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Wed, 17 December 2025

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オペラ歌手 中村 恵理インタビュー

オペラ歌手 中村 恵理インタビューオペラ歌手 中村 恵理インタビュー

2009年、当時まだロイヤル・オペラ・ハウスの若手歌手育成コースで学んでいた小柄な日本人女性が、当代を代表するソプラノ歌手、アンナ・ネトレプコの代役として同劇場の舞台を踏み堂々たる演技を見せたニュースは、英国内外のオペラ・ファンを驚かせた。それから5年半。
一歩一歩着実にプロとしての経験を積み、今ではバイエルン国立歌劇場の専属歌手としてドイツを拠点にしつつ、世界各国で活躍する中村恵理さんが9月、ロイヤル・オペラ・ハウスに戻ってくる。「心のホーム」であるというこの劇場での思い出や、これまでの軌跡について語っていただいた。
(本誌編集部: 村上 祥子)

Profile

中村 恵理(なかむら えり)

オペラ歌手 中村 恵理インタビュー

兵庫県出身。大阪音楽大学音楽学部声楽学科卒業。同大学大学院音楽研究科オペラ研究室修了。新国立劇場オペラ研修所第5期修了。オランダ留学を経て2008年から2年間、英国ロイヤル・オペラ・ハウスの若手歌手育成コースであるジェット・パーカー・ヤング・アーティスツ・プログラムで学ぶ。研修期間中に、アンナ・ネトレプコの代役として「カプレーティ家とモンテッキ家」に出演。09年にはカーディフ国際声楽コンクールにてオーケストラ、歌曲両部門においてファイナルに進出した。10年にドイツ・バイエルン国立歌劇場のソリストとして専属契約。ドイツを拠点にしつつ、英国や日本を含む、世界各国で活躍中。


大阪音楽大学大学院修了後は、新国立劇場オペラ研究所を経てオランダ留学、そして英国のロイヤル・オペラ・ハウスで研修を積まれました。各場所で教育の違いは感じましたか。

もちろんカリキュラムは異なるのですが、それ以前に自分自身の意識が個々に違っていたのではないかと思います。まず上京したとき、それまで私は外国人に出会ったことがなかったんですね。新国立劇場では、外国人からレッスンを受けるのに慣れることができた、しかも東京で日本語で生活しながらできた点が大きかったと思います。第2ステップとしてオランダに行ったときには、海外での生活に慣れることを学びました。また、良かったなと今となれば思えるのが、人に見られている中で舞台上を自然に歩く、ということを目的としたレッスン、いわゆるマイムが非常に多かったことですね。オランダでは声を磨くというよりは、パッケージとして舞台にのる人ということにフォーカスした研修ができたのではないかと思います。そしてその後、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスに来て、いよいよプロとして舞台に立つにはどうしたら良いかということに真剣に取り組むようになりました。

2009年には研修期間中にもかかわらず、アンナ・ネトレプコの代役としてシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」を基にした「カプレーティ家とモンテッキ家」にジュリエット役で出演されました。代役となった経緯は?

各研修生が(ロイヤル・オペラ・ハウスと)契約するときに、来年はこの役を勉強するようにと、それぞれの声に合った役を与えられます。研修期間中にはその役を課題として勉強すると同時に、小さい役をステージで歌って実経験を積むということがなされるのですが、その役というのが私の場合は「カプレーティ家とモンテッキ家」だったわけです。その後、実際の舞台で来年誰が歌うかを劇場側が一般の方々に発表するときに、あのネトレプコさんが歌う役を私が勉強するのだと知りました。ですから代役というよりは、アンダースタディーとして勉強していたわけですね。ただ、ネトレプコさんは当時ご出産されたころで、時々お稽古をお休みになられることもあったので、そのときには私が代わりに立つという機会がありました。実際に歌いなさいと言われたのは、キャンセルが決まった前日です。

舞台を観た方々からは、本番中は特に緊張した様子もなく、堂々と歌われていた姿が印象的だったという声が聞かれました。実際のところはどうだったのでしょう。

今考えても過去トップ3に入る緊張度でしたね。この役はアカペラ、しかもアリア(ソロ)で始まります。花嫁衣裳のベールをかぶっているのですが、ベールを上げた瞬間、2000人超のお客様、4000の目が自分に刺さるわけです。その瞬間は今思い返しても身震いがしますね。このベールを上げたからには、最後まで終えなければならないと思いました。

共演者や観客の反応は?

共演者も指揮者も劇場全体が本当に良くサポートしてくださいました。ずっと舞台袖で見守ってくださった人たちもいましたし、コーラスの方たちは「頑張って」と書かれた寄せ書きを持ってきてくださいました。ロメオ役のエレナ・ガランチャさんはずっと耳元でささやいてくださったり、「大丈夫だから」と言ってくださったり。指揮者はずっと微笑んでくださいましたし。皆さんの力だったと、今でも本当にそう思っています。お客様も、「この子本当にできるんだろうか」と私以上に緊張されていたと思うんです(笑)。最初のアリアが終わったときから温かい拍手をいただいて。最後まで歌い切ってよく頑張った、という意味もあったと思うのですが、あんなに大きな拍手、あんなに印象に残るカーテン・コール――今でもキャリア最良の日はと聞かれたら、あの日のカーテン・コールと答えますね。

世界で活躍する上で母国語が日本語であるということがデメリットになることもあるかと思います。

もちろん言葉のハンデはあります。ただオペラは、感情と言葉を音楽にのせているので、言語は重要ではありますが一つのツール。基本的なニュアンスは既に音楽に書かれているので、自分の言葉をどのように音楽にのせて伝えたいか、やはり音楽がキーワードになってくると思うんですね。声の質、表現力、表現に耐えうるだけのテクニックや感性が、言葉と共存しているわけです。演劇ですと、言葉のテンポや何をどう言うかが役者にかかっているのですが、オペラは音楽という制約があるので、指揮者のテンポで表現しなければならないという、全員がもつ決まりがあるんですね。その中での表現力を磨いていくことが、演劇人との違いだと思います。

オペラ歌手としてのご自身の強みは何だと思われますか。

どうでしょうか。自分で言えるものはないのですが、海外の方によく言われるのが、日本人としてはそれほど小さくはないのですが「そんなに小さいのによくそれほど大きくて素晴らしい声が出るね。どこからその声が出てくるんだ」と。恐らく、伝えたいと思う気持ちが声にのっている、「伝わる声」なのではないでしょうか。通る声とは言われますが、聞こえるだけではだめで、心に伝わるように、と思っています。

ご自身の強みを生かせると感じられる役、お好きな役はありますか。

喜劇も悲劇も好きなんですが、マネージャーは私は死ぬのがうまいと言いますね(笑)。ジュリエットのように脆くてナイーブ、ちょっとシャイで――私自身はシャイではないのですが(笑)――といった脆弱性を持った役は非常に合っていると。皆さん、「トゥーランドット」のリュー役、また今回演じる「リゴレット」のジルダ役もそうですが、自分を犠牲にして生きる悲劇性の高いものがお好みのようです。逆に苦手なのはセックス・アピールをしなければならない役。やれと言われればもちろんやりますし、やってみたいと思ってもいますが、欧米の皆さんとは如何せん出てくるものが違うので、逆にこないと言いますか(笑)。

今回は「リゴレット」にジルダ役で出演されます。中村さんが出演される回は、誰もが無料で観られるBP ビッグ・スクリーンで上映されるということで、これまでオペラを観たことのない人たちも多く訪れることと思います。

私は映像向けではないので、できれば遠巻きに観ていただきたいのですが(笑)、オペラに行きたいけれど経済的に難しいとか、ちょっと観てみたいとか、「ちょっとの興味」のある方にとっての楽しみになるのであればうれしいです。ただ、できることならばちょっとの贅沢で、劇場にお越しいただきたい。生の空気感というのでしょうか。音楽が実際に空気を震わせているところをぜひ体験していただきたいといつも考えています。高尚なものを楽しむ感覚ではなく、ちょっとおめかししてバーやテラスも含めた雰囲気を楽しむために、一度足を運んでいただければ。17日のビッグ・スクリーン上映の後、21日も演じますので、スクリーンも観て、劇場でも観ていただければと思います(笑)。

ロイヤル・オペラ・ハウスにおける出演予定
Rigoletto

2014年9月17日(水)19:30 及び9月21日(日)14:00
Royal Opera House, Bow Street, London WC2E 9DD
Tel: 020 7304 4000 | www.roh.org.uk

*なお、17日の公演は、BP Big Screensの一環としてトラファルガー広場に設置された巨大スクリーンで上映される予定。無料。19:00からトークあり。

 

アイルランド ぶらり妖精珍道中

アイルランドぶらり妖精珍道中

英国から足を伸ばしやすい隣国アイルランド。
スコットランド、ウェールズやコーンウォールと並んで
ケルト文化が色濃く残るアイルランドでは、今も各地で神話や民間伝承、
そして妖精伝説が語り継がれています。
首都ダブリンを中心に訪れた筆者も、行く先々で妖精にゆかりのある物事に遭遇しました。
この旅路と各地から持ち帰った摩訶不思議なおみやげを、
うつのみや妖精ミュージアム名誉館長の井村君江先生に伺った解説とともにご紹介します。
(文・写真: 山岸 早瀬)

アイルランドで妖精の世界をのぞく

旅の拠点は首都ダブリン

ロンドンの各空港からダブリン空港までは飛行機で片道1時間ちょっと。アイルランドの首都ダブリンは、ケルトの小さな町を源流とした文化的な町。オスカー・ワイルドやジェームズ・ジョイスなど同地出身作家ゆかりの地は世界中のファンを惹きつけ、パブや路地は音楽とギネス・ビールを楽しむ人々で賑わっています。こうした文化資源を基にした観光都市でもあるダブリンでは、市内を回るウォーキング・ツアーやケルトの遺跡を巡る郊外への日帰りツアーが日々開催されています。

アイルランドと妖精

アイルランドは妖精大国だと耳にしたことのあった筆者は、「どこもかしこも妖精づくしなのでは」と淡い期待を胸に、いざ入国。しかし幸か不幸か、どうもそれらしき景色は見当たりません。というのもアイルランドの妖精とは、暮らしや自然の中に溶け込むように、そしてお話を通して人々の心の中に存在するものなのだそう。これは妖精が、この地にキリスト教が入ってくる以前のケルトの古い信仰を源流とした、超自然的な存在への崇拝心から生まれたものだからなのだと言います。理解できたような、できないような気持ちのまま観光を続けていると――行く先々で、妖精ゆかりの不思議な物事に遭遇したのです。結果的に「妖精珍道中」となったこの旅から持ち帰ったおみやげを通して、アイルランドの妖精の世界をのぞいてみましょう。

地図をクリックすると拡大します
ダブリン市内の地図


アイルランドで発見! 妖精にまつわる地と 「おみやげ」

妖精伝説をコレクション
National Leprechaun Museum 国立レプラコーン博物館

National Leprechaun Museumダブリンを流れるリフィー川(River Liffey)はアイルランド語で「生命の川」を意味し、その名の通り、都市生活の源です。川に架かるダブリン中心部のオコンネル橋(O'Connell Bridge)から、川沿いに西に向かって10分ほど歩き北上すると、緑色の建物が見えてきます。こちらがアイルランドの神話、伝説と民間伝承をテーマとした国立レプラコーン博物館です。

ガイドが肉声で語る話に耳を傾けながら、関連アトラクションが用意された各部屋を巡ります。小人になった気分に浸れる巨大なテーブルや椅子のある部屋では、写真撮影も楽しめます。なおレプラコーンとは、アイルランドで最も人気のある妖精で、ひげを生やした老人の姿をした小人の靴屋です。地下に宝を隠し持っているので、捕まえれば大金持ちになれると言われていますが、人をだます知恵も豊富だとか。

レプラコーン博物館で見つけた「おみやげ」

併設のギフト・ショップには、妖精関連の専門書やレプラコーンのグッズが並んでいます。

「Leprechaun Crossing(レプラコーンが通ります / レプラコーンに注意)」と書かれた、道路標識のような黄色いマグネットを見つけました。
  • オコンネル橋から川沿いにR148を西に進み、Jervis Streetを北上。
    または路面電車ルアス(Luas)に乗ってジャーヴィス駅(Jervis Luas Stop)下車
  • 大人€12.00、子供€8(3歳以下は€3)
  • 10:00 - 18:30
  • Twilfit House, Jervis Street, Dublin 1
  • +353 (0)1 873 3899
  • ジャーヴィス駅(Jervis Luas Stop)
  • www.leprechaunmuseum.ie

ダブリンの老舗ブック・ショップ
Eason イーソン

Easonダブリン有数の大通りであるオコンネル・ストリート(O’Connell Street)。リフィー川沿いに威風堂々と立つカトリック教徒解放運動の指導者、ダニエル・オコンネルの像から北に向かって2分ほど歩くと、深緑と金で飾られたレトロな時計と「EASON」の文字が目に止まります。

こちらは19世紀創業の老舗ブック・ショップで、アイルランドと北アイルランドに60店舗以上を展開。なかでもオコンネル・ストリートの本店は、地元民と観光客の双方で終日賑わっています。

1階にはアイルランド関連書が多く、アイルランドゆかりの作家であるオスカー・ワイルド、ジェームズ・ジョイス、ウィリアム・B・イェーツらの文学作品から、欧州の神話や伝説の専門書まで豊富にそろっています。2階には文房具やおもちゃ、ギフト・カード、DVDのほか、カフェ&レストランも。

Easonイーソンで見つけた「おみやげ」

店内に入ってすぐ左にある雑誌コーナーに、「妖精ライフスタイル・マガジン」なる珍しい雑誌が置いてありました。

誌名は「Faeries And Enchantment(FAE)」。発行元は、同じくケルト文化が残る英コーンウォールの出版社のようです。

  • Eason O'Connell Street
    オコンネル橋からO'Connell Streetを北上
  • 月~水、土 8:00-19:00 / 木 8:00-21:00 / 金 8:00-20:00 / 日 12:00-18:00
  • 40 Lower O'Connell Street, Dublin 1
  • +353 (0)1 858 3800
  • www.easons.com

民家のお宝からガラクタまで
Dublin Sunday Markets ダブリン・サンデー・マーケット

Eason中心部のオコンネル橋から南西に向かって徒歩約25分。この国にキリスト教を広めたという聖パトリックが眠る聖パトリック大聖堂(St Patrick's Cathedral)を過ぎ、「Newmarket」という看板で左折すると、大きな駐車場があります。毎週日曜日、80年代よりこの一角で、ダブリンのCo-op(生協)が主催する日曜マーケットが開かれています。第一日曜日は古着フェア、最終日曜日はフリーマーケットなど、毎週異なるテーマで開催されているのが面白いところです。

地元のアンティーク・ショップやアーティスト、一般家庭の人々など幅広い層がストールを出すため、アイルランドならではの掘り出しものが手に入ります。商品のなかには、本屋にもみやげもの屋にも置いていない、アイルランドの古い資料や手作りの民芸品も。ロンドンに比べて値段もお値打ちです。

Dublin Sunday Marketsサンデー・マーケットで見つけた「おみやげ」

一般家庭の出品者のブースにて、「Fairy Stone(フェアリー・ストーン)」とだけ説明が書かれた、赤いリボンが通された石を見つけました。石には穴が空いているようです。

ケルトの聖地
Hill of Tara タラの丘

Hill of Taraタラの丘は、ダブリンから車で北西に40分ほど行ったところにあるミース州ナヴァン(Navan)に位置する丘陵です。ダブリン市内発着の日帰り観光ツアーもあります。

紀元前3世紀ごろにアイルランドに移住してきたケルト人。タラの丘は、ケルトの古代王国を始めとして、アイルランドの大王が居住したとされる土地です。丘の頂には、周囲が1000メートルほどの鉄器時代の要塞跡が残されており、「王の砦」と呼ばれています。この要塞の中心部にそびえる立石の前では、王が即位の儀式を行ったと言われています。その後も何世紀かにわたり政治的、宗教的拠点として機能し、今もアイルランド人にとっては聖地として慈しまれている場所です。

なお、映画「風とともに去りぬ」のアイルランド系米国人の主人公、スカーレット・オハラが住む土地「タラ」は、この地名に由来します。

Hill of Taraタラの丘で見つけた「おみやげ」

タラの丘には、「妖精の木(フェアリー・ツリー)」と呼ばれる大木がそびえ立っています。カラフルなリボン、チケットの半券、靴下、はたまたブラジャーまで、様々なものが吊るされています。思わず写真に収めました。
  • ダブリンから送迎ツアーあり。詳しくは、ダブリンのツーリスト・インフォメーション(Suffolk Street, Dublin 2、Tel: +353 (0)1 605 7700)まで
    車で: ダブリンから約40分。N3でNavanに向かって北上し、Dunshaughlin という町を過ぎてから左折
  • 大人€3.00、子供€1.00
  • 10:00-18:00(ビジター・センター。9月17日以降はクローズするが、敷地内見学は年間を通じて自由)
  • Navan, Co. Meath
  • +353 (0)46 902 5903(オフ・シーズン中は+353 (0)41 988 0300)
  • www.heritageireland.ie/en/hilloftara

 

日本の妖精研究第一人者
井村君江先生によるおみやげ鑑定

アイルランドから持ち帰った不思議な「おみやげ」を鑑定していただくべく向かったのは、日本の宇都宮市。日本の妖精研究の第一人者として知られる「うつのみや妖精ミュージアム」名誉館長の井村君江先生を訪ねました。

井村先生の鑑定

「これは懐かしいですね。作家の故・司馬遼太郎さんが、写生して私に送ってくれた絵葉書があるの。ダブリンから車でずっと行った西の峠に、「レプラコーン・クロッシング」という立て札が実際に存在する場所があるんですよ。詳しくは、司馬遼太郎さんがロンドンからリバプールを通ってアイルランドに行かれた『街道をゆく<30><31>愛蘭土紀行I、II』を読んでみてくださいね」

「今はこんな雑誌も出ているんですね。雑誌名のスペリングはFaeriesになっていますね。これは古い英語で、妖精学の調査では今でもこう書きます。ちなみにコーンウォールでは妖精のことはPixy(ピクシー)、隣町ではPaxy(パグシー)と呼びます。私の書きました『妖精学大全』では、英国、アイルランドを中心に、ヨーロッパの民間伝承やケルト神話の妖精約300種を解説しています」

「これは別名Witch Stone(魔女の石)、あるいは ハグ・ストーン(Hag Stone)と言います。Hagとは魔女のことで、魔女除けに使われる石ですよ。穴がたくさん空いているでしょう? この石を持っていれば、魔女が来てもこの穴に入って、どこから出たらいいのか分からなくなる、という言い伝えがあります。私もアイルランドでずいぶん集めましたよ」

「この地はケルトにとって重要な土地ですから、何度も訪れたことがあります。当時は木だけで、今はリボンが結ばれていますね。フェアリー・ツリーの別名はウィッシュ・ツリー(Wish Tree)で、願いを込めて木に赤いリボンを結ぶと、その願いがかなうと言われています。フランスのブルターニュにある妖精の森には、赤いリボンでいっぱいになったフェアリー・ツリーがありますよ」

井村先生のプロフィール

うつのみや妖精ミュージアム名誉館長。福島県妖精美術館館長。明星大学名誉教授。1965年、東京大学大学院人文比較文学博士課程満期退学。1977年、ケンブリッジ及びオックスフォード大学ヴィジティング・スカラー。著書に「ケルトの神話―女神と英雄と妖精と」(ちくま文庫)、「妖精学入門」(講談社現代新書)、「妖精学大全」(東京書籍)、など多数。

うつのみや妖精ミュージアム

井村先生が英国とアイルランドで長年にわたって研究・収集した
貴重な妖精関係の資料が展示されている博物館

〒320-0026 栃木県宇都宮市馬場通り4-1-1
うつのみや表参道スクエア内 市民プラザ5階
Tel: +81 (0)28 616 1573
入場無料 10:00-20:00
JR「宇都宮駅」西口から徒歩10分、またはバス5分
www2.ucatv.ne.jp/~ufairy-m
 

オックスフォードのパブ巡り

オックスフォードのパブ巡り

観光地として人気の大学街
オックスフォードは、パブの街でもある。
街中にある一つひとつのパブには
隠れた歴史や逸話そして遊び心がいっぱい。
観光がより楽しく、ビールがよりおいしい。
そんな至福の時間を過ごすため、
オックスフォードを訪れた際には
パブ巡りをしてみたい。

ロンドンからのアクセス:
パディントン駅から列車で
約1~2時間

オックスフォードの地図

壁から天井までネクタイだらけ
The Bear Inn   ベア・イン

市内中心部にある市役所兼オックスフォード博物館のすぐ裏手。わずか2部屋しかないこの小さなパブは、恐らく英国で1、2を争うおもしろパブだ。何しろ、天井から壁までが所狭しとネクタイで覆われているのだから。
オックスフォードの新聞社で漫画家として勤務していたというかつてのパブの主人が集めたネクタイの数は、何と4500本。ネクタイの先端をはさみで切断し、それを店に寄付すれば、引き換えに小さなグラス(半パイント)に注いだビール一杯を無料で提供するというサービスを行っていたのだという。このユニークな試みが始まったのは1950年代だというから、店内には半世紀以上かけて集めた博物館級のコレクションが展示されていることになる。
それぞれのネクタイには団体名に加えて、寄付された日付や持ち主の署名などが記載。オックスフォードを中心とするスポーツ団体の制服として着用されていたものがほとんどだが、中には警察官のものまである。たくさんの愛すべき酒飲みたちの歴史が刻まれたパブ。

The Bear Inn
1. 店内に飾られたネクタイの数々。そのコレクションは現在も拡大を続けているという
2. 仁王立ちしているクマが描かれた看板が目印
3. サーモンとディルのフィッシュ・ケーキ(£11.95)
4. 人通りの少ない静かな通りに立っている

  • 6 Alfred Street, Oxford OX1 4EH
  • 01865 728164
  • 月~土 11:00-23:00(金・土は0:00まで)、日 11:30-22:30
  • www.bearoxford.co.uk

文豪たちが互いの作品を披露した
The Eagle and Child イーグル・アンド・チャイルド

市内中心部からアシュモリアン博物館に向かって北上すると、セント・ジャイルズ・ストリートという名の大通りに出る。観光客もまばらなこの道の左側に立つのは、一見しただけでは何の変哲もないパブ。
ここには、「指環物語」のJ・R・R・トールキンや、「ナルニア国物語」のC・S・ルイスといった英国が誇る文豪たちが通い詰めていた。まだ彼らがオックスフォード大生だった20世紀前半。直訳すると「ほのめかし」という意味になる「インクリングス」という名の学生グループを結成した彼らは、毎週火曜日の正午にこのパブに集まり、それぞれ執筆途中の物語を披露し合っていたのだという。
店内中央に今も残る「ラビット・ルーム」という名の小部屋は、まさに彼らが陣取っていた場所だ。無造作に置かれた丸椅子とテーブルを暗い照明がぼんやりと照らすこの部屋を抜けて奥へと進むと、今度は中央を横切る梁にインクリングスのメンバーとの友情を謳ったC・S・ルイスのメッセージが書かれている。この店内の空間そのものがまるで物語の世界のようだ。

The Eagle and Child
1. 小さな子供を運ぶ鷲という何とも不思議な絵が描かれた看板
2. かつてインクリングスが会合を開いていたラビット・ルーム
3. 店内の一番奥には自然光が入り込む空間がある
4. よく目を凝らして見てみると梁にメッセージが書かれている
5. 何の変哲もない外観

飲めば飲むほど篤志家になれる
The Lamb and Flag   ラム ・アンド・フラッグ

大通りを挟んで、イーグル・アンド・チャイルドのほぼ真向かい。インクリングスのメンバーが足繁く通ったと伝えられるもう一つのパブが、この「ラム・アンド・フラッグ」だ。さらにこの店は、インクリングスが誕生する直前に死去した作家のトーマス・ハーディが、彼にとっての最後の小説「日陰者ジュード」を執筆した場所とも伝えられている。
広々としたスペースを構え、口当たりの良いベルギー・ビールを豊富にそろえたこのパブは、近隣にあるオックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジが経営。店内に同カレッジのボート部が所有する記念オールなどが展示されているのはそのためだが、さらにもう一つ、このパブには大学直営店ならではの変わった特徴がある。
それは、この店の収益が同カレッジの奨学金に利用されているということ。つまり客がビールを飲めば飲むほど、結果的にオックスフォード大学の優秀な学生を支援することができる仕組みになっているのだ。飲み過ぎたときの罪悪感を帳消しにしてくれる、酒飲みに優しい店。

The Lamb and Flag
1. バーではベルギー・ビールを豊富に用意している
2. パブの右脇にある小さな小道に入り口がある
3. 旗を掲げる羊の絵が何とも愛らしい
4. 店内に飾られている記念オール
5. 独自の奨学金制度を説明した案内板

  • 12 St Giles, Oxford OX1 3JS
  • 01865 515787
  • 月~日 12:00-23:00(日は22:30まで)

クリントン元米大統領がアレした場所
The Turf Tavern   ターフ・タバーン

ボドリアン図書館のすぐ近く。「嘆きの橋」のたもとにあるレンガの建物の脇道か、またはホリウェル・ストリートと交差する石畳の小道を通って入り口へ。どちらも裏道と呼んでいいような人気のない道を進むと、ターフ・タバーンの花かごに彩られたテラス席が見えてくる。このテラス席がパブの各所に設けられていることに加えて、食事を夜9時まで提供しているということもあり、オックスフォード市内のほかのパブに比べて圧倒的に家族連れが多い。
また実はこの店、クリントン元米大統領がオックスフォード大への留学時にマリファナを吸引した現場として有名。大統領選でマリファナ吸引疑惑をかけられた際に「英国でマリファナを試したことがあったが肺には吸い込まなかった」と発言したことが話題になったが、店内には「ビル・クリントンが違法薬物を吸い込まなかった場所」と書かれた看板がある。
さらにはホーク豪元大統領が同じく学生時代にビールの早飲み記録をつくったことや、はたまた幽霊が出ることなどを伝えるユニークな看板がテラス席のあちこちに置かれている。

The Turf Tavern
1. 店の北側にあるテラス席。建物を挟んで南側にもテラス席が置かれている
2. バーには変わり種のビールがたくさん
3. 幽霊が出没すると伝える看板もある
4. 三角屋根が特徴的な建物
5. 「ビル・クリントンが違法薬物を吸い込まなかった場所」と書かれた看板

暗く小さく味のある名店
The White Horse   ホワイト・ホース

目抜き通りの一つである、ブロード・ストリート。反対側に立つ堂々たる象牙色の建物群とは対照的に、何とも窮屈に見える小さな店構えのパブがある。屈み込むようにして半地下に位置する店内に入ると、妙に薄暗く、10前後のテーブルは椅子との高さが合っていないから、座ると何だか妙に居心地が悪い。
だが、不便極まりないはずなのに、ビールを口にした途端思わずにやけてしまう。古き良き英国のパブの醍醐味を知る人であれば、そのほほ笑みの意味が分かるだろう。
16世紀にまでさかのぼるという歴史的建築物に入ったこのパブは、18世紀ごろから「ホワイト・ホース」との名で人々に認知されるようになった。当時の英国王であったジョージ2世の紋章に馬が描かれていたことと関係があるとされるが、現在ではその歴史的な佇まいを生かし、数々のドラマや映画のロケ地として使われている名店。お勧めビールは、店名から取ったその名もホワイト・ホース。醸造所が同店のためだけにつくったという、爽やかな飲み口が特徴のエール・ビールだ。

The White Horse
1. 半地下に位置する店内
2. 窮屈そうな入り口前では立ち飲みをする人の姿も多く見られる
3. 店名になっている白い馬の名前は「ビリー」とのこと
4. シェフのお勧め品の一つ、ホームメード・フィッシャーマンズ・パイ(£8.95)
5. チェーン店ではなかなか見かけない銘柄のビールが並ぶ


 

ロンドン読書散歩 - 英国の子供たちが読んで育った本

ロンドン読書散歩 - 英国の子供たちが読んで育った本 - 絵を楽しむ、言葉を味わう

英国の子供たちは、どんな本を読んで育ったのだろう。
幼いころにはお母さんやお父さんに読み聞かせてもらい、
成長するにつれて自ら夢中になってページを繰った絵本や小説の数々。
今回は、現在ロンドンの街の至るところに設置されている
本のインスタレーション「BookBench」50点のうち、
特に子供たちに愛されている本18冊をピックアップ。
小さなお子さん向けの絵本から、大人も夢中になって読める本までをご紹介。
(写真: Nana Suzuki)

BookBenchとは?

現在、ロンドン各所に鎮座している、開いた本の形をしたインスタレーション。英国における読み書き能力向上に努めるチャリティー団体の「The National Literacy Trust」と、パブリック・アートのイベント・プロデュース団体「Wild in Art」によるプロジェクト「Books about Town」で、ロンドンと何らかの関連がある本50冊が選定され、プロのイラストレーターや地元アーティストによって物語のイラストが描かれている。インスタレーションは9月15日まで展示された後、オークションが行われる予定。収益はThe National Literacy Trustの活動のために使われる。 www.booksabouttown.org.uk

City Trail シティエリア


ロンドン読書散歩 を表示
  1. Jacqueline Wilson
    ジャクリーン・ウィルソンの著作本 ジャクリーン・ウィルソン

    親の離婚や養子縁組などの社会問題を取り入れながらも、子供たちの生き生きとした日々を描き、世界各国で人気の高いジャクリーン・ウィルソンの児童小説。養護施設で生活するおてんばな女の子、トレイシーが主人公の「トレイシー・ビーカー」シリーズや、性格の異なる双子の女の子、ルビーとガーネットの成長をユーモアいっぱいにたどる「ふたごのルビーとガーネット」などからお気に入りの一冊を探して。

  2. Mary Poppins
    「メアリー・ポピンズ」シリーズ P. L. Travers

    メアリー・ポピンズ

    バンクス夫妻の子供たちの面倒を見るために、東風に乗って現れた不思議なナニー、メアリー・ポピンズが主人公の人気シリーズ。愛想が悪く厳格なのに、路上に描かれた絵の中に導いてくれたり、磁石を使って世界の北から南までを瞬時に旅したりと、摩訶不思議な現象を繰り出すメアリーに子供たちは夢中。ちなみにバンクス氏が勤めているのは、このベンチが置かれているシティ・エリアにある銀行という設定だ。

  3. Katie in London
    「ケイティ、ロンドンへ」 James Mayhew 「ケイティ、ロンドンへ」

    ケイティはおばあちゃんに連れられて、弟のジャックと一緒にロンドンへ。何もすることがないと思っていたら、トラファルガー広場で話をする石のライオンと出会って友達に。ライオンに案内されて、ロンドン塔やバッキンガム宮殿を回っていく。ジェームズ・メイヒューが文とイラストを手掛けるこのシリーズには、ほかにもケイティがスコットランドを訪ねたり、名画の中に入り込む話などがある。

  4. Alex Rider
    「アレックス・ライダー」シリーズ Anthony Horowitz

    アレックス・ライダー

    英国と言えば、ジェームズ・ボンドが活躍する007シリーズを始めとするスパイものの宝庫。数あるスパイ小説の中でも、お子さんにぴったりなのが、10代の少年、アレックス・ライダーが諜報部員となって活躍するアンソニー・ホロヴィッツ著「女王陛下の少年スパイ! アレックス」シリーズ。スパイだった叔父を殺されてしまったアレックスは、その復讐を遂げるため、苦難の末に英国諜報部員となる。

  5. The Wind in the Willows
    「たのしい川べ」 Kenneth Grahame たのしい川べ

    1908年の出版以来、英国の風光明媚な田園風景を舞台に動物たちが織り成すこの物語は、世代を超えて愛され続けている。同じ川べでも住む場所の異なるモグラやアナグマ、ヒキガエルたちは、英国の階級社会を表しているとも言われる。動物たちの可愛らしい冒険をお子さんとわくわくしながら楽しむも良し、当時の社会背景にまで思いを馳せて読み込むも良し。長い年月を経て幅広い世代に支持される本作の魅力を探ろう。

  6. The Laura Marlin Mysteries
    「ローラ・マーリン」シリーズ Lauren St John

    ローラ・マーリン

    孤児のローラ・マーリンは、コーンウォールに住む親戚の家へ引き取られることに。大好きな推理小説の登場人物のように、スリルに満ちた生活を送りたいと新天地に向かったローラは、様々な謎に出くわす。アフリカで野生動物に囲まれて育ったというローレン・セントジョンが描く本シリーズには、ハスキー犬のスカイが登場。セントジョンはこのほか、アフリカに暮らす11歳の少女マーティーンのシリーズなども執筆している。

  7. Riverside Trail テムズ川沿い


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  8. From the Gruffalo to Scarecrows:
    The World of Axel Scheffler and Julia Donaldson

    グラファロからカカシまで:
    アクセル・シェフラー とジュリア・ドナルドソンの世界
    Author: Julia Donaldson. Illustrator: Axel Scheffler グラファロからカカシ

    ジュリア・ドナルドソンの文章とアクセル・シェフラーの絵は、誰もが一度は目にしたことがあるのでは? 自分を襲おうとする動物たちを追い払うために怖い怪物の話をつくり出したねずみが、想像通りの怪物「グラファロ」と出会ってしまう「グラファロ」シリーズや、ほうきに乗った魔女とねこどんが仲間たちを増やしていく「まじょとねこどん ほうきでゆくよ」など、リズミカルな言葉が心地良いお話がいっぱい。

  9. Clarice Bean
    「クラリス・ビーン」シリーズ Lauren Child

    クラリス・ビーン

    大家族の一員であるおしゃまな女の子、クラリス・ビーン。たまには静かなひとときを過ごしたいのに、異性のことで頭がいっぱいのお姉ちゃんや引きこもりがちのお兄ちゃん、部屋をシェアしている弟やコーンフレークにスープをかけちゃうおじいちゃんたちのせいでいつも大騒ぎ! カラフルなイラストに、文字の大きさや形の異なる個性的な文章が付いたチャーミングな本は、眺めているだけでも楽しい気分に。

  10. How to Train Your Dragon
    「ヒックとドラゴン」シリーズ Cressida Cowell

    ヒックとドラゴン

    バイキングの少年ヒックと、歯がない子ドラゴン、トゥースレスの友情と冒険を描いたクレシッダ・コーウェル作の「ヒックとドラゴン」シリーズ。ヒックは一人前と認められるためにドラゴンをてなづけなければならないが、捉えたドラゴンはとにかくわがままで……。アニメ映画化もされているが、ヒックがドラゴン語を話せるなど原作のみの設定も多いので、映画ファンも原作を読めばまた違った魅力を感じられるはず。

  11. War Horse
    「戦火の馬」 Michael Morpurgo

    戦火の馬

    ロンドンやニューヨークで舞台化され、映画も人気を博した児童小説家マイケル・モーパーゴの「戦火の馬」。第一次大戦下、アルバート少年の元で大切に育てられた馬のジョーイは、軍馬としてフランスの戦場に送られてしまう。ジョーイと再会するため、自らも兵隊に志願するアルバートだが……。小説では、ジョーイの視点からアルバートとの生活や戦争での出来事が語られているのがユニーク。

  12. Please Look After This Bear. Thank You. (Paddington Bear)
    このクマの世話をしてやってください。
    お願いします── 「くまのパディントン」より Michael Bond

    くまのパディントン

    このくまの存在を抜きにして、英国の絵本を語ることはできない。ロンドンのパディントン駅で「Please Look After This Bear. Thank You.」と書かれた札をぶら下げていたくまを家に連れ帰ったブラウン夫妻は、くまに「パディントン」という名を付ける。作者マイケル・ボンドが妻へのプレゼントとして買ったぬいぐるみがモデルとなったという愛らしいくまの物語、年末には映画も公開されるので、その前に改めて原作を読んでみよう。

  13. Greenwich Trail グリニッジ


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  14. The Railway Children
    「ザ・レイルウェイ・チルドレン」 Edith Nesbit

    ザ・レイルウェイ・チルドレン

    1906年出版、英国で長年にわたり読み継がれてきた、エディス・ネズビットによる児童文学の古典的作品。突然父親が何者かに連れ去られ、母親とともに田舎の線路近くにある家に越してきた3人の姉弟たち。駅に通い、列車を眺める日々を過ごすうちに、いつも決まった列車に乗ってくる老紳士と親しくなる。子供向けの平易な本ながら、スパイ冤罪や貧困問題など、当時の社会が抱えていた闇も盛り込まれている。

  15. We're Going on a Bear Hunt
    「きょうはみんなでクマがりだ」
    Author: Michael Rosen. Illustrator: Helen Oxenbury

    きょうはみんなでクマがりだ

    お父さんと4人の子供、そして犬1匹が、クマがりに出発。草原を抜けて、川を渡って、森を突き進んで……。ひたすら進んだ先にクマはいるのか? シンプルな言葉のつらなりが繰り返し出てくるので、小さなお子さんと一緒に、歌うように節をつけて読んでみるのも楽しいだろう。ロンドン在住の絵本作家、マイケル・ローゼンによるこの人気作、昨年は音楽の祭典プロムスにも音楽付きで登場している。

  16. Elmer the Patchwork Elephant
    「ぞうのエルマー」シリーズ David McKee

    ぞうのエルマー

    ぞうのエルマーは、ジャングルに住む仲間たちの中でも一際目立つ存在。なぜならグレー色のぞうたちの中で、エルマーだけが赤、青、黄色と色とりどりだったから。皆の人気者ではあるけれど、周りと違うことにちょっぴり孤独も感じるエルマーはあるとき、仲間たちの元を離れて……。デーヴィッド・マッキーにより1968年に生み出されたエルマーは、多様性と個性を貴ぶ象徴としても世界中で高い人気を誇っている。

  17. Bloomsbury Trail ブルームズベリー


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  18. Jeeves and Wooster Stories
    「ジーヴスとウースター」シリーズ P. G. Wodehouse

    ジーヴスとウースター

    人から何か頼まれると嫌とは言えないお人よしな貴族のウースター(通称バーティー)の元には、何かとトラブルが舞い込んでくる。冷静沈着、頭脳明晰な従者のジーヴスは、そんな主人のために、ときに主人すら駒として利用しつつ、問題解決に奮闘する。約100年前に第一作が発表された本シリーズは、今も人気の高い「執事もの」のはしりとも言われる。古き良き英国の貴族の生活を面白おかしく見てみたい人にお勧め。

  19. Always Try to be a Little Kinder Than is Necessary
    (The Little White Bird)

    いつも、必要以上に少しだけ優しくあればよい
    ──「小さな白い鳥」より J. M. Barrie

    ピーター・パン

    世界中の子供たちから愛される永遠の少年、ピーター・パン。彼がこの世に生まれたのは、1902年に出版されたJ・M・バリの小説、「小さな白い鳥」の中だった。頑固でひねくれ者な一人の退役軍人と彼を取り巻く人々を描いたこの物語の一節に登場したピーターは、「ケンジントン公園のピーター・パン」という小説を経て、「ピーター・パンとウェンディ」という、世界中で読み継がれる物語の主人公となる。

  20. Sherlock Holmes Stories
    「シャーロック・ホームズ」シリーズ Sir Arthur Conan Doyle

    シャーロック・ホームズ

    現在でも世界中で映画化やドラマ化が行われている推理小説「シャーロック・ホームズ」シリーズを、この機会に原作で読んでみるのも面白いのでは。ロンドンのベーカー街221Bに居を構える名探偵シャーロック・ホームズとその助手ジョン・ワトソンが、様々な事件を解決する本シリーズでは、今も当時の面影を残すロンドンの様子が色々と描かれているので、読書後には本を片手にロンドンの街を散策してみよう。

  21. The Lion, the Witch and the Wardrobe
    「ライオンと魔女」 C. S. Lewis

    ライオンと魔女

    英国を代表する作家の一人、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」シリーズの第一作。第二次大戦中にロンドンから地方の親戚の家へ疎開したペペンシー家の4人兄弟が、もの言うけものや妖精たちが生きるナルニアへと誘われる。ナルニアの創造主であるライオンのアスランとともに白い魔女に対峙する4人の冒険譚として読むのはもちろん、随所に盛り込まれたキリスト教的なモチーフを探っていくのも面白いだろう。


 

VAMPS インタビュー

VAMPSインタビュー

過去1年間だけで3回もの英国公演を行った日本の音楽ユニット、VAMPS。彼らが海外展開に重点を置くと決めたのはなぜか。
6月にイングランド中部レスターシャーで開催された野外音楽フェスティバル出演に合わせて英国入りした彼らに、ロンドン市内の音楽スタジオでインタビューを行った。

VAMPS
ロック・バンド、L'Arc~en~Cielのヴォーカルを務めるhydeと、Oblivion Dustのギター及び作曲を担当するK.A.Zが2008年に結成した音楽ユニット。結成当初より、日本国外での公演活動を積極的に行っている。英国では2013年10月と今年3月にロンドン公演を行い、また6月にはイングランド中部レスターシャーで開催されたラウドロック系の野外音楽フェスティバルであるダウンロードに出演した。  www.vampsxxx.com

VAMPS結成当初から海外展開に積極的に取り組んできたのはなぜですか。

hyde(以下H):ロック音楽への需要を日本国内だけで求めるには限界があると思ったからです。聴いてくれる人が少なければ、その少ない人々の好みに合わせる努力をし続けなければならない。でも自分たちが目指している音楽を欲している人がほかの国にもいるのであれば、その場所を探した方がロックという音楽を広める上で重要な気がして。

電化製品などでは日本企業が海外でもどんどんプロモーションをしていますよね。それと同じことを音楽でもやれたらいい。しかもアジア諸国のミュージシャンは自国以外での活動を普通に行っている。だからツアーでアジアを回ると、余計に日本のロック業界は閉鎖的だなあと思いますね。ただ逆に言えば、ほかに同じことをしている人が少なければ、自分たちが一番になれるチャンスが高いということでもあるから。

K.A.Z(以下K):日本は、良いメロディーやフレーズがすごくたくさんある国だと思います。ただ一つ足りないのが、アート的な要素というのかな。例えば、日本では明るい曲が流行すれば、全部がそういう曲になってしまいます。流行を一気に吐き出して消化するような感じ。でも、自分たちが目指す音楽はそういうものではないので。このバンドにしかできないアート的な要素も取り入れた上で、日本での活動を充実させるためにも海外で挑戦したい。

VAMPSの曲の多くには英語歌詞が付けられていますが、一方で日本語歌詞の曲を覚えている海外のファンもたくさんいますね。

H:もちろん日本語の歌詞を覚えてくれる海外のファンがいるのは知っているし、とてもありがたい存在だとは思うけれども、僕たちが今後何十年と活動を続けようと、その数は増えないと思うんですよ。少なくとも自分には増やせるという自信がない。特に英語圏において、英語以外の歌詞で売れ続けている曲はほとんどないのではないかな。たまに一曲だけ爆発的に売れるということはあるかもしれないけれど、僕やK.A.Z君は、イギリスやアメリカの音楽を幼いころからずっと憧れて聴いてきたから、そのアーティストたちと同じ位置に立ちたい。外国人アーティストとして紹介されるのではなく、僕らの曲がイギリスのラジオで普通に流れているようになりたいから。

英語は日々練習しているのですか。

H:日常会話に関しては渡英する度に「ヤバいな」といつも焦っていて。英語の歌詞を歌うことに関しては、厳しい指導をガンガン受けています。レコーディング作業ではもう本当に泣きそうになりながら、新人のときみたいな気持ちで歌っているんですよ。

音楽活動において、日英ではどんな違いを感じますか。 特に英国の野外フェスなどでは機材の環境も十分に整っていないことが多いと思うのですが。

H:最初にロンドンでレコーディングしたときに使ったスタジオにろうそくが置いてあったのには驚いたなあ。夜になったら「雰囲気づくりのために」と言って、ろうそくに火をつけるんですよ。日本ではちょっとあり得ない。あとはスピーカーの上にコインを置くことで振動の仕方を確認するエンジニアがいて、いや発想が違うなと思いました。

K:ライブなどでは「きちんと機材をそろえた上で聴かせることができたら」と思うことはもちろんあるけれど、特に野外フェスではたくさんのバンドが出演するので、制約があるのは仕方ないとは思います。僕たちはそこで勝負しないとならないわけだから。コンパクトな機材で弾いてみたら、いつもと違う音で逆に新鮮に感じることもありますしね。

ロンドンにいらっしゃる際に、オフの日はどんなことをされているのですか。

H:僕は昔からロンドン・ダンジョンが好きでね。20年ぐらい前に初めて渡英して以来、もう何度も行っています。目立つからなのかどうか知らないけど、行く度に何か特別なことをさせられる。「そこの日本人!」みたいな感じで呼ばれて、首切られたりするんですよ(笑)。

K:僕はこっちの友達とカフェに行ったりとか、買い物に出掛けたりとか。遠出することもあるのですが、案内してくれる友達に任せきりだから、結局どこに行ったかさっぱり分かっていない(笑)。

好きなイギリス人ミュージシャンを教えてください。

H:イギリスのロック雑誌のインタビューで、同じ質問に対して「カジャグーグー」って答えたら大笑いされましたよ。なんでロックの雑誌でアイドルなんだよって。ただ僕は彼らをアイドルとして見たことがなくて。あとはデペッシュ・モードかな。彼らも最初はアイドルだったからね。ちょうど僕らが中学生のころにMTVが開局して、ニュー・ウェーブの音楽が日本にも入ってきたから、彼らには憧れましたね。

K:イギリスというかアイルランドになってしまうけれど、U2かな。斬新で、ほかのバンドでは絶対出さない音を出すから。

海外展開についての難しさは実感されていますか。また「海外でライブを行う日本人ミュージシャン」になることを夢見る若者たちにもぜひ一言ください。

H:海外展開については、それは難しい。日本では同じ業界に先輩が山ほどいて、その先輩たちが行ってきたことをアレンジしながら進んでいけるけれど、海外だと前例がほとんどないから。でも、難しいけれども夢がある。宝くじを買うような感じに似ているのかな。くじは買わないと当たらないからね。

K:若者の夢に関して言えば、僕自身は夢をあきらめきれないから今もやっているのだと思うし、往生際がただ単に悪いだけなのかも。ただやっぱりあきらめた時点で目標は終わってしまうから。だからといって、他人に対しては「あきらめるな」とは言いにくいですけれどね。まあ一緒に頑張りましょう(笑)。

VAMPSの海外公演には、日本からやって来るファンもたくさんいますね。

H:その気持ちはうれしいけれど、事故に巻き込まれなければいいなとはいつも思います。海外の公演では、結構ヘビーな場所にも行くから。あとは海外までは足を運ぶことのできない日本のファンにも僕らは支えてもらっている。僕たちはその事実を忘れたら駄目だと思います。自分たちのファンがいるから、僕らは世界に向けて思い切りジャンプできるのだから。

 

ライ Rye「本当の英国」を感じる地方の旅

「本当の英国」を感じる地方の旅 ライ

ライ今年は晴天が続く見込みと言われている英国の夏。つまり、これから英各地をめぐるには絶好の季節を迎える。

今回は、イングランド南東部にあるライを特集。古い歴史が今も生き続ける景色の間を海風がそっと吹き抜ける、この小さな街をめぐる旅を紹介する。

ロンドンからのアクセス:
キングス・クロス・セント・パンクラス駅、チャリング・クロス駅、ロンドン・ブリッジ駅などから列車で約1~2時間(ヘイスティングスやアシュフォードを経由)

ライってどんな街?

かつて海に面していたライは港町として繁栄していた。「岸辺」「魚市場」「人魚」といった、この街が海に面していたことを示す通り名がたくさんあるのはそのためだ。

13世紀前半までフランスの支配下にあったこの地をヘンリー3世が取り戻し、特権港に指定。ライの住人たちに海岸線の防衛を担うことを命じるのと引き換えに、免税や自治を認めた。14世紀前半に、主に高級品に対して関税がかけられるようになると、この地域には密輸業者が跋扈(ばっこ)するようになる。やがて海岸線が後退して港町としての機能が失われたことに加えて、フランスやスペインからの攻撃、黒死病の流行などの被害を受けて、この街や周辺の地域は没落していく。その後はまるでときが止まってしまったかのように発展を止めたため、街の至るところには、いまだ中世の趣が残っているのだ。

ゆっくり歩いても数十分で街全体を一周できてしまうほどの小さな街なので、ロンドンからの日帰り旅行には最適。廃墟のような佇まいの塔や城門、小石が敷き詰められた小道と、その脇に並ぶチューダー様式の建物を眺めれば、思わずタイムスリップしたかのような気持ちにとらわれてしまう。またアンティーク・ショップが軒を並べる河沿いでの買い物も楽しめるはずだ。

ライの地図
ライの地図

1〜4ライだけのものを求めてお買い物

せっかく遠出しても、視界に入ってくるのはロンドン市内でも見かける店ばかりというときほどがっかりすることはない。だが、ライではチェーン店らしきものが見当たらない。各店の店内には、ライだけでしか見つけることのできない宝物がたくさんあるのだ。

1〜5タイムスリップした気分になれる街歩き

歴史的建築物についての知識を事前に仕入れておけば、ライという街の散策がより楽しくなる。ホテルやカフェにまで古い逸話がたくさん残されているこの街を歩いていると、過去の偉人や風景が目の前に立ち現れてくるような錯覚さえ覚えてしまう。

 

 

1〜4絵葉書のような街並みを楽しむ街歩き

1駆け落ち先からギャラリーに
Rye Art Gallery ライ・アート・ギャラリー

Rye Art Gallery常設・特別展の開催及び展示物の販売を行っているギャラリー。この建物の一部は、1890年代にこの街に駆け落ちし、街の中心に立つ聖メアリー教会で結婚式を挙げたアーティスト同士が暮らした家だったそう。ギャラリーには絵画、彫刻、陶器などが展示されている。

写真)ギャラリーに入ってすぐが販売エリア、奥が展示スペースとなっている

107 High Street, Rye, East Sussex TN31 7JE
Tel: 01797 222433 無料
販売エリア: 10:30-17:00(日は12:00-16:00)
展示エリア: 木~月10:30-13:00、14:00-17:00(日は12:00-16:00)
www.ryeartgallery.co.uk

2店内で織る姿が見られる
Plaristo Gallery プラリスト・ギャラリー

家族経営の編み物販売店兼アトリエ。店内の奥に置かれた織機を使って、日々作業が行われている。この店で織られ染められたラグやカーペット、靴下などに加えて、天然繊維を使用した毛糸玉といった商品を販売。また光るガラスやろうそくなど、店内には色彩豊かな商品が並ぶ。

Plaristo Gallery
写真左)鮮やかな色合いの商品ばかり。天然繊維を使った織物は優しい触り心地がする
写真右)店内に置かれた織機。作業している姿を見ることも可

55 The Mint, Rye, East Sussex TN31 7EN
Tel: 01797 222802
9:00-17:00
www.plaristo.com

3品数の豊富さは圧倒的
The Quay Antiques and Collectables
ザ・キー・アンティークス・アンド・コレクタブルス

The Quay Antiques and Collectables日本語で「岸辺」を意味するストランドの一画に軒を並べるアンティーク店の一つ。どの店も個性豊かな空間づくりをしているが、この店の無造作に置かれた品数の豊富さは圧倒的だ。用途さえよく分からないような不思議なものがたくさん置かれた空間は、まさに異次元の世界。

写真)店内には混沌とした独特の世界が広がっている。奥では商品の修繕作業を行う人の姿も

6-7 The Strand, Rye, East Sussex TN31 7DB
10:00-17:30
Tel: 01797 227321

3廃れた家具の再生工場
Halcyon Days ハルシオン・デイズ

Halcyon Days真っ白な扉を開ければ、白いペンキの容器がいっぱい。「チョーク・ペイント」と呼ばれる滑らかでつやのある特製の白ペンキを使って、各地の廃棄物入りコンテナや蚤の市で見付けた古びた家具を美しく再生させるというビジネスを営んでいる。再生させた家具やペンキなどを購入可。

写真)この店の目玉商品でもある、目が覚めるような真っ白なペンキで塗られた外観

Strand, Rye, East Sussex TN31 7DB
Tel: 01797 225543
10:00-17:00
www.halcyon-days-rye.co.uk

 

 

1〜5タイムスリップした気分になれる街歩き

1小さいながらも見所がたくさん
Church of St Mary 聖メアリー教会

Church of St Mary教会内にある鮮やかなステンド・グラスを眺めたら、入り口近くにある84段の階段を上ることをお勧めする。イングランドの教会で使われているものとしては最古の時計を見た後で、はしごのような細い階段を上って、8つの大きな鐘の保管場所へ。そのさらに上に行けば、街全体を見晴らす展望台に出る。

Church of St Mary
(写真右)聖メアリー教会のステンド・グラスは
比較的最近になって製作された
(写真上左)イングランドの教会に置かれているものとしては最古とされる時計
(写真上右)鐘が置かれた部屋

Church Square, Rye, East Sussex TN31 7HF
Tel: 01797 222318
無料(塔は£2.50)
9:15-17:15(冬季は16:15まで)
www.ryeparishchurch.org.uk

2外国軍の侵入を防ぐ要塞
Ypres Tower イプラ・タワー

1249年に要塞として建てられ、その後は個人宅や牢獄として使われた塔。内部では拷問に使った機具や、密輸業者たちが船への合図に使ったちょうちんなどが展示されている。非常に小さい施設なので、内部の見学は数十分で済んでしまうはず。大砲が設置された、塔の南側の公共スペースから見渡す景色も美しい。

Ypres Tower
写真左)威圧感のある外観だが内部は意外と狭い。聖メアリー教会のすぐ裏手にある
写真右)聖メアリー教会の南側の小道にはチューダー様式の建物が並ぶ

Gun Garden, Rye East Sussex TN31 7HH
Tel: 01797 226728
10:30-17:00(冬季は10:00-15:30)
£3
www.ryemuseum.co.uk/home/ypres-tower

3密輸業者たちの溜まり場だった
The Mermaid Inn マーメイド・イン

小石が敷き詰められたマーメイド・ストリートの中央にあるパブ兼ホテル。地下には創業年である1156年につくられた貯蔵室が現存している。かつてこの街のすぐ近くにまで海岸線があった時代に跋扈した密輸業者たちの溜まり場として使われていたのだという。暖炉と深紅のじゅうたん、白い天井に交差する黒い梁で構成された内部は中世の雰囲気たっぷり。

The Mermaid Inn
写真)宿泊客でなくともパブを利用可。またこのホテル内の各所では幽霊が出るとの噂も

Mermaid Street, Rye, East Sussex TN31 7EY
Tel: 01797 223065
一泊£90~
www.mermaidinn.com

4米作家ヘンリー・ジェームズの住み家
Lamb House ラム・ハウス

Lamb House歴史的建築物を保存する団体ナショナル・トラストが所有する建物。この家を建造させたワイン商人の名字を取って名が付けられた。「ねじの回転」などの名作を残した米国人作家ヘンリー・ジェイムズが暮らした家として知られており、彼はこの家でH・G・ウェルズやジョセフ・コンラッドといった英作家たちとの交遊を深めたという。

写真)ヘンリー・ジェイムズが暮らした家は、聖メアリー教会に続く道の上にある

West Street, Rye, East Sussex TN31 7ES
Tel: 01580 762334
£5
火・土14:00-18:00(冬季は閉館)
www.nationaltrust.org.uk/lamb-house

Landgate5ライ版「兵どもが夢の跡」
Landgate
ランドゲート

街の西端にある大きな門。1329年に当時のイングランド王であったエドワード3世が、街の要塞化を強化するために資金を与えて4つの門をつくらせた。このうち唯一現存するものがこのランドゲートであり、かつては落とし格子や跳ね橋も付設されていたという。入場することはできないが、門の上部の内側には部屋がある。

写真)今でもこの門の下を人や自動車などが通過している


 

ライの食

1Fletcher's House Tearoom and Restaurant

Fletcher's House Tearoom and Restaurant聖メアリー教会の目の前にあるカフェ&レストラン。シェイクスピアに匹敵する才能の持ち主と言われたライ出身の劇作家ジョン・フレッチャーの生家であり、黒い梁がむき出しになった天井にティー・カップが吊り下げられているインテリアは一見の価値あり。奥にはテラス席があり、日替わりメニューとなる自家製のスープは美味。

2 Lion Street, Rye, East Sussex TN31 7LB
Tel: 01797 222227 水~月10:00-17:00
www.fletchershouse.com

2Ye Olde Bell Inn

Ye Olde Bell Inn15世紀に建造された建物内にあるパブで、かつては密輸業者たちがたむろしていた。店名は、14世紀後半にこの街を襲撃したフランス人たちが聖メアリー教会の鐘を盗んだという逸話から付けられたもの。地元で生産された食材を調理したサンデー・ローストやタパス、サセックス地域のエール・ビールを提供している。

33 The Mint, Rye, East Sussex TN31 7EN
Tel: 01797 223323
11:30-23:00(日は11:00から)
www.yeoldebellrye.co.uk

3Knoops

Knoopsチョコレート・ミルク・シェイクとホット・チョコレートの専門店。暑い日には、近隣でこの店のシェイクを飲んでいる通行人を絶えず見かけるほどの人気ぶり。シェイク内のチョコレートの含有率に加えて、同じチョコでもダークかホワイトか、各種フルーツのすり下ろしをトッピングするかどうかなどを好みに合わせて選択できる。

Tower Forge, Hilders Cliff, Rye
East Sussex TN31 7LD
Tel: 01797 225838
10:00-18:00
www.knoops.co.uk

4The Apothecary Coffee House

The Apothecary Coffee House17世紀にロンドンで流行したコーヒー・ハウスの雰囲気を再現したカフェ。また「薬局」を意味する店名が示唆する通り、薬箱をインテリアとして活用するなどの趣向が凝らされている。オリジナル・ブレンドのコーヒーやアフタヌーン・ティーで一服するには便利。サンドウィッチやペストリー類も充実している。

1 East Street, Rye, East Sussex TN31 7JY
Tel: 01797 229157
9:00-17:00
www.apothecaryrye.co.uk

ライ近郊の街

ライは海と田園地帯に囲まれているため、周辺をドライブするのも楽しい。またライの街自体は非常に小さくすぐに一周できてしまうため、朝早くから出掛けた場合は、隣町へと出掛けるのも良いだろう。バスは1時間に1本の頻度で運行している。

 

ライと並ぶ歴史的な街
Winchelsea ウィンチェルシー

Camber Sands13世紀後半に街全体が海の中へと沈んでしまった後に、ときの国王エドワード1世の勅令によって再建されたという街。周囲には、英国の国民的画家であるJ・M・ウィリアム・ターナーが描いた田園風景が広がる。街の中心にひっそりと立つ聖トーマス教会や、かつて砦として使われていたストランド・ゲートなどが見所。
100番のバス(Conquest Hospital行き)で約10分


「金の砂」の美しさは見事
Camber Sands カンバー・サンズ

Camber Sandsライの南東側に位置する一帯で、ロンドンから日帰りで行ける範囲では最も美しい海辺の一つとして知られている。イースト・サセックス地域で唯一の砂丘があり、「金の砂」と形容される美しくそして広い砂浜は絶景。ウィンド・サーフィンやカイト・ボーディングなどの水上スポーツはもちろん、砂浜では乗馬なども行われている。
100番のバス(Lydd Camp行き)で約10分


 

ケンブリッジ・ファイブの二律背反

ケンブリッジ・ファイブの二律背反

誰が味方で誰が敵なのか――権謀術数渦巻く20世紀半ばに暗躍した
4人の英国人スパイたち。
彼らの正体が明らかになったとき、英国内が大いに揺れたのは、
彼らの生まれ育った背景にあった。
裕福な家庭の出身で、名門パブリック・スクールを経て
ケンブリッジ大学を卒業した同窓生たち。
そんな彼らがなぜ、ソビエト連邦のスパイに自らの人生を捧げたのか。
英国の現在にもつながる当時の時代背景を知ることで、その理由をたどってみたい。

1930年代のエリート学生が見た現実

1956年2月11日。ソ連・モスクワのホテルの一室で、ジャーナリストたちを出迎える2人の男性の姿があった。ドナルド・マクリーンとガイ・バージェス。1951年に英国から突如姿を消し、メディアを騒がせた外交官2人が、5年の年月を経てついに公に姿を現わした瞬間だった。ジャーナリストに手渡された共同声明文には、自分たちがスパイではないと主張する一方で、ソ連に対する共感を示し、イングランドを去ってソ連に来たのは、「ロシアにのみ、自らの信念を何らかの形で実現する機会がある」と信じたからだと訴える言葉。これが後に「ケンブリッジ・ファイブ*」と呼ばれることになるケンブリッジ大学を卒業したスパイたちの全貌があぶり出される序曲となる。

ドナルド・マクリーン、ガイ・バージェス、キム・フィルビー、アンソニー・ブラント。第二次大戦から冷戦期にかけて、ソ連のスパイとして活動していた英国人4人に共通していたのは、いずれも中流階級以上の恵まれた環境に育ち、同時期に英国最高峰の大学、ケンブリッジ大学で学び、MI5(保安局)やMI6(秘密情報部)、外務省といった情報・外交当局の中枢で活躍した生粋のエリートたちであるという点だった。本来ならば国を背負って立つはずの彼らがなぜ、よりにもよって共産主義国家のソ連に機密情報を渡していたのだろうか。

Tinity College
1932年、ロンドンのトラファルガー広場に集まる
ハンガー・マーチ参加者たち

英国全土を覆った不況の影

この謎を解き明かす一つのキーワードが「不況」だ。1929年10月には米ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。世に言う世界恐慌が始まった。英国にも不況の嵐が吹き荒れ、一時は300万人近くの失業者が出たとされる。国内各地で失業者や低所得家庭出身者たちを中心にハンガー・マーチ(飢餓行進)が行われ、ケンブリッジでもその姿を見ることがあったという。裕福な家庭に生まれ育ったケンブリッジ大学の学生たちにとっては、貧困を肌で感じ、資本主義の崩壊を予測させる衝撃的な光景だったのかもしれない。

労働党の「裏切り」

1929年、英国で行われた総選挙で労働党が初めて第一党となり、同党による単独政権が誕生した。しかし緊縮財政を敷いたことなどから1931年に内閣は分裂・崩壊。その後、首相のマクドナルドは保守党、自由党とともに挙国一致内閣を発足させた。こうした労働党本来の主義・思想から離れた動きは、理想に燃える左派の若者の目には、「裏切り」とも映った。若いころから「強く、裕福で、傲慢な人々に比べ、弱く、貧しく、恵まれない人々に対して深い精神的つながりを感じていた」というフィルビーは、労働党の社会主義に対する「裏切り」が、労働党に代わる存在、すなわち共産主義へと自らを導いたと語っている。

ファシズムに対抗する唯一の手段

アドルフ・ヒトラーとニート・ムッソリーニ
左)ナチス・ドイツを率いたアドルフ・ヒトラー
右)イタリア・国家ファシスト党のベニート・
ムッソリーニ

1933年、ドイツでアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を獲得。イタリアでは国家ファシスト党のベニート・ムッソリーニが独裁体制を確立していた。英国でも1932年に結成された英国ファシスト連合が保護貿易主義などを謳い失業者や労働者にアピール。党員には貴族や軍人なども多かった。また、着々と領土拡大を進めていたナチス・ドイツに対し、英国政府は戦争回避のために宥和政策(ゆうわ)をとり続けていた。こうした流れに対し、当時の高学歴の若者たちの間には、ファシズムに対抗できる唯一の手段として共産主義を信奉する者が多かったという。ブラントは晩年、「1930年代半ばには自身も同世代の多くの若者たちも共産党とロシアだけがファシズムに対抗する確固たる防波堤に見えた」とし、スパイになった理由を「国への忠誠」か「政治的良心」のうち、「良心を選択した」結果だと主張した。

システムの主軸から外れた指向

1930年代、同性愛は罪とされていた時代にあって、パブリック・スクールや名門大学では同性愛が「公然の秘密」として存在していた。公になれば身の破滅、しかし表立って分からなければ問題がない。そして卒業すれば今度は同性愛者を取り締まる側になる――そんな欺瞞とも偽善とも言える状況があった。ケンブリッジ・ファイブ4人のうち、バージェスとブラントは同性愛者、そしてマクリーンは両性愛者だったと言われている。その性的指向が実際にどの程度彼らの決断を左右したかは定かではないが、真実の姿を隠して生きていくという生活を強いられていたのは確かだろう。また、フィルビーは幼いころから無神論者で祖母を嘆かせ、早い段階から社会的弱者への共感を高めていたとされる。望むと望まざるとにかかわらず、彼らは支配階級にいながらしてシステムの主流からは一歩外れた場所に生きた人間だったと言えるのかもしれない。

Tinity College
ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジ

当時、ソ連の情報機関・秘密警察であるソ連国家保安委員会(KGB)は、将来、英国を動かすことになる才能豊かな若者を英国内の名門大学で「青田買い」することに注力していた。多感な大学生時代に共産主義やソ連への共感を強めていた4人は、恰好の漂的となったことだろう。

大学という象牙の塔を出て、第二次大戦、冷戦という激動のときをスパイという立場で生きた彼らの信念は、現実を目の当たりにして揺らぐことはなかったのだろうか。第二次大戦では英・ソはともに連合国側であったことから、国を裏切るというよりも、自らの信じる道を突き進んだという意識の方が強かったのかもしれない。しかしその一方で、当時のKGBの記録には、KGBが彼ら4人を英国のスパイなのではないかと疑い、その素性を明らかにしようとやっきになっていた様子が記載されている。家族や友人、同僚を欺き、仲間からは疑われる日々。そして1951年にマクリーンがスパイであることを英当局に感づかれ始めたことから連鎖的に4人の正体が明かされていき、ブラント以外の3人はソ連へと亡命。ブラントは英国内で衆目にさらされることとなる。

ソ連にわたった3人は、その後の人生を彼の地で過ごした。「生まれ変わってももう一度同じ人生を送る」とうそぶく者がいれば、「人生の最大の間違い」とスパイとしての生き方を悔いた者もいたという。欺瞞に満ちた半生を送った彼らの心の奥底に最後に残ったものが何なのか、公になった様々な言葉や証拠も、その真実を明かしてはくれない。ただ、時代の波が青い理想に燃える若者たちをスパイの道へと進む後押しをしたとは言えるのではないだろうか。そして、不況、政権への不信、極右の台頭と時代は繰り返し、冷戦は終わりこそすれ世界各地でテロリズムが跋扈(ばっこ)する現在、彼らの歩んだ人生は、遠い昔に起こった別世界の物語であるとは言い切れないのだ。

*ケンブリッジ・ファイブと呼ばれているが、5人目については公に認められておらず、数人の名が挙がっている


ケンブリッジ・ファイブ
重なり合い、離れゆくそれぞれの人生


ドナルド・マクリーンソ連になじんだ外務省エリート
ドナルド・マクリーン

Donald Duart Maclean
1913-1983


大物政治家の息子として生まれ、大学卒業後は外務省に勤務。スパイとして活動しているうちに精神的に追い詰められていったものの、ソ連に亡命後には同地になじみ、英国外交の専門家として活躍した。

1913年、ロンドン生まれ。父親は自由党の政治家で影の首相を務め、マクドナルド挙国一致内閣でも活躍したドナルド・マクリーン。リベラルで進取の精神にあふれた学校として知られたグレシャムズ・スクールを経て、1931年にケンブリッジ大学のトリニティー・ホールへ入学、専攻は現代語。最終学年のとき、アンソニー・ブラントによりソ連の諜報部に勧誘されたと言われる。

卒業後は外務省へ。ソ連側のスパイ管理者の女性と恋愛関係に陥り、数年にわたり関係を続けたが、1940年には裕福な米国人女性メリンダ・マーリングと結婚。スパイの中には家族にもその真相を明かさない者も多いが、メリンダは共産主義者との親交もあり、マクリーンは自身の立場を伝えていたという。

1938年、在仏英大使館書記官に。その後ロンドン勤務を経て、1944年から48年まで在米英大使館の一等書記官として働く。後半には原子力爆弾開発計画に関する英米の合同政策委員会に所属し、原爆関連の情報をソ連に流していたと言われている。その後は在エジプト英大使館参事官に任命されたが、このころから飲酒量が増え、精神的にも不安定な部分が見られるようになったという。

1951年、外務省米国課長としてロンドンに滞在しているときに、スパイ容疑者の一人として名が挙がる。機密文書へのアクセスも禁じられる中、同年5月25日、38歳の誕生日当日に、バージェスや家族と食事をした後、バージェスとともにサウサンプトンからパリ経由でソ連へ向かった。当局の尋問が予定されていた実に3日前のことだった。

ソ連ではロシア語を学び、西側諸国の経済政策及び英国外交の専門家として活躍、ソ連外務省や世界経済・国際関係研究所などに勤務した。労働赤旗勲章及び戦闘勲章を受勲し、ソ連共産党にも入党する。

妻のメリンダと子供たちはマクリーンの亡命後1年以上経った後にソ連へやって来たが、1964年、メリンダとフィルビーの不倫が発覚。その後、フィルビーは妻と離婚したものの、メリンダは2年後にマクリーンの元に戻る。1983年に心臓発作で死去した。


ガイ・バージェス最もスパイらしくないスパイ
ガイ・バージェス

Guy Francis de Moncy Burgess
1911–1963


友をして「うるさく、飲んだくれでだらしがなく、人の注目を集めるのが大好き」と言わしめたガイ・バージェスは、「最もスパイらしくないスパイ」と言われた異色の人物だ。派手な交友関係を持ち社交的だったバージェスは、それゆえにソ連での亡命生活にはなじめず、故郷を懐かしんでいたという。

イングランド南西部デボン出身。海軍将校を父に持つバージェスは、イートン・カレッジを経てダートマスの海軍兵学校に通っていたものの退学。その後ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに進み、近代史を学んだ。在学中は、ブラントとともに同大のエリート・グループ「ピット・クラブ」及び秘密結社「アポスルズ(使徒会)」*下記参照)のメンバーとして活動していた。

スパイになったタイミングと経緯については他メンバー同様、いくつかの説があるが、1934年ごろにはナチス寄りの立場をとる団体に加入していたことなどから、このころには隠れ蓑として右翼活動に従事しつつ、スパイとして活躍していたのではないかとみられる。

大学卒業後は保守党議員のアシスタントとして働いた後にBBCに入社。その後、MI6の秘密工作活動を専門とするセクションDに勧誘され、プロパガンダ専門家として働くも、間もなくBBCへ戻り、ラジオ・プロデューサーとして政治ラジオ番組など様々な番組を制作。このころ、政府要人との知己を得た。

ロンドンでは、戦時中、ボヘミアンの拠点の一つとして知られたロスチャイルド卿所有のフラットでブラントやテレサ・メイヤー(後のロスチャイルド卿の妻)と同居していたことも。バージェスとブラントがともに同性愛者だったこともあり、2人が一時恋愛関係にあったとする向きもあるが、ブラントはその噂を否定している。

1944年には外務省の情報部に所属。翌年には同省の外交担当大臣のアシスタントとして働くようになった。同省極東局に勤務した後、二等書記官としてフィルビーが勤務する在米英大使館へ。ワシントンではフィルビーと同じフラットに同居していた。1951年5月、スパイ容疑がかかっていたマクリーンをソ連に亡命させるため、3回の交通違反を意図的に行い、英国に送還された上でマクリーンに会い亡命計画を伝達。バージェス自身に疑惑がかけられていたわけではなく、当初亡命するのはマクリーンのみの予定だったが、ソ連側に指示されてともにソ連へわたったとされる。

派手な生活を好んでいたバージェスは、ソ連でも英国風の生活を続けた。ロンドンから家具を運ばせ、オーダーメイド紳士服店の集まるサヴィル・ロウのスーツを注文していたという。ホームシックにかかり、飲酒癖はさらに悪化。英国の代表団がモスクワを訪れた際には、母の死に目に遭いたいと英国への帰国を願い出たがかなわず、52歳で死去。遺体はイングランド南部ハンプシャーにある母親の墓に入れられた。


キム・フィルビーMI6長官候補にまでなった野心家
キム・フィルビー

Harold Adrian Russell (Kim) Philby
1912–1988


ソ連のスパイでありながら英国諜報機関のトップであるMI6の長官候補にまで上り詰めたキム・フィルビー。自らの正義を貫くために独裁者のそばで働くことも厭わなかった強い信念の持ち主は、一方で4度の結婚を経験し、友でありスパイ仲間であるドナルド・マクリーンの妻とも関係を持つ恋多き男でもあった。

1912年、英国領インド帝国のアンバラ生まれ。父のセント・ジョン・フィルビーはイスラム教に改宗した高名な作家にしてインド高等文官で、サウジアラビア国王の側近としても活躍した人物。名門ウェストミンスター・スクールを卒業後、1929年にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学し、歴史及び経済学を専攻。在学中に同地で行われたハンガー・マーチに参加するなど政治活動に熱心だったという。

卒業後、オーストリアでナチス・ドイツからの亡命者の救援活動を行っていたときにユダヤ系の共産党員リッツィー・フリードマンと出会い、結婚。ファシズムの台頭により、数カ月後にはリッツィーを連れて帰国した。一説によるとフィルビーは、ロンドン在住のリッツィーの友人であったソ連の諜報員経由でスパイになったとされる。

1937年にはジャーナリストとして内戦まっただ中のスペインへ。やがて「タイムズ」紙の記者となり独裁者フランコ寄りの記事を執筆するようになる。1940年にバージェスが所属していたMI6のセクションDで働き始めたフィルビーは、1944年、対諜報部門セクションVのトップにまで上り詰めた。

1949年には在米英大使館に一等書記官として赴任。MI6と米中央情報局(CIA)の渉外担当責任者としても活動した。翌年にはバージェスが同大使館での勤務を開始し、フィルビー宅に同居するように。大酒を飲み、素行に問題のあったバージェスを監視する意味合いもあったと言われている。着々とMI6内での足場を固め、末は長官候補とも目されていたフィルビーだったが、マクリーンにスパイ容疑がかかっていることを知り、バージェスとともにマクリーンをソ連に亡命させたころからその人生に綻びが生じ始める。

自らもスパイ容疑をかけられたフィルビーは、解雇される前にMI6を去り、1956年にはジャーナリストとしてレバノンへ。しかし1961年、米国に亡命した元KGBにより身元を暴露され、1963年1月、ソ連へ亡命した。

ソ連では当初、フィルビーが英国に戻ることを恐れた当局により軟禁状態に置かれたが、10年後からはKGBで勤務するように。ソ連政府から数々の勲章を受けた。同地でも「タイムズ」紙を読み、BBC放送を聞き、クリケットを愛し続けたフィルビーは、晩年に行われたインタビューでは自分の決断を後悔してはいないと語ったが、当時のロシア人の妻は後に、彼がモスクワで「色々な点に失望していた」ことを明かしている。1988年に心不全で死去。


アンソニー・ブラント王室と深くかかわった美術史家
アンソニー・ブラント

Anthony Frederick Blunt
1907–1983


パブリック・スクールのころからエリート・グループの一員になるなど才気の片鱗を垣間見せ、英王室とも深いかかわりを持っていたアンソニー・ブラント。他の3人と異なり、仲間の名を明かして身を守り、英国に留まり続けたブラントは、偽りの人生を生きるスパイの中でもその真情が見えにくい人物である。

イングランド南部ハンプシャー出身。父は教区牧師。母はエリザベス女王の母、クイーン・マザー(エリザベス・ボーズ=ライアン)の親戚筋に当たり、幼いころはロンドンのボーズ=ライアン家でお茶を楽しむなどしていたという。名門マルボロー・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティー・カレッジへ入学(現代語専攻)。在学中はバージェスとともに「ピット・クラブ」「アポスルズ」に所属していた。卒業後も特別研究員として同大学に留まり、KGBのスカウトマンとして何人もの学生をスパイに勧誘したとされる。ブラントがスパイとなった経緯については、同大の特別研究員としてソ連を訪ねたことがきっかけで勧誘されたとする説もあるが、ブラント自身はバージェスに誘われたと語っている。

1939年、英国陸軍の諜報部隊で活動した後、1940年にはMI5に勧誘される。MI5では解読されたナチス・ドイツ軍のエニグマ暗号文の情報をソ連側に渡すなどしていたという。

1945年にジョージ6世の絵画鑑定士となり、同国王崩御後はエリザベス女王の元でも活動を続け、27年にわたり同職に留まった。1947年にはロンドン大学美術史教授及びコートールド・インスティテュート・オブ・アートのディレクターになり、美術史家としての地位を確固たるものにした。

1951年にマクリーンとバージェスがソ連に亡命すると、親交のあったブラントもスパイとして疑われるように。MI5の度重なる尋問に対し、否認を続けていたが、1963年に、かつてブラントがスパイに勧誘した米国人のマイケル・W・ストレートがMI5に対し、ブラントがスパイであることを暴露。翌年、自らもそれを認める。その際に複数のスパイの身元を暴露することで、15年間はスパイであることを非公式にされるとともに訴追免責の特権を与えられた。

驚くべきことにブラントは、その後も女王の絵画鑑定士を続けるなどそれまでとさほど変わらぬ生活を送る。しかし1979年に作家のアンドリュー・ボイルが、ブラントが「第4の男」であることを示唆する著作を出版するのを差し止めようとしたことがメディアにすっぱ抜かれたことから事情が一転。同年11月にはときの首相、サッチャーが下院でブラントの名前を公表した。このニュースは世間を大いに騒がせ、1956年に受勲したロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・コマンダー(2等)ははく奪。しかし美術史家としての活動は続けた。

晩年、ソ連のスパイだったことは「人生最大の間違い」と供述。1983年、ロンドンの自宅で心臓発作により死去した。

 

「第5の男」とその他のスパイたち

ブレッチリー・パーク
ケアンクロスが勤務していた政府の暗号学校
「ブレッチリー・パーク」

ケンブリッジ・ファイブのうち、これまで公に認められているのはマクリーン、バージェス、フィルビー、ブラントの4人。5人目に関しては、複数の関係者が4人と同時期にケンブリッジ大学に在籍していたジョン・ケアンクロスであると主張している。ケアンクロスはバージェス、ブラントとともに「アポスルズ」のメンバーで、卒業後、第二次大戦中にはエニグマ暗号解読などを行った政府の暗号学校「ブレッチリー・パーク」などで勤務した。

ケアンクロス以外にもスパイとして疑われていた人物は複数おり、アポスルズでバージェスらと親交を深め、卒業後も長年友人関係を保っていた名門ロスチャイルド家のロスチャイルド卿や、同じくバージェスらの友人だったMI5の副局長、ガイ・リデルらの名が挙がっていた。

自由や美を謳歌した「アポスルズ(使徒会)」

ブルームズベリー・グループ
ケアンクロスが勤務していた政府の暗号学校
「ブレッチリー・パーク」

ケンブリッジ大学のキングス・カレッジ、トリニティー・カレッジ、セント・ジョンズ・カレッジなどの学生たちからなる創立1820年の秘密結社。もともとは討論グループとして始まり、創立メンバーが12人であったことから「十二使徒」にちなんでこの名が付けられた。バージェスとブラント、そして5人目の男とされるケアンクロスが同グループのメンバーだった。

同性愛者や両性愛者のメンバーが多く見られ、また第一次大戦時には良心的兵役拒否の立場をとる者もおり、旧態依然とした価値観に対抗し、自由や美を謳歌した。20世紀初めには作家のE・M・フォースターや経済学者のジョン・メイナード・ケインズらそうそうたる人材が集結。彼らはやがて、ヴァージニア・ウルフらとともに文学者や芸術家らの集まりを結成、ブルームズベリー・グループと呼ばれるようになる。

スパイが活躍する英国映画&テレビ・ドラマ

007シリーズのジェームズ・ボンドを始め、英国では今でもスパイ映画の人気は高い。ここでは、ケンブリッジ・ファイブが活躍した時代を描いた映画、テレビ作品を紹介する。

Another Country アナザー・カントリー

1981年の芝居を映画化した作品で、主人公はバージェスをモデルにしている。パブリック・スクールを舞台に、同性愛者であるガイ・ベネットと、マルクス主義者のトミー・ジャッドを中心とした人間模様を描く。脚本を手掛けたジュリアン・ミッチェルは、1930年代のエリート学生がスパイになる理由として、当時の政治・経済情勢とともに同性愛者であったことに着目、そこから話を展開させたと語っている。
(Marek Kanievska) Rupert Everett, Colin Firth, Cary Elwes

Tinker, Tailor, Soldier, Spy 裏切りのサーカス

スパイ小説家ジョン・ル・カレの「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」を映画化。冷戦下、MI6(サーカス)に入り込んだソ連KGBの二重スパイ「もぐら」の正体を突き止めるために奔走する諜報部員らの姿を追う。この「もぐら」のモデルはフィルビーであると言われている。原作者のル・カレは、MI5及びMI6に勤務していた経歴を持っている。
(Tomas Alfredson) Gary Oldman, Colin Firth, Tom Hardy

Cambridge Spies ケンブリッジ・スパイズ

BBC制作のミニ・ドラマ・シリーズ。全4話。ケンブリッジ・ファイブ4人の学生時代から、1951年にマクリーンとバージェスがソ連に亡命するまでの期間を網羅している。すべてが実話というわけではなく、若き青年たちが苦悩し、理想を追い求め、追い詰められていく様子をドラマティックに描いている。
(Tim Fywell) Tom Hollander, Toby Stephens, Samuel West

参考文献: Twentieth-Century Spies (Neil Root), Anthony Blunt: His Lives (Miranda Carter), My Silent War (Kim Philby), BBC Archive, Daily Telegraph, Another Country (2013 Theatre Programme), 図説「イギリスの歴史」(河出書房新社)など

 

ウィンブルドン選手権を支える黒子役たち - ボール・ボーイ / ガールのコーチ、芝の管理人、博物館職員

ウィンブルドン選手権を支える黒子役たち

テニスの世界4大大会の一つであるウィンブルドン選手権が、6月23日から始まる。昨年はアンディ・マリー選手が英国人として77年ぶりの男子シングルス優勝を飾り、例年以上の注目を集めたこの大会。その華麗な舞台を支える人々に注目した。 (2014年当時の情報です)


世界レベルのボール・ボーイ / ガールを育てています

サラ・ゴールドソンさん

ボール・ボーイ/ ガール・マネージャー
サラ・ゴールドソンさん

筆記試験、体力測定、技術測定

テニスの試合中、コート上を屈みながら小走りでボールを拾ったり、サーブを打つ選手にボールを渡す少年少女がいますよね。彼らは「ボール・ボーイ/ ガール(BBG)」と呼ばれています。このBBG のトレーニングを行うのが私の仕事です。

BBG は、ウィンブルドン区域内または近郊にある中学校に通う生徒たちから選抜されています。希望者は、まず各学校でオンライン登録を行い、テニスのルールについての指導を受けた後で、試験を受けなければなりません。この試験の合格者が毎年1月にウィンブルドンに集まり、さらなる筆記試験に加えて、反復横跳び、短距離走、スクワットなどの体力測定そして技術測定を行います。技術測定というのは、片手を大きく上げてからボールをワンバウンドさせる投げ方、ボーリングのようなボールの転がし方などを実演してもらうものです。この試験に晴れて合格したBBG が、2月から7月にかけてトレーニングを積むことになります。

大会開始後も選考過程は続く

BBG の応募者数は毎年1000人前後。選抜試験で300人にまで絞り、さらに2月から開始されるトレーニング期間中にそのうちの約半数が落とされるという狭き門です。

選手権が始まると、学校からは特別休暇をもらって、10時に会場入り。6人一組となって、60分プレーして60分休憩というスケジュールをこなします。自分の出番である60分間は一切休憩なし。たとえ選手が休憩中でも、BBGは直立不動の姿勢を保たなければなりません。

大会が始まってからも、選考過程は続きます。最初の9日間は同じ人数で臨みますが、試合数が減少するに伴い、BBG の人数も減っていくからです。落選して、泣いてしまう子も毎年います。

左)ウィンブルドンにある室内練習場で実践練習を行うBGGたち
中央)ボールの転がし方などの細かい動作に対しても厳しい指導が
右)選手のプレー中は直立不動の姿勢を保つことが要求される

集中力と規律が大事

BBGには、集中力、チームワーク、運動能力、緊張への対処能力などが求められます。またタイ・ブレーク(ゲーム数が6-6になった際に採用する得点ルール)においては、両者の総ポイントが6の倍数になったときにコート・チェンジするので、暗算もできないと駄目です。そうした緊迫した場面に対処するためにも、規律を守るよう徹底させています。たくさんの観客を前にして当惑しないよう、どんな状況で何をすべきかを細かく定め、それらのルールを覚え込ませるのです。そうすることで、世界が注目するウィンブルドン選手権のBBGを育てているのです。


美しい芝生を保つコツは、16人で一年中手入れを行うこと

グラント・カンティンさん

芝管理チーム副主任
グラント・カンティンさん

芝の長さは8ミリで統一

芝
ウィンブルドン選手権の開催に向けて、芝の状態が厳しく管理されているセンター・コート

ウィンブルドン選手権の会場を訪れた観客の誰もが、コートに敷き詰められた芝生の美しさに息を呑みます。ガーデニング愛好家から芝生を美しく保つコツをよく聞かれますが、答えは一つ。毎日手入れを行う、これに尽きます。

ウィンブルドンの会場では、16人のスタッフが一年を通じて芝の管理を行っています。とりわけシングルス決勝などの重要な試合が行われるセンター・コートの管理は厳しい。そのほかのコートは大会が終わればウィンブルドンのクラブ会員にも開放しますが、センター・コートの使用は、選手権の開催期間中のみに限られています。センター・コートでは、大会終了直後に芝をはがしてしまい、土壌を耕してから、新しく種をまいているんですよ。つまり、あの芝は毎年新しく植え替えられているのです。またすべてのコートにおいて芝の長さが決められていて、冬は霜や雪から保護するために13ミリに統一。それから12ミリ、11ミリ……と少しずつ短くしていき、大会の1カ月前から8ミリの長さを維持しています。

選手権開催中は、朝6時半に会場入りです。晴れていれば芝生のカバーを取り、芝を刈ったり、ゴミを取り除いたり、コートに白線を引き直したりします。

カバーを敷くのにかかる時間は20秒

雨が降った際に芝にカバーをかけるのも私たちの仕事です。雨が降りそうなときには、コート付近で待機。2012年はほぼ毎日雨が降ったので、待機しっぱなしでした。雨が降り出せばコート中央のネットを倒し、審判や選手が座る椅子を片付け、カバーを敷くまでを約20秒で完了させます。

センター・コートには2009年から屋根が取り付けられました。晴天の日は屋根を開放し、雨が降り出せば屋根を閉めて、空調機能を稼働させます。屋根を閉めるのに10分、空調機能がきちんと稼働するまでに20~30分。大会期間中は通常は夜10時ごろに仕事を終えますが、午前様になってしまうこともありますね。

芝の状態は毎年全く同じ

昨年の大会では、プレー中の転倒が相次ぎ、「芝が滑りやすくなっているのではないか」と騒がれました。芝の状態については常に確認や検査を行っていて、一昨年も昨年もそして今年も、ボールの転がるスピード、コートの硬さなどすべて同じ。これは自信を持って言えます。ただ大会の序盤は芝が滑りやすい傾向にあるという見方には一理あると思います。というのも、芝の状態を2週間同じ状態に保つことはできないので、決勝に向けて芝を徐々に乾燥させていく方法を取っているからです。だから大会序盤のコートの状態は、最終日ほど固くはありません。

一年を通じて刻々と天気は変わっていきます。気まぐれな英国の天気に対応するというのが、この仕事の一番大変なところでしょうね。


ウィンブルドンは「テニスが観られるガーデン・パーティー」

アシュリー・ジョーンズさん

ウィンブルドン・ローン・テニス・ミュージアム
アシュリー・ジョーンズさん

トロフィーの上にある果物の意味

アンディ・マリー
2013年のウィンブルドン選手権男子シングルス決勝で優勝し、トロフィ ーに口づけするアンディ・マリー。トロフィーの頂上にはパイナップルを模った装飾が施されている

ウィンブルドンの会場内には、テニスや選手権の歴史に関する展示を集めた博物館があります。同館には、大会の優勝者に授与されるトロフィーが展示されているので、お越しの際にはぜひご覧ください。昨年アンディ・マリーに授与された男子シングルスのトロフィーのてっぺんには、パイナップルを模したものが置かれています。「なぜパイナップル?」とよく聞かれるのですが、パイナップルの栽培は非常に難しいので、西洋ではお祝いや歓迎の意を示す際の象徴として使われてきました。ちなみに「女神が持つバラ水の皿」と呼ばれる女子のトロフィーは円盤型になっています。

これらのトロフィーには歴代の優勝者の名前が刻まれていて、毎年ポーランドから招聘した技術師が、優勝者の決定直後に会場内で新王者の名前を彫る作業に勤しんでいます。実は、男子のトロフィーに関しては、優勝者の名前を書くスペースがなくなったために、2009年からトロフィーの下に礎石を付け足して、そこに名前を書くようにしました。女子のトロフィーは、円盤の裏に名前を刻んでいます。

ロンドン五輪の運営者が花々を撤去

私たちにとって、ウィンブルドン選手権とは「テニスが観られるガーデン・パーティー」。観客の皆様には、スポーツの祭典としてだけではなく、社交行事としても楽しんでいただきたい。実際に会場を訪れれば、独特の華麗な雰囲気を楽しんでいただけるはずです。それと対照的なのが、同じ会場で開催された、2012年のロンドン五輪におけるテニス競技。ロンドン五輪の運営者は、ガーデン・パーティーのような雰囲気は一切望んでいませんでした。だから彼らは、会場を彩る鮮やかな花々をすべて撤去してしまったのですよ!

ウィンブルドン選手権ならではの華麗な雰囲気を象徴しているのが、王室メンバーや首相、さらにはハリウッド俳優などの著名人たちを招待するロイヤル・ボックスでしょう。ほかの招待客と何かしら共通点を持ち、社交を楽しんでいただける方を選んで招待しています。決勝の試合開始は通常午後1時ですが、招待客には午前9時に入場してもらい、モーニング・コーヒー、ランチ前のシャンパン、アフタヌーン・ティー、ウィンブルドン名物のいちごなどとともに歓談を楽しんでもらっているのです。

いちごを食べながらのガーデン・パーティー

先ほどウィンブルドンは社交行事であると言いましたが、別に堅苦しいものではありません。半ズボンやビーチ・サンダルでいらしていただいて構わないのです。好天に恵まれた夏の日に、シャンパンやいちごを手にしながら、友人とおしゃべりを楽しむガーデン・パーティー。ふと気付けば、目の前では世界最高レベルのテニスの試合が繰り広げられている。そんな素敵な空間こそが、ウィンブルドンなのです。

 

演劇ユニット「チェルフィッチュ」主宰 岡田利規 インタビュー 「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」ロンドン公演

「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」ロンドン公演 - 演劇ユニット「チェルフィッチュ」主宰 岡田利規インタビュー演劇ユニット「チェルフィッチュ」主宰 岡田利規インタビュー

舞台はとあるコンビニエンスストア。背景に流れるバッハの平均律クラヴィーアの旋律に合っているのかいないのか、店員や客が身体をゆるやかに動かしながら、取り留めのない会話を続ける――現代日本の典型的な一光景を淡々とシュールに描く演劇ユニット「チェルフィッチュ」の最新作、「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」が6月、ロンドンで上演される。コンビニという概念すらない英国で、この作品はどのように受け止められるのか。ドイツ公演中のチェルフィッチュ主宰、岡田利規に話を聞いた。

岡田利規 (おかだ としき)
1973年7月10日生まれ、神奈川県横浜市出身。慶應義塾大学商学部を卒業後、1997年にソロ・ユニット「チェルフィッチュ」を旗揚げ。以来、同ユニットの全作品の演出・脚本を手掛ける。2004年発表の「三月の5日間」で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。07年にベルギー・ブリュッセルで開催された演劇フェスティバル「クンステンフェスティバルデザール 」に招待され同作品を上演。現在に至るまで世界各地の劇場やフェスティバルで複数の作品を発表し続けている。


Super Premium Soft Double Vanilla RichSuper Premium Soft Double Vanilla Rich
(日本語公演、英語字幕付き)
6月10日(火)& 11日(水) 19:30 £15
会場:artsdepot
5 Nether Street,London N12 0GA
Tel: 020 8369 5454
West Finchley/Finchley Central駅
http://kililive.com

Playwright Talk: Toshiki Okada
岡田利規氏によるトーク
6月12日(木)18:30(無料)
会場:国際交流基金

Russell Square House, 10-12 Russell Square, London WC1B 5EH
希望者はイベント名(Playwright Talk: Toshiki Okada)と名前をE-mail: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください まで連絡のこと

チェルフィッチュはこれまで数多くの海外公演を行われていますが、どのような経緯で実現したのですか。

ほぼ10年前に「三月の5日間」という、イラク戦争を題材にした作品を作ったのですが、それをベルギーで開催されるフェスティバルの芸術監督がたまたま東京で観て面白いと思ってくれたようで、翌年の5月にフェスティバルに呼んでくれたんですね。それが2007年のことで、その際に主にヨーロッパの演劇関係者が観てくれて、オファーをいただいたのが始め。その後は新作に共同制作という形で他のフェスティバルが入ってくれたりといった形が続いて今に至る、という感じです。

岡田さんが書かれる戯曲のセリフは、現代日本の若者世代の日本語を取り入れていることなどから「超リアル日本語」と評されていますが、海外公演の際にはそうしたニュアンスは失われてしまいますよね。

演劇って言葉だけじゃなくて、舞台上にあるすべてのものが重要ですよね。話されている言葉は日本語で、確かに言葉は分からないかもしれないけれども、それを発している身体は舞台上にあって、その身体を観るというのが演劇を観る喜びというか、演劇を観ることから得られる情報としてとても大きいものだと僕は思っているんです。その意味では、僕らのパフォーマンスを観ることで得られるものはあると思っています。

海外公演であるという点を意識しすぎて汎用性のあるものを作れば個性は失われ、ローカル色が強すぎても海外の観客には理解しがたい――こうした点は意識的にバランスを取っているのでしょうか。

汎用性の方へ行くのは一番やってはいけないことだと思っているんです。でもバランス感覚も確かに必要で、そこは2007年から僕もそれなりに経験を積んできて、何となくですが分かるようになってきていると思います。言葉が分からないというだけでなく、日本人だったら完全に共有できていると思って構わない文化や習慣、例えば新作はコンビニを扱った作品なんですが、コンビニって日本人ならば知っていて当然ですけれども、逆に日本人じゃなければ知らなくて当たり前なわけで、そういう点を意識して作るようになっているというのは、ものすごく大きな違いですよね。

前回、前々回と東日本大震災を意識した作品作りをされていたのに対し、今回はコンビニを舞台にした全く毛色の変わった作品となっています。なぜこのような作品を今、作ろうと思われたのですか。

コンビニって日本の現代社会の在り方を象徴していて、コンビニを描けばそれだけで社会を描けるな、と思ったんですよ。今、我々にはこういう問題があるという問題意識ありきで作品を作るみたいなところが前2作はあったと思うし、そうやって作品を作ったことに僕は自分で満足できている。ですが新作に関しては、コンビニという自分たちにとってありふれたものを描いて、結果的に自分たちがどういったものに取り囲まれているのかということが出ればいいかなという感じで作りたかったんですよね。

 

Yoshiki インタビュー - ピアニストとしてロンドンで公演

Yoshiki インタビュー

ステージ上で気絶してしまうほどに激しく叩き続ける「X Japan」のドラマーとして、そして自ら作曲した美しい旋律を優雅に奏でるピアニストとしての二面性を持つYoshiki。5月29日にロンドンにやって来るのは、後者のYoshikiだ。名だたるクラシック音楽の大家たちによる名演奏の舞台となってきたロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールにて、世界ツアー「Yoshiki Classical」のロンドン公演を行うYoshikiに話を聞いた。

Yoshiki
1989年にロック・バンド「X」としてメジャー・デビュー。ソロ活動などを通じてクラシック音楽の分野での楽曲も多数手掛ける。1999年に、天皇陛下御即位10年をお祝いする国民祭典の奉祝曲を皇居前広場で演奏。2012年には、米国の優れた映画・テレビドラマを表彰するゴールデン・グローブ賞の公式テーマ曲「ゴールデン・グローブのテーマ」を作曲した。4月末より、クラシックの分野における活動の集大成となる世界ツアー「Yoshiki Classical」を開始。5月29日にはロンドン公演を開催する。
www.yoshiki.net

Yoshiki Classical
5月29日(木)20:00(開場19:00) £30~75
Royal Festival Hall Southbank Centre, Belvedere Road London SE1 8XX
Tel: 020 7960 4200
http://kililive.com | www.seetickets.com | www.southbankcentre.co.uk

Yoshikiさんのクラシック・アルバムの一つである「Eternal Melody」の収録はロンドンで行われたそうですね。

ビートルズのプロデューサーとして知られるジョージ・マーティン氏にプロデュースをお願いし、僕の作った楽曲をロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏してもらうという機会をいただいたんです。もう素晴らしいとしか言いようのない出来栄えに仕上げていただきました。あの機会がきっかけとなってクラシック音楽をさらに好きになったというか、これからもクラシックをやっていこうと強く感じたことを今でもよく覚えています。

Yoshikiさんは現在、米ロサンゼルスに生活の拠点を置かれていますが、以前にはロンドンへの移住も検討されていたと聞きました。

移住先を決める際に、個人的にはロンドンが第1候補で、パリが第2候補でした。幼いころからクラシック音楽が好きで、クラシック音楽というと最初に欧州を思い浮かべてしまいますよね。またパンク・ロックも好きなので、パンクが盛んだったロンドンに行きたいという気持ちもありました。ただ自分以外のX Japanのメンバーがロサンゼルスを希望していたので、多数決でロサンゼルスになってしまったのです(笑)。

とりわけ欧州においては、ロックに比べて、クラシック音楽の分野は敷居が高いという面があるのではないでしょうか。

正直に言うと、クラシックの分野での敷居の高さは感じますね。ただ考えてみると、ロックにしても、Xとして始めたばかりのころは、いわゆる「ビジュアル系」として活動していたことで様々な批判を受けました。当時は髪の毛を染めたり、派手な格好をして音楽を演奏すること自体が、評論家の人たちからの悪評を買っていたんですよね。「もっとまじめに音楽やるべきだ」とよく言われました。今でも批評家の言うことはあまり気にしないようにしています。ロックにせよ、クラシックにせよ、素晴らしい楽曲をつくって人に感動を与えたいというのがすべてですから。

今回のロンドン公演はどのような内容になりますか。

演奏に加えて、会場に大型スクリーンを持ち込んでビジュアル的な要素を見せる予定です。曲に関しては、X Japanのクラシカル・バージョンの曲が半分ほど。天皇陛下御即位10年奉祝曲となった「Anniversary」や「ゴールデン・グローブのテーマ」に加えて、新曲も披露します。クラシック・コンサートとしての形式を取っていますが、X Japanの曲などに関しては演奏に合わせて一緒に歌っていただくのも大歓迎です。

最後に、日本人が海外で認めてもらうために最も必要なことは何だと思いますか。

海外に出るとまずぶち当たるのが言葉の壁ですが、それに関しては意外と簡単で、単に勉強すればできることだと思います。僕も渡米当初は全く英語が話せなかったけれども、個人教授に来てもらいまして、大体2時間ぐらい毎日勉強しました。あとは教科書、参考書の類を開いて、文法や発音といった勉強もしましたね。

それよりも本当に必要なのは、強い信念を持つというか、自分を信じることでしょう。日本から海外にやって来て、半年とか一年であきらめてしまう人もいますが、自分の場合は頑張ることができると思ったので、もう10年以上も海外暮らしを続けています。自分の音楽が通用すると何となく感じてしまったんですよね。その感覚だけを信じて、今も夢に向けてまだまだ頑張っている最中です。

Yoshiki Classical
5月29日(木)20:00(開場19:00) £30~75
Royal Festival Hall Southbank Centre, Belvedere Road London SE1 8XX
Tel: 020 7960 4200
http://kililive.com | www.seetickets.com | www.southbankcentre.co.uk
 
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