den
初の著書出版を通して
起死回生を図れるか

レイチェル・エルノー Rachel Elnaugh

エセックス出身 43歳

レイチェル・エルノー

レコード制作やエアクラフト飛行といった、心に残る「経験系」ギフトを提供する会社「Red Letter Days」を24歳で創設。第1期ドラゴンの一人だったが、番組出演中の2005年に同社が破綻し、出演辞退を余儀なくされた。後日、同社はその他2人のドラゴンに買収されている。現在はコンサルタントとして中小企業の相談役を務めており、紆余曲折の起業体験を綴った初の著書「Business Nightmares」を今年5月に発刊したばかり。5人の息子の母。


Dragon's Den
夢実現に向けてまっしぐらの若き起業家

レベッカ・フィリップソン Rebecca Philipson

ダラム出身 24歳

レベッカ・フィリップソン

「あなたをタブロイド紙のニュースにします」という一風変わったギフト商品、パーソナライズ新聞を提供する「UR-In The Paper」社を21歳で創設。2005年に事業拡大を目指して番組出演するも出資は得られず。しかしその後もウェブを通して集客率を高め、「Tesco」や「WH Smith」と提携するなどして着々と前進、売上高も年々アップ。今、話題の若き起業家ということで首相との対面も果たしたレベッカ、今後の活動が注目される。


Dragon's Den
人生最大のピンチを
働くママはどう切り抜けるか

ジュリー・ホワイト Julie White

出身地不詳 39歳

ジュリー・ホワイト

2005年、長男出産後3カ月でママ& ベビー用品を扱う委託型ビジネス「Truly Madly Baby」の企画を番組に持ち込み、ドラゴンの一人、ピーター・ジョーンズと交渉成立、7万5000ポンド(約1500万円)の出資を得る。その後、オンライン販売などを通して急成長を遂げるが、今年6月に残念ながら事実上の倒産。起業以来、働くママとしてメディアの注目を浴び、またその業績が認められて数々の賞を受賞しているジュリーだけに、復活を期待したい。

 

上川隆也・斎藤晴彦インタビュー「ウーマン・イン・ブラック」

上川隆也・斎藤晴彦インタビュー
上川隆也、斎藤晴彦

上川隆也
1965年、東京都出身。89年に演劇集団キャラメルボックスに入団。95年、NHKドラマ「大地の子」主演で注目を集める。以降、劇団での舞台出演のみならず、映画、テレビの分野でも活躍する実力派。「ウーマン・イン・ブラック」には1999年、2003年と出演、今回が3度目の参加となる。

斎藤晴彦
1940年、東京都出身。劇団青俳、発見の会を経て、黒テントを設立。現在もメンバーとして活躍する一方で、ミュージカルから新劇まで、ジャンルを問わず何でもこなす柔軟さが持ち味。「ウーマン・イン・ブラック」には1992年の初演以来、全公演に出演している。

5年もの間、同じ役者と一対一で対峙する。次々と新しい波が押し寄せるショー・ビジネス界において、このような機会は稀だ。俳優、上川隆也と斎藤晴彦は、そんな稀有な関係を築き挙げている2人である。ロンドン発のゴシック・ホラー演劇「ウーマン・イン・ブラック」。今回は同作の日本版ロンドン公演に先駆けて行われる日本ツアーを間近に控えた両氏にインタビューを実施。心から信頼し合い、でも馴れ合わない……、長年の共演で培ったその不思議な距離感が心地良く感じられる、そんなひとときとなった。(取材・文: 村上祥子)

ウーマン・イン・ブラック  ─黒い服の女─

ウーマン・イン・ブラックとある劇場の舞台上。老弁護士キップスが、若い俳優相手に覚束ない口調で自らの経験を語っている。キップスは若い頃、誰にも語ることのできない恐怖の体験をし、それゆえに悪夢に悩まされる日々を送っていた。彼は家族らにすべてを語ることでそんな記憶から解放されようと決意する。その練習を行うため、若い俳優を雇ったのだが、話のあまりの長さとキップスの語りのつたなさに、俳優はある提案をする。俳優が若き日のキップスを演じ、そのほかの人々をキップスが演じるという舞台の形で、この話を語ろうというのだ。かくしてキップスの恐怖の体験が芝居という形で明らかにされることになった……。

7月3日、朝9時。英国と日本をテレビ電話で繋ぎ行われた今回のインタビューは、画像が出てこないというトラブルから始まった。耳のイヤフォンからは、「これは問題なさそうだし……」と器材をいじる声。そして数分後、すっと映し出された画面には、まるで子供のように目を輝かせて目の前の器材に手を伸ばす、上川隆也の姿があった。前回、1月に本公演のロンドン記者会見に出席したときとは全く異なる、リラックスした表情。そしてその傍らには、鷹揚に構え、あまり表情を崩さぬままに飄々と語り続ける共演者、斎藤晴彦の姿があった。

稽古の仕上がりは「順調すぎる」

─ いよいよ日本公演の初日間近ということで、現在、どの程度稽古は進んでいますか。

上川:今は連日、通し(稽古)を繰り返しているところです。もう順調すぎますね。
斎藤:順調すぎますね。
上川:もう全体はできあがっている形で、細かいところ を詰めて詰めて、微調整を繰り返している感じです。

─ 今回は2008年版ということで、これまでの作品と、演出、演技の面で意識的に変えた部分はありますか。

上川:この芝居の面白いところの一つに、僕らの変化を鷹揚に受け入れてくれる器を持っているという点があるんですよ。2003年から08年という5年間を経て、僕らが何かを変えようと思わなくても、2003年とは違う自分がそこにいますから。この芝居と向かい合うと、2008年版が不思議と立ち上がってくるような感じを、今は受けています。

─ 具体的に「ここが違う」という点はあるのでしょうか。

上川:ここがこう違う、というのではないんですよ。やっている段取りは、イギリスのプロダクションと変わらないと思うんですね。演出家も一緒ですから。パッケージは同じなんです。でも、前回が果汁100%だったら、今回は120%と、より濃密になっているような感じですかね。
斎藤:ロビンさん(演出家、ロビン・ハーフォード氏)の演出っていうのは、言葉が分からないなかでやっているから、普通はそれが壁になるんですよ。でも壁にならないの(笑)。なぜかって言うと、彼は全部丸ごと台本を覚えているって言っているんですね。ロビンさんが僕らの芝居を演出するときには、ずーっとセリフを追っている。それで感情の動きとか、細かいところを観察した上で指示を出してくるから、言われて納得することばっかりなんですね。ですから不思議な稽古場ですよね。言葉っていうのが気にならない……、すごいことだと思います。

─ 今回、「ウーマン・イン・ブラック」での共演は5年ぶりとなります。その間、連絡を取り合ったりはされたのでしょうか。

上川:一切、取っていません(笑)。でもそれが隔たりとして感じられないんですよね、不思議と。
斎藤:役者っていう職業はね、仲良くしていてもしょうがないんです。もちろん、お互いに舞台上では切磋琢磨するんですけど、フリーなときっていうのは、会ったってせいぜい芝居の情報交換をするくらいじゃないですか。僕はむしろ普段は会わないで舞台で会った方が、濃密な関係ができあがるような気がするんですよね。


「ロック」な斎藤さん、「頑固」な上川さん!?

─ それでは役者としてのお互いの印象・魅力を教えていただけますか。

上川:僕はこの芝居を演じるのが3回目で、参加して9年目になるんです。斎藤さんは初演から手掛けていらして、僕が初めてこの作品に関わったときから、すべてご存じなんですよ。なので当時から僕は斎藤さんに頼る、というか、僕の至らない部分を委ねるという形で相対していた部分があったと思うんですね。そしてそれに、ことごとく応えて下さって。ですから僕は安心して舞台に立つことができた。それは今も変わらずにあって、斎藤さんと2人なら大丈夫っていう思いが僕にはとても強くあるんですね。そういう安心感を与えてくれる方です。
斎藤:5年ぶりに会った上川隆也は、著しく大きくなりました。「ああ、僕も頑張ろう」って思いましたよ(笑)。彼にとっての5年間っていうのは本当に大きかったんだなって感じましたね。それは技術的なところも大きいけれども、役者としての人間のスケールの大きさ、それがすごくよく分かりましたね。今回の公演はすごいものになりますよ。上川さんの進化の過程を見られます(笑)。

─ 斎藤さんにとっては、萩原流行さん、西島秀俊さん、そして上川さんと、3人のヤング・キップスをご経験されているわけですが、皆さんそれぞれ、どのような演技をされるのか、ご説明いただけますか。

斎藤:演じている間は、僕自身も変わってきているので、昔のことを今、語るというのは、難しいのね。始めの頃は、僕自身も何も分からず入ってきていますからね。やっぱりその都度の過去の話っていうのは、演劇だとしゃべれないんだよね。映画やテレビと違って、舞台っていうのは消えちゃうじゃないですか。そうするとね、そのことをしゃべるのがすごく不可能だっていう気がするんですね。だから萩原流行さんとやったときのことっていうのはね、忘れてる。変な言い方だけど。忘れてるっていうか、「ない」んですよ。お芝居っていうものはその時間、その場所のものですから。勿論、流行さんも秀俊さんも素敵でした。

─ それでは人間としての互いの魅力というのは?

上川:こうやって回を重ねて思うのは、風貌は穏やかでいらっしゃって、でもその実、内面に持ち合わせているものってロックじゃないかなって僕は思っているんですよ。

─ やはりアングラ出身というだけあって……

上川:ロックなんですよ。それとともに持ち合わせている経験や知識というものがないまぜになって身体の中にあるという感じですかね。

─ どういうところに「ロック」を感じるのでしょう?

上川:今、ロックっていう言葉に押し込めたんですけど……。とにかく、体(てい)の良い収まり方をなさっていないんです。人当たりも良くて、ことさらにそういうことを感じさせる方ではないんですが、物事を捉える時に、一面だけでは決して判断しない。そのものの裏側も絶対見ようとなさっていて……なんていうのかな、言い方を変えると、「やんちゃ」な部分っていうのかな。そういう部分をきちんと裡(うち)に潜ませているような、そんな感じです。

─ それでは斎藤さんから見た、人間、上川隆也の魅力とは?

斎藤:上川さんってこうやって一生懸命、他人のことを考えてくれるでしょう(笑)?自分で一生懸命、言葉を探してね、こうやって語ろうとしているところがいいですね。

─ 確かに上川さんの言葉の選び方にはとても独特なところがありますよね。

斎藤:ね、独特でしょう?ちゃんと自分の言葉でしゃべるんですよ。それはすごい。芝居も、そう。要するにね、自分の芝居をものすごく大切にするんですね。いい意味で、ものすごく頑固な俳優だなと思いますよ。


「役者としての修業ができる」芝居

─ 上川さんは前回のインタビューで、本作ならではの魅力として、「自分が今、どんな状態でいるのかがあぶり出されるような舞台」であると表現されていました。今回はどのような自分があぶり出されている感がありますか。

上川:先程、斎藤さんが評してくれた僕という役者の姿は、「ウーマン・イン・ブラック」っていう土壌の上に置いた時に見えたものだと思うんですね。そして同じようなことを僕自身も感じています。5年間経って、5年前にやった自分の演技が、どこか頭の片隅に残っている。それと比較しても違うことをやっている実感は間違いなくあるんですよ。それをつぶさに説明することはできないんですが、違うことが板の上に今、展開されているんだなって、己の目で己を見ている感覚はありますね。

─ それは自分の成長を実感しているということなのでしょうか。

上川:それを成長と捉えるかどうかっていうのは、なかなか難しいことだと思うんですね。ただ、違いを感じることはできる。感じられている自分が面白いですね。そこに鈍感になっていない自分を発見できるというか。

─ それでは斎藤さんにとって、この作品ならではの魅力とは、何でしょう?

斎藤:役者としての修行ができる芝居だと思うんです。実際にお客さんの前で、稽古しているっていう演技をする作品ですからね。毎回違うことを試すことができて、それでも芝居は崩れない。構造として、とっても役者の勉強になる芝居なんですよ。それが一番楽しい。すごい戯曲だなと思います。

ハーフォード氏(写真右)の指示を受ける上川
真剣な表情で演出家、ハーフォード氏(写真右)の指示を受ける上川(同左)


ロンドンはツアーの「最終地点」

─ 7月10日から日本公演がスタート。そして日本各地での公演が終わるといよいよ英国公演ということで、不安は感じていますか。

上川:稽古すればするほど、不安は薄れていっている感じがありますね。いみじくもロビンさんもおっしゃっていたんですが、「最終地点だと思えばいい」、と。日本でも何カ所か周らせていただくんですが、それと同じように、その先にロンドンがあると。なるほどって思いましたし、そのくらいの気持ちでいようと思っています。
斎藤:ワクワクしてますよ。もちろん、日本語という言葉がイギリスのお客様にちゃんと分かるっていうのはあり得ないことだと思うんです。でもね、やっぱり人間の感情っていうのはそんなに変わらないと思うし。悲しいときには悲しいし、怖いときは怖いわけで。感情っていうものが分かれば、お客様は理解できるだろうっていうのは考え方としてあります。それよりも今は、ロンドンでやるっていうのは楽しいなっていう気持ちが大きいです。

─ 上川さんは前回渡英時に英国版を観劇された上で、自分たちの芝居には「粘り、湿度がある」とおっしゃっていました。斎藤さんはその点についてどう思われますか。

斎藤:さっき、「感情はそんなに変わらない」って言ったけれども、役者の、感情を表現するベースっていうのは当然、違うと思うんです。例えばこの作品はホラーであると謳っていても、僕らの場合には日本人が持っている恐怖感っていうのがあるじゃないですか。霊的なものに対する。やっぱり僕らはホラーというものをシリアスに捉えるんですよね。お彼岸だとかお盆だとか、死んだ人に対する供養の気持ちがある。だから「ウーマン・イン・ブラック」をやっているうちにも、悲しみとか切なさとか辛さといったものが、自ずと出てくるんでしょう。

─ 今回は日本語での海外公演になるわけですが、今後も別の形で、海外公演を続けたいと思われますか。

上川:それはそのときに考えないといけないことですよね。「今回、これができたから、また次ができる」とは考えられないと思うんです、僕は。今回は今回ですね。次のことはそのときに考えたいです。
斎藤:正直でしょ(笑)?上川さんはまた絶対やりますよ。これでなくてもね、やっぱり色々なところでやるのはいいことだと思うんです、僕は。役者にとっては本能的にやりたいことだと思いますよ。

7月10日、大阪のシアター・ドラマシティで、「ウーマン・イン・ブラック」初日の幕が開いた。終演後には、場内総立ちのスタンディング・オベーション。最高の形で、日本版ツアーはスタートしたようだ。この初日を遡ること1週間前に行われたインタビュー、2人は清々しいと形容してもよいほどの気負いのなさで、本作を演じる悦びばかりを語ってくれた。未来も過去も、どうでもいい。海外でやろうが、国内でやろうが、構わない。2人の役者馬鹿は、「ウーマン・イン・ブラック」という無限大の「器」の中で、思う存分に役者としての自分の可能性を試せる今という時間を、何より楽しんでいるのだろう。

演出家、ロビン・ハーフォード氏が語る 日本版「ウーマン・イン・ブラック」
ロビン・ハートフォード氏を真ん中に両脇を上川、斎藤が固める

上川、斎藤両氏のインタビュー終了後には、現在、日本版演出のために来日中の演出家、ロビン・ハーフォード氏に話を伺うことに。ハーフォード氏を真ん中に、両脇を上川、斎藤が固める形でインタビューは行われた。眉間に皺を寄せながらハーフォード氏の一言一言にうなずきながら真剣に聞き入る上川と、相変わらず不動の姿勢で超然と佇む斎藤。そしていつでも楽しくて仕方がないという体(てい)で微笑みを浮かべるハーフォード氏という、実に個性的なトライアングルが、本公演における3人の絶妙な関係を体現していた。

ロビン・ハーフォード
現在、ロンドンで19年というロングランを記録する舞台「ウーマン・イン・ブラック」の制作・演出を手掛ける。以降、海外公演、国内ツアーと本作品すべての演出に携わっている。

─ 稽古は順調に進んでいますか。

ハーフォード(以下、ハ):非常に上手くいっています。予定より早く物事が進んでいるくらい。

─ 上川さんと斎藤さんの調子はいかがでしょう。

ハ:非常に難しいところだね……。
上川、斎藤:(笑)
ハ:というのは冗談として(笑)、彼らに会うのはいつでも本当に嬉しいことだし、今は楽しみながら稽古をしています。

─ 今回のプロダクションは、前回と全く同じものになりますか、それとも意図的にどこか変えようと考えていらっしゃいますか。

ハ:古今東西、すべてのプロダクションには違いがあります。とにかく前回の単なるコピーにならないよう、一生懸命努力しているところです。ただ、具体的にどこをどう変えよう、というわけではないんです。結局我々は、いつも同じ真実を求めているわけですからね。

─ ロビンさんの演出方針について聞かせてください。細かい部分もすべてご自分で決めていくのと、ある程度は役者の自由裁量に任せるのと、ご自身はどちらのタイプの演出家だと思いますか。

ハ:完全に後者ですね。私は自分自身が役者もやっていますから、演出家が一人ですべてを決め、役者を人形のように扱うことには何の意味も見いだせません。役者が自分のアイデアやイマジネーションを取り入れて演技することを、何故否定しなければならないのでしょう?私は役者たちが望む方向性を、さらに膨らませてあげたいのです。その上でもし彼らが、ちょっと違うな、という方向に行ってしまった場合には、軌道修正をしますが。何と言っても毎日、舞台上で作品を演じるのは、役者なんですからね。

─ 斎藤さん、上川さんから見た演出家、ロビンさんというのはどのような方ですか。

上川:僕にとってロビンさんは、所属劇団の演出家以外では、スタッフとして初めて出会った演出家だったんですね。正に大海の広さを初めて知った蛙状態で、その演出方法のあまりの違いに驚いたことを覚えています。ロビンさんは、役者が持ち出してきたものを、まず肯定した上で導いてくれる、それを心地良く感じました。言語が違うのに、しっかり役者を導くことができる、とてつもない方だなあ、と心密かに思っております。
斎藤:ロビンさんってね、テクニカルなことは言わないんですね。彼の演出っていうのは、「人間とは何か」ということをひたすら言ってくれるわけ。現実的な演出をしますね。「芝居ならでは」という演出をなさらないんですよ。普通に生きている人間として役者を捉えている。だから「リアリズムの演出家なんだなあ」と 思いますね。

─ 異なる文化、異なる言語の環境下で演出することに、 苦労されることは?

ハ:私には現場を把握している通訳がついているわけですが、何より、私自身が英語でこの芝居を本当によく知っている……、一言一句全部覚えていますからね。だから彼ら(役者)が今、台本のどこにいるのかが理解できるんですよ。でも外国語でやっているということで、演出家として役者に指示を出す際には、より正確に伝えることを心掛けています。著名演出家のピーター・ブルックは以前、共通言語を持たない多国籍の役者たちを使って芝居をつくったことがあります。外国語でやるときには、舞台上でどうすればもっとドラマチックになるのかということを踏まえて、言葉だけに頼るのではなく、ボディ・ランゲージなどその他の要素を取り入れるようにもしています。だから別の言語でやることは鍛錬でもあるし、刺激的でもあるんです。

─ なぜ今回、上川、斎藤両氏による日本版を英国に持ってこようと考えたのですか。

ハ:私は世界各国、英国国内ツアーも含めて、50組以上ものコンビを演出しています。2人の役者たちの間には、皆それぞれに強いつながりがあるんです。そしてこのサイトウさん、タカヤさんの結束力というのは特に強いので、国際的な舞台に持ってくるには完璧な組み合わせだと思いました。
私は常に文化というものには、国と国を結び付ける力が備わっていると考えているんです。スポーツ交流と同様、文化交流というものは、世界を啓蒙し、人々に国と国の間には共通点だけでなく、違いもあるのだと知ってもらうには非常に有用なのではないでしょうか。今回、この芝居をイギリスに持ってくるということは、日本の文化を英国に持ってくるということにもなります。そういう意味でロンドン公演では、ロンドン在住の日本人の方たちだけでなく、この芝居を既によく知っている英国人にも観てもらいたいですね。

ウーマン・イン・ブラック  ─黒い服の女─

原作: スーザン・ヒル
脚色: スティーブン・マラトレット
演出: ロビン・ハーフォード
出演: 上川隆也、斎藤晴彦
後援: 在英国日本国大使館
企画制作: 株式会社パルコ
制作協力: 株式会社ミーアンドハーコーポレーション

公演日程: 2008年9月9日(火)~ 13日(土)
場所: ロンドン、フォーチュン・シアター
The Fortune Theatre, Russell Street, London WC2B 5HH
www.thewomaninblack.com
最寄駅: Covent Garden
チケット販売: インターネット上(日英)またはBox Officeで 直接購入。上演3週間前からは、The Ambassador Theatre Groupで日本語専用ホットラインを設置予定。

*ロンドン公演では、舞台上部に英語字幕が設置される。
字幕を見る場合には、2階(Dress Circle)、3階(Upper Circle)がお勧め。

 

カミング・アウトしたゲイたち

カミングアウトしたゲイたち

異文化を温かく受け入れると評判の英国。その土壌を生かして、日本ではまだまだ社会的な市民権を得ていない感のある同性愛者も英国社会には溶け込んでいるように思える。ところがこの国においても同性愛者に対する偏見や差別は根強く残っており、各界の第一線で活躍する著名人たちをも悩ませているという。英国で苦闘する同性愛者たちの姿を紹介しよう。(本誌編集部: 長野雅俊)

サイモン・ヒューズ 政治家

ゲイと戦い、ゲイを助ける
Simon Hughes
サイモン・ヒューズ


チェシャー出身、57歳

かつて自身が所属する自由民主党の党首やロンドン市長候補となり、現在も同党の影の下院院内総務を務めるほどの実力者。そして彼ほど、同性愛者としての自分自身を意識させられることになった政治家はいないだろう。

1983年にロンドン南部バーモンジー地区の補欠選挙に立候補。ここで、同性愛者のための権利団体で活動する労働党の候補者と争うことになった。同性愛者への理解が現在よりもずっと浅かった当時の時代を背景として、自身が属する自民党はこの対立候補の性癖を批判的に取り上げるキャンペーンを展開。その結果、ヒューズ氏は見事に当選を果たした。

ところが自民党の党首選に立候補した2006年、彼自身が同性愛者であるとの疑惑が報じられる。当初は否定するも、タブロイド紙の攻勢に屈服してバイセクシャルであることを認め、20年以上前に行われた補欠選挙での選挙活動について謝罪した。

この頃から、彼にはよりリベラルなイメージが定着。同年の暮れには、難民申請が却下された同性愛者のイラン人男性に下された強制送還の決定を覆すために尽力した。この男性の恋人が既に同性愛を理由に本国で死刑執行されており、彼の生命の安全を確保するための措置だったという。現在では1983年の選挙時の対立候補も、彼の政治活動を評価している。

ジョン・アミーチ スポーツ選手

米国のスポーツ界に一石投じる
John Amaechi
ジョン・アミーチ


ストックポート出身、37歳

身長208センチ、体重122キロという恵まれた体格を生かし、英国の出身者としては珍しい、米国におけるバスケットボールのプロ・リーグであるNBAで活躍したアスリート。そして今では、同性愛者であることを認めた初めてのNBA選手としても知られている。

2007年にテレビ番組のインタビューにて、自身が同性愛者であることを公表。ところが欧州よりも同性愛者に対する反発がさらに強い米国、しかも巨漢たちがしのぎを削り合うバスケットボールの世界では、この発言が大きな論議を巻き起こした。現地のメディアでは、元チームメイトやかつてライバルだった現役の一流選手たちが「彼をチームメイトとして信用できるか」「同性愛者の選手と更衣室を共有するべきか」といったことについて、それぞれの見解を述べるという事態にまで至った、一大事件となったのだ。

現役時代の彼が、チーム関係者たちから抜群の信頼を集めていただけに衝撃も大きかったのだろう。優勝候補のチームから1700万ドル(約18億円)の年俸で移籍を打診されるもそれを拒否。その1割に満たない金額60万ドルで契約していた、自分を育ててくれたチームに残って恩返しを誓った日のことは、今でも地元ファンの間で語り草になっていると いう。

現在はスポーツ中継の解説者や、企業コンサルタントとして活動している。

ブライアン・パディック 警察官

悩んだ末に女性と結婚
Brian Paddick
ブライアン・パディック


ロンドン出身、50歳

5月に実施されたロンドン市長選に自民党から出馬したのがいまだ記憶に新しい、元警察官。しかも、かつてはロンドンの全地域を統括する立場に属していた上級警察官であった。

オックスフォード大学で学士、ケンブリッジ大学で修士の学位を取得し、ロンドン警視庁に入った後はまさにとんとん拍子で昇級の階段を駆け上っていった。ところが、2006年のロンドン同時多発テロ事件直後に発生したブラジル人青年誤射事件が人生の分かれ目に。公式見解と異なり、警察側が誤射を事件直後から認識していたとの趣旨の発言をしたために、事実上の左遷を受ける。これがきっかけとなって警察庁を退職した。

幼い頃から同性愛者としての自覚があったにも関わらず、女性との結婚経験もあり。基本的に同性愛を禁じていると見なされているキリスト教徒としての立場、両親の不理解を恐れる気持ち、そして警察幹部としての責任を鑑みて「正しいことをしたい」と考えた末の苦渋の決断だったという。後になって、「婚姻中は自分の性について大いに悩んだ」と 振り返っている。

結局、結婚は破綻し、現在はリゾート地として有名なイビザ島のバーで出会った男性パートナーと同居中。また国内のビジネス・スクールにて、特別研究員としてリーダーシップなどをテーマにした講義を行っている。

イワン・マッソウ ビジネスマン

ゲイのための保険商品を開発
Ivan Massow
イワン・マッソウ


出身地不明、41歳

起業家、現代芸術協会(ICA)ギャラリーの元会長、保守党員など多彩な顔を持つビジネスマン。

つい10年ほど前まで、同性愛者は「HIVウイルスに感染している恐れがある」などといった偏見を理由として、通常の4~6倍の保険料を納めた上で、これまでのパートナーの数など私生活の詳細を報告しなければ生命保険には加入できなかった。そこで既に保険業界でのキャリアを築いていた彼は、同性愛者も通常の保険料と手続きのみで利用できる保険制度を確立。同業界のシェアの4分の1を占めるまでの成功を収めた。

異文化には比較的厳しい政策を取る傾向のある保守党の党員としても活動し、同性愛者のための権利拡張に尽力。金融街シティでの成功と、生まれつきの甘いマスクも手伝って、その後はテレビや雑誌に登場して一躍時の人になった。ただその裏側では、同性愛者であることを公表後に生みの親から名前の変更を促されたり、自身の恋人である男性が自殺してしまったりするなど、私生活においては大きな精神的負担を受けていた。

2002年にICA本部を批判した発言が問題になって会長職を辞任。2007年には、自身の地位を確立した保険会社が倒産する憂き目に遇った。その後、公的な場には一切登場しなくなったが、現在はスペインのバルセロナで隠居生活を送っていると伝えられている。

ジェフリー・ジョン 聖職者

聖職者のタブーに立ち向かう
Jeffrey John
ジェフリー・ジョン


ウェールズ出身、55歳

同性愛はタブーとの見方が支配的なキリスト教関係者としては極めて稀な、同性愛者として初めて英国国教会の主教に任命された聖職者。

オックスフォード大学卒。外国語や神学を学びながら、若かりし頃から同性愛者のための権利保護運動に携わってきたと言われている。これが教会関係者からの反感を買い、自身が犯した「過ち」を悔い改めるよう再三にわたって説得されたという。

2003年にイングランド中部レディング地区の主教に任命されるも、英国国教会全体から非難が巻き起こった挙句に、この決定を尊重するか否かをめぐって同教会全体が分裂するかもしれないという危機に直面する。結局、最高責任者であるローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教の意向を受けて、ジョン氏はこのポストへの就任を自ら拒否。ところがこの不透明な経緯に対しても論議が勃発したために、今度はトニー・ブレア首相(当時)が本件に介入することになり、他の教会に対する権限が著しく制限されている、 地方監督の地位に就任することで事態は沈静化した。

強固な反対に遭いながらも、「人間の罪は、既に神によって悔い改められている」と主張し、同性愛者として生きる権利を訴え続けるジョン氏。2006年には同じく聖職者である男性と市民パートナーシップ(同性同士に結婚と同等の権利を与える制度)を結んでいる。

イアン・マッケラン 演劇俳優

最も尊敬される同性愛者
Ian Mackellen
イアン・マッケラン


ランカシャー出身、69歳

映画「ロード・オブ・ザ・リング」に登場する魔法使いガンダルフ役、舞台版「アマデウス」で天才モーツァルトと対峙するサリエリ役など、どの役を演じても強烈な個性が光る英国人役者。アカデミー賞のノミネート2回、全米劇場プロデューサー連盟が主催するトニー賞受賞といった、役者としての輝かしい経歴を誇る。

マッケラン氏は、同性愛者の権利保護を目的とする運動家としての顔も持っている。1988年にBBCのラジオ番組にて、自身が同性愛者であることを初めて告白。そして当時、議論の的となっていた同性愛の喧伝を禁ずる地方議会の条項「セクション28」に反対を表明した。この条項の成立に賛意を示していたマイケル・ハワード保守党議員が、彼の子供のために、とサインを求めたときに「Fuck off, I’m gay(俺はゲイだ、消え失せろ)」と書いた紙を手渡したとの逸話が残っている。

その後も同性愛者の権利を訴える様々な団体の活動に参加。今では国内の代表的な存在となった権利団体「Stonewall」の設立にも関わった。

英国における同性愛者の地位の確立は、マッケラン氏の尽力によるものと評価する声も多い。こういった功績を評価され、2006年に「インディペンデント」紙が発表した英国内の同性愛者の有力者ランキングでは堂々の1位。今、英国で最も尊敬される同性愛者である。

マット・ルーカス コメディアン

市民パートナーシップ破綻第1号
Matt Lucas
マット・ルーカス


ロンドン出身、34歳

BBC1の人気シリーズ「リトル・ブリテン」の出演で有名なコメディアン。自身が同性愛者でありながら、同番組においてはウェールズの小さな村に住む、同性愛者を嫌悪する同性愛者の役を熱演。このキャラクターが着用する過激な衣装に対してはBBCにたくさんの抗議が寄せられる一方で、彼の決め台詞「I am the only gay in the village」が流行語になるほどの注目を集めた。

私生活においては、脱毛症のために6歳ですべての頭髪を失う。さらに同性愛者であるがために、自身と他者との関わり方に悩むなど、深いコンプレックスを抱えながら生きてきたとインタビューで語っている。

2006年には、男性の恋人と市民パートナーシップを結んだ。「アラジンと魔法のランプ」をテーマとした衣装を着ての「結婚式」が話題になったが、今年6月になってからこのパートナーシップを解消したことを発表。同制度が2006年に発足して以来、著名人としては初めての破綻となったために、メディアはこの顛末を大きく報道した。また同パートナーシップ解消をめぐっては、ダイアナ元妃やポール・マッカートニーの元妻、へザー・ミルズさんが利用した顧問弁護士に相談していることが伝えられており、今後も引き続き彼の「離婚騒動」に注目が集まることが予想される。

フレディ・マーキュリー ミュージシャン

伝説の同性愛者
Freddie Mercury
フレディ・マーキュリー


タンザニア出身、故人

70~80年代の英国を席巻したロック・バンド、「クイーン」のボーカル。「We Will Rock You」「Bohemian Rhapsody」といった、後世まで残る名曲を残した。

英国領だったタンザニアのザンジバル島に生まれる。現地で内乱が発生したために、家族揃って渡英。学生時代にロンドンにて本格的なバンド活動を開始し、デビュー後は度々お忍びで来日するなど、日本びいきとしても知られていた。

元々、マーキュリー氏にはメアリー・オースティンという名の女性の存在がファンたちの間では恋人として認知されていたが、いつしか彼とレコード会社で経営陣として働く男性との関係についての噂が流れるようになる。これをきっかけに彼の同性愛者としての側面が取り沙汰されるようになり、この男性との関係を終えた後も、ゲイ・バーやクラブなどのスポットに頻繁に出没する姿が見られるようになった。一方で、メアリーという名の女性との友人関係も長きにわたって継続。彼女に捧げた歌も残していることから、バイセクシャルであった可能性が高いと伝えられている。

80年代後半になり、理髪師として働く当時の男性パートナーと共にエイズに感染し、これが原因となって45歳の若さで病死した。その死に様が衝撃的だったがために、現在でもロック界の金字塔として君臨している。


数字で見る英国のゲイ
6% 英国の全人口の中に同性愛者が占める割合 6%
8728件 市民パートナーシップの登録件数 (2007年度)8728件
25% 同パートナーシップの全登録件数の中でロンドン在住者が占める割合 25%
42歳 同パートナーシップに登録した同性愛者たちの平均年齢 42歳


ショービジネス界のゲイたち

上で紹介した人物たちに限らず、ショー・ビジネスに携わる者の中には同性愛者が数多く存在する。ここでは、そんな彼らが築き上げた「ゲイ・カルチャー」に象徴される華やかな側面とともに、先日ロンドン市内でパレードが開催された「プライド・ロンドン」の一幕をご紹介。

Elton JohnElton John エルトン・ジョン
ミドルセックス出身、61歳

「ユア・ソング」などの歌で知られる。かつてはドイツ人の女性と結婚していたバイセクシャルだが、2005年に男性の恋人と結婚してからは同性愛者たちの間で英雄的な存在となった。

Boy GerogeBoy George ボーイ・ジョージ
ロンドン出身、47歳

「ニュー・ロマンティック」と呼ばれる、80年代の英国で支持を集めた音楽ジャンルの象徴的な存在として君臨したバンド、「カルチャー・クラブ」のボーカリスト。コカイン所持などでの逮捕歴がある。

Geroge MichaelGeorge Michael ジョージ・マイケル
ロンドン出身、45歳

「ラスト・クリスマス」などのヒット曲で有名なポップ・グループの「ワム!」で一世を風靡した歌手。米国ロサンゼルスの公衆便所にて、男性相手に取っていた行動が公衆わいせつ罪と見なされ逮捕されたことがある。

Will YoungWill Young ウィル・ヤング
バークシャー出身、29歳

オーディション番組「Pop Idol」で優勝、歌手デビューを果たした。人気沸騰中に、「自分自身のあり方について誇りを持っている」との言葉と共に同性愛者であることを告白。

Darren BrownDarren Brown ダレン・ブラウン
ロンドン出身、37歳

ロシアン・ルーレットなどのお馴染みのテクニックから目の錯覚を利用した幻覚マジックまでを扱うマジシャン。自身のウェブサイト上で自身が同性愛者であると記述している。

Stephen FryStephen Fry スティーブン・フライ
ロンドン生まれ、50歳

コメディアン、小説家、テレビ司会者と、様々なジャンルで活躍するマルチ・タレント。全寮制のパブリック・スクールに通った青年期には、自身の性向について大いに悩んだという。

Simon AmstellSimon Amstell サイモン・アムステル
ロンドン出身、28歳

BBC2で放映中の人気バラエティ番組「Never Mind the Buzzcock」の司会でお馴染みのコメディアン。シュールなセンスが特徴的な彼にとって、同性愛も得意なネタの一つとなっている。

Graham NortonGraham Norton グラハム・ノートン
ダブリン出身、45歳

BBCやChannel4といった英国のテレビ局の看板番組に頻繁に登場するテレビ司会者。自身が同性愛者であることをよくネタとして使う。かつては「ミスターUK」とも交際していた。


Pride London
同性愛者を対象としたものの中では、英国最大のイベント。アートや音楽、討論会などを通じて、同性愛者たちが平等な機会を確保し、また社会が彼らを受け入れることができるような、多様な文化を築き上げるように促すことを目的としている。世界各地で開催されており、ロンドンでは今年で5回目。7月5日にはその集大成ともなるパレードがロンドン中心部で開かれ、今年は総勢80万人以上が参加した。
Parade
 

若者文化の震源地、60年代のロンドン SWINGING LONDON

若者文化の震源地、60年代のロンドン SWINGING LONDON

ビートルズ、ミニスカート、ツィギー、ジェームズ・ボンド、マリー・クワント、ヴィダル・サスーン、カーナビー・ストリート……。60年代後半のロンドンは光り輝いていた。「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれたあの時代は何だったのか。アート、ファッション、ロック、そしてそれらのスピリットは、一体何だったのか。60年代のリバイバルが騒がれる今だからこそ、あの時代の遺産と魅力の核心を探ってみよう。
三上義一(http://homepage3.nifty.com/ymikami


若者の文化大革命

「ヒッピー」という言葉を覚えているだろうか。若い読者のなかには知らない人もいるかもしれないが、現在40~50代の方なら、ヒッピーという言葉に懐かしいレトロな響きを覚えるはずだ。
60年代後半──日本で「ノ―ブラ」や「未婚の母」が流行っていたその頃、ヒッピーと呼ばれる人々は社会から「ドロップアウト」し、バックパックを背負って自分探しの旅にインドへと向かった。合い言葉は「ラブ&ピース」、そして三種の神器は「セックス、ドラッグ&ロックンロール」。しかし黄金期を過ぎると一部の生き残りを除き、彼らは恐竜のように地球上から消滅してしまった。

ところが最近、ヒッピー文化が息を吹き返し、音楽やアート、ファッションなどの分野でリバイバルしつつある。そもそも60年代後半に若者の文化を席巻したヒッピー文化の聖地は、米国のサンフランシスコである。67年、サンフランシスコに10万人以上ものヒッピーが集まり、愛と平和を論じたその夏は「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれた。
しかし米国に負けず劣らず、若者の文化大革命の震源地となったのがロンドンだ。「スウィンギング・ロンドン」と謳歌され、ミニスカートやビートルズにサイケデリック・アートなど、ロンドン発の若者文化が一世を風靡。ロンドン発の文化大革命は津波のように世界に波及し、極東の日本ですらその振動に揺れた。当時その洗礼を受けてロンドンに憧れ、後にこの都市を訪れた日本人も多いはずだ。

当時の文化大革命は、ヒッピー・カルチャー、カウンターカルチャー、ユース・カルチャーなど様々な名前で呼ばれたが、それはつまるところ、社会の既成的な価値観を破ろうとする新しい若者文化の爆発であった。それから40年以上が経つが、その影響はいまだに音楽やアート、ファッションのみならず、ライフスタイルにも及んでいる。それがいかに幼稚でユートピア主義に浮かれたものであったにせよ、当時の文化革命には「世界を変えたい」、「女性を解放したい」といった「革命」の精神がその核心にあった。それがいわばロックンロールのスピリット、その「mojo」(魂、魔力)であり、時代は変われど完全に消え去ることはなかった。当時の若者カルチャーが今なお人々を魅了するのは、そのためではないだろうか。


ヒッピーとは誰なのか

そもそもヒッピーとは誰なのか。辞書によると、ヒッピーとは「既成の文化・政治・性秩序からの完全な自由を求めた60年代から70年代の若者」であるという。日本流にいえば「団塊の世代」に属し、欧米流にいうなら戦後のベビー・ブームに生まれた最初の世代である。
ヒッピーは世界中で流行し、日本でも集団発生したが、日本版は「フーテン族」と呼ばれていた。フーテンの由来は漢字の「瘋癲(ふうてん)」で、精神状態が正常でないこと、またその人、そして通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日々を送る人を意味する。この定義は、少なくとも常識的な大人の観点からは、ヒッピーにぴたりと当てはまっていた。フーテン族と呼ばれた無気力な若者たちは67年の夏ごろから新宿東口に集まり、長髪にラッパズボンを穿き、定職にも就かずぶらぶらしていた。あの寅さんまでが「フーテンの寅さん」と呼ばれていたことから、いかに「フーテン」が流行していたかが分かるだろう(ちなみに、寅さんはフーテン族ではなかったが)。

さて、ではなぜこの時代にヒッピーやフーテン族が出現したのだろうか。この世代はテレビ、そして必然的にコマーシャルを観て育った最初の世代である。戦後の経済的繁栄、つまり戦後の消費社会にどっぷりと漬かったという点が、前の世代と決定的に違っている。63年ごろには戦後生まれの若者が大学に入学し始め、それがちょうどビートルズの登場やベトナム戦争の過激化などと重なり、新しい若者文化を生み出すきっかけとなったとも考え得る。成長を重ねた戦後文化が反抗期、そして青春期に突入したともいえるだろう。いずれにしろ、若人たちは新しい文化や価値観を模索し始め、若者たちにとってカッコイイことの多くがロンドン発だったのだ。

Swinging London   Caption
1) 60年代のピカデリー・サーカス © www.britainonview.com
2) 日本武道館でライブを行うビートルズ© BBC
3) 弱冠16歳のモデル、ツィギー Topham Picturepoint/Topham Picturepoint/PA Photos
4)女王よりW杯優勝トロフィーを受けとるイングランド主将 AP/AP/PA Photos

フットボールとミニスカート

60年代後半の「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれるロンドン文化の爆発が、正確にいつ始まったのか特定するのは難しい。だがその導火線となりロンドン子を勢いづかせたのが、66年のイングランドのサッカー「ワールド・カップ」優勝である。
サッカー発祥の地でありながら、英国はワールド・カップで優勝したことがなかった。なぜ英国人があれほどサッカーに興奮するのか不思議に思う読者もいると思うが、それがワールド・カップ優勝ともなれば、ロンドン中が狂喜乱舞に包まれたことは容易に想像できるだろう。66年の優勝は、40年以上経つ今日でも語り草になっているほどだ。

一方、そんな興奮のるつぼの中で彗星のごとく登場した妖精がいる。ボーイッシュなティーン・エイジャー、その名はツィギー。小枝(twig)のような体形から「Twiggy」と呼ばれた彼女は、66年当時、まだ無名の16歳だった。ショート・ヘアに、たっぷりのマスカラと付けまつげが特徴のアイ・メイク、スレンダーな体形、そしてすらりとした脚に映えるミニスカート。それまでの「グラマラスな女性が美人」という固定観念は、まったく無名だった彼女によってひっくり返された。だがツィギーが元祖スーパー・モデルとして世に躍り出たのは、そのルックスというよりも、細い脚にミニスカートが抜群に似合い、眩しかったからだ。

「ツィギー効果」により爆発的に流行したミニスカートを世界で初めて紹介したのが、ロンドンのファッション・デザイナー、マリー・クワント。「古いルールへの反抗」が作品作りの信条とされる彼女のブランドが発表したミニスカートは飛ぶように売れてブームを巻き起こした。
その流行の中心にあったのが、ソーホー地区のショッピング街、カーナビー・ストリートだ。そこは60年代の若者ファッションのメッカとなり、そこから発信されたファッションは「カーナビー・ルック」と呼ばれ、日本でも大流行。日本で一世を風靡した「グループ・サウンズ」(現代でいうロック・バンド)も、最先端のそれらを真似ていた。
当時、クワントはロンドン出身の美容師、ヴィダル・サスーンと共にファッション・ショーを展開していた。サスーンもロンドンを拠点として成功を収め、世界に進出して女性のヘア・スタイルに革命をもたらした。クワントもサスーンの鋏による「ボブ」という、画期的なヘア・スタイルで新しい女性の美を追求。ボブはまさに、活動的で自立した女性にふさわしい髪型だった。

また、それらと共に「スウィンギング・ロンドン」の象徴となっていたのがユニオン・ジャックで、当時、人気を博していたミニ・クーパーの屋根にもよく描かれていた。それは愛国心からやサッカーの応援としてではなく、ユニオン・ジャックそのものがクールだったからであり、そう思わせるほど英国はあらゆるカッコイイ流行を生み出していたのだ。
さて、ツィギーが67年に来日したことにより、日本にも本格的なミニスカート・ブームが到来。スカート丈が歴史上初めて膝上を越え、どんどん短くなっていった。とはいえ、ミニスカートは単なるファッションでは終わらず、女性の「性の解放」をも意味した。


解放された女性たち

当時の日本では、親が勝手に決めた相手と結婚させられるという古い習慣がすたれ、自由恋愛による結婚が受け入れられ始めたところであった。とはいえ、若い女性の多くは「処女でないと結婚できない」と信じ込んでいた。それが60年代になると「ノ―ブラ」、「未婚の母」、「フリーセックス」が流行語となるほど性の解放が叫ばれるようになる。60年代後半には日本でのブラジャーの売り上げが激減し、また、未婚の母となることは古い因習にとらわれないで、愛する相手と結ばれることを意味していた。
一方、欧米でも50年代はまだまだ保守的な時代であった。女性はある年齢で結婚して専業主婦となり、家で子育てをするのが当たり前とされ、社会進出の機会は限られていた。セックスとなると、これは結婚後の楽しみであり、さらには子孫繁栄のため。婚前交渉はキリスト教的な道徳から逸脱した淫らな行為だった、と言っても過言ではなかったのだ。
だが、60年代に入り避妊薬が販売されると、セックスが以前よりもはるかに手軽なものになっていく。実際にフリーセックスがどれほど実践されたかは疑問だが、60年代の性解放が多くの女性の恋愛やセックス、そして結婚観に決定的な影響を与えたことは否定できない。女性の生き方の変化が60年代のファッションを生み、それらは女性の意識革命と密接に結びつくようにして発展していった。


ボンドとビートルズ

開放されたのはなにも女性ばかりではなく、男性も同じであった。映画「007」が登場したのも60年代。英国人スパイであるジェームズ・ボンドの映画シリーズは一世を風靡し、当然のことながら「スウィンギング・ロンドン」の人気と迫力に貢献した。服装からドリンク、車から秘密兵器まで、ボンドはこだわりの人である。なかでも特に目がなかったのが、美しい女性たち。彼はスパイであり、プレイボーイであった。それは単に男の冒険心と欲望を刺激しただけではなかっただろう。60年代の「フリーセックス」時代が到来するまで、男性も禁欲的だったのだ。ボンドは美しい女性と戯れ、そのことに対して罪の意識がまったくなかった。今日ではそのような行動に違和感はないだろうが、当時としては新鮮で、衝撃的であった。ボンドは男性の欲望を解き放ち、後の性革命を準備したとも言えるのである。

だが、何と言っても世界の若者にはかり知れない影響を与えたのはビートルズだった。音楽については指摘するまでもないが、彼らは若者の髪型まで変えてしまった。青年も髪を伸ばすようになり、男性の美意識やファッション感覚も大きく変化し始めたのだ。とはいっても、大人たちにとって男の長髪など不良のすること。そこへエレキ・ギターなど持っていようものなら、完全に不良の烙印を押された。ビートルズが66年に来日した時に大論争の的になったのが、その演奏会場 ── そう、日本武道館である。日本の武道を行う神聖な場所で、長髪のビートルズがエレキ・ギターを弾くなど許されないと、大々的な抗議運動が巻き起こった。そのロックンロールとやらに日本人女性が黄色い悲鳴を上げ「失神」することに、戦後の日本はここまで堕落してしまったのかと嘆いた文化人も多かった。だが、ビートルズは歴史を作った。ビートルズ以降、大物ロック・アーティストは武道館で演奏するようになり、エリック・クラプトンからボブ・ディランまでが、「Budokan Live」を録音している。なぜ、武道館なのか。それはあのビートルズがコンサートを行ったからであり、ビートルズ以降、「ロックといえば武道館」というのが定番になったのだ。

そしてビートルズの名を不動にし、「スウィンギング・ロンドン」を象徴するアルバムとなったのが、67年に発表されたロック史に残る名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」だ。彼らが着ていた軍服からミリタリー・ルックが流行し、またサイケデリック・サウンドの頂点を示すアルバムとして、世界中にサイケ調のファッ ションや音楽が広まった。
また、ビートルズがインドの哲学や宗教、その精神文化に強い関心を抱いたことも、ヒッピー文化に大きな影響を与えた。前作の「リボルバー」からインドの楽器シタールを使用し、サイケデリック・サウンドの実験は始まっていた。なかでもジョージ・ハリソンはインドに強く惹かれていて、現地で瞑想に耽り、ビートルズの音楽に新しい響きを加えることになった。そしてそれはヒッピーたちをインドに向かわせる応援歌になったとも言えるだろう。

Swinging London   Caption
5) 60年代のトラファルガー広場 © www.britainonview.com
6) 最新コレクションを発表するマリー・クワント(前列中央) PA/PA Archive/PA Photos
7) 70年に他界したジミー・ヘンドリックス

イノセンスの終焉

若者に愛と希望を与えたこの時代だが、すべてがバラ色というわけではなかった。セックスとロックンロール、そしてもうひとつ60年代のユース・カルチャーを代表したのがドラッグだった。マリファナだけでなく、LSDなどの麻薬が若者の間で広く使用された。その理由は、意識の幅を広げたいから、音楽をより美しく聴きたいから、セックスの快楽を高めたいからとまちまちであったが、社会からドロップアウトし、大人に反抗することとも密接に関係していたに違いない。
だが、麻薬は魔物、危険な火遊びである。多くが命を落とすか、ジャンキーか廃人となった。ドラッグを使用することで「何でも可能だ」という幻想を抱くことはできても、「ラブ&ピース」な社会を築くことなど不可能であった。戦争を起こす「大人の社会」をドラッグで変革する試みなど、冗談でしかないのだ。しかし、当時「ラブ&ピース」で、そしてロックとフリーセックスに酔いしれることで、この地球に楽園をつくることができるとヒッピーたちは真剣に信じていた。それはある種、宗教的な陶酔にも等しかった。
だがそんな夢は70年ごろから急速にしぼみ始める。「ラブ&ピース」のはずのロック・コンサートで暴力沙汰が多発するなど、若者の夢は徐々に幻滅に変わっていった。そしてロンドンで認められ成功した米国人アーティスト、ジミー・ヘンドリックスの急死が象徴的な出来事となった。60年代後半、ロックが最も元気であった時代を代表しロック・ギターに革命をもたらしたヘンドリックスは、70年、麻薬のオーバードーズで帰らぬ人となる。
そして60年代後半の文化は、マリファナの煙のように消え去った。ヒッピー文化は無邪気であった。それはまさに戦後世界が青春を経験したということであろう。そう、60年代後半はほろ苦く、甘酸っぱい青春のような時代であった。


ロック「mojo」の復活

とはいえ、60年代は単なる幻想ではなかった。確かに彼らの多くはイノセンスを失い、分別のある大人へと成長し、ネクタイを締めて仕事に就き、社会を変える前に「社会の一員」にならなければならないことを悟ったかもしれない。それでもあの時代の核となる最も熱い部分は、現代でも生き続けているのではないだろうか。
米国では今年、ヒラリー・クリントンが女性初の大統領になろうと、民主党候補レースを最後まで戦った。彼女は60年代の息吹の洗礼を受けた一人である。あの時代の女性解放を経験していなければ、大統領を志さすことはなかったかもしれない。また、彼女の夫ビル・クリントン元大統領は、60年代後半にローズ奨学生としてオックスフォード大学へ2年間留学し、ベトナム反戦運動に度々参加していた。「スウィンギング・ロンドン」の体現者が、妻のヒラリーを支えていたのである。
一方、民主党の大統領候補となったバラック・オバマの出現も、キング牧師が先頭に立って始めた60年代の黒人解放運動や公民権運動がなければ、あり得なかったであろう。ヒッピー文化とは、つまるところ消費する物質文明とは異なる、もうひとつの生き方を示したことに価値があった。ヒッピーは消えたかもしれないが、その冒険は無駄な実験ではなかったのだ。

今日、60年代のアートやポスター、それにビートルズやジミー・ヘンドリックスなどのレコードは人気を呼び、米国でも英国でも高値で取引されている。カーナビー・ストリートは、一時はただの観光名所となっていたものの、ここ数年でファッションのメッカとして蘇りつつある。ファッションの世界でも、ヒッピー・ファッションがモダンなアレンジで復活。その代表的なデザイナーの一人が、元ビートルズのポール・マッカートニーの娘、ステラ・マッカートニーである。
ベトナム戦争は終わった。だが、イラクで、アフガニスタンで、戦争はまだ続いている。ロックで世界を変えられると思い込むのは、余りにも幼稚だったかもしれない。しかし、世界を変えられないと考え、諦めてしまうのは余りにも悲しい。

 

野田秀樹「1000年経っても変わらぬ人間の性を描く」

野田秀樹インタビュー

2008年上旬。日本の演劇界が、沸いた。紀伊國屋演劇賞、毎日芸術賞、朝日舞台芸術賞、そして読売演劇大賞。日本演劇の主だった賞を総なめにし、読売演劇大賞に至っては大賞のほか、作品、演出家、男優賞の3賞を受賞するという快挙を成し遂げた一人の男の才能に、改めて皆が注目し、感嘆の声を上げた。劇作家/演出家/役者、野田秀樹が、これらの賞を獲得するきっかけとなった「THE BEE」を、ここロンドンで上演したのは2006年6月のこと。それからちょうど2年が経った今、野田は再びこの地で自作を上演している。新作、「THE DIVER」上演直前の野田に、本作について、そして演劇に対する思いを語ってもらった。
(取材・文: 村上祥子、インタビュー写真: Maiko Akatsuka)

6月12日、ロンドン南部、テムズ河に面したナショナル・シアターに、野田秀樹を訪ねた。芝居中に使われる音声を録音するためにその日一日、この劇場にこもっていたという野田の傍らには、「THE DIVER」の主演女優、キャサリン・ハンター。小柄で華奢な2人が、親密そうに肩を寄せ合いながら小声で話す様子は、まるで二卵性双生児のようだ。前回、「THE BEE」で日英の演劇界を唸らせた2人による再タッグ。互いを尊敬し、理解し合う2人の姿に、否が応にも新作への期待が高まった。

野田秀樹プロフィール

1955年生まれ、長崎県出身。東京大学時に「劇団夢の遊民社」を結成。92年に劇団解散後に文化庁芸術家在外研修員として1年間、ロンドンに留学する。帰国後に企画・製作会社「NODA・MAP」を設立。以降はプロデュース公演形式で数々の作品を発表している。2008年4月、東京芸術劇場の芸術顧問に就任(準備期間を経て芸術監督に就任予定)。多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科教授。

英国での上演作品

1987年 エジンバラ国際芸術祭に参加、野獣降臨(のけものきたりて)」を上演。
1990年 同祭に「半神」で参加。
2003年 ロンドンのヤング・ヴィック劇場で「RED DEMON」を上演。
2006年 ロンドンのソーホー劇場で「THE BEE」を上演。

「もうロンドンのことしか考えていなかった」

本当に英国が、演劇が好きなのだろう。前作「THE BEE」上演直前に、海外で作品をつくる大変さを滔々(とうとう)と語った野田は2年後、再びこの地でゼロから新作をつくり上げる道を選んだ。ロンドンで初演、その後は引き続き東京の世田谷パブリック・シアターで上演することが決定している新作、「THE DIVER」。この作品が生まれるきっかけを問うと、「まずはロンドンありきだった」という答えが間髪入れず返ってきた。「もうロンドンのことしか考えていなかった」と続ける言葉は、野田のロ ンドンに対する思いの強さを物語る。

今回の「THE DIVER」誕生は、前作の存在なくしてはあり得なかった。言語の壁、異なる文化背景を持つ役者との解釈の違い。そんなハンディの数々を、じっくりと時間をかけ、2つの文化を共鳴させることで乗り越えた野田には終演後、英国メディアの絶賛と分かり合える仲間たち、そして次回作への足掛かりという財産が残った。次回作も同じメンバーで、そして「日本のうんと古いもの」をテーマにしてみようという話が出たのは、何と前作の公演中だったというのだから驚きだ。

能から古典、そして現代犯罪へ

新作「THE DIVER」は、能の「葵の上」や「海女(あま)*」、世界最古の長編小説と言われる「源氏物語*」と、現代の日本で起こった殺人事件を織り交ぜた作品であるという。能や古典といったテーマは、一見、外国人にアピールするようにも思えるが、その一方でストーリーの奥底にある本来の意図を伝えるのは非常に難しいのではなかろうか。

「難しいですね。『THE BEE』と比べてもはるかに難しい素材でした。始めは能だけでやろうと『葵の上』とか『海女』を読み始めたんだけれども、結局深くは分からない、というのがイギリスの役者さんたちの結論だったんです。で、どこが分からない?っていうことになったら、僕だって分からない(笑)。やっぱりその芝居の原作となる、例えば『葵の上』だったら源氏物語をちゃんと読まないと、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が葵に嫉妬する意味が分からないわけです。それで源氏物語を読んでいたら、ふと現代に実際に起こった事件を思い出して……という感じで、結局こういう形になったんですね」。

時空間を超越する芝居と言えば、野田が劇団夢の遊民社時代から十八番とする設定。今回は満を持しての登場かと思いきや、能→原作古典→現代社会という、英国人とともに作品を詰めていく過程で生まれた偶然の産物だったようだ。

今回も前回同様、脚本はアイルランド人作家、コリン・ティーヴァン氏との共同作業によりつくられた。日本と英国、双方でワークショップを行うこと、4、5回。先が見えない状態でスタートし、役者を含めた皆との共同作業を経て徐々に完成させていった。「最終的に全体の構成は僕がやりましたけど。でも途中で、例えばあるシーンで、『雨夜の品定め*』をテレビ番組風にやってみてくれってワークショップに頼んで、彼らがやってみせたのがすごく面白かったんで、これを使おうってなったり。そんな風につくっていきました」。

こんな風につくり上げるのは、英語版ならでは。日本では日本語で書けるので、たいていの場合は一人ですべてを書いてしまう。でも英語だからこそ、ワークショップから得られるヒントというのが多いのだという。言語によるハンディが、逆に脚本に新しい風を入れることにつながったわけだ。

The Diver
扇子や障子など、日本的な道具を効果的に使った幻想的な舞台
源氏物語

平安時代、紫式部によって書かれた長編物語。「THE DIVER」のモチーフとなっているのは全54帖のなかの一つ、「葵」。臣下に下った帝の子供、源氏は葵の上という正妻を持つ一方で、六条御息所という身分の高い愛人との逢瀬も続けている。賀茂祭の日に偶然出会った葵と六条は、牛車の場所をめぐって対立、源氏の正妻として絶大な権力を誇っていた葵が、六条に恥をかかせる結果となった。屈辱と嫉妬に狂った六条は、やがて生霊となり、葵をとり殺してしまう。能の「葵の上」は、この話を題材にしている。

能「海女」

讃岐国房前(現香川県)で海女をしている女が、竜宮に奪われた宝珠を取り返しにやってきた大臣と契りを結び、息子を授かる。宝珠を取り戻せばその息子を大臣にすると言われた海女は、自らの命と引き換えに、宝珠を竜宮から奪い返す。

雨夜の品定め

「源氏物語」第2帖「帚木(ははきぎ)」の一場面。五月雨が降り注ぐ中、源氏の義理の兄である頭中将とその友人たちが、源氏に対し、さまざまな女性の良し悪しを語る。

全幅の信頼を寄せる仲間

「THE DIVER」に出演する役者は4人。うち3人は前回に引き続いての連投となる。もちろん、その中の1人は野田、その人だ。これまで野田は、ほぼすべての自作品に出演している。しかしその役柄はたいてい、物語の主筋からは外れた、言わば「盛り上げ役」担当。それがロンドン公演となると話はがらりと変わる。ロンドン進出第1弾となる「RED DEMON」では、とある村にやって来た異邦人を演じ、前回「THE BEE」では、女役と言いながらもその役柄が背負う運命はあまりに重かった。そして今回は、現代日本で起こった事件の謎を解く、精神分析医の役をやるという。「(盛り上げ役をやらないことに関しては)わざとそうしている部分がありますね。そうするとどうなるかなって。『THE BEE』の時は女役でお客さんにアピールしたから(笑)、今度は意識的にこういう、脇から全体をじーっと見るような役にしました」。ロンドンという舞台は、演出家、脚本家としてだけでなく、役者としての自身の可能性を試す場でもあるのだろう。

そして今回の主演はキャサリン・ハンター。前作で誇張することなく、あくまで自然に、徐々に狂気に蝕まれていく日本人サラリーマン役を演じきり絶賛されたハンターが、今回も引き続き主演を務める。「THE BEE」ロンドン公演の後、野田は日本でロンドン版とともに、新たに日本版をつくり、上演している。その際、日本版では男女の入れ替えがなかったのだが、その理由の一つを彼は、「キャサリンに匹敵する、男性役を演じられる女優がいないわけではないけれど、比較されるのが酷かな、と思って……」と語った。「天才肌だけどすごい努力家」。そう野田が全幅の信頼を寄せる彼女が、今作では放火殺人事件の犯人として精神科医の分析を受ける女性を演じる。時代背景が変わるなか、幾人もの別人格を演じることになるというこの難役、彼女はどう演じてみせるのか。リアリズム重視の英国演劇にあって、リア王や自閉症の少女など、さまざまな役柄を柔軟に演じてきたハンターならではの演技に、注目したいところだ。

1000年経っても変わらない人間の性(さが)

野田秀樹「THE BEE」では、世界全体を覆う恐怖心と報復の連鎖が描かれた。昨年末から今年初めにかけて日本で上演された「ロープ」でも、暴力が芝居の中核を成したという。「ロープ」上演時、野田は、とあるインタビューで、現代社会には「暴力に対するリアリティが欠如している」と指摘した。戦争にしろ、テロにしろ、悲惨な現実がどこか別の次元で繰り広げられているような錯覚を覚える昨今。リアリティを描きつつも、夢世界というオブラートで直接性を包み込んでいた初期のものと比べ、近年の野田作品がストレートに現代社会を見据えるようになったのには、現実そのものにリアリティが欠けているという社会背景があるのかもしれない。シリアスな社会的テーマが全面に押し出されるようになったのでは、と問い掛けると、野田は「それはそうですね」と認める一方で、観客に特定のメッセージを届けようとは思っていないとも語った。「大きな主張が出ているかっていったら、別の問題だと思うんです。それは観客の人たちが自由に受け取るものだから。『THE BEE』にしたって、暴力好きの人の中には、暴力賛美だって受け取る人もいるかもしれない」。

それともう一つ、「イギリスでみせるものだから」ということも、テーマ設定に大きく影響している。「やっぱり観る人間の頭の中を、こっちは知っておかないといけない。日本人の頭の中を知っている、っていうわけじゃないけど、やっぱり同じ土壌で生きてきたから、ある程度のことは分かるんです。でもイギリスの場合は違う土壌、文化だから、観る人間の頭の中を探るのに、随分時間をかけましたね」。

自分の好きな世界を自由に描いている感のあった野田だが、淡々とこう語る姿からは、冷徹な目で社会や人間を分析する劇作家、演出家としての別の顔が見えてくる。観客が変われば、自ずと作品も変わる。「THE BEE」制作の過程では、二者択一を迫られたとき、本当ならば違うことをやりたいと思う場合でも、「この土地の頭の中に従おう」と、「リアリズムの国」英国に合わせ、別の選択肢を取ったことも多かったという。

そしてやはり英国上演が前提となった本作。この作品では、「人間の個人的な、耐え難い復讐心」が焦点になっている。なぜ今、このテーマなのか。

「『THE BEE』だったら、9.11(米同時多発テロ)が起こったときにふと思い出した小説、という言い方ができるんだけど。これはそういうものじゃない。葵と源氏の物語を読んでいて、魂が他の人間にとりつく、というのがありますよね。それを1000年経った今でも、人間は信じていたりするじゃないですか。そういうのって何なのかねっていうところでふと思い出したのが、嫉妬から生まれた犯罪だった。だからなぜ『今』、というよりはむしろ、1000年経ってもいかに人間は変わらないか、という点に着目したということかな」。

どれほど長い年月を経ても変わることのない、人間の性。国や時代といった隔たりを越え、変わることなく存在する人間の本質が炙り出されたとき、観客はそこに何を見るのだろうか。

「正常なことが言える」劇場にしたい

野田秀樹今年2月26日、野田は東京都庁で記者会見の席に着いていた。東京芸術劇場の初代芸術監督、就任決定会見。それは夢の遊民社解散以来、特定の集団に所属せず、公演ごとに異なる俳優を使ってきた野田が、一つの場所に身を定めるということなのだろうか。自由という言葉がぴったりくる彼には、意外ともいえる決断だが、その理由を聞くと、なるほど、とうなずかされるものがあった。

「うーん……。年齢的にかもしれないんだけど。イギリスの友達に、日本の劇場ってどこかないって聞かれるときがあるんだけど、僕は芸術監督とかをやっていないから、『じゃあ、ここにくれば』とか言えないんだよね。でも自分が芸術監督になれば、それまで他人に振っていた、そういう橋渡し的なことができる。そういうことを少しづつやっていきたいですね」。

そのほか、自分の作品を池袋発にして、世界各地で上演してみたいという思いもある。「キャサリンたちと今、話してるのは、『THE BEE』と今回の『THE DIVER』、それともう1本くらいを、東京発にして周ってみたいねって。もちろん、都のお金を使ってね(笑)」。一つの場所に活動場所を定めるのではなく、自分のフィールドを世界に広げるための布石。そして劇場の管理母体である東京都から金銭的サポートを受ける。それは以前から、演劇に対する国の支援姿勢に苦情を呈してきた野田らしい、したたかで鮮やかな発想だ。

そしてもう一つ。日本演劇界全体の体制に対する思いもあった。日本の名だたる演出家たちに話を聞くと、皆、声を揃えて「劇場の確保の困難さ」を嘆く。劇場の予約は数年前に行うのが当たり前。その時には台本も決まっていない。そんな状況を打破したいと野田は言う。

「芸術劇場が、みんながやりたいって思える劇場になってくれさえすれば、1年先くらいまでしか決めない。いいものだけ。台本が書き上がってからだけ、と。こういう正常なことが言えるようになりたい。本当はこういうことをやるのが芸術監督の仕事だと思うんですよね。それをこれまでちゃんとやってきていなかった。現実には僕も何年か先の劇場を予約しているわけで、そういうわけでは日本の流れに組み込まれていますけど。それが分かっているのに動かないのは、いけない。芸術監督になるっていうことは、そういうことも含めて、こういう形もできるんじゃないかって提示ができるんじゃないかと思いますね」。

自分自身の作品を自由につくるという立場から、国全体の演劇を見据えた立場へ……、そう言い掛けると、野田は「国じゃなくて都ですけどね(笑)」という彼らしい軽妙な切り替えしの後に、こう続けた。

「都を背負う。……まあ背負うっていうわけじゃないけど。現実にはここ10数年、NODA・MAPって言っても、劇団員がいるわけじゃなかった。その意味では、何か形をつくらないと。1人でやっていると、日本の芝居の流れっていうのはなかなか動きにくいところがある。例えば単身、ロンドンに乗り込んで、『THE BEE』をやって、今回の新作もやって……っていうのも、1人でやっているからすごい時間もお金もかかってるんです。自分の年齢を考えると、時間もお金も少し節約しないと。人生には限りがあるんで」。「まあ、そろそろ助けてって言ってもいいのかな、と」と軽く笑って締め括ったその言葉には、自由な演劇人、野田秀樹と、日本の演劇界を背負って立つ第一人者、野田秀樹、双方の思いがあった。

「世界のニナガワ」蜷川幸雄、狂言界の若手実力派、野村萬斎、そして野田秀樹……。今、演劇界の実力者たちが次々と公の劇場の芸術監督に就任している。蜷川とは旧知の間柄である野田は、蜷川から芸術監督がいかに大変な仕事かを聞かされているという。「蜷川さんなんかさ、2 つ( 彩の国さいたま芸術劇場とBunkamuraシアター・コクーン)も芸術監督やってるんだから、やりゃいいんだよ(笑)。蜷川さんと一緒に手を組めば……。俺らの劇場は1年先しか決めないってさ」。冗談めかして言いつつも、その言葉には野田が本気で日本演劇の在り方を憂い、変えようとしていることが伺える。日本の演劇界は今、ようやく国とい うレベルで発展しようとしているのかもしれない。

「THE DIVER」主演女優、キャサリン・ハンターさんに聞く

キャサリン・ハンター日本という国には、子供の頃から興味を持っていました。幼い頃、父親に連れられて日本に行ったことがあって、すぐに日本という国と、その文化に魅了されたんです。だからずっと後になって、日本と別の形で関わりができることにはさほど驚きませんでした。

ヒデキの作品を初めて観劇したのは、「RED DEMON」上演のとき。パートナーがこの作品に出演していたことがきっかけでした。「RED DEMON」は、違う文化における赤鬼の存在とは何なのかが描かれた作品。この作品を観て、異文化間における違いと繋がりに着目した作り手に興味を持ったんです。

前回の「THE BEE」は本当に楽しくて、夢中になって演じました。非常に強烈で、「ひどい」と表現しても過言ではないストーリー。でもその根底には、なぜ人は暴力という手段に訴えてしまうのかというテーマがあった。そしてヒデキは、ナチュラルな演出ではなく、デフォルメさせることによって、より「リアル」な芝居をつくり出したんです。素晴らしいアプローチだったと思います。

今回はそんな彼とまた引き続き一緒にやることができて、すごく嬉しく感じています。新作では能と源氏物語がテーマ。この話が出たとき、私は源氏物語がどういうストーリーか知りませんでしたが、実際に読んでみて驚嘆しました。こういう物語を女性が書いたというのも素晴らしいですよね。これは、源氏の人生の旅の物語。ある意味、リア王に通じるものも感じます。

今回演じるのは多重人格の役です。とてもチャレンジングですが、同時にすごく楽しみながら演じています。人間はそもそも、誰もが違う一面を持っている。多重人格というのは、それがさらに進んでしまった状態だと言えるので はないでしょうか。そしてこれはアイデンティティの問題にもつながると思います。突如、別の人格に入れ替わって、その間、自分がどこにいたのかも分からなくなる。「リアリティ」とは一体何なのか、「私」とは一体誰なのか、それ を問う芝居でもあると思っています。

THE DIVER

野田秀樹 / コリン・ティーヴァン
演出 野田秀樹
出演 野田秀樹、キャサリン・ハンター、グリン・プリチャード、ハリー・ゴストロウ
日時 7月19日まで。19:30~ (マチネ: 土曜日及び7月3・17日の15:00~)
住所 Soho Theatre, 21 Dean Street London W1D 3NE
Tel 0870 429 6883(Box Office)
The Diver世界最古の長編小説とも言われる「源氏物語」と、能「海女」「葵の上」、そして現代の日本で実際に起こった放火殺人事件を織り交ぜたストーリー。放火殺人の罪で逮捕された女。自分が誰なのか分からず、支離滅裂なことばかり言う彼女に対し、精神分析医の精神鑑定が行われる。あるときは海女、あるときは六条御息所と自らを主張する彼女の心の奥底には、一体何があるのか。
 

Old Wives' Tale どこまでホント?

Old Wives' Tale どこまでホント?

母から子へ、そして子から孫へ──いくつもの世代を経て語り継がれる「おばあちゃんの知恵」が、実は英国にも存在するってご存知?とはいえ、国が違えば語られる内容も全く別のもの。さて、英国人の誰もが聞かされて育った「Old Wives' Tale」と呼ばれるこの知恵の数かず、その真相に迫ってみよう。(本誌編集部: 國近絵美)

これを知れば英国通?! 「Old Wives' Tale」とは

そもそも「Old Wives」とは、文字通り「年とった妻たち」という意味ではなく、「老年の女性=おばあちゃん」のこと。人生経験が豊富なおばあちゃんたちの口から語り継がれてきたからこそ、驚くような話でも説得力があり、全国的に広まったに違いない。とはいえ、「Old Wives' Tale」(以下OWT)は、日本でいう「おばあちゃんの知恵」よりも迷信に近く、「うさん臭い」ものが多いのが特徴だ。

医療が発達しメディアが普及している現代社会では、害は無いけど明らかに間違ったOWTがほとんど。しかし最近では、以前は間違っていると解釈されていた迷信が、新たな研究結果によって再び正しいと証明されたものもある。また、文化を吸収しつつ、時代によって変化しながら語り継がれてきたOWTには英国の「お国柄」がたっぷり。信じる信じないは別として、摩訶不思議な英国風おばあちゃんの知恵を知ることで、英国をより理解できるかもしれない。

ウソ?ホント? ドクターが答えるOWTの謎

「絶対にウソ」と思っていた迷信が実は本当だったり、「そんなの常識」と思っていたことが迷信であったりと、私たちが普段信じている情報の信憑性は意外とあやふやなもの。そこで、実際にOWTを聞いて育った英国人のアダム先生に、 医学の視点からずばり答えてもらった。

アダム・アスガー(25)
現在、イングランド中部ノッティンガムの病院に勤務する新米医師。自称「迷信もおばあちゃんも大好き」っ子

日常編

立ち食いすれば脂肪分ゼロ
ウソ。とはいっても、立ち食いすることによって、消化器官ではなく足の筋肉に血液が送られてしまうので、食べ物がきちんと消化されない(=栄養が吸収されにくい)ことはあります。脂肪分も栄養ですが、「脂肪分ゼロ」と言えるほど吸収されないわけではありません。

ガムを飲み込んだら消化に7年かかる
ウソ。確かにガムには消化しにくい成分が含まれていますが、ということは、そのまま消化されずに消化器官を通り過ぎるということです。

男性が熱い風呂に入ると生殖不能になる
(ある程度は)ホント。これは熱によって精子の運動性が減少することが原因と考えられています。同じように、男性がひざの上で長時間ノート型パソコンを使用することによって、パソコンから放出される熱で生殖能力が低下するという研究結果も。ただ、それよりも喫煙など、他の生活習慣のほうが影響力が強いですよ。

妊娠・出産編

汚い便座に座ると妊娠する
妊娠中にすね毛が濃くなったら男の子が生まれる
朝にひどいつわりを経験すれば女の子が生まれる
妊娠中にどうしても食べたい物を食べられなかったら、赤ちゃんに その食べ物の形をしたPort Wine Stain(ぶどう酒洋血管腫。以下PWS)ができる

どれもウソ。OWTには、妊娠や出産にまつわる迷信が数多くあります。それはきっと、まだ医療技術が現代ほど発達していなかった時代には出産が母親の生死に深く関わっていたこと、そして生まれるまで子どもの性別を知る方法が全くなかったことに由来しているからでしょう。そして「人間を造る」という神秘的な過程を、おばあちゃんたちが理論的に理解しようと頑張ったことから、こんなにも多くの迷信が生まれたのではないでしょうか。妊娠と出産の際に女性の体に起こる変化はとても複雑で、だからこそ産科学という専門分野まであるのですが、実はこの分野における研究はまだ発展途中の段階にあります。ただ、まだ全てが解明されていなくても、上記のように明らかにウソだと分かる迷信はたくさんあります。一方で、なぜ一定の人々に生まれつきPWSと呼ばれる薄茶色のシミがあるのかは現在も解明されていません。食べ物への執着がPWSを引き起こすというのは明らかに間違いですが、妊娠初期に激しい驚きや恐怖といった「感情的なストレス」を経験することが、PWSや口唇裂などを引き起こす要因となるという研究結果も出ています。

妊娠中に胸焼けがひどいと毛深い子どもが生まれる
ホント。耳を疑う人も多いでしょうが、実は、この言い伝えがあながち間違いではないことが最近判明したのです。しかし「胸焼けするから毛深い子が生まれる」という因果関係があるわけではなく、どちらの状況もホルモンの影響によるものなので、同時に起こりやすいのです。

赤ちゃん編

オムツかぶれは肌に卵の白身を塗れば治る
ホント。白身に含まれるアルブミンというたんぱく質は乾くと薄い皮状になるため、それが包帯のように幼児の肌を保護し、かぶれをより早く直す助けになります。しかし現代ではもっと良い治療法がありますし、そもそもどうやってオムツかぶれを防ぐかを考えるべきでしょう。


いくら科学や医学で証明されたとしても、迷信は占いと同じで、本当かどうか、やっぱり気になるものは気になる……。というわけで、勇気ある5人のお試し隊と、本誌編集部が実際にOWTにチャレンジ!

Playing music, sing or talk to plants help to grow plants.
植物に音楽を聴かせる、歌う、話しかけるとよく育つ

ニュースダイジェスト
筆者ならび本誌編集部

鉢植えに話しかけたり音楽を聴かせたりし、普通に育てている鉢植えと成長の違いを比較

DAY 1
DAY 2
DAY 3
DAY 4
DAY 5

オフィスの外に置かれていた鉢植えを拝借して始めたこの実験。黄色い花が愛情を注ぐほうで、紫色の花が放置するほう。話しかけたりする以外は2つとも全く同じ条件で、 しかも日が当たるようバルコニーに置いたにも関わらず、 黄色いほうがみるみる枯れるという切ない結果になった。

クラシック音楽は植物の成長を促進させ、ロック系の音楽は逆に成長を妨げるという記事を読んだので試しにロックを聴かせたら、偶然かもしれないが花びらが散るという惨事に。4日目には新しい蕾ができたが成長せず、しかも2つとも外にある鉢植えよりもパサパサになってしまった。

Dr.アダムから一言
医学的な実験ではないので個人的な意見になりますが、いくらバルコニーとはいっても、外に置かれていた時よりも日の当たりが悪くなったのが枯れた原因なのではないでしょうか。気温も湿度も違うでしょうし……。まだ手遅れではないと思うので、できるだけ早く外に返してあげて下さい。

Fish is a brain food.
魚を食べると頭が良くなる

藤田佳世(21歳) 学生
タラの肝油の錠剤を毎日飲み、15個の数字とアルファベットを30秒で覚える記憶テストを実施

DAY 1
テスト結果: 9問正解
普通のビタミン剤みたいなのに、すっごく臭い!! でも、これで頭が良くなるならお安い御用
DAY 2
テスト結果: 10問正解
昨日よりテスト結果が少しだけ良い。ま、日常生活で頭が良くなったと感じることはないけど
DAY 3
テスト結果: 6問正解
疲れてたから、テストの結果は最悪。さすがの魚エキスも、疲労には効き目がないみたい
DAY 4
テスト結果: 11問正解
今日は元気なうちにテストを実施。結果は転じて過去最高!臭い錠剤を飲んだ甲斐があった
DAY 5
テスト結果: 9問正解
最終日なのに、テストの結果は微妙。いくら魚パワーを持ってしても、5日間は短かすぎたみたい

魚が頭の働きを良くするというのは、日本では一般常識みたいなもの。効果がすでに科学で証明されているこの知恵を試して、どれぐらい結果が出るのかかなり楽しみにしていた。

で、なんで魚が頭に良いか調べてみると、亜鉛とオメガ3という、脳の発達を助ける脂肪分の高い酸がたくさん含まれているからなのだそう。それに、魚にたくさん含まれているビタミンBには、知的能力や記憶を助ける働きもあるのだとか。

Dr.アダムから一言
どんな食事療法にも言えることですが、すぐに効果を期待してはいけませんよ。サバなどの魚に含まれるオメガ3には、脳の機能低下や注意力低下を予防し、集中力を高める効果があるのは確かです。でも悲しいことに、脂肪分の高い魚は海水に含まれる化学物質も吸収しやすいので、魚を過剰に摂取することで体にどのような影響が及ぶか、現在研究が進んでいるところです。

MCアキンヤミEating carrots help you to see in the dark.
ニンジンを食べると夜間視力が良くなる

M.C.アキンヤミ(24歳) 法務省勤務
毎日ニンジンを食べて、真っ暗な部屋で視力検査を行う

DAY 1
消費量: 1本
結果: 全く見えない

実はニンジンは好きじゃないんだけど、このサラダは大成功。視力検査は予想どおり全滅
DAY 2
消費量: 小袋1つ、スープ2杯
結果: 全く見えない

ニンジン・スープを2杯飲んで、おやつもニンジン。飽きる……
DAY 3
消費量: 3本、ジュース1杯
結果: 全く見えない

もう一生分のニンジンを食べた気分なのに、視力には効果なし
DAY 4
消費量: カレー、ジュース
結果: 全く見えない

オレンジとニンジンのミックス・ジュースはかなりおすすめ
DAY 5
消費量: キャロット・ケーキ、 スープ
結果: 全く見えない

左のまぶたが腫れてる。目の健康にすら効いてない……

この迷信を母親から聞かされて育った身としては真相を確かめたかったし、ニンジンを好きになる機会だと思って喜んで実験台になったけど、やっぱり途中で後悔。しかも皮肉なことに、5日目に左目が充血して、まぶたが腫れてしまった。あと、パソコンの画面を暗くして、暗闇の中で夜間視力の検査をするのはおすすめしません。検査が終わっても部屋の電気の位置もわからず、悲しいだけ……。

ちなみに母いわく、この迷信の由来は、第二次大戦中に米国で「英国軍のパイロットはニンジンをたくさん食べるから夜間視力が素晴らしい」っていう話が広まったことらしい。暗視レーダーを使っていることをドイツ軍に知られないために、英国人が流した噂なのだそう。

Dr.アダムから一言
ビタミンAが不足していると夜間視力が低下することがあります。なので、ビタミンAが豊富なニンジンを食べることで夜間視力が改善されるというのは、可能性はとても少ないですが、あり得ないことではありません。また、ニンジンに含まれるベータ・カロチンには網膜の一部が変形してしまう病気にかかる危険性を減らす働きがありますし、ビタミンAには健康的な視力を保つ役割もあります。

福田テツヲEating your crusts will make your hair curly.
パンの耳を食べると髪がカールする

福田テツヲ(29歳) グラフィック・デザイナー
食パンの耳を毎日食べて、髪がカールするかどうかお試し

DAY 1
消費量: 2枚分 自慢の直毛がすでにパサパサ。たぶん寝グセだと思うけど。なにもつけずに、そのまま食べる
DAY 2
消費量: 2枚分 2日目にして、もう飽きてきた。気軽に引き受けてちょっと後悔。ジュースでむりやり流し込む
DAY 3
消費量: 4枚分 「もっと食べてください!」と編集者に怒られたので、ジャムで飽きをごまかしつつがんばる
DAY 4
消費量: 5枚分 朝は友人宅で失笑され、昼は公園で1人寂しく食べ、夜も無心で食べる。なんだか虚しい
DAY 5
消費量: 5枚分 普通にパンから耳だけ切っている自分に気付いて、少し怖い。今日が最後で良かった……

生まれてこのかた、科学で証明されていないものなんて信じていないし、もちろん、迷信や「おばあちゃんの知恵」 的な類いも同じ。だから今回は、バリバリ直毛のおれが体を張って証明してやる!と意気込んだものの、パンの耳だけ食べるのが意外とつらいことに気がついた。

職場でも常に食パンの袋を持ち歩き、上司からも失笑される始末。でも編集者から「食パンの耳には、ガン対策になる酸化防止剤がたっぷり入ってるんです。しかも、白い部分の8倍も」と説得されて頑張ること5日間。なんと、定規でひいたかのような真っ直ぐなおれの髪が、聖子ちゃんもびっくりのクルクルに……はならなかった、やっぱり。もう当分パンを見たくない。

Dr.アダムから一言
予想通りの結果で安心しました。この迷信の由来は、パンの耳を食べない子どもを説得するために、母親たちが「耳を食べると髪がかわいくカールするわよ」と教えたこと。食生活が髪質に直接影響を与えるとしたら、一番多い原因は栄養不足だと考えられます。例えば「クワシオルコル」と呼ばれるタンパク質欠乏性の栄養失調にかかると、髪が薄くなり、赤毛に変色してしまうんですよ。

マイク・サマセットWrap up warm to stave off a cold.
上着を着ないと風邪をひく

マイク・サマセット(26歳) ソニー勤務
天候・気温に関わらず、Tシャツと短パンを着用して風邪を引くか挑戦

実験4
DAY 1
天気: 晴れ いったん日が暮れるとべらぼうに寒く、ビーチで数時間過ごしたら、震えが止まらなくなった
実験4
DAY 2
天気: 曇り、ときどき晴れ 濡れ髪で外へ出てもへっちゃら。でも海に入ったら寒くて息が止まりそうになり、すぐに退散
実験4
DAY 3
天気: 曇り、強風 強風と戦いながらビーチへ。寒さで頭痛がするけど風邪じゃない。脳みそが凍ってるだけ……
DAY 4
天気: 曇り 髪を切ったら、さらに無防備になった気分。鼻水が止まらないけど、花粉症だと言い聞かせる
DAY 5
天気: 曇り めちゃくちゃ寒いけど友人宅でBBQ。唇がかじかんで上手く話せなくなるが体はいたって健康

これまでこの迷信は信じていなかったけど、日が経つにつれ、体が弱っていった気がする。「体温を上げるために体力を使うから、その間に免疫力が落ちて、ウィルスに敏感になる」と、もっともらしい説を友人が教えてくれた。いくら太陽が自慢のブライトンでも、「絶対風邪を引かない」という自信が吹き飛ぶほど、特に夜は寒くてつらかった。でも、「朝起きたらぜったい風邪引いてるよ……」と 思いながら寝ても、不思議と体調は変わらないまま。

とにかくこの実験をして、1つ気がついた。おばあちゃんたちがこの迷信で言いたかったのは、「風邪を引かないように気をつけな」ってことじゃなくて、「寒いより温かい方が人生は楽しいよ」ってことなんじゃないかな。

Dr.アダムから一言
実は、皆さんが信じている「寒いと風邪を引く」説は、いまだにきちんと解明されていないのです。気温が低いとウィルスが蔓延しやすいのは本当ですが、それと風邪を引くことはまた別の問題です。また、鼻水は必ずしも風邪の症状ではありません。鼻が冷えると周囲の血液の循環が滞ります。それにより免疫細胞の活動が鈍りウィルスが倍増するため、それを駆除しようと鼻水が出やすくなるのです。

内山ひさえChocolate causes acne.
チョコレートはニキビのもと

内山ひさえ(22歳) 学生
毎日チョコレートを食べて、肌の調子をチェック

DAY 1
消費量:チョコのパン2個、チョコ菓子2つ、板チョコ入りカレー 単なる迷信であって!と願う。とりあえずチョコ菓子を大量購入
実験5
DAY 2
消費量:チョコ菓子6つ 朝も夕方も、ご飯がてら職場でもぐもぐ。前からあったニキビが悪化したような気がする
DAY 3
消費量:ココア1杯、チョコ菓子4つ、チョコ・マフィン1つ お肌の調子は良好!でも、だんだんチョコが苦痛になってきた
DAY 4
消費量:チョコのパン1つ、ココア1杯、チョコ菓子4つ おでこに極小のニキビができた!やっぱりこの迷信は本当?
DAY 5
消費量:ココア、チョコ菓子4つ、チョコ・マフィン1つ なんと、足にニキビが3つも!!それにしても、足にできるとは

5日間の実験で食べたチョコレートの総数26個とココア3杯。顔には「ザ・ニキビ」っていう主張の強いものはできなかったけど、左足3カ所に誕生するという奇跡が起きた。これまでも「チョコを食べるとニキビができる」っていうのは事実として信じていたけど、やっぱり単なる迷信ではないみたい。でも、こんなに大量に食べたわりには、それほど顔に目立つニキビができなかったことは正直驚き。それに体型もそんなに変わってない(たぶん)。

それにしても、ニキビって体のどこにでもできるのが恐しい!この迷信は「チョコを食べると足にもニキビができる」となるべきなのでは?この1週間で相当なカロリーを摂取したので、これから少しダイエットに励もうかな。

Dr.アダムから一言
残念ながら、この迷信はウソです。ただ、偏った食生活はニキビのもとになります。ですから、もし「チョコが主食」という食生活を送れば、もちろんニキビができるわけです。もし栄養が豊富な食事を摂れば、たとえ合間にチョコを大量に食べたところで、ニキビの原因にはならないと思いますよ。「たくさんチョコを食べたいから食事を抜く」が、一番お肌と体に悪影響を及ぼすのです。
 
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